大矢さんと僕

ヤン

文字の大きさ
上 下
48 / 80
第三章 別れ

第8話 声

しおりを挟む
 それから一か月程が過ぎたが、相変わらず声は出ない。声を出す機能としてはどこも異常はなくストレスが原因だとの診断だったが、だとすると、一体いつになったら声が出るようになるのだろうか。ただ、不安だった。

 津久見つくみさんからアルバム一枚分の曲を書いてもらったので、時々事務所に行っては、大矢おおやさんのそばで詞を書いていた。津久見さんの書く曲は、本当に素晴らしい。詞を付けるまでもなく、曲だけで充分なんじゃないかとさえ思う。が、詞を書くことが約束だ。しかも、変だったらダメ出しするとは。上手く出来るだろうか。

 そんなことを考えながら、難問を解くような気持ちで作詞に取り組んでいると、大矢さんが手を止めて僕を見た。「何ですか?」という気持ちを込めて大矢さんを見ると、

「昼飯、食べに行くか」

 そういえば、少しお腹が空いていた。僕が頷くと、大矢さんは立ち上がり、「行こう」と言った。僕も立ち上がって大矢さんの後に続いたが、部屋を出て数歩進んだ時、大矢さんの体が大きく揺らいで、そのまま倒れていってしまった。僕は目を見開き、心の中で「危ない」と叫んだ後、大矢さんを支えようとしたが、力及ばず、一緒に倒れてしまった。すごい音がした。その音に、近くにいた人たちが振り返る。

 僕は体勢を立て直してから、大矢さんを見た。青い顔をしていて、意識がないみたいだ。僕は大矢さんを揺さぶりながら、

「大矢さん」

 声が出た。そのことに驚いて、手が止まってしまった。嬉しくて、うっかり泣きそうになったが、我慢した。

 少し離れた所にいた受付の高田たかださんが走ってそばまで来てくれて、

聖矢せいやくん。大矢さん、どうしちゃったの? 意識ないの? 救急車。救急車呼ばなきゃ」

 走って行こうとする高田さんの背中に、僕は出来るだけ大きな声で、

「さっきまで普通だったんです。でも、立ち上がって少し歩いたら、いきなり倒れちゃって。顔色もすごく悪くって」

 必死で伝えると彼女は頷き、「わかったわ」と言って、今度こそ走り出した。

 僕は大矢さんに視線を戻した。呼吸はしているのに、返事をしてくれない。気を失うとはこういうことか、と、人が実際その状態になるのを見て初めて知った。が、今はそんなことを考えている場合ではなかったと気付き、呼び掛けを再開した。

「大矢さん。大矢さん」

 とにかく何度も大矢さんを呼んだ。そして、しばらく続けていると、ようやく大矢さんがうっすらと目を開けた。顔色は相変わらず青白い。僕は、思わず大矢さんに頬を寄せて、

「良かった……」

 僕が呟くように言うと、大矢さんは微笑み、

「声、出たな」

 その声はかすれていて、苦しそうだった。それを聞いて、僕も苦しいような気になったが、

「出ましたよ。大矢さんのおかげです」

 泣きそうになりながら、そう言った。大矢さんは、ふっと笑って、

「そうか。役に立てたなら、良かった」

 いつも絶対的な力で僕を守ってくれる人が、今は弱り切っている感じだ。その力ない声を聞いて、僕はやはり涙を流さないわけにはいかなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

大学生はバックヤードで

リリーブルー
BL
大学生がクラブのバックヤードにつれこまれ初体験にあえぐ。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...