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第二章 新たな道
第9話 La Vie en rose
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中に入ると笑顔の女性が席へ案内してくれて、僕たちはシートに腰を下ろした。メニュー表を眺めながら僕は小さく溜息を吐いた。食べることを考えると、ついこうなる。
大矢さんが僕に視線を送ってくる。僕は気付かない振りで、料理を選んでいた。
量の少ないのは……。
ボリュームのある料理の後、おまけのように雑炊が載っていた。キノコと鶏肉が入っているらしい。僕は顔を上げて、
「大矢さん。決めました」
大矢さんがボタンを押して、店員さんを呼んでくれる。すぐに、さっきここまで案内してくれた女性が来て、注文を取ってくれた。僕は、心の中のざわつきが収まるのを感じていた。正直な所、僕は食事がストレスだ。大矢さんと暮らすようになってから一ヶ月近く経って、以前よりはプレッシャーを感じにくくなっているとはいえ、やはり食事はいろんなことを思い出させる。それも、当然いいことではない、苦しくなるようなことだ。
「聖矢。いつも言ってることだけどさ」
「何ですか」
僕が訊き返すと、大矢さんは手を伸ばしてきて、僕の手にそっと自分の手を重ねた。僕は、大矢さんの、その手をじっと見た。
「無理しなくていいから。おまえが、食べられるだけ、食べればいい。わかってるよな?」
僕は、ただ頷いた。その優しさが、僕をいつも泣かせる。今も涙がこぼれそうなのを、必死でこらえていた。
僕はそれをごまかすように、空いている方の手にグラスを持って、水を一口飲んだ。店内には、静かに何かの音楽が流れている。何語かはわからないが、外国の曲のようだ。甘く、切ない感じの曲だった。
大矢さんも、その曲に気が付いたのか、僕から目を離した。どこか遠くを見るような顔をして、そのメロディーを鼻歌で歌い始めた。大矢さんがそんな行動に出るのを初めて見た。
「大矢さん。この曲、知ってるんですか?」
僕が訊くと、大矢さんは微笑みを浮かべた。その表情が、少し哀し気に見えたのは、気のせいだろうか。
大矢さんは、僕の問いには答えずに、目を伏せて鼻歌を続けていた。そうしている内に、料理が運ばれてきた。さっき流れていた曲は終わり、別の明るい感じの曲になっていた。大矢さんが顔を上げて、
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
大矢さんが言った後、僕もそう言って、れんげを手にした。湯気が上がって、いかにも熱そうだ。少しすくって、それを冷ましてから口に運ぶ。ゆっくり、ゆっくり。たいした量でもないのに、相当時間を掛けて食べた。もちろん大矢さんはとっくに食べ終わっていて、僕が食べているのをじっと見ていた。
「あの……そんなに見られてたら、食べにくいんですけど」
大矢さんは、ただ微笑して、僕を見るのをやめなかった。全て食べると、僕はほっと息を吐く。今日も何とか食事を終えられた。その気持ちからだった。いつか、食事の時間が楽しいと思える日が来るといい、と本気で思った。
家に帰ると大矢さんはソファに座り、タバコに火を着けた。僕と暮らすようになってから、めったに吸わなくなっていたのに、今日はそういう気分なのだろうか。
大矢さんは、タバコの煙を吐き出した後、またあの曲を歌い出した。今度は、ラララ……で歌っている。なんて切ない気持ちにさせる曲だろう。僕は、大矢さんのそばに立つと、意を決して、
「大矢さん。その曲、何て言う曲なんですか?」
大矢さんは、まだだいぶ残っているタバコを灰皿に押し付けて火を消すと、何か小さな声で言った。聞き取れずに、「え?」と訊き返すと、さっきより気持ち大きな声で、
「『La Vie en rose』。日本語のタイトルは、『バラ色の人生』。オレが小さい頃に出て行った母親が、家事をしながら、よくこの曲を口ずさんでたんだ。だから、自然に覚えた。でもさ、これ、フランス語の曲だから歌詞はわかんないけどな」
そう言って、大矢さんは笑った。
『バラ色の人生』。それは、どんな人生なのだろうと思ったが、想像すら出来なかった。思わず溜息を吐いた僕を、そうと察したのか、大矢さんが優しく優しく抱き締めてくれた。
大矢さんが僕に視線を送ってくる。僕は気付かない振りで、料理を選んでいた。
量の少ないのは……。
ボリュームのある料理の後、おまけのように雑炊が載っていた。キノコと鶏肉が入っているらしい。僕は顔を上げて、
「大矢さん。決めました」
大矢さんがボタンを押して、店員さんを呼んでくれる。すぐに、さっきここまで案内してくれた女性が来て、注文を取ってくれた。僕は、心の中のざわつきが収まるのを感じていた。正直な所、僕は食事がストレスだ。大矢さんと暮らすようになってから一ヶ月近く経って、以前よりはプレッシャーを感じにくくなっているとはいえ、やはり食事はいろんなことを思い出させる。それも、当然いいことではない、苦しくなるようなことだ。
「聖矢。いつも言ってることだけどさ」
「何ですか」
僕が訊き返すと、大矢さんは手を伸ばしてきて、僕の手にそっと自分の手を重ねた。僕は、大矢さんの、その手をじっと見た。
「無理しなくていいから。おまえが、食べられるだけ、食べればいい。わかってるよな?」
僕は、ただ頷いた。その優しさが、僕をいつも泣かせる。今も涙がこぼれそうなのを、必死でこらえていた。
僕はそれをごまかすように、空いている方の手にグラスを持って、水を一口飲んだ。店内には、静かに何かの音楽が流れている。何語かはわからないが、外国の曲のようだ。甘く、切ない感じの曲だった。
大矢さんも、その曲に気が付いたのか、僕から目を離した。どこか遠くを見るような顔をして、そのメロディーを鼻歌で歌い始めた。大矢さんがそんな行動に出るのを初めて見た。
「大矢さん。この曲、知ってるんですか?」
僕が訊くと、大矢さんは微笑みを浮かべた。その表情が、少し哀し気に見えたのは、気のせいだろうか。
大矢さんは、僕の問いには答えずに、目を伏せて鼻歌を続けていた。そうしている内に、料理が運ばれてきた。さっき流れていた曲は終わり、別の明るい感じの曲になっていた。大矢さんが顔を上げて、
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
大矢さんが言った後、僕もそう言って、れんげを手にした。湯気が上がって、いかにも熱そうだ。少しすくって、それを冷ましてから口に運ぶ。ゆっくり、ゆっくり。たいした量でもないのに、相当時間を掛けて食べた。もちろん大矢さんはとっくに食べ終わっていて、僕が食べているのをじっと見ていた。
「あの……そんなに見られてたら、食べにくいんですけど」
大矢さんは、ただ微笑して、僕を見るのをやめなかった。全て食べると、僕はほっと息を吐く。今日も何とか食事を終えられた。その気持ちからだった。いつか、食事の時間が楽しいと思える日が来るといい、と本気で思った。
家に帰ると大矢さんはソファに座り、タバコに火を着けた。僕と暮らすようになってから、めったに吸わなくなっていたのに、今日はそういう気分なのだろうか。
大矢さんは、タバコの煙を吐き出した後、またあの曲を歌い出した。今度は、ラララ……で歌っている。なんて切ない気持ちにさせる曲だろう。僕は、大矢さんのそばに立つと、意を決して、
「大矢さん。その曲、何て言う曲なんですか?」
大矢さんは、まだだいぶ残っているタバコを灰皿に押し付けて火を消すと、何か小さな声で言った。聞き取れずに、「え?」と訊き返すと、さっきより気持ち大きな声で、
「『La Vie en rose』。日本語のタイトルは、『バラ色の人生』。オレが小さい頃に出て行った母親が、家事をしながら、よくこの曲を口ずさんでたんだ。だから、自然に覚えた。でもさ、これ、フランス語の曲だから歌詞はわかんないけどな」
そう言って、大矢さんは笑った。
『バラ色の人生』。それは、どんな人生なのだろうと思ったが、想像すら出来なかった。思わず溜息を吐いた僕を、そうと察したのか、大矢さんが優しく優しく抱き締めてくれた。
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