残り四回の嘘

戸部家尊

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      五

 それから一週間、翔太は沙希子に会っていない。今会えば、何をしでかすか自分でも分からない。それが怖かった。一方、心のどこかでそれを唆す自分もいる。沙希子にしたって痛い目を見るのは嫌だろう。結局、しばらく会わない方がお互いのためだ。そう自分に言い聞かせて登下校の時間もいつもよりずらしたし、休み時間も沙希子の教室の前は駆け足で通り過ぎた。また教科書忘れたとやって来るかと思ったが、借りに来る気配はない。
 今日も沙希子に会わなかったことにほっとしながら翔太が教室を出ようとしたところで声を掛けられた。見ると、春香が遠慮がちに微笑みかけている。
「ちょっと、いいかな」
 春香に促されて来たのは校舎と校舎の間にある小さな広場だった。十メートル四方の芝生を取り囲むように、東西南北それぞれに白いベンチが据え付けられている。どのベンチも風雨にさらされ、あちこちペンキが剥げていた。
 広場の上には校舎を繋ぐ連絡通路が通っているため校舎からは死角になっている。昼休みには弁当を食べる生徒でそれなりに賑わうが、放課後になると人気はなくなる。運動場は建物を挟んだ反対側にあるため、部活の生徒が通りかかることも滅多にない。翔太はきょろきょろと辺りを見回す。落ち着かなかった。一月半前の光景が脳裏に蘇り、不安がこみ上げる。また、春香を泣かせることになるかも知れない。そう考えると自分への嫌悪感まで黒い澱みとなって全身に広がっていく。
「北村さんのことなんだけど」人気がないのを確認してから春香が切り出す。
「あいつの?」予想していなかった展開に翔太は面食らった。一瞬呆けたように春香を見つめたが、一週間前の出来事が脳裏をよぎり、ゆっくりと首を振る。
「ごめん。北村の話なら今したくないんだ。だから」
「北村さん、別れたんだって。真鍋先輩と」
 翔太は目を瞠った。何故? 二人はうまくいってるんじゃなかったのか。誕生日のプレゼントに二十万円の指輪まで渡したというのに。
「理由はよく分からないんだけど、浮気したとかとしないとか。それで言い合いになって怒った真鍋先輩が」
「俺には関係ないよ」翔太は冷ややかに言った。今更、あいつが誰と引っ付こうが別れようがどうでもいい。好きにすればいいんだ。どうせ、あいつは俺のことを使い走りか奴隷ぐらいにしか考えてないんだ。
「俺にはもう、あいつが何を考えているのか分からない」
「私は、分かる気がする。北村さんの気持ち」
 翔太は声を上げた。
「北村さん、羨ましいんだよ。藤川君のこと」
 冗談だろ。翔太は心の中で呟いた。背は低いし顔だって十人並みだ。運動神経や勉強なら自分より出来る奴は幾らでもいる。それに引き替え、沙希子は背も高いし顔も良い。運動神経だってそこそこある。頭は悪いがそれを気にした風もない。金なら持ってる奴を口説いて貢がせればいい。そのくらいの器量はある。そんな沙希子が俺の何を羨ましがるって言うんだ。
「藤川君って優しいから」春香は懐かしむような声音で言った。「大抵のワガママは受け入れてくるし。相談事とか、親身に相談に乗ってくれる。口ではどんなに嫌だとか断るとか言っても必ず最後には助けてくれる。こういうの、包容力って言うのかな」
「買いかぶりだよ」翔太は首を振った。「小心者なんだよ俺。嫌われたくないっていうか、誰かを傷つけるのが怖いからいい人ぶってるだけだって」
 春香が訊いた。
「だから、私に『別れよう』って言ったの?」
 翔太は胸を突かれた。一番訊かれたくない質問だった。
「あれは」翔太は俯き、視線を彷徨わせる。懸命に適切な言葉を探そうとするがうまくいかない。苛立ちが募る。
「その、あれ以上、付き合ってたらもっと牧野さんを傷つけるって思ったからそれで」
「牧野さん、か」春香は空を見上げる。それから翔太の方を向き、悲しそうに頬を緩めた「もう、春香って呼んでくれないんだね」
「ごめん」翔太は頭を下げた。悪いのは自分だ。中途半端な気持ちで付き合い、結局どちらにも決められずに彼女を傷つけてしまった自分だ。
「話、脱線しちゃったね」春香はおどけて言った。「どこまで話したんだっけ。そうそう北村さんが羨ましがってるって話」
 北村さん、藤川君の優しさが羨ましかったんじゃないかなあ。多分、ずっと前から。けど、どう頑張っても藤川君みたいに優しくなれない。強くなれない。羨ましいって気持ちはだんだん嫉妬っていう嫌な気持ちに変わっていって。悔しいからワガママ言って困らせてやろう。けど、いっぱいワガママ言っても、藤川君の優しさは変わらない。欲しくても手が届かない。どうしょうもなくってつい嫌な事言っちゃう。昔話に出てくる、ブドウを欲しがる子狐みたいに。へん、なんだいあんなブドウ、どうせ酸っぱいに決まってるって。「………」
「本当に藤川君が嫌いなら口も利かないよ。特に女の子は。ただの便利屋さんなら、藤川君じゃなきゃ駄目ってこともないし。北村さんならその気になれば百人ぐらい出来るんじゃないかな」
 百人はちょっと大袈裟かな、と春香は舌を出す。
「けど、あいつ。彼氏のプレゼント買うから金よこせって言って。金渡したら散々嫌味言われるし」
「それは藤川君が悪いよ」春香が目を吊り上げる。「自分に好意を持って欲しい相手が、ほいほいお金持ってきたら私だって怒るよ。『私のことなんかどうでもいいのか!?』って」
 そんな理不尽な、と翔太は思ったが口には出さなかった。。
「北村さんがほかの男の子と付き合っているのは多分、格好いい人とか凄い人と付き合うことで、自分も凄いんだぞって思わせたいから、かな。おかしいよね、そんなことしたって自分が凄い人になる訳でもないのに」
「牧野さん、あいつのこと分かるんだ」翔太は感心したように言った。
「分かるよ。多分、私も同じだから」
「………」
「びっくりした? 私もそのうち藤川君の教科書に落書きしちゃうかも」
 春香が微笑した。つられて翔太も笑った。
「北村さん、先輩と大分揉めたみたい。目に大きな青アザ作ってた。美智子はコントみたいだって笑ってたけど」
「訊いていいかな。どうして俺にそんなことを?」
「理由は二つあります」春香は二本の指を立てる。
「一つは、北村さんの事。藤川君知ってるかなって気になったから。それでつい」
「もう一つは?」
「私自身の気持ちの整理」
 そう言って春香は背を向ける。
「話はそれだけ。ごめんね。長い間、引き留めちゃって」
「牧野さん」
「もう行って。お願いだから」
 春香の声が泣いている。翔太は手を伸ばし、途中でひっこめる。今の自分に出来ることは何もない。翔太は唇を噛んだ。そして、ごめんと小さな背中に囁くと背を向け、春香に告白された場所を後にした。 
 春香を信じない訳ではなかった。それでも自分の目で確かめてみたかった。走って校舎に戻り、沙希子の教室を覗いた。沙希子はまだ残っていた。目の縁にできた青黒いあざを隠そうともせず、クラスメートの女子と喋っていた。不意に沙希子と目が合った。沙希子は一瞬ばつの悪そうな顔をすると視線を逸らし、急用を思い出したから帰るとカバンを抱えて教室を後にした。翔太は黙って見送った。
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