【WEB版】メイズラントヤード魔法捜査課

ミカ塚原

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枢機卿の秘密箱

(4)指輪

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「はい、体は特に悪い所はないようですね」
 聴診器を外して、アダムス医師はワーロック伯爵オールドリッチ氏にそう告げた。
「そうですか、良かった。いや今は先生のお体の方が心配だが」
 シャツを着込みながら、オールドリッチ氏は言った。
「お気遣いありがとうございます。まあ、私は大した事はないでしょう。それより伯爵、体調は良さそうですが、表情が少し曇り気味に見受けられます。差し出がましいようですが、何かご心配事がおありですか」
 アダムス医師は、鞄に診療器具を収めながら雑談ぎみにたずねた。
「いや、お医者様はそういった事まで見抜かれますか。…まあ、家庭の事情というやつです。貴族などと偉ぶったところで、それは変わりませんよ」
 オールドリッチ氏はさすがに指輪の件を第三者に話すわけにも行かないので、誤魔化すことにした。
「はは、なるほど。いえ、うちも年頃の娘がおりますので、まあ何かと心労はあります」
 アダムス医師はそう言うと、鞄から小さな包みを取り出した。結びをほどくと、細長い皿状にカットされたブビンガ材に金の象嵌が施された、香台と香木であった。
「最近流行っている、ヒンデス産の香でしてね。試したところなかなか良いので、伯爵にも差し上げようとお持ちしました」
「ほう」
 ヒンデスとは、東のユーラディア大陸の南にある歴史の古い土地だ。メイズラントの統治下にあり、産出される茶葉や香辛料が広く親しまれている。
 アダムス医師が台の上で香を焚くと、診療に用いている小さめの室内に柔らかな香りが満ちていった。
「これは落ち着きますな」
「そうでしょう。良ければ差し上げますので、お使いください」
 アダムスが差し出した麻の小袋には、細い香木が何本も詰められていた。
「いや、ありがとう。今度お礼はさせて頂きますよ」
「なに、お構いなく。ところで、先程いらっしゃった方々は?あまりお見受けしませんでしたが」
 それは、アーネットたち魔法捜査課の事だった。できれば伏せておきたかったが、会ってしまったので仕方ない。
「警察の方々です。最近、当家のような家を狙った詐欺集団がいるとの事で、注意点などを説明して頂いておりました」
「それはまた不穏な話で」
 これは全くの誤魔化しではなく、実際にさる富豪の老婦人が詐欺に遭い、大金を盗まれた事件が起きているのだ。
 その時、アダムス医師は鞄の留め金を閉じようとして、うっかり力み過ぎたのか、鞄を床に落としてしまった。
「おっと」
 中身が飛び出しかけるのを、慌てて押さえる。オールドリッチ氏が声をかけた。
「大丈夫ですか」
「ああ、はい。すみません。大丈夫です」
 今度はしっかりと留め金を閉じた。その後雑談を交わしたのち、アダムス医師は入院の手続きのため、いつもより早めの時刻にオールドリッチ邸を辞したのだった。


 夕刻が近くなったタイミングで、首都中心部は雨雲が去り空が見えていた。
 地下室に戻った魔法捜査課の三人は、いつものようにそれぞれの席に着いて、一息入れる事にした。どのみち今日はもう大して時間もないので、明日からの捜査について打ち合わせをして、そのままお開きになりそうである。
「あの紅茶飲んだ後だけど、淹れる?」
 ナタリーの提案に、男二人は首をひねった。オールドリッチ邸で出された上質な紅茶の香りが脳裏をかすめる。
「あれは俺らが飲んでるのとは違う飲み物だ。色は似ているが別なものだ」
「淹れていいのね」
「お願いします」
 茶葉ももう少し上等なものにするべきか、と思いながらナタリーはポットに水を汲んだ。これは地下水を魔法のかかった水瓶で浄化しているものであり、そのまま飲んでも全く害がない。
 魔法捜査課は地下室という劣悪な環境ではあるが、魔法のおかげで火を起こすことなく湯を沸かすだとかの離れ業が使えるため、窓がない以外はそこそこ快適な環境なのだった。

 オールドリッチ邸で出されたものと色は同じなのに、味も香りも格段に落ちる紅茶を傾けながら、三人は打ち合わせを始める事にした。
「とりあえず暇ではなくなったのは良い事だ」
 身も蓋もない、とブルーはアーネットの言葉に呆れつつも同意した。
「まずはさっきも言ったとおり、ナタリーにはワーロック伯爵の人物関係を洗ってもらう。特に、金銭的に困っているような人間がいないかだ」
「なるほど」
 ナタリーは頷いた。アーネットが続ける。
「例の指輪を狙ったのは、単純に金銭的な価値を求めたため、という可能性が高い。動機としては一番わかりやすい」
「そうね。でも相手が伯爵家となると、前回以上にハードル高いわよ。私のネットワークでも、時間はかかると思ってちょうだい」
「そうだな。さすがに何度も、例のヘイウッド子爵をアテにするわけにもいかないしな」
「あの人、なんだか勝手に向こうから来そうな気もするけど」
 冗談じゃない、とアーネットはかぶりを振った。正直、あまり得意な人物ではないのだが、向こうは妙にこちらを気に入っているフシもある。
「僕は?」
 ブルーは自分を指さして言った。
「お前は、あの箱が開けられたトリックについて探ってほしい。本当に、外部の人間が魔法のロックを解除できる可能性はないのか」
「ないと思うけどなあ」
「結果的にそれが確定できるだけでもいいさ」
 アーネットは時計を見ながら答えた。あと一時間程度で退勤時刻である。
「俺はこのまま聞き込みに出て、直帰にする。時間になったら締めて帰ってくれ」
 言いながら薄手のコートを羽織ると、ティーカップを拭いて洗い物の棚に置く。
「聞き込み?」とブルー。
「宝石商だとか、その方面だ。最近、変な指輪を売りに来た人物がいないか」
「水晶の指輪を?」
「宝石に無関心な人間なら、そもそも何の石かわからないで売りに出すかも知れない。そこで初めて、少なくとも宝石としては大した価値がない事に気付く。そんな客がくれば記憶に残らないはずがない」
 もちろん、ひょっとしたらただの水晶ではなく特別なもので、価値があったという可能性もある。それも含めて、まず聞き込みをする事は意味があるとアーネットは考えた。

 じゃあな、と言い残してアーネットが出ていくと、とたんに地下室は静かになった。
「指輪か」
 ぽつりと、ナタリーが自分の左手を見て呟く。
「なに?」
 ブルーも何の気なしに尋ねたが、ナタリーは小さく「何でもない」とだけ答える。
「そういえばアーネットっていい歳だけど、結婚しないのかな。モテたって聞いたけど」
 ブルーが言うと、ナタリーは少し間を置いて
「知ってる」
 と、少し冷めた表情で答えた。
「有名な話よ。優秀な刑事にして、無類の女たらし」
「でも今、誰とも付き合ってる様子ないよね」
 そこで、またナタリーは押し黙る。
「過去の話ね。何人もの女性と交際しては浮名を流していたわ」
「何人くらい?」
「二桁」
 ひえー、とブルーは両手を上げて目をむいた。しかし、二桁といっても10人から99人まで幅がある。
「でもね」
 少し強い調子でナタリーは言った。
「ある時知り合った女性に、彼は本気で惚れてしまったの。それまでの何人もの女性とは比較にならないほど」
「ふーん」
「そしてある日、ついに彼はプロポーズした。指輪を買って、女性の前に跪いてね」
 まるで、映画でも見てきたかのようにナタリーは言う。
「ナタリーが知ってる人?」
「ええ。彼女の事はよく知ってる」
「それで、どうなったの?」
「女性は、その指輪を受け取る事ができなかった。自分も結局、それまでの女性と同じように、大勢の中の一人に過ぎないのではないか、という疑念が、その指輪を前にして爆発した」
 そこまで言って、ナタリーは今までで最も長く沈黙した。
「彼女、彼の事は愛していたの。でも、彼からの愛がもしも嘘だったら、と思ってしまったのね」
「…じゃあ結婚は」
「なかった事になったわ。お友達でいましょう、ってやつね」
 ブルーにはなかなか強烈な話ではある。女の子とささやかなデートもどきくらい経験してはいるが、そんなのとは桁が違う話だ。
「でも、それが今のアーネットにどう繋がるんだろ」
「その女性に振られたのがショックで、もう誰とも交際できなくなってしまったのよ。関係があった女性全員、一人一人に律儀に詫びの贈り物をして、別れを告げたらしいわ」
 タフそうに見えて繊細よね、とナタリーは軽く言ったものである。
「それだけ、その人に本気だったって事なのかな」
 ブルーが言うと、ナタリーは少しハッとさせられたような顔をしたのち、庁に提出する書類のケースを持って立ち上がった。
「その女の人、いまどうしてるの?」
 ブルーは、ドアを開けて出て行こうとするナタリーの背中に尋ねる。しばしの沈黙ののち、ごく短い答えが返ってきた。

「知らないわ」

それだけ言い残すとドアを閉じ、地下の廊下に反響するナタリーの足音は遠くなって行った。



 繁華街から少し外れた、老舗の高級ブランド店などが並ぶ界隈を、アーネットは歩いていた。一軒の宝石店の前に立ち、掲げられた看板を見る。
【ヴィクトリア】
 その名前を、アーネットは渋い表情で眺めていた。すると、
「何かお探しですか」
 と、ガラス張りのドアが開いて口ひげを生やした老齢の紳士が現れた。白髪だが、見た目の年齢のわりに髪はまだ張りと艶が見える。
「おや…」
 アーネットの顔を見ると、老人は微笑んで小さく頭を下げる。
「覚えてましたか」
「お変わりありませんようで、何よりです」
「いや…」
 ばつが悪そうにアーネットは苦笑いをした。
「あの時はご迷惑をおかけしました」
「とんでもない。色々あるのが人生です」
 老人は、夕暮れの空を見上げて言った。
「今回は指輪をお探しではなさそうですな」
「いや、探してはいるんだが、俺のものではなく…ここら一帯で聞き込みをしてまして」
 刑事手帳を開くと、アーネットは言った。
「お尋ねしますが、ごく最近こちらに、水晶の指輪を売りに来た人間に心当たりはありませんか」
「はて、水晶の指輪ですか」
 それはまた珍しい、と老人は言った。まあそうだろう。ダイヤモンドなりエメラルドなり、価値が見込める指輪ならともかく。
「私どもの店には、そういう人はいらしてませんねえ」
「そうですか。わかりました、どうも」
 礼をして立ち去ろうとするアーネットに、老人は声をかける。
「色々あるのが人生ですよ」
 さっきと同じように苦笑して、アーネットはその場を立ち去った。

 何軒かの宝石店を回ったものの、水晶の指輪を持ち込んだ人間というのは今のところ皆無だった。
 指輪か。アーネットは一人つぶやく。人生で一度だけ決心したプロポーズは、相手の女性からの拒絶で幕を閉じた。その時、自分の中で一つの何かが終わってしまった。
 そこから、全ての歯車がおかしくなった気がする。いや、歯車は正しく噛み合っていたのかも知れない。車は正しく走っていた。走る道が間違っていたのだ。

 そんな事を思っていると、すでに退勤時刻は過ぎていた。陽は沈みかけ、雲がまだ多いせいで夕焼けの鮮やかさは遮られていた。
 昔は毎日のように、違う女性と違うレストランに洒落込んでいたものだ。今は独り、決まりが悪そうに食べるのが常だが、あの頃の滅茶苦茶な生活に較べれば、今のほうがマシなのかも知れない。これもまた、色々ある人生なのだろうなと老人の言葉を思い出しながら、夕闇の中を歩いて行くのだった。
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