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ローバー下院議員殺人事件
ローバー下院議員殺人事件_2
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(2) 不可能犯罪
ヘンフリーがローバー邸を弔問に訪れたのは、平民とはいえ年長者である政敵に対する敬意もそれなりにはあったが、敬意を払える自分をアピールするという側面も含んでいた。貴族は平民と違って度量が大きくあるべきだ、というだいぶ偏ったプライドも彼にはあった。
「私は議員とは政敵の関係にあったとはいえ、真っ正面から論戦を挑まれる氏には常に敬意を抱いておりました。ローバー氏の無念は、我らが誇り高きメイズラント警視庁が必ず晴らしてくれましょう」
下院議員夫人にデイモン警部と同じような事を言って、ヘンフリーはローバー邸を辞した。帰りの馬車の中でヘンフリーは秘書にたずねた。
「捜査は始まったばかりとは思うが、何者の仕業であろうか」
「はい、名刑事であるデイモン警部率いる捜査班がすでに動いているそうですが、まだ我々の耳には進展の報はございません。いずれ都度報告が上がってくるでしょう」
「一人の政治家が殺されたのだ。私とて他人事ではない。犯人を早く捕らえて欲しいものだな」
ヘンフリーの心配は、他の議員たち全ての心配であった。
まず、デイモン警部率いるメイズラントヤード重犯罪課の捜査員たちは、当然のごとく事件現場となったローバー邸の人間への聞き込みから始めた。怪しい人物は見なかったか。彼ら自身のアリバイはどうか。夫人と、よく出入りするローバー議員の秘書、メイドにも確認と聞き込みは及んだ。さらに、外部の人間としては最も最近出入りしたという、リンドン市内に事務所を持つ画商にも聞き込みが行われた。
最初の聞き込みの段階では、不審な行動を取っている者も、怪しい人影を見かけたという者もいない事がわかった。
聞き込みを捜査員たちに任せているあいだ、デイモン警部は犯行現場の状況を確認していた。狙撃銃を扱える人間というのは、そうそう多くはない。弾丸も壁から回収できたので、あとは狙撃地点の割り出しができれば、目撃情報などから犯人の特定は可能であろうと、老刑事は見込んでいた。
ところが、である。警部らは早々に頭を抱える事となった。
警部の前には報告書を携えた捜査員たちが立っていた。だが、彼らもまた一様に、首を傾げていた。
「確かなのだな」
警部は、問い詰めるように捜査員の目を見た。
「間違いありません。鑑定の結果、弾丸は9x19mm弾。つまり使われたのは、拳銃です」
「ばかな」
警部の驚きは、他の刑事たちも同様であった。警部は唸った。
「状況から見て、ローバー氏は二階の窓の外から長距離狙撃されたとしか考えられんのだぞ。窓の南側正面方向に、拳銃の射程距離を確保できるような足場は存在しない。それとも犯人は窓に梯子をかけて、窓まで登って撃ったとでも言うのか」
「あり得ませんね。そんな事をすれば、梯子をかけたり登ったりする物音で邸宅のメイドか誰かに気付かれたでしょうし、部屋にいるローバー氏は気付くはずです。だいいち、事件の前後に何者かが立ち入った形跡は今のところ見当たらないのです」
捜査員の報告によれば、全体の状況は次のようなものである。窓の正面外は向こう700メートルに渡って、直線状に建物が存在しない。ローバー邸の南側は狭い庭になっており、木や柱はなく、子供が隠れる程度の高さの生け垣を越えると道路があって、ミラーやベル線の柱が立っている。
あとは草原と極めて背の低い茂みがいくつか見え、650mあたりに建物の二階にやっと届くかという高さの木がある。狙撃に使えそうなポイントといえば、700mを超えたあたりに、ようやく農家の小屋か何からしい、円錐状の屋根を持った円筒状の建物が見えるのみである。最高性能の狙撃銃でどうにか900mの射程距離を持っているので、それを使えば理論上はその農家の建物から弾丸が届かないわけではない。だが、鑑定では銃弾は拳銃のものであった。警官隊に支給されている拳銃でも、有効射程距離は最大でせいぜい50mである。
窓から左手方向の南東方向も草原で、800mほど行くとやや広く浅い川がある。右手方向の南西300m位から小さな森があり、そこを過ぎると農道や農地、住宅地があった。
「あの、正面奥の円筒状の建物は調べたのか?」
「はい。しかし、人が立ち入った痕跡はありませんでした。そもそも中は二階までゴミ置き場になっていて、まともに歩く事さえできません。屋上からの狙撃も考えましたが、あの円錐状の屋根では狙撃は無理でしょう。しかもです」
捜査員はさらに続けた。
「君、ちょっとそこに立って西を向いてくれ」
一人の捜査員が指示されて、ローバー議員のデスクの後ろに立ちカレンダーの方を向いた。
「彼がローバー議員とほぼ同じ身長になります。窓ガラスの弾痕を見てください」
デイモン警部は、窓ガラスに開いた弾丸の貫通した穴を見た。それは、立っている捜査員のこめかみと、水平に一直線の高さにあった。
「そして、壁にある弾丸が埋まっていた穴も見てください」
デイモンは言われるままに、反対側の壁を見た。これもまた、窓ガラスの弾痕と、被害者のこめかみを結んで一直線の高さにあった。
「あり得ない」
デイモン氏は唸った。
「弾丸は必ず放物線を描く。外から距離を取ってこめかみに当てようと思うなら、それよりも高い位置か、低い位置から斜めにガラスを突き抜けなくてはならない」
頭蓋骨を貫通したなら、弾丸の速度は急激に落ちるはずだ。つまり、被害者の銃創よりも低い位置に壁の弾痕はできるはずである。だが、これは完全に水平の高さにある。
「その通りです。しかし、弾丸はこめかみの真横から水平に一直線に入って、同じ高さを保ったまま壁に深くめり込んでいるのです。仮にあの建物からここまで届く拳銃があったとして…ある筈はありませんが、あったとしても、こんな弾道はあり得ません」
要約するとこうだ。被害者を貫いたのは、700m以上にわたって水平な弾道を保ち、かつ硬い頭蓋骨を貫通して壁にめり込む速度を持った拳銃の弾丸、ということになる。
「そんなものは存在しない」
デイモン警部は壁の弾痕を睨んだ。
「ではなんだ、狙撃した犯人は魔法でも使ったというのか!」
そこまで叫んで、デイモン氏は口をつぐんだ。
「魔法…」
デイモン氏は何やらぶつぶつと呟いたすえ、部屋の中をうろうろと歩き、そして振り返った。
「ひとまず現場はいい…怪しい人物の目撃情報がないか聞き込みを進めろ。それと、弾丸と狙撃地点についてももう一度調べるんだ。本当に拳銃のものなのか… 犯人像については、被害者が政治家である以上は政敵という線もあるが、愉快犯の類も有り得る。各チームにそのように伝えろ」
デイモン氏にしては歯切れの悪い指示だったが、捜査員たちは了解すると仕事を続けるのだった。
聞き込み捜査の結果は芳しくないものだった。まずは狙撃銃などを扱う業者から最近の利用者を全て洗い出し、何人もの猟師や農家などが取り調べを受けたが、いずれもアリバイがあり、動機なども全く考えられなかった。今回の事件で使われたと思われる銃器を購入した者は一人もいなかったし、そもそも拳銃を所持している人間じたいが、多くはないにせよ別に珍しいわけでもない。
不審者関連で唯一それらしい目撃情報があったのは、ローバー邸から南西方向に二区画も離れた通りを、散弾銃を背負った猟師が歩いていたという話だけであるが、周囲には山も川もあり、釣り師や猟師のたぐいが歩いていても特段不思議ではなかった。
ローバー氏の政敵の線も調査は行われたが、氏は政敵は多いとはいえ人格者としても知られており、論敵からも一定の敬意を払われる存在であったため、いかに政治的意見が異なろうとも、やみくもに殺害するような暴挙に出る政治家がいるとは考えにくい、というのがおおかたの議員たちの見解でもあった。もちろん、どんな人格者であろうと、一方的に逆恨みされる事はあり得るが。
狙撃地点に至っては、皆目見当がつかなかった。推測の弾道上でほぼ唯一ローバー氏の書斎の窓を確認できる農家の塔のような高さの小屋は先の報告どおりである。そのずっと向こうには小高い丘陵があるものの、そこまで行くとローバー邸までの距離は1kmを越えてしまい、最新の最高性能の狙撃銃でもまともに狙える距離ではない。
あらゆる可能性が検討された。中には、ローバー氏の書斎の上の屋根から落下しつつ拳銃で撃った、などという説まで飛び出したほどである。
捜査の進展が怪しい事に、次第に新聞社などが気付き始めた。デイモン警部には焦燥の色が見えるようになり、捜査員たちも困惑し始めていた。
かくして事件が迷宮入りの様相を見せ始めた時、誰が言い始めたかわからないが、ひとつの可能性が囁かれるようになっていった。デイモン氏はその声に耳を塞ぎたかったが、大きくなる声は手のひらを通して、否応なく聞こえてくるのだった。
「これは、"魔法犯罪"ではないのか?」
ヘンフリーがローバー邸を弔問に訪れたのは、平民とはいえ年長者である政敵に対する敬意もそれなりにはあったが、敬意を払える自分をアピールするという側面も含んでいた。貴族は平民と違って度量が大きくあるべきだ、というだいぶ偏ったプライドも彼にはあった。
「私は議員とは政敵の関係にあったとはいえ、真っ正面から論戦を挑まれる氏には常に敬意を抱いておりました。ローバー氏の無念は、我らが誇り高きメイズラント警視庁が必ず晴らしてくれましょう」
下院議員夫人にデイモン警部と同じような事を言って、ヘンフリーはローバー邸を辞した。帰りの馬車の中でヘンフリーは秘書にたずねた。
「捜査は始まったばかりとは思うが、何者の仕業であろうか」
「はい、名刑事であるデイモン警部率いる捜査班がすでに動いているそうですが、まだ我々の耳には進展の報はございません。いずれ都度報告が上がってくるでしょう」
「一人の政治家が殺されたのだ。私とて他人事ではない。犯人を早く捕らえて欲しいものだな」
ヘンフリーの心配は、他の議員たち全ての心配であった。
まず、デイモン警部率いるメイズラントヤード重犯罪課の捜査員たちは、当然のごとく事件現場となったローバー邸の人間への聞き込みから始めた。怪しい人物は見なかったか。彼ら自身のアリバイはどうか。夫人と、よく出入りするローバー議員の秘書、メイドにも確認と聞き込みは及んだ。さらに、外部の人間としては最も最近出入りしたという、リンドン市内に事務所を持つ画商にも聞き込みが行われた。
最初の聞き込みの段階では、不審な行動を取っている者も、怪しい人影を見かけたという者もいない事がわかった。
聞き込みを捜査員たちに任せているあいだ、デイモン警部は犯行現場の状況を確認していた。狙撃銃を扱える人間というのは、そうそう多くはない。弾丸も壁から回収できたので、あとは狙撃地点の割り出しができれば、目撃情報などから犯人の特定は可能であろうと、老刑事は見込んでいた。
ところが、である。警部らは早々に頭を抱える事となった。
警部の前には報告書を携えた捜査員たちが立っていた。だが、彼らもまた一様に、首を傾げていた。
「確かなのだな」
警部は、問い詰めるように捜査員の目を見た。
「間違いありません。鑑定の結果、弾丸は9x19mm弾。つまり使われたのは、拳銃です」
「ばかな」
警部の驚きは、他の刑事たちも同様であった。警部は唸った。
「状況から見て、ローバー氏は二階の窓の外から長距離狙撃されたとしか考えられんのだぞ。窓の南側正面方向に、拳銃の射程距離を確保できるような足場は存在しない。それとも犯人は窓に梯子をかけて、窓まで登って撃ったとでも言うのか」
「あり得ませんね。そんな事をすれば、梯子をかけたり登ったりする物音で邸宅のメイドか誰かに気付かれたでしょうし、部屋にいるローバー氏は気付くはずです。だいいち、事件の前後に何者かが立ち入った形跡は今のところ見当たらないのです」
捜査員の報告によれば、全体の状況は次のようなものである。窓の正面外は向こう700メートルに渡って、直線状に建物が存在しない。ローバー邸の南側は狭い庭になっており、木や柱はなく、子供が隠れる程度の高さの生け垣を越えると道路があって、ミラーやベル線の柱が立っている。
あとは草原と極めて背の低い茂みがいくつか見え、650mあたりに建物の二階にやっと届くかという高さの木がある。狙撃に使えそうなポイントといえば、700mを超えたあたりに、ようやく農家の小屋か何からしい、円錐状の屋根を持った円筒状の建物が見えるのみである。最高性能の狙撃銃でどうにか900mの射程距離を持っているので、それを使えば理論上はその農家の建物から弾丸が届かないわけではない。だが、鑑定では銃弾は拳銃のものであった。警官隊に支給されている拳銃でも、有効射程距離は最大でせいぜい50mである。
窓から左手方向の南東方向も草原で、800mほど行くとやや広く浅い川がある。右手方向の南西300m位から小さな森があり、そこを過ぎると農道や農地、住宅地があった。
「あの、正面奥の円筒状の建物は調べたのか?」
「はい。しかし、人が立ち入った痕跡はありませんでした。そもそも中は二階までゴミ置き場になっていて、まともに歩く事さえできません。屋上からの狙撃も考えましたが、あの円錐状の屋根では狙撃は無理でしょう。しかもです」
捜査員はさらに続けた。
「君、ちょっとそこに立って西を向いてくれ」
一人の捜査員が指示されて、ローバー議員のデスクの後ろに立ちカレンダーの方を向いた。
「彼がローバー議員とほぼ同じ身長になります。窓ガラスの弾痕を見てください」
デイモン警部は、窓ガラスに開いた弾丸の貫通した穴を見た。それは、立っている捜査員のこめかみと、水平に一直線の高さにあった。
「そして、壁にある弾丸が埋まっていた穴も見てください」
デイモンは言われるままに、反対側の壁を見た。これもまた、窓ガラスの弾痕と、被害者のこめかみを結んで一直線の高さにあった。
「あり得ない」
デイモン氏は唸った。
「弾丸は必ず放物線を描く。外から距離を取ってこめかみに当てようと思うなら、それよりも高い位置か、低い位置から斜めにガラスを突き抜けなくてはならない」
頭蓋骨を貫通したなら、弾丸の速度は急激に落ちるはずだ。つまり、被害者の銃創よりも低い位置に壁の弾痕はできるはずである。だが、これは完全に水平の高さにある。
「その通りです。しかし、弾丸はこめかみの真横から水平に一直線に入って、同じ高さを保ったまま壁に深くめり込んでいるのです。仮にあの建物からここまで届く拳銃があったとして…ある筈はありませんが、あったとしても、こんな弾道はあり得ません」
要約するとこうだ。被害者を貫いたのは、700m以上にわたって水平な弾道を保ち、かつ硬い頭蓋骨を貫通して壁にめり込む速度を持った拳銃の弾丸、ということになる。
「そんなものは存在しない」
デイモン警部は壁の弾痕を睨んだ。
「ではなんだ、狙撃した犯人は魔法でも使ったというのか!」
そこまで叫んで、デイモン氏は口をつぐんだ。
「魔法…」
デイモン氏は何やらぶつぶつと呟いたすえ、部屋の中をうろうろと歩き、そして振り返った。
「ひとまず現場はいい…怪しい人物の目撃情報がないか聞き込みを進めろ。それと、弾丸と狙撃地点についてももう一度調べるんだ。本当に拳銃のものなのか… 犯人像については、被害者が政治家である以上は政敵という線もあるが、愉快犯の類も有り得る。各チームにそのように伝えろ」
デイモン氏にしては歯切れの悪い指示だったが、捜査員たちは了解すると仕事を続けるのだった。
聞き込み捜査の結果は芳しくないものだった。まずは狙撃銃などを扱う業者から最近の利用者を全て洗い出し、何人もの猟師や農家などが取り調べを受けたが、いずれもアリバイがあり、動機なども全く考えられなかった。今回の事件で使われたと思われる銃器を購入した者は一人もいなかったし、そもそも拳銃を所持している人間じたいが、多くはないにせよ別に珍しいわけでもない。
不審者関連で唯一それらしい目撃情報があったのは、ローバー邸から南西方向に二区画も離れた通りを、散弾銃を背負った猟師が歩いていたという話だけであるが、周囲には山も川もあり、釣り師や猟師のたぐいが歩いていても特段不思議ではなかった。
ローバー氏の政敵の線も調査は行われたが、氏は政敵は多いとはいえ人格者としても知られており、論敵からも一定の敬意を払われる存在であったため、いかに政治的意見が異なろうとも、やみくもに殺害するような暴挙に出る政治家がいるとは考えにくい、というのがおおかたの議員たちの見解でもあった。もちろん、どんな人格者であろうと、一方的に逆恨みされる事はあり得るが。
狙撃地点に至っては、皆目見当がつかなかった。推測の弾道上でほぼ唯一ローバー氏の書斎の窓を確認できる農家の塔のような高さの小屋は先の報告どおりである。そのずっと向こうには小高い丘陵があるものの、そこまで行くとローバー邸までの距離は1kmを越えてしまい、最新の最高性能の狙撃銃でもまともに狙える距離ではない。
あらゆる可能性が検討された。中には、ローバー氏の書斎の上の屋根から落下しつつ拳銃で撃った、などという説まで飛び出したほどである。
捜査の進展が怪しい事に、次第に新聞社などが気付き始めた。デイモン警部には焦燥の色が見えるようになり、捜査員たちも困惑し始めていた。
かくして事件が迷宮入りの様相を見せ始めた時、誰が言い始めたかわからないが、ひとつの可能性が囁かれるようになっていった。デイモン氏はその声に耳を塞ぎたかったが、大きくなる声は手のひらを通して、否応なく聞こえてくるのだった。
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