絶対零度女学園

ミカ塚原

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氷巌城突入篇

氷の城

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 その異変に、百合香も気付いていた。トタン張りの待合室があるバス停に辿り着き、南の空を見ると、生まれて初めて肉眼で目にする、オーロラがあった。

 何かがおかしい。

 百合香は思った。バスケから離れて以来ずっと気落ちしていて、周りの事などどうでも良かった自分だが、さすがにこれだけ異常な現象が続くと、否が応でも関心を持たざるを得なくなる。

 うろ覚えだが日本でも歴史上、オーロラが観測された事例はあったらしい。それも、真冬などではない。スマホでサーチすれば今すぐわかるだろうが、さらに驚く事が起きた。

「…うそでしょ」

 白いフワフワしたものが空から無数に舞い降りて、アスファルトや百合香の髪を覆い始めた。雪だった。
 日本で夏に雪が降る事例は、北海道とか富士山の何合目以上とか特別な条件下の話であって、降雪地帯ではあっても豪雪はほとんどないこの地方で、いま雪が降る筈がない。

 百合香はスマホを取り出して、SNSのタイムラインを覗いてみた。この異常気象の話題が流れているはずだ。
 そう思ったが、アプリには「情報を更新できません」とあり、何分か前の状態からタイムラインは固まったままである。さっき見た、頭がおかしいレベルのキャラ弁の投稿がトップに居座ったままだった。

 電波が来ていない。

 スマホがなくなったら人間は生きて行けるのだろうか。スマホがない時代の人間はどうやって生きていたのだろう。
 いや、落ち着け。たまたま異常気象で、通信障害が起こる事くらい、レアケースではあっても有り得る話だ。待っていればバスは来る。たぶん。


 百合香が後にした校舎内では、ちょっとしたパニックが起きていた。
「繋がってないね」
 パソコン部の顧問が、部員とディスプレイを睨んでいた。インターネットの通信が全校で切れているのだ。

 そして、もっと根本的な問題が起きた。停電である。
「ひゃあ!」
 文芸部の部室でミステリ短編「きなこもち殺人事件」の推敲をしていた吉沢菫は、突然真っ黒になったディスプレイを前に驚き、そして修正後の保存をかけていたかどうか不安になって叫んだ。
「みんな生きてる!?」
「落ち着いてください、部長」
 後輩が、冷静に壁のスイッチをオン・オフして、停電らしい事を確認していた。
「どうやらこの館は孤立してしまったようですね」
「お前が落ち着け」
 もう一人の1年生が、背後から冷静にツッコミを入れる。
「これはアリバイ工作でしょう。ブレーカーを落としたのは犯人です」
「みんな落ち着いて!」
 菫がバンと机を叩く。冷静な人間が一人もいない文芸部は、もう今日はこれで営業終了かなと思い始めた。
 そして、小説執筆に集中していた面々は、窓の外で起きている事にやっと気付いたようだった。
「…なにこれ」
「アリバイ工作にしては大掛かりですね」
 窓の外は、真っ白な雪景色になっていた。
「さむっ」
「夏の雪。これは小説のネタにできますよ、部長」
 天変地異も文芸部員にとっては、小説の題材でしかないようだ。もう少し驚くとか何とかないのか。物書きってどこかおかしいよな、と自分を棚に上げつつ、菫はようやく落ち着いて、持ち物の整理を始めた。
「今日はこれでおしまい。各自原稿を推敲して、終わったら私の自宅パソコンにメールしてちょうだい。今日来てない面子にもLINEしとこう」
 そこでスマホを開いて、文芸部も電波が切れている事に気付いたのだった。
「やばいんじゃないの、これ。停電に通信障害とか。早いうちに帰ろう」
 パソコンからUSBメモリを抜くなど、各自後片付けをしながら、この現象について雑談を始めた。
「この雪というか寒冷化の前に、謎の凍結事件が起きたのは偶然なんでしょうか」
 ポニーテールに眼鏡の1年生がぽつりと言った。
「確かに。ちょっと偶然にしてはおかしいわね」
 菫は、先日の事件を思い起こしていた。生徒が倒れただけでなく、聖堂前のバラの植え込みが、冷気で全滅してしまったのだ。
「何か、動かしてはいけない石とかを動かしたせいで呪いが発動したのでは」
「いつの時代の伝奇もの?」
 菫は、そういえばこいつ80年代の伝奇小説とかアニメとか好きだったな、と思い起こしていた。自宅の本棚には菊地秀行コーナーがあったはずだ。
「そういえば、この学園じたい、そこそこミステリアスなんですよね」
 もう一人の、ロングストレートに眼鏡の1年生が言う。今の所、部室内は眼鏡着用率100パーセントである。
「ミステリアスって?」
「校名のガドリエルって、堕天使の名前ですよ。有名でないわりに、いちおうリーダー格です」
「そうなの?」
 そういえばこいつ、宗教色の濃いハードコアなファンタジーが好きだったなと菫は思い起こしていた。自宅の本棚にはラヴクラフトコーナーがあったはずだ。
「そうです。たしか、イヴをそそのかした蛇のとばっちりで、責任取らされた堕天使です」
「損な性分の中間管理職だな」
「その堕天使の名前がついた学校で、凍結とか雪とかの事件が起きるって、どういう事でしょう」
 その場にいる三人は、うーんと唸った。三人とも小説家志望であり、脳内でこれを題材に物語が作れやしないか、と考え始めた時だった。
 ドタバタと、廊下を走る音がする。
『残っている生徒はすぐに退校しなさい!急いで!!』
 皮下脂肪多めの中年体育教師の声だ。停電で校内放送が使えないため、教員が手分けして走り回っているのだろう。
「やばそうね」
「帰りましょう」
「そうしましょう」
 眼鏡の文芸部員たちは、頷き合ってクラブハウスを出ることにした。

 扉に手をかけた、その瞬間だった。視界の全てが、青紫がかった光に覆われた。



 雪が降り止まない。すでに2センチほど積もっているが、だいぶ軽めの雪のようだ。百合香は、あまり入りたくなかった古いトタン張りの待合室に、雪を避けられるぶんだけ身体を入れる事にした。
 相変わらずスマホのアンテナは立っていない。そして困ったことに、バスが来ない。
「参ったな」
 雪のせいだろうか。ちょっと歩く事になるが、仕方ないので駅まで行って電車で帰る事にした。バスも夏場に雪用タイヤは履いていないのかも知れない。
 そうして、待合室を出た瞬間だった。

 ブワッと、何か光の波のようなものが空間全体を走った。青紫っぽい光だ。
「?」
 百合香の背筋に悪寒のようなものが走る。それと同時に、大きな地鳴りが起こった。
「うわっ!」
 慌てて百合香は、頼りない細い角材の柱に掴まった。トタンに貼られた、大昔のレトルトカレー広告のおばちゃんと目が合った。
 地鳴りは、体感では3分くらい続いたように感じられた。だいぶ長く、待合室にひとり佇む女子高生には怖い時間である。百合香は無意識に、南先輩が握った肩に手を触れた。
 地鳴りが収まると、百合香はほっとして周囲を見た。

 さっきまで降り続いていた雪が、ぱたりと止んでいる。
「…終わったのかな」
 雪が止んだので、視界も元に戻った。降りてきた坂道が見渡せる。
 そうして坂道の上を見た時、百合香は絶句した。

 絶句、という言葉の意味を、百合香は身を持って体験する事になった。

 ちょうど、学校があるあたりだ。坂を下ると、斜面や木々に遮られて学校は見えなくなる。
 はずなのだが、今はそこに巨大な影が見える。


「なにあれ」


 ようやく出てきた一言ののち、百合香は全力で冷静さを保ち、それが何なのかを理解しようとした。

 城だった。

 それも、西洋ふうの城だ。

 学校の敷地があるあたりに、巨大な西洋ふうの城が鎮座している。
 いや、形は確かにそうなのだが、問題は大きさである。距離感がわからないが、どう見てもガドリエル学園の敷地より大きい。
 むろん、高さも半端ではない。隣にないので比較できないが、少なくとも東京タワーよりは高いのではないか。

 あまりにも思考の許容量をオーバーした現実に、百合香はこれが現実かどうか判断する方法はないかと考えた。
 しかし、次に思い至った不安が、他の全ての疑問を吹き飛ばした。

 あれが校舎の上にあるというなら、校舎はどうなったのか。
 さっき起こった地鳴りは、あの巨大な城と無関係なはずがない。ということは。

 最悪の事態を想像して、百合香は戦慄し、下ってきた道を再び校舎に向かって駆け出した。
 しかし、少し走ったところで肺が悲鳴を上げ、百合香はその場にひどく咳き込んで膝をついてしまった。
「げほっ、げほん!」
 情けない。ほんの何ヶ月か前には、私はバスケットボールを突いて、誰よりも速くコートを駆けていたのだ。胸の痛みとともに、枯れたと思っていた涙が流れてきた。
 
 校舎はどうなったのだ。南先輩は。吉沢さんは。クラスメイトのみんなは。そして、なぜ自分はその時、校舎から離れていたのか。

 その時、百合香は自分を急き立てた、あの謎の声を思い出した。
 確かにあの声は、私を校舎から早く遠ざかるように促していた。まるで、この事態を予測していたかのように。

 様々な思考が百合香の頭に渦巻いた、次の瞬間だった。それは視界の中を、こちらに向かって歩いてきた。
 百合香は、いよいよ自分の頭がおかしくなったのではないか、と思い始めた。

 それは、たぶんゲームか何かでしか見たことがないような存在だった。
 人の姿をしている。正確に言うと、頭と四肢、手指がある点で、人の姿をしている。しかし、どう見ても人では―――否、生物ではない。
 
 動く人間大の、透明な石の人形であった。

「ひっ」
 百合香は、声を失ってその場を動けずにいた。その人形は、西洋ふうの甲冑に見えなくもないが、もう少しシャープであちこちが尖ったデザインをしていた。頭は鳥のクチバシのように前方に突き出している。指は人間と同じ五本だが、大昔の映画のジョニー・デップのように爪が突き出している。刺されたらたぶん死ぬだろう。

 それが、百合香に向かってゆっくりと歩いてくる。どう見ても、助けにきてくれた人には見えない。恐怖で足が竦んでいるうえ、肺に無理をしたせいで呼吸がまともにできない。
 しかし、逃げないわけには行かない。百合香は、バス停から坂下に向かって、できる限りの歩速で逃げる事にした。登って逃げるのは、体力的にリスクが大きすぎる。

 人形の歩速は、百合香よりも少し遅かった。
「はっ、はっ」
 誰か来てくれ、砂利を満載したトラックが通りかかってこの化け物を跳ね飛ばしてくれ、と百合香は心から願った。しかし、どれほど歩いても、軽トラックの一台も走ってくる気配はない。
 人形は執拗に百合香を追ってくる。タイム差をつけられても、トップを走るマシンにトラブルが起きる事を期待して走る2番手のF1ドライバーのように。

「うっ」
 弱々しい声と共に、百合香はついに胸に限界がきて、コンクリートの法面に手をついて倒れ込んだ。
 人形は、確実に近付いてくる。コツリ、コツリという足音が大きくなる。これは、もうたぶん助からないだろうな、と百合香は、自分の状況を冷静に分析できる自分にむしろ驚いていた。死ぬ寸前、人間はこうも冷静になれるものらしい。

 その人形はゆっくりと百合香に近付くと、透明な青紫色に輝く右腕の爪を高く掲げた。

 それが、百合香に向かって振り降ろされようとした、その時だった。


『心の炎を絶やしては駄目、百合香』


 あの、女の人の声だった。

 次の瞬間、百合香はその日の何度目かの驚愕を体験していた。


『キィエエェェ!!!』

 鳥とも何ともつかない高い叫びを、人形は上げて仰け反った。
 その爪が、床に落としたガラスのマドラーのように、砕け散っている。断面は炎にさらされたかのように溶け始めていた。

 百合香は、自分の胸の前で燃え盛るそれを、まじまじと凝視していた。

 大きさはバスケットボールくらいある。その表面は、炎が波を打つように吹き荒れていた。まるで、太陽のようだった。
 そしてそれは確かに、百合香の胸の奥から現れたのだ。

「何なの…何なの、一体!?」
 その太陽を挟んで、百合香は謎の人形と対峙していた。人形は先程と様子が異なり、百合香に近寄るべきか、逃げるべきか迷い、怯えているように見えた。

『恐れないで、百合香。自分の、心の炎を』

 再び、女の人の声がした。

「誰!?誰なの!?」
 百合香は叫ぶ。

『百合香、それを手に取るのです。それは、全てを切り拓く希望』

 女性の声は、百合香の疑問を無視して語りかけてきた。

 わけがわからない。

 しかし、その炎を見ているうちに、百合香は自分の中に、驚くべき何かが眠っていた事を悟った。

 それは「勇気」だった。

 その炎は、自分の中にある勇気の象徴なのだ。百合香は、そう確信した。
 子供の頃、初めてバスケットボールに手を触れた、その瞬間に燃え上がった心の炎を、百合香は思い出していた。

『アギャアア!!!』

 不快な叫びを上げて、人形は破れかぶれに百合香に向かって、左腕を突き出して突進してきた。
 
 百合香は迷うことなく、目の前にある炎の塊を両手でがっしりと掴む。全身が燃え上がるように感じられた。バスケットのコートに立つ、あの感覚だ。
 
 地面を蹴ると、百合香は高く跳ね上がり、右手でその塊を、思い切り振り降ろした。

「でや―――っ!!!」

 振り降ろされた炎のボールは、人形の爪をへし折り、人形の左腕全体を、肩の根本から粉砕した。
 その衝撃で人形は弾き飛ばされ、コンクリートの壁面に身体を打ち付けてフラフラとよろめき始めた。

 炎のボールは、地面にめり込んだままグルグルと回転している。

「はあ、はあ…」

 一体、これは何なのか。あまりにも衝撃的な事が唐突に連続して、百合香はすっかり混乱すると同時に、得体の知れない興奮が沸き起こるのを感じていた。

『百合香、忘れないで。人の心にはいつでも炎が燃え盛っている事を』

 また、あの声だ。いい加減、百合香は冷静になり始めてもいた。
「誰なの、あなたは!?どこから話してるの!?」
『今は、声を届ける事しかできない。いずれ、私のもとへ辿り 着くでし ょ う 』
 何やら、通信が不安定な動画のように声が途切れ始めた。
『剣を手 に 取るの で s』
 そこまで言って、電源の切れたラジオのように、女性の声は聞こえなくなった。
「剣…?」
 百合香は訝しんだ。剣など、どこにあるというのか。あるのは、足元でアスファルトを溶かしてグルグル回り続ける炎のボールだ。

 そこへ、再びさきほどの人形がヨロヨロと歩いてきた。感情があるのかないのか、わからない。だが、何かに操られるようなその姿が、百合香にはひどく哀れに思えた。
 その時だった。

 炎のボールが突然、竜巻のように立ち上がった。百合香の身長くらいある。
「!?」
 百合香も、そして人形も、驚いて仰け反った。
「…まさか」
 百合香は、さきほどの声を思い出していた。剣を手に取れ、と『彼女』は言っていた。

 百合香は、ゆっくりとその炎の中に右手を入れる。恐れはなかった。百合香の腕は、焼けもしなければ熱くもならない。
 何かが、手のひらに触れた。百合香は、親指を下にして、それをしっかりと握ると、ゆっくりと引き抜いた。

 炎の柱がバーンと弾け、百合香の全身をエネルギーとなって覆い尽くす。そしてその右手には、オレンジ色の柄と、黄金の刃を備えた、ギラギラと輝く剣が握られていた。

「これは…」
 百合香は、目の前で起きた事に困惑と驚愕を同時に覚えていた。剣など、生まれてこの方握った事はない。こんなものを持たされて、どうすればいいのか。
 そんな事を考える暇も与えず、透き通った謎の人形が百合香に突進してきた。
「!」
 
 一瞬だった。百合香は、自分でも信じられないほど華麗な動きで、黄金の剣の切っ先を人形の心臓部に、真っ直ぐに突き入れた。

 剣身から、言葉にできないほど鮮烈で美しい黄金色の光が炸裂し、人形の全身をバラバラに切断した。やがて、崩れ落ちた人形の欠片は、砂粒のような輝きとなって、風に舞い消え去ってしまった。

「はあ、はあ、はあ…」
 百合香は、ようやく異形の怪物がいなくなった事に安堵し、その場に片足をついて座りこんだ。
 改めて、炎の中から現れた剣を見る。美しい。こんな美しい物体を見るのは初めてだった。純金のようにも見えるけれど、透明感もある。金属なのか、宝石なのかわからない。

 一体、この剣がなぜ現れたのか。そして、いま倒した怪物は何なのか。そこまで考えて、百合香は重要な事を思い出し、校舎の方を振り返った。
 依然として、突如出現した巨大な城は存在している。百合香は、この怪物があの城と無関係なはずがない、と考えた。

 そして、奇妙な事だが、町でこれほどの事が起きているというのに、パトカーの一台さえ走ってこない。一体どういう事なのか。校舎の方からも、誰も逃げてくる気配がない。

 百合香は、どうするべきか考えた。

 いま、自分は謎の怪物を倒す事ができた。保証はないが、もし次に何か現れても、何とかなるかも知れない。
 学園に何が起きたのか、自分が調べなくては。百合香は決心し、黄金の剣を強く握った。
「南先輩…吉沢さん」
 二人は無事だろうか。他のみんなは。もし、自分に助ける力があるのなら、やらなくては。そんな使命感が湧き上がり、百合香はその足を校舎に向け、ゆっくりと歩き出した。

 動き回っても肺が何ともない事に、その時の百合香は気付いていないのだった。
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