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1巻
1-3
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「って、嬢ちゃん仕事早いな!」
「そうですか?」
いつの間にか、シドさんが隣で作業を眺めていた。
シドさんの買ってきた中に牛肉が少しあったので、思い切って全部ミンチにする。それから玉ねぎをみじん切りにして、皮を剥き小さく切ったジャガイモを茹で始めた。
「シドさん、苦手な食べ物はありますか?」
「あー、そもそも食事の必要はないが、食べるとなればなんでも食える。好みとしては甘いものが好きだ」
あれっ、使い魔さんって食事の必要がないものなのかな? 動物だし、食べると思ったのに。……まあ、いいか。
ミンチにした牛肉とみじん切りにした玉ねぎを、塩コショウでよく炒める間に、ジャガイモはフォークがすっと通るくらいになった。ザルにあけてボウルに移し、バターと塩コショウ、少しの牛乳と一緒によく潰す。大きなグラタン皿の一番下にさっき炒めたものを敷き、その上にマッシュポテトをみっちり詰めたら、仕上げまでほっとこう。
そうこうしているうちに鳥肉から水分が出てきたので、洗い流して、別の鍋で弱火で煮込み始める。灰汁が出たらすくい、それからニンジンと玉ねぎを入れた。その後、灰汁を取りつつひたすら煮込めばポトフの出来上がり。
煮込んでいる間にも、もうひと仕事。さっきのマッシュポテトの上に削ったチーズを満遍なく振りかける。これをオーブンに入れて、こんがり焼き色をつけたなんちゃってシェパーズパイを作るつもりだ。あとはパンを出せば充分だよね?
「……本当に手際がいいな。それに美味そうだ」
パイの下ごしらえを終え、ふうと一息ついたところで、シドさんがしみじみと言った。
「そうですか? 慣れてるからでしょうか」
実際、前世でも今でも、料理する機会は多かった。この世界の母さんが小さい料理屋を営んでいるおかげで、七歳くらいからお手伝いでキッチンに立ってたもの。
さて、そろそろパイをオーブンに入れてしまおう。
ああ、チーズの焼ける匂いとか、ポトフがくつくつ煮えてる音とか。料理中って本当に落ち着くなぁ……そして、さりげなく洗い物をしてくださっているシドさん、ありがとうございます。やらせてしまって、すみません。
「よし、出来上がり!」
「おー、うまそう!」
「シドさんの分も作ったので、よければ食べてくださいね」
お皿に盛りつけたものから、シドさんが次々運んでくれる。なんだか申し訳ない気持ちになるんだけど、いいのかな。雇い主の使い魔さんを私が使っちゃって。
「飯だぞー」
「ん」
「ご飯ー」
ああでも、リビングから聞こえるシドさんの声が楽しそうだし、いいか。もし駄目だったらレオナール様が教えてくれるだろう。
そうして最後に私の分も持っていくと、先程まではなかった子供用の椅子に、ジルが座っていた。
「どうしたんですか、この椅子」
私が驚いて訊ねると、レオナール様が少し得意気に答える。
「作った」
「あのね、ジルがご飯食べやすいようにって作ってくれたの」
なるほど、ジルがキッチンに来なかったのは、レオナール様に椅子を作ってもらっていたからか。
ジルは、先ほどと比べてずいぶん安心している様子だ。レオナール様もジルが喜ぶのを見て嬉しそうだし、二人の関係はだいぶよくなったみたいだね。
まぁ、レオナール様にはあとできっちりお説教をするけど。ジルをぐるぐる巻きにして監禁していた件は、うやむやにはしない。
「冷めないうちに食べようぜー」
「ん」
シドさんの言葉のあと、全員で食卓を囲み、夕食を食べ始める。メイドが雇い主と同じ食卓に着くのはどうだろうって考えたけど、レオナール様は私にジルの母親代わりを望んでいる。
家族ならやっぱり、ご飯は一緒がいいよね。
「おいしー!」
ジルはご飯をぱくぱくと食べつつ、幸せそうな表情を浮かべた。レオナール様は無言なものの、それなりにいい勢いで食べている。
けっこうな量を作ったから残るかも、という予想に反して、みんな完食してくれた。作った甲斐があるよね。
そうして食器をすべて流しに片付けて、コーヒーではなく、いい香りのする紅茶を淹れる。個人的にはコーヒーが好きなんだけど、この国では高価な輸入品で、滅多に手に入らないんだよね。
眠れなくなると困るので、ジルには温めた牛乳に蜂蜜を少し垂らしたものを出す。
「あまーい」
ミルクを飲んだジルが嬉しそうに笑う。無邪気で子供らしいその笑顔に、私もつられて微笑んだ。
「お腹、いっぱいになった?」
「なったー」
「じゃあ、これから私はレオナール様にお説教するね。もし私が怖かったら、シドさんにくっついてればいいわ」
うん、繰り返すけど、うやむやになんてさせないよ? 今までお説教しなかったのは、ジルのことを優先させただけの話。それに、あんなことをした理由を本人から説明させて、ジルに謝ってもらわなきゃ。
というわけで――
「レオナール様、お説教の時間です」
「……ん」
レオナール様は飲んでいた紅茶のカップを置いて、きちんと聞く姿勢になってくれた。意外と素直だよね、この方。普通、メイドが雇い主を叱るってありえないんだけど。
まぁ、自分でも反省しているのかな?
「まず初めに。私はジルがどういう生い立ちか、どういう経緯でレオナール様に引き取られたのかはわかりません」
「ん」
「だからこそ、今まで見たものだけで判断してのお説教です。いいですか?」
「わかってる」
私のあえて決め付けるような物言いに、レオナール様は気を悪くするでもなく頷いた。だけど、私は勢いを緩めずに言葉を続ける。
「私には魔法の知識がありませんので、どんな理由でジルを魔法陣から逃げられないようにしたのか、わかりません。それが魔法使いとしては当たり前の行為だったとしても、理解出来ないんです」
「……ん」
「だから、一人の子供に対してレオナール様がとった行動へのお説教です」
地下で見た、ジルの怯えていた様子。それを思い出しながら、びしりと指を突きつける。
「幼児監禁は、立派な犯罪です」
だって、あの状況はそうとしか言いようがないよね。
「いいですか、まず幼い子を薄暗い地下に一人ぼっちで閉じ込める時点で駄目です。もしジルがトラウマを持ってしまったらどうする気だったんですか」
「……ん」
「それに加えて、猿轡を噛ませてぐるぐる巻き? 悪意以外、感じられませんよ」
そう言うと、レオナール様はしょんぼりと俯く。だけど否定や言い訳は一切口にしなかった。
やっぱり、自分でも悪かったと思ってるんだね。うん、状況だけ抜き出してみると、完全に悪役だよ。
「しかも、どうしてそれが必要なのかをジルに説明していない。なんでそんなに勝手な行動をしちゃったんですか」
「……ごめん」
「謝る相手は私ではないでしょう?」
そう言って促すと、レオナール様はシドさんにぴったりくっついていたジルへ顔を向けた。
「ごめん。その力、守りたかった」
力、と言われてジルの顔が強張る。
でも、私は口を出さないで見守っていた。ここから先は、私が首を突っ込んでいい話ではない。
すると、レオナール様はそっとジルの頬に触れて――
「……辛かっただろう」
――ぽつりと言葉を零した。
なにを指して辛いと言っているのか、私にはわからない。だけどジルには理解出来たようで、大きな目から涙の粒を落とした。
「……う、わあぁぁん!」
手を伸ばして抱きついてきた小さな体を、レオナール様はしっかりと抱き締める。
泣きじゃくるジルの背中を優しく撫でて、何度も大丈夫だからと囁いていた。ジルを見つめる目はとても穏やかなのに、表情は今にも泣き出しそうだ。
きっと、二人が抱えている思いは、私には共有出来ないものなのだろう。それをほんの少しだけ、さびしいと感じる。
せめて母親代わりとして、泣き終わったあとのことを考えなきゃ。あったかいレモネードでも作って、私も抱き締めてあげよう。
そう思ってキッチンに向かい、作業していると、何故かシドさんが追いかけてきた。
「どうした?」
「あんなに泣き叫んでいたら、きっと喉が渇くだろうと思って」
「そうか」
私が絞ったレモン汁と蜂蜜を練っている様子をしばらく眺めていたシドさんは、ゆっくりと口を開く。
「……魔力をうまく制御出来ない子供は、暴走して周りの全てを破壊してしまう危険性がある。それを防ぐために、マスターは地下の魔法陣でちびっこの力を封じたんだ」
「まあ、状況を見た瞬間に想像はついてました」
「……でも、怒っていただろう?」
「ええ」
練ったものを一匙お湯に溶かせば、レモネードの出来上がり。多分ジルが泣きやむ頃には適温になる。
手を止めずに受け答えする私に、シドさんは不思議そうな顔をした。
「ちびっこが怖くないのか? 暴走するかもしれないのに」
シドさんの言っている意味がわからず、私は首を傾げた。
「怖いって、どういうことですか?」
「ちびっこが暴走すれば、人の命なんて簡単に奪える。そのすぐ傍にいるんだぞ?」
「……それのなにが恐ろしいんでしょうね」
お盆の上に四人分のレモネードを載せて持とうとしたら、脇からシドさんに奪われた。
「ありがとうございます」
「いや……」
「さっきの続きですが、相手が自らの意志で人を傷付けようとするなら怖いですよ? でも、ジルはそうじゃない。本当に怯えてるのは、ジル本人でしょう。私が怯える必要ないですよね」
私だって魔力の暴走による事故の悲惨さは知っている。強大な魔力を持つ子供を恐れるのも仕方がないことだろう。
だけど私は、前世で父子家庭の可哀相な子供という色眼鏡で見られた経験があるから、せめて自分は先入観を持たずにジルに接したいと思うんだ。
そうそう、前世の記憶があることは誰にも言うつもりがない。愛情いっぱいに育ててくれたこの世界の両親や、たった一人の兄にも。
ちくりと痛む胸に手を当てる。手のひらに感じる鼓動は、確かに私がここで生きている証なのに、心はいつも簡単に前世へと向かってしまう。
『――、大好きだよ』
ふいに蘇る懐かしい声。私の名を愛おしげに呼ぶ、柔らかくて温かな声に、そっと目を閉じる。
私は、それに応えることは出来ない。その名前で呼ばれていた存在は、もういないのだ。今の私はリリーだから。
「嬢ちゃん……?」
不思議そうな顔をしているシドさんに、ちょっとだけ笑ってみせた。
「なんでもありませんよ。さ、レモネードが冷めてしまう前に持って行きましょう」
「お、おう」
私が明るく促すと、シドさんはとまどいつつもお盆を持って歩き出した。
「あ」
リビングに戻ると、レオナール様に抱き上げられすっかり泣きやんだジルが、私を見て小さく声を上げた。恥ずかしそうにしながらも安心したジルの様子に、私は微笑む。
「喉が渇いたでしょう? レモネードを作ったから」
「あ、ありがとう……」
お礼を言いつつも、ジルはレモネードには手をつけないで、じっと私を見つめてくる。
「どうしたの?」
「あの、あのね、レオナールお父さんに聞いたの……」
いつの間にか呼び方が変わっている。
私が驚きに目を見開くと、ジルはしばらく言いにくそうにもじもじしていたが、やがて意を決したように言葉を続けた。
「お、お母さんって呼んでもいい?」
ジルはぎゅうっと目を閉じて、顔を真っ赤にしている。ふと視線を向けると、レオナール様はジルを下ろし、こくりと頷いた。
なら、私の答えは決まってる。
「もちろん、嬉しいわ」
「っ、お母さん!」
飛び付くように抱きついてきた小さな体を、ぎゅっと抱き締め返すと、ジルは幸せそうな笑い声を上げた。
うん、この小さくて愛しい存在が、こんなにも私を求めてくれるなら、やっぱり後悔なんてしないだろう。
二 お母さんになりました
ひとしきりジルを抱き締めて甘やかしたあと――。ジルが少し離れたソファでシドさんとお喋りしているのを横目で見ながら、私はちくちくと針仕事をしていた。
「おねむ?」
「んー」
目を擦り始めたジルに、私は針をしまいながら声をかける。もうだいぶ夜が更けてきたもの、眠いよね。
「ジルのお部屋にいこっか」
「やー」
あらあら、むずがりながら寄ってきたと思ったら抱きついてきた。眠いのもあいまって、ちょっと甘えんぼさんなのかな?
ふわふわの髪をそっと撫でると、甘えるように頭を押し付けてくる。
「どうしたの?」
「おかあさんといっしょがいいー」
まだ少し家事が残ってるんだけど、どうしよう?
できれば家事よりもジルを優先してあげたい。だけど、私はメイドでもあるしなぁ。レオナール様はどう思っているんだろう。
ソファで読書をしていたレオナール様を見たら、彼は小さく頷いた。
「後片付けとかなら、シドがやる」
「俺かよ! ……いや、やるけどさ」
あ、やるんだ。本当にいい人だよね、シドさん。そう思って見ていると、シドさんが肩を竦め、ひらひらと手を振る。
「嬢ちゃん、今日はちびっこと一緒に寝てやんな」
「はい。私の部屋でいいのでしょうか?」
訊ねながらもう一度レオナール様を見ると、先程と同様に頷いた。
「ん」
「わかりました。じゃあ、枕を持っておいでジル、一緒に寝よっか」
「うん!」
ぱあっと顔を輝かせたジルが、弾かれたように二階へ走っていった。
「ではシドさん、申し訳ありませんが、あとはお願いいたします」
「おう、任せとけ」
頭を下げた時、両手にしっかりと枕を抱え込んだジルがぱたぱたと戻ってきた。大きな瞳がキラキラ光っている。
ああもう、本当に可愛い、たった一日でめろめろだよ私。
「さ、お父さんとシドさんにも、おやすみなさいしましょうね」
「うん!」
ジルは、まずシドさんへおやすみなさいを言いつつ足にぎゅっと抱きついた。それからレオナール様にとことこ近付くと、こてんと首を傾げる。
「お父さん、だっこして?」
そんなおねだりをされたレオナール様は、微笑ましそうに目を細め、優しくジルを抱き上げた。
「お父さん、おやすみなさい!」
「ん。おやすみ」
「それでは私も失礼します。おやすみなさいませ」
「おやすみ」
ジルは頭を撫でてもらってから下ろされ、私に駆け寄った。そうしてジルと手を繋いで部屋を出る。だけど私の部屋に入った瞬間、あ、失敗したなって思った。
いや、トランクを置いただけで、荷解きをしてなかったんだよね。空気の入れ換えすらしてない。
「お母さん?」
「ごめんねジル、ちょっとお片付けでバタバタしちゃってもいい?」
「うん、おてつだいしたい!」
私が広げたトランクの中身を見ていたジルは、物珍しさですっかり眠気が醒めちゃったらしい。どうせ横で荷解きとかしてたら落ち着いて寝られないだろうし、とっとと片付けちゃいますか。
「ジル、クローゼットを開けてくれる?」
「はーい」
持ってきた服はそんなに多くないから、すぐに収納出来る。クローゼットの引き出しに服と下着をしまい込めば、あとはもう数えるくらいしか物がない。
小さな鏡とブラシに、数冊の本。レシピを書き留めたノートに、筆記用具と裁縫道具一式。それから、少しだけお化粧道具と装飾品。私が持参した荷物はこれだけ。
「きらきらー」
「こういうの好き?」
「うん!」
ジルが興味を示したのは、十六歳――この世界で婚姻の許される年の誕生日に母が贈ってくれた、銀細工のネックレスとイヤリングだった。私の名前にちなんで百合の花を模ったそれは、決して高価ではないけれど、とても大切な宝物。私が大人の女性になった証として贈ってくれたものだから。
「ジルも、いつかこういうの持ちたいなぁ」
「ふふ……じゃあ、約束しましょう」
「やくそく?」
「そう。ジルが大きくなって、立派なレディになったら、私が同じようなアクセサリーをあげる」
そう言ったら、ジルはきょとんと首を傾げた。それから、どうして? と、目を輝かせながら訊ねる。
「女の子は十六歳の誕生日に、お母さんからなにか装飾品を貰うの。そうすると、幸せになれるって言われているのよ」
「そうなの?」
「ええ。ジルのお母さんは私だから、その時は私がプレゼントをあげる」
「……うん!」
嬉しそうに顔を綻ばせたジルが可愛くて、私もつられて微笑む。
ああ、そうだ。私はお母さんになったのだから、ジルにヴェールも作ってあげなくちゃ。
この世界には、十六歳になった娘に装飾品を贈るだけでなく、いつか娘が嫁ぐ日のため、母親がヴェールを編む風習があるのだ。
本当は娘が生まれたその日からコツコツ作るべきものだけれど、私達母娘の始まりは今日だもの。
あと、新しい物、古い物、借りた物に青い物を、結婚式の時に持たせなくちゃ。これはサムシング・フォーという、花嫁が幸せになるためのおまじない。前世での慣習であって、この世界の慣習とは違うけど、幸運のおまじないをこれでもかってくらい用意しよう。
私が母として出来ることは、なんでもしてあげたい。
昨晩、部屋を全部片付けて空気の入れ替えを終えたあと、私はジルを抱き締めながら一緒に寝た。ぽかぽかあったかくって、ぐっすりでしたよ。
子供の体温って、どうしてこんなに心地いいんだろうね?
「うにゅん……」
朝、起床した私はなんだか可愛らしい寝言を零すジルにちょっと笑って、そっとベッドを抜け出した。
洗面器に水差しの水を注いで手早く顔を洗う。うん、頭がすっきりするね。ジルには冷たすぎるかもしれないし、あとでぬるま湯を用意してあげよう。
それからうなじの後ろで髪をお団子にする。これが一番楽なんだよね。緩めにコルセットを締めたあと、ブラウスを着て黒いスカートを穿き、大きな白いエプロンをつければ準備完了。私はいつも胸当て部分のないエプロンを着用している。どうしても動きが制限されちゃうから嫌いなのよ、あれ。
あとコルセットも嫌い。大人の女性の嗜みだって言われて装着はしているけど、内臓を痛めそうなほど苦しいし、緩く締めているだけ。そのせいで腰が太いんだけどさ。
さて、そろそろ朝ご飯の支度をしなくちゃ。
寝ているジルを起こさぬようにそーっと部屋を出て、キッチンへ向かう。
キッチンの流しには洗い物一つ残っておらず、生ゴミまで処理されていた。
「うわぁ、本当に片付いてる」
昨日はシドさんのお言葉につい甘えちゃったし、あとでなにかお礼をしなきゃ。
とりあえず、みんながすぐに朝ご飯を食べられるようにしとかないとね。レオナール様が何時に起きるのか聞き損ねたけど、早朝だからまだ大丈夫でしょう。
「朝だし、軽めにしようかな……」
ここは野菜スープとパンにスクランブルエッグが妥当かな。飲み物は、ジルには牛乳、大人には紅茶。さて、野菜スープの具はなにがいいかな。というか、どんな野菜があったっけ。
メニューについて悩んでいると、後ろからふいに声をかけられた。
「あれ、早いな」
「あ、シドさんおはようございます」
「おう、おはよう。もっとゆっくりしていてよかったのに」
「充分眠りましたし、いつもこれくらいの時間に起きてるので」
そう言いつつ、シドさんの手元を見る。シドさんは大きな籠を抱えていて、その中には採れたてっぽい瑞々しい野菜がどっさり入ってた。
「使うだろ?」
「はい、ありがとうございます」
シドさんはにかっと笑いつつ、私に籠を差し出す。そうそう、この世界の食べ物は、前世とほぼ同じなんだよね。名称も味も同じだから、とっても楽。
よし、今日のスープの具はニンジン、ピーマン、玉ねぎにしよう。千切りにすればさっと火が通るし、たくさん野菜が取れるものね。
メニューが決まっちゃえば、あとは手を動かすだけ。
約三十分後、私はスープをほぼ作り終えて、あとはスクランブルエッグを焼けば完了の状態にした。
「シドさん、レオナール様はいつ頃起こせばいいですか?」
「そろそろだと思うぜ。起こさなくても勝手に起きてくる」
「あら、じゃあジルを起こしてこなきゃ。一緒に朝ご飯が食べられなかったら、きっと悲しむわ」
ジルを起こして身支度をさせようと思い、お湯の入ったポットを持って足早に自室へ戻る。ジルはちょうど起きたところだったのか、目を擦りつつ寝台の上で上半身を起こしていた。
「おはよう、ジル」
「あ……お母さん、おはよう」
ジルは私を見て、ぽやんとした顔で笑う。可愛いなぁ。朝から癒されちゃう。
「そろそろレオナール様も起きてくるって。一緒に朝ご飯食べたいでしょう?」
「うん、食べたい」
素直に寝台から下りたジルの頭を撫でて、洗面器にお湯を入れる。それから水差しの水を注いでぬるま湯を作った。
「はい、お顔洗って」
「あったかーい」
顔を洗ったジルに、昨日作ったチュニックを着せる。もつれた髪をブラシで綺麗に整えて、最後に二つ結びにすれば美少女の完成。
「さ、行きましょうか」
「はーい」
手を繋いで部屋を出る。私達がリビングの前に着いたのと、レオナール様が廊下の反対側から歩いてきたのは、ほぼ同時だった。
「そうですか?」
いつの間にか、シドさんが隣で作業を眺めていた。
シドさんの買ってきた中に牛肉が少しあったので、思い切って全部ミンチにする。それから玉ねぎをみじん切りにして、皮を剥き小さく切ったジャガイモを茹で始めた。
「シドさん、苦手な食べ物はありますか?」
「あー、そもそも食事の必要はないが、食べるとなればなんでも食える。好みとしては甘いものが好きだ」
あれっ、使い魔さんって食事の必要がないものなのかな? 動物だし、食べると思ったのに。……まあ、いいか。
ミンチにした牛肉とみじん切りにした玉ねぎを、塩コショウでよく炒める間に、ジャガイモはフォークがすっと通るくらいになった。ザルにあけてボウルに移し、バターと塩コショウ、少しの牛乳と一緒によく潰す。大きなグラタン皿の一番下にさっき炒めたものを敷き、その上にマッシュポテトをみっちり詰めたら、仕上げまでほっとこう。
そうこうしているうちに鳥肉から水分が出てきたので、洗い流して、別の鍋で弱火で煮込み始める。灰汁が出たらすくい、それからニンジンと玉ねぎを入れた。その後、灰汁を取りつつひたすら煮込めばポトフの出来上がり。
煮込んでいる間にも、もうひと仕事。さっきのマッシュポテトの上に削ったチーズを満遍なく振りかける。これをオーブンに入れて、こんがり焼き色をつけたなんちゃってシェパーズパイを作るつもりだ。あとはパンを出せば充分だよね?
「……本当に手際がいいな。それに美味そうだ」
パイの下ごしらえを終え、ふうと一息ついたところで、シドさんがしみじみと言った。
「そうですか? 慣れてるからでしょうか」
実際、前世でも今でも、料理する機会は多かった。この世界の母さんが小さい料理屋を営んでいるおかげで、七歳くらいからお手伝いでキッチンに立ってたもの。
さて、そろそろパイをオーブンに入れてしまおう。
ああ、チーズの焼ける匂いとか、ポトフがくつくつ煮えてる音とか。料理中って本当に落ち着くなぁ……そして、さりげなく洗い物をしてくださっているシドさん、ありがとうございます。やらせてしまって、すみません。
「よし、出来上がり!」
「おー、うまそう!」
「シドさんの分も作ったので、よければ食べてくださいね」
お皿に盛りつけたものから、シドさんが次々運んでくれる。なんだか申し訳ない気持ちになるんだけど、いいのかな。雇い主の使い魔さんを私が使っちゃって。
「飯だぞー」
「ん」
「ご飯ー」
ああでも、リビングから聞こえるシドさんの声が楽しそうだし、いいか。もし駄目だったらレオナール様が教えてくれるだろう。
そうして最後に私の分も持っていくと、先程まではなかった子供用の椅子に、ジルが座っていた。
「どうしたんですか、この椅子」
私が驚いて訊ねると、レオナール様が少し得意気に答える。
「作った」
「あのね、ジルがご飯食べやすいようにって作ってくれたの」
なるほど、ジルがキッチンに来なかったのは、レオナール様に椅子を作ってもらっていたからか。
ジルは、先ほどと比べてずいぶん安心している様子だ。レオナール様もジルが喜ぶのを見て嬉しそうだし、二人の関係はだいぶよくなったみたいだね。
まぁ、レオナール様にはあとできっちりお説教をするけど。ジルをぐるぐる巻きにして監禁していた件は、うやむやにはしない。
「冷めないうちに食べようぜー」
「ん」
シドさんの言葉のあと、全員で食卓を囲み、夕食を食べ始める。メイドが雇い主と同じ食卓に着くのはどうだろうって考えたけど、レオナール様は私にジルの母親代わりを望んでいる。
家族ならやっぱり、ご飯は一緒がいいよね。
「おいしー!」
ジルはご飯をぱくぱくと食べつつ、幸せそうな表情を浮かべた。レオナール様は無言なものの、それなりにいい勢いで食べている。
けっこうな量を作ったから残るかも、という予想に反して、みんな完食してくれた。作った甲斐があるよね。
そうして食器をすべて流しに片付けて、コーヒーではなく、いい香りのする紅茶を淹れる。個人的にはコーヒーが好きなんだけど、この国では高価な輸入品で、滅多に手に入らないんだよね。
眠れなくなると困るので、ジルには温めた牛乳に蜂蜜を少し垂らしたものを出す。
「あまーい」
ミルクを飲んだジルが嬉しそうに笑う。無邪気で子供らしいその笑顔に、私もつられて微笑んだ。
「お腹、いっぱいになった?」
「なったー」
「じゃあ、これから私はレオナール様にお説教するね。もし私が怖かったら、シドさんにくっついてればいいわ」
うん、繰り返すけど、うやむやになんてさせないよ? 今までお説教しなかったのは、ジルのことを優先させただけの話。それに、あんなことをした理由を本人から説明させて、ジルに謝ってもらわなきゃ。
というわけで――
「レオナール様、お説教の時間です」
「……ん」
レオナール様は飲んでいた紅茶のカップを置いて、きちんと聞く姿勢になってくれた。意外と素直だよね、この方。普通、メイドが雇い主を叱るってありえないんだけど。
まぁ、自分でも反省しているのかな?
「まず初めに。私はジルがどういう生い立ちか、どういう経緯でレオナール様に引き取られたのかはわかりません」
「ん」
「だからこそ、今まで見たものだけで判断してのお説教です。いいですか?」
「わかってる」
私のあえて決め付けるような物言いに、レオナール様は気を悪くするでもなく頷いた。だけど、私は勢いを緩めずに言葉を続ける。
「私には魔法の知識がありませんので、どんな理由でジルを魔法陣から逃げられないようにしたのか、わかりません。それが魔法使いとしては当たり前の行為だったとしても、理解出来ないんです」
「……ん」
「だから、一人の子供に対してレオナール様がとった行動へのお説教です」
地下で見た、ジルの怯えていた様子。それを思い出しながら、びしりと指を突きつける。
「幼児監禁は、立派な犯罪です」
だって、あの状況はそうとしか言いようがないよね。
「いいですか、まず幼い子を薄暗い地下に一人ぼっちで閉じ込める時点で駄目です。もしジルがトラウマを持ってしまったらどうする気だったんですか」
「……ん」
「それに加えて、猿轡を噛ませてぐるぐる巻き? 悪意以外、感じられませんよ」
そう言うと、レオナール様はしょんぼりと俯く。だけど否定や言い訳は一切口にしなかった。
やっぱり、自分でも悪かったと思ってるんだね。うん、状況だけ抜き出してみると、完全に悪役だよ。
「しかも、どうしてそれが必要なのかをジルに説明していない。なんでそんなに勝手な行動をしちゃったんですか」
「……ごめん」
「謝る相手は私ではないでしょう?」
そう言って促すと、レオナール様はシドさんにぴったりくっついていたジルへ顔を向けた。
「ごめん。その力、守りたかった」
力、と言われてジルの顔が強張る。
でも、私は口を出さないで見守っていた。ここから先は、私が首を突っ込んでいい話ではない。
すると、レオナール様はそっとジルの頬に触れて――
「……辛かっただろう」
――ぽつりと言葉を零した。
なにを指して辛いと言っているのか、私にはわからない。だけどジルには理解出来たようで、大きな目から涙の粒を落とした。
「……う、わあぁぁん!」
手を伸ばして抱きついてきた小さな体を、レオナール様はしっかりと抱き締める。
泣きじゃくるジルの背中を優しく撫でて、何度も大丈夫だからと囁いていた。ジルを見つめる目はとても穏やかなのに、表情は今にも泣き出しそうだ。
きっと、二人が抱えている思いは、私には共有出来ないものなのだろう。それをほんの少しだけ、さびしいと感じる。
せめて母親代わりとして、泣き終わったあとのことを考えなきゃ。あったかいレモネードでも作って、私も抱き締めてあげよう。
そう思ってキッチンに向かい、作業していると、何故かシドさんが追いかけてきた。
「どうした?」
「あんなに泣き叫んでいたら、きっと喉が渇くだろうと思って」
「そうか」
私が絞ったレモン汁と蜂蜜を練っている様子をしばらく眺めていたシドさんは、ゆっくりと口を開く。
「……魔力をうまく制御出来ない子供は、暴走して周りの全てを破壊してしまう危険性がある。それを防ぐために、マスターは地下の魔法陣でちびっこの力を封じたんだ」
「まあ、状況を見た瞬間に想像はついてました」
「……でも、怒っていただろう?」
「ええ」
練ったものを一匙お湯に溶かせば、レモネードの出来上がり。多分ジルが泣きやむ頃には適温になる。
手を止めずに受け答えする私に、シドさんは不思議そうな顔をした。
「ちびっこが怖くないのか? 暴走するかもしれないのに」
シドさんの言っている意味がわからず、私は首を傾げた。
「怖いって、どういうことですか?」
「ちびっこが暴走すれば、人の命なんて簡単に奪える。そのすぐ傍にいるんだぞ?」
「……それのなにが恐ろしいんでしょうね」
お盆の上に四人分のレモネードを載せて持とうとしたら、脇からシドさんに奪われた。
「ありがとうございます」
「いや……」
「さっきの続きですが、相手が自らの意志で人を傷付けようとするなら怖いですよ? でも、ジルはそうじゃない。本当に怯えてるのは、ジル本人でしょう。私が怯える必要ないですよね」
私だって魔力の暴走による事故の悲惨さは知っている。強大な魔力を持つ子供を恐れるのも仕方がないことだろう。
だけど私は、前世で父子家庭の可哀相な子供という色眼鏡で見られた経験があるから、せめて自分は先入観を持たずにジルに接したいと思うんだ。
そうそう、前世の記憶があることは誰にも言うつもりがない。愛情いっぱいに育ててくれたこの世界の両親や、たった一人の兄にも。
ちくりと痛む胸に手を当てる。手のひらに感じる鼓動は、確かに私がここで生きている証なのに、心はいつも簡単に前世へと向かってしまう。
『――、大好きだよ』
ふいに蘇る懐かしい声。私の名を愛おしげに呼ぶ、柔らかくて温かな声に、そっと目を閉じる。
私は、それに応えることは出来ない。その名前で呼ばれていた存在は、もういないのだ。今の私はリリーだから。
「嬢ちゃん……?」
不思議そうな顔をしているシドさんに、ちょっとだけ笑ってみせた。
「なんでもありませんよ。さ、レモネードが冷めてしまう前に持って行きましょう」
「お、おう」
私が明るく促すと、シドさんはとまどいつつもお盆を持って歩き出した。
「あ」
リビングに戻ると、レオナール様に抱き上げられすっかり泣きやんだジルが、私を見て小さく声を上げた。恥ずかしそうにしながらも安心したジルの様子に、私は微笑む。
「喉が渇いたでしょう? レモネードを作ったから」
「あ、ありがとう……」
お礼を言いつつも、ジルはレモネードには手をつけないで、じっと私を見つめてくる。
「どうしたの?」
「あの、あのね、レオナールお父さんに聞いたの……」
いつの間にか呼び方が変わっている。
私が驚きに目を見開くと、ジルはしばらく言いにくそうにもじもじしていたが、やがて意を決したように言葉を続けた。
「お、お母さんって呼んでもいい?」
ジルはぎゅうっと目を閉じて、顔を真っ赤にしている。ふと視線を向けると、レオナール様はジルを下ろし、こくりと頷いた。
なら、私の答えは決まってる。
「もちろん、嬉しいわ」
「っ、お母さん!」
飛び付くように抱きついてきた小さな体を、ぎゅっと抱き締め返すと、ジルは幸せそうな笑い声を上げた。
うん、この小さくて愛しい存在が、こんなにも私を求めてくれるなら、やっぱり後悔なんてしないだろう。
二 お母さんになりました
ひとしきりジルを抱き締めて甘やかしたあと――。ジルが少し離れたソファでシドさんとお喋りしているのを横目で見ながら、私はちくちくと針仕事をしていた。
「おねむ?」
「んー」
目を擦り始めたジルに、私は針をしまいながら声をかける。もうだいぶ夜が更けてきたもの、眠いよね。
「ジルのお部屋にいこっか」
「やー」
あらあら、むずがりながら寄ってきたと思ったら抱きついてきた。眠いのもあいまって、ちょっと甘えんぼさんなのかな?
ふわふわの髪をそっと撫でると、甘えるように頭を押し付けてくる。
「どうしたの?」
「おかあさんといっしょがいいー」
まだ少し家事が残ってるんだけど、どうしよう?
できれば家事よりもジルを優先してあげたい。だけど、私はメイドでもあるしなぁ。レオナール様はどう思っているんだろう。
ソファで読書をしていたレオナール様を見たら、彼は小さく頷いた。
「後片付けとかなら、シドがやる」
「俺かよ! ……いや、やるけどさ」
あ、やるんだ。本当にいい人だよね、シドさん。そう思って見ていると、シドさんが肩を竦め、ひらひらと手を振る。
「嬢ちゃん、今日はちびっこと一緒に寝てやんな」
「はい。私の部屋でいいのでしょうか?」
訊ねながらもう一度レオナール様を見ると、先程と同様に頷いた。
「ん」
「わかりました。じゃあ、枕を持っておいでジル、一緒に寝よっか」
「うん!」
ぱあっと顔を輝かせたジルが、弾かれたように二階へ走っていった。
「ではシドさん、申し訳ありませんが、あとはお願いいたします」
「おう、任せとけ」
頭を下げた時、両手にしっかりと枕を抱え込んだジルがぱたぱたと戻ってきた。大きな瞳がキラキラ光っている。
ああもう、本当に可愛い、たった一日でめろめろだよ私。
「さ、お父さんとシドさんにも、おやすみなさいしましょうね」
「うん!」
ジルは、まずシドさんへおやすみなさいを言いつつ足にぎゅっと抱きついた。それからレオナール様にとことこ近付くと、こてんと首を傾げる。
「お父さん、だっこして?」
そんなおねだりをされたレオナール様は、微笑ましそうに目を細め、優しくジルを抱き上げた。
「お父さん、おやすみなさい!」
「ん。おやすみ」
「それでは私も失礼します。おやすみなさいませ」
「おやすみ」
ジルは頭を撫でてもらってから下ろされ、私に駆け寄った。そうしてジルと手を繋いで部屋を出る。だけど私の部屋に入った瞬間、あ、失敗したなって思った。
いや、トランクを置いただけで、荷解きをしてなかったんだよね。空気の入れ換えすらしてない。
「お母さん?」
「ごめんねジル、ちょっとお片付けでバタバタしちゃってもいい?」
「うん、おてつだいしたい!」
私が広げたトランクの中身を見ていたジルは、物珍しさですっかり眠気が醒めちゃったらしい。どうせ横で荷解きとかしてたら落ち着いて寝られないだろうし、とっとと片付けちゃいますか。
「ジル、クローゼットを開けてくれる?」
「はーい」
持ってきた服はそんなに多くないから、すぐに収納出来る。クローゼットの引き出しに服と下着をしまい込めば、あとはもう数えるくらいしか物がない。
小さな鏡とブラシに、数冊の本。レシピを書き留めたノートに、筆記用具と裁縫道具一式。それから、少しだけお化粧道具と装飾品。私が持参した荷物はこれだけ。
「きらきらー」
「こういうの好き?」
「うん!」
ジルが興味を示したのは、十六歳――この世界で婚姻の許される年の誕生日に母が贈ってくれた、銀細工のネックレスとイヤリングだった。私の名前にちなんで百合の花を模ったそれは、決して高価ではないけれど、とても大切な宝物。私が大人の女性になった証として贈ってくれたものだから。
「ジルも、いつかこういうの持ちたいなぁ」
「ふふ……じゃあ、約束しましょう」
「やくそく?」
「そう。ジルが大きくなって、立派なレディになったら、私が同じようなアクセサリーをあげる」
そう言ったら、ジルはきょとんと首を傾げた。それから、どうして? と、目を輝かせながら訊ねる。
「女の子は十六歳の誕生日に、お母さんからなにか装飾品を貰うの。そうすると、幸せになれるって言われているのよ」
「そうなの?」
「ええ。ジルのお母さんは私だから、その時は私がプレゼントをあげる」
「……うん!」
嬉しそうに顔を綻ばせたジルが可愛くて、私もつられて微笑む。
ああ、そうだ。私はお母さんになったのだから、ジルにヴェールも作ってあげなくちゃ。
この世界には、十六歳になった娘に装飾品を贈るだけでなく、いつか娘が嫁ぐ日のため、母親がヴェールを編む風習があるのだ。
本当は娘が生まれたその日からコツコツ作るべきものだけれど、私達母娘の始まりは今日だもの。
あと、新しい物、古い物、借りた物に青い物を、結婚式の時に持たせなくちゃ。これはサムシング・フォーという、花嫁が幸せになるためのおまじない。前世での慣習であって、この世界の慣習とは違うけど、幸運のおまじないをこれでもかってくらい用意しよう。
私が母として出来ることは、なんでもしてあげたい。
昨晩、部屋を全部片付けて空気の入れ替えを終えたあと、私はジルを抱き締めながら一緒に寝た。ぽかぽかあったかくって、ぐっすりでしたよ。
子供の体温って、どうしてこんなに心地いいんだろうね?
「うにゅん……」
朝、起床した私はなんだか可愛らしい寝言を零すジルにちょっと笑って、そっとベッドを抜け出した。
洗面器に水差しの水を注いで手早く顔を洗う。うん、頭がすっきりするね。ジルには冷たすぎるかもしれないし、あとでぬるま湯を用意してあげよう。
それからうなじの後ろで髪をお団子にする。これが一番楽なんだよね。緩めにコルセットを締めたあと、ブラウスを着て黒いスカートを穿き、大きな白いエプロンをつければ準備完了。私はいつも胸当て部分のないエプロンを着用している。どうしても動きが制限されちゃうから嫌いなのよ、あれ。
あとコルセットも嫌い。大人の女性の嗜みだって言われて装着はしているけど、内臓を痛めそうなほど苦しいし、緩く締めているだけ。そのせいで腰が太いんだけどさ。
さて、そろそろ朝ご飯の支度をしなくちゃ。
寝ているジルを起こさぬようにそーっと部屋を出て、キッチンへ向かう。
キッチンの流しには洗い物一つ残っておらず、生ゴミまで処理されていた。
「うわぁ、本当に片付いてる」
昨日はシドさんのお言葉につい甘えちゃったし、あとでなにかお礼をしなきゃ。
とりあえず、みんながすぐに朝ご飯を食べられるようにしとかないとね。レオナール様が何時に起きるのか聞き損ねたけど、早朝だからまだ大丈夫でしょう。
「朝だし、軽めにしようかな……」
ここは野菜スープとパンにスクランブルエッグが妥当かな。飲み物は、ジルには牛乳、大人には紅茶。さて、野菜スープの具はなにがいいかな。というか、どんな野菜があったっけ。
メニューについて悩んでいると、後ろからふいに声をかけられた。
「あれ、早いな」
「あ、シドさんおはようございます」
「おう、おはよう。もっとゆっくりしていてよかったのに」
「充分眠りましたし、いつもこれくらいの時間に起きてるので」
そう言いつつ、シドさんの手元を見る。シドさんは大きな籠を抱えていて、その中には採れたてっぽい瑞々しい野菜がどっさり入ってた。
「使うだろ?」
「はい、ありがとうございます」
シドさんはにかっと笑いつつ、私に籠を差し出す。そうそう、この世界の食べ物は、前世とほぼ同じなんだよね。名称も味も同じだから、とっても楽。
よし、今日のスープの具はニンジン、ピーマン、玉ねぎにしよう。千切りにすればさっと火が通るし、たくさん野菜が取れるものね。
メニューが決まっちゃえば、あとは手を動かすだけ。
約三十分後、私はスープをほぼ作り終えて、あとはスクランブルエッグを焼けば完了の状態にした。
「シドさん、レオナール様はいつ頃起こせばいいですか?」
「そろそろだと思うぜ。起こさなくても勝手に起きてくる」
「あら、じゃあジルを起こしてこなきゃ。一緒に朝ご飯が食べられなかったら、きっと悲しむわ」
ジルを起こして身支度をさせようと思い、お湯の入ったポットを持って足早に自室へ戻る。ジルはちょうど起きたところだったのか、目を擦りつつ寝台の上で上半身を起こしていた。
「おはよう、ジル」
「あ……お母さん、おはよう」
ジルは私を見て、ぽやんとした顔で笑う。可愛いなぁ。朝から癒されちゃう。
「そろそろレオナール様も起きてくるって。一緒に朝ご飯食べたいでしょう?」
「うん、食べたい」
素直に寝台から下りたジルの頭を撫でて、洗面器にお湯を入れる。それから水差しの水を注いでぬるま湯を作った。
「はい、お顔洗って」
「あったかーい」
顔を洗ったジルに、昨日作ったチュニックを着せる。もつれた髪をブラシで綺麗に整えて、最後に二つ結びにすれば美少女の完成。
「さ、行きましょうか」
「はーい」
手を繋いで部屋を出る。私達がリビングの前に着いたのと、レオナール様が廊下の反対側から歩いてきたのは、ほぼ同時だった。
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