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第二章

3. 頭痛のタネ

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「頭痛ぇ……」

 二日酔いである。
 公館の廊下で他人の目線がないのを確認しひっそりと唸るのは、エリックだ。昨晩の痛飲が効いている。

 酒の威力に惨敗した体はだるく、食欲を要求しない胃袋は、油断すると逆流しようとエリックを苦しめる。
 当然、朝食は抜いた。というより受け付けなかった。
 体は絶不調。しかし、二日酔いごときで仕事を休むわけにはいかない。

 ────とは言うものの、

「ちょっと、生理現象が」

 と、執務室でクリストフェルの警護中、ダニエルに耳打ちし抜け出すこと数回。現在の昼休憩に至るまで、何度目かの生理現象を口実に抜け出しては、体中を侵しているだろう酒を薄めようと、大量の水を飲んでしのいだ。

 一緒に酒を飲んだはずのダニエルは、通常通り平然とした顔で任務にあたっていただけに、エリックとしては情けない。
 ダニエルの忠告を無視して飲みすぎたための自業自得なのだが、生憎あいにくと忠告されたことさえ記憶にはなく、朝、ダニエルの部屋で叩き起こされて初めて、自分の失態を知ったほどだった。

 昨日はあまりにも飲みすぎた。

 何だかやるせなくて、クリストフェルの気持ちを思えば切なくて……。

 まるで自分が失恋したかのように、へこみながら飲んだ酒は、もはや自棄酒に近い。

『体調が悪いのか?』と、クリストフェルにも気にかけられ、二日酔いだと告げるには決まり悪くて『大丈夫っす!』と元気を装ったが、顔色を見れば一目瞭然だっただろう。

『程々にしろよ』

 そう言われたことからも、クリストフェルには酒が原因だとバレているに違いなかった。

 せめて言い訳を、とも思うが言える内容ではないことは、今の働かない頭でも判断できる。言えるはずがない。

『殿下の代わりに失恋して自棄酒したっす』

 偽失恋っす! そんな馬鹿なこと、どの面下げて言えようか。告白もしていないクリストフェルなのに、勝手に振られる結末に導かれては、可哀想にも程がある。
 それ以前に、クリストフェルがクリスティーナに好意を寄せているのか確認していない以上、あくまでエリックによる客観的な憶測に過ぎない、無責任な『勘』だ。


 けどよー、俺の勘は外れていないと思うんだよなぁ。


 ダニエルに諭され、一晩経った今は、昨夜ほどの感情の乱れはないが、この勘だけは、未だエリックの心の中で動かず居座っていた。

 そして希望も……。

 クリストフェルとクリスティーナが結ばれる未来があればいい、と微かな望みを捨てきれない。

 まぁ、勝手に希望を持つくらい許されんだろ。まずは、この二日酔いをやっつけるのが先決だ。

 エリックは、本来の目的を果たすべく、重い体を引きずるように、公館の外へ向かった。

 目指すは、公館の正門を抜けた先にある、薬局室だ。隣には薬草園があり、二日酔いに効く薬を処方してくれる。それだけじゃない。そこでは、薬草を使った料理の店内飲食もでき、中でもスープは二日酔いに効果覿面こうかてきめんだと評判だ。

 午後からは訓練もあるために、流石に昼食まで抜いては体力が保たない。しかしながら、食堂での質より量を重視した料理は、まだエリックにはきつい。口には苦いが胃に優しいスープで何とか乗り切ろうと、クリストフェルに断りを入れての一人別行動であった。

 過酷な訓練を乗り切らなければならないし、クリストフェルからの頼まれごともやっつけなければならない。シルビアが来た時に、連れて行ける場所や店を探さなければならない、例のアレだ。二日酔いになっている場合ではないのだ。

 はぁー、と嘆きが混じった溜息を落とす。

「女性を連れて行くに相応しい店ねぇ」

 何件かは知ってはいるが、三日間の休み期間中滞在するのなら、多めに選出しとくべきだろう。
 となると、エリックの知っている店だけでは足らない。誰かからの、出来れば女性からの情報が欲しいところだ。

 ……けど、だりぃよなぁ。つーか、滞在中ずっーと、薬局室での薬草料理でいいんじゃね? 味は問題あっけど体にもいいしよ。殿下も適当に探しとけって言ってたしな。

 鬱憤を晴らすように胸の内で吐き出してしまうのは、『勘』の存在が居座り、気持ちを持て余しているせいだ。

 外の陽射しを浴びながら、そんな投げやりな思考を彷徨さまよわてせいた丁度その時だった。エリックとは逆に、こちらに向かって正門を潜るリリーを見つけた。

「リリーちゃーん!」

 自分の叫び声が脳天に突き刺さる。二日酔いの頭にガンガンと響くが、痛みと笑顔とでない混ぜになった歪な顔で、それでも右手を目一杯に振った。

 近付くほどに、リリーの顔も歪になっているのが分かる。

 ──馴れ馴れしく呼ぶな。

 その顔にはそう書いてある。

 軽蔑や嫌悪。あらゆる負の感情が、深い眉間の皺や、細められた双眸に刻まれているようだった。
 こんな顔を見るのも、もう慣れっこだ。会うたびに同じ顔をされる。

 これはクリストフェルによって、危険人物扱いされたための弊害だ。リリーの中でのエリックは、最低の男という不名誉な立場を確実なものにしたらしい。

 だが、嫌悪も露わにする気の強さは嫌いじゃない。寧ろテンションが上がる。この程度で怯んでは、女好きの名が廃るというものだ。

 そんな顔をしたところで俺が遠慮すると思ったら大間違い。落とせなさそうな女だからこそ、落としたくなるのが男なんだぜ? とエリックの本能が疼く。

 しかし──。

 相手はクリスティーナの侍女。下手なことをすれば、クリスティーナを大切に想っているクリストフェルが黙っていないだろう。怒って雷を落とされかねない。

 ──いや待て。

 雷なら、クリスティーナから正真正銘、本物の雷をぶち落とされるのではないか。

 稲妻が頭上に撃ち落とされるのを想像したエリックは、ブルっと体を震わせた。


「リリーちゃん、買い物?」

 本能を想像の中のクリスティーナに粉砕されたエリックは、下心を封印し、手が届く距離まで来たリリーに話しかける。
 話し掛けるな、と全身で訴えてくるが、そこは気付かないふりだ。

 丁度良い。お勧めのデートコースや、店の情報がもらえるかもしれない。

「……どうも」

 立ち塞ぐように立つエリックの前でリリーが足を止める。
 エリックの問い掛けをまるで無視の素っ気なさ。苦笑いするしかない。

「リリーちゃんに、訊きたいことがあってさ。ちょっといい?」

 エリックは返事を待たずに、買い物をしてきたのだろうリリーの手にある荷袋を取り上げた。
 拒絶や逃亡を防ぐための先手必勝だ。ついでに、細い手首を掴んで歩き出せば、

「ちょっと何するんですか! 離して下さい!」

 抗議する高い声がガンガンと頭に響き、顔が極端に歪むが手を離しはしなかった。

 クリストフェルに関する話題を他の者たちに訊かせるわけにはいかない。正面玄関から正門までのアプローチは人が行き交っている。どこで耳をそばたてているか分からない。

 エリックは、リリーの手を引き建物の影へと回り込んだ。公館の周りを囲んでいる塀の前には、大きな木々が立ち並んでいる。

 人影がないか辺りを見回し、ここなら話し声も聞こえないだろうと、葉が茂る一本の木に狙いを定めて足を止め、ようやくリリーの手を離した。

「ごめんねぇ、リリーちゃん」
「何なんですか!」

 リリーの声遣いから察するに、不機嫌の度合いが色濃くなっている。このままじゃ逃げかねられない。エリックは、物質ものじちとばかりに、念の為に荷袋をリリーの手の届かない上方へと持ち上げておく。

「いやー、他の奴等に訊かれんのはまずいっしょ」

「…………で、姫様のことで何か訊きたいことでも?」

 渋々ながらも諦めた様子のリリーだが、無愛想に聞き返された内容は、エリックが意図していたものとは別のものだった。

 確かに、リリーに訊ねる事柄なら、クリスティーナに関することだと思うのが普通だ。

 直ぐに訂正して本題に入ろうとした刹那。しかし、別の思考がエリックの頭を掠めた。

 ──あの姫さんの噂を訊いてみるって、どうよ。

 クリスティーナの傍にいる者が、噂の存在を把握しているのか気になる。把握しているのなら、何故、そんな噂を生み出すような発言をしたのかも。

 クリスティーナ本人に訊けるものでもないし、内容が内容だけに訊ねられたリリーは気を悪くするかもしれないが、これは噂を知る絶好の機会だ。

「あのさぁ、リリーちゃん。ちょっと小耳に挟んだんだけどよ……姫さんの噂」

 途端にリリーの顔色が変わる。
 それだけで、噂は把握していることが分かる。

 エリックは、自分が口にした噂とリリーの思い浮かべた噂に相違ないかを確認するために、直球で訊いた。

「姫さんは、なんであんな発言を?」

 リリーは視線を足元に落とし、何も言わない。
 無言ということは、「あんな発言」が何を指すのか通じた証で、互いに思う「噂」が同一であると示している。

 言葉を足さずに黙って待っていたエリックに、暫くして顔を上げたリリーが、重い口を開いた。

「……その噂、クリストフェル殿下もご存知なんですか?」

 おぅ、俺が喋った。と言ってしまえば、エリックを見る目が、最低男から挽回できないほどの領域まで突き落とされそうな気がして、頷くだけに留める。

「そうですか、殿下も……」

 荷物を持ち上げていた手をおろし、悲しげに顔を伏せるリリーに慌てて言う。

「けど、殿下は気にしてねぇっつーか、姫さんを信じてるっつーか。理由があって意図的に言ったんだろうって。姫さんは、人を徒に傷つけたりしないとも言ってた」

 リリーの顔がパッと上がる。その顔には安堵が広がっていて「良かった」と、危うく聞き逃しそうな声の呟きが落ちた。

 エリックの質問には、何の答えも返ってきてはいない。逆に質問返しに合っただけで、真相は何一つ分からないままだ。

 だが、リリーの「良かった」は、きっとクリスティーナが誤解されなくて良かった、という意味だ。

 クリストフェルが噂を真に受けていないと知り、分かってくれる人がいたことに、心底安心しているように見える。

 クリストフェルの言う通りだったということだろう。何らかの理由と意図があって、クリスティーナはそうするしかなかったに違いない。

 これ以上は訊けない。

 呟いたきり何も言おうとはしないリリーに、問い詰める気にはなれなかった。
 ここまでリリーが安堵するのは、それまでの歯痒さや悔しさの裏返しだ。見守るしか出来なかったであろうリリーの気持ちが痛いほど伝わってくる。

 第三者が首を突っ込むのは間違いだった、と己の軽率さを反省しながら、この雰囲気を打破すべく、本来の目的に流れを戻す。

「実はさ、聞きたい本命はこっちなんだけど、どっか飯喰うのにお勧めの店とかって知らねぇ?」

「お店?」

「そうそう、女の子を連れて行ける店。あ、デートに良さげな場所も知ってたら教えてくれると助かる。ま、適当でいいんだけどよ」

 リリーの目が冷ややかなものに変わった。

 あ、勘違いされた。女好きな俺が、女のために調べてるんだと思われてる。しかも、付け足した言葉は、適当、だ。俺が言ったんじゃねぇのに。

「違ぇから! 俺じゃなく殿下! 殿下の彼女が連休中に来るっつーから、それで!」

「え!」と、リリーから驚きの声が上がるが、それだけじゃなかった。

「ホントっ! フェルの恋人が来るの?」

 突然、割って入ってきた第三の声に、

「うわっ!」

 油断していたエリックこそが驚愕の声を上げる。

 数本隔てた木の後ろから現れたのは、瞳を爛々と輝かせたクリスティーナで……。

「な、な、何で姫さんが……」
「上から二人の姿を見つけたから」

 クリスティーナは、公館の上部を指差す。

 誰も付添いがいないところから察するに、エリック達を見つけて、魔法を使って移動してきたのだろう。

 エリック達は、公館西側に隠れるように居たのだが、『しまった、姫さんの執務室の窓から丸見えの位置だったか』と内心悔やむも、もう遅い。

「フェルは、さぞ大喜びでしょうね。分かったわ、エリック。私に任せておいて。食事から何から何まで、取っておきのデートコースを計画してみせるわ!」

 やべぇ、どこから突っ込んで良いか分かんねぇ。
 殿下は喜んでるように見えねぇし、寧ろ姫さんの方が喜んでるし。しかも、すげぇ張りきっちゃってるんすけど! つーか、どこから話を訊かれてた!?

 ともあれ、もしもエリックが抱いている『勘』が正しかったとしたら、この状況は、クリストフェルにはむごい。
 好きな女から、別の女のためのデートコースを提供されるなんて、酷すぎて泣けてくる。

「いやいやいや、姫さんの手を煩わせるわけにはいかないっすよ」

 ここは何としても阻止だ。断固阻止するしかない。

「遠慮なんて要らないわよ、エリック。フェルのためだもの、ひと肌脱いじゃうわ!」

 脱がないでいいっす、姫さんっ!

「本当に大丈夫っす、俺が探すんで」 
「益々、忙しくなるわね」

 ……って訊いちゃいねぇ。

 項垂れそうになるのを堪えながら、クリストフェルとクリスティーナに密かな希望を持つエリックは、探るようにクリスティーナを見た。
 クリストフェルの恋人が来ると訊いて、僅かにでも嫉妬の色が浮かんでやしないかと。

「これは優先順位をあげて取り掛からないといけないわね! もう私までワクワクしちゃう」

 ────ダニエルさん。残念ながら、ダニエルさんの見立ては間違ってなかったようっす。


 エリックの頭痛は激しさを増した。これは二日酔いのせいなのか、はたまた、希望の芽が摘まれたせいなのか。

 どこまでも我が道を激走するクリスティーナは、満面に喜色を湛えている。
 そこからは、幼馴染以上の何かは見つけられず、嫉妬の一欠片さえも探し出すことは不可能だった。


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