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第一章

11. 夏の日の残像①

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 『あなたがクリストフェルね。私はクリスティーナ、あなたより一歳だけ年下よ。私のことはティナって呼んでね!  私もフェルって呼んでもいい?』


 ──ああ、これは夢だ。


 もう手を伸ばしても届かないと思っていた、過ぎし日の夏の想い出。

 久しぶりにクリスティーナと会ったから、こんな夢を見るのだろうか。それとも願望がそうせさるのか。いずれにせよ、ずっと見ていたい。覚めないでほしい。

 微睡みの狭間に聞こえる舌ったらずな甘い声に誘われるように、クリストフェルの意識は、完全に夢の中へと落ちていった。

 もう一度、会いたい。十一年前の自分たちに────。


 *


 お人形さんみたいだ。いや、そこら辺のお人形さんなんかより、ずっとずっと可愛い。
 青みがかった綺麗なグリーンの瞳なんて、宝石のようにキラキラしていて、ずっと見ていても厭(あ)きないかもしれない。

 ヴァスミル国王陛下への緊張に包まれた挨拶も終わって、案内された部屋の中。具合が悪いのか、広いベッドに凭(もた)れるように座る王妃殿下の前に、その可愛い女の子はいた。

「ねぇねぇ、おーい。私の話聞いてる?」

 クリスティーナと名乗った女の子は、いつの間にか僕のそばにいて、目の前で手をヒラヒラさせていた。

 しまった。ついぼっーとしてしまった。こんなだから、いつも父上に叱られてしまうんだ。

 慌てて片膝を床につき、右手を胸に宛てがえ頭を垂れると、クリスティーナのクスクスと笑う声が聞こえてくる。

「し、失礼しました。アデイン国第三王子クリストフェルです。この度は、お招き頂きありがとうございます」

「よく来てくれたわね。会えるのをティナも私も楽しみにしていたのよ。さあ、堅苦しい挨拶は終わりにして、頭を上げて顔をよく見せてちょうだい?」

 優しく声をかけてくれたのは、王妃殿下だ。

「私もティナも、フェルって呼ばせてもらってもよいかしら?」

「はい」

「ヴァスミルで楽しい思い出を沢山作っていってね。子供はね、遊べる時は思い切り遊ばなくちゃ駄目なのよ?  フェルにとって、この夏が素敵なものになることを願っているわ」

「はい、ありがとうございます」

 柔らかく微笑む王妃殿下はとても綺麗で、クリスティーナの目元や口元は、王妃殿下にそっくりだ。クリスティーナの方が、ほっぺがぷっくらとしているから可愛いらしいけれど、大人になったら王妃殿下のように、美しい女の人になるのかもしれない。

 僕と王妃殿下のやり取りが終わると、付き添い役で一緒に来ている、セルとオルヴァーも続けて挨拶をした。

 王妃殿下は、この可愛い子が男の子みたいにとても活発だから、迷惑をかけるかもしれない。そんなことを二人に話している。

 こんな可愛い子が男の子みたい?  本当に?

 信じられなくてクリスティーナを見れば、ずっと僕を見ていたのか、大きな瞳とぶつかる。

「さあ、フェル。早速、私と遊びましょう! じいや、オルヴァー。フェルを連れてくわね」

 言うなりクリスティーナの手が僕の腕を掴んだ。

 え、いきなり何なの?  

 凄い力で引きずられ、助けを求めるようにセルやオルヴァーを振り返れば、二人とも口をあんぐりと開けているだけで、まるで役に立たない。

 というか、クリスティーナが言った『じいや』ってセルのこと?  確かにセルは、白髪頭で髭も真っ白のおじいちゃんだけど、君とは初対面でしょ?  なのに、いきなりの『じいや』呼び?

 そんなことを考えているうちに、僕は何故か森の中にいて、ポニーの上に乗せられていた。

 前に座らされた僕の背後から、腰に回されるクリスティーナの左手。右手は手綱を掴んでいて、これじゃ男の僕の方が守られているみたいで、屈辱的で格好悪い。

 ──常に男らしくいろ。死すらも恐れない強い男であれ。

 口癖のようにいう父上の声が聞こえたような気がして、後ろを向き抗議しようとした、その時。

「行くわよっ!」

 声高に叫ばれ、突如としてポニーが駆け出した。

 瞬く間にスピードが加速し、物凄い勢いで風を斬っていく。

 騎馬訓練を怠ったことはないけれど、そんなものとは比べられないほどの速さ。こんなポニーなんて知らない!

 右へ左へと完璧な手綱捌きで木を避けるけれど、スピードは全く落ちない。どころか、また速くなったんじゃ……。

「っ!」

 体験したことのない危機感にせり上がりそうになる悲鳴を、寸でのところで歯を食いしばり堪える。

 一体、こんなのがいつまで続くのか。いつまで悲鳴を飲み込み堪えられるのか。いよいよ限界も近いと思った時、目の前の景色が突然開けたのが分かった。

 崖だ!

 この先に木がないのは当然だった。崖に切り取られたようにある森の終着点。そこにあるのは、どこまでも広がる空と、ここからは見えないけれど、覗けば遥か下に景色があるのだろうと想像できて、『このままだと落ちる』と堪らず僕は目を閉じた──。

 …………あれ。

 崖から落下していく感覚がない。
 斬るような風も止んでいる。撫でるような爽やかな風が通りすぎていくだけだ。

 恐る恐る目を開ければ、ビクリと体が跳ねた。
 真っ先に目に飛び込んできたのは、後ろから僕を覗きこむクリスティーナの顔で、真正面の景色は、切り取られた森があるだけの変わらないまま。広がる空も変わらない。ポニーの足元も確認すれば、崖の一歩手前で止まっていて、小石だけが崖を転げ落ちていく恐怖を誘う音が聞こえた。

 益々体に緊張が走った。少しでも動けば落下してしまいそうだ。

「うーん、駄目か」

 そんな恐怖と戦っている僕を見て、クリスティーナが唸っている。

「よし、次行こう!」

 何が駄目で、何が次なのか。それを訊く前に今度は山の斜面に立たされていた。緊張でガチガチになった体は、ポニーから降りることも出来なかったはずなのに。

「どうして、いつの間に……」
「私、魔法が得意なの」

 自覚はなく零れ落ちていたらしい言葉に、クリスティーナがウィンクをしてみせる。

 つまり、魔法が得意なクリスティーナに、瞬間移動させられたらしい、ということは分かった。多分、あのポニーの異常な速さも魔法だ。

 でも、それ以上を考える暇もなく、『次』はやってきて──。




「えー、まだ駄目!?」

 待ったなしで『次』に巻き込まれた僕の足は、地上に着いても踏ん張るのが精一杯で、力を抜けばへたりこみそうだった。

 クリスティーナの『次』は、山の中を、多分魔法で操っただろうロープで、木から木を渡るという大技だった。その内何回かは、地上が反転していたから空中回転していたのだと思う。

 こんな乱暴な遊びに付き合わされているというのに、『えー、まだ駄目!?』と言うクリスティーナは、僕が声を上げて怖がらないのが不服なのか、更に丘からシーツで駆け下りるという次の策に打って出た。

 だけど、立て続けの乱暴な遊びは流石に限界で、あり得ないスピードで斜面を駆け下り、更には大きなコブに乗り上げ、そのまま宙に放り出されたところで、僕の意識は一瞬途切れた。


「フェル?  フェル大丈夫?」

 誰かが呼ぶ声に目を開ければ、探るように僕を窺うクリスティーナの顔があって、ぼっーと見ていると、段々と視界が滲んでくる。

 もしかして泣いてるから?  だから、滲んで見えるの?

 まだ状況が分からない中、涙を浮かべてしまっているのかもしれないと焦り、それだけは駄目だと急いで目尻を拳で拭った。

「フェル?  これは生理的な現象で涙が出ただけよ?  あれだけのスピードで駆け抜けたんだもの、目が乾くのを保護するために出た涙よ。だから泣いてもいいの。誰もフェルを叱ったりしないわ」

 僕は大きな木の下に座らされていて、合わせるようにしゃがみこんんでいるクリスティーナの顔は、今日初めて見る真剣な眼差しで、何だか口調も大人っぽかった。

「私もね、本当は泣いちゃいけないの」
「……どうして?」

 思っても見なかった話に、思わず聞き返してしまう。

「感情を乱すと魔力暴走するかもしれないから。でもね、我慢しなくていいのよって。泣きたい時は一杯泣きなさいって、そうしないと心が壊れちゃうんだって。お母様がそう言ってたわ。だからね、悲しい時は、結界と魔力を吸収する魔法がかけられている部屋で、一人で思い切り泣くの」

 僕よりも年下の女の子が、たった一人で?

「いっぱい泣いたあとはね、お腹が空くの。その後に食べる苺とケーキはとっても美味しいのよ?  それでね、また頑張ろうって思うんだぁ」

 だから、フェルも泣いていいのよ?  って続けたクリスティーナに、否定するように首を振る。

「僕は男だから、そんなことは許されない。父上に叱られる」

 自分の情けない声が嫌になる。そんな僕とは違って、クリスティーナが声を強めた。

「そんなもの、アデインの国王陛下が間違ってるわ!」

 驚いて目を見開く。いくら王女でも他国の国王を否定するのは危険なことだ。
 なのに、クリスティーナは止めようとはしなかった。

「絶対に間違ってる。フェルの心を守るのが一番大事だもの。きっと……お祖父様も心配してるわ」

 驚きで胸が詰まる。もしかして──もしかして知ってるの?

「誰も見てないわ。私にも見えない。だから泣いても大丈夫」

 そう言ったクリスティーナは、膝立ちになって僕の頭をお腹に抱え込んだ。

 柔らかくて温かくて、クリスティーナに包み込まれながら、『ああ、そうか』と思う。生理的な涙だって言ってたけど、わざとそう仕向けたのかもしれない。僕が泣けないから、それを知ってたから、だから僕が泣けるきっかけを作るために、あんな乱暴な遊びを……。

 そう思ったら我慢出来なかった。胸の奥が苦しくなって、今にも喉を突き破りそうだった。

 いつだって僕の頭のどこかには、父上の声がこだましている。

『おまえは、いざとなったら二人の兄の盾になれ。おまえの命を捨ててでも守れ』

『軟弱な男など必要ない』

 そして、そんな僕を守ってくれていたのが大好きなお祖父様だった。

『死ぬのを恐れぬのが強さじゃないぞ、フェルよ。おまえは心優しい良い子だ。心優しくいられるのも、人としての強さの一つだ。そんな優しいおまえが居なくなったら儂は悲しい』

 でも、僕がいなくなったら悲しんでくれるはずのお祖父様は、三ヶ月前に死んてしまった。

「……いないんだ、もう。僕が死んでも悲しんでくれる人は、もういない」

「じいややオルヴァーが悲しむわ。それに私も。悲しくて悲しくて場所も考えずに、きっと泣いちゃう。そんなことになったら、私の魔力暴走で、アデインなんて簡単に滅ぼしちゃうんだから」

 言ってることは過激なのに、僕の頭を撫でる小さな手は、堪らなく優しかった。

 かつて、何度も僕の頭を撫でてくれた、お祖父様の大きくてゴツゴツとした手。それとはまるで違う感触だけれど、そこから伝わってくるあったかいものは同じで……、僕は我慢出来ずに、お祖父様が亡くなってから初めて声を上げて泣いた。

 泣いて泣いて、声が枯れるまで泣いて。その間ずっと、小さな手が僕の頭から離れることはなかった。

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