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71. 喪失-2
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「来いよ」
有無も言わさず、奈央の手を掴み力任せに引く。
「ベッドはあっちだけど?」
「知ってる」
「寝室、行かないの?」
「あぁ」
掴んだ手はそのままにソファーに座らせると、俺も並んで腰を下ろした。
「別に私は此処でもいいけど」
「……」
「やるならさっさとやってよ」
「おまえさ、本気で俺を怒らせたいの?」
「早くやってって言ってるだけじゃない」
「ヤるとか簡単に言うな。女だろうがっ!」
そう言ってパチンと額を指で弾けば、俺の行動が読めないせいか、それとも痛かったのか、奈央は眉間に皺を深く刻んだ。
「頭も正常に働かない、ボロボロになってる女を抱く趣味はねぇんだよ」
「じゃあ、何がしたいのよ」
「言ったろ。教えてやるって」
握った手を引っ張るようにして、奈央の左腕を真っ直ぐに伸ばすと、人差し指でそれを差した。
「これ、覚えてるか?」
「……なによ」
二の腕の内側に出来た小さい傷。
海に行く時に奈央が教えてくれた、普段は服で隠れて見えなければ、見ても目立たないほどの薄い傷跡。
「この傷な、奈央が三歳の時、親父さんと花火をやってる時に出来たものだ。小さかったから、覚えてなくても無理ないけどな 」
奈央は無言でその傷を見ている。
「親父さんが目を離した隙に奈央が花火を振り回して、火種がここに当たったらしい。火がついたように泣き続ける奈央を、急いで病院に運んだそうだ。幸いにも傷自体は大したことなかったけど、皮膚の柔らかい部分だったから、痕が残るって言われて……。自分の不注意で女の子なのに傷を残してしまったって、後悔してもしきれなかったって……」
「……」
「でな?」
そこまで言うと、落ちたままのシャツを取るために立ち上がる。拾い上げてきたたシャツを羽織らせれば、奈央は信じられないものでも見るような目を寄越した。
「おまえな、抱く気はねぇって言ってんだろ」
「……」
「おまえの身体目当てなら今までだっていくらでも襲うチャンスはあったのに、そうしなかった俺の気持ちも少しは分かれ」
「……」
「とは言ってもだな、いくら生き地獄には慣れてる俺とは言えども刺激が強すぎる。頼むから早く着てくれ」
「……馬鹿みたい」と、吐息混じりの悪態を背に受けながら、今度は酔いを醒まさせる為に、水を取りにキッチンへと向かった。
「着たな。少し飲めよ」
「……臆病者」
しっかりボタンを嵌めた奈央に、氷入りのグラスにミネラルウォータを注いで渡せば、またも謗りを受ける。
「臆病者は奈央だろ?」
グラスを口に付けながら、腫れぼったい目で威嚇し睨む奈央を無視し、話の続きをするために口を開いた。
「で、さっきの話だけど。お前にはもう一つ傷があったよな? それは奈央も覚えてるだろ?」
グラスを持ったままの奈央は“うん”とも“すん”とも言わない。
でもそれが、海に行く日に俺に教えてくれた、もう一つの傷だと理解したらしい奈央は、それがどうした、と表情で語る。
「小学校二年の三学期。両親の離婚の話が進んでる時だったんだってな。お前が盲腸になったの」
「……」
「盲腸だって診断受けて、親父さん、真っ先に奈央のヤケドが頭に浮かんだそうだ。可愛い娘の体に、これ以上傷を残したくないって。だから、手術ではなく、出来るなら薬で散らして欲しいと、医者に頼んだらしい」
「……」
「それで薬の投与だけで暫く様子を見る事になった。だけど、初めは薬で落ち着いてたのに、数日後にはまた痛みが出て……。夜中、病院に駆け込んだ時には、腹膜炎になってて危ない状態だった、そう親父さんから聞いた」
何も話そうとはしない奈央が持つグラスの中で、氷がカランと音をたてた。
「その日の事。お前が忘れるはずないよな?」
「……それがなに?」
「おまえ、言ったんだよ」
二人で過ごした、あの夏の日に。十年前と同じ科白を……。
「……何の話よ」
グラスを置いた奈央の視線と俺の視線がかち合い、あの日の俺には真意が掴めなかった話を告げる。
「海に行った時の話だ」
「何でいきなり海?」
話の進路が変わったことに、奈央は呆れているのか、焦れているのか、小さな溜息を一つ落とした。
「三郎のとこで飲んだ帰り。酔ったおまえを、おぶってやったの覚えてるか?」
「それと何の関係があるわけ?」
「こっから先は、おまえの記憶にはないだろうけど。言ったんだよ」
「……」
「十年前の奈央が言った同じ言葉を、俺に背負われながら」
──十年前。
腹膜炎となった状態では薬だけではどうしようもなく、直ぐにでも手術が必要となった。
掛かりつけの医者から紹介状を貰い、総合病院へ行くしかなかったその日は……。
「東京では珍しいほどの大雪だったんだってな。天候を考えると、さほど遠くない病院まで、タクシーや救急車を呼ぶより歩いて連れて行った方が早いだろうって、親父さんが奈央をおぶって向かった。そうだろ?」
どうせ返事はないだろうと思いながら訊ねた俺の予想を裏切らず、奈央はソファーに寄りかかったまま、黙ってテーブルの上のグラスを見ている。
見ていると言うよりは、目線をたまたまそこに置いただけだろうか。遠くを見つめるように、瞬きも忘れた奈央の瞳には、もしかしたら、過去にあった雪の日の映像が映っているのかもしれない。
「お袋さんが、奈央と親父さんが濡れないように傘を翳して、夜中に静かに降る雪の中、親父さんはまた後悔しながら歩いたって言ってた」
「……」
「こんな事なら、薬じゃなく直ぐに手術を受けさせれば良かったって。そうすれば酷くならずに、奈央が余計に痛み苦しむ事もなかったって。いくら親父さんが頼んだからって、判断したのは医者なのにな。だけど、親父さんは自分を責め続けて、雪ん中奈央をおぶって歩いたそうだ」
「……」
「そんな時にな、奈央が言ったそうだ。パパの背中って、大きくて、あったかいって」
「……」
「三郎んとこからの帰り道。おまえは俺の背中でも同じことを言ってた。俺の背中、大きくて、あったかいって」
グラスに置いてた奈央の瞳は一瞬だけ俺を捉え、また直ぐに元の場所へと戻した。
膝の上に肘を突き両手を組むと、奈央と同じように前にあるテーブルへ目線を置き、初めて会った日にホテルで話を訊かせてくれた、苦悶する父親の顔を思い浮かべながら、奈央に一つ一つを伝えていく。
「奈央からは見えなかっただろうし、気付かなかったろうけど。痛いはずなのに、それを微塵も感じさせずに可愛い声で言われて、親父さん涙が出たって。親父さんだけじゃない。お袋さんもだ。奈央に気付かれない様に二人揃って声を殺し、泣きながら歩いたって」
横目で奈央を見れば、唇をギュッと噛み締めている。
「俺に背負われてる時、今度はおまえが泣いてた」
あの時の俺は、その涙の意味が全く分からなかったが、今なら分かる。
「痛みのある身体より勝って、八歳の奈央は、親父さん達の愛情をちゃんと感じてたんだろうな。心に傷を受けた十八歳の奈央は、俺の背中を通して、その記憶を無意識に辿ってた……。愛情を求めてたって言う方が正しいか?」
「気持ち悪いこと言わないで」
下ろした髪が邪魔するほど俯いてしまった奈央の声が僅かに震える。
「なにも気持ち悪い事なんてねぇだろ。子供が親の温もり求めるなんて、当たり前のことだ」
「……」
「親父さん達な、手術室に奈央が入って行ってから、生きた心地がしなかって言ってたぞ。普通なら数十分で終わる虫垂炎の手術なのに、腹膜炎おこしてた奈央は二時間もかかったらしいからな。手を合わせて奈央の無事を祈ったって。もう直ぐ、離れて暮らさなきゃならないのに、それだけでも奈央に寂しい思いをさせてしまうのに……。こんな痛みまで奈央に与えてしまって、自分が代わってやりたい、そう思ったって」
動かず俯いたまま俺の話を聞いている奈央を呼ぶ。
「奈央」
「……」
「奈央? こっち向け」
二度目の呼びかけで、やっと顔を上げた奈央に手を伸ばし、
「痛むか?」
赤くなった口の端を、指先でそっと撫でた。
有無も言わさず、奈央の手を掴み力任せに引く。
「ベッドはあっちだけど?」
「知ってる」
「寝室、行かないの?」
「あぁ」
掴んだ手はそのままにソファーに座らせると、俺も並んで腰を下ろした。
「別に私は此処でもいいけど」
「……」
「やるならさっさとやってよ」
「おまえさ、本気で俺を怒らせたいの?」
「早くやってって言ってるだけじゃない」
「ヤるとか簡単に言うな。女だろうがっ!」
そう言ってパチンと額を指で弾けば、俺の行動が読めないせいか、それとも痛かったのか、奈央は眉間に皺を深く刻んだ。
「頭も正常に働かない、ボロボロになってる女を抱く趣味はねぇんだよ」
「じゃあ、何がしたいのよ」
「言ったろ。教えてやるって」
握った手を引っ張るようにして、奈央の左腕を真っ直ぐに伸ばすと、人差し指でそれを差した。
「これ、覚えてるか?」
「……なによ」
二の腕の内側に出来た小さい傷。
海に行く時に奈央が教えてくれた、普段は服で隠れて見えなければ、見ても目立たないほどの薄い傷跡。
「この傷な、奈央が三歳の時、親父さんと花火をやってる時に出来たものだ。小さかったから、覚えてなくても無理ないけどな 」
奈央は無言でその傷を見ている。
「親父さんが目を離した隙に奈央が花火を振り回して、火種がここに当たったらしい。火がついたように泣き続ける奈央を、急いで病院に運んだそうだ。幸いにも傷自体は大したことなかったけど、皮膚の柔らかい部分だったから、痕が残るって言われて……。自分の不注意で女の子なのに傷を残してしまったって、後悔してもしきれなかったって……」
「……」
「でな?」
そこまで言うと、落ちたままのシャツを取るために立ち上がる。拾い上げてきたたシャツを羽織らせれば、奈央は信じられないものでも見るような目を寄越した。
「おまえな、抱く気はねぇって言ってんだろ」
「……」
「おまえの身体目当てなら今までだっていくらでも襲うチャンスはあったのに、そうしなかった俺の気持ちも少しは分かれ」
「……」
「とは言ってもだな、いくら生き地獄には慣れてる俺とは言えども刺激が強すぎる。頼むから早く着てくれ」
「……馬鹿みたい」と、吐息混じりの悪態を背に受けながら、今度は酔いを醒まさせる為に、水を取りにキッチンへと向かった。
「着たな。少し飲めよ」
「……臆病者」
しっかりボタンを嵌めた奈央に、氷入りのグラスにミネラルウォータを注いで渡せば、またも謗りを受ける。
「臆病者は奈央だろ?」
グラスを口に付けながら、腫れぼったい目で威嚇し睨む奈央を無視し、話の続きをするために口を開いた。
「で、さっきの話だけど。お前にはもう一つ傷があったよな? それは奈央も覚えてるだろ?」
グラスを持ったままの奈央は“うん”とも“すん”とも言わない。
でもそれが、海に行く日に俺に教えてくれた、もう一つの傷だと理解したらしい奈央は、それがどうした、と表情で語る。
「小学校二年の三学期。両親の離婚の話が進んでる時だったんだってな。お前が盲腸になったの」
「……」
「盲腸だって診断受けて、親父さん、真っ先に奈央のヤケドが頭に浮かんだそうだ。可愛い娘の体に、これ以上傷を残したくないって。だから、手術ではなく、出来るなら薬で散らして欲しいと、医者に頼んだらしい」
「……」
「それで薬の投与だけで暫く様子を見る事になった。だけど、初めは薬で落ち着いてたのに、数日後にはまた痛みが出て……。夜中、病院に駆け込んだ時には、腹膜炎になってて危ない状態だった、そう親父さんから聞いた」
何も話そうとはしない奈央が持つグラスの中で、氷がカランと音をたてた。
「その日の事。お前が忘れるはずないよな?」
「……それがなに?」
「おまえ、言ったんだよ」
二人で過ごした、あの夏の日に。十年前と同じ科白を……。
「……何の話よ」
グラスを置いた奈央の視線と俺の視線がかち合い、あの日の俺には真意が掴めなかった話を告げる。
「海に行った時の話だ」
「何でいきなり海?」
話の進路が変わったことに、奈央は呆れているのか、焦れているのか、小さな溜息を一つ落とした。
「三郎のとこで飲んだ帰り。酔ったおまえを、おぶってやったの覚えてるか?」
「それと何の関係があるわけ?」
「こっから先は、おまえの記憶にはないだろうけど。言ったんだよ」
「……」
「十年前の奈央が言った同じ言葉を、俺に背負われながら」
──十年前。
腹膜炎となった状態では薬だけではどうしようもなく、直ぐにでも手術が必要となった。
掛かりつけの医者から紹介状を貰い、総合病院へ行くしかなかったその日は……。
「東京では珍しいほどの大雪だったんだってな。天候を考えると、さほど遠くない病院まで、タクシーや救急車を呼ぶより歩いて連れて行った方が早いだろうって、親父さんが奈央をおぶって向かった。そうだろ?」
どうせ返事はないだろうと思いながら訊ねた俺の予想を裏切らず、奈央はソファーに寄りかかったまま、黙ってテーブルの上のグラスを見ている。
見ていると言うよりは、目線をたまたまそこに置いただけだろうか。遠くを見つめるように、瞬きも忘れた奈央の瞳には、もしかしたら、過去にあった雪の日の映像が映っているのかもしれない。
「お袋さんが、奈央と親父さんが濡れないように傘を翳して、夜中に静かに降る雪の中、親父さんはまた後悔しながら歩いたって言ってた」
「……」
「こんな事なら、薬じゃなく直ぐに手術を受けさせれば良かったって。そうすれば酷くならずに、奈央が余計に痛み苦しむ事もなかったって。いくら親父さんが頼んだからって、判断したのは医者なのにな。だけど、親父さんは自分を責め続けて、雪ん中奈央をおぶって歩いたそうだ」
「……」
「そんな時にな、奈央が言ったそうだ。パパの背中って、大きくて、あったかいって」
「……」
「三郎んとこからの帰り道。おまえは俺の背中でも同じことを言ってた。俺の背中、大きくて、あったかいって」
グラスに置いてた奈央の瞳は一瞬だけ俺を捉え、また直ぐに元の場所へと戻した。
膝の上に肘を突き両手を組むと、奈央と同じように前にあるテーブルへ目線を置き、初めて会った日にホテルで話を訊かせてくれた、苦悶する父親の顔を思い浮かべながら、奈央に一つ一つを伝えていく。
「奈央からは見えなかっただろうし、気付かなかったろうけど。痛いはずなのに、それを微塵も感じさせずに可愛い声で言われて、親父さん涙が出たって。親父さんだけじゃない。お袋さんもだ。奈央に気付かれない様に二人揃って声を殺し、泣きながら歩いたって」
横目で奈央を見れば、唇をギュッと噛み締めている。
「俺に背負われてる時、今度はおまえが泣いてた」
あの時の俺は、その涙の意味が全く分からなかったが、今なら分かる。
「痛みのある身体より勝って、八歳の奈央は、親父さん達の愛情をちゃんと感じてたんだろうな。心に傷を受けた十八歳の奈央は、俺の背中を通して、その記憶を無意識に辿ってた……。愛情を求めてたって言う方が正しいか?」
「気持ち悪いこと言わないで」
下ろした髪が邪魔するほど俯いてしまった奈央の声が僅かに震える。
「なにも気持ち悪い事なんてねぇだろ。子供が親の温もり求めるなんて、当たり前のことだ」
「……」
「親父さん達な、手術室に奈央が入って行ってから、生きた心地がしなかって言ってたぞ。普通なら数十分で終わる虫垂炎の手術なのに、腹膜炎おこしてた奈央は二時間もかかったらしいからな。手を合わせて奈央の無事を祈ったって。もう直ぐ、離れて暮らさなきゃならないのに、それだけでも奈央に寂しい思いをさせてしまうのに……。こんな痛みまで奈央に与えてしまって、自分が代わってやりたい、そう思ったって」
動かず俯いたまま俺の話を聞いている奈央を呼ぶ。
「奈央」
「……」
「奈央? こっち向け」
二度目の呼びかけで、やっと顔を上げた奈央に手を伸ばし、
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