Innocent

本宮瑚子

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Side-A イノセント<真実>

2.

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    自分の中に小さく芽生えた感情に気付き、それを持て余し過ごすようになって、もう少しで一ヶ月。 
    この一ヶ月。週に三度も響ちゃんに会いに来るようになってもまだ、今もこの想いにハッキリとした名前をつけられないでいる。 
    こうして燻り続けるあたしの気持ちを、誰も知らない。
    あたしだけの笑顔をサッサと引っ込め、「好きなだけお替りしていいぞ」と、残りのイチゴミルクが入ったピッチャーを、あたしの前にデンと置いた響ちゃんも、当然知らない。あたしがイチゴミルクを飲みたくないことも、あたしの燻り続けるこの想いも、気付きもしない。 

    あたしを姪としてしか見ずに、店の準備に取りかかる響ちゃんは、あたしが男として響ちゃんを見ていると知ったら、切れ長で綺麗な目をまん丸くするだろうか。 
    だとしても、そんなに驚くこと? と訊きたくなる。
    叔父さんって呼ぶには相応しくない身姿。ノンちゃんにしてもそうだけれど、響ちゃんもまた、叔父と言う位置づけにしては若すぎる。 
    響ちゃんの歳は二十代後半……、だと思う。ノンちゃん同様、教えてはくれないから、本当のところは分からない。恐らく、ノンちゃんと同い年位だと思われる。 
    響ちゃん曰く、『この店はな? 非現実的な場所でなきゃならないんだ。時間を忘れて疲れを癒す空間。そんな場所でお客様の歳を訊くのはナンセンスだし、オーナーである俺も教えたりはしない』だ、そうだ。 
    なのに、この場所にいながら、あたしをしっかり女子高生だと線引きする響ちゃんはズルイと思う。あたしだけが、ズルイわけじゃないと思う。 


    ノンちゃんの真似して、俺も叔父さんって言われたくないと、初対面で主張した響ちゃん。だから、しょうがなく響ちゃんと呼んであげている。本当の名前は響哉きょうやと言うのに、ノンちゃんがきょうと呼んでいるから、真似返しであたしもそれに“ちゃん”を付けて呼んであげている。 
    身姿だけでも無理があるのに、その上呼び方がこんなんだから、余計に叔父さんとは程遠いと感じてしまう。大人の男として認識してしまう。

『七海、七海』と騒がしくあたしを呼ぶ涼太とは違い、低い声で、それでいて甘さと色気を含んでノンちゃんを呼ぶ響ちゃん。ついでに、愛おしそうに目を細めて見つめたりする。 
    涼太みたいに、ふざけて乱暴に人の頭をぐちゃぐちゃにしながら笑うこともなく、どんなにノンちゃんがドジったって、緩くカールのかかった長い髪を優しく撫でてあげる響ちゃん。 
    おまけに、その髪をひとすくいし、キスまで落とすオプションつきだ。 
    その腕や手の甲に浮かび上がる血管も、筋張った指先も、何もかもが十代の男の子のものとは違うと見せつける。 
    顔が良いだけでも罪なのに、色気も優しさも惜しげもなく披露されたら、気にするなっていう方が無理な話じゃないだろうか。
    あたしを女子高生だって区別するなら尚更で、大人の魅力全開にしないで欲しい。大人の魅力に不慣れな女子高生には、刺激が強すぎる。 
    だからこそ、響ちゃんはあたしに叔父さんだと意識させるべきだし、その努力をすべきだと思う。 
    それを何もせずに、平然とグラスを磨く響ちゃん。理不尽だと思いながらも、“ズルイ”を響ちゃんにも押しつけて、責任転換したくなる。

「……なーんかな? すげぇ視線感じんだけど、気のせいか?」

    磨いていたグラスをライトに当て、曇りや汚れがないかチェックする響ちゃんが、チラリとあたしを見る。 
    どうやらあたしは、理不尽な思いを眼力に乗せ送っていたらしい。 



「気のせいなんかじゃないよ」 
「ん?」 
「響ちゃんはモテルだろうなぁ、って感心して見てたの」 
「なんだ、いきなり」 
「響ちゃんモテルでしょ? 絶対モテルよね?」 
「さあな。興味ねぇし」 

    他の女にも、あたしの話自体にも興味がないらしい響ちゃんは、曇っている箇所を見つけたのか、「俺は望しか興味ない」 と言って、またグラスに視線を戻しキュッキュッと磨きだす。 
    本当にそれが本音だと思う。思春期の女の子の前で、愛する人への想いを隠す気が全くないらしいズルイ響ちゃんではあるけれど、だからこそ、正直者だとも言える。だったら、質問を変えてみればいい。 

「質問間違えた」 
「ん?」 
「響ちゃん、女の人いっぱい泣かせてきたでしょ?」 
「…………」 

    ほらね? やっぱりね? 
    正直者の響ちゃんは押し黙る。 

「ズルイよね、響ちゃんは。きっと、響ちゃんが知らない所で、泣いて傷ついてる人が一杯いるんだろうね。でも響ちゃんは、そんなこと気付きもしないだろうし、自分はそう言う経験したことないくらい、モテるんだろうね」 
「今日はヤケに絡むな」 

    困り顔で苦笑いしたって、あたしには分かる。 絶対にそうだと断言出来る。
    女の人にモテモテの響ちゃんは、女の人を泣かせることはあっても、自分が泣いことなんてないはず。好きな女性が出来ても、響ちゃんさえ気持ちを告白すれば、間違いなく相手は断らないと思う。これだけ顔も良くて色気もあれば、断るはずがないと思う。
    だから響ちゃんは、傷ついて悩んだり泣いた経験なんてあるはずがない。ないはずなのに……。

「この歳だぞ。傷ついたり傷つけたり、そんな恋愛の一つ経験しててもおかしくないだろ」 

    さも当たり前のように言う。 
    そもそも、この歳ってどの歳だ。本当の年齢なんて教えてくれないくせに。という突っ込みは、一先ず横に置く。

「まるで、自分が傷ついたことがあるような言い方だね」 
「まるで、俺が傷ついたこともない冷酷男のような言い方だな」 
「…………」 
「…………」 
「じゃあ、あるの?」 

    グラスを磨き終え、煙草を取り出し一息つくらしい響ちゃんに訊いてみる。 

「響ちゃんも人並みに傷ついたことあるの? もしかして、失恋なんかもしちゃったりしたの?」 

    カキーンと、耳に響く音が広がる。デュポンライターってヤツだ。
    音を鳴らして蓋を開けたデュポンに火を点した響ちゃんは、指に挟んだ煙草を口に咥え、顔を斜に構えて火を点けた。   
    煙草の先端がジュワっと朱色に染まると同時に、またデュポンの蓋を閉める音が響く。響く余韻に、白い煙を吐き出す吐息が交じり、

「……ある」 

    天に向かってゆるゆると上る煙を見つめた響ちゃんは、そうポツリと答えた。 



「あ、ある? あるって、響ちゃんが傷ついたことあるって言うの? 失恋もしちゃったって言うの?」 

    煙が目に沁みたのか、はたまた、あまりの驚きに身を乗り出したあたしに、若干引き気味になったのか。恐らく後者であろう響ちゃんは、目を細めて 「あぁ」 と、何度訊いてもあたしを驚かせる答えを言う。

「うそ!」 
「ホント。俺がホストやってる頃の話だけどな」 
「うそっ!!」 

    更なる驚き証言で、あたしの瞼はパチパチと慌ただしくなる。アホ面を晒して、口がパクパクと落ち着きをなくす。
    きっとこれは、どうしようもないほどのショック症状だ。

    だ、だって、きょ、響ちゃんが……ホスト!? 
   
    見た目だけなら、ホストでも通じるかもしれないけれど、ううん、寧ろ似合ってるとも言えるけれど。でも、煌びやかな世界で甘い声を囁いて、女の人を騙すようにして接客する、マンガや小説に載っているあのホストと同じだと言うのならば、あたしの知っている響ちゃんとはかけ離れている。
    あたしの知っている響ちゃんは、ノンちゃんを本当に大事にしていて、いくらノンちゃんがドジをしても広い心で受け止めて、そりゃあもう可愛くて仕方ないってほど大切にしている。 
    ノンちゃんの姪であるあたしにも、優しくしてくれる完璧な人なのに。そんな響ちゃんが、偽りの優しさを大多数の女の人達に振り撒いていただなんて……。
しかも、傷ついちゃうほど、好きな人までいたなんて────。

「そんなに驚くことか?」 

    ショック症状が治まらないあたしを見て、響ちゃんが困ったように笑う。 


    困られてもあたしも困る。まさかの、こんな過去バナをカミングアウトされて、どう処理していいのか分からない。ショック症状に陥っている最中さなか、首をコクコクと何度も縦に振る以外、響ちゃんに返事も出来やしない。 

「俺が失恋したことに驚いてんのか、ホストやってたことに驚いてんのか、分かんねぇけど」 「…………」 
「どっちもホントの話だ」 
「…………」 
「ホスト時代、どうしようもなく惚れた女がいた」 
「っ!」 
「今も時々思い出す。忘れられない女だ」 
「なっ!」 

    思い出す? 忘れられない?
    だって……、だって響ちゃんにはノンちゃんがいるじゃない!
    ノンちゃんにしか興味ないって、ついさっき言ったばかりでしょ! アレは嘘だったの?
    懐かしむように遠くを見ながら、そんなことサラっと言わないで! そこまで正直になり過ぎないでっ!
   もし、もしも、そんな大好きな人と再会でもしちゃったとしたら……。

「ダメだよ響ちゃん!そんな人、早く忘れなきゃ!響ちゃんは結婚してるんだよ?」 

    ショック症状を突き破って説得を試みるあたしに、響ちゃんはフッ、と柔らかく笑った。

 「その人も、もう結婚して幸せに暮らしてる」

    その笑みに、その言葉に、ちょっとだけ胸を撫でおろす。 

「なんだ、そっか。もし、その人と再会したらどうなっちゃうんだろうって、凄く慌てちゃったじゃん。余計な心配しちゃったよ」 

    最悪の状態は免れたと、安心したのがまずかった。 

「逢っちまったら……か」 

    物思いに耽る響ちゃんを止めもせずに、カラカラになった喉を優先して、イチゴミルクなんぞに手を伸ばしたのがまずかった。 

「もう一度その女に逢っちまったら……」 

    何とも言えない間で喋り続ける響ちゃん。そのせいで、手の平にじんわりと汗が滲む。何か物凄く嫌な予感がして。とてつもない驚き発言を、三度みたび訊かされるような気がして……。その予感に震える手は、グラスを置くことも出来やしない。 
   
    止めてよ、響ちゃん! あたしの手を見て! 今のあたしは、こうしてグラスを持ってるのが精一杯なんだよ? もう何も言わないから、だから響ちゃんも正直になり過ぎないで!

    渇いた喉からは声が出てはこないけれど、心の中で必死に叫ぶ。
    優しい響ちゃんなら、そんなあたしに気付いてくれるはず。そう信じていたのに……。 

「抱いちまうかもな」 

    放たれた発言は、爆弾ほどの驚異的威力で。限界がきた手は、ゆるゆると力が抜ける。 
    じんわりと滲んだ手の平から、スルリと滑り落ちた水滴まみれのグラスは、まるで、あたしの心臓が受けた衝撃を表わすかのように、ガシャン、と派手な音を立てて散らばった。


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