さよなら私のドッペルゲンガー

新田漣

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1巻

1-2

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「コホン。話を戻します。私の友達には内向的な人が多くて、派手な人はいません。なので、ドッペルゲンガーの私も、墨染先輩のような見た目がパーティーな人は苦手かもしれません」
「見た目がパーティー」
「はい。茶髪ですし、馬鹿っぽいですし」

 謎の基準で線引きされた気がするが、確かに俺の見た目は少し派手かもしれない。さらにノリで生きているので、パーティーと言えるのかもしれない。

「でも、私は墨染先輩に対して悪い印象はありませんでしたよ! こうして、真っ先に頼ったワケなので」

 言い過ぎたと思ったのか、凛は両手の指先をつんつんと合わせ視線を泳がせた。
 俺はそういうのは気にしていないので、極上のスマイルで安心させてやろう。

「そうかそうか、悪い印象はないのか」
「なんですか、そのイヤラシイ目。痴漢抑止ポスターの犯人みたいですよ」
「自分の笑顔に自信がなくなってきたな」

 それほど下心がにじみ出ていたのだろうか。まあいいや。
 そう割り切りつつ二人でアパートに引き返していると、小さな墓地を横切る道に出てしまう。すでに幽霊と行動しているのに、背筋をちろりと舐められたような悪寒が走る。街灯が少なく、眼前に漆黒が迫っているせいだろうか。

「この辺りは、一段と暗いですね」
「そうだな」

 俺は同意する。凛にとっても、この墓地はどこか寂しい場所に映ったのかもしれない。
 もしそうだとしたら、幽霊にとっての安息の地は現世ではないはずだ。

「……凛はさ、いつかは成仏するもんなの?」
「わかりません。でも、復讐を果たせば未練がなくなると思います。そうなれば、きっと……」

 凛はそう言いながら、乾いた笑みをこぼした。
 もし、復讐を果たして成仏するのなら、最後に抱く感情は怨念おんねんになる。高校生になったばかりの少女が抱えるには、あまりにも暗すぎる。

「暖かい場所に、笑って送り出してやりたいよ。俺は」

 呟いた言葉は、タイミングよく通過した叡山電鉄えいざんでんてつの音にかき乱されて霧散むさんする。車両から漏れた漏れた灯かりが、凛の姿をおぼろげに照らし出す。
 手を伸ばしても、届かない距離にいる気がした。


 夜の散歩を終えてアパートに帰ってきた俺たちは、これまでの内容を一度まとめることにした。
 まず、ドッペルゲンガーに存在を奪われた凛は死に至り、生と死の狭間を彷徨さまよう霊体と化した。凛の望みは、自分として生活するドッペルゲンガーへの復讐。どのような方法になるかは不明だが、殺人の可能性を孕むのは間違いなかった。
 そこで白羽の矢が立ったのが、学校で噂の馬鹿こと俺。文化祭で送り火を敢行するほどの傑物けつぶつであれば、ドッペルゲンガーの殺害だろうがノリで手伝ってくれると睨んだらしい。どうやら、赤字が出るほど買い被られている。

「何度考えても、殺人は無理だな」

 俺が首を横に振ると、凛は不思議そうに瞬きを繰り返す。

「でも、墨染先輩はカッとなってやりそうなタイプじゃないですか」
「後々のインタビューで言われるやつじゃん」

 俺がツッコむと、凛は楽しそうにふにゃふにゃと笑う。

「勢いに任せた暴力とか振るわない人なんですか?」
「人に手を出した経験はない」
「うわぁ。じゃあ、叩かれるほうが好きなんですか……?」
「リバーシブルの濡れ衣を着せてくるなよ」

 俺が嘆くと、凛は目尻に涙を溜めながら「からかってすみません」と頭を下げた。
 こうして冗談を交わせるくらいには、俺を信用してくれたようだ。犯罪は避けたいが、できる限り気持ちに応えてやりたい。

「ま、しばらくは俺に頼れよ」
「ありがとうございます。私はもう実体がないので、様々な面でご迷惑をおかけするかと思いますが……」

 その言葉は、好奇心を刺激した。俺は凛を凝視しながら、腕を組んでふむと頷く。

「そうか、実体がないんだったな」
「へ?」
「ちょっとだけ、試したいことがある」

 俺は宙に浮かぶ凛に近付き、身体が重なるように立ち止まる。質量を持たない凛の身体が、完全に俺と重なった。

「これって、今どうなってる状態なの?」
「精神的に不快なのは確かですね」
「……誠に申し訳ありません。好奇心に歯止めをかけられませんでした」

 殺気を感じた俺は、床に三つ指をついて深々と土下座をする。凛は溜飲りゅういんを下げたようで、ふっと息を吐いた。

「いいでしょう。次やったら、法廷で会うことになります」
「そ、そこまで?」
「絵面を考えてください。それに、私が不快に思った時点でセクハラですからね。……では、今日のところは失礼します。明日になるまで、どこかで時間を潰してきますので」

 幽霊少女は訴訟を匂わせながら、ふわりと浮き上がり玄関の方向に向かう。
 その行動に疑問を抱き、思わず呼び止める。

「ここにいればいいだろ」
「でも、ご迷惑をおかけしますし」

 叱られた子供のような表情を見せてから、凛が再び玄関に向かう。
 幽霊とはいえ、うら若き女子を一人で外に放り出すわけにはいかない。このワンルームは広くはないが、ふわふわと浮かぶ幽霊であれば同居しても圧迫感は抱かないだろう。動物園の臭いだって、恐らくしていない。たぶん。

「そんなこと気にするな。しばらく、ここに住めばいい」
「……私は外で大丈夫ですよ?」
「一人ぼっちだと寂しいだろ」
「構いませんよ。それに……私にはもう睡眠なんて必要ないですし」

 そう言いながらも、伏せられた目は悲しそうだった。
 俺は少し強引に、凛の意見を突っぱねる。

「駄目なものは駄目」
「でも」
「おだまり小娘ッ!」
「と、突然のヒステリックやめてくださいよ」

 孤独なときは、何を考えてもマイナスの方向に転がる。それも、自分の居場所を奪われて人生に幕が下ろされたばかりの少女だ。落ち込まないわけがない。

「俺はベッドがあればいいから、寝てる間は部屋を自由に使ってていいぞ。電気も点けておくし、寂しくないようにテレビも流しておく」

 凛は「えっと……」と躊躇ためらっていたが、やがて観念したように息を吐く。

「わかりました。それでは、お世話になっちゃいます」

 凛は目尻を下げ、ふにゃりと微笑んでくれた。
 この先には苦難がいくつも待ち受けているだろう。けれど、この笑顔を間近で見られるなら悪くはないと思えた。



   第二章 馬鹿と裸体とドッペルゲンガー


 青春とは全速力であり、立ち止まっている暇など一瞬たりとも存在しない。脇目も振らずに駆け抜ける青さこそが青春の本質なのだ。
 その教訓に則って、俺は恥も外聞も置き去りにしながら、通学路を自転車で疾走していた。
 要するに寝坊した。

「……いつもこうなんですか?」
「おうよ」

 隣でふよふよと浮かぶ凛が、呆れて呟く。
 時刻はすでに予鈴の五分前で、間に合うか間に合わないかの瀬戸際だ。飛び起きて顔を洗って寝癖を押さえつけて、家を出るまでの時間は僅か七分。まったく、我ながら時間に追われるデキる男である。
 北大路通きたおおじどおりを爆走していると、向かい側から同じように自転車で走ってくる金髪の男が見えた。毎日恒例の邂逅かいこうなので、互いに視線だけで挨拶する。角を曲がるタイミングで合流し、しばらく並走していると、金髪の男が口を開いた。

「墨染、お前も遅刻が好きだな」
「まだ遅刻じゃねえぞ」

 つんつんと逆立った金髪に、黒縁の眼鏡。その奥に覗く切れ長の二重も相まって、インテリヤクザのようなこの男は、俺の悪友である深谷宗平ふかやそうへいだ。文化祭で共に停学処分を食らった、愛すべき馬鹿でもある。
 全速力の俺と深谷が校門に滑り込んだタイミングで、予鈴が鳴った。門扉を閉める生徒指導の先生が、またお前らかと言いたげな表情を浮かべているが、今回は遅刻ではない。俺たちは勝ち誇ったように自転車を止め、教室に向けてずんずんと進軍した。

「こんな調子だと留年しちゃいますよ」

 凛が俺に耳打ちする。留年の足音が小走りで近付いているのは否めないが、俺の計算だと、あと六回は遅刻しても許される。貪れる惰眠だみんは、できる限り貪り尽くしたい。
 俺は凛にそう告げようとして、ふと疑問に思う。
 凛の姿は、深谷にも見えていないのだろうか。
 俺の思慮を察したのか、凛は「墨染先輩にしか見えてないですよ」と言った。
 なるほど。理屈はわからんが、昨日と同じく幽霊の凛が目立つ心配はないらしい。安堵あんどしながら教室に到着すると、深谷はすぐさま机に突っ伏した。

「墨染。俺はちょっと寝るわ」

 爆睡フォーム突入である。まだ朝なのに恐るべき早さだ。
 隣の席同士のこいつとは、去年の春に出会った。何がきっかけかは覚えていないが、波長が一致したせいか常に行動を共にしている。
 俺は凛と視線を合わせ、深谷を指差しながら小声で提案した。

「凛、コイツにも協力してもらうってのはどうだ」
「……この人を頼りにしても大丈夫なんですか?」

 俺は唸る。大丈夫だとは答えにくい。自分を棚に上げて言わせてもらえば、深谷はまごうことなき大馬鹿だ。俺が爪なら深谷は牙である。それゆえに、説得できる手札は一枚もなかった。仕方がないので、力押しする方向に切り替える。

「面白くはなるぞ」
「私の復讐劇を、おもしろおかしくする気ですか」
「凛の気持ちはもっともだ。だが、復讐は復讐しか生まない。正義とは相対的なものであり、また別の争いを産む火種になりかねん。おもしろおかしくしたほうが、スムーズに事が運ぶ可能性は高い」

 凛はあごに拳をあて、うむむと考え込む。適当にそれっぽい言葉を並べているだけなのだが、押せばなんとかなるかもしれない。

「一理ありますけど……」
「それに、ドッペルゲンガーの素性を探るなら協力者は多いほうがいいに決まってる。多角的に攻めるべきだ」

 いかにも正論っぽく述べると、凛は感心したように目を丸くする。

「墨染先輩って、意外と考えてるんですね」
「人間とは考えるあしだからな」   

 意味はわからないが、それっぽい名言を引用してとどめを刺す。高校一年生の女子など、年上の余裕と知的な雰囲気を醸し出せばイチコロなのだ。

「それ、どういう意味ですか?」

 だが、凛はきっちりと問いただす。真面目ガールの探究心を侮っていたようだ。
 俺は薄く笑いながら目をつむる。

「わかんない」
「え、えぇー」
「まあまあ。とにかく俺は、凛たんには笑っててほしいんだよ。復讐劇だろうと笑顔で過ごしてほしい。怒ってる顔なんて似合わねえ、楽しくやろうぜ」

 こうなれば、勢いで乗り切るしかない。俺は凛に向けてウィンクを決めるが、そのタイミングで向こう側にいた女子と目が合ってしまう。

「ひぃっ!」

 俺の熱い視線を浴びた女子が小さな悲鳴を上げる。仕方がないので、眼球を必死に見開きコンタクトが乾いたふりをして誤魔化した。

「……墨染先輩って、本当にお馬鹿なんですね」
「へへへ、よせやい」
「だから褒めてないですよ」

 ああだこうだと凛と言い合っていると、授業開始のチャイムが鳴り響いた。ここからは、俺が勉学に励むだけの時間なので省略する。


「ふわぁ……凛、おはよう」
「四時間目からぶっ通しで寝てましたね」
「高校生たるもの、よく寝てよく遊ばなきゃな」
「親が悲しみますよ」

 俺は思わず胸を押さえる。心が泣いた。親の話題を持ち出されるのは辛いものがある。京都の高校に進学した俺をバックアップしてくれているのは、紛れもなく香川県に住む母ちゃんと父ちゃんなのだ。ごめんよ、ごめんよ。嗚呼、讃岐さぬき平野へいやに屹立する飯野山いいのやまの姿が恋しい。
 悲しみを転がしていると、隣の席の深谷がゆっくりと起動した。この男、驚くことに朝から放課後までぶっ通しで眠っていたのである。四時間目から寝ていた俺が言うのもなんだが、何しに来たのかわからない。

「んァ。もう授業終わったのか?」
「ああ、放課後ですぜ、兄貴」
「じゃあ、そろそろ帰るべ」

 深谷が、机にかけたリュックサックを気だるげに持ち上げる。だが、席を立とうとしない俺を見て瞳に困惑の色をにじませた。

「何してんだ。早く帰ろうぜ」
「なぁ深谷。ドッペルゲンガー退治しねえか?」

 視線と共に提案すると、深谷はにっと口角を上げた。

「……乗った」

 深谷は椅子に座り直し、続きを促す。教室に残っているのは、すでに俺と深谷の二人だけであり、悪巧みや与太話よたばなしも自由に繰り出せそうだ。
 俺は傍らで浮かぶ凛に笑いかけ、ガッツポーズをする。

「凛、良かったな。深谷が協力してくれるってさ」
「いやいやいやいや」
「どうしたの。そんな焦って」
「具体的な話をしてないじゃないですか。即決すぎて、より一層不安になりました」

 凛とやり取りする俺を見て、深谷は怪訝けげんそうな表情を浮かべる。

「……墨染、それは新しい芸か?」
「違う。お前には信じられないかもしれんが、ここに女子がいる」
「マジか」
「大マジだ、しかも美少女」

 美少女と聞くやいなや、深谷は弾かれたように立ち上がった。
 俺の言葉を疑う素振りはまるでなく、深谷は逆立った金髪を丁寧に撫でつけ白い歯を零した。その動作は頭頂部から爪先まで馬鹿がぎっしり詰まっており、我が友ながら悲しみさえ覚えてしまう。

「俺は深谷宗平だ。よろしくな、美少女ちゃん」
「いやいやいやいや」
「深谷。美少女ちゃんは、お前の思考回路に戸惑っている」
「マジでか、すまんな美少女ちゃん」
「……理解、理解できない生き物ですっ! 順応性がバグってませんか?」

 凛は頭を抱えているが、深谷とはこういう生き物だ。事情など二の次で、楽しそうならとりあえず乗っかってみる男である。だからこそ俺と馬が合う。そう、俺が馬なら深谷は鹿だ。

「てかさ、俺もその美少女ちゃんを拝みたいんだけど」
「だってさ凛。なんとかならない?」
「そ、そんな急に言われてもですね」

 凛は両手をぶんぶんと振り、うろたえた。ならば、深谷に波長を合わせてもらうしかなさそうだ。

「深谷、集中しろ。信じろ。ここに白谷凛という美少女の幽霊がいる」
「任せろッ!」

 深谷は唸りながら目を細める。これで見えたら、流石さすがの俺も畏怖の念を抱くだろう。
 しばらく見守っていると、深谷は凛がいる場所をぴしりと指差した。

「……うわ、見えてきた。ボブっ子」
「え、えぇー」

 凛は信じられない様子であるが、それは俺とて同じ。深谷はただ集中するという馬鹿っぽい力技で、凛の存在を感じ取ったのだ。やはり只者ではない。
 俺が評価を改めていると、深谷は顔を歪めながら怠そうに眉根を揉んだ。

「あー、でも駄目だ。力まないと見えない」
「じゃあ、常に力んでおくしかねえな」
「無理無理、が出る」
「構わんよ」
「構いますよ。いちいち放屁ほうひされる私の気持ちを考えてください」 

 凛が心底嫌そうな顔で俺を睨む。
 反論材料がないので爽やかに微笑んでみるが、視線の鋭さがさらに増してしまう。逃げるように深谷を見やると、似つかわしくないほど真面目な表情を浮かべていた。

「まあ、そこに幽霊がいるのはわかった。でも、ドッペルゲンガーを退治するってなんだよ」

 その疑問は当然だった。
 だが、俺が説明するより、当事者である凛から説明されたほうが信憑性しんぴょうせいが高いだろう。俺は凛に「深谷と話してみてくれ」とお願いする。
 凛はこくりと頷いてから、深谷の右耳に顔を近づけて、ぼそぼそと囁いた。

「なんか聞こえるけど、よくわからん」
「集中しろ、深谷」
「よっしゃ。任せとけ。耳の穴をかっぽじってよく聞いてやる」

 深谷が立ち上がり、腰を深く落とす。異文化コミュニケーションともいえるやり取りに耐えきれなくなったのか、凛はついに両手で顔を覆ってしまった。

「私、頼る人を間違えたのかな……」
「何を言うか、凛。考え得る中で最善の手だ」
「どこからそんな自信が沸いてくるんですか」
「今にわかる」

 俺が言い切った瞬間、教室に爆音が鳴り響いた。時空を歪め、地を穿うがち、天を貫くほどの衝撃。それほどまでに、見事な放屁ほうひであった。

「今なら聞こえるッ!」
「え、ええ……?」
「なるほど、鈴を転がすような声じゃねえか」

 深谷は凛を指差し、変なポーズをばしっと決めた。流石さすがは深谷。馬鹿とはいえ、やるときはやる。俺は自信に満ち溢れた表情で、凛をちらりと見やる。

「ほらな、みたいな顔しないでください」
「これで協力者は二人だ、頼りにしてくれ」
「馬鹿と放屁ほうひ魔なんて、揃って雁首がんくびじゃないですか」

 切れ味の鋭いカウンターに、俺と深谷は一瞬でリングに沈められた。あご下一発、脳震盪のうしんとうが目眩を連れてくる。
 だが、ここで負けるわけにはいかない。俺はふらつく足にむちを打ち、よろよろと立ち上がる。こんなところで終わってたまるかよ。俺たちには一年間のアドバンテージが存在する。理解わからせてやるよ小娘が。

雁首がんくびという評価の是正を求める。深谷には特技がある!」
「どんな特技ですか……」
「まあ見てろ」

 俺の合図と共に、深谷がリュックサックからけん玉を取り出す。だが、紐が絡まっていたらしく、もたもたと一生懸命ほどいている。

「あの、もう結構です」

 凛は首を横に振り、絞り出すように制止を促した。

「いや待て、ここからだから!」
「どう転んでも想像は超えないですよ」
「美少女ちゃん。俺のはすごいから」

 紐を解き終えた深谷が、けん玉を勢いよく反転させる。ふわりと浮いた真っ赤な玉は、手首のスナップで強制的に軌道が変わり、ガコンと鈍い音が響く。
 弾け飛ぶ黒縁眼鏡。哀れにも、放物線を描いて窓の外へ落下していった。

「え、え、何が起きた?」

 深谷はめちゃくちゃ焦っている。嘘みたいな大失敗に、俺は腹を抱えて笑った。

「これ、何がしたかったんですか」
「大皿に玉を入れるやつじゃない?」
「初歩の初歩じゃないですか」
「俺たちはさ、頑張りを評価してほしいんだ」
「墨染先輩は、何もしてませんよね」

 そう呆れつつも、凛の表情は柔らかい。

「でも、おもしろおかしいだろ?」
「なんですか、それ」

 俺と凛は笑い合った。深谷が「笑ってないで、どうなったか教えてくれ」と嘆いているのがおかしくて、さらに声を上げて笑い転げた。眼鏡の行き先を見ると、窓枠に切り取られた青空がどこまでも広がっていた。


 眼鏡救出のために教室を出た深谷を待ちながら、俺と凛はスマホでドッペルゲンガーの情報収集を試みる。
 架空の存在として語られるためか、記事ごとに細部が微妙に異なっていた。

「なになに……『ドッペルゲンガーは容姿だけでなく傷や持病、果ては脳のシナプス情報に至るまで完璧に複製して人間に擬態ぎたいする』か。どういうこと?」
「簡単に言うと、私と同じ脳ってことです。親でさえ、ドッペルゲンガーの私に違和感を抱いていないかと」

 凛が拳を震わせながら呟く。かけるべき言葉を探していると、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。

「クソ! 排水口に落ちたからドロドロになってら」

 深谷がワイシャツの裾で眼鏡を拭きながら戻ってくる。凛は深谷の様子を見て呆れたように微笑んだ。重い雰囲気が霧散むさんしたので、俺は内心で感謝する。

「ん? 何見てんの?」

 深谷がスマホを覗き込んできたので、傾けて見せてやる。

「ほーん、なるほどな。俺も調べてみるわ」

 理解したのかしていないのか定かでないが、深谷は納得したように頷きながら自分のスマホを取り出した。

「っても、ドッペルゲンガーってあれだろ? 映画とか漫画でよく見る架空の……」

 そこまで言い、深谷は言葉を止めた。何事かと思い視線を巡らせると、身体を震わせているではないか。

「おいおいおい。墨染、これを見てくれ!」

 深谷が興奮しながら、俺の眼前にスマホの画面を差し出した。大方、どすけべな広告でも見つけたのだろう。
 しかし、その予想はいい意味で裏切られてしまう。

【ドッペルゲンガーって何者? 恋人は? いつから存在するの? 気になる特徴をまとめてみました!】
「なんだこれ、すげぇ!」

 俺は拳を上げて快哉かいさいを叫んだ。

「そうだろう、そうだろう。親切設計だよな、ホント感謝だわ」
「絶対にわかるやつじゃん……」
「……これは、本能が拒否する類の記事ですよ。検索の邪魔になるやつ」

 盛り上がる俺たちに、凛のツッコミが入る。まさに寸鉄人を刺す。
 俺と深谷は予期せぬダメージにもだえ苦しむが、白旗を上げるにはまだ早い。俺は自分のスマホを操作し、さきほどブックマークしておいた記事を二人の前に突き出す。

【ウェルカム・トゥ・ドッペルワールド ~闇夜ニ迫ル侵略者タチ~】
「ならば、こっちはどうだ」
「うおおお、格好良すぎる! センスって、こういうとこに現れるよな」
「そうだろう、そうだろう」

 今度こそと、凛に視線を流す。俺と深谷のスマホを交互に見比べた凛が、大きな溜息をつく。

「こじらせた中学生のブログじゃないですか。二人とも、冗談で言ってますよね?」
「本気だが」
「本気なんだが」
「……このセンス、どっちもどっちですよ」
「なるほど、甲乙つけがたいってか」
「最強の矛と盾みたいなものだからな」
「クソポジティブやめてください」

 話は終わりだと言わんばかりに、凛は首を横に振った。

「概念としてのドッペルゲンガーを探るより、私のドッペルゲンガーをどうするか考えましょう。この近くに、どこか落ち着ける場所はありませんか?」

 凛の質問に、俺と深谷は顔を見合わせる。

「ああ、いいところがあるぞ。愛想の悪いヒゲが営む喫茶店なんてどうだ?」

 俺の言葉を受け、凛は「それは本当にいいところなんですか」と言いたげに顔を歪めた。


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