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7.ベルベットブルーシュリンプ【前】

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洗面台のシャワーホースを伸ばして、頭を濡らす。
毎朝のヘアセット前に欠かせない桜太郎のルーティンだった。

ーーやめんか、アホ!

脳裏に、ミントの焦った声が響く。
自分を見上げる彼の警戒するような表情。

「最低だ、俺」

教え子を、それもあんなに幼気な少年を怯えさせてしまうなんて。

鏡に映る、情けない顔。
目の下のくまは目立つし、いつもより肌がくすんで見える。
まだ20代とは言え、小学生の彼から見ればおじさんだろう。

「あーー……」

うめきながら、その場で膝をついた。
洗面台に手をついてよりかかる。

復学して初めてまともに会話をしたが、
あの大人びた態度には初めから驚かされた。
彼の精神年齢は自分と同等かむしろそれ以上に思えたし、
同じ目線で扱うことに対して、ミントは嫌がらなかった。そこに甘えてしまった。

児童に片思いの相手を重ねた上……、

ミントの表情が脳裏をよぎった。

余裕を失った荒い吐息と、上目遣い。

普段の堂々とした態度とは違う姿を、

ーー可愛いと思った。

「教師失格だ」

両手で顔を覆った。


教師になって3年。
当たり前だが、子どもに性的な魅力を感じたことなんて無いし、それはミントに対しても同様のはずだ。

それでも彼の成熟し切っている内面に惹かれている自分がいる。

この感情が既に犯罪ではないか。

自分が信じられなくて、消えて無くなりたい。

「!」

唐突に軽快な音楽が鳴った。キッチンの炊飯器だ。
タイマー予約しておいた米が炊けたと知らせている。

「……6時か」

家を出るまであと1時間。
首を振ると、髪から水滴が飛び散った。
フェイスタオルでわしゃわしゃと頭を拭く。

鏡に映る自分の姿を睨んだ。

ーーしっかりしろ、桜太郎。教師だろ。

学級30名の大事な1年間を預かっているんだ。
こんなことで悩んでいる場合じゃない。

(自省はした。もう木下くんと2人きりにはならない)

一定の距離を保っていれば、変な錯覚を起こすことも無いだろう。

部屋の隅で飼っているにエビに餌をやる。これも毎朝欠かせないルーティンだった。

知人から譲り受けたベルベットブルーシュリンプ。目が覚めるような青が特徴的な淡水エビだ。

飼育が特別難しい品種ではないが、水質管理には注意を払う必要がある。
水は重要だ。
アルカリ性、酸性、硬水、軟水。見た目はどれも同じ「水」だが、合わない環境を強制すると、知らないうちに壊れてしまう。

「大篠 飛鳥を気にしとけ、か」

指の隙間からこぼれ落ちるシュリンプフードを眺めながら、ミントの忠告を復唱した。


**

「おはよーございます!」

「おはよ。今日も元気だね」

朝は校門に立って児童を出迎える。

子どもたちが心身ともに健やかでいること。そう在るために努めること。これが自分の役目だ。

桜太郎はぐっと背筋を伸ばした。

アイロンでシワを伸ばしたワイシャツと、よれることなく保たれたスラックスのセンタープレス。
そして、3日に一度セルフカットしている眉毛。清潔感には自信がある。

いつだって自分は、清く正しく……。

「おはよざいまーす」

ぶっきらぼうな声に、びくりと心臓が跳ねた。

(木下 爽人翠……!)

動揺を悟られないよう、笑顔を作る。

桜太郎が目線を下にやると、
必要以上にこちらを見つめるミントの姿があった。 

「……おはよう、木下くん」

昨日のことは一旦忘れよう。平常心だ、と心の中で唱えた。

「……」

爽やかな笑顔を振り撒く彼は、いつも通りの真面目な担任だ。

ミントは一瞬不服そうな表情を見せたが、「まあいいか」と息を吐いて、校舎へと歩を進めた。

ミントの後ろ姿を見送っていると、
パタパタと走る女児の姿が視界に入ってきた。桜太郎が担当しているクラスの児童だ。

「飛鳥ちゃんっ、おはよ!」

目的の友達まで辿り着くと、彼女はぽん、と肩に手を置いた。

「あ、ゆめりちゃん。おはよ」

振り向いて挨拶を返す飛鳥。
にこりと微笑んで、クラスメイトとの談笑に応じている。

自分の主張をせず、淡々と教師の指導方針に従う彼女は、いわゆる手のかからない児童だ。
勉強も出来るしスポーツに至ってはクラスでもトップレベル。家庭環境も問題なし。

だからこそ、あえて目をかけたことはなかった。

「そういえば、学習発表会で浴衣着るの楽しみだよね。飛鳥ちゃんは何色なの?」

飛鳥の表情がさっと陰る。

「あ、えっと」

その様子に、桜太郎の眉がぴくりと動いた。

ーーそういえば、役割決めの時から少し引っかかる態度を取っていたような。

「浴衣、持っていないんだよね……」

俯いてボソボソと話す彼女。

「そうなの? なーんだ、じゃあ貸してあげるよ!」

「えっ!? い、いいよ。悪いし」

「大丈夫だよー。色違いで持ってるからお揃いにしよ。帯にフリルが付いててとても可愛いんだ」

弾むように話す女児と、必死に返事を考えている様子の飛鳥。

他の児童からの挨拶に応じながら、桜太郎は横目で2人を観察し続けた。



**

『狙うは怨敵。吉良上野介ただヒトリ。』

台本を片手に、ミントがセリフを発する。
昼食を終えた後の4時間目は、学習発表会の練習だった。

児童たちだけが自分の出番を今か今かとソワソワしながら、台本を握りしめている。
そんな様子を、桜太郎は微笑ましく眺めた。最終的にはセリフの丸暗記が必要だが、その前にひとまず最後まで通すことで感覚を掴んでもらおうと考えていた。

「てか、ミントめっちゃ下手じゃね?」
「……!!」

誰もが思っても言えなかったことを、陽太は平然と指摘する。
ミントはぎくりと肩を揺らし、陽太の方を勢いよく振り返った。

「だから言ったろ! 主役なんか嫌だって!」

「お前、怨霊に化けて俺を脅した時、もっとまともに演れてただろ! 何だその大根!」

「あれは演技じゃねえから……、誰が大根だ!」

額を寄せながら言い合う2人を、他の児童たちが半ば引き気味に眺めている。

「こら、陽太くん。お友達が傷つくことは言わない! 木下くんだって一生懸命やってるんだから」

喧嘩に割って入ると、ミントがこちらをキッと睨む。

「余計みじめになる言い方すんな!」
「フォローしてるのに」

……頭が痛くなってきた。
桜太郎は、親指と人差し指で、眉間の皮膚をつまんだ。
冷静にならなくては。ことミントに対して、感情的になりやすいと嫌になるぐらい自覚しているのだから。


自分を鼓舞するように、両手で「パン」と音を鳴らした。
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