アナンケ2007*

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〇プロローグ:六月の花婿

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 ここ一番で読みを外すのであった。

 6月23日、土曜日、先勝。

 目黒―千歳船橋間であれば、電車で片道約40分、ドアtoドアで往復二時間は見込まれる。式の開始時刻午後二時には到底間に合いそうもないと思ってしまったのであった。

 よってタクシーを飛ばしての華麗なゴーアンドバックを狙った作戦は、行きは見事に34分49秒の好タイムをたたき出したものの、帰りの目黒通りでまさかの事故渋滞にハマってしまって、先ほどから一ミリも前進する気配は見受けられない。

 時刻午後1時45分。そろそろ式場の控え室くらいには入っていないといけない時間帯なのであった。しかも入場の際にもかけるBGMが収められたMDは自分の汗ばんだ掌に握られているわけで、これの調整にも少し時間がかかると踏むと、

(……間に合わない)

 のであった。顔面の温度は酒に酔った時よりも紅潮していて、心臓や肺の辺りに嫌な熱が上がってきている。体前面の熱上昇とは反対に、側面であるこめかみや両脇からは伝うごとにぞくりとさせられる冷や汗がつるつると流れ落ちてきているのであった。

 決断の時が訪れていた。

 ここここでいいです、おお降ります、と運転手に告げると、タキシードの内ポケットに入れていた剥き身でしっとりしてる一万円札を差し出し、おつりはいいですから、と左ドア付近に、とある失態から腫れあがり痛む尻を滑らせたところ、足りないよ、と「10120円」と表示されたメーターを示される。

 け、結構かかったなあ、と懐を再度探るものの、それ以上のものは何ひとつ持ってきていないことに気付くのであった。

 いいよ行きなよ、と運転手に促される。雅叙園まではあと一キロちょっとってとこかねえ、との重要な情報も得て、丁重に何度も礼を言ってからタクシーを降りる。路側を後方から迫ってきていたサンバイザー老婆の高速自転車に轢かれそうになりながらも、何とか小太りの体を歩道にのし上げるのであった。

 きのうの土砂降りからはうって変わっての快晴。それはまことに喜ばしいことではあるものの、ここ数年の亜熱帯的な温湿度は、脂肪でまんべんなく覆われた体から、水分と体力を秒単位で奪っていくのであった。

 むうう、と意を決し、大切なMDを内ポケットにしまい込むと、大渋滞を右手に、三色ブロックで舗装された歩道をこぱこぱと間抜けな音を響かせながら駆け始める。身長162センチの彼は、身長175センチの新婦とのバランスを調整するために、シークレットと言うのも憚られるレベルの、例えるなら500ミリリットルのロング缶で空き缶ぽっくりでもしているかのような、関節がひとつ増えたかのようなそんな厚底革靴を履いたまま式場を飛び出してきてしまったのであった。そのぎくしゃくとした生物学的に見慣れぬ動きがすれ違う子供を本能的に慄かせるものの、本人は必死で足を前に繰り出すのであった。

 土曜の昼下がりの人通りは当然多く、ぽっかぽっかと靴音を響かせる丸眼鏡の肥満体は目立つことこの上ない。何かのドラマの撮影か? と道行く人は皆、その必死の形相をした手負いの動物のような足さばきの全速デブを二度見していく。

 若き日のサモ・ハン・キンポーに酷似したその体型と中途半端に耳が隠れる長髪は、往年のアクションコメディを牽引したレジェンドを知る一部の通行人たちからは、すわ二代目デビューか!? などと、ぬか喜びにも程がある期待を抱かせてしまうのであった。

 なぜか選んでしまった膨張色であるクリームがかった白色のタキシードが、恵みを受けて鮮やかさを増した街路樹の緑と、舗装ブロックの臙脂に挟まれ、色合い的には非常に初夏の訪れを感じさせる清々しさがこの上ないものの、テンパリ過ぎた丸顔が弾むように横切る様は、見る者にとって根源的な不穏感も心中に沸き立たせていくのであった。

 そもそもの話、他ならぬ新郎である。綿密に本日の計画を練って、忘れ物などない状態で臨むのが普通である。しかし彼には如何ともしがたい理由があったのであった。それは、その正にその理由とは……

 ……前日まで、失踪していたからである。

いや、か、完全に自業じゃないか、との至極もっともなつっこみは何も生み出さないと思われるので、ひらりと過去に遡って経緯を追うことで、それらを華麗に躱していく所存なのであった。

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