闇獣シリーズ【R18】

有喜多亜里

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闇獣(あんじゅう)

1 闇にすくうもの

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 コンビニからの帰り道だった。
 何をとち狂ったか、槇野まきの皓一こういちは、普段は歩かないその土手っぷちを、日がとっぷりと暮れた時間帯に歩いてしまった。
 災難にあうときは、えてしてそんなものかもしれない。日が落ちても、犬の散歩やジョギングをしている人間はちらほらといた。だから、前方からその男がジョギングをしながら近づいてきても、皓一はまったく関心を払わなかった。

「……槇野か?」

 脇をすり抜けようとしたときにそう訊かれて、初めて皓一は相手の正体を知った。同時に、この道を選んだことを深く後悔した。
 中学時代の部活の先輩だった。
 皓一より二つ年上のこの男は、部長ではなかったが、テニス部のエースだった。顔もわりと整っていたので、当然のように女子に人気があった。しかし、なぜか皓一はこいつに妙に気に入られ、何かというと声をかけられ、しばしばひいきされた。皓一が一月ほどで部活をやめたときも、どうしてやめるんだとしつこく訊かれた。あんたがうっとうしいからだよ、とはさすがに皓一も言えなかった。
 部活をやめてからは、自然に接触する機会もなくなって、そのままこの男は卒業していった。だが、まさかこんなところで再会してしまうとは。

「そうです。……お久しぶりです」

 いくら苦手でも、一応は先輩である。皓一は軽く頭を下げた。

「おい、マジかよ。ほんとに久しぶりだな。中学出て以来か。おまえ、西高行ったんだよな?」

 何で知っているんだと皓一は不審に思ったが、それよりも早くここから立ち去りたかったので、曖昧に笑ってうなずいた。

「いやあ、おまえ、変わんねえなあ。あ、背伸びたか?」
「え、まあ……」

 無遠慮に自分の頭を撫でようとしてきた男の手を、皓一は反射的に避けた。

「すいません、俺、今ちょっと急いでて……これで――」

 失礼します、と言う前に、男が皓一の腕をつかんで思いきり引っ張った。まさかそんなことをされるとは思っていなかった皓一は、バランスを崩して土手に落ちた。

「危ねえ、危ねえ」

 そうしたのは自分のくせに、白々しく男は言い、皓一を助け起こすどころか、そのまま土手の斜面に押しつけた。

「何もそう露骨に避けることないだろ」

 暗くて表情はよく見えなかったが、男がにやにやしているだろうことは声でわかった。

「中学んときも、おまえ、そうだったよな。あんなに可愛がってやったのに、いっつも迷惑そうな顔してた」

 ジョギング中だった男の体は熱い。心臓が激しく脈打っているのも直に伝わってきた。

「でも俺、おまえのそういう顔も好きなんだよな」

 最悪だった。
 何とか逃れようと身をねじらせたが、力を入れれば入れるほど、男も力まかせに押さえこんでくる。荒い息を吐きながら、口で皓一の口を塞ごうとしてくる。
 必死で顔をそむけつづけていた、そのとき皓一の耳に第三の声が届いた。

 ――何ヲスル。

 まだたどたどしさの残る低い声。
 しかし、皓一の空耳ではなかった証拠に、男が動きを止め、あわてて周囲を見回した。

 ――コレハ我ノモノ。ソノ汚イ手ヲ離セ。

「おい、誰かいるのか!?」

 男の声に怯えが混じった。確かに、こんなところを人に見られたらまずいだろう。被害者であるはずの皓一だってばつが悪い。

 ――離レロ。

 その瞬間。
 皓一にのしかかっていた男が、背後にある川のほうに向かって吹き飛ばされていった。
 まるで誰かに蹴飛ばされたか、引っ張られでもしたかのようだったが、皓一は何もしていなかったし、男の後ろにも誰もいなかった。男は斜面を飛び越して、下の枯草の中へ落ちた――ようだった。

「くそ、誰だ……」

 姿の見えない何者かに男は罵声を浴びせようとした。が、その声は中途半端に切れて終わってしまった。
 皓一は斜面に尻をついたまま、男が落ちたあたりの闇を見つめていた。
 あの声に、聞き覚えがあった。だが、あれは夢で、これは現実で――

「先輩……大丈夫……ですよね?」

 おそるおそる皓一は声をかけた。変態だが、放っておくわけにもいかない。
 しかし、返ってきたのは虫の鳴き声だけだった。

「俺――帰りますよ?」

 やはり、返事はない。迷ったあげく、皓一は立ち上がり、元いた道に戻った。
 下に下りて確認する気にはとてもなれない。ならば、このままここから立ち去ってしまおう。
 と。
 声が聞こえた。
 否。それは声というより、喘ぎに近かった。
 しかも、それはあの男が落ちた付近からしていた。がさがさと草を掻きわけるような音と共に。

「先輩……?」

 怪我でもして痛みに呻いているのだろうか。皓一は足を止め、闇に目を凝らした。

「……はぁ……やめ……」

 かすかだが、そんな声が聞こえた。あの男の声だ。だが、その声の調子は皓一が知っているものとはまるで異なっていた。それはまるで――女が漏らす嬌声。

「あッ……あッあッあッあッ……」

 あのときの声は、なぜか滑稽で間抜けに聞こえる。しかし、このときの皓一にそれを笑う余裕はなかった。

(奴がいる)

 それはもう確信以上だった。今、この下には奴がいて、あの夜、皓一にしようとしたことをあの男にしている。

「う……はぁ、はぁ、は……あぁあ!」

 一際、大きな声が上がった。それを合図に、皓一は走った。
 結果的には、皓一を助けてくれたことになる。でも、あのとき、あいつは何と言った?

 ――コレハ我ノモノ。

 だったら、次は――
 皓一は走った。脇目もふらず、ただ走った。こんなに必死で自宅に帰ったのは、生まれて初めてだったかもしれない。

(ここまで来れば……)

 ぜいぜい言いながら、背後の闇を振り返った。
 誰もいない。いないはずなのに。

 ――我ハココニイル……マキノ。

「うわああああ!」

 皓一は絶叫して、玄関の中へと逃げこんだ。

「何!? どうしたの!?」

 母親があわてて玄関に飛んでくる。

「いや……その……」

 まさか、男を犯す化け物に追われていました、とは言えない。

「虫が……何か虫が顔にぶつかって……」

 しどろもどろで、苦しい言い訳をする。

「何それ。男のくせに、情けないわね」

 だが、それを信じた母親はたちまち呆れ顔になり、家の奧に戻っていってくれた。大きく息を吐き出し、玄関に腰を下ろす。
 奴の気配はもうどこにもない。そして、あの男に会う前にぶらさげていたコンビニ袋もなくなってしまっていることに、このときようやく気がついた。
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