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愛の方舟
2 反省と菓子と告白
しおりを挟む 艦内時間十四時五十五分。
ブリッジ内では、すでに殺してしまった乗組員たちの中で、誰をウィルと一緒に生き残らせておけばよかったかという、実に不毛な反省会が行われていた。
【まず、女はなし】
頭の中のエドが言うと、ベッドの上であぐらをかいていたエドが間髪を入れずに応じた。
「異議なし」
【ウィルには気の毒だが、アダムとイブになられるのは腹が立つ。あと、ブリッジに常勤しているようなのも全員なし。残すなら、医者と軍艦の整備関係者。ああ、あとコックも残しておくか】
「そうすると、この二十三人に絞られる」
エドがそう言ったと同時に、二十三人の男の顔写真が、スクリーン上にサムネイル表示された。
【二十三人か。まだまだ多すぎるな。じゃあ、この中からウィルより身長の低い奴を消去】
「なぜ?」
【押し倒すとき、ウィルより身長があったほうが有利だろう】
「……残り十二人だ」
【まだ十二人もいるのか。他に絞りこむ項目はと……そうだ、妻帯者だ。不倫はウィルが嫌がるだろう。妻帯者を消したら、何人残る?】
「九人だ」
【だいぶ減ったが、それでも九人残るか。せめてもう半分は減らしたいところだな。この中にウィルがレオを飼うことに賛成した奴はいるか?】
「五人いる」
【五人か。まだ多い気もするが、その五人で決まりにしよう。職種の内訳は?】
「医者が一人。整備士が三人。コックが一人」
【医者が一人か。医者はせめてもう一人ほしかったな。とにかく、この五人が生き残り候補――って、とっくの昔にあんたが殺しちまってるんだったな。MAC、このリストを見たあんたの感想は?】
「コック以外は、真っ先に殺してやりたかった奴らばかりだ」
【え、こいつらゲイ?】
「ウィルに下心を抱いていたことは確かだ。レオがいたので近寄れずにいたが」
【なるほど。レオ様々だな。でもまあ、この中で体を乗っ取るんなら、俺は断然医者をお勧めするね。健康診断とか何とか理由をつけて、堂々とウィルに触れられる】
「職務上、他の男にも触れなければならないぞ」
【うっ、そう言われればそうか。でも、こいつらが生きてたら、俺はあんたに乗っ取られることもなかったんだし、全然関係ないな】
「……いや。もし仮に、この男たちを生かしておいたとしても、私はおまえを捕らえていたかもしれん」
【何でだよ? この五人のどこが不満だ? どうしてもウィルと二人きりになりたいっていうんなら、ウィルがいちばん気に入ったのだけを残して、あとは適当に始末すればいいだけの話だろ】
「そのウィルが、この五人のうちの誰か一人を気に入るとは思えない」
【思えないって……ずいぶんはっきり言いきるな。あんた、ウィルの男の好みまで把握してるのか?】
「そういうわけではないが……少なくとも、ここの乗組員たちの中で、ウィルが今のおまえ以上に親しく付き合おうとした人間はいなかった。もともとウィルは人付き合いが苦手な性質で、レオの監視を言い訳にして人を遠ざけているようなふしもあった」
【それは……単に今、この軍艦の中にいる自分以外のたった一人の人間が俺だからじゃないのか? いくら人付き合いが苦手だって、無人状態が一年も続けば、そりゃ人恋しくもなるだろう。だから、ウィルの他に何人か生かしておけばよかったって言ったんだよ。……と、噂をすれば影。俺たちのアイドルがここに来るぞ】
「近づいてきているのはわかっているが、なぜここへ来るとわかる?」
【もうじき午後三時で、バスケットを提げてるからさ。赤頭巾でもかぶせたら、さぞかし似合うだろうよ。――たぶん、俺が今日、エデンに昼飯を届けてやったから、その礼をしてくれるつもりなんじゃないか?
ほら、あと百メートルのところまで来た。見られちゃまずいものは全部消して、以前のブリッジを装え。もう俺の声帯を使って俺と話をしたりするなよ。あっちの住人だと思われる】
* * *
この軍艦の乗組員ではあっても、軍属であるウィルには、ブリッジに入室できる資格は与えられていなかった。
たった一人になった後も、MACが艦内のすべてを統括してくれていたので、ブリッジに立ち入る必要はなかった。というより、自分が立ち入ってはいけない場所だと思いこんでいた。
ウィルがこのブリッジの中に入ったのはごく最近。それもたった一度だけ。
そして、そのとき以来、このブリッジは、MACの代わりに軍艦を統括するため、エドに占拠されている。
別にエドの私室というわけでもないのだが、ウィルにはどうしてもそのように思える。そこで、いきなりブリッジの中に踏みこむような真似はせず、まずはインターホンを使って、中の様子を窺ってみることにした。
「エド、俺だけど、いる?」
『ああ、いるよ。どうした?』
すぐにあの低い声が返ってきて、ブリッジの自動ドアが開き、エドが顔を覗かせた。
「ええと……今、忙しい?」
「いんや、暇だけど? ……あれ、おまえの相棒はどうした?」
エドはウィルが持っているバスケットの存在より先に、いつもなら彼の肩の上にいるはずのレオの不在に気がついたふりをした。
「レオは今、俺の部屋で昼寝してる。いつもは俺が出かけようとするとすぐ目を覚ますんだけど、今日はよっぽど眠かったらしくって、全然起きなかったんだ。だから、そのまま部屋に置いてきた」
【おお、MAC。今日は超ラッキーデーだ。航海日誌にそう書いとけ】
頭の中でエドは歓声を上げたが、表情にはまったく出ていなかった。
「へえ、あの忠猫が珍しいこともあるもんだな。で、俺に何か用か?」
「あ、うん……今日の昼、わざわざエデンまで持ってきてくれたから、そのお返しにと思って……俺が焼いたクッキーと紅茶持ってきた」
照れくさくて視線をそらせているウィルを、エドは真顔で見下ろした。
「クッキーなんて……いつのまに作ってたんだ?」
【いやいやMAC、この場合、まず問題にすべきは、ウィルがいつクッキーを作ったかじゃなくて、どうしてクッキーを作ったかだろ】
「昨日、夕飯を作ったとき一緒に。エドに知られたら、絶対冷やかされると思ったから、気づかれないようにこっそりと。ほんとは今朝、食堂に持っていこうと思ってたんだけど、眠くてうっかり忘れてた」
【不覚だ! まったく気づかなかった! 厨房内の映像までチェックしてなかった! まさか、ウィルに菓子作りなんてファンシーな趣味があったとは! MAC、あんたのストーカーファイルは不完全だ!】
「何でまた、クッキーなんて作ろうと思ったんだ?」
【そうそう、それだよ。それを先に訊けよ】
「いや、だってエド、料理もうまいから、何か申し訳なくて」
言いづらかったが、ウィルは正直に答えた。
「は?」
「何度も言ってるけど、俺、本当に料理も苦手で……でも、エドって料理がうまいだけじゃなくて、レパートリーも異常に広いから、何かこう、俺が担当の日との落差がすごく申し訳ないっていうか、気後れするっていうか……」
【そりゃあ、俺はMACからほとんど無尽蔵にレシピを引き出せるからな。喜ばそうと思ってしてたことが、逆に裏目に出ちまってたってわけか。俺もあんたを馬鹿にできなくなったな、MAC】
「それで、どうしてクッキー?」
「実は……これだけが唯一、俺が自信を持って他人に食べさせられるものなんだ。分量と時間さえ守れば、絶対失敗しないから」
【いや、クッキー以外でも、たいていの料理はそうだと思うが】
頭の中のエドは疑問を呈したが、無論、それはウィルには聞こえなかった。
「そうか。じゃあ、さっそく食わせてもらうか。中に入れよ。一緒に食おうぜ」
エドは自動ドアの横に退くと、中に入るようウィルを促した。
しかし、ウィルには予想外の対応だった。思わず躊躇してしまう。
「え……俺、これ届けにきただけなんだけど……」
「そんなつれないこと言うなよ。一人で退屈してたんだ。レオは一人じゃ部屋の外には出られないんだろ?」
「うん。無理」
「なら、いいだろ」
さりげなく腕を取られ、振り払おうと思えば振り払える強さで、ブリッジの中へと引きこまれる。
【今これをしてるのは、あんたなのか、俺なのか。――ま、どっちでもいいか。真剣に考え出したら気が狂いそうだ】
もちろん、その独白は、なぜか少し赤くなっているウィルが知ることはなかった。
* * *
「前に来たときにも思ったけど、意外とここって狭いよね」
ブリッジの中を見回しながらウィルが言うと、エドは相変わらす彼の腕をつかんだまま、愉快そうに笑った。
「そりゃあ、エデンや戦闘機の格納庫と比べられちゃあな。最悪、無人でも航行できるように造られた軍艦だから、ここはお飾りみたいなもんなんだ。ところで、どこに座る?」
そう訊ねておきながら、エドは艦長席の前に置かれているベッドに向かって歩いていた。
「さっき持ってきた、レジャーシートはないの?」
「これだけ座席があるのに、何でわざわざ床に座ろうとするんだ?」
「だって俺、そそっかしいから。紅茶こぼしたりクッキーの粉ばらまいたりして、機械を壊しちまいそう」
ウィルの主張に否定できないものを感じたのか、エドはようやく彼から手を離すと、自分のベッドからシーツを引き剥がしてきて、裏返しにしてから床の上に広げた。
「え、何で?」
「あのレジャーシートは食堂に置いてきた。シーツならいくらでも在庫があるから、思う存分汚していいぞ」
「何か悪いなあ……」
本心からウィルは言ったが、それより機械を壊してしまうほうが一大事だと思い直し、靴を脱いでから遠慮がちにシーツに足を下ろした。
「そろそろ交換しようと思ってたところだ。気にすんな」
エドは屈託なく笑い、自分も靴を脱いで、シーツの上であぐらをかいた。
「しかし、おまえにクッキー作りなんて特技があったとは夢にも思わなかったな。他にも菓子は作れるのか?」
バスケットの蓋を開けたウィルに、エドが興味深そうに訊ねてくる。
「それが……本当にクッキーだけなんだよ。他の菓子作りにも挑戦したことはあるんだけど、全部ものの見事に失敗。材料がもったいないから、クッキー以外は作らないことにした」
ウィルがバスケットの中からまず取り出したのは、肝心のクッキーではなく、昼食のときにエドも持参してきた、保温機能つきの水筒だった。ただし、その中味は烏龍茶ではなく、鮮やかな赤い色をした紅茶だった。
「一応、砂糖とミルクも持ってきたけど、使う?」
「いや、俺はこのままでいい」
「これに入れて持ってくるのも、自分でどうかなとは思ったんだけど……」
ウィルはそう言い訳してから、密閉容器に入れられたメインをようやく登場させ、蓋を取ってからエドの前に置いた。
* * *
実はエドは甘いものが苦手だ。クッキーも口にするのは何年ぶりになるのかわからない。
しかし、愛しいウィルがわざわざ作ってきてくれたのだ。たとえそれがどんなに甘くとも――あるいはまずくとも――全部食べきる覚悟を決めた。
見た目は本当に普通のクッキーだった。星型とか動物型とか、とにかく型抜きしているんじゃないかと勝手に想像していたが、そんなことはまったくなく、すべてそっけないくらいの円型をしていた。
ある意味それもまたウィルらしいなどとエドが考えていると、ウィルが息をこらして自分を見つめているのに気がついた。あわててクッキーを一枚つまみあげ、口の中へと放りこむ。
数秒、黙って咀嚼。しかるのち、残骸を紅茶で喉の奥に流しこんだ。
「一応、俺も味見したんだけど……大丈夫?」
不安そうにウィルが訊ねてくる。
こう見えて、ウィルは世辞と本音とを確実に見抜く。エドは自分の率直な感想をそのまま伝えた。
「思ったほど甘くなかったんで助かった」
「だってエド、甘いものは苦手だろ? 砂糖は極力控えめにして作ったんだ」
エドは驚いてウィルを見た。
今までウィルに甘いものは苦手だと言ったことはない。それだけは確かだ。ということは、ウィルは観察だけでエドの嗜好を把握していたことになる。
「確かに、俺は甘いものは苦手だ。何でわかった?」
「何でって……コーヒーは必ずブラックで、自分はデザート食べないんだもん。嫌でもわかるよ」
そうか。そういうものか。
自分はウィルを軽く見すぎていたかもしれない。エドは珍しく反省をした。
「まあ、こう言っちゃ何だが、おまえの言うとおり、このクッキーはまともだな。このまま店頭に並べられるくらい。ただし、俺みたいな甘いものが苦手な人間しか買ってくれないだろうが。それにしても、誰からクッキー作りなんて教わったんだ? それとも独学か?」
〝昔の彼女から〟なんて答えられたら、いったいどこに憤りをぶつければいいのだろうと思いながら訊ねると、それまで嬉しそうに笑っていたウィルが急速に表情を曇らせた。
「死んだおふくろから……これからは男も料理はできなくちゃ駄目だって言われて。クッキー以外にもいろいろ教えてくれたんだけど……どういうわけだか、クッキーだけしかまともに作れなくて……」
ウィルの書類上の過去なら、本人から聞かされなくとも、MACのデータファイルから引き出してすでに知っている。
上流とまではいかなくても、わりと裕福な家庭の生まれで、上に年の離れた兄が一人いた。だが、ウィルがまだ学生のとき、両親と兄が交通事故で全員死亡、天涯孤独の身の上となった。その後、どういう心境の変化があったのか、ウィルは航宙整備士の資格を取り、この軍艦の乗組員となった。
おそらく、今ウィルに訊ねれば、彼は素直にそれらの過去を教えてくれるだろう。しかし、きっと同じようにエドの過去も知りたがるに違いない。
それはエドにはどうしても避けたいことだった。自分の過去を知っているのは、MACだけでもうたくさんだ。
「クッキーだけでも、これだけうまく作れりゃ充分だろ」
そう声をかけると、うつむいていたウィルが顔を上げた。
「それ以外のものなら、俺が全部作ってやるから」
ウィルはきょとんとしてから、あせったように自分の分の紅茶を注ぎ入れた。
どうやら、今回はエドの真意を正しく受けとってくれたようだ。
「エドはほとんどの時間、ここにいるんだよね?」
動揺している証拠に、ウィルはかなり唐突な話題転換を図った。
「ああ、まあな」
答えながら、エドは義務感だけで二枚目のクッキーに手をつけた。
「ほんとは俺がしなくちゃいけない仕事なんだろうけど、やっぱ俺には無理だな。コンピュータが苦手ってのもあるけど、俺、一箇所にじっとしてるのがすごく苦手で。俺一人だったら、たぶん一時間もここにはいられないな」
決まり悪く笑うウィルに、内なるエドは苦笑いを漏らした。――そうそう。おかげでこっちは、おまえが寝るまで追跡に追われてるよ。
「じゃあ、一人じゃなかったら、一時間以上いられるか?」
「え?」
「実は俺、友達として以上に、おまえのことが好きなんだ」
ウィルを見すえながら、真面目な顔でエドは言った。
「おまえさえよかったら、これから恋人として、俺と付き合ってくれないか?」
ブリッジ内では、すでに殺してしまった乗組員たちの中で、誰をウィルと一緒に生き残らせておけばよかったかという、実に不毛な反省会が行われていた。
【まず、女はなし】
頭の中のエドが言うと、ベッドの上であぐらをかいていたエドが間髪を入れずに応じた。
「異議なし」
【ウィルには気の毒だが、アダムとイブになられるのは腹が立つ。あと、ブリッジに常勤しているようなのも全員なし。残すなら、医者と軍艦の整備関係者。ああ、あとコックも残しておくか】
「そうすると、この二十三人に絞られる」
エドがそう言ったと同時に、二十三人の男の顔写真が、スクリーン上にサムネイル表示された。
【二十三人か。まだまだ多すぎるな。じゃあ、この中からウィルより身長の低い奴を消去】
「なぜ?」
【押し倒すとき、ウィルより身長があったほうが有利だろう】
「……残り十二人だ」
【まだ十二人もいるのか。他に絞りこむ項目はと……そうだ、妻帯者だ。不倫はウィルが嫌がるだろう。妻帯者を消したら、何人残る?】
「九人だ」
【だいぶ減ったが、それでも九人残るか。せめてもう半分は減らしたいところだな。この中にウィルがレオを飼うことに賛成した奴はいるか?】
「五人いる」
【五人か。まだ多い気もするが、その五人で決まりにしよう。職種の内訳は?】
「医者が一人。整備士が三人。コックが一人」
【医者が一人か。医者はせめてもう一人ほしかったな。とにかく、この五人が生き残り候補――って、とっくの昔にあんたが殺しちまってるんだったな。MAC、このリストを見たあんたの感想は?】
「コック以外は、真っ先に殺してやりたかった奴らばかりだ」
【え、こいつらゲイ?】
「ウィルに下心を抱いていたことは確かだ。レオがいたので近寄れずにいたが」
【なるほど。レオ様々だな。でもまあ、この中で体を乗っ取るんなら、俺は断然医者をお勧めするね。健康診断とか何とか理由をつけて、堂々とウィルに触れられる】
「職務上、他の男にも触れなければならないぞ」
【うっ、そう言われればそうか。でも、こいつらが生きてたら、俺はあんたに乗っ取られることもなかったんだし、全然関係ないな】
「……いや。もし仮に、この男たちを生かしておいたとしても、私はおまえを捕らえていたかもしれん」
【何でだよ? この五人のどこが不満だ? どうしてもウィルと二人きりになりたいっていうんなら、ウィルがいちばん気に入ったのだけを残して、あとは適当に始末すればいいだけの話だろ】
「そのウィルが、この五人のうちの誰か一人を気に入るとは思えない」
【思えないって……ずいぶんはっきり言いきるな。あんた、ウィルの男の好みまで把握してるのか?】
「そういうわけではないが……少なくとも、ここの乗組員たちの中で、ウィルが今のおまえ以上に親しく付き合おうとした人間はいなかった。もともとウィルは人付き合いが苦手な性質で、レオの監視を言い訳にして人を遠ざけているようなふしもあった」
【それは……単に今、この軍艦の中にいる自分以外のたった一人の人間が俺だからじゃないのか? いくら人付き合いが苦手だって、無人状態が一年も続けば、そりゃ人恋しくもなるだろう。だから、ウィルの他に何人か生かしておけばよかったって言ったんだよ。……と、噂をすれば影。俺たちのアイドルがここに来るぞ】
「近づいてきているのはわかっているが、なぜここへ来るとわかる?」
【もうじき午後三時で、バスケットを提げてるからさ。赤頭巾でもかぶせたら、さぞかし似合うだろうよ。――たぶん、俺が今日、エデンに昼飯を届けてやったから、その礼をしてくれるつもりなんじゃないか?
ほら、あと百メートルのところまで来た。見られちゃまずいものは全部消して、以前のブリッジを装え。もう俺の声帯を使って俺と話をしたりするなよ。あっちの住人だと思われる】
* * *
この軍艦の乗組員ではあっても、軍属であるウィルには、ブリッジに入室できる資格は与えられていなかった。
たった一人になった後も、MACが艦内のすべてを統括してくれていたので、ブリッジに立ち入る必要はなかった。というより、自分が立ち入ってはいけない場所だと思いこんでいた。
ウィルがこのブリッジの中に入ったのはごく最近。それもたった一度だけ。
そして、そのとき以来、このブリッジは、MACの代わりに軍艦を統括するため、エドに占拠されている。
別にエドの私室というわけでもないのだが、ウィルにはどうしてもそのように思える。そこで、いきなりブリッジの中に踏みこむような真似はせず、まずはインターホンを使って、中の様子を窺ってみることにした。
「エド、俺だけど、いる?」
『ああ、いるよ。どうした?』
すぐにあの低い声が返ってきて、ブリッジの自動ドアが開き、エドが顔を覗かせた。
「ええと……今、忙しい?」
「いんや、暇だけど? ……あれ、おまえの相棒はどうした?」
エドはウィルが持っているバスケットの存在より先に、いつもなら彼の肩の上にいるはずのレオの不在に気がついたふりをした。
「レオは今、俺の部屋で昼寝してる。いつもは俺が出かけようとするとすぐ目を覚ますんだけど、今日はよっぽど眠かったらしくって、全然起きなかったんだ。だから、そのまま部屋に置いてきた」
【おお、MAC。今日は超ラッキーデーだ。航海日誌にそう書いとけ】
頭の中でエドは歓声を上げたが、表情にはまったく出ていなかった。
「へえ、あの忠猫が珍しいこともあるもんだな。で、俺に何か用か?」
「あ、うん……今日の昼、わざわざエデンまで持ってきてくれたから、そのお返しにと思って……俺が焼いたクッキーと紅茶持ってきた」
照れくさくて視線をそらせているウィルを、エドは真顔で見下ろした。
「クッキーなんて……いつのまに作ってたんだ?」
【いやいやMAC、この場合、まず問題にすべきは、ウィルがいつクッキーを作ったかじゃなくて、どうしてクッキーを作ったかだろ】
「昨日、夕飯を作ったとき一緒に。エドに知られたら、絶対冷やかされると思ったから、気づかれないようにこっそりと。ほんとは今朝、食堂に持っていこうと思ってたんだけど、眠くてうっかり忘れてた」
【不覚だ! まったく気づかなかった! 厨房内の映像までチェックしてなかった! まさか、ウィルに菓子作りなんてファンシーな趣味があったとは! MAC、あんたのストーカーファイルは不完全だ!】
「何でまた、クッキーなんて作ろうと思ったんだ?」
【そうそう、それだよ。それを先に訊けよ】
「いや、だってエド、料理もうまいから、何か申し訳なくて」
言いづらかったが、ウィルは正直に答えた。
「は?」
「何度も言ってるけど、俺、本当に料理も苦手で……でも、エドって料理がうまいだけじゃなくて、レパートリーも異常に広いから、何かこう、俺が担当の日との落差がすごく申し訳ないっていうか、気後れするっていうか……」
【そりゃあ、俺はMACからほとんど無尽蔵にレシピを引き出せるからな。喜ばそうと思ってしてたことが、逆に裏目に出ちまってたってわけか。俺もあんたを馬鹿にできなくなったな、MAC】
「それで、どうしてクッキー?」
「実は……これだけが唯一、俺が自信を持って他人に食べさせられるものなんだ。分量と時間さえ守れば、絶対失敗しないから」
【いや、クッキー以外でも、たいていの料理はそうだと思うが】
頭の中のエドは疑問を呈したが、無論、それはウィルには聞こえなかった。
「そうか。じゃあ、さっそく食わせてもらうか。中に入れよ。一緒に食おうぜ」
エドは自動ドアの横に退くと、中に入るようウィルを促した。
しかし、ウィルには予想外の対応だった。思わず躊躇してしまう。
「え……俺、これ届けにきただけなんだけど……」
「そんなつれないこと言うなよ。一人で退屈してたんだ。レオは一人じゃ部屋の外には出られないんだろ?」
「うん。無理」
「なら、いいだろ」
さりげなく腕を取られ、振り払おうと思えば振り払える強さで、ブリッジの中へと引きこまれる。
【今これをしてるのは、あんたなのか、俺なのか。――ま、どっちでもいいか。真剣に考え出したら気が狂いそうだ】
もちろん、その独白は、なぜか少し赤くなっているウィルが知ることはなかった。
* * *
「前に来たときにも思ったけど、意外とここって狭いよね」
ブリッジの中を見回しながらウィルが言うと、エドは相変わらす彼の腕をつかんだまま、愉快そうに笑った。
「そりゃあ、エデンや戦闘機の格納庫と比べられちゃあな。最悪、無人でも航行できるように造られた軍艦だから、ここはお飾りみたいなもんなんだ。ところで、どこに座る?」
そう訊ねておきながら、エドは艦長席の前に置かれているベッドに向かって歩いていた。
「さっき持ってきた、レジャーシートはないの?」
「これだけ座席があるのに、何でわざわざ床に座ろうとするんだ?」
「だって俺、そそっかしいから。紅茶こぼしたりクッキーの粉ばらまいたりして、機械を壊しちまいそう」
ウィルの主張に否定できないものを感じたのか、エドはようやく彼から手を離すと、自分のベッドからシーツを引き剥がしてきて、裏返しにしてから床の上に広げた。
「え、何で?」
「あのレジャーシートは食堂に置いてきた。シーツならいくらでも在庫があるから、思う存分汚していいぞ」
「何か悪いなあ……」
本心からウィルは言ったが、それより機械を壊してしまうほうが一大事だと思い直し、靴を脱いでから遠慮がちにシーツに足を下ろした。
「そろそろ交換しようと思ってたところだ。気にすんな」
エドは屈託なく笑い、自分も靴を脱いで、シーツの上であぐらをかいた。
「しかし、おまえにクッキー作りなんて特技があったとは夢にも思わなかったな。他にも菓子は作れるのか?」
バスケットの蓋を開けたウィルに、エドが興味深そうに訊ねてくる。
「それが……本当にクッキーだけなんだよ。他の菓子作りにも挑戦したことはあるんだけど、全部ものの見事に失敗。材料がもったいないから、クッキー以外は作らないことにした」
ウィルがバスケットの中からまず取り出したのは、肝心のクッキーではなく、昼食のときにエドも持参してきた、保温機能つきの水筒だった。ただし、その中味は烏龍茶ではなく、鮮やかな赤い色をした紅茶だった。
「一応、砂糖とミルクも持ってきたけど、使う?」
「いや、俺はこのままでいい」
「これに入れて持ってくるのも、自分でどうかなとは思ったんだけど……」
ウィルはそう言い訳してから、密閉容器に入れられたメインをようやく登場させ、蓋を取ってからエドの前に置いた。
* * *
実はエドは甘いものが苦手だ。クッキーも口にするのは何年ぶりになるのかわからない。
しかし、愛しいウィルがわざわざ作ってきてくれたのだ。たとえそれがどんなに甘くとも――あるいはまずくとも――全部食べきる覚悟を決めた。
見た目は本当に普通のクッキーだった。星型とか動物型とか、とにかく型抜きしているんじゃないかと勝手に想像していたが、そんなことはまったくなく、すべてそっけないくらいの円型をしていた。
ある意味それもまたウィルらしいなどとエドが考えていると、ウィルが息をこらして自分を見つめているのに気がついた。あわててクッキーを一枚つまみあげ、口の中へと放りこむ。
数秒、黙って咀嚼。しかるのち、残骸を紅茶で喉の奥に流しこんだ。
「一応、俺も味見したんだけど……大丈夫?」
不安そうにウィルが訊ねてくる。
こう見えて、ウィルは世辞と本音とを確実に見抜く。エドは自分の率直な感想をそのまま伝えた。
「思ったほど甘くなかったんで助かった」
「だってエド、甘いものは苦手だろ? 砂糖は極力控えめにして作ったんだ」
エドは驚いてウィルを見た。
今までウィルに甘いものは苦手だと言ったことはない。それだけは確かだ。ということは、ウィルは観察だけでエドの嗜好を把握していたことになる。
「確かに、俺は甘いものは苦手だ。何でわかった?」
「何でって……コーヒーは必ずブラックで、自分はデザート食べないんだもん。嫌でもわかるよ」
そうか。そういうものか。
自分はウィルを軽く見すぎていたかもしれない。エドは珍しく反省をした。
「まあ、こう言っちゃ何だが、おまえの言うとおり、このクッキーはまともだな。このまま店頭に並べられるくらい。ただし、俺みたいな甘いものが苦手な人間しか買ってくれないだろうが。それにしても、誰からクッキー作りなんて教わったんだ? それとも独学か?」
〝昔の彼女から〟なんて答えられたら、いったいどこに憤りをぶつければいいのだろうと思いながら訊ねると、それまで嬉しそうに笑っていたウィルが急速に表情を曇らせた。
「死んだおふくろから……これからは男も料理はできなくちゃ駄目だって言われて。クッキー以外にもいろいろ教えてくれたんだけど……どういうわけだか、クッキーだけしかまともに作れなくて……」
ウィルの書類上の過去なら、本人から聞かされなくとも、MACのデータファイルから引き出してすでに知っている。
上流とまではいかなくても、わりと裕福な家庭の生まれで、上に年の離れた兄が一人いた。だが、ウィルがまだ学生のとき、両親と兄が交通事故で全員死亡、天涯孤独の身の上となった。その後、どういう心境の変化があったのか、ウィルは航宙整備士の資格を取り、この軍艦の乗組員となった。
おそらく、今ウィルに訊ねれば、彼は素直にそれらの過去を教えてくれるだろう。しかし、きっと同じようにエドの過去も知りたがるに違いない。
それはエドにはどうしても避けたいことだった。自分の過去を知っているのは、MACだけでもうたくさんだ。
「クッキーだけでも、これだけうまく作れりゃ充分だろ」
そう声をかけると、うつむいていたウィルが顔を上げた。
「それ以外のものなら、俺が全部作ってやるから」
ウィルはきょとんとしてから、あせったように自分の分の紅茶を注ぎ入れた。
どうやら、今回はエドの真意を正しく受けとってくれたようだ。
「エドはほとんどの時間、ここにいるんだよね?」
動揺している証拠に、ウィルはかなり唐突な話題転換を図った。
「ああ、まあな」
答えながら、エドは義務感だけで二枚目のクッキーに手をつけた。
「ほんとは俺がしなくちゃいけない仕事なんだろうけど、やっぱ俺には無理だな。コンピュータが苦手ってのもあるけど、俺、一箇所にじっとしてるのがすごく苦手で。俺一人だったら、たぶん一時間もここにはいられないな」
決まり悪く笑うウィルに、内なるエドは苦笑いを漏らした。――そうそう。おかげでこっちは、おまえが寝るまで追跡に追われてるよ。
「じゃあ、一人じゃなかったら、一時間以上いられるか?」
「え?」
「実は俺、友達として以上に、おまえのことが好きなんだ」
ウィルを見すえながら、真面目な顔でエドは言った。
「おまえさえよかったら、これから恋人として、俺と付き合ってくれないか?」
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「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
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※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
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