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アウトサイダーズ
【後編】赤い部屋(後日譚)
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アレン・リデルの嫌いなものは、だいたい三つに集約される。
自分。鏡。変態。
前の二つに関しては、以前に比べればかなり軽減されたが、最後の一つに対する嫌悪感は増加の一途をたどっている。
「リデルー」
自室のドアをノックされても無視して本を読みつづけていたら、バスローブ姿の変態が勝手に入ってきて、背後からアレンの首元に両腕を回してきた。
必ずシャワーを浴びてくるのはこの男なりの気遣いなのだろうが、アレンにしてみれば自動的にあのときのことが思い出されて、ただでさえ悪い気分がもっと悪くなる。
「冷静に考えてみたんだが」
無駄だろうと思いつつも、本に目を落としたまま言ってみる。
「一昨日、君は人を殺せたのだから、私の体は要求できないのではないのかね? 人殺しをしないことが条件だったはずだ」
「今さらそれを言うのかよ」
案の定、変態は不機嫌そうにそう返して、アレンの耳許に唇を寄せた。
「最初から俺に殺させるつもりだったんだろ? 殺す相手を指定したんだから、その分、俺にくれよ。約束どおり、延長含めて二時間」
せめて三十分にしておけばよかった。アレンはこれ見よがしに嘆息してから、読書机の上に置いてあった白い糸を白手袋をはめた手で拾い上げ、本ののどに注意深く挟みこんで丁寧に閉じた。アレンが本に触れている間はこの変態もおとなしくしている。そういうところも小賢しくて腹立たしい。
「もういいよな?」
本から手を離したとたん、待ちかねたように変態が言い、回転椅子を半回転させた。白いバスローブの上からもわかる逞しい体が視界に入る。――見たくない。
反射的にうつむいたアレンの顔に、変態が両手を伸ばしてくる。何をするつもりなのかはもうわかっている。だが、邪魔だからなのか、アレンの心情を慮ってなのかはわからない。確認したくもない。
アレンが本を扱うときと同じように、もしかしたらそれ以上に慎重に眼鏡を外される。一瞬目を閉じてまた開くと、自分の黒いスリッパはぼやけて見えた。しかし、この距離ではバスローブは依然としてバスローブのままだ。おまけに、畳んだ眼鏡を机の上に置くついでに、そのバスローブに強く抱きしめられた。
まだ湿っているバスローブからは、彼と同じボディソープの香りがした。だが、やはり微妙に違うような気がする。もしかしたら、体臭も変わるのかもしれない。いずれにせよ、その匂いも腕の力の入れ方も、アレンを不快にしかさせなかった。
「キスはするなともう何度も言ったはずだ」
気配を察して視線も合わせずに警告すると、いつものように変態が呆れたように鼻で笑った。それでも、黙って引き下がるようになった分だけ、多少はましになった。
「わかってるよ。あんたはただ寝てりゃあいい」
変態はアレンの腰に手を回すと、そのまま椅子から軽々と抱き上げ、まるで小さな子供を運ぶようにベッドに向かって歩いていった。
大柄な男だが、筋骨隆々というほどでもなく、アレンも決して小柄ではない。やはり常人ではないのだと改めて思う。
「私はまだシャワーを浴びていないんだがね」
今夜あたり来そうな気がしたからわざと浴びずにいたのだが、それを見透かしたように変態は涼しい声で受け流した。
「かまわねえよ。俺が舐めてきれいにする」
そうだった。この男は変態だった。アレンは自分の考えの甘さを呪ったが、その一方で、シャワーを浴びてこの男を待つことはしたくないと思った。
体は同じでも、この男は彼ではない。一緒に生きましょうと言ってくれた、あの優しい青年ではない。
***
アレンがこの変態な男と初めて会ったのは半年前の夕刻、退院後に宿泊した閑静なホテルの一室でだった。
その日の夜は、退院祝いと称して、あの青年が夕飯を奢ってくれることになっていた。
どういう事情があるのかは知らないが、そう多くはない実家からの仕送りを元手に一人旅を続けているという。そんな彼に金を遣わせるのは気が引けたが、祝われることは純粋に嬉しいと思った。だから、予約したレストランに行く前に、入院中の睡眠不足を少しでも解消しようと、一人だけ仮眠をとっていた。
ふと、水音が聞こえて目が覚めた。否。意識が浮上しかけていたから、水音が聞こえたのかもしれない。少し考えてから、ああ、あの青年がシャワーを使っているのだなと見当がついた。自分の面倒を見させるために同室にしたわけではなかったが、仮眠前に着替えを手伝ってもらった時点で同室にしてよかったと思っていたことは否めない。
枕元に置いていた腕時計を左手で取って見てみれば、アレンが思っていたほどまだ時間は経っていなかった。それにしては妙に熟睡感があるな、やはり病院ではよく眠れていなかったのかと思いながら、少々苦労して上半身を起こし、ナイトテーブルの上に置いてあった眼鏡を掛けた。そのとき、寝室とバスルームとを隔てていたドアが音を立てて開いた。
「アレンさん? もう起きたんですか?」
一瞬にして総毛立った。あわててドアを見やったが、そこに立っていたのは声のとおり、ベージュのバスローブを着た青年だった。
「……フレッドくん?」
夜道で誰何するように名前を呼んだ。仮眠前にカーテンを閉めていたため、室内は薄暗かったが、互いの顔がわからないほどではない。それでも、そうせずにはいられなかった。
「はい、そうですよ? まだ寝ぼけてるんですか?」
からかうように青年が笑う。だが、それでアレンは確信した。
「そうかもしれないね。もしかしたら、私はまだ寝ていて、夢を見ているのかもしれない」
「どうしました? 何か悪い夢でも見たんですか?」
「悪い夢なら、今まさに見ているよ。……君は誰だ? フレッドくんじゃないね?」
青年はすぐには答えなかった。驚くというより困っている。表情だけならそう見えた。
「アレンさん……本当にどうしたんですか? 俺は確かにフレッドですよ。これも夢じゃなくて現実です」
「呼ぶな!」
こらえきれずに怒鳴った。アレンに歩み寄ろうとしていた青年が、ぴたりと足を止めた。
「私の名前を呼ぶな。どうしても呼びたければリデルと呼べ。私が名前で呼ぶことを許したのは、フレッドくん一人だけだ」
青年は呆然としてアレンを見つめた。しかし、アレンは怯むことなく青年を見つめ返した。まだ生乾きの金髪を青年が右手で掻き上げる。蜂蜜によく似た、柔らかい色の髪。
「……くっそ」
額を押さえたまま、悔しげに青年は苦笑した。
「今まで誰にも見破られたことねえのになあ。何でよりにもよって、あんたにバレるかなあ」
できれば、アレンも一生気づきたくなかった。だが、あの青年とこの存在とは、何かが決定的に違っていた。
「そんなの、簡単だよ。目を見ればわかる」
本当はそうではなかったが、そういうことにしておきたかった。近くで見れば快晴の空のように青いはずの両眼が、意表を突かれたと言わんばかりにアレンを凝視する。
「目?」
「ああ。彼と違って、君は目が死んでる」
「目が死んでる……」
「可能性の一つとして考えてはいたんだ」
ショックを受けたように呟いている男を無視して話題を変えた。自分が話したいことだけをさっさと話して、一刻も早くこの悪夢から解放されたかった。
「あのとき、どうして自分があそこにいたのか、本当にフレッドくんはわからないようだったからね。しかも、それまでそんなことがたびたびあったという。だからこの一ヶ月、それとなく観察していたんだが……なぜ今出てきたのかね?」
男はあっけにとられたようにアレンを見ていた。その顔はあの青年そのものだったが、やがて彼ならばありえない愉悦の笑みを浮かべた。
「やっぱあんた、頭いいよなあ」
寒気がした。しかし、男は今度こそアレンのそばに来ると、ベッドの近くに置かれていた椅子を引き寄せ、何の断りもなくそこに腰を下ろした。
「なぜ今かって? 別にたいした理由はねえよ。あいつが寝落ちしたからだ」
「寝落ち?」
男はにやにや笑って腕組みをした。やはりあの青年ではない。あの青年はアレンの前でこんな下品な笑い方はしない。
「ああ。久々に浴槽浸かって寝落ちした。あんたが退院して気が緩んだんだ。やっと表に出てこれた。まさか、速攻で見破られるとは思ってなかったけどな……」
「フレッドくんのふりをして、何をするつもりだったんだね?」
「ふりって、俺だってフレッドだぜ?」
「いや、違う。君はまったく別人だ。少なくとも、私は君をそう扱う。君、名前は?」
「名前?」
男は怪訝そうに、髪と同じ色をした眉をひそめた。
「さっき言っただろうが。フレッドだよ」
「名前はないのか。ここまで別人なのに」
「俺は自己主張激しくねえんだよ」
「まったく説得力はないが、それでは便宜上、ハイドと呼ばせてもらう」
どうしても、この男があの青年と同じ名前であることが我慢ならなかった。だが、そんなアレンの心理など理解できるはずもない男は、あわてて反論の声を上げた。
「おい! 俺の名前、勝手に決めんな! それもハイドって、『ジキルとハイド』のハイドか? 安直すぎだろ!」
「便宜上だよ。君が名乗りたい名前があったら勝手に名乗りたまえ。ただし、フレッド以外で!」
殴られることも覚悟して言ったが、意外なことに男はたじろいだ。さらに無言で睨んでいると、根負けしたように目をそらし、深い溜め息を吐き出した。
「いいよ……ハイドでいいよ……あんたが呼んでくれるんなら、もう何でもいいよ……」
なぜ妥協する気になったのかはわからないが、とにかくこのときから男の名前はハイドとなった。
そして、たぶんこれがハイドを変態と呼ぶことになるきっかけとなってしまった。
「では、ハイド。改めて訊くが、フレッドくんのふりをして、何をするつもりだったんだ?」
しかし、当時はそうとわからなかった。高圧的に問いただすと、ハイドはばつが悪そうに首をすくめた。
「何って……ただ、あんたと話がしたかっただけで……」
「私と? なぜ?」
ハイドは逡巡するように黙っていた。が、開き直ったのか、正面からアレンを見すえた。
「本当なら、あのときあんたが会ったのは、あいつじゃなくて俺だったんだ」
「そうか。やはり君があそこに潜りこんだのか」
「潜りこんだって人聞きの悪い。俺は勧誘されてあそこに行ったんだぜ? 薬の被験者になれば大金がもらえるとか何とか」
「やはり潜りこんだんじゃないか。君ならすぐに嘘だとわかっただろう」
「まあな。まともじゃねえなとはすぐにわかったな。俺が多少暴れても、警察は呼べねえだろうなとも」
「やはり、あの死体の山も君の仕業か。フレッドくんは私に見せないようにしてくれていたがね」
「しっかり見てんじゃねえかよ」
「あそこにいた人間、全員、君が殺したのか?」
「全員かどうかはわかんねえが、とりあえず、俺を殺そうとした人間は殺したな。セイトウボウエイってやつだ」
おどけたように両手を広げてみせる。アレンは冷ややかな眼差しをハイドに向けた。
「なるほど。いつもそういう建前で殺しているのか。自ら危険な場所に乗りこんで」
「本当にあんた、惚れ惚れするくらい頭いいよな。なのに、どうしてあれに右腕取られたんだ?」
不意を突かれてすぐに返答できなかった。してやったりとハイドが笑う。そういう表情をすると、あの青年よりも子供っぽく見えた。
「あれに会ったのか?」
「ああ。明らかに人間じゃあなかったが、襲いかかってきたから仕方なく」
「殺せたのかね?」
「たぶん。首切り落としたら動かなくなった」
「よくもまあ、あれを無傷で。君、人間かね?」
「あれよりは人間だよ。それで、何で右腕を取られた?」
「あれの正体については訊かないのかね?」
「興味ねえよ。俺は敵を殺せたらそれでいいんだ」
「敵か。一応、無差別には殺していないわけか。……あれは元人間だよ。同僚……ということになるのかね。気づかなかった私も迂闊だったが、自分の体で人体実験していたらしい。突然右腕をつかまれたから、反射的に振りほどこうとしたら、何がそれほど気に障ったのか、突然怪物化して、爪で私の右腕を切り取った」
「ちょっと待て。爪? 爪で切ったのか?」
「ああ。一撃だったよ。私もすぐには何が起こったのかわからなかった。運悪く、周囲には誰もいなくてね。これはもう殺されると覚悟したが、そのとき、非常ベルが鳴り出した。思えばあのとき、君が暴れていたんだね。だが、そいつはその音を聞くと、私の右腕をくわえて部屋を飛び出していった。あとはまあ、だいたいフレッドくんに話したとおりだ」
「……仲のいい同僚だったのか?」
「いや、別に。私はもっぱら一人で研究していたから、あの男とも滅多に顔は合わせなかった。殺されるほど恨まれることをした覚えはないんだが、向こうにとってはそうではなかったんだろうな。たぶん」
アレンはありのままを淡々と話していただけだったが、ハイドはあれの正体を知ったときから苦々しそうな顔をしていた。
「八つ裂きにしてやりゃよかったな」
「殺してくれただけありがたい。しかし、よく私の右腕だとわかったね」
「そりゃ、あんたに会うまではわかんなかったよ。でも、白衣着た右腕なんてそうそうねえだろ」
「それもそうだ。では、君があの部屋に来たのはたまたまか」
「いや。まだ生きてる人間の気配がしたからだ」
「あれだけ殺してもまだ殺したりなかったのかね」
「殺そうとしなきゃ殺さねえよ。それに、出口がぶっ壊れてたから、もしかしたらさっきのバケモンはこっから来たんじゃねえかと思った」
「つまりは好奇心かね?」
「まあ、そんなもんだ。でも、中を覗いて、あんたを見つけて、ナイフしまってから声かけようとしたら、いきなりあいつが出てきやがった!」
「ああ、そういえばあのとき、フレッドくんは手ぶらだったね」
「思い出すのそこかよ!」
「それまでは、君が交替しようと思わなければ、交替は起こらなかったのかね?」
「ああ、そうだ。後始末までしてから交替してた」
「なるほど。だからフレッドくんは不審に思いつつも、そのままにしているわけだ」
「でも、あのときはあいつが俺を押しのけてきやがった。それから今日まで、ずっと押さえつけられてきて、一度も交替できなかった!」
「フレッドくんがフレッドくんでいる間も、君の意識はあるわけか」
「あるよ! あんたがあいつとイチャイチャしてたのもみんな知ってるよ!」
まったく想定外のことを苛立たしげに言われ、アレンは眉間に縦皺を寄せた。
「イチャイチャ? いったい何を言っているのかね? 彼とそんなことをした覚えは一度もないよ」
「畜生! 無自覚かよ!」
「とにかく、だいたいの事情はわかった。君の存在はフレッドくんには黙っておく。君もこれまでどおりうまく隠れていてくれ。しかし、もはや趣味の域をはるかに超えているな。まさか、爆破までしていたとは思わなかった。時限式かい?」
今ならわかる。このとき、アレンは調子に乗っていた。自分が頭の中で立てていた仮説がほとんど合っていた――もっとも、証言者はハイドだけだったが――とわかって、年甲斐もなく浮かれていたのだ。
「何で知ってる?」
ハイドの顔から表情が消えた。だが、アレンはそれには注意を払わず、これまでと同じように言葉を連ねた。
「ああ、やっぱりあれも君の仕業だったのか。いや、あれだけ派手にやらかしたのに、何の音沙汰もなかったからね。フレッドくんの目を盗んで調べてみて、あのラボが爆発したと知った。表向きはガスの爆発事故ということで処理したようだがね。たぶん、私もあのとき死んだことにされたんだろう。本名を捨てていてよかったよ」
「……怖くないのか?」
ふいに硬い声で問われて、アレンは首をかしげた。
「何が?」
「あいつが。あんたは別人だっていうが、この体はあいつと同じだぜ? 俺が中にいるってわかっても、あんたは今までどおり、あいつとつきあえるのか?」
「……あくまで推測だが、君という存在を作り出さなければ、彼は彼でいられなかったのだろう。私は自分から離れるつもりはないよ。彼にもう必要ないと言われるまでは」
虚勢ではなく本心だった。そもそも、アレン自身まっとうな人間ではなく、ある意味、ハイドより非道なことにも手を染めている。
しかし、そんな自分にあの青年は一緒に生きましょうと言ってくれた。そのことだけがアレンにとっては重要で、たとえその青年が二重人格でも、もう一つの人格は殺人鬼でも、それは彼を避ける理由にはなりえなかった。
「俺のことはどうでもいいのか」
「どうでもよくはないが、できれば彼を危険にさらすようなことは今後は避けてもらいたいね。殺人以外に趣味はないのかい?」
「何でだよ!」
耐えかねたようにハイドが叫んだ。驚いて肩が震える。まさかここで切れられるとは思ってもみなかった。
「何でだよ……あんたを見つけたのは俺なのに……俺が見つけなきゃあんたは死んでたのに……何で俺のほうが我慢させられなきゃならねえんだよ!」
正直、ハイドが何に対して憤っているのか、アレンにはよくわからなかった。自分の趣味にケチをつけられたことが、それほど腹に据えかねたのか。
「私は別に、君が人を殺すのが嫌なわけではないよ。君が下手を打って、フレッドくんが巻きこまれるのがこの上もなく嫌なだけだよ」
「どこまでもあいつ至上主義かよ、こん畜生!」
ますます悪化した。いいかげん面倒くさくなってきたアレンは、つい売り言葉に買い言葉をしてしまった。
「たぶん、あのとき会ったのがフレッドくんではなく君だったら、私は生きようとは思わなかっただろうね」
「何で!」
「それはもう、君はフレッドくんじゃないからとしか答えようがないな。あのとき、フレッドくんが一緒に生きようと言ってくれたから、私は死ぬのをやめようと思ったんだ。実際、やめてよかったよ。彼と一緒にいるととても楽しい」
「あいつのどこがそんなにいいんだよ。現実逃避しまくって、俺に嫌なこと全部押しつけて、都合の悪いことは全部忘れてる男だぞ」
「でも、私の代わりに泣いてくれる。私が忘れてしまった感情を思い出させてくれる。今の私にはそれがいちばん心地いいんだ。君にはきっと理解できないだろうがね」
「ああ、わかんねえよ。ほんとにわけわかんねえ」
吐き捨てるようにそう言った、と、アレンの左腕はハイドの右手に握られていた。
決して強くはなかった。だが、たとえパジャマの上からでも、触れられたこと自体がアレンには嫌でたまらなかった。とっさに腕を引こうとしたが、逆に力をこめられて、近くに引き寄せられてしまった。
「何だね?」
上目使いで睨みつけると、なぜかハイドは傷ついたように笑った。
「何でそんなに嫌そうな顔するんだよ。あんた、あいつに触られても、一度もそんな顔しなかったじゃねえかよ」
「そうだよ。フレッドくんだったからだよ。ハイド。君じゃない」
アレンとしては、事実そのままを告げたまでだった。しかし、やはり心のどこかでは、同一人物だという甘えがあったのだろう。すなわち、ハイドが自分に危害を加えるはずがないと。
それは間違ってはいなかった。ただ、アレンとハイドでは、危害の定義が根本から違っていたのだ。
「あんた、さっき俺に、もう人殺しはするなって言ったよな?」
すっと目を細めて薄ら笑う。これまでとは種類の異なる違和感を覚えたが、アレンはそれを気のせいだと流してしまった。
「正確にはそうじゃないが、そう解釈してもらってもかまわない」
「じゃあ、人殺しはしないから、そのかわり」
ハイドがアレンに顔を寄せた。反射的にアレンは後ろに退こうとした。が、今度は左手で後頭部を抱えこまれた。
「俺が欲しいとき、あんたの体を俺にくれ」
意味がわからず、眼前の青い目を見つめる。その目が死んでいるとは冗談のつもりだったが、このときのハイドの目は暗く淀んでいて、本当に死んでいたのだなとアレンは思った。他でもない、自分がそう変えてしまったのだということには、事が終わっても気づかなかった。
***
確かに、あのときに比べれば、多少はましになった。
ようやく一人になれたベッドの上で、気怠い体をもてあましながらアレンは嘆息する。
脱がせた服は畳んで置いておくし、ベッドを汚さないよう入念に準備もする。ほぐしは使いすぎじゃないかと思うくらいローションを使って丹念にするし、コンドームは必ず装着する。
しかし、それだけだ。
性交の間中、アレンがずっと考えていることは、あのときと変わらず、一秒でも早く時間が過ぎ去ることだけだ。
回数などもう数えていないが、アレンにはハイドが自分の体に執着する理由がいまだにわからない。こんな貧相な中年男の体のどこにあれほど興奮できる要素があるというのか。やはり、あれは変態と言わざるを得ない。
おまけに、何もしないという宣言どおり、アレンは本当に何もしていない。最初から最後まで、ただベッドの上に横たわり、もっぱら目を閉じている。
それでもいい、とハイドは言う。せめて、あんたの体だけでも欲しいのだと。
だが、どれだけ時間をかけて愛撫されても、アレンは嫌悪感しか抱けない。一度、睡眠導入剤を飲むから、自分が眠っている間に済ませてくれと言ったことさえある。しかし、そんな変質者みたいな真似はできないと却下されてしまった。アレンにしてみれば、おまえが言うなである。
一方的な行為の後、バスローブをまとったハイドは、自分が汚したアレンの体をホットタオルで拭い、下着やパジャマを着せていく。丁寧で手際もいいのだが、あの青年との差をまざまざと感じて、アレンは毎回不愉快になる。それでもするなとは言わないのは、指先一つ動かすのも億劫だからだ。あんな姿のままでいて、うっかりあの青年に見られでもしたら、それはそれで非常に困る。
五分ほど前、ハイドはこの部屋を出ていった。たぶん、今はまたバスルームにいるだろう。体に残る痕跡を消すために。
それでも会いたい。あの青年に、今すぐ会いたい。
アレンは少し迷ったが、ハイドに持ってこさせていた眼鏡を掛けてから、右の袖口に左手を突っこみ、人差指で強く押した。
と、バスルームのほうで扉が乱暴に開かれた音がした。すぐに、どたどたと廊下を走る足音が続き、自室のドアが勢いよく開かれる。
「アレンさんッ! どうしましたッ!」
ちょうどシャワーを浴びていたのだろう。金色の髪からは水滴がしたたり落ち、黒いバスローブの紐はまともに結ばれていなかった。そして、ドアの蝶番がまた壊れていた。
実はアレンの義手には、ナースコールのスイッチのようなものが仕込まれている。この青年の強い希望でそうしたのだが、今は彼を呼ばなければならない緊急事態は起こっていない。
だが、正直に君の顔が見たかったと言うのも恥ずかしい。困ったアレンは苦しまぎれに「腕が痛い」と答えた。
「痛い? 右腕? 右腕ですか?」
青年が血相を変える。もちろん、右腕は痛くなかったが――痛い箇所もあるにはあったが、そこはとてもこの青年には言えない――「右腕のジョイント」と嘘をついた。
「じゃあ、右腕外しましょうか? くそ! ジョニーにクレームつけないと!」
「外さなくてもいいよ。ただ、服の上からそっと撫でてもらえるかな」
「撫でたら余計痛くないですか?」
「痛かったらやめてもらうよ」
心配そうな顔をしながらも、青年はアレンの右側に回って膝をついた。バスローブで乱暴に右手を拭ってから、その手をアレンの右腕に慎重に載せる。
ああ、体は同じはずなのに、どうしてこれほど違うのだろう。
青年はパジャマの上からでも正確に、義手のジョイント部分を優しく撫でてくれた。
「痛いですか?」
「いや。少し薄れてきた。すまないが、このままもう少し撫でてもらえるかい?」
「いいですよ。アレンさんが痛くなくなるまで、ずっと撫でてます」
屈託なく青年が笑う。きっとアレンが痛いと言いつづければ、この青年は本当にずっと撫でつづけてくれるだろう。
アレン・リデルの好きなものは、だいたい三つに集約される。
本。機械仕掛けの右腕。フレデリック・ナイトリー。
―了―
自分。鏡。変態。
前の二つに関しては、以前に比べればかなり軽減されたが、最後の一つに対する嫌悪感は増加の一途をたどっている。
「リデルー」
自室のドアをノックされても無視して本を読みつづけていたら、バスローブ姿の変態が勝手に入ってきて、背後からアレンの首元に両腕を回してきた。
必ずシャワーを浴びてくるのはこの男なりの気遣いなのだろうが、アレンにしてみれば自動的にあのときのことが思い出されて、ただでさえ悪い気分がもっと悪くなる。
「冷静に考えてみたんだが」
無駄だろうと思いつつも、本に目を落としたまま言ってみる。
「一昨日、君は人を殺せたのだから、私の体は要求できないのではないのかね? 人殺しをしないことが条件だったはずだ」
「今さらそれを言うのかよ」
案の定、変態は不機嫌そうにそう返して、アレンの耳許に唇を寄せた。
「最初から俺に殺させるつもりだったんだろ? 殺す相手を指定したんだから、その分、俺にくれよ。約束どおり、延長含めて二時間」
せめて三十分にしておけばよかった。アレンはこれ見よがしに嘆息してから、読書机の上に置いてあった白い糸を白手袋をはめた手で拾い上げ、本ののどに注意深く挟みこんで丁寧に閉じた。アレンが本に触れている間はこの変態もおとなしくしている。そういうところも小賢しくて腹立たしい。
「もういいよな?」
本から手を離したとたん、待ちかねたように変態が言い、回転椅子を半回転させた。白いバスローブの上からもわかる逞しい体が視界に入る。――見たくない。
反射的にうつむいたアレンの顔に、変態が両手を伸ばしてくる。何をするつもりなのかはもうわかっている。だが、邪魔だからなのか、アレンの心情を慮ってなのかはわからない。確認したくもない。
アレンが本を扱うときと同じように、もしかしたらそれ以上に慎重に眼鏡を外される。一瞬目を閉じてまた開くと、自分の黒いスリッパはぼやけて見えた。しかし、この距離ではバスローブは依然としてバスローブのままだ。おまけに、畳んだ眼鏡を机の上に置くついでに、そのバスローブに強く抱きしめられた。
まだ湿っているバスローブからは、彼と同じボディソープの香りがした。だが、やはり微妙に違うような気がする。もしかしたら、体臭も変わるのかもしれない。いずれにせよ、その匂いも腕の力の入れ方も、アレンを不快にしかさせなかった。
「キスはするなともう何度も言ったはずだ」
気配を察して視線も合わせずに警告すると、いつものように変態が呆れたように鼻で笑った。それでも、黙って引き下がるようになった分だけ、多少はましになった。
「わかってるよ。あんたはただ寝てりゃあいい」
変態はアレンの腰に手を回すと、そのまま椅子から軽々と抱き上げ、まるで小さな子供を運ぶようにベッドに向かって歩いていった。
大柄な男だが、筋骨隆々というほどでもなく、アレンも決して小柄ではない。やはり常人ではないのだと改めて思う。
「私はまだシャワーを浴びていないんだがね」
今夜あたり来そうな気がしたからわざと浴びずにいたのだが、それを見透かしたように変態は涼しい声で受け流した。
「かまわねえよ。俺が舐めてきれいにする」
そうだった。この男は変態だった。アレンは自分の考えの甘さを呪ったが、その一方で、シャワーを浴びてこの男を待つことはしたくないと思った。
体は同じでも、この男は彼ではない。一緒に生きましょうと言ってくれた、あの優しい青年ではない。
***
アレンがこの変態な男と初めて会ったのは半年前の夕刻、退院後に宿泊した閑静なホテルの一室でだった。
その日の夜は、退院祝いと称して、あの青年が夕飯を奢ってくれることになっていた。
どういう事情があるのかは知らないが、そう多くはない実家からの仕送りを元手に一人旅を続けているという。そんな彼に金を遣わせるのは気が引けたが、祝われることは純粋に嬉しいと思った。だから、予約したレストランに行く前に、入院中の睡眠不足を少しでも解消しようと、一人だけ仮眠をとっていた。
ふと、水音が聞こえて目が覚めた。否。意識が浮上しかけていたから、水音が聞こえたのかもしれない。少し考えてから、ああ、あの青年がシャワーを使っているのだなと見当がついた。自分の面倒を見させるために同室にしたわけではなかったが、仮眠前に着替えを手伝ってもらった時点で同室にしてよかったと思っていたことは否めない。
枕元に置いていた腕時計を左手で取って見てみれば、アレンが思っていたほどまだ時間は経っていなかった。それにしては妙に熟睡感があるな、やはり病院ではよく眠れていなかったのかと思いながら、少々苦労して上半身を起こし、ナイトテーブルの上に置いてあった眼鏡を掛けた。そのとき、寝室とバスルームとを隔てていたドアが音を立てて開いた。
「アレンさん? もう起きたんですか?」
一瞬にして総毛立った。あわててドアを見やったが、そこに立っていたのは声のとおり、ベージュのバスローブを着た青年だった。
「……フレッドくん?」
夜道で誰何するように名前を呼んだ。仮眠前にカーテンを閉めていたため、室内は薄暗かったが、互いの顔がわからないほどではない。それでも、そうせずにはいられなかった。
「はい、そうですよ? まだ寝ぼけてるんですか?」
からかうように青年が笑う。だが、それでアレンは確信した。
「そうかもしれないね。もしかしたら、私はまだ寝ていて、夢を見ているのかもしれない」
「どうしました? 何か悪い夢でも見たんですか?」
「悪い夢なら、今まさに見ているよ。……君は誰だ? フレッドくんじゃないね?」
青年はすぐには答えなかった。驚くというより困っている。表情だけならそう見えた。
「アレンさん……本当にどうしたんですか? 俺は確かにフレッドですよ。これも夢じゃなくて現実です」
「呼ぶな!」
こらえきれずに怒鳴った。アレンに歩み寄ろうとしていた青年が、ぴたりと足を止めた。
「私の名前を呼ぶな。どうしても呼びたければリデルと呼べ。私が名前で呼ぶことを許したのは、フレッドくん一人だけだ」
青年は呆然としてアレンを見つめた。しかし、アレンは怯むことなく青年を見つめ返した。まだ生乾きの金髪を青年が右手で掻き上げる。蜂蜜によく似た、柔らかい色の髪。
「……くっそ」
額を押さえたまま、悔しげに青年は苦笑した。
「今まで誰にも見破られたことねえのになあ。何でよりにもよって、あんたにバレるかなあ」
できれば、アレンも一生気づきたくなかった。だが、あの青年とこの存在とは、何かが決定的に違っていた。
「そんなの、簡単だよ。目を見ればわかる」
本当はそうではなかったが、そういうことにしておきたかった。近くで見れば快晴の空のように青いはずの両眼が、意表を突かれたと言わんばかりにアレンを凝視する。
「目?」
「ああ。彼と違って、君は目が死んでる」
「目が死んでる……」
「可能性の一つとして考えてはいたんだ」
ショックを受けたように呟いている男を無視して話題を変えた。自分が話したいことだけをさっさと話して、一刻も早くこの悪夢から解放されたかった。
「あのとき、どうして自分があそこにいたのか、本当にフレッドくんはわからないようだったからね。しかも、それまでそんなことがたびたびあったという。だからこの一ヶ月、それとなく観察していたんだが……なぜ今出てきたのかね?」
男はあっけにとられたようにアレンを見ていた。その顔はあの青年そのものだったが、やがて彼ならばありえない愉悦の笑みを浮かべた。
「やっぱあんた、頭いいよなあ」
寒気がした。しかし、男は今度こそアレンのそばに来ると、ベッドの近くに置かれていた椅子を引き寄せ、何の断りもなくそこに腰を下ろした。
「なぜ今かって? 別にたいした理由はねえよ。あいつが寝落ちしたからだ」
「寝落ち?」
男はにやにや笑って腕組みをした。やはりあの青年ではない。あの青年はアレンの前でこんな下品な笑い方はしない。
「ああ。久々に浴槽浸かって寝落ちした。あんたが退院して気が緩んだんだ。やっと表に出てこれた。まさか、速攻で見破られるとは思ってなかったけどな……」
「フレッドくんのふりをして、何をするつもりだったんだね?」
「ふりって、俺だってフレッドだぜ?」
「いや、違う。君はまったく別人だ。少なくとも、私は君をそう扱う。君、名前は?」
「名前?」
男は怪訝そうに、髪と同じ色をした眉をひそめた。
「さっき言っただろうが。フレッドだよ」
「名前はないのか。ここまで別人なのに」
「俺は自己主張激しくねえんだよ」
「まったく説得力はないが、それでは便宜上、ハイドと呼ばせてもらう」
どうしても、この男があの青年と同じ名前であることが我慢ならなかった。だが、そんなアレンの心理など理解できるはずもない男は、あわてて反論の声を上げた。
「おい! 俺の名前、勝手に決めんな! それもハイドって、『ジキルとハイド』のハイドか? 安直すぎだろ!」
「便宜上だよ。君が名乗りたい名前があったら勝手に名乗りたまえ。ただし、フレッド以外で!」
殴られることも覚悟して言ったが、意外なことに男はたじろいだ。さらに無言で睨んでいると、根負けしたように目をそらし、深い溜め息を吐き出した。
「いいよ……ハイドでいいよ……あんたが呼んでくれるんなら、もう何でもいいよ……」
なぜ妥協する気になったのかはわからないが、とにかくこのときから男の名前はハイドとなった。
そして、たぶんこれがハイドを変態と呼ぶことになるきっかけとなってしまった。
「では、ハイド。改めて訊くが、フレッドくんのふりをして、何をするつもりだったんだ?」
しかし、当時はそうとわからなかった。高圧的に問いただすと、ハイドはばつが悪そうに首をすくめた。
「何って……ただ、あんたと話がしたかっただけで……」
「私と? なぜ?」
ハイドは逡巡するように黙っていた。が、開き直ったのか、正面からアレンを見すえた。
「本当なら、あのときあんたが会ったのは、あいつじゃなくて俺だったんだ」
「そうか。やはり君があそこに潜りこんだのか」
「潜りこんだって人聞きの悪い。俺は勧誘されてあそこに行ったんだぜ? 薬の被験者になれば大金がもらえるとか何とか」
「やはり潜りこんだんじゃないか。君ならすぐに嘘だとわかっただろう」
「まあな。まともじゃねえなとはすぐにわかったな。俺が多少暴れても、警察は呼べねえだろうなとも」
「やはり、あの死体の山も君の仕業か。フレッドくんは私に見せないようにしてくれていたがね」
「しっかり見てんじゃねえかよ」
「あそこにいた人間、全員、君が殺したのか?」
「全員かどうかはわかんねえが、とりあえず、俺を殺そうとした人間は殺したな。セイトウボウエイってやつだ」
おどけたように両手を広げてみせる。アレンは冷ややかな眼差しをハイドに向けた。
「なるほど。いつもそういう建前で殺しているのか。自ら危険な場所に乗りこんで」
「本当にあんた、惚れ惚れするくらい頭いいよな。なのに、どうしてあれに右腕取られたんだ?」
不意を突かれてすぐに返答できなかった。してやったりとハイドが笑う。そういう表情をすると、あの青年よりも子供っぽく見えた。
「あれに会ったのか?」
「ああ。明らかに人間じゃあなかったが、襲いかかってきたから仕方なく」
「殺せたのかね?」
「たぶん。首切り落としたら動かなくなった」
「よくもまあ、あれを無傷で。君、人間かね?」
「あれよりは人間だよ。それで、何で右腕を取られた?」
「あれの正体については訊かないのかね?」
「興味ねえよ。俺は敵を殺せたらそれでいいんだ」
「敵か。一応、無差別には殺していないわけか。……あれは元人間だよ。同僚……ということになるのかね。気づかなかった私も迂闊だったが、自分の体で人体実験していたらしい。突然右腕をつかまれたから、反射的に振りほどこうとしたら、何がそれほど気に障ったのか、突然怪物化して、爪で私の右腕を切り取った」
「ちょっと待て。爪? 爪で切ったのか?」
「ああ。一撃だったよ。私もすぐには何が起こったのかわからなかった。運悪く、周囲には誰もいなくてね。これはもう殺されると覚悟したが、そのとき、非常ベルが鳴り出した。思えばあのとき、君が暴れていたんだね。だが、そいつはその音を聞くと、私の右腕をくわえて部屋を飛び出していった。あとはまあ、だいたいフレッドくんに話したとおりだ」
「……仲のいい同僚だったのか?」
「いや、別に。私はもっぱら一人で研究していたから、あの男とも滅多に顔は合わせなかった。殺されるほど恨まれることをした覚えはないんだが、向こうにとってはそうではなかったんだろうな。たぶん」
アレンはありのままを淡々と話していただけだったが、ハイドはあれの正体を知ったときから苦々しそうな顔をしていた。
「八つ裂きにしてやりゃよかったな」
「殺してくれただけありがたい。しかし、よく私の右腕だとわかったね」
「そりゃ、あんたに会うまではわかんなかったよ。でも、白衣着た右腕なんてそうそうねえだろ」
「それもそうだ。では、君があの部屋に来たのはたまたまか」
「いや。まだ生きてる人間の気配がしたからだ」
「あれだけ殺してもまだ殺したりなかったのかね」
「殺そうとしなきゃ殺さねえよ。それに、出口がぶっ壊れてたから、もしかしたらさっきのバケモンはこっから来たんじゃねえかと思った」
「つまりは好奇心かね?」
「まあ、そんなもんだ。でも、中を覗いて、あんたを見つけて、ナイフしまってから声かけようとしたら、いきなりあいつが出てきやがった!」
「ああ、そういえばあのとき、フレッドくんは手ぶらだったね」
「思い出すのそこかよ!」
「それまでは、君が交替しようと思わなければ、交替は起こらなかったのかね?」
「ああ、そうだ。後始末までしてから交替してた」
「なるほど。だからフレッドくんは不審に思いつつも、そのままにしているわけだ」
「でも、あのときはあいつが俺を押しのけてきやがった。それから今日まで、ずっと押さえつけられてきて、一度も交替できなかった!」
「フレッドくんがフレッドくんでいる間も、君の意識はあるわけか」
「あるよ! あんたがあいつとイチャイチャしてたのもみんな知ってるよ!」
まったく想定外のことを苛立たしげに言われ、アレンは眉間に縦皺を寄せた。
「イチャイチャ? いったい何を言っているのかね? 彼とそんなことをした覚えは一度もないよ」
「畜生! 無自覚かよ!」
「とにかく、だいたいの事情はわかった。君の存在はフレッドくんには黙っておく。君もこれまでどおりうまく隠れていてくれ。しかし、もはや趣味の域をはるかに超えているな。まさか、爆破までしていたとは思わなかった。時限式かい?」
今ならわかる。このとき、アレンは調子に乗っていた。自分が頭の中で立てていた仮説がほとんど合っていた――もっとも、証言者はハイドだけだったが――とわかって、年甲斐もなく浮かれていたのだ。
「何で知ってる?」
ハイドの顔から表情が消えた。だが、アレンはそれには注意を払わず、これまでと同じように言葉を連ねた。
「ああ、やっぱりあれも君の仕業だったのか。いや、あれだけ派手にやらかしたのに、何の音沙汰もなかったからね。フレッドくんの目を盗んで調べてみて、あのラボが爆発したと知った。表向きはガスの爆発事故ということで処理したようだがね。たぶん、私もあのとき死んだことにされたんだろう。本名を捨てていてよかったよ」
「……怖くないのか?」
ふいに硬い声で問われて、アレンは首をかしげた。
「何が?」
「あいつが。あんたは別人だっていうが、この体はあいつと同じだぜ? 俺が中にいるってわかっても、あんたは今までどおり、あいつとつきあえるのか?」
「……あくまで推測だが、君という存在を作り出さなければ、彼は彼でいられなかったのだろう。私は自分から離れるつもりはないよ。彼にもう必要ないと言われるまでは」
虚勢ではなく本心だった。そもそも、アレン自身まっとうな人間ではなく、ある意味、ハイドより非道なことにも手を染めている。
しかし、そんな自分にあの青年は一緒に生きましょうと言ってくれた。そのことだけがアレンにとっては重要で、たとえその青年が二重人格でも、もう一つの人格は殺人鬼でも、それは彼を避ける理由にはなりえなかった。
「俺のことはどうでもいいのか」
「どうでもよくはないが、できれば彼を危険にさらすようなことは今後は避けてもらいたいね。殺人以外に趣味はないのかい?」
「何でだよ!」
耐えかねたようにハイドが叫んだ。驚いて肩が震える。まさかここで切れられるとは思ってもみなかった。
「何でだよ……あんたを見つけたのは俺なのに……俺が見つけなきゃあんたは死んでたのに……何で俺のほうが我慢させられなきゃならねえんだよ!」
正直、ハイドが何に対して憤っているのか、アレンにはよくわからなかった。自分の趣味にケチをつけられたことが、それほど腹に据えかねたのか。
「私は別に、君が人を殺すのが嫌なわけではないよ。君が下手を打って、フレッドくんが巻きこまれるのがこの上もなく嫌なだけだよ」
「どこまでもあいつ至上主義かよ、こん畜生!」
ますます悪化した。いいかげん面倒くさくなってきたアレンは、つい売り言葉に買い言葉をしてしまった。
「たぶん、あのとき会ったのがフレッドくんではなく君だったら、私は生きようとは思わなかっただろうね」
「何で!」
「それはもう、君はフレッドくんじゃないからとしか答えようがないな。あのとき、フレッドくんが一緒に生きようと言ってくれたから、私は死ぬのをやめようと思ったんだ。実際、やめてよかったよ。彼と一緒にいるととても楽しい」
「あいつのどこがそんなにいいんだよ。現実逃避しまくって、俺に嫌なこと全部押しつけて、都合の悪いことは全部忘れてる男だぞ」
「でも、私の代わりに泣いてくれる。私が忘れてしまった感情を思い出させてくれる。今の私にはそれがいちばん心地いいんだ。君にはきっと理解できないだろうがね」
「ああ、わかんねえよ。ほんとにわけわかんねえ」
吐き捨てるようにそう言った、と、アレンの左腕はハイドの右手に握られていた。
決して強くはなかった。だが、たとえパジャマの上からでも、触れられたこと自体がアレンには嫌でたまらなかった。とっさに腕を引こうとしたが、逆に力をこめられて、近くに引き寄せられてしまった。
「何だね?」
上目使いで睨みつけると、なぜかハイドは傷ついたように笑った。
「何でそんなに嫌そうな顔するんだよ。あんた、あいつに触られても、一度もそんな顔しなかったじゃねえかよ」
「そうだよ。フレッドくんだったからだよ。ハイド。君じゃない」
アレンとしては、事実そのままを告げたまでだった。しかし、やはり心のどこかでは、同一人物だという甘えがあったのだろう。すなわち、ハイドが自分に危害を加えるはずがないと。
それは間違ってはいなかった。ただ、アレンとハイドでは、危害の定義が根本から違っていたのだ。
「あんた、さっき俺に、もう人殺しはするなって言ったよな?」
すっと目を細めて薄ら笑う。これまでとは種類の異なる違和感を覚えたが、アレンはそれを気のせいだと流してしまった。
「正確にはそうじゃないが、そう解釈してもらってもかまわない」
「じゃあ、人殺しはしないから、そのかわり」
ハイドがアレンに顔を寄せた。反射的にアレンは後ろに退こうとした。が、今度は左手で後頭部を抱えこまれた。
「俺が欲しいとき、あんたの体を俺にくれ」
意味がわからず、眼前の青い目を見つめる。その目が死んでいるとは冗談のつもりだったが、このときのハイドの目は暗く淀んでいて、本当に死んでいたのだなとアレンは思った。他でもない、自分がそう変えてしまったのだということには、事が終わっても気づかなかった。
***
確かに、あのときに比べれば、多少はましになった。
ようやく一人になれたベッドの上で、気怠い体をもてあましながらアレンは嘆息する。
脱がせた服は畳んで置いておくし、ベッドを汚さないよう入念に準備もする。ほぐしは使いすぎじゃないかと思うくらいローションを使って丹念にするし、コンドームは必ず装着する。
しかし、それだけだ。
性交の間中、アレンがずっと考えていることは、あのときと変わらず、一秒でも早く時間が過ぎ去ることだけだ。
回数などもう数えていないが、アレンにはハイドが自分の体に執着する理由がいまだにわからない。こんな貧相な中年男の体のどこにあれほど興奮できる要素があるというのか。やはり、あれは変態と言わざるを得ない。
おまけに、何もしないという宣言どおり、アレンは本当に何もしていない。最初から最後まで、ただベッドの上に横たわり、もっぱら目を閉じている。
それでもいい、とハイドは言う。せめて、あんたの体だけでも欲しいのだと。
だが、どれだけ時間をかけて愛撫されても、アレンは嫌悪感しか抱けない。一度、睡眠導入剤を飲むから、自分が眠っている間に済ませてくれと言ったことさえある。しかし、そんな変質者みたいな真似はできないと却下されてしまった。アレンにしてみれば、おまえが言うなである。
一方的な行為の後、バスローブをまとったハイドは、自分が汚したアレンの体をホットタオルで拭い、下着やパジャマを着せていく。丁寧で手際もいいのだが、あの青年との差をまざまざと感じて、アレンは毎回不愉快になる。それでもするなとは言わないのは、指先一つ動かすのも億劫だからだ。あんな姿のままでいて、うっかりあの青年に見られでもしたら、それはそれで非常に困る。
五分ほど前、ハイドはこの部屋を出ていった。たぶん、今はまたバスルームにいるだろう。体に残る痕跡を消すために。
それでも会いたい。あの青年に、今すぐ会いたい。
アレンは少し迷ったが、ハイドに持ってこさせていた眼鏡を掛けてから、右の袖口に左手を突っこみ、人差指で強く押した。
と、バスルームのほうで扉が乱暴に開かれた音がした。すぐに、どたどたと廊下を走る足音が続き、自室のドアが勢いよく開かれる。
「アレンさんッ! どうしましたッ!」
ちょうどシャワーを浴びていたのだろう。金色の髪からは水滴がしたたり落ち、黒いバスローブの紐はまともに結ばれていなかった。そして、ドアの蝶番がまた壊れていた。
実はアレンの義手には、ナースコールのスイッチのようなものが仕込まれている。この青年の強い希望でそうしたのだが、今は彼を呼ばなければならない緊急事態は起こっていない。
だが、正直に君の顔が見たかったと言うのも恥ずかしい。困ったアレンは苦しまぎれに「腕が痛い」と答えた。
「痛い? 右腕? 右腕ですか?」
青年が血相を変える。もちろん、右腕は痛くなかったが――痛い箇所もあるにはあったが、そこはとてもこの青年には言えない――「右腕のジョイント」と嘘をついた。
「じゃあ、右腕外しましょうか? くそ! ジョニーにクレームつけないと!」
「外さなくてもいいよ。ただ、服の上からそっと撫でてもらえるかな」
「撫でたら余計痛くないですか?」
「痛かったらやめてもらうよ」
心配そうな顔をしながらも、青年はアレンの右側に回って膝をついた。バスローブで乱暴に右手を拭ってから、その手をアレンの右腕に慎重に載せる。
ああ、体は同じはずなのに、どうしてこれほど違うのだろう。
青年はパジャマの上からでも正確に、義手のジョイント部分を優しく撫でてくれた。
「痛いですか?」
「いや。少し薄れてきた。すまないが、このままもう少し撫でてもらえるかい?」
「いいですよ。アレンさんが痛くなくなるまで、ずっと撫でてます」
屈託なく青年が笑う。きっとアレンが痛いと言いつづければ、この青年は本当にずっと撫でつづけてくれるだろう。
アレン・リデルの好きなものは、だいたい三つに集約される。
本。機械仕掛けの右腕。フレデリック・ナイトリー。
―了―
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