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アウトサイダーズ
【前編】赤い部屋*
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彼がその奇妙な二人連れに気づいたのは、暖房の入った床に四つん這いにされ、もう何人目かもわからない男に後ろを犯されているときだった。
やめてくれと言ってそれが聞き入れられたためしはない。彼らの飼育係たちいわく、いくらでも換えのきく生きた玩具には生存権すら存在しない。
いっそ壊れて廃棄されたい。そう思いながら壁際に緑色の目を向けると、いつのまにかその二人連れが立っていた。
何が奇妙かと言えば、二人とも服を着ている。それがいちばん奇妙だった。
この床も壁も扉も天井も赤い部屋の中で、いま服を着ている人間は、おそらくこの二人連れだけだ。警備はこの部屋の外にいる。遅れて来た客かと一瞬思ったが、途中参加はできないことになっていたはずだ。
「おーおー。薬、ガンガン使ってやがんなー」
二人連れのうちの一人がにやにやしながら言った。二十代半ばと思しき大柄な男で、髪の色は彼よりも暗めの金色。表情も言葉遣いも野卑だが、顔立ちはそこそこ整っている。着ている服は、黒革のジャケットにジーンズと、まったくの普段着だった。
場違い感この上なかったが、この男に注意を向けた客はたぶん一人もいなかった。この男の言うとおり、この室内の空気には疑似麻薬やら催淫剤やら、その他もろもろが大量に混入されているからだ。甘ったるい香りには、あらゆる体液の臭いをごまかす効果もあるらしい。
幸か不幸か、彼はそういったものが効きにくい体質で、たまたまこの二人連れのいちばん近くにいたので声を聞きとることができた。その証拠に、彼の後ろにいる男は、制御不能になった機械のように腰を動かしつづけている。
「こりゃ、あんたの言うとおり、解毒剤飲んでなきゃヤバかったな。これだと持続時間どれくらい?」
金髪男がのんきな口調で、自分の右隣に立っていた連れに訊ねる。
こちらは金髪男よりも頭半分ほど背は低く、薄茶のコートに黒いスーツと、金髪男よりは堅い服装をしていた。髪は濃茶で、黒縁眼鏡をかけている。三十代後半くらいに見えたが、いずれにしろ、学者のような風情の男だった。
「おそらく、三時間は保つと思うが」
そう答えた学者男――勝手にそう呼ぶことにした――の声音はとても落ち着いていて、金髪男以上にここには不似合いだった。
「だが、三時間も必要かね?」
学者男はコートの左ポケットから小型のリモコンのようなものを取り出すと、茶色い革手袋に覆われている親指で無造作に押した。そのとたん、耳から脳を串刺しにされたかのような激痛が起こり、彼は思わず呻き声を上げた。
横目で周囲を窺えば、彼と同じように男たちに好き勝手にされていた玩具仲間たちが、軒並み倒れ伏していた。たぶん、失神している。彼はとっさに突っ伏して、自分も意識を失ったふりをした。
ちなみに、この部屋の床に暖房が入っているのは客のためだけだ。彼らは仕事のとき以外、硬くて冷たい床の上で生活させられている。
「これで十二歳以下は失神したはずだが」
そう言って、学者男は左手の中のもの――おそらくは音響系の装置を再びポケットの中にしまいこんだ。
「ほんとかよ。失神してねえのも中にはいるんじゃねえのか?」
「ジョニーくんも例外は何にでもあると言っていた。まあ、これなら及第点は与えられるのではないかね。ざっと見たところ、意識があるのはクズだけのようだ」
「みてえだな。……リデルー。こいつらも殺していいよなぁ?」
金髪男が青い目を細めて言った。かすかに顔を上げて二人を覗き見ていた彼は、その台詞よりも表情にぞっとした。
「そうだね」
しかし、学者男は平然と受け答える。
「私たちが請け負ったのは、子供たちの引き渡しだ。たとえ子供たち以外の人間が全員死んでいても、私たちには関係ないね」
「始末も込みの報酬だろ。だとしたら安すぎんな」
「だから、彼女のところまで回ってきたんじゃないのかね」
「かもな。まあ、俺はどっちでもいいけど」
「くれぐれも、子供たちにはこれ以上傷をつけないように」
「わかってんよ。俺の邪魔しようとしたら別だけどな」
言っている内容とは裏腹に、金髪男は明るく笑った。と、彼の尻をしつこくつかんでいた男の手が、床の上にごとりと落ちた。
「いつまでも突っこんじゃねえよ、この変態」
金髪男が低く罵り、彼の背中を片手で強く押さえつけた。いつのまに。何をされるのかと体をこわばらせたとき、彼の中から男の一物が消え去った。
何が起こったのかわからなかった。振り返って確認したかったが、それでは自分が気絶していなかったことがばれてしまう。
だが、あの学者男の話では、必ず子供を失神させられる装置ではなかったようだ。あるいは、今の衝撃で意識を取り戻したことにしてもいい。恐怖心より好奇心が勝った彼は、思いきって体を起こし、おそるおそる背後を見た。
男の顔も体もまったく覚えていなかったが、両手がないので判別はすぐについた。そいつは彼より数メートルも離れたところでカエルのように仰向けにひっくり返っていて、その腹からはナイフの黒い柄が生えていた。
その男のそばに立っていた金髪男は、懐からサバイバルナイフ――おそらく、男の腹に刺さっているものと同型――を取り出すと、ひざまずいて今度は男の心臓あたりを刺し、腹に刺さっていたナイフと一緒に引き抜いて立ち上がった。男は一度大きく痙攣したが、以後はぴくりとも動かなかった。
つまり、あの金髪男はサバイバルナイフ一本で男の両手を切り落とした上、さらに男の腹を突き刺して、彼から力任せに引き剥がしたのだ。とても信じがたいが、あれを見たらそう判断せざるを得ない。
「君に他人を変態と罵れる資格はないと思うんだが」
はっとして顔を上げると、自分のすぐ横にあの学者男が立っていた。彼の視線に気がついて一瞥はしたが、学者男がしたのは床に落ちていた男の手をゴミのように遠くに蹴飛ばすことだった。
「う、うるせえな。とりあえず、未成年はやってねえ」
あの金髪男が気まずそうに言い返す。しかし、彼にしてみれば、言い返せたのが奇跡のような状況だった。
この部屋の中には、彼を含めて男の子供が九人入れられていた。客である十二人の男たちは、部屋の各所にあるやはり赤いソファやテーブルやベッドなどで一応殺さないことを条件に子供を嬲っていたのだが、金髪男はその客たちの首を両手に持ったサバイバルナイフで切り裂き回っていた。
薬のせいで頭の動きも鈍くなっているのだろう。まるでウェイターのように歩く金髪男にほとんど反応できないまま、ナイフで首を切られ絶命していく。悲鳴を上げる時間もない。殺されるのを見た次の瞬間には自分も殺されているからだ。
こんなにも簡単に、こんなにも静謐に、人は人を殺せるものなのか。
彼は床に座りこみ、ただただ人が殺されるのを見ていた。
「やはり、例外はあるものだな」
学者男の声だった。我に返って見上げてみれば、真顔で彼を見下ろしていた。
今度こそ、自分に対して言っているらしい。彼はいったん唾を飲みこんでから学者男に訊ねた。
「あんたたち、誰?」
学者男は首をかしげた。質問の仕方が悪かったのだろうか。彼が不安に思いはじめた頃、ようやく答えが返ってきた。
「端的に言うと、君たちを助けにきた。正確に言うと、これから約二時間後、君たちを連邦警察に引き渡す」
彼が知りたかったこととはかなりずれていたが、とにかく、この学者男たちは仕事として自分たちを助けにきたのだということだけはわかった。
「俺たち、これからどうなるんですか?」
これにはすぐに返答があった。
「帰れる場所があるなら帰れるだろう。帰れないなら、自分で行き場所を決めるしかないな」
「家に帰れるとは言わないんですね」
「帰れる家のある人間ばかりではないだろう」
思わず言葉に詰まったとき、金髪男が上機嫌に笑いながら、血まみれのサバイバルナイフを提げて戻ってきた。床も壁も赤いから目立たないが、たぶん、この部屋の中も血まみれだ。だが、金髪男自身はまったく返り血を浴びていなかった。
「リデルー。終わったぜー」
「そうか」
学者男は室内を見渡した。そして、手近にあった赤いテーブルクロスでナイフの血を拭っていた金髪男にそっけなく命じた。
「君。子供たちを回収して、隣の部屋に連れていきたまえ」
金髪男は手を止めて叫んだ。
「何でだよ!」
「何でって、ここに子供たちを置いたままにはしておけないだろう」
「そりゃそうだが、俺はガキの運搬なんざしたかねえ!」
「一時間延長」
ぼそりと学者男が言うと、さらに文句を続けようとしていた金髪男の口が開いたまま止まった。
「子供たちをここから全員移動させたら、一時間延長する」
「……マジで?」
「私が今まで君に嘘をついたことがあったかね?」
「なかったって言いてえところだが、二、三回はあったような……」
「ほう? いつだね? 何月何日何時何分何秒?」
「子供かよ」
呆れたように金髪男は苦笑いしたが、学者男が提示した〝一時間延長〟の効果は絶大だった。何のつもりか、テーブルクロスを彼に放ってよこすと、見事な手さばきでサバイバルナイフを懐にしまい、部屋の奥に向かって走っていった。どうやら、奥で倒れている子供から回収するつもりのようだ。
「これ……どうすれば……?」
テーブルクロスを持って学者男に訊ねると、それまで無表情に近かった顔がわずかに綻んだ。
「それで君も体を拭けということじゃないかな。ついでに、体も隠せ」
「……血のついたナイフ拭ったクロスで?」
唖然として呟く。と、今度は学者男ははっきりと笑った。
笑うと学者男の印象は一変した。学者というより教師のように見える。
たった一年前までは、彼も九歳の子供として普通に学校に通っていた。成績もよくて、仲のいい友達もたくさんいた。それなのに。なぜ。
「歩けるかね?」
テーブルクロスを抱えて黙りこんでいると、学者男が腰を屈めて顔を覗きこんできた。
そこまで近づかれてわかったが、気遣わしげに眉をひそめている学者男の目の色は、それまで彼が見たことがなかった紫色をしていた。ずっと見つめていると引きずりこまれそうになる。彼はあわてて視線をはずした。
「はい。……歩けます」
体を拭く気にはどうしてもなれないが、下半身くらいは確かに隠したほうがいいだろう。テーブルクロスを腰に巻いてからゆっくり立ち上がると、痛みは多少あったものの、何とか歩けそうだった。慣れもあるが、もともと丈夫だったことが大きい。だから、死にたくても死ねなかった。
学者男は黙って彼を見ていた。が、いきなり踵を返すと、赤い壁に向かって右手を振り上げた。
「ちょっ、リデル!」
赤い布で巻いた子供を両脇に抱えていた金髪男が、悲鳴のような声を上げた。
「腹立ったからって殴んのはやめろ! 肩いっちまうぞ!」
肩どころではないだろうと彼は思ったが、学者男の右腕は肘のあたりまで壁の中にめりこんでいた。この部屋の壁はぶ厚いコンクリートでできている。そこに学者男は一撃で穴をあけたのだ。あの金髪男ならともかく、どう見ても肉体派ではない学者男が。
金髪男には何も答えず、学者男は壁から右腕を引き抜いた。一見、骨折した様子はなく、外傷もないように思えたが、コンクリートに引っかかったのか、手袋がずれて見えた手首は、まるでロボットのような銀色をしていた。
***
赤い部屋の外に、警備の人間は一人もいなかった。どうしたのかと学者男に訊いてみれば、無言で金髪男を指さされた。
納得した。たぶん、飼育係やそれ以外の人間たちのことを訊いても、学者男は金髪男を指しただろう。
彼らが強制移動させられた部屋は、あの赤い部屋の左隣にあった、物置兼リネン室のような部屋だった。鍵は学者男が例の右手でドアごと破壊した。
物置とは言っても、予備のインテリア類も置いてあるだけあって、それなりに広かった。多少埃くさくても、あの不快な甘い臭いよりははるかにいい。学者男は寒いと言って金髪男に暖房を入れさせていたが、彼らがいつも閉じこめられている地下室はもっと寒い。その寒さに耐えられない子供は死ぬしかなかった。
「さて」
彼以外の子供が清潔な白いシーツにくるまって熟睡しているのを確認してから、学者男は金髪男を振り返った。
「ハイド。ハウス」
さすがに疲れたのか、赤いソファにもたれて休憩していた金髪男は、顔色を変えて跳ね起きた。
「何でだよ!」
「あとはもう連邦警察が来るのを待つだけだ。ここで君がハウスしないと、話に齟齬が生じる」
「齟齬って何だよ! 仕事したの、全部俺じゃねえか!」
「しかし、契約したのは君ではない」
「くっそ! くっそ!」
金髪男は舌打ちしたが、学者男の命令には逆らえない関係にあるらしい。無表情で立っている学者男を恨みがましそうに睨みながらも、勢いをつけてソファに寄りかかり、眠るように目を閉じた。それから数秒後。
「……あれ?」
金髪男が目を開けて、間抜けな声を出した。起き上がって右手で頭を掻く。何となく、今までの金髪男と動きが違うような気がしたが、姿形はもちろん同じである。しかし、学者男が視界に入った瞬間、心底ほっとしたようにだらしなく笑った。
「よかった! アレンさんいた!」
思わず今度は学者男に目をやると、こちらも今までとは打って変わって、まるで聖職者のように穏やかに微笑んでいる。
「私はずっと君のそばにいたよ。何だね? 夢でも見ていたのかね?」
「いや、夢っていうか……すいません、また俺、意識飛んでたみたいで……」
そう言いながら部屋の中を見回した金髪男は、別のソファに座っていた彼に気がついて、ぎょっとしたような顔をした。
「そうなのかい? でも、君が運転してここまで来たんだよ。で、今は連邦警察の到着を待っているところだ」
「え? そうなんですか? 俺の最後の記憶って、自宅のリビングなんですけど……」
金髪男は唸りながら額に手を当てた。まさか。ある可能性に思い至って学者男を見上げれば、学者男は唇の前に人差指を立てて悪戯っぽく笑った。
学者男の言わんとすることはわかったが、こんな仕草や表情もできたのかと、そちらのほうに驚いた。リデルと呼ばれていたときとアレンと呼ばれている今と、いったいどちらが本当の学者男なのだろう。
「うーん……やっぱり一度、病院行ったほうがいいかなあ……」
手を外した金髪男は、肩を落として溜め息をついた。それはやめたほうがいいんじゃないかと思ったが、学者男もそう思っていたようで、「別に支障はないから、その件では病院に行かなくてもいいよ」と言った。
「でも、俺の意識がない間に、アレンさんに迷惑かけてるような気がして……」
「そんなことはないよ。私には君の意識のない状態というのがわからないが、誰にも迷惑はかけていない。安心したまえ」
いや、そんなことはないだろう。彼はそう思ったが、自分の保身のため、沈黙を守り通した。
「そうですか? それならいいんですけど……」
そう言いながらも、金髪男はいまいち信じきれていない様子だ。容姿はまったく同じでも、中身が違うとここまで別人に見えるのか。今の金髪男は見るからに人のよさそうな好青年である。とてもサバイバルナイフ二本で十二人を瞬殺した男とは思えない。
「では、私たちはそろそろここから退散しようか」
え? と彼も金髪男も学者男を見上げた。だが、学者男の目は自分の左手首にはまっている腕時計に向けられている。
「私たちが連邦警察と直接顔を合わせたら何かと面倒だろう。車の中で彼らの到着を見届けたらすぐに彼女に報告しよう。いずれにせよ、報酬は彼女を通して支払われるんだ。仲介料をごっそり抜き取られて」
「いいカモにされているような」
「仕方ない。私たちでは仕事は取ってこられない」
「それもそうですね」
金髪男は苦笑して立ち上がり、学者男の後に続いて部屋を出ようとした。が、ふと彼の前で足を止めると、心なしかあの男より澄んで見える青い目で、じっと彼を見すえた。
もしかしたら、思い出してはいけないことを思い出してしまったのかもしれない。戦々恐々として視線を合わせないようにしていると、金髪男は自分のジャケットの右ポケットから何かを取り出し、上半身を折り曲げるようにして彼に右手を差し出してきた。
「他の子の分まではないから、これは君一人でこっそり舐めてね」
条件反射的に両手を広げれば、そこにぽとりと落とされたのは、個別包装された一個の飴だった。袋の色からするとオレンジ味らしい。何も言えずに金髪男を見上げると、照れくさそうに笑い返された。
「こんなものしかあげられなくてごめん。いつもなら、もっとたくさん持ち歩いてるんだけど」
「フレッドくん。私には? 私には?」
学者男が明らかに拗ねた様子で金髪男に左手を突き出してきた。彼はあっけにとられたが、金髪男にとっては珍しいことではないようで、「はいはい。アレンさんには特別に二個あげます」と今度は二個取り出して、学者男の手のひらに載せた。
「普段は欲しがらないくせに」
「今はとっても欲しかったんだ」
どちらが年上なのかわからないような言い合いをしながら部屋を出ていく。自分が礼も別れの挨拶も言っていなかったことに気がついたのは、二人の足音が聞こえなくなった後のことだった。
きっと、あの二人に会うことはもう二度とないだろうし、あの二人もそれを望んでいないだろう。そう思いながら、いったいいつぶりになるのかわからないオレンジ色の飴を口の中に放りこんだ。
そして、その飴のあまりのうまさに感涙し、連邦警察経由で児童養護施設に入所した後、同じ飴を探し出して舐めつづけ、ついにはそこの製造会社に就職して社長にまで上りつめてしまうのだが、それはまた別の話である。
やめてくれと言ってそれが聞き入れられたためしはない。彼らの飼育係たちいわく、いくらでも換えのきく生きた玩具には生存権すら存在しない。
いっそ壊れて廃棄されたい。そう思いながら壁際に緑色の目を向けると、いつのまにかその二人連れが立っていた。
何が奇妙かと言えば、二人とも服を着ている。それがいちばん奇妙だった。
この床も壁も扉も天井も赤い部屋の中で、いま服を着ている人間は、おそらくこの二人連れだけだ。警備はこの部屋の外にいる。遅れて来た客かと一瞬思ったが、途中参加はできないことになっていたはずだ。
「おーおー。薬、ガンガン使ってやがんなー」
二人連れのうちの一人がにやにやしながら言った。二十代半ばと思しき大柄な男で、髪の色は彼よりも暗めの金色。表情も言葉遣いも野卑だが、顔立ちはそこそこ整っている。着ている服は、黒革のジャケットにジーンズと、まったくの普段着だった。
場違い感この上なかったが、この男に注意を向けた客はたぶん一人もいなかった。この男の言うとおり、この室内の空気には疑似麻薬やら催淫剤やら、その他もろもろが大量に混入されているからだ。甘ったるい香りには、あらゆる体液の臭いをごまかす効果もあるらしい。
幸か不幸か、彼はそういったものが効きにくい体質で、たまたまこの二人連れのいちばん近くにいたので声を聞きとることができた。その証拠に、彼の後ろにいる男は、制御不能になった機械のように腰を動かしつづけている。
「こりゃ、あんたの言うとおり、解毒剤飲んでなきゃヤバかったな。これだと持続時間どれくらい?」
金髪男がのんきな口調で、自分の右隣に立っていた連れに訊ねる。
こちらは金髪男よりも頭半分ほど背は低く、薄茶のコートに黒いスーツと、金髪男よりは堅い服装をしていた。髪は濃茶で、黒縁眼鏡をかけている。三十代後半くらいに見えたが、いずれにしろ、学者のような風情の男だった。
「おそらく、三時間は保つと思うが」
そう答えた学者男――勝手にそう呼ぶことにした――の声音はとても落ち着いていて、金髪男以上にここには不似合いだった。
「だが、三時間も必要かね?」
学者男はコートの左ポケットから小型のリモコンのようなものを取り出すと、茶色い革手袋に覆われている親指で無造作に押した。そのとたん、耳から脳を串刺しにされたかのような激痛が起こり、彼は思わず呻き声を上げた。
横目で周囲を窺えば、彼と同じように男たちに好き勝手にされていた玩具仲間たちが、軒並み倒れ伏していた。たぶん、失神している。彼はとっさに突っ伏して、自分も意識を失ったふりをした。
ちなみに、この部屋の床に暖房が入っているのは客のためだけだ。彼らは仕事のとき以外、硬くて冷たい床の上で生活させられている。
「これで十二歳以下は失神したはずだが」
そう言って、学者男は左手の中のもの――おそらくは音響系の装置を再びポケットの中にしまいこんだ。
「ほんとかよ。失神してねえのも中にはいるんじゃねえのか?」
「ジョニーくんも例外は何にでもあると言っていた。まあ、これなら及第点は与えられるのではないかね。ざっと見たところ、意識があるのはクズだけのようだ」
「みてえだな。……リデルー。こいつらも殺していいよなぁ?」
金髪男が青い目を細めて言った。かすかに顔を上げて二人を覗き見ていた彼は、その台詞よりも表情にぞっとした。
「そうだね」
しかし、学者男は平然と受け答える。
「私たちが請け負ったのは、子供たちの引き渡しだ。たとえ子供たち以外の人間が全員死んでいても、私たちには関係ないね」
「始末も込みの報酬だろ。だとしたら安すぎんな」
「だから、彼女のところまで回ってきたんじゃないのかね」
「かもな。まあ、俺はどっちでもいいけど」
「くれぐれも、子供たちにはこれ以上傷をつけないように」
「わかってんよ。俺の邪魔しようとしたら別だけどな」
言っている内容とは裏腹に、金髪男は明るく笑った。と、彼の尻をしつこくつかんでいた男の手が、床の上にごとりと落ちた。
「いつまでも突っこんじゃねえよ、この変態」
金髪男が低く罵り、彼の背中を片手で強く押さえつけた。いつのまに。何をされるのかと体をこわばらせたとき、彼の中から男の一物が消え去った。
何が起こったのかわからなかった。振り返って確認したかったが、それでは自分が気絶していなかったことがばれてしまう。
だが、あの学者男の話では、必ず子供を失神させられる装置ではなかったようだ。あるいは、今の衝撃で意識を取り戻したことにしてもいい。恐怖心より好奇心が勝った彼は、思いきって体を起こし、おそるおそる背後を見た。
男の顔も体もまったく覚えていなかったが、両手がないので判別はすぐについた。そいつは彼より数メートルも離れたところでカエルのように仰向けにひっくり返っていて、その腹からはナイフの黒い柄が生えていた。
その男のそばに立っていた金髪男は、懐からサバイバルナイフ――おそらく、男の腹に刺さっているものと同型――を取り出すと、ひざまずいて今度は男の心臓あたりを刺し、腹に刺さっていたナイフと一緒に引き抜いて立ち上がった。男は一度大きく痙攣したが、以後はぴくりとも動かなかった。
つまり、あの金髪男はサバイバルナイフ一本で男の両手を切り落とした上、さらに男の腹を突き刺して、彼から力任せに引き剥がしたのだ。とても信じがたいが、あれを見たらそう判断せざるを得ない。
「君に他人を変態と罵れる資格はないと思うんだが」
はっとして顔を上げると、自分のすぐ横にあの学者男が立っていた。彼の視線に気がついて一瞥はしたが、学者男がしたのは床に落ちていた男の手をゴミのように遠くに蹴飛ばすことだった。
「う、うるせえな。とりあえず、未成年はやってねえ」
あの金髪男が気まずそうに言い返す。しかし、彼にしてみれば、言い返せたのが奇跡のような状況だった。
この部屋の中には、彼を含めて男の子供が九人入れられていた。客である十二人の男たちは、部屋の各所にあるやはり赤いソファやテーブルやベッドなどで一応殺さないことを条件に子供を嬲っていたのだが、金髪男はその客たちの首を両手に持ったサバイバルナイフで切り裂き回っていた。
薬のせいで頭の動きも鈍くなっているのだろう。まるでウェイターのように歩く金髪男にほとんど反応できないまま、ナイフで首を切られ絶命していく。悲鳴を上げる時間もない。殺されるのを見た次の瞬間には自分も殺されているからだ。
こんなにも簡単に、こんなにも静謐に、人は人を殺せるものなのか。
彼は床に座りこみ、ただただ人が殺されるのを見ていた。
「やはり、例外はあるものだな」
学者男の声だった。我に返って見上げてみれば、真顔で彼を見下ろしていた。
今度こそ、自分に対して言っているらしい。彼はいったん唾を飲みこんでから学者男に訊ねた。
「あんたたち、誰?」
学者男は首をかしげた。質問の仕方が悪かったのだろうか。彼が不安に思いはじめた頃、ようやく答えが返ってきた。
「端的に言うと、君たちを助けにきた。正確に言うと、これから約二時間後、君たちを連邦警察に引き渡す」
彼が知りたかったこととはかなりずれていたが、とにかく、この学者男たちは仕事として自分たちを助けにきたのだということだけはわかった。
「俺たち、これからどうなるんですか?」
これにはすぐに返答があった。
「帰れる場所があるなら帰れるだろう。帰れないなら、自分で行き場所を決めるしかないな」
「家に帰れるとは言わないんですね」
「帰れる家のある人間ばかりではないだろう」
思わず言葉に詰まったとき、金髪男が上機嫌に笑いながら、血まみれのサバイバルナイフを提げて戻ってきた。床も壁も赤いから目立たないが、たぶん、この部屋の中も血まみれだ。だが、金髪男自身はまったく返り血を浴びていなかった。
「リデルー。終わったぜー」
「そうか」
学者男は室内を見渡した。そして、手近にあった赤いテーブルクロスでナイフの血を拭っていた金髪男にそっけなく命じた。
「君。子供たちを回収して、隣の部屋に連れていきたまえ」
金髪男は手を止めて叫んだ。
「何でだよ!」
「何でって、ここに子供たちを置いたままにはしておけないだろう」
「そりゃそうだが、俺はガキの運搬なんざしたかねえ!」
「一時間延長」
ぼそりと学者男が言うと、さらに文句を続けようとしていた金髪男の口が開いたまま止まった。
「子供たちをここから全員移動させたら、一時間延長する」
「……マジで?」
「私が今まで君に嘘をついたことがあったかね?」
「なかったって言いてえところだが、二、三回はあったような……」
「ほう? いつだね? 何月何日何時何分何秒?」
「子供かよ」
呆れたように金髪男は苦笑いしたが、学者男が提示した〝一時間延長〟の効果は絶大だった。何のつもりか、テーブルクロスを彼に放ってよこすと、見事な手さばきでサバイバルナイフを懐にしまい、部屋の奥に向かって走っていった。どうやら、奥で倒れている子供から回収するつもりのようだ。
「これ……どうすれば……?」
テーブルクロスを持って学者男に訊ねると、それまで無表情に近かった顔がわずかに綻んだ。
「それで君も体を拭けということじゃないかな。ついでに、体も隠せ」
「……血のついたナイフ拭ったクロスで?」
唖然として呟く。と、今度は学者男ははっきりと笑った。
笑うと学者男の印象は一変した。学者というより教師のように見える。
たった一年前までは、彼も九歳の子供として普通に学校に通っていた。成績もよくて、仲のいい友達もたくさんいた。それなのに。なぜ。
「歩けるかね?」
テーブルクロスを抱えて黙りこんでいると、学者男が腰を屈めて顔を覗きこんできた。
そこまで近づかれてわかったが、気遣わしげに眉をひそめている学者男の目の色は、それまで彼が見たことがなかった紫色をしていた。ずっと見つめていると引きずりこまれそうになる。彼はあわてて視線をはずした。
「はい。……歩けます」
体を拭く気にはどうしてもなれないが、下半身くらいは確かに隠したほうがいいだろう。テーブルクロスを腰に巻いてからゆっくり立ち上がると、痛みは多少あったものの、何とか歩けそうだった。慣れもあるが、もともと丈夫だったことが大きい。だから、死にたくても死ねなかった。
学者男は黙って彼を見ていた。が、いきなり踵を返すと、赤い壁に向かって右手を振り上げた。
「ちょっ、リデル!」
赤い布で巻いた子供を両脇に抱えていた金髪男が、悲鳴のような声を上げた。
「腹立ったからって殴んのはやめろ! 肩いっちまうぞ!」
肩どころではないだろうと彼は思ったが、学者男の右腕は肘のあたりまで壁の中にめりこんでいた。この部屋の壁はぶ厚いコンクリートでできている。そこに学者男は一撃で穴をあけたのだ。あの金髪男ならともかく、どう見ても肉体派ではない学者男が。
金髪男には何も答えず、学者男は壁から右腕を引き抜いた。一見、骨折した様子はなく、外傷もないように思えたが、コンクリートに引っかかったのか、手袋がずれて見えた手首は、まるでロボットのような銀色をしていた。
***
赤い部屋の外に、警備の人間は一人もいなかった。どうしたのかと学者男に訊いてみれば、無言で金髪男を指さされた。
納得した。たぶん、飼育係やそれ以外の人間たちのことを訊いても、学者男は金髪男を指しただろう。
彼らが強制移動させられた部屋は、あの赤い部屋の左隣にあった、物置兼リネン室のような部屋だった。鍵は学者男が例の右手でドアごと破壊した。
物置とは言っても、予備のインテリア類も置いてあるだけあって、それなりに広かった。多少埃くさくても、あの不快な甘い臭いよりははるかにいい。学者男は寒いと言って金髪男に暖房を入れさせていたが、彼らがいつも閉じこめられている地下室はもっと寒い。その寒さに耐えられない子供は死ぬしかなかった。
「さて」
彼以外の子供が清潔な白いシーツにくるまって熟睡しているのを確認してから、学者男は金髪男を振り返った。
「ハイド。ハウス」
さすがに疲れたのか、赤いソファにもたれて休憩していた金髪男は、顔色を変えて跳ね起きた。
「何でだよ!」
「あとはもう連邦警察が来るのを待つだけだ。ここで君がハウスしないと、話に齟齬が生じる」
「齟齬って何だよ! 仕事したの、全部俺じゃねえか!」
「しかし、契約したのは君ではない」
「くっそ! くっそ!」
金髪男は舌打ちしたが、学者男の命令には逆らえない関係にあるらしい。無表情で立っている学者男を恨みがましそうに睨みながらも、勢いをつけてソファに寄りかかり、眠るように目を閉じた。それから数秒後。
「……あれ?」
金髪男が目を開けて、間抜けな声を出した。起き上がって右手で頭を掻く。何となく、今までの金髪男と動きが違うような気がしたが、姿形はもちろん同じである。しかし、学者男が視界に入った瞬間、心底ほっとしたようにだらしなく笑った。
「よかった! アレンさんいた!」
思わず今度は学者男に目をやると、こちらも今までとは打って変わって、まるで聖職者のように穏やかに微笑んでいる。
「私はずっと君のそばにいたよ。何だね? 夢でも見ていたのかね?」
「いや、夢っていうか……すいません、また俺、意識飛んでたみたいで……」
そう言いながら部屋の中を見回した金髪男は、別のソファに座っていた彼に気がついて、ぎょっとしたような顔をした。
「そうなのかい? でも、君が運転してここまで来たんだよ。で、今は連邦警察の到着を待っているところだ」
「え? そうなんですか? 俺の最後の記憶って、自宅のリビングなんですけど……」
金髪男は唸りながら額に手を当てた。まさか。ある可能性に思い至って学者男を見上げれば、学者男は唇の前に人差指を立てて悪戯っぽく笑った。
学者男の言わんとすることはわかったが、こんな仕草や表情もできたのかと、そちらのほうに驚いた。リデルと呼ばれていたときとアレンと呼ばれている今と、いったいどちらが本当の学者男なのだろう。
「うーん……やっぱり一度、病院行ったほうがいいかなあ……」
手を外した金髪男は、肩を落として溜め息をついた。それはやめたほうがいいんじゃないかと思ったが、学者男もそう思っていたようで、「別に支障はないから、その件では病院に行かなくてもいいよ」と言った。
「でも、俺の意識がない間に、アレンさんに迷惑かけてるような気がして……」
「そんなことはないよ。私には君の意識のない状態というのがわからないが、誰にも迷惑はかけていない。安心したまえ」
いや、そんなことはないだろう。彼はそう思ったが、自分の保身のため、沈黙を守り通した。
「そうですか? それならいいんですけど……」
そう言いながらも、金髪男はいまいち信じきれていない様子だ。容姿はまったく同じでも、中身が違うとここまで別人に見えるのか。今の金髪男は見るからに人のよさそうな好青年である。とてもサバイバルナイフ二本で十二人を瞬殺した男とは思えない。
「では、私たちはそろそろここから退散しようか」
え? と彼も金髪男も学者男を見上げた。だが、学者男の目は自分の左手首にはまっている腕時計に向けられている。
「私たちが連邦警察と直接顔を合わせたら何かと面倒だろう。車の中で彼らの到着を見届けたらすぐに彼女に報告しよう。いずれにせよ、報酬は彼女を通して支払われるんだ。仲介料をごっそり抜き取られて」
「いいカモにされているような」
「仕方ない。私たちでは仕事は取ってこられない」
「それもそうですね」
金髪男は苦笑して立ち上がり、学者男の後に続いて部屋を出ようとした。が、ふと彼の前で足を止めると、心なしかあの男より澄んで見える青い目で、じっと彼を見すえた。
もしかしたら、思い出してはいけないことを思い出してしまったのかもしれない。戦々恐々として視線を合わせないようにしていると、金髪男は自分のジャケットの右ポケットから何かを取り出し、上半身を折り曲げるようにして彼に右手を差し出してきた。
「他の子の分まではないから、これは君一人でこっそり舐めてね」
条件反射的に両手を広げれば、そこにぽとりと落とされたのは、個別包装された一個の飴だった。袋の色からするとオレンジ味らしい。何も言えずに金髪男を見上げると、照れくさそうに笑い返された。
「こんなものしかあげられなくてごめん。いつもなら、もっとたくさん持ち歩いてるんだけど」
「フレッドくん。私には? 私には?」
学者男が明らかに拗ねた様子で金髪男に左手を突き出してきた。彼はあっけにとられたが、金髪男にとっては珍しいことではないようで、「はいはい。アレンさんには特別に二個あげます」と今度は二個取り出して、学者男の手のひらに載せた。
「普段は欲しがらないくせに」
「今はとっても欲しかったんだ」
どちらが年上なのかわからないような言い合いをしながら部屋を出ていく。自分が礼も別れの挨拶も言っていなかったことに気がついたのは、二人の足音が聞こえなくなった後のことだった。
きっと、あの二人に会うことはもう二度とないだろうし、あの二人もそれを望んでいないだろう。そう思いながら、いったいいつぶりになるのかわからないオレンジ色の飴を口の中に放りこんだ。
そして、その飴のあまりのうまさに感涙し、連邦警察経由で児童養護施設に入所した後、同じ飴を探し出して舐めつづけ、ついにはそこの製造会社に就職して社長にまで上りつめてしまうのだが、それはまた別の話である。
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