無冠の皇帝

有喜多亜里

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【05】始まりの終わり(中)

32 カード突き返しました

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 司令官の側近・ヴォルフは、メールに書かれていたとおり、午後三時ちょうどにドレイクの執務室にやってきた。
 前回はキャルと一緒だったが、今回はヴォルフ一人である。しかし、〝ドレイク棟〟の出入口にある生体認証装置は、やはり来客の存在をイルホンたちに通知しなかった。
 来る者拒まずのザルセキュリティだが、生体認証は必須である。ということは、ヴォルフたちはあの出入口を使わずにこの棟を出入りしている。
 だが、それを追及したところでいったい何の意味があるのか。ここをドレイクの執務室にしたのは間違いなく司令官だ。今のところ、盗聴器も盗撮カメラも発見できていないが。

「よう、ヴォルくん。お疲れさん。今日は長居できるのかい?」

 腰を屈めて入室してきたヴォルフに、ドレイクはだらしなくソファに座ったまま、にやにやして右手を上げた。
 司令官の側近に対しては、敬う気持ちは微塵も持ち合わせていない。

「いや、駄目だ。が、出かけたもん勝ちだ。それから〝ヴォルくん〟はやめろ」

 相変わらずの超低音で、白銀の短髪をした大男はうんざりしたように答えた。
 久しぶりに直接会ったが、獣のような金色の目といい屈強そうな巨体といい、やはり迫力がある。それでも、口調は穏やかで動作もゆったりしている。イルホンは何となく、躾の行き届いた白い大型犬を連想した。

「へいへい。ところで、護衛が殿下のそば離れていいのかい?」
「俺が戻るまで執務室にいる。あそこなら、この基地で二番目に安全だ」
「一番目は?」
「〈フラガラック〉の中だ」
「それは確かに」

 ドレイクはしかつめらしくうなずくと、自分の対面のソファを右手で指した。

「とにかくまあ、座んなさいよ。今回はコーヒー出すよ。でも、ビールジョッキはないから普通サイズで許して」
「俺だって、ビールジョッキでコーヒーは飲んでねえよ……」

 ぶつぶつ言いながらも、ヴォルフはソファに慎重に腰を下ろした。
 幸い、ここのソファセットは、ドレイクが昼寝できるくらい大型で頑丈である。
 アルスターの執務室にあったあのソファだったら、もしかしたらヴォルフの体重に耐えきれずに壊れていたかもしれない。

「あと、うちには砂糖もミルクも置いてないから、問答無用でブラックだよ。濃度だけは選べるよ」
「普通でいいよ、普通で」
「あ、そう。というわけで、イルホンくん。普通濃度のコーヒーお願いします」
「はい、了解しました」

 すでに給湯室で待機していたイルホンは、ドアを閉めることなく、ただちに作業を開始した。
 ヴォルフが座っていると、五人は楽に座れるはずのソファが二人掛けのように見える。
 背もたれに寄りかかった彼は、太い両腕を組み、興味深そうに室内を見回した。

「ここが〝この世のはきだめ〟か」
「〝はきだめ〟だよ。だから、殿下は絶対来ちゃいけないんだ」
「俺はいいのか?」
「あんたは殿下じゃないだろ。できれば、キャルちゃんにも来てもらいたくないな。まあ、キャルちゃんがここに来ることは、もう二度とないだろうけど」

 ヴォルフはしばらく間を置いて、言いにくそうに口を開いた。

「アーウィンは、どうしてもここに来たいらしいぞ」
「何でまた?」

 ドレイクは本気で驚いている。彼にはここに司令官が来たがる理由がどうしてもわからないのだ。イルホンもそこはあえて説明を放棄している。

「俺たちや〝大佐〟は来られて、自分は来られないのが納得いかないらしい」

 ――そうだったのか。
 放棄して正解だった。司令官の理由もイルホンの想像の範疇を超えていた。

「あんたたちにはともかく、何でそんなに〝大佐〟に対抗意識燃やしてるの? 殿下とは全然立場違うでしょ」
「そうなんだけどなあ……とにかく、おまえに正論で断られて、ものすごく悔しがってた」
「正論ねえ……あれは屁理屈だと思うが」
「おまえも自分でそう思ってはいたんだな」

 話が一段落したところで、イルホンはヴォルフの前には普通濃度のコーヒーを、ドレイクの前にはいつもの激薄コーヒーを置き、すみやかに自分の執務机に撤収した。
 これから事務仕事をしているふりをして、二人の会話を記録しなければならない。

「……なあ」

 ヴォルフに勧めることなく、さっさと自分のコーヒーを手に取ったドレイクは、眉間に皺を寄せて口を切った。

「ここだけの話、殿下はメールだけじゃなく、電話も〝検閲〟できるのか?」
「できないこともないだろうが、そこまでアーウィンも暇じゃない」
「できないこともないがやってないのか。じゃあ、何でクッキーのこと知ってたんだ?」
「クッキー?」
「俺が〝大佐〟にクッキー配ってたの知ってただろ。俺はメールには書いてなかったぞ。他の〝大佐〟のメールに書いてあったのか?」
「あー、あれか。……おまえ、あのクッキー買うのに、隊のクレジットカード使っただろ」
「……まさか」
「ああ。アーウィンはあのカードの支払明細をすぐに見られるんだ。〝交流解禁〟になってから、おまえが同じクッキー何個も買いこんだから、たぶん〝大佐〟に配るつもりなんじゃないかって見当をつけた。ついでに言うと、自分のところにも持ってくるんじゃないかって期待してたから、あんなにしつこく〝持ってこい〟メールされたんだ」

 ドレイクはコーヒーを持ったまま叫んだ。

「そんな非道、許されるのか!?」

 気持ちはわかる。しかし、相手はあの司令官なのだ。諦めるしかない。

「いずれにしろ、何を買ったかは経費の内訳報告でバレる。早いか遅いかの違いだけだ」
「そりゃそうだろうがよ……あまりにも早すぎんだろ……」
「ああ、そうだ。すっかり忘れてた。今日の俺はこれを届けにきたんだった」

 そう言うと、ヴォルフは軍服の胸ポケットから何かを取り出して、ローテーブルの上に置いた。
 イルホンが淹れたコーヒーにはまだ手をつけていない。彼も猫舌なのだろうか。

「何だ?」
「俺たちにくれたクッキーの礼だ。……限度額なしのクレジットカード」

 ドレイクは即座に突っこんだ。

「クッキーと全然釣り合ってないだろ!」

 さすが、変態でもまともだ。イルホンは思わず感動を覚えた。
 そして、司令官の思考回路に改めて恐怖した。

「おまえが本音は金が欲しいなんて言うからだよ。いくらやればいいのかわからなかったから、いくらでも使えるカードにしたんだ」
「……これも使ったら、殿下に明細わかるのか?」
「ああ」
「こんな何買ったかダダ漏れのカードなんかいらねえよ!」
「だよな。俺もそう思ったが、一応預かって……いや、持ってきた。じゃあ、これはおまえがこんな法外なものはいただけませんと固辞したことにしておく」
「ありがとう。ぜひそうしておいてくれ。ほんとにもう、お礼なんていらないから」
「でも、これからもアーウィンは、あの手この手でおまえのこの執務室に来ようとするぞ」
「殿下はこんなところに来て、いったい何がしたいの?」
「別に何がしたいというわけでもなく……ただ来てみたいんだろ」
「もしどうしてもここに殿下を入れなきゃならなくなったら、俺は隊の経費でリフォームするぞ」
「経費として認められるかな……」
「認めてもらわなきゃ困る。ここは〝はきだめ〟だからな」
「おまえの外見からは想像できないほど、きれいに使ってるじゃないか」
「イルホンくんが毎日頑張って掃除してくれてるからだよ。俺は必要以上に汚さないように、このソファと執務机とトイレくらいしか使ってない」
「そこしか使ってないだけだろ。物は言いようだな」

 ヴォルフは呆れたように笑うと、ようやくコーヒーを摘まみ上げた。
 その様子をディスプレイの陰から盗み見ていたイルホンは思った。
 ――やはり、ビールジョッキを用意しておいたほうがよかったか。

「ところでヴォルくん。アルスター大佐は今どうしてる?」

 おそらく、今日のドレイクがいちばん訊きたかったのはそれだろう。
 ヴォルフもわかっていたようで、コーヒーを何口か飲むと、そっとローテーブルの上に戻した。

「また〝ヴォルくん〟言ったな。……おまえに言われたとおり、自宅待機させている。アーウィンはすぐには〝栄転〟にせず、一日だけ猶予をやると言った。その間にアルスターが何の行動もとらなかったら、〝栄転〟確定だ」
「アルスター大佐の拘束は簡単にできたのか?」
「ああ。あっけないほど簡単だったそうだ。艦長席に呆然と座っていて、自分が謁見の間に連行されると知らされると、ほっとしたような顔をした。その周囲にいた部下たちは、驚いた表情一つせず、黙ってそれを眺めていた。……もしかしたら、基地に帰るまでの間、部下たちから責められつづけていたのかもな。もちろん、アルスターはそんなことは一言も言わなかったが」
「自宅待機の理由は何にしたんだ?」
「〝なぜ自分が強制撤収されたのか、自宅でよく考えろ。処分は追って沙汰する〟」
「まあ、もっともらしいと言えばもっともらしいが……手抜きがうまいな、殿下」
「今のところ、アルスターに何かあったという報告は入っていない。このまま何もなければアルスターに〝栄転〟を命じて、〝元アルスター大佐隊〟の指揮官にはパラディンを任命することになる」
「そういや、前から気になってたんだが、〝栄転〟を命じられた〝大佐〟の家族も一緒に〝帝都〟に行ってるのか?」
「いや、まちまちだ。でも、本当に家族のことを思っていたら、〝帝都〟には連れていかずに単身赴任するだろうな」
「アルスター大佐の家族は?」
「確か、妻と息子三人。孫もいたか。息子たちはみんな軍関係者だ」
「そうか。それならもう〝栄転〟を選ぶかもな。〝戦死〟と〝自決〟じゃ雲泥の差だ。あくまでアルスター大佐にとっては」

 喉を湿すように、ドレイクがコーヒーを飲む。
 それを見ながら、ヴォルフは苦笑いを浮かべた。

「アーウィンが、もっと真剣に〝大佐〟を選んでおけばよかったって後悔してたよ」
「参考までに、どんな基準で選んだんだ?」
「まず、アーウィンに付け届けをしようとした〝大佐〟は自動的に〝栄転〟にした。次に、無人艦の大量導入に反対した〝大佐〟を〝栄転〟にした。そしたら、ああいう面子になった」
「〝大佐〟は最初何人いたんだ?」
「十八人いたよ」
「ええ!? それっておかしくない!?」
「アーウィンが就任する前は八隊あって、他に隊を持たない〝大佐〟が十人いたんだ。アーウィンは六隊に減らして、そこの隊長以外の〝大佐〟はみんな切った」
「何で五隊にしなかったんだ? 『5』が好きなのに」
「あの当時は六隊が最適だと考えたんだよ。好みで五隊にするわけないだろ」
「へえ。じゃあ、あの六人は選び抜かれた三分の一だったわけだ」
「嫌味だな。アーウィンもつくづく自分は人を見る目がなかったって反省してたよ」
「無人艦メインで考えてたから、無人艦導入に賛成した〝大佐〟なら、とりあえず誰でもいいって思ったんだろ?」
「……まあな」
「でも、護衛の三人に関しては見る目はあったんじゃない? 今は二人も砲撃に転向しちまったけど」
「そのうち一人は〝転向させられた〟んだけどな」
「それにしても〝栄転〟先、殿下的には無能者の吹きだまりになってるんだろ? 大丈夫なのか? 皇帝陛下のお膝元なのに」
「皇帝陛下のお膝元だから、格下の護衛艦隊上がりに対する〝指導〟が厳しいんだ」
「ああ、なるほどね。じゃあ、それに耐えきれなかった人間はもう退役してるのかな」
「あそこは、死ぬか定年になるかしないと辞められない」
「うわ、生き地獄だ」
「そのかわり、給料はこっちより少しだけいい。本当に少しだけな」
「じゃあ、ウェーバーとマクスウェルは辞められないで頑張ってるね」
「ああ、頑張ってるらしい。まもなく、そこにアルスターも仲間入りだ」
「……俺はアルスター大佐、嫌いじゃなかったんだけどな」
「でも、とりたてて好きでもなかっただろ?」

 さらりとヴォルフが言い、イルホンは内心驚いた。
 以前、図体はでかいが人はいいとドレイクが評していたが、かといって、お人好しというわけでもないようだ。もっとも、それではあの司令官の側近はとても務まらないだろうが。

「ああ。尊敬はしてたけどな。左翼で〝同じことの繰り返し〟を続けてたことに対して。ただ、惜しむらくは向上心がなかった。護衛の三人とは違ってね」
「向上心……ダーナとパラディンにはあるだろうが、コールタンにもあるのか?」
「あるよ。俺のこの〝うっすいコーヒー〟、飲んでくれたもん」
「はあ?」
「まあ、向上心というよりは探求心なんだろうけどさ。挨拶回りしたとき、率先して飲んでくれたよ。きっとまずかっただろうにねえ。もしかしたら、俺に気に入られようとしてそうしたのかもしれないけど、それでも、未知のものを知ろうと思うその心意気を俺は気に入った」
「……おまえの〝人を気に入る・気に入らない〟って、実はそんな些細なことがきっかけか?」
「ああ、些細なことだよ。俺は単純なんだ。たとえば、俺がアルスター大佐の発言で最初にカチンときたのは、〝大佐がいなくなったから、マクスウェル大佐隊は一度解体したほうがいい〟だった。〝大佐がいなくなった〟のは、その〝大佐〟のせいだろ? そんな理由で何で解体されなきゃならない? たとえは悪いが、親が蒸発しちまった兄弟は、必ずバラバラに引き取られなきゃいけないのかい? まあ、その兄弟同士の仲が悪かったら、そのほうがいいかもしれないけどね」
「だからあのとき、〝筋が通らない〟って反対したのか」
「反対はしなかったと思うけどねえ。ただ、パラディン大佐に意見を求められたから、仕方なく答えたまでで」
「あれじゃ実質、反対したようなもんだろ」

 ヴォルフは太い眉をひそめたが、ドレイクは意地悪くニタニタと笑った。

「だってねえ。みんなあまりにも簡単に解体解体って言うから。〝解体して編入〟がどれだけ大変か、ダーナのあれでよくわかったでしょ? でも、マクスウェル大佐隊に限っては、あれで正解だった。あそこは出来のいいのと悪いのの差がありすぎた。ダーナはあれで七班長を楽にしてやったんだよ」
「まさか、そこまで読んでだんまり決めこもうとしてたのか?」
「いや? 俺はあのとき、マクスウェル大佐隊がそんな隊だなんて全然知らなかった。ただ、やれるもんならやってみろって冷ややかに見てた。あれで困るの、ダーナとアルスター大佐だし」
「そんなことを考えてたのか……間接的には、おまえだって困るだろうに」
「でも、さすがパラディン大佐だね。もう解体でまとまりそうだったのに、最後に俺に訊ねてきたよ。パラディン大佐じゃなかったら、俺、ばっくれてたかも」
「おまえ……やっぱりパラディンが……」
「え? 何?」
「いや……些細なようで深いな。おまえの理由」
「別に深くはないだろ。……アルスター大佐の執務室には二回行ったけど、俺が飲めそうもない真っ黒なコーヒー一杯出されただけで、クッキーのお返しはとうとうもらえなかったよ」
「それで完全に見限ったのか」
「まあ、そうかな。もっとも、アルスター大佐には最初から〝俺はうっすいコーヒーしか飲めません〟って言う気はなかったけどな」

 ドレイクはにやりと笑い、激薄コーヒーをうまそうに啜った。
 それで察しがついたのだろう。ヴォルフはじっとドレイクを見つめた。

「いま残ってる〝大佐〟は、全員気に入ってるのか?」
「別に、俺が気に入っていようがいまいが、どうだっていいじゃない。仕事さえできれば」
「サンプル数は三つだけだが、おまえが気に入らない人間は、仕事もできないようだからな」
「ほんとにサンプル数少ないな。……全員気に入ってるよ。今のところは」
「その〝今のところは〟っていうのが怖いな」
「だって、人も状況も変わるからさ。アルスター大佐も変わった。俺は自分の行く末を見てるような心地がした。だから、こういう形で終わらせたくはなかったんだが……こういう形で終わるしかなかったようだ。悲しいねえ」

 ドレイクはおどけたが、ヴォルフは真顔で断言した。

「おまえはアルスターのようにはならないだろ」
「そう言える根拠は何だい?」
「ないが、アルスターのようになるって言える根拠もないだろ」
「あんたにそんな屁理屈言われるとは思わなかった」
「おまえを見習ったんだ。……しかし、このカードを持って帰ったら、今度はアーウィンが何を渡そうと考えるか……」

 憂鬱そうにヴォルフがクレジットカードを見やった、まさにそのときだった。
 ヴォルフの軍服の胸ポケットから、「帝国」国歌のメロディが流れ出した。
 めちゃくちゃ既視感がある。ヴォルフは自分の額を大きな手で覆い、ドレイクは白々しくにこにこ笑った。

「ヴォルくん。その携帯にかけてきてるのは、もしかしてその人かな?」
「油断した……長居はできないってわかってたのに……」

 その間にも電話は鳴りつづけている。何というか、出るまで絶対切らないという執念を感じる。ドレイクも見かねてヴォルフに声をかけた。

「とにかく出たら? 途中で代わるよ」
「代わる?」
「とにかく早く。待たせられるの、あの人、大嫌いだろ?」
「あ、ああ……」

 それでも、よほど出たくないのか、ヴォルフは胸ポケットからのろのろと携帯電話を取り出した。

「うわあ……ヴォルくんが携帯持ってると、まるでおもちゃみたいに見えるね」
「余計なお世話だ。……ああ、待たせたな。……え、あ、ああ、まだドレイクの執務室にいるが……」

 眉間に深い皺を寄せ、一般的には大型の携帯電話で話しはじめたヴォルフに、ドレイクは向かいから右手を差し出した。

「ヴォルくん、チェンジ」
「チェンジ? ……あ、いや、今ドレイクに代わる」

 これ幸いとばかりに、ヴォルフはドレイクに携帯電話を手渡す。
 しかし、ドレイクは携帯電話を保留にしてから、ヴォルフにこう訊ねた。

「殿下、怒ってる?」
「ああ。……かなり」
「かなりか。ごまかせるかな」

 独りごちたドレイクは、保留を解除すると、耳には当てずに話し出した。

「あ、お電話代わりました、ドレイクですぅ」

 どうやら、スピーカーに切り替えたようだ。他人の携帯電話に耳や口を近づけたくなかったのだろう。だが、ドレイクの場合は、自分が他人のものを汚したくないからのような気がする。

「殿下ー、あのカードは困りますよー。こんな法外なものもらえないって言ってるのに、ヴォルくんが受け取ってもらえないと帰れないって粘るから、押し問答になっちゃってー。殿下の口からヴォルくんに言ってもらえます? もう諦めて帰ってこいって」

 電話の相手――司令官に話す隙を与えず、一気にまくしたてる。
 その勢いに押されたのか、司令官は平常とは違う返事をした。

『え……あ、うん……』
「そうですか。じゃ、お願いしますね。今、ヴォルくんに代わります」
『え、あ、ちょっと待て……』

 司令官があわてて止めようとしたが、ドレイクはかまわずスピーカーをオフにして、携帯電話をヴォルフに突き出した。

「ヴォルくん、パス」
「いいのか? アーウィン、何か話しかけてなかったか?」
「いいから、パス」

 納得がいっていないようだったが、そもそも自分にかかってきた電話だ。ヴォルフは携帯電話を受け取ると、自分の耳に当てた。

「いま代わった。……ああ、わかった。今すぐ帰る」

 ヴォルフは拍子抜けしたような顔をして携帯電話を切った。
 それを見て、ドレイクが驚きの声を上げる。

「え、もう話終わったの?」
「ああ。『カードを持って帰ってこい』って言われただけだ。……おまえ、すごいな」

 冗談ではなく、本気で感心しているようだ。
 だが、側近に感心されてしまうほどすごいことをした自覚は、ドレイクにはまったくない。

「いや、俺の姑息な小芝居に、殿下が本当に騙されてくれたかどうかはわからないぞ? まあ、それはともかく、俺はあんたとおしゃべりできて楽しかったよ。またここに来ることがあったら、今度はビールジョッキ用意しとくね」
「だから、ビールジョッキでコーヒーは飲んでないって言ってるだろうが。……帰る前に、おまえのその〝うっすいコーヒー〟を試飲させてもらおうと思ってたんだがな。もうそんな時間はないな」
「何? コールタン大佐に対抗意識燃やしてるの?」
「そういうわけじゃないが、本当にそれほどまずいのかと」
「んー……じゃあ、飲みかけで冷めきっててもいいなら、俺のこれ、飲んでみなよ。こっち側、口つけてないから」

 今度はドレイクが自分のコーヒーをヴォルフに差し出す。
 ヴォルフも驚いていたが、イルホンも驚いていた。自分の飲みかけを飲ませてもいいと思えるくらい、ドレイクはヴォルフに気を許しているようだ。

「いいのか?」
「あんたがよければ。でも、一口だけにしたほうがいいよ。素人にはきついよ」
「おまえは何の玄人だ」

 そう突っこみつつも忠告どおり一口だけ飲んだヴォルフは、コーヒーを持ったまま、しばらく考えこんだ。

「……ああ、本当に薄いな。何というか……茶?」
「そう。俺はそのつもりで飲んでる」
「コーヒーだと思わなければ、これはこれで飲めるんじゃないか?」

 ヴォルフからコーヒーを返されたドレイクは、我が意を得たりとばかりにニッと笑った。

「さすがヴォルくん。話もわかるが味もわかるね」
「だが、好んで飲もうとまでは思わないな」
「俺も無理には勧めないよ。普通の飲める人はそれ飲んでなさいよ」

 実はイルホンも何度か挑戦したことがあるのだが、コーヒー風味のお湯もしくは水としか思えなかった。だが、アルスターの執務室で出されたあのコーヒーよりは、たぶん素人には飲みやすいだろう。

「じゃあ、俺はこれで失礼する。コーヒーの礼は言うが、俺がここでコーヒー飲んでたことは、アーウィンには絶対言わないでくれ」
「わかった。俺は今までずっとあんたとカードの話をしてた。それ以外のことは何もしていない」

 真面目な顔でドレイクはうなずいたが、クレジットカードを回収してから腰を上げたヴォルフは、薄く笑ってそんなドレイクを見下ろした。

「アーウィンはきっと、今みたいにおまえと長話したいんだよ」
「え? 何で?」

 ドレイクはきょとんとしている。
 イルホンには既知の反応だが、ヴォルフには予想外だったようだ。

「何でって……」
「俺は殿下と話すの、苦手なんだよなあ……」

 ドレイクが顔をしかめて、自分の頭をばりばりと引っ掻く。
 ヴォルフはかつてのイルホンと同じ反応をした。

「嘘だろ!」
「いや、苦手だよ。目的のない会話は苦手。何かお題がないと」
「芸人か!」
「とりあえず、お礼はいらないって殿下によーく言っといて。……まったく、うかつに本音も言えやしねえ」
「やっぱり欲しいんだろ、金」

 * * *

「大佐は、ヴォルフ様には本音ぶっちゃけますね」

 ヴォルフが退室した後、ローテーブルの上を片づけながらそう話しかけると、まだソファに居残っていたドレイクは複雑な笑みを浮かべた。

「イルホンくんにはそう聞こえた?」
「聞こえましたが……違うんですか?」
「どうだろうなあ。時々、どれが自分の本音なのかわからなくなる」

 ドレイクはソファの背もたれに両腕を乗せ、疲れたように目を閉じた。

「イルホンくん。君は俺の本音がどれかより、俺が誰に何を話して何を話さなかったかに着目したほうがいいよ。そういう比較ができるのは、この艦隊で君だけだ」

 おそらく、ドレイク自身がイルホンにそういう役割を望んでいるのだろう。
 イルホンの知るかぎり、どれが自分の本音かわからないという話は、イルホンにしかしていない。

「……はい。了解しました」

 イルホンは神妙に応答すると、給湯室に行き、自腹でこっそり買った高級チョコレート詰め合わせを持ち出して、ドレイクの前にそっと置いた。上官への贈答ではなく、慰労のために。

 * * *

「キャル! 変態が出たところからこのメモリカードに落としてくれ! ヴォルフが戻ってくる前に! 早く!」
「承知しました」
「……声だけというのもいいな……電話のよさが初めてわかった……」
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