無冠の皇帝

有喜多亜里

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【04】始まりの終わり(上)

03 通常運転していました(前)

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 パラディンの執務室に入室してきたエリゴールは、いつものようにあからさまに不機嫌そうな顔をしていた。
 その気持ちはモルトヴァンにも理解できたが、モルトヴァンはパラディンの副官である。パラディンにエリゴールを呼び出せと命じられれば、従わざるを得なかった。
 だが、二人のやりとりにはいっさい関わらない。自分の執務机で黙々と事務仕事をしているふりをする。

「おはよう、エリゴール中佐。昨日も予想どおりの展開だったね」

 一方、パラディンは執務机の上で両手を組み、全開の笑顔でエリゴールを出迎えた。こちらもいつもどおりである。
 そんな上官にエリゴールは呆れたような眼差しを向けたが、その口から出たのは「そうでしたね」という、そっけなさすぎるほどそっけない一言だけだった。
 マクスウェル大佐隊では第四班班長という肩書を持っていたエリゴールも、ダーナ大佐隊を経由してパラディン大佐隊に転属された今ではいわゆる平隊員である。自分の元同僚であり現在は第十一班班長であるロノウェが直属の上官ということになるが、隊内でそう認識している者はおそらく一人もいないだろう。ロノウェはもちろんのこと、元マクスウェル大佐隊員たちを取りまとめているのは間違いなくエリゴールだ。だが、パラディンが彼を露骨に贔屓ひいきしているのは、それだけが理由ではない。
 金髪緑眼。長身痩躯。背筋をまっすぐに伸ばし、冷ややかにパラディンを見下ろしているその姿は、軍人というより軍人役を演じている俳優のようだ。黒髪金眼のパラディンも俳優のようだと言われることがよくあるが、それは軍人らしくない優男という意味で、である。エリゴールが転属されてきて以降、〝イケメン正義〟という戯言が戯言ではなかったことを、モルトヴァンは痛いほど思い知らされていた。

「そろそろ殿下も切れて、配置換えでもされるんじゃないかと思っていたが……この時間になっても何の通達もないということは、次回の出撃でも変更なしということだと思うよ」

 案の定、パラディンは部下にそんな目を向けられてもまったく意にも介さなかった。むしろ、嬉しそうですらある。好きの反対は嫌いではなく無関心。そんな言葉がモルトヴァンの脳裏をかすめる。

「殿下も問題ないと思われている、とは思われないのですか?」

 パラディンの『おはよう』は無視したエリゴールだが、そこは気になったらしく、眉間に皺を寄せたまま問いただした。
 パラディンを疎ましく思っていても、その発言を一から十まで聞き流しているわけではない。というより、聞き流せない発言をするから、エリゴールはまだかろうじて部下としてここにいるのだろう。相変わらず、隙あらばパラディンに退役願を提出し、ことごとく受理自体を拒否されているが。

「まったく思わないね。根拠もまったくないが、しいて言うなら、私が問題だと思っていることを、あの方たちが問題だと思っていないはずがない」

 本当に根拠がまったくない。モルトヴァンは思わずそう突っこみそうになったが、その前にエリゴールが怪訝そうに「あの方たち?」と訊き返した。

「まあ、狭義では、殿下とドレイク大佐だね」

 引っかかってもらいたかったところに引っかかってもらえたのか、パラディンは満足げにまなじりを下げた。

「特にドレイク大佐は殿下以上に怒っていらっしゃるのではないかな。殿下の前では、決してそんな素振りは見せていないだろうけれども」
「ドレイク大佐がお怒りなのは自分でも想像がつきますが、なぜ素振りは見せていないと?」
「これもまた根拠はないが、ドレイク大佐が少しでもそんな感情を見せたら、殿下は何の躊躇もなく〝栄転〟を選択されるだろう。ドレイク大佐的には、それはまだ早いとお考えなのではないかな」
「早いどころか、遅すぎるのではないかと自分は思いますが」

 口調こそ淡々としていたが、その眉は盛大にひそめられていた。こんな表情をされたら、自分にまったく非がなくても、申し訳ないことでございますと平謝りしてしまいそうだ。イケメン絶対正義。

「私も同意見だが、今のところ、ドレイク大佐の邪魔は直接的にはしていないからね。間接的にはたっぷりしているが」

 しかし、パラディンはいささかも動じず、にこやかに笑って毒を吐く。ある意味、エリゴールよりも恐ろしい。近親者による〝見かけによらずいい性格〟という評価は伊達ではない。
 故意なのか偶々たまたまなのか、パラディンもエリゴールも、問題の人物――アルスター大佐の名前をまだ一度も口にしていない。
 盗聴を警戒しているわけではないと思うが――モルトヴァンの口から外部に漏れることを警戒されているとは思いたくない――ここまで名前を出されないと、双方ともに何らかの意図があるのではないかと勘繰りたくなってくる。もっとも、モルトヴァンが勘繰ったところで、人には言えないようなくだらないことしか思い浮かばないのだが。たとえば、名前を出したら負けなゲームでもしているのか、とか。

「さすが、〝栄転〟になったお二方と同じことはされませんね」

 口元を歪めてエリゴールは皮肉った。ウェーバー大佐とマクスウェル大佐の名前も出したら負けになるのだろうか。

「ところで、先ほど狭義では殿下とドレイク大佐殿とおっしゃいましたが、広義では?」

 パラディンは意表を突かれたように目を見張った。が、すぐに嬉しそうににやにやしだした。

(こんなふうに大佐のツボを突く質問するから、退役願を受理してもらえないんだよな)

 幾度となく思ったことをまたモルトヴァンは思ったが、もちろんこれまでどおり口には出さなかった。――巻きこまれたくない。

「まあ、大雑把に言ってしまうと、ご当人以外かな」

 それは本当に大雑把すぎる。そして、アルスターの名前を出す気はやはりないらしい。

「もしかしたら、彼の直属の部下たちでさえ、私たちと同じことを思っているかもしれない。決して口にはできないだけで」
「……なるほど。〝栄転〟狙いですか」

 一瞬の沈黙の後、エリゴールは自嘲めいた笑みを浮かべた。モルトヴァンは首をひねったが、アルスターの部下たちがアルスターの〝栄転〟を狙っている――そのために、あえてアルスターの命令に従いつづけていると言いたいのだとわかった瞬間、あっと声を出しそうになった。
 自嘲めいているのも、かつてエリゴールたちも彼らと同じことをしていたからだろう。むしろ、だからすぐに察しがついたのかもしれない。彼らのことを持ち出したパラディンにそのつもりがあったかどうかは別として。

「と、私は思いたいがね。いずれにしろ、危険な綱渡りをしていることには変わりない。彼らも、彼らの上官も」

 本心はわからないが、パラディンは困ったような苦笑を返した。アルスターの名前を出さない勝負は継続中のようだ。

「そのことをわかっていないのも、ご当人だけでしょう」

 冷然とエリゴールは言い放つと、腰の後ろで組んでいた両手を解き、左手首の腕時計に目をやった。

「で? 自分は結局、何のために呼び出されたのでしょうか?」

 モルトヴァンはおくびにも出さず、心の中で絶叫した。

(キタ――――ッ!)

 エリゴールに電話したときにも何の用件でかと問われていたが、面倒なので『とにかく呼び出せとしか言われていません』で押し通していた。あそこで『別に何の用事もありません。ただ単に大佐があなたの顔を見て会話したがっているだけです』と正直に答えていたら、エリゴールは堂々と『自分は会話したくありません』と断っていただろう。そもそも除隊上等の男だ、きれいに辞めることにこだわっていなければ、とっくの昔にこの艦隊を去っていた。

(本当に呼び出す理由があったのは、アンドラス中佐が〝自主退職〟したときくらいだよな)

 そして、エリゴールが何の用事かと(十一班員を介して)訊かなかったのもそのときくらいだ。

(大佐もそれらしい用事をひねり出してから呼べばいいのに)

 そう思いはするが、この二人の〝攻防〟には極力関わりたくない。エリゴールを呼び出すのも自分でやってくれと言いたいくらいだ。副官だから言わないけれども。

「用件か。そうだな。認識の再確認および共有……といったところかな?」

 決して馬鹿ではないのだが、エリゴール相手だとそうではなくなるパラディンは、あっけらかんと笑って答えた。
 エリゴールは腕時計から目を離すと、苦々しそうにパラディンを睨みつけた。

「共有してどうします? 一介のヒラでしかない自分と?」
「そう思っているのは、この隊ではもう君だけだ」

 他の隊には平隊員だと思われていてもかまわない。優雅に微笑みながら、パラディンは暗にそう言い放った。

「どう思われようとも、自分が平であることは事実ですから」

 エリゴールは別人のようににこりと笑うと、自らパラディンの執務机に歩み寄り、その机上に何かを置いて、すぐさま退いた。
 滅多に見られない普通の笑顔に不意打ちされたパラディンは、エリゴールが元の立ち位置に戻ったとき、ようやく我に返って声を上げた。

「どこから!」
「ここから」

 真面目くさった顔で、エリゴールは自分の左の袖口の中を指さした。

「内ポケットからだと、取り出す前に大佐殿に止められるので」
「くっ! 腕時計を見たのはフェイントか!」
「ちょっと何を言っているのかわかりませんが、時間が気になったのは本当です。この実のない話はいったいいつまで続くのだろうと」
「実がないって! 君だって乗ってくれたじゃないか!」
「自分はまだ大佐殿の部下ですので、話を振られれば答えざるを得ません。ですから、大佐殿。退役願、今度こそ受理してください」
「笑顔に見とれている隙に机に置いていくなんて! そんな卑怯な手を使って提出された退役願など、私は絶対に受理しない!」
「正面から手渡ししようとしても受理してくれなかったじゃないですか」
「当然だろう! 私は受理したくないんだ!」
「自分は受理していただきたいんです。ではこれで」
「待って! 今ここから退室したら、この退役願は提出されなかったことにするよ!」
「結構です。退室してもしなくても提出しなかったことにされるんなら、今ここでただちに退室いたします」
「そんな……そこまでわかっていて提出するなんて、あまりにも虚しすぎるだろう!」
「なら、もう虚しくならないように受理していただけませんか。いいかげん、大佐殿も飽きたでしょう」
「いや、飽きない! 飽きたら負けだ! と言うか、君こそ諦めろ! 退役願はもう書き飽きただろう!」
「別に。日付とサインだけ手書きすればいいようにしていますから。では、失礼いたします」
「ああ、待って! せめてコーヒーを飲んでいって!」

 この茶番劇はいったいいつまで繰り返されるのだろう。
 それまで何とか仕事をしているふりを続けてきたモルトヴァンも、さすがに手を止めて、生ぬるい視線を注がずにはいられなかった。
 モルトヴァンの席からはよく見えないが、エリゴールがパラディンの執務机の上に置いていったのはいつもの退役願だったのだろう。あまりに受け取ってもらえないので、今回は非常手段を使ったようだ。
 エリゴールがいつどうやって軍服の袖口から退役願を取り出したのか、モルトヴァンにもわからなかった。腕にバンドでもつけていて、そこに退役願を挟みこんでいたのだろうか。あんな男前がそんな真似をしたのかと想像すると笑えてしまうが、そんな男に脅しになっていない脅しをかけている直属の上官を見ていると、自然と半眼になってしまう。
 パラディンは今、椅子から立ち上がり、必死でエリゴールを引き止めようとしている。コーヒーごときで引き止められるわけがないだろうとモルトヴァンは思うが、ではどうすればと問われたら何も答えられない。今のエリゴールに心残りのようなものはもうないはずだからだ。

(でも、本当に辞めたかったら、こんな茶番なんかしてないで、もっと別の、きれいに辞められる方法をさっさと実行してそうなもんだよな。……俺には思いつけないけど)

 きっとエリゴールは否定するだろうが、やはり自分の同僚たち――元マクスウェル大佐隊員たちの行く末が心配だから、今ではもう完全に受理されないとわかっている退役願をポーズとして提出しつづけているだけなのではないだろうか。
 パラディンが退役願を受理しない理由も、自分がいたほうが元マクスウェル大佐隊員たちを扱いやすいからと本気でエリゴールは考えていそうな気がする。パラディンに対する態度が悪化の一途をたどっているのは、それならそうとはっきり言ってくれればいいのに、出撃のときには十一班の軍艦ではなくパラディンの乗艦〈オートクレール〉に乗せられ、事あるごとに食事に誘われ(しかし、食事はパワハラだと言って断りつづけている)、モルトヴァンでもセクハラ判定したくなるような言動をしばしばされるからなのだろう。
 だが、エリゴールにとっては残念なことに、どんなにつれない対応をされても、パラディンがめげることはない。
 パラディンの引き止めになっていない引き止めを無視してエリゴールが執務室を出ていったとき、パラディンは右手を前方に伸ばして「ああっ!」と悲鳴を上げていたが、自動ドアが完全に閉まってしまうと、その右手でガッツポーズをした。

「よし! 今回も却下できた!」
「いや、できていないでしょ!」

 エリゴールが退室したので、モルトヴァンは遠慮なく心の声を口にした。

「今まで全部突き返していたのに、今回はとうとう受け取ってしまったじゃないですか!」
「いや、受け取ってはいない」

 パラディンはモルトヴァンを振り返ると、真顔で言い切った。

「私はこの退役願には指一本触れていないからな」
「そんな屁理屈、エリゴール中佐でなくても通用しませんよ」
「確かに、エリゴール中佐に密着していた退役願、触れも嗅ぎもしないで破棄するなんて、もったいなさすぎてできないな」
「そういう意味ではなく……ああ、さらに悪化した!」
「では、もったいないが、この退役願はエリゴール中佐に郵送で返却するか」

 退役願が置かれている机上の一角を見つめながら、パラディンは椅子に腰を下ろした。その表情は戦闘中より真剣だ。このことを司令官に知られたら、アルスターより先に〝栄転〟になるかもしれない。否。なる。絶対なる。

「また呼び出して持ち帰らせないんですか?」
「エリゴール中佐が素直に持ち帰ると思うか? それどころか、また新しい退役願を持参してくるぞ」
「ああ……いつでも印刷できるように、データごと持ち歩いていそうですね……エリゴール中佐……」
「ただ、次はどうやって渡すつもりなのか、とても興味はあるが」

 意地悪くパラディンは笑ったが、そのときふとモルトヴァンは思った。

「大佐。もしエリゴール中佐に、退役願を受理してくれたら食事に付き合うと言われたらどうしますか?」

 そう言い終えたときには、パラディンの顔から笑みは完全に消失していた。

「それは……食事以外に何かオプションがないと……」
「え、オプションがあったら受理してしまうんですか?」
「しかし、マクスウェル大佐のような真似は……」
「どんなオプションだよ!」

 副官という立場を忘れ、思わずタメ口で突っこんでしまって蒼白になったモルトヴァンだったが、両腕を組んで苦悩していたパラディンはモルトヴァンを咎めるどころか一瞥すらしなかった。
 モルトヴァンはほっとして胸を押さえたが、パラディンの表情は元マクスウェル大佐隊員を押しつけられたとき以上に深刻だ。呆れて再び溜め息を吐き出す。
 言い出したのは自分だが、いったい何をそれほど悩む必要があるのか。食事で退役願を受理してもらえるなら、エリゴールはとっくの昔にそうしていただろう。いまだにそうせず、郵送もせず、しつこく手渡ししつづけているのは、それくらいパラディンと食事はしたくないということだ。それに。

(オプションつきで食事したところで、大佐がエリゴール中佐の退役を許すとは思えないし)

 しかし、パラディンはそう思っていなかったようだ。その後も業務そっちのけで悩みつづけていた。
 これ以上自分の仕事を滞らせたくなかったモルトヴァンは、とりあえずその退役願を郵送しましょうと声をかけた。そして、パラディンがここぞとばかりに退役願を撫で回していても、見て見ぬふりをしたのだった。
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