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【01】連合から来た男
番外編 〝バーリー〟
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入室の許可を得て、懐古趣味な木製の手動ドアを開けると、やはり懐古趣味な木製の執務机で、あの男が最新型の端末に目を落としていた。
入れと言ったのはこの男なのに、完全に彼を無視している。これもこの男の〝演出〟の一つなのだろうが、彼は恐れも憤りも感じなかった。ただ、これまで以上に馬鹿な男だと嘲笑いたくなっただけだ。無論、彼がその感情を表に出すことはなく、これまでどおり無表情を保っていたが。
彼にはこのまま何時間でも黙っていられる自信があった。が、自分の期待どおりに〝何のご用件でしょうか?〟と訊ねてこない彼に、案の定、男のほうが先に焦れた。
「なぜここに呼ばれたかわかっているな?」
それでも、端末からは目を離さない。しかし、そのディスプレイに重要事項は何も映し出されてはいないだろう。
この男のこういうところが特に嫌いだ。男が自分を見ていないことをいいことに彼は端整な顔を歪ませる。一月ほど前まで書類上は上官だった男なら、彼を呼び出すときに用件も告げている。いや、電話で済ませられることなら、わざわざ自分の執務室に呼びつけたりはしないだろう。そういう無駄はとことん嫌う男だった。
「いえ。まったく」
不安げなふりをするのも面倒になってすげなく答えると、ようやく男は顔を上げ、露骨に不愉快そうに彼を睨んだ。髪はあの男と同じ黒だが、瞳は黒ではなく硝子玉のような青である。何度見ても気持ちが悪い。顔立ちはそこそこ整っているのと相まって、まるで旧式の人形のように思える。
「とぼけるな。たった今、〝死刑場〟の隣の第二基地から連絡が入った。……あの男が『帝国』の軍艦に乗って、ランプトン隊の前に現れたそうだ」
もちろん、すでに知っていた。おそらく、この男よりもはるか以前に。
だが、彼は動揺した演技をするかわりに「失礼ですが、〝あの男〟とはどなたのことでしょうか?」とことさら真面目くさった顔と声とで問い返した。
彼のこの反応も男には予想外だったようだ。一瞬あっけにとられたような表情をしたが、すぐに生白い肌を紅潮させて怒鳴りつけてきた。
「まだとぼける気か! おまえは……いや、おまえたちは、我々に虚偽の報告をした! あの男は名誉の戦死などしてはいなかった! おまえたちと同様、〈ワイバーン〉から脱出し、よりにもよって『帝国』に逃げこんでいた! 我々が最も恐れていたとおりに!」
――この期に及んで、まだそんな回りくどい言い方をするのか。
いいかげん、彼もうんざりしていたが、ここでボロを出すわけにはいかなかった。あの〝死刑場〟――「帝国」第一宙域および第一基地から何とか遠ざけることができた〝あの男〟の部下たちを、また逆戻りさせてしまうことにもなりかねない。否。この男なら間違いなくそうするだろう。
「ということは、〝あの男〟というのは、エドガー・ドレイク大佐のことでしょうか?」
あくまで自分たちが報告した〝名誉の戦死〟から推定したふうを装い、淡々と確認する。それがまた男の怒りに油を注いだようだが、これ以上無駄話をさせたくなかった彼は、男が口を開く前に自分の口を動かした。
「お言葉を返すようですが、我々は『帝国』が粒子砲を使用する前に、ドレイク大佐の命令で〈ワイバーン〉から緊急脱出いたしました。もしかしたら、大佐も〈ワイバーン〉が爆発する前にシャトルで脱出されていたかもしれませんが、たとえ脱出できていたとしても、あの粒子砲からは逃れられなかったはずです」
反論する隙を見つけられず、忌々しげに男が顔をしかめる。彼らが分乗していた二隻の脱出艇は〝死刑執行〟の光景も克明に記録していた。〝あの男〟――ドレイクが〝貴婦人の抱擁〟と呼んでいた「帝国」の護衛艦隊旗艦の粒子砲は、生き残っていた艦艇を片っ端から刺し貫いていた。
彼らだけがそれから免れられたのは、脱出した時間が早かったからだ――ということになっている。通常であれば、彼らの脱出艇も〝抱擁〟されていただろう。あの若く美しい〝死の艦隊〟の司令官は、彼にはわからない理由で、〈ワイバーン〉の脱出艇二隻だけは見逃してくれたのだ。
しかし、彼はそのことを誰にも告げたりはしなかった。そのかわり、ドレイクが命を賭して助けようとした部下たちを、「帝国」方面から元の「連邦」方面に異動させるよう、さながら舞台俳優のように各所で訴えつづけた。そのかいあって、ランプトンのあの浅はかな企てが明らかになったときには、全員異動させることができた。軍人としての彼が初めてやりとげた、最高の仕事だった。
だが、いつまでも騙しとおすことはできないと覚悟もしていた。だからこそ、あれほど異動を急がせた。ドレイクが「帝国」に〝回収〟されたなら、必ずまたあの〝死刑場〟に戻ってくる。そして、彼の予想は的中した。――ドレイクはランプトン一人だけを殺し、他の乗組員たちは全員第二基地へと引き返させた。
「確かに、私は最悪ドレイク大佐を殺してでも『帝国』に亡命させるなと命じられておりました。しかし、部下が脱出する時間を稼ぐために、ただ一人軍艦に残ると言った上官を殺すことなどできません」
我知らず、笑みが浮かぶ。そう。変態でまともなあの男こそ自分の真の上官だった。あの貴婦人の手が及ばないこの場所で今もくだらぬ勢力争いをしているこの男ではない。
「改めて申し上げます。エドガー・ドレイク大佐は戦死しました。直接の原因は、戦闘中に〈ワイバーン〉を攻撃させた、あの愚かな指揮官とその部下ですが、そのような愚か者どもをあの地位につけた、『連合』こそが彼を殺したのです。……死んだ彼の魂が『帝国』に渡ったとしても、無理からぬことだと思いますが」
「貴様……!」
とうとう男は激昂し、見るからに座り心地のよさそうな執務椅子から立ち上がった。ドレイクは一度も座ったことがないだろう。今は向こうであのような椅子に座らせてもらえているだろうか。
「自惚れるな。貴様の代わりなどいくらでもいる」
おそらく、それがこの男にとって最強の脅し文句だったに違いない。青すぎる目に狂暴な光をみなぎらせ、薄い唇の両端を吊り上げる。
「そうでしょうね」
しかし、彼があっさり認めると、男は拍子抜けしたような顔をした。
「一介の士官の代わりなど、『帝国』の無人艦以上にいる。……実は閣下。私はある人と賭けをしておりました。〝アーネスト・バーリー〟として士官学校に入り、卒業後六年間、そのまま〝バーリー〟として生きることができたら、私の〝自由〟を認めてやると。あと少しで達成できたのですが……実に残念です」
「何を……?」
突然、何の脈絡もないことを話し出した彼に、男は戸惑いの表情を隠せずにいる。つくづく小物だ。自分もまた誰かの捨て駒の一つにすぎないと考えたことすらない。
「今この瞬間から、私は〝バーリー〟をやめます。閣下のような無駄金遣いを『連合』から排除するために」
「な……」
男が何事か言いかけた、同時に彼は左手の中に隠し持っていた小型端末のスイッチを押した。一瞬の間をおいて、男の許可がなければ開かないはずのドアが開く。そこから室内へとなだれこんできた濃緑色の制服を着た男たちは、一言も発することなく彼の横をすり抜け、呆然としている男の両腕をたやすく拘束した。
「……騎士団……なぜ……」
驚きのあまり、男は抵抗することも忘れてしまったようだ。それとも、〝理事〟の親衛隊にも等しい彼らに逆らえばどうなるかわかっているのか。明文化こそされていないが、彼らは男が属する宇宙軍より格上の存在である。
「私が呼びました。ご連絡が後になりましたが、あなたはもう〝閣下〟ではありません。でも、ご安心ください。あなたの代わりはいくらでもおりますから」
男は無言で彼を凝視した。そんな男に彼は初めて本物の笑顔を向ける。もうこの男の命令には何一つ従わなくていい。それだけはとても嬉しかった。
「元閣下。あなたにはいろいろ思うところもありますが、ドレイク大佐の副官にしてくださったことだけには、深く深く感謝いたしております。本当に、いい思い出になりました。もう〝バーリー〟をやめてもいいと思えるくらい」
「馬鹿な……そんな馬鹿なことが……」
うわごとのように男が呟く。ようやく頭が回転しはじめたようだ。だが、もう言葉も視線も交わしたくなかった彼は、黙って部屋の隅に退き、団員たちが男を外に連れ出すまでずっと水色の目を閉じていた。
「……殴り殺してやろうかと思いました」
耳許でそんな物騒なセリフを囁かれたとき、彼は目を開けるより先に噴き出した。
「よく思いとどまったな」
「せっかくの晴れの日を、あんな男の血で汚したくはなかったので」
瞼を上げて左を見ると、やはり団員服姿のあの男が笑いながら彼を覗きこんでいた。濃褐色の髪と同系色の瞳。最後に会ったのはいつだったか、すぐには思い出せないほど久方ぶりだが、見違えるほど変わってはいない。先ほどこの部屋に侵入してきた団員たちの中にこの男はいなかったから、たぶん殴り殺さないために今まで室外で待機していたのだろう。部屋の中にはもうこの男と彼しかいなかった。
「やっとお戻りになるのですね」
喜びを抑えきれない様子で男が言う。こんな男を見るたび彼は落ち着きのない大型犬を連想する。
「戻る……か」
思わず苦笑がこぼれる。つまるところ、そういうことになってしまうのだろう。この蜂蜜色の髪の色素も落とさないといけないかもしれない。自分では気に入っていたのだが。
「恥ずかしながら、一介の軍人ではどうにもならないことが多すぎる。今頃、父は高笑いをしているだろうな。あれほど偉そうに啖呵を切っておいて、結局、最後は実家を頼るのかと」
「……それほど、あの男を守りたかったのですか?」
若干、拗ねたような響きがあった。彼より年上のはずなのだが――正確な年齢は機密情報とやらで教えられていない――彼の前ではしばしば子供じみた言動をする。〝バーリー〟になると宣言したときにも、考え直してくださいと足にしがみつかれて泣かれた。正直言ってぞっとした。
「あの男が守りたかったものを守りたかっただけだ」
そう答えて、時代錯誤の執務机を振り返る。
あそこに座っていたのがドレイクだったら、彼は死ぬまで〝バーリー〟で居続けただろう。しかし、ドレイクなら今彼のそばにあるソファセットのほうを愛用していたかもしれない。あのみすぼらしい執務室にいるとき、ドレイクはもっぱらソファに座っていて、ひどいときには寝そべりながら端末をいじっていた。
「部下は必ず生きて帰す。――そう言った当人はもう帰ってはこないがな」
〝バーリー〟をやめた青年は苦く笑うと、おそらく自分の直属の部下になるだろう男と共に、すでに後任者が内定している執務室を後にした。
―了―
入れと言ったのはこの男なのに、完全に彼を無視している。これもこの男の〝演出〟の一つなのだろうが、彼は恐れも憤りも感じなかった。ただ、これまで以上に馬鹿な男だと嘲笑いたくなっただけだ。無論、彼がその感情を表に出すことはなく、これまでどおり無表情を保っていたが。
彼にはこのまま何時間でも黙っていられる自信があった。が、自分の期待どおりに〝何のご用件でしょうか?〟と訊ねてこない彼に、案の定、男のほうが先に焦れた。
「なぜここに呼ばれたかわかっているな?」
それでも、端末からは目を離さない。しかし、そのディスプレイに重要事項は何も映し出されてはいないだろう。
この男のこういうところが特に嫌いだ。男が自分を見ていないことをいいことに彼は端整な顔を歪ませる。一月ほど前まで書類上は上官だった男なら、彼を呼び出すときに用件も告げている。いや、電話で済ませられることなら、わざわざ自分の執務室に呼びつけたりはしないだろう。そういう無駄はとことん嫌う男だった。
「いえ。まったく」
不安げなふりをするのも面倒になってすげなく答えると、ようやく男は顔を上げ、露骨に不愉快そうに彼を睨んだ。髪はあの男と同じ黒だが、瞳は黒ではなく硝子玉のような青である。何度見ても気持ちが悪い。顔立ちはそこそこ整っているのと相まって、まるで旧式の人形のように思える。
「とぼけるな。たった今、〝死刑場〟の隣の第二基地から連絡が入った。……あの男が『帝国』の軍艦に乗って、ランプトン隊の前に現れたそうだ」
もちろん、すでに知っていた。おそらく、この男よりもはるか以前に。
だが、彼は動揺した演技をするかわりに「失礼ですが、〝あの男〟とはどなたのことでしょうか?」とことさら真面目くさった顔と声とで問い返した。
彼のこの反応も男には予想外だったようだ。一瞬あっけにとられたような表情をしたが、すぐに生白い肌を紅潮させて怒鳴りつけてきた。
「まだとぼける気か! おまえは……いや、おまえたちは、我々に虚偽の報告をした! あの男は名誉の戦死などしてはいなかった! おまえたちと同様、〈ワイバーン〉から脱出し、よりにもよって『帝国』に逃げこんでいた! 我々が最も恐れていたとおりに!」
――この期に及んで、まだそんな回りくどい言い方をするのか。
いいかげん、彼もうんざりしていたが、ここでボロを出すわけにはいかなかった。あの〝死刑場〟――「帝国」第一宙域および第一基地から何とか遠ざけることができた〝あの男〟の部下たちを、また逆戻りさせてしまうことにもなりかねない。否。この男なら間違いなくそうするだろう。
「ということは、〝あの男〟というのは、エドガー・ドレイク大佐のことでしょうか?」
あくまで自分たちが報告した〝名誉の戦死〟から推定したふうを装い、淡々と確認する。それがまた男の怒りに油を注いだようだが、これ以上無駄話をさせたくなかった彼は、男が口を開く前に自分の口を動かした。
「お言葉を返すようですが、我々は『帝国』が粒子砲を使用する前に、ドレイク大佐の命令で〈ワイバーン〉から緊急脱出いたしました。もしかしたら、大佐も〈ワイバーン〉が爆発する前にシャトルで脱出されていたかもしれませんが、たとえ脱出できていたとしても、あの粒子砲からは逃れられなかったはずです」
反論する隙を見つけられず、忌々しげに男が顔をしかめる。彼らが分乗していた二隻の脱出艇は〝死刑執行〟の光景も克明に記録していた。〝あの男〟――ドレイクが〝貴婦人の抱擁〟と呼んでいた「帝国」の護衛艦隊旗艦の粒子砲は、生き残っていた艦艇を片っ端から刺し貫いていた。
彼らだけがそれから免れられたのは、脱出した時間が早かったからだ――ということになっている。通常であれば、彼らの脱出艇も〝抱擁〟されていただろう。あの若く美しい〝死の艦隊〟の司令官は、彼にはわからない理由で、〈ワイバーン〉の脱出艇二隻だけは見逃してくれたのだ。
しかし、彼はそのことを誰にも告げたりはしなかった。そのかわり、ドレイクが命を賭して助けようとした部下たちを、「帝国」方面から元の「連邦」方面に異動させるよう、さながら舞台俳優のように各所で訴えつづけた。そのかいあって、ランプトンのあの浅はかな企てが明らかになったときには、全員異動させることができた。軍人としての彼が初めてやりとげた、最高の仕事だった。
だが、いつまでも騙しとおすことはできないと覚悟もしていた。だからこそ、あれほど異動を急がせた。ドレイクが「帝国」に〝回収〟されたなら、必ずまたあの〝死刑場〟に戻ってくる。そして、彼の予想は的中した。――ドレイクはランプトン一人だけを殺し、他の乗組員たちは全員第二基地へと引き返させた。
「確かに、私は最悪ドレイク大佐を殺してでも『帝国』に亡命させるなと命じられておりました。しかし、部下が脱出する時間を稼ぐために、ただ一人軍艦に残ると言った上官を殺すことなどできません」
我知らず、笑みが浮かぶ。そう。変態でまともなあの男こそ自分の真の上官だった。あの貴婦人の手が及ばないこの場所で今もくだらぬ勢力争いをしているこの男ではない。
「改めて申し上げます。エドガー・ドレイク大佐は戦死しました。直接の原因は、戦闘中に〈ワイバーン〉を攻撃させた、あの愚かな指揮官とその部下ですが、そのような愚か者どもをあの地位につけた、『連合』こそが彼を殺したのです。……死んだ彼の魂が『帝国』に渡ったとしても、無理からぬことだと思いますが」
「貴様……!」
とうとう男は激昂し、見るからに座り心地のよさそうな執務椅子から立ち上がった。ドレイクは一度も座ったことがないだろう。今は向こうであのような椅子に座らせてもらえているだろうか。
「自惚れるな。貴様の代わりなどいくらでもいる」
おそらく、それがこの男にとって最強の脅し文句だったに違いない。青すぎる目に狂暴な光をみなぎらせ、薄い唇の両端を吊り上げる。
「そうでしょうね」
しかし、彼があっさり認めると、男は拍子抜けしたような顔をした。
「一介の士官の代わりなど、『帝国』の無人艦以上にいる。……実は閣下。私はある人と賭けをしておりました。〝アーネスト・バーリー〟として士官学校に入り、卒業後六年間、そのまま〝バーリー〟として生きることができたら、私の〝自由〟を認めてやると。あと少しで達成できたのですが……実に残念です」
「何を……?」
突然、何の脈絡もないことを話し出した彼に、男は戸惑いの表情を隠せずにいる。つくづく小物だ。自分もまた誰かの捨て駒の一つにすぎないと考えたことすらない。
「今この瞬間から、私は〝バーリー〟をやめます。閣下のような無駄金遣いを『連合』から排除するために」
「な……」
男が何事か言いかけた、同時に彼は左手の中に隠し持っていた小型端末のスイッチを押した。一瞬の間をおいて、男の許可がなければ開かないはずのドアが開く。そこから室内へとなだれこんできた濃緑色の制服を着た男たちは、一言も発することなく彼の横をすり抜け、呆然としている男の両腕をたやすく拘束した。
「……騎士団……なぜ……」
驚きのあまり、男は抵抗することも忘れてしまったようだ。それとも、〝理事〟の親衛隊にも等しい彼らに逆らえばどうなるかわかっているのか。明文化こそされていないが、彼らは男が属する宇宙軍より格上の存在である。
「私が呼びました。ご連絡が後になりましたが、あなたはもう〝閣下〟ではありません。でも、ご安心ください。あなたの代わりはいくらでもおりますから」
男は無言で彼を凝視した。そんな男に彼は初めて本物の笑顔を向ける。もうこの男の命令には何一つ従わなくていい。それだけはとても嬉しかった。
「元閣下。あなたにはいろいろ思うところもありますが、ドレイク大佐の副官にしてくださったことだけには、深く深く感謝いたしております。本当に、いい思い出になりました。もう〝バーリー〟をやめてもいいと思えるくらい」
「馬鹿な……そんな馬鹿なことが……」
うわごとのように男が呟く。ようやく頭が回転しはじめたようだ。だが、もう言葉も視線も交わしたくなかった彼は、黙って部屋の隅に退き、団員たちが男を外に連れ出すまでずっと水色の目を閉じていた。
「……殴り殺してやろうかと思いました」
耳許でそんな物騒なセリフを囁かれたとき、彼は目を開けるより先に噴き出した。
「よく思いとどまったな」
「せっかくの晴れの日を、あんな男の血で汚したくはなかったので」
瞼を上げて左を見ると、やはり団員服姿のあの男が笑いながら彼を覗きこんでいた。濃褐色の髪と同系色の瞳。最後に会ったのはいつだったか、すぐには思い出せないほど久方ぶりだが、見違えるほど変わってはいない。先ほどこの部屋に侵入してきた団員たちの中にこの男はいなかったから、たぶん殴り殺さないために今まで室外で待機していたのだろう。部屋の中にはもうこの男と彼しかいなかった。
「やっとお戻りになるのですね」
喜びを抑えきれない様子で男が言う。こんな男を見るたび彼は落ち着きのない大型犬を連想する。
「戻る……か」
思わず苦笑がこぼれる。つまるところ、そういうことになってしまうのだろう。この蜂蜜色の髪の色素も落とさないといけないかもしれない。自分では気に入っていたのだが。
「恥ずかしながら、一介の軍人ではどうにもならないことが多すぎる。今頃、父は高笑いをしているだろうな。あれほど偉そうに啖呵を切っておいて、結局、最後は実家を頼るのかと」
「……それほど、あの男を守りたかったのですか?」
若干、拗ねたような響きがあった。彼より年上のはずなのだが――正確な年齢は機密情報とやらで教えられていない――彼の前ではしばしば子供じみた言動をする。〝バーリー〟になると宣言したときにも、考え直してくださいと足にしがみつかれて泣かれた。正直言ってぞっとした。
「あの男が守りたかったものを守りたかっただけだ」
そう答えて、時代錯誤の執務机を振り返る。
あそこに座っていたのがドレイクだったら、彼は死ぬまで〝バーリー〟で居続けただろう。しかし、ドレイクなら今彼のそばにあるソファセットのほうを愛用していたかもしれない。あのみすぼらしい執務室にいるとき、ドレイクはもっぱらソファに座っていて、ひどいときには寝そべりながら端末をいじっていた。
「部下は必ず生きて帰す。――そう言った当人はもう帰ってはこないがな」
〝バーリー〟をやめた青年は苦く笑うと、おそらく自分の直属の部下になるだろう男と共に、すでに後任者が内定している執務室を後にした。
―了―
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