Devil of the sound

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第4章 ブルクミラン国

Devil of the sound

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古くからある城のダンジョンがそうであるように、ブルクミランの王城も、地下は迷路のように何世代にもわたって部屋が作られ、またつぎ足されていった。



 うっかり入り込んでしまえば、地上の城を凌ぐ(しのぐ)ような広く深い迷宮からは容易には抜け出せない。



 ダンジョンの設計図をすべて把握している者は、おそらくある一人を除いてはいないのではないだろうか。この国の王女トレイシアだ。



 深いダンジョンの一室からバイオリンの音色がする。非常に激しい不吉な旋律が、部屋いっぱいにこだまして、元の旋律と入り混り、奇妙な調和のとれた曲に聴こえる。

 天井の高い部屋の中央でバイオリンを奏でているのは、腰まである長く濃い栗色の髪を垂らし、美しい濃い緑のドレスを着た、背の高いトレイシア王女だ。



 彼女は一心不乱に楽器を奏でている。不思議な旋律がバイオリンの弦から波打っている。部屋の中には金属製の大きな音響装置と思われる器具があり、人の倍の高さはある、大きな銀の円盤が取り付けられていた。彼女の音はその装置の金属の円盤に反響している。



 彼女の立つ少し先にはテーブルが置かれている。その古いテーブルには二つのグラスが並べられて、床にはいくつかのグラスが割れて粉々に散らばっている。



 トレイシアの奏でるある旋律が聞こえた時、残りの一つのグラスにひびが入り、一瞬でパンッと音を立ててグラスが飛び散った。彼女はふいに楽器を弾くのをやめて、バイオリンを下ろした。そしてテーブルの方を振り向き、割れたグラスを見た。テーブルの横にある広い机に向かい、その上に広げられた一冊の大きめのノートにペンで何かを書き記した。どの音程で、どのくらいの長さで、どのような音の配列でグラスが割れたのかを記録しているのだ。



 音の高さや長さ、配列によって、音は目に見えない力を持ち、森羅万象に働きかける力を持っていることをトレイシアは知っていた。





 トレイシアが八歳のある日、妹のディアナベスと外で遊んでいた時の話だ。トレイシアは、午後のお茶会でバイオリンを弾くことになっていた。

 彼女はディアナベスに自分のバイオリンを聴かせていた。ディアナベスは、姉が、穏やかな美しい旋律を奏でるのをじっと見つめていたが、やがて、似たような旋律を歌い出した。ディアナベスが歌うのをやめないので、トレイシアはバイオリンから弓をおろした。

「ベス、私が弾いているのを聴いていてちょうだい。」

 幼いディアナベスは、それでも歌い続けた。

「ベス!」トレイシアは怒った声で言った。



 ふと彼女は、周りの草花が勝手に揺れ出しているのを目にした。彼女が驚いて見回すと、芝生の草も野花もピンと茎を伸ばし、空に向かって今にも飛び出してきそうになっていた。

 途端、二人のそばにある低木に咲いている色とりどりの花が一斉に散って、目の前が花びらで一杯になった。沢山の花びらが、空中に舞って地面に落ちてくる。トレイシアは息をのんでその光景を見つめた。いつの間にかディアナベスは歌うのをやめ、トレイシアと一緒に、落ちてくる花びらを見ていた。



トレイシアは目を大きく見開いたまま、ディアナベスの方を向いた。

「ベス、あなたがやったの? 」

ディアナベスは姉に目を向けた。そして、こくりとうなずいた。

「ねえ、どうやってこんなことができるの? 」

「……歌ったから。」

つたない言葉でディアナベスが言った。

「歌うだけで花は散らないわ。ねえ、ベス、あなたってすごいわ。私にも教えて。」

「わかんない。」

「今、歌っていた歌を教えて。ね、もう一度歌ってみて。」

「もう忘れちゃった。」

「だめよ。いい?私がもう一度弾くから、ベスも歌うのよ。」

ディアナベスはうん、と言ってうなずいた。



 トレイシアがバイオリンを奏でると、ディアナベスは途中から歌い出し、さっきと同じことをもう一度やってみせた。花が散り、再び、辺りは美しい色とりどりの花びらが舞う大気に包まれた。トレイシアは、ディアナベスの歌をバイオリンで何度も弾いた。ディアナベスはやがて歌うのに飽きてしまい、地面に落ちた花びらを手ですくって自分の頭にかけて遊びだした。トレイシアは幾度も幾度もディアナベスの歌を繰り返している。

 しばらくして、ディアナベスの歌の通りに、正確に、トレイシアの弾く旋律が鳴った時、地面に落ちた沢山の花びらが、ふわっと空中にまき上がった。

「わあ!」

トレイシアは嬉しさに声を上げた。ディアナベスも空中に舞い上がった花びらを見つめた。トレイシアはバイオリンを持ったまま、地面に落ちてくる花びらの中で笑いながらくるりと回った。



 城の庭に、数人の貴族の夫人たちと、ブルクミラン王妃が集った。庭の日陰にテーブルが置かれ、お茶やお菓子、それに春に咲く真っ白なサフランの花びらがテーブルの真ん中に山のように積まれ、籠の中に飾られていた。春の香りがテーブルの周りに漂っている。王妃と夫人たちの話が弾み、時間は和やかに過ぎていった。



 トレイシアがバイオリンの日頃の成果を披露する時間になった。トレイシアの音楽教師も同席していた。彼女は美しい音色を奏で始めた。音楽教師は満足そうな笑みを浮かべて穏やかな目でトレイシアを見守っている。



 そこに集った皆が、にこやかに、小さな王女の演奏に耳を傾けていた。弓を動かすトレイシアの目に、テーブルの上に山のように飾られたサフランが映った。この花が雪のように舞い上がったら皆どんなに驚くだろう。母上は花がお好きだからきっと喜ぶに違いない。



 トレイシアは曲の途中から、ある音の旋律を何度も何度も繰り返し始めた。穏やかに聞いていた音楽教師の目が怪訝な色を帯びた。



 その旋律は、さっきディアナベスが歌ったものだ。旋律が幾度も繰り返される。皆が不思議に思い始めた時、籠の中に入れられたサフランがわずかに揺れ始めた。

 トレイシアはそれを見て笑みを浮かべた。サフランは柔らかく小刻みに動きはじめ、花弁が生き生きと立ち上がった。夫人たちは異様な光景に、口元から笑みが消えていた。サフランはそれぞれの花弁がまるで意志を持った生き物のように起き上がった。皆が驚いた目で、籠の中のサフランを見つめている。



 王妃の表情が青白く変わった。

「やめなさい、トレイシア」

音楽教師はと王妃を困惑したように見比べた。次の瞬間、サフランが籠の中から一斉に空に舞い上がり、視界は一面に白くなった。

「やめて!」

 可憐な真白い花弁が空から雪のように一面に舞い降りてきた。王妃はトレイシアに駆け寄って肩をつかんだ。そして彼女の右ほほに平手打ちをした。

 トレイシアは初めて我に返った。何が起こったのだろう。右ほほが痛い。母の怒りに満ちた目がトレイシアの瞳を捉えている。夫人たちの肩にサフランの花びらが静かに舞い降りた。辺りは一瞬光景が止まったように静かになった。



 その夜、部屋から出る事を禁じられたトレイシアは泣き疲れて明け方近くに目を覚ました。窓から青白い靄が見える。侍女は椅子の上で眠り込んでいるようだ。



 なぜ母上はあんなに怒ったのだろう。なぜあんな目で私を見たのだろう。

 私は母上を喜ばせたかっただけなのに。トレイシアは乾いた涙の上から目をこすった。

 お母様に謝らなくては。どうして怒られたのかは分からないがお母様と話をしたい。

 トレイシアはそっとベッドから起き上がり、眠っている侍女の前を通り過ぎて音を立てずに部屋を出ていった。小さな王女の身体は、夜番の衛兵の目から、陰に隠れて両親の部屋に辿り着くのに好都合だった。

 彼女は王族だけが知っている、王妃の部屋に通じる秘密の扉の前で立ち止まった。お母様は眠っているだろうか。

 しかしそう思ったのは一瞬だった。王妃の部屋からはくぐもった声が聞こえてきた。何か言い争っているような声だ。



「……ディアナベスが呪いを受けたのは、私が母から受け継いだ血せいです」

(お母様の声だ。)

トレイシアは秘密の扉に耳をそばだてた。

「そしてトレイシアまでが〈魔の力〉を」

「落ち着きなさい。〈魔の力〉などではない」

 答えたのは父王の声だ。

「トレイシアの秀でた才能をみれば、あらゆる教養をつけさせる機会を与えるのは当然だ。〈魔の力〉と言うな。」

「公爵夫人にもその他の貴族の妻たちにも見られてしまった! みんな怯えきって! トレイシアの今日の振る舞いは〈魔の力〉として、皆に伝わったでしょう。ブルクミラン王家の古い伝説がよみがえったのだと噂されるに違いありませんわ。」

 王妃の声が涙でかすれた。

「トレイシアに音楽の教師をつけたのは私だ。そなたから〈魔の者〉が生まれるわけがないではないか。」

「……陛下はお優しすぎます……わたくしは陛下の隣にいる資格などございません。わたくしは陛下を陥れたも同然ですわ!」

 王妃がしゃくりあげるように泣く声が聞こえた。父王の衣擦れの音がした。彼は王妃に寄り添い、美しい金髪にキスをした。

「私は、そなたの母上の事は承知で、そなたと一緒になったのだ。私を陥れるなどと恐ろしいことを言わないでおくれ。そなたと共にこれからも歩んでいくのだから」

「もし王女たちの奇妙な噂が聞こえてきたら、わたくしとお別れして下さい。ブルクミランの名や、陛下の名に傷がつくのは嫌です。陛下……わたくしをお許しにならないで下さい……」

 

 トレイシアはゆっくりと扉から後ずさりした。身体が震えているのには気がつかなかった。目からはもう泣きつくして出ないだろうと思っていた涙がこぼれていた。



―――――魔の者



お母様は、私のことをはっきりと、そうおっしゃった。トレイシアは扉の前からばっと逃げ出した。自分の部屋に向かって走り続けた。



 途中、衛兵に呼び止められたが、それでも立ち止まらなかった。部屋に戻って扉をそっと開け、ベッドに飛び込んだ。ソファに座っていた侍女が慌てて目を覚まし、トレイシアを見た。

「トレイシア様? どうなさったのです?」

「……放っておいて……!」

 トレイシアは涙をこらえながら絞り出すような声で言った。

「まだ泣いていらっしゃったのですか? 王妃様のお怒りも、もう解けていらっしゃいますよ。」

(お母様は私とベスを〈魔の者〉だと思っている……!)



 侍女の声は聞こえなかった。今聞いた、母親の涙声が頭に響いた。母親が泣くことがあるのだと、彼女は初めて知った。しかもそれは自分のせいなのだ。トレイシアは、枕に顔をうずめて小さな身体を震わせた。



 (ベスは素晴らしい力を持っている。でもそれを、わかってくれない。誰も本当のことなんて知ろうとしないのだ。こんなすごいことがあるなんて、わかろうとしない。ベスは〈魔の者〉なんかじゃない。でも、世界は、それを〈魔の者〉と呼ぶ。知らないことを怖がる愚かなものと同じ。わたしは、ベスがすごい力を持っていることを隠しておかなくちゃ。私がベスを守ろう。ベスの秘密の力を)





 ブルクミラン国の朝は早い。農家は収穫物を市場に仕出しを始め、洗濯屋からは汚れた服の入った大きな籠を抱えた女たちが、水場に向かっている。肉屋も活気を帯び、パン屋からは思わず立ち止まらずにはいられない香ばしい焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。

 やがてすべての店が軒際に商品を並べ、生き生きとした市場の風景が見られるだろう。今日は第二月曜日だ、人々が国内外から集まってくる。月曜の市場は大規模で、国外からの珍しい物品も仕入れられる。国の正式な通行券を持っていない商人たちもこの日ばかりは入国を許され、市場はさらに活気を増す。

 

 その頃、シェーンベルガーの国王、ジークレッドと近衛の騎士、ダグラスが、旅の僧に扮してブルクミランの城壁の中に入った。頭から着古したフードを目深にかぶり、二人は影のように、足早に人の波を抜けていく。市場の始まる時間が近づき、往来は前に進むのも困難なほど、ごった返してきた。



 ジークレッドは左目に眼帯をつけていた。変装のためだ。二人はいくらか周囲の人々と様子が異なっていたが、賑やかな街の喧騒の中では、誰もそれに気を留める者はいなかった。

 ふとジークレッドは前方を見て、歩を緩めた。目を細めて視線の先をじっと観察した。彼は連れダグラスの方にわずかに顔を向けて言った。



「迎えが来たようだ」

 ダグラスの目に、ブルクミラン城の方から来た二人の騎士の姿が見えた。

「変装も簡単に見破られたようですね。正確に我らが来るのを知っていたとは。」

 ダグラスがジークレッドに言った。ジークレッドは口角を上げた。

「ダグラス、お前は城下で私を待て」

「王は? 」短く低い声でダグラスがたずねた。

「心配は無用だ。王女にはひとりで会いに行く。」



 ジークレッドはそう答えると、ダグラスを残して、颯爽さっそうと歩き出した。ダグラスが暗い眼でその後姿を見送った。

 前方から、ブルクミランの騎士が近づいてくる。ジークレッドは立ち止まって二人の騎士を待った。彼らは、ジークレッドの前に来ると、少し距離を取って、立ち止まった。周囲の陽気な雰囲気とは相容れぬ緊張した空気がこの三人の中に張り詰めた。

 ジークレッドが先に口を切った。

「よく、私だとすぐにわかったな。」

 騎士たちは、やや警戒気味に目の前のジークレッドを見た。噂には聞いていたが、ジークレッドの前に立つと、彼が放つ威厳と美しさからくる、めまいのような奇妙な感覚に襲われた。

「城にお連れする前に、念のためにご確認させて下さい」騎士のひとりが言った。



 ジークレッドはそでを少し上げ、周りには見えないように、右手を見せた。長い美しい白い指には、エメラルドの宝石でできた大きな指輪が光った。エメラルドの奥にはシェーンベルガー国の紋章が、澄んだ湖に映るようにくっきりと見えた。



 二人の騎士は、右手を自分の左肩に置き、ジークレッドに、深く頭を下げて挨拶をした。「姫のもとに、ご案内します」と言い、黙って歩き出した。ジークレッドは彼らの少し後を歩いた。



 カーニバルが開かれているような騒々しい市場の賑わいを抜け、町の外へ出ると急に人気が無くなり、静かになった。二人の騎士は振り向かず、どんどん歩いていく。やがて畑が広がり、人の手が入っていない荒地が見えるころ、彼方に古城が見えた。

 

 古城は廃墟のようだが、恋人たちが秘密の逢引あいびきに使うような、どこか懐かしい温かみと静けさに包まれていた。壁は蔦の葉に覆われて、緑の城のように見えた。騎士たちは立ち止まり、後ろを振り向いた。



「姫はこちらでお待ちです」

 ジークレッドはうなずいた。

「ここで、すべての武具を預からせて頂きます」

 ジークレッドは二人の騎士を見据え、僧の衣装の上着から腰の剣を手渡した。騎士たちはなるべくジークレッド王の方を見ないように腰を落として剣を預かった。ジークレッド王の威厳のある神々しい雰囲気に対する怖れが、騎士たちの全身を駆け抜け、彼らの額に汗がにじんだ。



 ジークレッドは蔦の這う、扉のない門の中をくぐって中に入った。古城はところどころ天井がなく、明るい日差しが蔦の葉を通して穏やかに差し込んでいた。古城の中はバラ園が整備されて、かつて部屋のあった場所は更地となり、地面がむき出しになっている。そこに、今は広いテーブルをはさんで、年代物のソファが置かれていた。

 ソファの向こう側に、鮮やかな濃い緑色のドレスを着て、肩に厚手のショールをかけたトレイシアが座っている。彼女の口元には微笑があった。



 ジークレッドはゆっくりと近づきながら、フードを外した。黒い眼帯も、汚れた僧侶の恰好も、彼の美しさを損なうことはなかった。

 彼はテーブルを回り、彼女の前に来て頭を下げた。トレイシアは立ち上がり、すっと片手を差し出した。ジークレッドは彼女の手を取りキスをした。そして彼女を見た。



「ようやくお会いできた。トレイシア王女」

 トレイシアは、ジークレッドを目の前にした時に、王の威厳と、その人自身から光が放たれるような美貌に満ちた姿に、圧倒的な力を感じた。トレイシアは、冷静さを装って、ジークレッド王に向かいのソファをすすめた。彼は立ちあがり、二人はテーブルをはさんで対面した。女性の騎士が近づき、テーブルの上のグラスにワインを注いだ。



「レディス、あとは私が。下がっていなさい」トレイシアは彼女の方を向いた。

「承知しました」レディスと呼ばれた騎士は、ワインの瓶をテーブルに置きながら、隙の無い様子で彼をちらりを見た。



 その途端、目が大きく見開かれた。噂に名高いシェーンベルガー国の王とは、なんという美しさだろう。レディスは周りの空気が光り出すかのような眩しさを覚えた。それと同時に非常にあでやかな妖艶さを感じた。思いがけない自分の動揺を隠すように、レディスはいくらか頬が赤くなった顔を背け、足早にバラ園の方へ立ち去った。



トレイシアは息を整えて、ジークレッドの方を向き、口を開いた。

「手紙を拝読し、私は貴方に会うことにしました。」

「断られずに良かったと思う。双方のためにも。」ジークレッドが言った。

「貴方がこの辺境の小さな我が国へ私を訪ねて来た理由をお聞かせ願えますか? 」

 トレイシアは彼をまっずぐに見据えた。



「正直に話そう。貴女が密かにおこなっている研究について知るために。一つは、ランゴバルト国について。もう一つは〈歌の力〉について。」

 トレイシアは驚いて目を見開いた。

「〈魔の力〉というのかもしれない……」



 ジークレッドは片方の目でトレイシアを見つめ、優雅な笑みを浮かべている。トレイシアは驚きを隠せずにいた。

(なぜシェーンベルガー国の王は、私が研究していることを、知っているの? )トレイシアは思わず目を伏せた。ジークレッドの視線が自分に注がれているのを感じた。

(どこまで知っているのだろう? それに何のために? )

 ジークレッドは肘をテーブルに乗せて、トレイシアをまじまじと覗き込んだ。



「トレイシア王女。貴女もディアナベス王女も同じ力を持っているのか?」

 トレイシアはぎくりとしたが、口元に笑みを浮かべて言った。

「一体何のお話でしょう?〈魔の力〉? そんなものがこの辺境の地にあるとお考えなのですか? 」

「人は噂話を好む。それも奇妙なものほど広がるのは早い。貴女の〈音〉の研究については、もうすでに西方諸国の諸侯たちが知るところだ。それはこんな噂だ。〈ブルクミランの二人の王女は、音で人や獣の心を操る〉と」

 トレイシアは鼓動が速くなり、身体がこわばるのを感じた。

「最近、ハワード卿の領地内にいる村で妙な話が広がっている。貴女の妹君について。私はハワード卿から直接聞いた」

 トレイシアは笑みを浮かべたまま、目を細めてジークレッドを見た。

「それは、どんな話でしょう? 」



「ハワード卿の領地のそばに住む農民たちが、不思議な体験をしたそうだ」

 ジークレッドはトレイシアを観察するかのように見ている。



「ハワード卿が、自分の領地の村人から聞いた話だ。ある日、奇妙な轟音が村に鳴り響いた。村人は全員、軽いめまいと吐き気、頭痛に見舞われた。それも、ある時間に、村人全員が一斉に。その後、村はずれに身体が硬直したまま死んだ男の死体が発見された。目をむき、耳を塞ぎ、口を大きく開いた奇怪な死体だったようだ。そなたの妹、ディアナベス王女が、ハワード卿を訪れた時期と、村人らの奇妙な出来事があった時期とが、ちょうど一致している」



 ジークレッドは、トレイシアの様子をうかがうような目を向けたまま、続けた。

「村に鳴り響いた轟音、村の全員が聴いた尋常ではない〈音〉、そして耳を塞いだ男の死体。同じ頃、ディアナベス王女が近隣にいた。ハワード卿は、ディアナベス王女が何かしら関係しているのではないかと考え、私にそれを伝えた。」



 ジークレッドは探るような目でトレイシアを見つめた。

「前置きはなしだ。ディアナベス王女は森羅万象を操る〈音の力〉を持っているのか?」

 トレイシアは頭から血が引くような感覚を覚えた。彼女はディアナベスと共に、音が持つ力を研究している。秘密裏に。そしてジークレッド王の話のとおり、ディアナベスがハワード卿の領地で、男に襲われそうになった時、〈歌〉を唄ったことを彼女自身から聞いていた。彼女たちが名付けた〈恐怖の唄〉という旋律を歌ったことを。



「私はその噂を信じている」ジークレッドはトレイシアの考えを読み取ったかのように言った。

「トレイシア王女、もしディアナベス王女が〈魔の力〉を持っているのならば、諸侯がそれを黙って見過ごすと思うか?」

「どういう意味でしょう?」

トレイシアはごくりと唾をのんだ。



「近く戦争が起こる。」

「なぜ戦争がおこるのです? 西方諸国の同盟はかたく守られているはず。」

「貴女も今の西方諸国の世界を知らないわけではなかろう。この国にどれだけの密偵が送られては、情報を自分の国へ持ち帰っているかご存じか? 」

トレイシアは口を堅く閉じた。



 ジークレッドの話の通り、トレイシアの父、ブルクミラン国王が密偵について、頭を悩ませているのを知っていた。王室に近づくほとんどの新参者は密偵だといっても過言ではない。貴族の中にも密偵と通じている者もいる。誰を信用し、誰をあえて泳がせておくか、トレイシアも最近、ようやくつかめてきた。彼女の方が父王より、どうやってその均衡を保つか、はるかに長けていた。



 ジークレッドが続けた。

「表面上、同盟は守られている。確かにこの五十年間、西方諸国で戦争は起こっていない。それは東方のランゴバルト国がいつ何時、征服に来るかもしれないという驚異の下にあった昔の話だ。近いうち、西方諸国は分断するだろう。当然、貴女の国も巻き込まれることになる。一旦戦争が始まれば、外交は戦況次第。軍隊の無いブルクミラン国はたちまち占領されることになる」

 トレイシアは黙って聞いていた。

「貴女の国だけではない。五十年の間、戦争を体験した事などない、どの国の民も王侯貴族も大混乱と思いもしない惨劇に巻き込まれるだろう。それが始まるのを防ぐために、貴女の〈音の力〉についての認識と協力が必要だ」



「私にどうしろとおっしゃるのですか? 」

ジークレッドは身体を少し乗り出してテーブルに両手を置いた。

「私は本当のことを知りたい。貴女と手を組みたいと思っている。一つは〈音の力〉を守るために。もう一つはランゴバルト国の情報を共有するために。」
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