Devil of the sound

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第2章 少年時代

Devil of the sound

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‎ 
 話は今から十年前のシェーンベルガー国へ戻る。‎

‎ シェーンベルガー国の東の国境が〈マンスフェルトの森〉という〈魔の森〉に隣接していることを活かし、逆にそれを敵からの攻撃を許さない防御壁として利用し、‎この地に国を建設した初代シェーンベルガー国王は、昔から軍事力の育成に力を注いできた。

‎ シェーンベルガー国の、左右対称に美しく整備された庭には、騎士達の訓練を行うための広い闘技場があり、その日も、若い騎士たちが、自分の腕を磨き、鍛錬しているところだった。

‎ 中でも人目を引くのは、素早い動きで騎士を攻める、十五歳の王子、ジークレッドの姿だった。彼は幼い頃から、その人並み外れた美しい容姿のため、どこでも最初に人々の目を引いた。早熟であらゆる分野に才覚を示し、また努力家でもあり、‎学びが速いこの第一王子を、父王と王妃は非常に可愛がって育てた。‎

‎ ジークレッドは生まれながらに、王の気質を備えていると大いに期待されて育った王子だった。

‎ ジークレッドには弟のフリードリヒがいた。彼は生まれた時から病弱で、やがて内臓の持病を発症したために、外出は最低限にと医師から診断を受けていた。‎
‎ 父王はこの大国の王維継承者を、第一王子のジークレッドに定めた。第二王位継承者は実弟のフリードリヒではなく、現国王の弟であるグランベルト公爵に定められていた。‎

‎ 今、ジークレッドは、代々近衛騎士を務める家柄の騎士、ダグラスと対戦していた。ダグラスはジークレッドより五歳年上で、群を抜いて大きな体格をしていた。‎
‎ ダグラスはジークレッドの剣さばきを観察しながら師のように手合わせしていた。少しでも気を許せば、王子の鋭敏な攻めに乗じられるので、〈無敵のダグラス〉‎の名誉のためにも、王子との対戦は、いつも緊張しての攻防戦となった。‎

‎ 父王と王妃は、彼らの鍛錬の様子を、期待を持った目で、仲良く寄り添いながら眺めていた。弟のフリードリヒはひとり書斎から外の喧騒を見ていた。ジークレッドに似た美しい容貌だったが、顔色は青白く、痩せた体つきだ。‎
‎ その時、騎士団の庭に一人の立派な貴族が近づいてきた。

‎「ジークレッド」‎
‎ 男は言った。彼は父王の弟のグランベルト公爵だ。‎
‎ ジークレッドはじめ、他の騎士たちが気付き、剣の動きを止めた。‎
‎「いや、皆、そのままで」‎
‎ グランベルト公爵は指示を出した。ジークレッドはこの男らしい叔父に小さい頃から可愛がられていた。‎
‎「また腕を上げたな。背が伸びて一段と逞しくなってきた」‎
‎ ジークレッドは叔父に褒められると嬉しそうに笑みを浮かべた。彼は騎士たちから抜けて、叔父のそばに歩いて行き、抱擁を交わした。‎
‎「いつこちらにいらしたのですか?」‎
‎「今朝だ。着いたばかりで腹ぺこだ」‎
‎ 叔父は顔を上げて、城内の窓にたたずむ王と王妃に手を上げて挨拶した。‎
‎「お前に土産がある」叔父は彼に剣を差し出した。「アルメニス国に寄った時に見つけた。戦闘用には足りぬが美しい。護身用として持っておくといい」‎
‎ 剣の柄にはルビーが埋め込まれ、鞘は凝った装飾が施されていた。ジークレッドは嬉しそうに笑った。‎
‎「ありがとうございます。大事に致します」‎
‎ 叔父は書斎の窓の方へ眼を向けた。第二王子のフリードリヒが窓から挨拶をした。‎叔父は元気よく手を上げた。フリードリヒは礼をするとそのまま書斎の奥へ入って見えなくなった。‎
‎「フリードリヒの調子はどうだ」‎
‎「あまり変わりはありません。明日また医師団が来る予定です」‎
‎「そうか」叔父はジークレッドの肩に手を置いた。「鍛錬に励め。私は朝食を頂きにいく。また後で」‎
‎ そしてまぶしそうに自分の甥、ジークレッドを見て、肩をたたき立ち去っていった。彼は輝くような笑顔で新しい剣を眺め、顔を上げて叔父の背中を見送った。‎

‎ 今夜、彼の平和な少年期は終わりを告げることになる。その時が近づいていることを、ジークレッドは全く予想だにしなかった。‎

‎ その日が暮れて、ジークレッド王子の暗い寝室にろうそくの炎が一本揺らいでいる。ひとりの若い黒い髪の侍女がろうそくの取手を持ち、佇んでいる。彼女の目がナイトテーブルの横に置かれた椅子の上をじっと見つめている。そこにはジークレッドが昼間着ていた騎士の上着がかけられていた。女性は潤んだ目でそのまま、ろうそくをテーブルの上に置いた。そして火照った笑みをうっとりと浮かべ、上着に触れた。‎
‎「……ジークレッドさま……」‎
彼女は急に衝動に駆られたように、上着を両手で持ちあげ胸にしっかりと抱きしめた。そして目を閉じて頬ずりをし、上着に顔をうずめ、キスを何度も落とした。声にならない妖艶な吐息を漏らしながら、彼女は上着を抱きしめ続けた。‎
‎ 突然、はっとした。扉の向こうに足音が近づてくる。彼女は上着を手放して、慌‎ててろうそくを取り上げ、扉から走り去った。‎
‎ ‎
‎ 公務用のテーブルにランタンを灯し、ジークレッドは、書斎で本を読んでいた。‎部屋の壁には、今年の終わりに、ジークレッドと婚礼が決まったトスカーラ国の王女の肖像画が飾られている。‎
‎ 肖像画の王女は、細身の体に白いドレスをまとい、肩から鮮やかな青いショールをかけていた。ほっそりと青白い顔で、ほおに少し赤みがさしている。気品に満ち溢れているが、全体的には印象が薄く、目はどこか正面から焦点がずれているような肖像だった。‎
‎ ジークレッドは熱心に厚い本を読んでいたが、何か気配を感じたのか、ふと目を上げると、重厚な扉の方へ向かって言った。‎
‎「ダグラスか? 入れ」‎
‎ 扉がゆっくり開き、先ほど剣の相手を務めていた大柄な青年が入ってきた。彼は果物がどっさり入った籠を手に持っている。‎
‎「お邪魔ではありませんか?」‎
ダグラスは口ではそう言ったが、ジークレッドの返答を待たず、我関知せずという様子で、彼の前に歩み寄り、公務のテーブルの上にどんと籠を置いた。ジークレッドがダグラスを見上げた。‎
‎「女性たちからです」‎
‎ 籠の中には果物の他に八通の手紙が入っていた。城内の貴族の娘たちからの恋文だ。‎
‎ ジークレッドは再び本に目を落とした。‎
‎「今夜は返事を書く時間がない」‎
‎「また、代筆ですか?」‎
‎ ダグラスは苦笑しながら王子を見た。‎
‎「他の近衛騎士は何をしている? ドレークやデルツは?」‎
‎「隣の部屋でトランプをしてますよ」‎
‎「暇なら、代筆を頼むと伝えてくれ」‎
‎ ダグラスはじっとジークレッドの様子を見つめた。‎
‎「婚礼が決まっているのに、恋文とは。この冬には国中の女たちが、葬儀並みに涙‎を流すでしょうね」‎
‎ ダグラスは、壁の方の婚約相手の王女の肖像を見やった。‎
‎「つまらない話はいいから、早く要件を言え」‎
‎ ジークレッドは静かに言った。‎
‎「グランベルト公爵から、明日の早朝、王子を狩りにお連れしたいと伝言を預かり‎ました」‎
‎「そうか」彼は笑みを浮かべた。「早く休めと言うことだな」‎
‎「私も同行しますので、できれば部屋にお戻り頂きたいと思います」‎
‎「先に休め」‎
‎「そうはいきませんよ。王からお叱りを受けるのは私ですから」‎
‎ ジークレッドは本にしおりを挟み、立ち上がった。‎
‎「そうだな……今夜は休むとしよう」彼はダグラスを見上げた。「明日こそはお前より大物を仕留めて見せる」‎
‎ ジークレッドは笑みを浮かべ、挑むような視線でダグラスを見た。ダグラスもにやりと笑った。‎
‎「それは楽しみです」‎
‎ 二人は他愛もない話をしながら部屋を出て行った。そしてジークレッドが自室に入るのを見届け、ダグラスは隣の騎士の控えの広間へ入って行った。‎

‎ 王子の部屋は薄暗いろうそくの灯がともり、窓が少し開いていた。夜風がカーテンをゆっくりと揺らしている。壁には今日、叔父のクランベル公爵から贈られた剣がかかっていた。ルビーが妖艶な赤い光を放っている。彼は寝着に着替え、枕の下に手を入れた。‎

‎ いつも密かに隠しておいてある短剣の手触りが無い。‎
‎ 彼は枕をどかした。やはりそこに剣は無かった。誰が持ち去ったのか。いつもと何かが違っているのを感じた。彼は周りの気配に集中しながら、ブーツの中に隠し入れてある別の短剣を取った。月の光に照らされるカーテンが、幽霊の服の裾のようにゆっくりと不吉に風になびいている。‎

‎ その時、扉をたたく音がした。‎
‎「ジークレッド様。お茶をお持ち致しました」‎
侍女の声がした。‎
‎ シェーンべルガー国では、夜に身体を温めるブランデー入りのお茶を飲むのが習慣になっていた。子どもは十三歳からそれが許されていたが、たまに両親の目を盗んで、自ら厨房にこっそり忍び込み、隠れてアルコール入りのお茶をいただくという悪戯は、おそらく、ほとんどの貴族が経験している子ども時代のエピソードの一つだろう。‎
‎「入れ」‎
‎ ジークレッドは、さっと短剣を枕の下に隠し、ブランケットをかぶせた。そして傍のソファに腰を降ろした。黒い髪の美しい侍女がトレーを持って入ってきた。彼女は、七年前に亡くなった乳母の姪で、二年前から王子の世話役として奉公している女性だった。ジークレッドより五歳くらい年上の若さだろうか。初めからよく仕事のできる気の利く女性だった。お茶を持ってくる侍女は毎晩違っていたが、今宵‎は彼女の担当だった。‎
‎ 彼女は、ジークレッドの前にある、ガラスでできた美しいナイトテーブルにトレーを置いた。ジークレッドはじっと彼女の仕草を眺めていた。‎
‎「何か変わったことはなかったか?」‎
‎「いえ……」彼女は可愛らしい顔を彼に向けて笑みを浮かべた。 彼女は背筋を伸ばして立った「南の棟にグランベルト公爵とそのご一行がご宿泊なさっています。‎風が出て参りましたね」‎
‎ 彼女は窓の方へ歩み寄った。そして窓の扉を閉じ、カーテンを閉めた。‎
‎ ジークレッドの頭の中のかすかな警告音は鳴りやまなかった。‎
‎ 彼女が振り向くと、ジークレッドは珍しくじっと侍女を見つめていた。侍女はすっと目をそらした。それは彼が見慣れた仕草だ。たいていの女性は彼がじっと見つめると目をそらす。‎
‎ ジークレッドは彼女をじっと見つめたまま、ナイトテーブルの上に置かれたティーカップに手をやった。‎
‎「叔父からの剣を壁にかけてくれたのは、君か?」‎
‎ 侍女は彼の視線を感じながら、ゆっくりと振り向き、笑みを浮かべた。‎
‎「はい」‎
‎「ありがとう。気が利くな」ジークレッドは優しい笑みを浮かべた。‎
‎ 彼はゆっくりとティーカップを口に持っていった。‎

‎ そのとたん、侍女は彼に向かって走り出し、王子の手からティーカップを奪い取った。ティーカップは侍女の手から滑り落ち、床に音をたてて割れた。侍女は怯えきった眼でジークレッドを見つめた。身体がガタガタと震えている。‎
‎ 次の瞬間、ベッドの反対側から、黒い大きな影が飛び出してきた。フードとマントで体中を覆った男だった。手に短剣が光った。侍女は声にならない悲鳴を上げた。‎
‎「下がっていろ!」ジークレッドは侍女に低い声で言った。‎
‎ 彼はすばやく立ち上がり、壁にかかったルビーの剣をつかんだ。慣れた仕草で鞘から剣をぬくと、男の短剣と、ジークレッドの剣が音をたてて打ち当たった。男は優れた刺客のようだ。動きが速い。男の短剣がジークレッドの左肩をかすった。ジ‎ークレッドも剣を振り、刺客に反撃した。王子の剣と、刺客の短剣がぶつかったとたん、ルビーの剣はもろく折れて、ポロリと床に落ちた。‎

‎ ジークレッドはぎくりとした。男が冷笑を浮かべたような気がした。‎
‎ 刺客がまた飛びかかってきた。ジークレッドは素早く枕の下の短剣をつかんだ。‎振り向きざま、目の前で男の剣とジークレッドの短剣が交わり、男の顔が近くに迫った。‎
‎「何者だ」‎
‎ ジークレッドは睨みつけた。男は一旦さっと後ろへ飛び去り、ふたたび飛びかかってきた。ジークレッドが身構えた時、部屋の扉が勢いよく開き、ダグラスを先頭に二人の騎士がなだれ込むように入ってきた。男は目を細め、舌打ちした。そして侍女に向かって剣を投げつけ、間髪入れず、窓を破り、外へ飛び降りた。‎
‎ 後を追って、ダグラスが窓に走り、外を見た。刺客の男の後姿が庭を抜けて走り‎去っていくのをみとめた。‎
‎「王子を頼む」‎
‎ ダグラスは背後の二人の騎士に告げ、自分も窓からひらりと飛び降りた。ジークレッドは騎士らに向かって冷静な鋭い口調で言った。‎
‎「扉を閉めろ。事を荒立てるな」‎

‎ すぐに騎士の一人、デルツが扉に向かい、部屋を閉鎖した。‎
‎ ジークレッドは倒れた侍女を抱き起した。侍女の胸に刺客の投げた剣が突き刺さっていた。‎
‎「しっかりしろ!」‎
‎ 侍女は苦しい息の下で、うっすらと目を開いた。‎
‎「……ご無事で……よかった……」‎
‎ 彼女は震える手を彼に伸ばした。ジークレッドはその手を握った。侍女はなぜか嬉しそうに笑みを浮かべた。短剣は急所を貫いている。もはや助からないだろう。‎
‎「毒を盛ったのはお前か」ジークレッドは鋭い眼で彼女の目を見つめて言った。侍女は震えながらうなずいた。‎
‎「……ずっと……お慕いして……いました……」侍女の目から一筋涙が流れた。‎
‎「私も……いっしょに……死のうと……」‎
‎ ジークレッドは思いがけない言葉に驚いて目を見開いた。彼女は切なげに、彼をじっと見つめている。‎
‎「誰がお前に指示した?」‎
‎ 彼はかすれるような声で聞いた。彼女は急に悲鳴にならない声を上げた。必死に何かにしがみつこうとするように、口が動いた。‎
‎「誰だ?」‎
‎ ジークレッドは彼女を抱きしめた。彼の耳元で、信じられない言葉が告げられた。‎

‎「……グラン……ベルト……」‎

‎ 傍らに立った二人の騎士は信じられないような目で顔を見合わせた。ジークレッドは黙って侍女の身体を抱いていた。まだ身体が温かい。彼女は苦しみから解放されたかのような笑みを顔に浮かべた。‎目を、薄く開いたまま、動かなくなった。まるで楽しい夢でも見ているような表情だ。‎
‎ ジークレッドはじっと目の前の暗闇を見つめた。‎
‎ 大きな衝撃が彼に襲いかかってきていた。それはうねるように彼自身の存在を暗‎闇の中へ引きずり込もうとしているようだった。激しい吐き気が込み上げてくる。‎彼は息をする事も、動く事も出来なかった。ただそのうねりが収まるのをじっと耐ええるしかなかった。彼はその場から逃げ出したい衝動にかられた。しかし生来の彼の鋼のような冷静さが頭の中に告げていた。‎

‎ 急げ。時間が無い。この機を逃すな。‎

‎ 彼は腕の中の侍女の、笑みを浮かべたような死に顔を、目に焼き付けた。騎士の一人ドレークが侍女に近づき、彼女の胸の剣を抜こうとした。‎
‎「待て。私がやる」‎
‎ ジークレッドは刺さった剣の柄を握り、一気に剣を抜いた。大量の血がどくどくと、侍女の身体から流れ出た。‎

‎ これは私の血だ。‎

‎ 彼はゆっくりと侍女の身体を床に横たわらせた。ジークレッドの夜着は侍女の鮮血で赤黒く染まっていた。彼はゆらりと立ち上がり、ルビーの剣を拾い上げた。そして灯りの方へ進み、じっと折れた刃の部分を見つめた。明らかに折れた部分には、‎後からつなぎ合わせた跡が見える。騎士たちもじっとジークレッドの様子をうかがっている。

‎「まさか……公爵が」‎
ドレークの隣に立っている騎士、デルツが険しい声でつぶやいた。ジークレッドは二人の騎士を振り向いた。‎
‎「静かに私の剣を持ってこい。誰にもこの事は告げるな」‎
‎「はっ」‎
デルツがすばやく部屋を去った。‎
‎「ドレーク、部屋の見張りに立て」‎
‎ ジークレッドは矢継ぎ早に冷静な口調で指示を出した。彼は鮮血で染まった夜着を脱ぎ、素早く上衣に着替え、その上から甲冑を身に着けた。そしてシェーンベルガー国の紋章が刺繍されたマントをまとった。‎
‎ 死んだ侍女に再び目をやり、しばらく見つめていたが、やがて無表情のまま前方に視線を移した。そしてろうそくを消し、部屋を出て行った。‎

‎ 扉の外には、デルツが剣を持って控えていた。見張りに立ったドレークが扉の前に立っている。ジークレッドはデルツから剣を受け取ると、氷のような暗い眼で二人を見据えた。‎
‎「お前たちは、城門を閉めるように手配しろ。ひとりも城外へ出すな」‎
‎「王子はどちらへ?」ドレークが聞いた。‎
‎「私は南の棟へ行く」ジークレッドが答えた。‎
‎「おひとりで、ですか?」デルツが言った。「お供させて下さい」デルツがわずかに頭を下げ、真剣な目で懇願した。‎
‎「まだ公爵には気づかれていない。私一人で行く」‎
‎ ジークレッドは廊下の先を凝視した。‎
‎「城内はお前たちに任せた。時間が無い。急げ!」‎
‎「はっ」デルツは返事と同時に頭を下げ、ドレークと共に、廊下を去っていた。‎

‎ ジークレッドも踵を返し、暗い廊下を、風を切るように歩き出した。‎

‎ ジークレッドは夜の庭へ出た。地下要塞からグランベルト公爵のいる南の棟へ入ることにした。茂みの中の、岩に隠された扉を開け、棟の地下へ入った。暗い階段がずっと上へとらせん状に続いている。階段の途中にある木の扉を開けると、暗い廊下が闇に向かって真っすぐ伸びている。この先は叔父のグランベルト公爵の滞在する部屋の廊下に続く秘密の通路だった。彼は暗闇を睨み、公爵の部屋を目指した。‎

‎ 彼は冷たくうす暗い廊下を手さぐりに進んでいった。‎
‎ 歩き出してすぐ、自分のものではない足音が聞こえた。ジークレッドは、はっとして立ち止まった。振り返ると自分が来た通路から大きな人影が見える。目を凝らすと、それはダグラスだった。‎

‎ ジークレッドは黙ってダグラスが近づくのを待った。ダグラスがここに来たのは、‎刺客から何らかの情報を得たからに違いない。ダグラスはどす黒い液体の付いた麻袋を片手に現れた。ジークレッドは麻袋の中に刺客の首が入っているとわかった。‎
‎「仕留めたか?」ジークレッドは低い声で言った。‎
‎「はい」ダグラスは暗い眼で、王子を見た。‎
‎「黒幕は公爵です」ジークレッドはうなずいた。「お供します」ダグラスが言った。‎
‎「私に従えば、もう引き返せないぞ」彼は表情のない冷たい声で言った。‎
‎「自分の意志で来たんです。引き返すつもりはありません」‎
‎ 二人は黙って、前方の暗闇に目をやり、再び通路を進んだ。やがて一つの扉にぶつかった。静かに開くと、南の棟の最上階の廊下の隠し扉に出た。彼らは壁に身をひそめ、様子を伺った。‎
‎ 公爵の近衛騎士部屋からは賑やかな話し声や笑い声が聞こえてきた。‎

‎ ジークレッドが歩き出そうとすると、ダグラスに腕をつかまれ、引き留められた。‎彼はダグラスを見た。‎
‎ ダグラスは今まで見たことのない、険しい眼をして王子を見つめた。‎
‎「公爵に一言でも話をさせてはいけません。躊躇(ちゅうちょ)したら、貴方の負けです」‎
‎ ジークレッドの美しい碧色の目の中にダグラスが映っている。‎
‎「お覚悟はできていますか?」‎
‎ ジークレッドはしっかりとダグラスの目を見据えて、黙ってうなずいた。‎
‎「私が公爵の部屋へ入ったら、すぐに父王を呼べ」‎
‎「承知しました」‎

‎ ジークレッドはさっと廊下に出て、マントを翻(ひるがえ)しながら堂々と広い回廊を歩き出した。廊下で見張りをしている兵士が、ぎょっとした様子でジークレッドに気が付いた。‎
‎ 突然の王子の出現に驚いたようだ。‎
‎「これは、ジークレッド様!」‎
‎ 三人の兵士は慌てて居ずまいを正した。ひとりの騎士が進み出た。‎
‎「すぐに公爵にお取次ぎいたしますので、少しお待ちください」‎
‎「よい! 急ぎの用だ」‎

‎ ジークレッドは、威厳をもって騎士を睨みつけるように見据えた。騎士はその剣幕に萎縮したようだった。ジークレッドはそのまま廊下を突き進んだ。‎

‎ やがて彼は、公爵のいる部屋の、凝った装飾を施(ほどこ)された重厚な部屋の扉の前に立った。そして躊躇(ちゅうちょ)することなく扉を開けた。客用の寝室には、グランベルト公爵が、シェーンベルガー国の宰相とテーブルに向かい合ってブランデーを飲んでいた。‎
‎ 公爵がこちらを振り向いた。予期せぬ客の訪問にぎょっとしたような顔つきになった。宰相も目を見開いて驚いた。叔父はやがて今まで見たことのない、歪んだ青‎ざめた顔で、引きつったような笑みを浮かべた。ジークレッドは叔父を見据えたまま、ゆっくりと近づいていった。‎

‎ 叔父へ近づいていく一歩一歩が、彼の中にある子ども時代の喜びや思い出を踏みつぶしていった。ジークレッドは力を込めて、一歩ずつ足を踏みしめた。叔父までの距離はそんなに遠くなかったが、彼には永遠の距離に思われた。

 叔父は黙って立ち上がると後ずさりし始めた。‎
‎ ジークレッドは自分の感情を完全に封印した。そして無表情のまま、ひらりとテーブルの上に乗り、剣をすらりと抜いた。そして真正面から叔父を見下ろした。‎
‎ その男はもはや自分が尊敬する彼ではなかった。自分を愛してくれた彼でもなかった。‎
‎ 今まで一度も会ったことのない、男だ。‎
‎ 侍女の身体から流れ出た血は、この部屋に辿り着くまでに、ジークレッドが心の中から流し続けた血だ。この男を前にするまでに、とっくに血は涸(か)れていた。‎
‎ 叔父の右手が腰にある剣の柄をつかんだ。‎

‎ ジークレッドは無言で、テーブルから飛び降り、一振りの剣を叔父に浴びせた。‎
ビュッと音がして、叔父は声もなく一刀両断され、後ろに倒れた。叔父の身体から鮮血が飛び散った。ジークレッドの身体は黒々しく生温かい返り血を浴びた。‎

‎ 宰相はすでに床にひっくり返って、叫びにならない声を出そうとしていた。ジークレッドは顔を鮮血で真っ赤に染めたまま、宰相を振り向いた。‎
‎「私は何も知らない! 私じゃない!」‎
‎「では誰だ?」‎
‎ 氷のようなジークレッドの声が言った。‎
‎「フリードリヒ様です! 公爵と彼の陰謀だ。わたしじゃない!」‎
‎ 宰相は怯えきって、腕で頭を抱えた。‎
‎「出まかせを言うな!」‎
‎ ジークレッドが鋭い声で怒鳴った。‎
‎「嘘じゃない、う、嘘だと思うなら、お尋ねになればよい。フリードリヒ様に!」‎
‎ ジークレッドは憎悪に満ちた眼で、宰相を睨みつけた。‎
‎「弟の名を口にするな!」‎
‎ 彼は容赦なく宰相に一振り浴びせた。老人はあっという間に動かなくなった。‎
‎ ジークレッドは肩で上下に息をした。血しぶきを浴び、冷酷な表情をした彼は、‎まるで地獄から出てきた魔物のようだった。‎

‎ 扉が開き、父王を先頭に、シェーンベルガー国とグランベルト公爵の兵士等の両者が部屋に入ってきた。後ろにダグラスの姿も見えた。‎
‎ 父王はその地獄のような光景に息をのみ、言葉を失った。ジークレッドは父王を見た。二人の視線が合った。父王は衝撃のあまり、身体が硬直している。‎
‎ ジークレッドはすっと息をはき、冷静な表情を取り戻した。そしてよく響く声でその場の皆に宣言した。‎

‎「グランベルト公爵とその宰相は、シェーンベルガー王位継承者、ジークレッド・フォン・シュレージェンの暗殺を企てて、実行しようとした。その罪状により、私がこの場で制裁した!」‎

‎ 後ろからダグラスがずいっと中へ入った。‎
‎「暗殺者の名はハルシス。公爵の先鋭兵の一人です」‎
‎ ダグラスは男の首をごろりと床に放り投げた。ジークレッドは血を滴らせた剣を持ったまま、悠然(ゆうぜん)と一同の前に進み出た。‎

‎「暗殺の企てを知っていた者は今すぐに前に出ろ! この場で白状するなら恩赦を与える!」‎
‎ ジークレッドが告げた。‎

‎ しかし、狂気の迫った王子の前に出る者は誰もいなかった。皆、声を立てることはおろか、身動きすることすら出来なかった。‎
‎ そこへ一人の兵士が真っ青な顔をして走り込んできた。皆一斉にそちらを振り返った。‎
‎「大変です!」‎
‎ その尋常でない様子から、この地獄絵以上の不吉な予感に周囲が包まれた。‎
‎「フリードリヒ様が、ご自害されました」‎

‎ 暗がりの自室で、フリードリヒは自ら毒を飲んで死んでいた。苦しんだ様子はなく、死に顔は安らかで眠っているかのようだった。毒は、ジークレッドの侍女が、‎夜の茶に盛ったのと同じものだった。‎
‎ 彼の遺書には、公爵が王位を狙っていた事、自分が病弱であるがゆえに王位継承権や両親の愛情が得られなかった事、公爵の策で、以前からジークレッドに想いをよせていた侍女を徐々に懐柔し、ジークレッドの婚礼前に心中の企てに追い込んだのは自分と公爵である事、国内に貴族の反目があり、自分がいる限り、内乱の勃発‎は避けられない事などが詳細に記されていた。その他、ジークレッドの暗殺を裏付ける、公爵とのこれまでの手紙のやり取りも一緒に添えてあった。‎

‎ 手紙の詳細な内容は、フリードリヒがこの遺書を前々から準備していたものである事を物語っていた。‎
‎ 彼の最後の文章は次のような言葉で締めくくられていた。‎
‎〈王位継承権について、一度以上の婚姻、兄弟姉妹の存在は、国内に内乱を起こし、‎周辺諸国の介入も引き起こすきっかけになるでしょう。長い平和は、隣人への憎しみを生みます。王位継承権のあり方について、互いに英知を授けあい、良い方法を考えて下さい〉‎


‎ 城の屋上にはすさまじい風が吹き荒れていた。西の方は真っ暗な雲に覆いつくされ、嵐のくる予感がした。‎
‎ ジークレッドとダグラスは、次々に形を変えてうごめく黒い雲をじっと見つめていた。金髪をたなびかせ、はるか遠くを見やるジークレッドの姿は、まるで美しい軍神のようだ。雲は次第に城の方へ近づいてくる。時々稲妻が光るのが見えた。ジークレッドは目を細め、黒く渦巻く空を見上げた。‎
‎「ラルス・ジーモンは偉大な王だな」‎
‎ ダグラスは自分が聞き違えたのかと思うような怪訝な顔で、王子を見た。‎
‎「何しろ五十年以上も西方諸国に平和を授けたのだから」‎
‎「〈脅威〉でしょう?」‎
‎ ジークレッドは冷笑を浮かべた。‎
‎「言葉はどうでもいい。西方諸国に戦争が無かったのは彼の存在によるものだ」‎
‎ ダグラスは黙ってジークレッドの言葉を考えた。‎
‎「どの国でも内乱の兆しが見え始めている。今また、奴が不死身の姿で現れたら、‎西方諸国のあらゆる争いは無くなるかもしれない」‎
‎ ダグラスはじっとジークレッドを見た。そして、まだこの歳若い王子の肩にかかる、混沌とした巨大な重みを想像した。‎
‎ 二人はしばらく黙っていた。雨が頬に当たる。どうやら嵐が始まったらしい。しかしジークレッドは、動かなかった。‎

‎「私は初めて人を殺した」‎
‎ ジークレッドは空に向かって話すように言った。‎
‎「フリードリヒが好きだった。叔父を尊敬していた。彼のようになりたいと思った‎こともあった」‎
‎ 雨は急に激しく降り出した。ジークレッドは無表情のまま、雨に打たれるに任せていた。‎
‎ 彼の髪から雨のしずくが滴った。顔も雨で濡れている。ダグラスは前を向いたま‎ま言った。‎
‎「殺さなければ、ジークレッド様が殺されていました。生き延びて下さい」‎
‎ ダグラスは彼の方へ眼を向けた。激しい雨音に声が聞き取りづらくなり、ダグラスは叫ぶように言った。‎
‎「私は命懸けで貴方をお守りします。生き延びて下さい」‎
‎「それはだめだ!」ジークレッドは前を向いたまま叫んだ。‎
‎「命は懸けるな。お前も生き延びろ」‎
‎ ジークレッドは顔の雨を片手でぬぐった。ダグラスは言葉の重みを受け止め、黙ってジークレッドを見つめた。たたきつけるような豪雨が、彼らに降り注いだ。‎

‎「もう、お前は下がれ」ジークレッドは有無を言わせない様相で鋭く命令した。ダグラスは一瞬、口を開きかけたが、ぐっと唇をかみしめた。そして深く頭を下げ、‎静かに立ち上がり、全身から雨水を滴らせながら歩き去った。

‎ ジークレッドはしばらく独り、激しい雨に打たれ続けた。嵐は今夜中、城を、シェーンベルガー国を襲うだろう。
 激しい稲光が近づいてきた。地面を揺るがすような落雷の轟音が響いた。空はすっかり暗闇に包まれた。それはこれから来る時代の予兆のようだった。‎
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