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第1章 兆し
Devil of the sound
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ドクン、ドクンと鼓動が早まっていく。
ここは西方諸国の小国ブルクミラン。流れるような長い栗色の髪の、ひとりの少女が、薄い絹のベールを身体に巻き付け、湖の木陰に息をひそめて立っている。彼女は、光に照らされて金色に輝く湖で、水浴をしていたが、何かの気配を感じ、急いで湖から上がり、木の幹に身を隠したところだった。目は緊張で揺らぎ大きく見開かれている。
(誰かいるの……?)
彼女の肩から背中には、大きな赤い斑点とまだら模様の染みが、濡れたベールの上から見える。だがよく見るとそれはベールの模様ではなく、彼女の身体に刻み込まれた酷い皮膚の色だと分かる。ところどころに黄色い膿が噴出したような傷がある。
震える彼女の口が開くと、どこからともなく音が響いてきた。鐘の鳴るような、金属的な音だ。繰り返し、繰り返し、同じ旋律が流れてくる。それは彼女が歌っているようにもみえたが、湖全体から聞こえてくるようにも感じる不思議な音だった。
湖の波は時が止まったかのように静止し、空に向かって飛び立とうとした数羽の水鳥たちは、透明な壁にぶつかったかのように、宙に跳ね飛ばされ、地に落ちた。鳥たちは驚いたように地面で羽ばたきを繰り返した。
しばらく彼女は木陰からその音を歌い続け、ふと口を閉じた。湖と反対側の木立から声がした。
「ディアナベス王女!」
木陰にいた少女はその声に一瞬怯えたような表情を見せた。
「そこにいるのはわかっています。出ていらっしゃい」
ディアナベス王女と呼ばれた若い娘はベールを体中に巻き付けたまま、木陰から姿を現した。
背が高く美しい金髪の髪を上に結い、ティアラをつけた彼女の母、ブルクミラン王妃がそこに立っていた。ディアナベス王女は重い足取りで母の前まで歩いて行った。王妃は真っ青な顔をして、自分のマントを、王女の濡れたベールの上から覆った。
「また〈歌〉を歌っていたのね? ディアナベス!」
王妃の目は涙で潤んでいた。
「誰かにあなたの姿を見られたらどうするつもりなのですか?」
「……ごめんなさい」
ディアナベスは力なくつぶやいた。地面で羽ばたきをしていた水鳥たちが、呪縛から解かれたように、湖の上に飛び立っていくのが見えた。
「音が鳴るのを聞いた時から、あなたが歌っているのだとすぐにわかったわ。まるで見えない壁でふさががれたように、歩くことができなかった。〈魔の音〉を歌うことは禁じたはずです。」
ディアナベスは黙って目を伏せた。王妃は、静かな目で娘を見つめた。
「今朝、ラドキシュ国のカプラン公爵から、ぜひあなたにお会いしたいと手紙を頂きました」
ディアナベスは、疑わしい目で母を見上げた。
「先月、収穫祭にいらした方ですか? 」
「そうよ。実は……婚姻の申し出でなのです。とても切実に貴女を想っていらっしゃるの」
ディアナベスは息苦しさを感じた。
「婚礼……?」ディアナベスは引きつったような笑みをつくった。
「……お母様は…本当に私が結婚できると思っていらっしゃるの? カプラン公爵は私の身体のことについてご存じなのですか? 」
王妃はびくりとと肩を震わせた。
「いいえ。」
「それでは公爵をだますようなものではありませんか? 自分の妃となる女性がこんな醜悪な身体を持っていると知らずに婚姻のお話を進めるなど、私にはできません」
ディアナベスはまっすぐに母の目を見て言った。
「ブルクミラン国とラドキシュ国の関係が悪くなります。カプラン公爵を傷つけたくもありません。お断りして下さい!」
ディアナベスはそれだけ言うと、王妃の前から走り去った。
「ディアナベス!」
声は王女を追いかけようとしたが、王妃の足は動かなかった。遠ざかってゆく王女の姿がぼやけて見えた。瞬きをすると美しい王妃の瞳からうっすらと涙がこぼれた。その時、後ろの方で草を踏む音が聞こえ、王妃は急いで涙をぬぐい、振り向いた。
「王妃よ」
「陛下」王妃はドレスの裾を上げて、自分の夫であるブルクミラン国王に挨拶をした。
「声がしたのでそのまま、聞いていた」と国王が言った。「カプラン公爵からの結婚の申し出を、そなたはどう思う? 」
「わたくしは……よいお話だと思います」王妃は目を伏せたまま答えた。
「本当にそう思うか。ディアナベスの身体のことは内密にできる問題ではない。いずれ明るみに出る。カプラン公爵に黙って婚姻の話をすすめれば、ディアナベスの言う通り、ラドキシュ国との外交関係には影響するかもしれない。」
「ディアナベスは生涯、結婚できない身ということですか? 」王妃が言った。
「あるいは、やむを得ないことではないか。」
「ブルクミラン王家の……陛下の血を継いでいくことは、王女としての務めです」王妃は夫であるブルクミラン国王に目を向けながら続けた。
「カプラン公爵がディアナベスを、是非にと言っているのです。病があることは伝えてあります。それでもと。他に断る理由が見つかりません。」
「皮膚病の話を知っているのか。」
「いいえ。身体の、特に背中が難病にかかっていることは伝えましたが。」
「ディアナベスの気に添わぬ結婚なら、進めることはない。たとえ一生独り身のままこの城にいても良いではないか。」国王は前を向いたまま言った。王妃は黙っていた。
「あの日を覚えているか?海辺で生まれたばかりのディアナベスを抱いて……」
「ええ、忘れたことはありません。」
「では……私たちの生きている間はディアナベスを守ろう。あの時、そう決めたように。」
王妃は黙ってじっと前を見つめた。国王は王妃の手を取った。そして優しく握った。王妃もその手を握り返した。二人は静かに言葉を交わさず、美しい静かな湖畔を連れだって歩いて行った。ふと王妃の足が止まった。
「どうしのだ? 」
王妃は目を伏せて立ちすくんでいる。顔は無表情だ。
「わたくしは……ディアナベスにひどい言葉を……まだ幼少の頃です。ディアナベスに……幼い王女に話したのです」王妃は唇をかんだ。やがて口を開いた。「〈呪われている〉と」
国王は驚いた眼で王妃を見た。
「取り返しのつかないことをしました。ディアナベスはきっと今でも覚えているでしょう」王妃は唇をかんだ。そして口を開いた。
「ディアナベスに王女としての教育をしてきました。王女としての務めを果たす娘として。これからどうするべきなのでしょう。あの病を持った自分の娘をどうしたら良いのか、わからないのです」王妃の目が潤んだ。
「それは私にもわからない。ディアナベスはもう小さな王女ではない。彼女が自分のするべきことを自分で決めるだろう。私たちはそれを支えるだけだ。ディアナベスは大事な私たちの娘だ。それは変わることはない」国王が言った。
「あの子が本当に〈魔の者〉なのではないかと、私はずっとそれを怖れながら生きてきました。自分の娘でありながら! 現にディアナベスは、音遊びを続けています。私はそれが〈魔の力〉ではないことを願わずにはいられません」王妃が悲しそうに言った。
「私たちの娘だ。〈魔の力〉を手にするはずはない。信じよう。これまでと同じように」国王は王妃の髪をなでた。
二人は湖のほとりの鮮やかな芝の上をゆっくりと歩きだした。低木の葉が太陽の光に照らされ白く光っている。湖は穏やかな銀色の鏡のようだ。
ブルクミラン国に伝わる、遠い昔の伝説がある。西方諸国がまだ今の十三の国に分かれる前、世界はまだ、混とんとしていた。
ブルクミラン国にひとりの王女が生まれた。生まれた赤ん坊は、身体に醜い皮膚病を患っていた。彼女は王家から隠され、塔の中に閉じ込められて育った。十年の歳月が経ち、王女は外の世界を願った。
彼女が叫ぶと、塔の扉が吹き飛び、外に出た彼女が手をかざすと、城は音を立てて崩れ落ちた。彼女が歌うと、世界は炎に包まれ、大勢の者が死んだ。誰も彼女を止めることはできなかった。
彼女は周りの国々を焼き尽くしながら歩み続け、ある日、魔の地、マンスフェルトの森に辿り着いた。森をくぐると、大地が大きく揺れ、マンスフェルトの森は大きな音を立てながら、王女をのみ込んだ。そして、世界は静けさを取り戻した。
それ以後、生き残ったブルクミラン王家の者は、幾代にもわたって、患いを持って生まれてきた赤子を、小さな舟に乗せて、大海へ流すことにしたという。
西方十三カ国の中央に位置する大国、チェルニア国は、一刻前まで雷雨が通り過ぎ、静かな夜を迎えていた。広く豪華な回廊を抜けた城の書斎の一室に、精悍(せいかん)な体格をした背の低い男が座っている。
彼はマールセン国王。この国を治めている野心家の男だ。マホガニー製の重厚な机の隣には、国王の右腕と呼ばれるヨハンセル将軍が姿勢を正して佇んでいる。国王よりも少し年上の軍師でもある。
そしてもう一人、首が曲がり、細長い顔をした奇妙な男が、部屋の隅に立っていた。
机の上には、たった今届いたばかりの、国王の密偵からの書簡がおいてあった。不穏な空気が部屋に満ちていた。
「君はここに書いてある話を信じるかね? ヨハンセル将軍」
マールセン国王は将軍の方へわずかに顔を傾けて尋ねた。将軍の目はじっと書簡に注がれている。
「歌うだけで人や物を操る力を持っている人間がいる? そんなことがあり得るのか? 」国王が書簡に片手を置いた。
ヨハンセル将軍が口を開いた。
「にわかには信じられないことですが、もし書簡にあるように、ブルクミラン国の第二王女ディアナベスがそのような〈力〉を持っているとするなら、見過ごすわけにはいかないでしょう。」
首の曲がった奇妙な男が薄気味の悪い声で笑い出した。
「何がおかしい? オミノス」マールセン国王が尋ねた。オミノスと呼ばれた男がマールセン国王の方へ、ひょこひょこと、歩み出た。
「〈我が主〉はお告げになった。国王様の全盛を。国王様の滅亡を。ブルクミラン国には秘密がある。何百年も繰り返し繰り返し、〈魔の力〉を持った赤子を海に流した。しかし〈魔の力〉を持った子が毎年生まれるわけじゃない。ディアナベス王女は、ようやく生まれた奇跡の娘。国王様が、奇跡の娘を手に入れれば世界を征服できる。世界は国王様のものになる。」
「〈我が主〉とはお前がマンスフェルトの森から持ち帰ったという、森の土のことか? 」マールセン国王が言った。
「そのとおり。マンスフェルトの森は、未来も過去も暴き出す。わたしは未来がみたかった。だからマンスフェルトの森へ行った。そして土をとった。その代償にわたしの首は曲がっちまったわけですが」オミノスはまた気味の悪い笑い声を立てた。
「私の滅亡と言ったな? どういう意味だ? 」
「〈我が主〉が告げただけ。わたしはそれを国王様にお伝えしているだけ」オミノスが言った。
「私は世界を征服することができるのか? 」マールセン国王が言った。
「道は二つにわかれている。滅亡か全盛か」オミノスが目を閉じた。
「もう少し話せ。オミノス」マールセン国王が言った。
しかしオミノスは静かに目を閉じたまま硬直している。ピクリとも身体は動かない。マールセン国王は諦めたように、ため息をついた。ヨハンセル将軍が口を開いた。
「歴史の書に、古のブルクミラン国についての記述があります。その昔、ブルクミラン国では何十年かに一度〈魔の力〉を宿した子が生まれたと。その印は醜い皮膚病を持っていた。ディアナベス王女が皮膚病を患っているかどうかは定かではありませんが……」
「皮膚病だと? 病と〈魔の力〉が関係しているというのか? 」マールセン国王が尋ねた。
「それはわかりません。しかしディアナベス王女は、なにがしかの難病を持っていることは密偵からの報告で、確かです。」
オミノスが突然動き出した。彼は目をかっと開き。口を開いた。ヨハンセル将軍はぎょっとしたようにオミノスに目をやった。
「〈魔の力〉を持つ奇跡の子どもたちは醜い体をしている。マンスフェルトの森が印をつけた。奇跡の子だとわかるように。〈我が主〉にはわかっている。ディアナベス王女は印を持っていると」そう言うとオミノスは薄笑いを浮かべたまま、宙をじっと見つめ、再び動かなくなった。マールセン国王とヨハンセル将軍は、オミノスがまた何か話すのではないかとじっと待っていたが、彼は人形になってしまったのように止まっている。
やがてヨハンセル将軍が話し出した。
「密偵の数を増やし、真偽がわかり次第、ブルクミラン国からディアナベス王女を奪い去るというのはいかがでしょう? もし王女らの力が本物であるならば、他の国よりも早く、我が国は手に入れるべきです。いつ国境で戦が始まるやもしれません。躊躇(ちゅうちょ)している余裕はないものと思います。」
国王は机に再び目をやった。手紙には、ある名前が記されている。
〈ディアナベス王女〉
彼はその文字を見つめながら口を開いた。
「よい。その策をとる。」
国王は目を上げて、書斎の窓の方を向いた。「雨が上がったようだな」しかし国王は心の中で別のことを考えていた。
〈道は二つにわかれている。滅亡か全盛か〉。オミノスの言葉を再び思い返していた。
ドクン、ドクンと鼓動が早まっていく。
ここは西方諸国の小国ブルクミラン。流れるような長い栗色の髪の、ひとりの少女が、薄い絹のベールを身体に巻き付け、湖の木陰に息をひそめて立っている。彼女は、光に照らされて金色に輝く湖で、水浴をしていたが、何かの気配を感じ、急いで湖から上がり、木の幹に身を隠したところだった。目は緊張で揺らぎ大きく見開かれている。
(誰かいるの……?)
彼女の肩から背中には、大きな赤い斑点とまだら模様の染みが、濡れたベールの上から見える。だがよく見るとそれはベールの模様ではなく、彼女の身体に刻み込まれた酷い皮膚の色だと分かる。ところどころに黄色い膿が噴出したような傷がある。
震える彼女の口が開くと、どこからともなく音が響いてきた。鐘の鳴るような、金属的な音だ。繰り返し、繰り返し、同じ旋律が流れてくる。それは彼女が歌っているようにもみえたが、湖全体から聞こえてくるようにも感じる不思議な音だった。
湖の波は時が止まったかのように静止し、空に向かって飛び立とうとした数羽の水鳥たちは、透明な壁にぶつかったかのように、宙に跳ね飛ばされ、地に落ちた。鳥たちは驚いたように地面で羽ばたきを繰り返した。
しばらく彼女は木陰からその音を歌い続け、ふと口を閉じた。湖と反対側の木立から声がした。
「ディアナベス王女!」
木陰にいた少女はその声に一瞬怯えたような表情を見せた。
「そこにいるのはわかっています。出ていらっしゃい」
ディアナベス王女と呼ばれた若い娘はベールを体中に巻き付けたまま、木陰から姿を現した。
背が高く美しい金髪の髪を上に結い、ティアラをつけた彼女の母、ブルクミラン王妃がそこに立っていた。ディアナベス王女は重い足取りで母の前まで歩いて行った。王妃は真っ青な顔をして、自分のマントを、王女の濡れたベールの上から覆った。
「また〈歌〉を歌っていたのね? ディアナベス!」
王妃の目は涙で潤んでいた。
「誰かにあなたの姿を見られたらどうするつもりなのですか?」
「……ごめんなさい」
ディアナベスは力なくつぶやいた。地面で羽ばたきをしていた水鳥たちが、呪縛から解かれたように、湖の上に飛び立っていくのが見えた。
「音が鳴るのを聞いた時から、あなたが歌っているのだとすぐにわかったわ。まるで見えない壁でふさががれたように、歩くことができなかった。〈魔の音〉を歌うことは禁じたはずです。」
ディアナベスは黙って目を伏せた。王妃は、静かな目で娘を見つめた。
「今朝、ラドキシュ国のカプラン公爵から、ぜひあなたにお会いしたいと手紙を頂きました」
ディアナベスは、疑わしい目で母を見上げた。
「先月、収穫祭にいらした方ですか? 」
「そうよ。実は……婚姻の申し出でなのです。とても切実に貴女を想っていらっしゃるの」
ディアナベスは息苦しさを感じた。
「婚礼……?」ディアナベスは引きつったような笑みをつくった。
「……お母様は…本当に私が結婚できると思っていらっしゃるの? カプラン公爵は私の身体のことについてご存じなのですか? 」
王妃はびくりとと肩を震わせた。
「いいえ。」
「それでは公爵をだますようなものではありませんか? 自分の妃となる女性がこんな醜悪な身体を持っていると知らずに婚姻のお話を進めるなど、私にはできません」
ディアナベスはまっすぐに母の目を見て言った。
「ブルクミラン国とラドキシュ国の関係が悪くなります。カプラン公爵を傷つけたくもありません。お断りして下さい!」
ディアナベスはそれだけ言うと、王妃の前から走り去った。
「ディアナベス!」
声は王女を追いかけようとしたが、王妃の足は動かなかった。遠ざかってゆく王女の姿がぼやけて見えた。瞬きをすると美しい王妃の瞳からうっすらと涙がこぼれた。その時、後ろの方で草を踏む音が聞こえ、王妃は急いで涙をぬぐい、振り向いた。
「王妃よ」
「陛下」王妃はドレスの裾を上げて、自分の夫であるブルクミラン国王に挨拶をした。
「声がしたのでそのまま、聞いていた」と国王が言った。「カプラン公爵からの結婚の申し出を、そなたはどう思う? 」
「わたくしは……よいお話だと思います」王妃は目を伏せたまま答えた。
「本当にそう思うか。ディアナベスの身体のことは内密にできる問題ではない。いずれ明るみに出る。カプラン公爵に黙って婚姻の話をすすめれば、ディアナベスの言う通り、ラドキシュ国との外交関係には影響するかもしれない。」
「ディアナベスは生涯、結婚できない身ということですか? 」王妃が言った。
「あるいは、やむを得ないことではないか。」
「ブルクミラン王家の……陛下の血を継いでいくことは、王女としての務めです」王妃は夫であるブルクミラン国王に目を向けながら続けた。
「カプラン公爵がディアナベスを、是非にと言っているのです。病があることは伝えてあります。それでもと。他に断る理由が見つかりません。」
「皮膚病の話を知っているのか。」
「いいえ。身体の、特に背中が難病にかかっていることは伝えましたが。」
「ディアナベスの気に添わぬ結婚なら、進めることはない。たとえ一生独り身のままこの城にいても良いではないか。」国王は前を向いたまま言った。王妃は黙っていた。
「あの日を覚えているか?海辺で生まれたばかりのディアナベスを抱いて……」
「ええ、忘れたことはありません。」
「では……私たちの生きている間はディアナベスを守ろう。あの時、そう決めたように。」
王妃は黙ってじっと前を見つめた。国王は王妃の手を取った。そして優しく握った。王妃もその手を握り返した。二人は静かに言葉を交わさず、美しい静かな湖畔を連れだって歩いて行った。ふと王妃の足が止まった。
「どうしのだ? 」
王妃は目を伏せて立ちすくんでいる。顔は無表情だ。
「わたくしは……ディアナベスにひどい言葉を……まだ幼少の頃です。ディアナベスに……幼い王女に話したのです」王妃は唇をかんだ。やがて口を開いた。「〈呪われている〉と」
国王は驚いた眼で王妃を見た。
「取り返しのつかないことをしました。ディアナベスはきっと今でも覚えているでしょう」王妃は唇をかんだ。そして口を開いた。
「ディアナベスに王女としての教育をしてきました。王女としての務めを果たす娘として。これからどうするべきなのでしょう。あの病を持った自分の娘をどうしたら良いのか、わからないのです」王妃の目が潤んだ。
「それは私にもわからない。ディアナベスはもう小さな王女ではない。彼女が自分のするべきことを自分で決めるだろう。私たちはそれを支えるだけだ。ディアナベスは大事な私たちの娘だ。それは変わることはない」国王が言った。
「あの子が本当に〈魔の者〉なのではないかと、私はずっとそれを怖れながら生きてきました。自分の娘でありながら! 現にディアナベスは、音遊びを続けています。私はそれが〈魔の力〉ではないことを願わずにはいられません」王妃が悲しそうに言った。
「私たちの娘だ。〈魔の力〉を手にするはずはない。信じよう。これまでと同じように」国王は王妃の髪をなでた。
二人は湖のほとりの鮮やかな芝の上をゆっくりと歩きだした。低木の葉が太陽の光に照らされ白く光っている。湖は穏やかな銀色の鏡のようだ。
ブルクミラン国に伝わる、遠い昔の伝説がある。西方諸国がまだ今の十三の国に分かれる前、世界はまだ、混とんとしていた。
ブルクミラン国にひとりの王女が生まれた。生まれた赤ん坊は、身体に醜い皮膚病を患っていた。彼女は王家から隠され、塔の中に閉じ込められて育った。十年の歳月が経ち、王女は外の世界を願った。
彼女が叫ぶと、塔の扉が吹き飛び、外に出た彼女が手をかざすと、城は音を立てて崩れ落ちた。彼女が歌うと、世界は炎に包まれ、大勢の者が死んだ。誰も彼女を止めることはできなかった。
彼女は周りの国々を焼き尽くしながら歩み続け、ある日、魔の地、マンスフェルトの森に辿り着いた。森をくぐると、大地が大きく揺れ、マンスフェルトの森は大きな音を立てながら、王女をのみ込んだ。そして、世界は静けさを取り戻した。
それ以後、生き残ったブルクミラン王家の者は、幾代にもわたって、患いを持って生まれてきた赤子を、小さな舟に乗せて、大海へ流すことにしたという。
西方十三カ国の中央に位置する大国、チェルニア国は、一刻前まで雷雨が通り過ぎ、静かな夜を迎えていた。広く豪華な回廊を抜けた城の書斎の一室に、精悍(せいかん)な体格をした背の低い男が座っている。
彼はマールセン国王。この国を治めている野心家の男だ。マホガニー製の重厚な机の隣には、国王の右腕と呼ばれるヨハンセル将軍が姿勢を正して佇んでいる。国王よりも少し年上の軍師でもある。
そしてもう一人、首が曲がり、細長い顔をした奇妙な男が、部屋の隅に立っていた。
机の上には、たった今届いたばかりの、国王の密偵からの書簡がおいてあった。不穏な空気が部屋に満ちていた。
「君はここに書いてある話を信じるかね? ヨハンセル将軍」
マールセン国王は将軍の方へわずかに顔を傾けて尋ねた。将軍の目はじっと書簡に注がれている。
「歌うだけで人や物を操る力を持っている人間がいる? そんなことがあり得るのか? 」国王が書簡に片手を置いた。
ヨハンセル将軍が口を開いた。
「にわかには信じられないことですが、もし書簡にあるように、ブルクミラン国の第二王女ディアナベスがそのような〈力〉を持っているとするなら、見過ごすわけにはいかないでしょう。」
首の曲がった奇妙な男が薄気味の悪い声で笑い出した。
「何がおかしい? オミノス」マールセン国王が尋ねた。オミノスと呼ばれた男がマールセン国王の方へ、ひょこひょこと、歩み出た。
「〈我が主〉はお告げになった。国王様の全盛を。国王様の滅亡を。ブルクミラン国には秘密がある。何百年も繰り返し繰り返し、〈魔の力〉を持った赤子を海に流した。しかし〈魔の力〉を持った子が毎年生まれるわけじゃない。ディアナベス王女は、ようやく生まれた奇跡の娘。国王様が、奇跡の娘を手に入れれば世界を征服できる。世界は国王様のものになる。」
「〈我が主〉とはお前がマンスフェルトの森から持ち帰ったという、森の土のことか? 」マールセン国王が言った。
「そのとおり。マンスフェルトの森は、未来も過去も暴き出す。わたしは未来がみたかった。だからマンスフェルトの森へ行った。そして土をとった。その代償にわたしの首は曲がっちまったわけですが」オミノスはまた気味の悪い笑い声を立てた。
「私の滅亡と言ったな? どういう意味だ? 」
「〈我が主〉が告げただけ。わたしはそれを国王様にお伝えしているだけ」オミノスが言った。
「私は世界を征服することができるのか? 」マールセン国王が言った。
「道は二つにわかれている。滅亡か全盛か」オミノスが目を閉じた。
「もう少し話せ。オミノス」マールセン国王が言った。
しかしオミノスは静かに目を閉じたまま硬直している。ピクリとも身体は動かない。マールセン国王は諦めたように、ため息をついた。ヨハンセル将軍が口を開いた。
「歴史の書に、古のブルクミラン国についての記述があります。その昔、ブルクミラン国では何十年かに一度〈魔の力〉を宿した子が生まれたと。その印は醜い皮膚病を持っていた。ディアナベス王女が皮膚病を患っているかどうかは定かではありませんが……」
「皮膚病だと? 病と〈魔の力〉が関係しているというのか? 」マールセン国王が尋ねた。
「それはわかりません。しかしディアナベス王女は、なにがしかの難病を持っていることは密偵からの報告で、確かです。」
オミノスが突然動き出した。彼は目をかっと開き。口を開いた。ヨハンセル将軍はぎょっとしたようにオミノスに目をやった。
「〈魔の力〉を持つ奇跡の子どもたちは醜い体をしている。マンスフェルトの森が印をつけた。奇跡の子だとわかるように。〈我が主〉にはわかっている。ディアナベス王女は印を持っていると」そう言うとオミノスは薄笑いを浮かべたまま、宙をじっと見つめ、再び動かなくなった。マールセン国王とヨハンセル将軍は、オミノスがまた何か話すのではないかとじっと待っていたが、彼は人形になってしまったのように止まっている。
やがてヨハンセル将軍が話し出した。
「密偵の数を増やし、真偽がわかり次第、ブルクミラン国からディアナベス王女を奪い去るというのはいかがでしょう? もし王女らの力が本物であるならば、他の国よりも早く、我が国は手に入れるべきです。いつ国境で戦が始まるやもしれません。躊躇(ちゅうちょ)している余裕はないものと思います。」
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〈ディアナベス王女〉
彼はその文字を見つめながら口を開いた。
「よい。その策をとる。」
国王は目を上げて、書斎の窓の方を向いた。「雨が上がったようだな」しかし国王は心の中で別のことを考えていた。
〈道は二つにわかれている。滅亡か全盛か〉。オミノスの言葉を再び思い返していた。
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