YOCOHAMA-CITY

富田金太夫

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FURY-JUNK

FURY-JUNK 第三回 応導真塗《おうどうまさと》

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鬼怒芥きぬあくた邸西棟。周囲を取り囲む深い緑の森にはおよそ似つかわしくないバイオ・プラントが併設された和風建造物。その地下三階。有毒蒸気を吐き散らす配管や蒼白い光を運ぶ剥き出しのLANケーブルがジャングルのように入り組む廊下を踏み分け入った先にある厳重ロックの施された金属扉。
その中では照明を消した室内に蒼白く光る二十台のモニターそれぞれが令寺の戦闘記録映像を映し出している。
二十台が全て別々の映像を流すのをオフィスチェアに深々と座り無感情に眺める鬼怒芥家第七子、三男の摩聡まさと
小柄で華奢な体躯に不健康なほど白い肌、髪は肩まで伸び、その顔はおよそ成人男性とは思えないほどに童顔だ。
摩聡は時折人差し指と中指で顎を撫でる仕草をしながら二十通りの令寺の戦闘シーンを眺めている。
それらは同じ状況を別角度から撮ったモノだったり、天世戦のモノだったり、緊歌戦のモノだったり、令寺の所属する地下格闘技試合の記録映像だったりととにかく様々だった。
そして、全てのモニター内で戦闘が終了するやいなや摩聡はオフィスチェアをくるりと反転させ二十台のモニターに背を向けた。
「・・・これなら、令寺に勝てる」
そう呟き、未だ暗い室内で光を放つモニター郡に背を向け、隈のできた両目を揉みほぐしながらオフィスチェアの背もたれに一層深く寄りかかった。


「・・・令寺様」
早朝、令寺の部屋の郵便受けに入っていた郵便物の一つ、見るからに怪しい黒い封筒を眺めながら眉間にシワを寄せるキャロル。
「・・・どした?」
令寺は朝食のおにぎりを飲み下して尋ねる。
「摩聡様からです」
「摩聡?」
キャロルは黒封筒を令寺に差し出した。が、令寺は受け取らなかった。
「後でいい。今はおにぎり食ってる」

その日の昼過ぎ。
「令寺様ぁ」
昼食後、台所で食器を洗いながら令寺に呼び掛けるキャロル。
「あぁ?」
令寺は和室で寛ぎながら爪楊枝を咥えていた。
「摩聡様からの郵便、確認しましたぁ?」
「あとで見とくよ。とりあえず昼寝だ・・・」
令寺は爪楊枝をゴミ箱に投げ入れると、背後にたたんである布団に背中から倒れ込んだ。

その日の夜。
「令寺様ぁ」
夕食後、台所で食器を洗いながら令寺に呼び掛けるキャロル。
「ん?」
令寺はジャージに着替えスポーツドリンクを飲みながら応えた。
「摩聡様からの郵便物ですが」
「あぁ~・・・、あとで見とく」
令寺は気だるげに答えると玄関に座り込みランニングシューズを履いた。
「ちょっと走ってくる」
「わかりました。・・・あ!令寺様!私、これが済んだら帰りますので、鍵持ってってくださいね!」
「おう」
令寺は下駄箱の上の鍵を掴み取り、部屋を後にした。

翌朝・・・、を飛ばしてさらに翌日の夕方。
キャロルはいつも通り令寺の部屋の台所で夕食の支度をしていた。
「・・・あ!」
突如キャロルは和室で寛ぐ令寺の方へ振り返った。
「令寺様ぁ!」
「ん?」
「摩聡様からの郵便物ですが」
「あ」
令寺は立ち上がり、玄関に設置した郵便物を入れているカゴの中を漁った。
「・・・すっかり忘れてた」
令寺は封筒を開け、中から一枚の便箋と黒い正方形の厚紙を取り出した。黒い厚紙には赤い毛筆書きで『戦挙』とあり、その裏にはまた違う筆跡で『摩聡』と書かれている。
「・・・摩聡様の“戦挙券”ですね。あ、そう言えば緊歌様との決闘からもう一週間でしたね」
キャロルはふと壁に掛けられたカレンダーに目をやった。
「お手紙にはなんと?」
令寺に視線を戻す。令寺は眉間にシワを寄せてカレンダーの上に掛けられている時計を見た。
「・・・今日の七時、決闘だってよ」
キャロルも同じく時計を見た。
時刻は六時半を過ぎた所だ。
二人の間に流れる沈黙を破り、和室に置いてあった令寺の携帯端末とキャロルの懐の携帯端末が同時に鳴り響いた。
「もしもし?」
「はい、キャロルです」
令寺とキャロルは端末を取り着信に応答した。

〈令寺・・・、わかってると思うけど、今日の七時から決闘だよ?〉
令寺のもとへ摩聡本人から直々の連絡だった。
「お前、なんで俺の連絡先知ってんだよ?」
〈そんなことより、今どこ?〉
「今、家」
〈なんで・・・?“戦挙券”と日時の知らせは送ってあったはずだよ?〉
「今時手紙ってよぉ・・・。読んだのたった今だよバカ野郎。次からはメールとかにしろ」
〈“戦挙券”は実物を相手に送らなきゃいけないんだよ〉
「じゃ、直接渡しに来いよ、俺ん家知ってんだったらよ」
〈っていうか、そんなことはどうでもいいんだよ。早く来てくれないかな?もうみんな集まってるんだよ〉
「・・・ったく、わかったよ。今から行ってやるから待っとけ」
〈れい・・・〉
令寺は最後に摩聡が何かを言いかけたのを無視して少々苛立ち気味に端末を切った。

「はい・・・!申し訳ありません・・・!すぐに向かいますので・・・!えぇ・・・!はい・・・!それはもちろんです・・・!はい・・・!はい・・・!では、すぐに向かいます・・・!はい・・・!失礼します・・・!」
キャロルも通話を終え、溜め息を吐いた。そして令寺の方へ向き直る。
「・・・取り急ぎ準備しましょう」


鬼怒芥邸地下格技場控え室。
「すみません、私の管理ミスです。今後このようなことが無いよう努めます」
身支度を整える令寺の背後でキャロルは『ヨコハマ評議会・選挙管理委員会』の二十六木とどろきレイチェルに深々と頭を下げていた。
「いえ、こちらこそ監督不行き届きでした。今後は“戦挙券”の発動の際、側近のキャロル様にもご一報差し上げる形を取らせていただきます」
キャロルに頭を上げるよう促しつつ、自身も頭を下げようとするレイチェル。それを見てキャロルもまた頭を上げるよう促す。
その様を背中に感じ、しびれを切らした令寺が控え室内に広く響き渡る大きな舌打ちを一つ鳴らした。
「めんどくせぇなぁ。話はついたろ?ならもういいだろうが。俺はちゃんと来たし、まだ七時だって五分ぐらいしか過ぎてねぇ。話はこれで終わりだ。そうだろ?」
令寺が睨むとキャロルとレイチェルは居住まいを正し、二人同時に令寺に対してお辞儀した。
「失礼しました。令寺様、キャロル様。では、私は先に会場の方へ向かいますので、準備が整いましたらお出でください」
そう言ってレイチェルは控え室を後にした。
「ったく、お前もへこへこし過ぎなんだよ。俺らが全部悪いわけでもねぇのによ」
「そういう問題ではありません。『ヨコハマ評議会・選挙管理委員会』はどの組織にも属さない顧問機関・・・、いわば“ブレイド”の直属の方々なんです。彼女は大変話のわかる方でしたが、もし仮に機嫌を損ねれば令寺様の暫定ボスの座が剥奪されることもあり得るのですよ」
深刻そうな面持ちで令寺を睨み返すキャロル。
「・・・それはねぇよ」
「なぜ言い切れるのです?」
がそうはさせねぇからだよ」
テーピングを巻き終え感触を確認しながら答える令寺。
・・・?潤那様のことですか?」
「そうだ。『FURY-JUNK』は、その道三〇〇年のヤクザもんだ。“ヨコハマ最古”・・・なんて謳い文句を嬉々として掲げて名門ぶってる高慢ちきで排他的な血統主義者共だ。潤那はそんな組の台所を預かってる立場だぞ。対して俺は、そんな由緒ある家系図を土足で踏み荒らしてるわけだぜ。クソ親父亡き今、組の面子メンツを背負ってるのは他でも無ぇ、潤那だ。俺が遅刻して失格で不戦勝?そんなダセェ勝ち方、評議会ってのが許したってあの女が許すわけねぇ。潤那は是が非でも俺をぶち殺して勝ちてぇはずだ。一時間や二時間の遅刻・・・、なんなら今日一日バックレてもあの女は俺の失格なんか認めねぇよ」
言い終えると令寺は会場へ向かうドアへと歩き出した。
キャロルはしばし黙り込んでいたが、すぐに令寺の後を追った。
「あっ!令寺様!これを!」
カバンから薬剤ボトルを取り出し、“変異細胞エコウ・セル”混入の赤い錠剤を一粒差し出す。
「おう」
令寺はそれを受け取るやいなや口に放り入れて飲み込んだ。
「それから令寺様、こちらもどうぞ」
キャロルが取り出したのは赤と黒の見るからに怪しいカプセル剤。
「・・・なんだよ、それ?」
当然の如く訝しむ令寺。
「こちらは“サングイシンゼロツーやく”です。詳細を説明するには時間がごさいませんので、かいつまんで申し上げますと、これを飲み込むとおよそ五秒後に全身から血を噴き出し約二十秒で死に至ります。いわゆる毒薬です」
「・・・・・・あっ、そうか」
令寺は一瞬顔をしかめたが、すぐにそのカプセル剤の役割を理解しキャロルから受け取った。
「じゃ、行ってくる」
「はい」
令寺はドアを開いて会場へ向かう。
「あ、最後に令寺様!」
「ん?」
「ワタシ、摩聡様からの郵便物が“戦挙券”だろうなぁ、って思ってましたし、そのこと今日までちゃんと憶えてましたし、今日が“戦挙券”解禁日なのもわかってました」
けろっとした笑顔で言い放つキャロル。
ドアが閉まる間際、令寺は額に青筋を浮き立たせてキャロルを睨んだ。
「テメェ・・・」
その一言を残し、金属扉は重く鈍い音を響かせて閉じた。



会場内はブーイングの嵐だった。
主に令寺の遅刻を避難するものだ。
試合開始の午後七時を既に八分過ぎている。
とっくに会場入りを済ませていた摩聡は着流しの黒い浴衣姿で佇んでいた。その表情には少しだけ苛立ちの色が表れている。
「遅刻だよ、令寺」
「うるせぇ・・・・・・」
令寺は摩聡に対し罵声を込めた弁解を述べようと思ったが口を閉じた。それすらもしたくなくなるほどに頭に血が昇っていた。

摩聡からのややこしい“戦挙券”通達。
客席から自分へ向けられる大ブーイング。
この事態を招いた元凶キャロル。

令寺はカプセル剤を飲み込んだ。
同時にレイチェルが手を振り下ろす。

「始めっ!!!」

摩聡は浴衣の帯を解いて脱ぎ捨てた。浴衣の下には何も着ておらず、一糸纏わぬ摩聡は胸元の円形装置“核融業炉カルマ・コア”をタップした。
摩聡の体は球状の光に包まれ、光球が弾けると中から体長およそ6mはあろうかという六本脚の巨大なトカゲのような怪物が姿を現した。
〈・・・これが僕の“変異細胞活性形態パラ・アヴァターラ”、アヴァターラ・マホーラガ:ダイダロス・・・。お前が遅刻した分、勝負は早めに決着ケリを着けよう。僕には天世や緊歌姉さんみたいに遊ぶ趣味は無いからね!〉
摩聡ダイダロスが令寺の方を見ると、“令寺”も既に変身を終えていた。
〈・・・・・・あれ?〉
摩聡ダイダロスがそうこぼした時には既に“令寺”は踏み込んでいた。摩聡ダイダロスの頭部の下に潜り込み、壮烈なアッパーカットを打ち上げる。
摩聡ダイダロスは海面から飛び上がった鯨のように海老反り宙を舞い、折れた牙と血が飛び散る。
“令寺”は即座に摩聡ダイダロスの落下地点へと回り込んだ。落ちて来た巨体の脚二本を巻き込んで土手っ腹に凄まじい右ストレートが入る。
地面スレスレを掠めながら吹き飛ぶ摩聡ダイダロス。身体の各所を覆っていた硬質外皮“剛万鎧殻ゴウマ・シェル
が砕けて破片が散乱した。地面に無様に叩き付けられリングぎわギリギリの所でなんとか踏みとどまった。
しかし、もう既に信じられないほどに満身創痍だ。
(なんでだよ!?令寺はすぐには変身できないはずじゃなかったのか!?計算外だ!予想してたのとと全然違う!たった二発食らっただけでこのダメージ!?あり得ない!ってかダメージ酷すぎてこれじゃもう“赤毫光線ウルナ・レイてないぞ!?脚が二本折れてる!素早く動くこともジャンプもできない!つまり・・・)
摩聡ダイダロスは力無く首をもたげてこちらへ猛スピードで走ってくる“令寺”の姿をを捉えた。
(逃げられない・・・)
“令寺”はリングぎわに横たわる摩聡ダイダロスの無防備な腹に渾身の右ストレートを打ち込んだ。
摩聡ダイダロスは腹部から破裂し真っ二つになってリング下へと落ちた。
下半身はドロドロと溶けて赤黒い血溜まりとなった直後に蒸発し、上半身の方は見る見る内に縮んで全裸の摩聡へと変貌した。摩聡は無様に気絶している。
リング上では同じく赤黒く溶けながら元の姿に変貌した令寺がコンクリートの上に倒れ込んだ。
開始からわずか28秒、勝負は早めに決着ケリが着いた。
騒然とする観客席、言葉を失う鬼怒芥家、呆気に取られるキャロル。
レイチェルも一瞬呆気に取られていたが、すぐに持ち直し右手を挙げて振り下ろした。

「・・・勝負あり!」



地下格技場救護室。
堅いベッドに横たわる令寺とそのベッドの横でリンゴを剥くキャロル。
「あっという間でしたね」
うさぎ方に飾り切りしたリンゴをベッド脇のサイドテーブルに置かれた皿に盛り付けながら呟くキャロル。
「・・・あぁ、まぁな」
令寺は盛り付け途中のリンゴを一つ摘まみ上げ、つまらなそうにうさぎ方リンゴを頭からかじった。
「サングイシンを使っての速攻変身は大成功でしたね」
「そうだな。でもアレすげぇいてぇぜ」
「それはもう、本来暗殺用のお薬ですから」
「うまくいかなかったらどうする気だったんだよ?」
「うまくいかせるために、丸2日かけて令寺様が怒るように仕込んでおいたのではありませんか。そもそも、いずれにしても変身できなければ死んでしまうことに変わりはないのですから」
「・・・それもそうだな」
令寺は一つ目のリンゴを平らげ、二つ目を手に取った。
「ふむぅ・・・」
キャロルは果物ナイフをサイドテーブルに置いて布巾フキンで手を拭いながらリンゴをかじる令寺の顔をまじまじと見詰め出した。
「感情起伏の抑制と食欲の増進が見られますね。前回もワタシが種明かしをした後の反応を見るに令寺様にしては怒りボルテージがだいぶ低かったように思いますし、自宅搬送されてからもいつもよりたくさんご飯をおかわりされていました。加えていくらか倦怠感が表れているようにも見えます。ただ、今回は前回ほど強い倦怠感に襲われているわけではなさそうですね。やはり稼働時間の差異が理由でしょうか?」
「おい」
令寺の身体を舐めるように眺めるキャロルに令寺は低く唸るように呼び掛けた。
「あとにしろよそういうの。聞いてるだけでどっと疲れがこみ上げて来る」
「失礼しました」
前のめりになっていたキャロルは背筋をピンと伸ばして居住まいを正した。
「とりあえず、今回わかったことを総括しますと、変身後の令寺様はとてもお腹が空いていて、尚且なおかつあんまり怒らない、ということですね!」
嬉そうに人差し指を立てて見せるキャロル。
令寺は興味無さげに横目でキャロルを一瞥してから三つ目のリンゴに手を伸ばした。
その時、救護室のドアが凄まじい破壊音とともに吹き飛んだ。
吹き飛んだドアは真っ直ぐに飛び、壁に激突して跳ね返り令寺の隣のベッドに横たわった。
「うわぁっ!!?」
「・・・ちっ」
思わず飛び上がるキャロルと一瞬だけ肩を震わせ舌打ちする令寺。
アルミのひしゃげた開口部をくぐって2m超えの大男が二人の前に姿を現した。
「邪魔するぞ」
鬼怒芥家第五子、次男の乾悟けんごが完全に気を抜いていた令寺とキャロルを睨み下ろしている。
「乾悟様!?」
キャロルはすぐさま立ち上がり、両手を太股に当てて一礼した。
「よぉ、令寺。調子はどうだ?」
キャロルの挨拶を無視して尋ねる乾悟。
「おぉ、乾悟。腹は減ってるし体はだりぃしちょっと眠いかな。あとお前のつら見たせいで気分まで悪くなってきた」
令寺は三つ目のリンゴをかじりながら答えた。
「そうか。なら肉を食え。血と体力が足りねぇなら食物繊維よりたんぱく質を摂れ。脳味噌が働いてねぇならとうもだ。兄貴から弟へのアドバイスだ、ありがたく受け取れ」
首を一切傾けず、目だけで令寺を見下ろす乾悟。
「自分で言ってて反吐が出ねぇか?どの口が俺の兄貴だなんてほざきやがる」
令寺は三つ目のリンゴをあっという間に平らげると、首を横たえたまま乾悟同様目だけで見下ろす姿勢を取った。
「そう突っ掛かるな。今日は詫びに来てやったんだ」
「へぇ、案外礼儀正しいじゃねぇか。ドアのノックの仕方以外は百点満点だぜ。そこだけどうにかすりゃどこにでも嫁に行けるぞ」
令寺は隣のベッドに横たわっているひしゃげたドアを親指で指し示した。
「・・・摩聡との決闘は時間の無駄だったろ」
令寺の皮肉を無視する乾悟。
「あそこまで弱いとは俺も予想外だった。聞いたが、急な呼び出しだったそうじゃねぇか。それに応えて来てみりゃあのザマだもんな。観てるこっちが情けなかったぜ」 
「そう言ってやるなよ、二発までは耐えてた。あのヒョロチビにしちゃあ大健闘だろ」
「明日、俺と勝負しろ」
令寺に対して食い気味に言い放つ乾悟。
キャロルは無言で乾悟の顔を凝視した。
「恐れながら乾悟様、『選挙管理委員会』の定める所によると、一度“戦挙券”が発動されると次に解禁されるまで・・・」
「お前は黙ってろ」
一切キャロルの方を見ることなく低く唸る乾悟。
キャロルは生唾を飲み込んで押し黙った。
令寺はと言うと気だるげに身を揺すり、右腕を頭の下に敷いてしっかりと乾悟を見据えた。
「本気で言ってんのか?」
「もちろん本気だ。明日、同じ時間に俺と勝負しろ。今度は遅れるな」
令寺は右腕を頭の下から抜いて腹の上に置き目を閉じた。
「・・・やだ」
「なに?」
乾悟の眉間のシワが深まった。
「お前の態度が気に入らねぇ」
「なんだと?」
「人にものを頼む態度じゃねぇだろ」
「・・・どういうことか言ってみろ」
ここで初めて乾悟は令寺の方へ首を傾けた。
「あのよぉ・・・」
救護室のベッドに寝そべる自分を見下ろす二メートル超えの大男を前に令寺はふてぶてしく溜め息を吐いた。
「俺は言っちまえばディフェンディング・チャンピオン。で、お前らはチャレンジャーなわけだ。運営の取り決めを破ってまで挑戦を受けて欲しいってんならそれ相応の態度ってもんがあんだろうが。当然のことだろ」
令寺が涼しい顔で淡々と語る中、乾悟は徐々に眉間のシワを深めて行き、その様を見たキャロルは額にぬるい汗を滲ませる。
「普通のボクシングの試合なら・・・、そうだな、チャンピオン側のホームで戦う、とか、まぁこれは常識だけど。あと、ファイトマネーを吊り上げるってのもある。でもまぁ、俺ら兄弟同士なわけだしな、俺としても金を巻き上げるってのは心苦しい。ここは一つマケにマケてお前が頭下げて俺に頼み込むってんなら考えてやるよ。それが嫌ならルールに従え・・・」
言いながら令寺は四つ目のリンゴに手を伸ばした。
瞬間、乾悟はリンゴの皿が乗ったサイドテーブルを蹴り砕いた。
令寺は伸ばした手で飛び散る木片を防ぎ、キャロルは小さく悲鳴を漏らしながら咄嗟に両手で顔を覆った。少し遅れて皿が床に落ちて割れ、リンゴが辺りに散乱した。
「・・・食い物を粗末にすんじゃねぇよ」
令寺は髪に着いた木片を払いながら乾悟を睨んだ。
当の乾悟は強い怒りをあらわに令寺を睨み付け、大きく舌打ちをしてから足早に救護室から出て行った。
乾悟が去ってしばらくしてから呆気に取られていたキャロルがハッとして令寺の方へ振り返る。
「令寺様お怪我は・・・!?」
ベッドに飛び付き木片を払いながら令寺の無事を確かめるキャロル。
「無い」
令寺は短く返事をしてふてぶてしく両手を頭の下に敷いた。
「・・・乾悟様は御兄弟様の中で最もプライドの高い方です。あんな風に煽っては怒らせてしまうのは当然ですよ」
床に散らかるリンゴや皿の破片を片付け始めるキャロル。
「それに、令寺様でも評議会の定めたルールは変更できません。乾悟様が本当に頭を下げて頼んできたらどうするおつもりだったのですか?」
「あいつは絶対下げねぇよ。お前も言った通りあいつはプライドが馬鹿みたいに高ぇ。俺に頭を下げるなんて絶対しねぇ。かと言っておとなしくルールに従うってのもあいつにとってはかなりムカつくハズだ。あいつは一週間、そのイライラを抱えて過ごせばいい」
言って令寺は大あくびをかいた。
「今日はとりあえずもうちょい休んでから帰って寝る。先週ほど疲れてねぇけど、それでも・・・、まぁ、疲れたことに違いねぇ」
令寺はモソモソと寝返りを打ちキャロルに背中を向けた。
「・・・では、私は自宅搬送の準備をして参ります」
キャロルは皿の破片やサイドテーブルの残骸を部屋の隅に寄せ、リンゴをゴミ箱に捨ててから令寺に一礼してからひしゃげたアルミ開口をくぐって救護室を後にした。


令寺と摩聡の決闘から一夜が明けた。

鬼怒芥邸、百重の塔、無間むげん
長兄阿提とその妻鮮花、そして鬼怒芥兄弟の母潤那が上段の間にし、その真向かい、敷き詰められた百畳の黒畳には長女那苗、次女迦嵐、次男乾悟の三人が座っている。
「・・・摩聡まーちゃん達は?」
迦嵐がわざとらしくキョロキョロと無間の間を見渡した。
「いねぇよ、あの間抜けどもは・・・。見てわからねぇか、馬鹿が・・・」
苛立ちを顕に低く唸るような声で答える乾悟。
「あーっ!!!ねぇ!ママ!ケンゴがバカって言ったぁ!!アタシの方が二歳も年上なんだよ!?」
「やめな、迦嵐」
乾悟を指差し訴える迦嵐の襟首を那苗が掴み上げて姿勢を直させる。
「だぁってぇ・・・、ケンゴがぁ・・・」
迦嵐は拗ねたように口を尖らせて身を揺すった。
そして、その迦嵐の言葉を最後に、無間の間に冷たい沈黙が流れ始めた。
迦嵐は拗ねて下を向き、那苗は涼しい顔で目を瞑り、乾悟は苛立ちを誇示するかのように荒い息を吐き、潤那はそんな三人の子供達を無表情で見下ろし、鮮花は額と背中に脂汗を滲ませてそんな鬼怒芥家の人間達の顔色を窺っている。

「・・・なぁ、乾悟」

沈黙を破ったのは鬼怒芥家第一子にして長男の阿提だった。
「なんだよ?兄貴」
眉間を吊り上げ兄の言葉を促す乾悟。
「次ぃ、お前やるんだろ?」
「・・・・・・おう」
「そっか。じゃあ、まぁ、頑張れよ」
「・・・おう」
「じゃ、俺、戻るわ。行こうぜ鮮花」
そう言っておもむろに立ち上がる阿提。
「えっ!?あっ!ちょっ!」
鮮花は驚き膝を床に軽く打ち付けつつも立ち上がって阿提の後に続いた。
ズカズカと潤那の目の前を横切る阿提。鮮花は足早に潤那の背後を通り、すぐに阿提の後ろに付き従って上段の間を降りていく。
そのまま阿提はゆったりとした足取りで兄弟達の横を過ぎ、百畳間を抜けて襖戸を開き無間の間を出て行った。鮮花は最後に上段の間に座る潤那とその正面に座る鬼怒芥兄弟達に一礼し、静かに襖を閉めた。

百重の塔の廊下をゆったりと歩く阿提と早足気味に横を歩く鮮花。
「っはぁ~・・・!やっぱり私、あの集会馴れませんよぉ・・・」
深く息を吐いて背中を丸める鮮花。
「だよなぁ~・・・。いらねぇよなぁ、あの集まり。天世も緊歌も摩聡も夜凪も来てねぇし。どうせ次に名乗り上げんのは乾悟だってみんなわかってんだから意味無ぇよなぁ」
阿提はあくびをしながらへらへらと笑う。
「もう次から俺も出なくていいかなぁ?」
「ダメですよ!阿提さんは仮にも総領息子なんですから!家族集会には一応出ないと!それに阿提さんいなかったらたぶん私ストレスで血反吐ちへど吐きますよ・・・!」
「鮮花も出なくていんじゃね?」
「ダメですよっ!!」
「ってか今そもそも令寺が暫定ボスじゃん?それ俺もう総領息子って言わなくねぇ?」
「言わないにしても長男であることに変わりないんですから、責任ある立場なのは一緒ですよ」
妻に諭され軽く溜め息を吐く阿提。
「鮮花は真面目ちゃんだなぁ・・・」
「真面目にやってないと殺されかねないじゃないですか」
眉間にシワを寄せて額に汗を滲ませる鮮花。
「大丈夫だろぉ。俺の女房なんだし」
「お義母様なら直接手を下さなくとも私を殺せますよ・・・。あの眼光で一分も睨まれれば私の胃は焼け爛れて口から胃酸が溢れ、脳味噌が耳から溶け出し、鼻血を噴いて失禁します・・・」
鮮花は至極真面目に淡々と語り額には大量の汗粒を滲ませている。
「うぅわぁ・・・、見たくねぇな、それぇ・・・」
阿提は依然としてヘラヘラしている。
「そう思うならフォローしてくださいよ・・・」
「だから今日は早めに切り上げたろ?」
肩を落として溜め息を吐く鮮花の背中を軽く叩いて笑う阿提。
「・・・乾悟くんは勝てますかね?」
鮮花はもう一つ小さく溜め息を吐いた。
「いやぁ、無理じゃねぇかなぁ」
「えっ!?」
立ち止まり、阿提の顔を凝視する鮮花。
「なんで止めなかったんですか!?」
「なんで止めるんだよ?」
阿提も立ち止まり振り返った。
「勝てないと思うなら止めるべきなんじゃ・・・」
「乾悟は勝てないと思ってない。本人に自信があるならやってみるべきだな」
阿提はにこりと笑って鮮花に背を向けてまた歩き始めた。鮮花もその後を追うように歩き出す。
「乾悟はな、令寺の件はお袋と同じぐらい納得してないんだ。そもそも乾悟のヤツは親父が死ぬ前から、“阿提おれが後継者”だって周りが言うのにもまるで納得してなかったからなぁ」
「え、そうなんですか・・・?」
「あぁ。あいつは『FURY-JUNK』のボスには自分が相応しいと考えてる。長男だっていうだけの俺や愛人の息子の令寺なんかより、ってな。だから今回の騒動は乾悟にとってある意味都合がよかったのかもなぁ。たぶんあいつ、俺が跡目に選ばれてても挑戦状叩き付けて来たと思うぜ」
「そんな意気込みがあるなら、なんで乾悟くんは初戦で名乗りを上げなかったんですか?」
「天世や緊歌や摩聡じゃ、令寺に勝てねぇとわかってたからだろ」
「じゃあ、このタイミングで名乗りを上げたってことは迦嵐ちゃんや夜凪ちゃんなら勝てちゃうと思ってるってことですかね?」
「いやぁ、迦嵐達の戦いを見るのは時間の無駄だと思ってるんじゃねぇか?乾悟は迦嵐や夜凪のことをとことん見下してるからなぁ。ははっ、しょうがねぇやつだよ、まったく」
「・・・・・・なんでそんなに兄弟仲悪いんですか?」
鮮花は怪訝そうな面持ちで阿提の顔を覗き込んだ。
「いや・・・、仲が悪いわけじゃ・・・、あぁ、いや、でも、まぁ、そうだな。良いとも言えないか」
阿提は腕を組み目を細めて首を巡らせた。
「昔はこんなギスギスしちゃいなかったんだけどなぁ・・・。いつからだろうなぁ。・・・あ~、いや、あれだ・・・、みんな大きくなるに連れてギスギスしてったんだった。もとから仲悪いわうちの兄弟」
「え~、なんか昔は仲良かったのに何らかの事件がキッカケで不仲になっちゃった的な鬼怒芥ヒストリー期待してたのにぃ・・・」
「そういうのぇわ、特に」
鮮花はガッカリしたように肩を落とし、阿提はヘラヘラと笑い、くだらない話をしながら長大な廊下を進んで行った。



令寺と摩聡の決闘から二日後。

19時過ぎ。
夕食を終えた令寺は和室で寛ぎ、キャロルは片付けをしている。
「令寺様、この後のご予定などどのような感じですか?」
キャロルは食器を洗いながら少しだけ振り返って令寺を見た。
「これからちょっとトレーニング行って来る」
令寺は咥えた爪楊枝をプラプラと振りながら答えた。
「トレーニング、ですか?これからですか?」
「おう。次あたり乾悟が出て来そうだからな。備えとかねぇと」
「・・・乾悟様を警戒なされてるんですね」
「まぁ、一回負けてるからな」
「そうなんですか?」
「おう」
令寺は爪楊枝をゴミ箱に投げ入れた。
「二年前、俺が鬼怒芥の家に住んでた時。緊歌と天世の嫌がらせに腹立って天世を殴ったら乾悟の奴が割って入って来やがって、タイマン張って、負けた」
令寺は眉間のシワを徐々に深めながら端的に語った。
「そうだったんだですか。ワタシ、二年前は仕事の都合でしばし組織を空けていたので、令寺様が御家に居られた時のことは存じておりませんでした。あ、ちなみに、その時の大仕事の功績が認められて私『鬼門会』入りしたんですよ!すごくないですか!?最年少鬼門会員ですよワタシ!」
キャロルは食器を洗い終えエプロンで手を拭きながら自慢気に語つつ令寺の横へ来て正座した。
「ワタシもご一緒しても?」
「は?」
「トレーニングですよ!ワタシも是非拝見したいです!」
「・・・好きにしろよ。でも邪魔だけはすんなよ」
「はい!では、支度をして参ります!少々お待ちを!」
キャロルは素早く立ち上がり令寺の部屋を出て行った。




ヨコハマ・シティ、ノースポートバラ
ツヅキバラと隣接していて、ポートと名が付いているが内陸の街だ。
そして、情勢的にはヨコハマ最強『SMILE-PUNK』の縄張りとなる。

令寺とキャロルは“ニューヨコハマ・ステーション”に程近い通りを並んで歩いている。
令寺は普段通り黒地に赤いラインの入ったジャージの上下というラフな格好。キャロルはいつものスーツではなく白いブラウスにベージュのロングスカートと淡いピンクのカーディガンを羽織った清楚な印象を受ける服装だ。
落ち着いた雰囲気の格好とは裏腹にキャロルの表情はひきつっていた。

「・・・令寺様」
「あん?」
「ここは、その・・・、ノースポートバラですよ」
「おう」
「いえ、「おう」ではなく・・・」
キャロルは項垂れながら額に手をあてた後、ひそひそ話をするように口元に手をあてがった。
「ここは『SMILE-PUNK』の縄張りですよ・・・!」
「おう。で?」
「「で?」って・・・」
キャロルは再び額に手をあてた。
「『FURY-JUNK』の暫定ボスと鬼門会員が出歩くのは幾分問題があるかと・・・」
「なんでだよ?」
「あの・・・ですね。令寺様には難しい話かもしれませんが・・・、“四大組織”は表向きでは『評議会』を介して均衡を保ってはいるのですが、裏ではバチバチに敵対視し合っているのですよ。互いの縄張りは勿論不可侵。破ればどんな罰則ペナルティを受けることか・・・」
「別にここでわりぃことしようってんじゃねんだからいいだろ。それに俺はまだボスなんだろ?かまやしねぇだろうが」
「暫定だから余計に問題なのです・・・!不可侵条約を脅かす行為として『評議会』から糾弾されれば、最悪暫定ボスの座を剥奪される可能性すらあるのですよ・・・!」
キャロルは小声ながらも必死な語調で訴えた。
「あのなぁ、ただでさえ『FURY-JUNK』の縄張りはせめぇんだぞ。そんなこと言ってたら何処どこにも行けねぇし何もできねぇじゃねぇじゃねぇか」
令寺は苛立ち溜め息を吐きながら首筋を擦った。
「・・・トレーニング施設ならツヅキやアオバにもございます」
「ここじゃなきゃダメなんだよ」
言って令寺はとあるビルの前で立ち止まった。
ビルは六階建て。一階から四階までが格闘技ジムになっている。
キャロルはジムの看板を見てさらに顔を曇らせた。
看板には『ロード・オブ・スマイル・ジム』と書かれている。
「令寺様、ここは明らかに・・・」
言いかけたキャロルをよそに、令寺は既にビルの自動ドアを潜っていた。
「あ!ちょっ・・・!令寺様!」
キャロルはすぐにその後を追った。
自動ドアを潜るとそこは、清潔感のあるエントランス。欧米系の美女と南米系の美女が受付に着き、入ってきた令寺とキャロルに笑顔を向けている。
受付嬢達の背後はガラス張り。そのガラスの向こうでは体育館ほどの広さに四つの格闘リングが並べられ、リングの外にはサンドバッグや筋トレ器具などが揃っている。
「「いらっしゃいませ。会員証はお持ちですか?」」
二人の受付嬢はピッタリと揃った声で令寺達に呼び掛ける。
令寺は無言でポケットから会員証を取り出し、片方の受付嬢に手渡した。
「・・・はい。確認いたしました」
「失礼ですが、そちらの方は?」
もう一人の受付嬢が手でキャロルを指し示した。
「ツレっす」
令寺はキャロルを一瞥した。
「「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」」
受付嬢二人はまったく同時にお辞儀した。
令寺はそのまま受付の横にあるエレベーターに乗り込み、キャロルもその後に続いた。
「・・・令寺様、ここは明らかに『SMILE-PUNK』所有、もしくはそれに連なる施設です」
「だから?」
「ここは敵地の真っ只中と言うことに・・・」
「着いたぞ」
令寺はキャロルが忠告しようとするのを無視してエレベーターを降りた。
カーペットの敷き詰められた薄明かるい廊下を進む令寺とその三歩後ろを歩くキャロル。
廊下の突き当たりには『GOLD CLASS』と彫られたプレートの金属扉。令寺はおもむろに金属扉を開いて中へ入った。キャロルもその後に続く。
扉の向こうは小さな個人ジムのような空間だった。
広さは三十平米ほど。リングが一つとトレーニング器具が一通り。
室内にいる人数も数えるほどしかいない。
身長、体格共に令寺に勝る白人の大男。身体中にビッシリとタトゥーを入れたドレッドヘアの黒人の青年。これまたタトゥーだらけで身長は二メートルを優に超えるアフロヘアの黒人男。他の面々に比べて遥かに小柄な白人の少年。それらに指導をしている様子の壮年の白人男。その他にトレーニングではなく明らかに見学に来ているだけの様子の女が二人。
リング上では小柄な少年とドレッドヘアの青年がスパーリングの最中らしく、壮年の男が二人にアドバイスを与え、アフロ男と大男はセコンドに付いている。
白人少年のサマーソルトキックがドレッドヘアの顎を蹴り抜いた瞬間、空中で回転中の少年が入口付近に佇む令寺達に気づいた。
「おっ!」
少年は二、三歩跳ねながら着地し、リング際に駆け寄った。
「よぉ!令寺じゃん!ハッハー!久しぶりー!」
「おう」
令寺は人懐っこい笑顔で手を振ってくる少年に手を振り返した。
「痛ってぇぇ・・・。今の効いたぞK.J。よう令寺」
ドレッドヘアも顎を擦りながらリング際へ寄ってきた。
「令寺が来るなんて珍しいな」
白人大男はリングサイドから降りて令寺の所へやって来た。
「おっとぉ?こちらのお嬢さんはどちら様だぁ?彼女か?」
アフロ男はニヤニヤと笑いながらキャロルの顔を覗き込んだ。
キャロルは少し後退り、室内にいる人間の顔を見て生唾を飲んだ。
「やぁ、令寺くん、久しぶり」
指導していた壮年男が気さくに笑いかけ手を振りながらやって来た。
「・・・と、キミは、キャロライン・サーベラスだね。これはこれは」
壮年男はキャロルの顔を見るなり恭しくお辞儀し、キャロルの手をとって手の甲に軽くキスをした。
「『鬼門会』の方がいらっしゃると分かっていればきちんと準備をしたんだが、なにぶん急なことだ。大したおもてなしもできないが勘弁してください」
男はあくまで物腰の柔らかい紳士的な応対をしている。
しかしキャロルの方は気が気ではない様子で動きもぎこちない。
「いえ、その・・・、お気になさらず」
キャロルは一歩退いて深々とお辞儀をした。
令寺はそんなキャロルの様子を見て片眉をつり上げた。
「なにそんなにビビってんだ?」
キャロルは顔を上げながら険しい面持ちで令寺を見詰めた。
「令寺様・・・、この方々が何者なのかご存知ないのですか・・・!?」
「キャスさんはこのジムのオーナーで俺のトレーナーみたいなことやってくれてる人だ」
令寺は壮年男を指し示した。
「マッドさんはここの先輩、その弟のダリーは俺とほぼ同期。全然敬語使わねぇけどキッドとヴィックは少し後輩だ。あそこにいる姉ちゃん二人はマッドさんの連れだ」
さらに令寺はアフロ男、ドレッド男、小柄な少年、白人大男、見学の女二人の順に指し示した。
「そうではなく・・・!」
キャロルは言いかけて閉口し、“キャス”の方を見た。“キャス”はキャロルにとても冷たい視線を向けながらも口の端に不敵な笑みを湛えていた。キャロルはその表情を見て再度生唾を飲み、額に汗を滲ませた。
そんなキャロルの様子を見た〝キャス〟はすぐに表情を緩めて気さくな笑顔に切り替えた。
「あ、いや失礼。プレッシャーをかけたつもりはなかったんだけど・・・。本当はキミには自己紹介は必要無いだろうが、礼儀と、緊張をほぐす意味でこの際ちゃんとやっておこうかな」
そう言って一つ咳払いをして〝キャス〟は自分の胸に手を当てた。
「僕はキャスパール・デュー・スマイリー。このジムのオーナーだ。よろしく」
キャスパールはキャロルにもう一度紳士的に笑いかけてから後ろに控える面々を指し示した。
「今しがた令寺君から軽く紹介があったが、あちらのアフロヘアがグルーヴィーな彼がマッド君。ドレッドヘアがドープな彼がダリー君。二人は兄弟で、昔僕が働いていた先の同僚の息子さん方だ。小柄で笑顔がチャーミングな彼はキッド。僕の甥っ子だ。強面コワモテでマッシブな彼がヴィック君。キッドの幼馴染みで二人は親友同士だ。彼らは『ロード・オブ・スマイル・ジム』の“ゴールド・クラス”、いわゆるVIP待遇だ。無論、令寺君もね」
キャスパールはキャロルの方へ向き直りあくまで紳士的に小首を傾げた。
「キャロライン嬢は・・・、今日は見学かな?」
「えぇ・・・はい。・・・もとい、令寺様の付き添いです」
「なるほど。暫定ボスともなると鬼門会員が付き添いになるんだね。さすがの厚待遇だ。いいよ、是非見て行ってくれ」
キャスパールはキャロルに背を向け、リングの方へ向かった。
「さ、続きをしようか。さっきキッドが決めたからダリーくんはマッドくんと交替」


ロッカールーム。
令寺が身支度をし、キャロルがすぐ近くのベンチに座っている。
「・・・お前、普通に入って来てるけどここ男子更衣室だぞ」
「そんなことより令寺様・・・」
キャロルは立ち上がりながら溜め息を吐いた。
「あの方達のことをどこまでご存知で?」
「どこまで・・・、って?趣味とか好物とかか?好きな漫画とか音楽の話ならよくするけど・・・」
「“キャスパール・デュー・スマイリー”は元『SMILE-PUNK』最高幹部です」
キャロルが令寺の言葉を遮った。
「現在は独立・・・もとい、フランチャイズのような形で『SMILEスマイル・-WARSウォーズ』という傭兵集団を組織、運営しています。つまり現役の『SMILE-PUNK』上層構成員です」
「そうか」
令寺は相槌を打ちながら淡々と着替えを続ける。
「あのマッドとダリーという兄弟は、兄のほうが“マデリアス・ベンジャミン・ジョーンズ”。彼も元『SMILE-PUNK』幹部。同じく現在独立し“マハーカーラ・ランドフィル”で『MADマッド・-ZUNKザンク』という組織を作り〝新四大組織〟と呼ばれる勢力の一角を担っています」
「ふぅん」
着替えを終えた令寺はテーピングを巻き始めた。
「弟の“ダライアス・ベンジャミン・アシアー”は『SMILE-PUNK』のお膝元セントラルバラで最も巨大な不良集団フードラム・チーム『SMILE-FUCKERS』に所属しており、彼ら兄弟の父親は誰あろう現『SMILE-PUNK』最高幹部筆頭の“ブギーマン”です」
「へぇ」
「ヴィックというあの青年。彼は“ヴィクトール・マクシモヴィッチ・ブラギンスキー”。父親は元『SMILE-PUNK』幹部“ニトロ・ラッシュ”、母親は元『FUNNY-FUNK』幹部の“ファイアー・ストーム”。彼も『SMILE-FUCKERS』のメンバーです」
「すげーじゃん」
「そして、“キッド・ジョー・スマイリー”・・・。彼は『SMILE-PUNK』ボス、“スマイリー・フェイス”こと“バルサザール・ジョー・スマイリー”の実の息子です。さらに彼はダライアスとヴィクトールが所属する『SMILE-FUCKERS』のリーダーでもあります」
「・・・・・・あのよ。それがなんだってんだ?」
テーピングを巻き終えた令寺はキャロルの方へ振り返った。
「完全にアウェイです」
「は?」
「ここには『SMILE-PUNK』関係者しかいません」
「ここは『SMILE-PUNK』じゃなくてジムだ」
「『SMILE-PUNK』の所有するジムです」
「だからなんだってんだよ。帰れってのか?」
令寺はうんざりしたように溜め息混じりに吐き捨てた。
「『SMILE-PUNK』だろうがなんだろうが強くなるためにはキャスさんの指導が必要だ。何がなんでも乾悟に勝つ。じゃねぇとお前も困るだろ?」
「・・・えぇ、まぁ」
キャロルは口ごもり目を伏せた。
「それに俺、家出るとき邪魔だけはすんなよって言ったよな」
「・・・はい」
「じゃあ、黙って待ってろ」
令寺はテーピングの感触を確かめるように二~三度拳同士を軽く打ち付けながらロッカールームを出た。キャロルもしぶしぶ後に続いた。

「それじゃあ、マッドくんは残って、キッドは令寺くんと交替」
キャスはリングの脇を歩きながら指を振ってキッドと令寺に合図を送った。
キッドは顔を歪めて脇腹を押さえながらリングを降りた。
それと入れ替えでリングに上がった令寺がマッドと向かい合う。
マッドはアフロを抜いても2m超え。令寺よりも上背がある。身長で言えば乾悟と遜色無い。
キャスが指を鳴らすと両者同時に構えを取る。
令寺は左の拳を鼻の高さまで上げる構え。一方マッドは右拳を顎に宛て、曲げた左腕を振り子のようにぶら下げる構え。
ゆっくりとにじり寄ろうとするマッドに対しリング上で弧を描くようにして距離を保つ令寺。
キャスによるの試合開始の合図から約三十秒後、徐々に間合いを詰めていたマッドが先制攻撃。鞭のようにしなる素早い左ジャブが令寺のガードの左腕とボディを打った。
令寺は舌打ちしながら二歩後退、マッドの追撃から逃げる。
マッドも深追いはせず、再び左腕をぶら下げながらゆっくりと間合いを計る。
一局面を眺めていたキャスがリングロープを伝いながら令寺のそばへやって来た。
「令寺くん。マッドくんの方がキミよりずっとリーチが長い。キミの範囲レンジの外からでも拳は飛んで来るよ。思い切って飛び込め。キミの拳が届かないならキミに勝ちはないよ」
キャスは早口に言い終えるとリング際から飛び降りた。
令寺は一度構えを解いてから深く息を吐き、再度構えを取り直した。
「・・・うす」

二分半が経過し、令寺の右ストレートがマッドの眉間を打ち抜いた所でキャスがストップをかけた。
「よし、決まりだ。令寺くん、一分休んで次はダリーくんとだ」
「うす」
令寺はリングサイドに寄りかかり、ヴィックから渡されたタオルを頭に被せて水分補給に努めている。

「ダリーくんは底無しのスタミナがある。長期戦は避けるべきだ。一気に決めろ」
「うす」

「ヴィックくんはキミより筋肉量がある。その分、重量ウェイトもあるし 一撃も強い。唯一キミの方が勝っている速度スピードで決めるしかない。ただし一つ注意して、ヴィックくんはカウンターが得意だ」
「うす」

「キッドは他のみんなに比べて身体は小さいし体重も軽い。その代わり身軽で素早く動きもトリッキーで、捕らえるのが難しい。けど一撃一撃も軽いからあえて受けてカウンターを狙いに行くといい」
「うす」

令寺は息も絶え絶えに、リングから少し離れたベンチに寝転がっている。顔や体には複数の殴打の痕。汗だくで冷えたドリンクボトルを頬に当てている。
「令寺様、少々根を詰めすぎでは・・・?」
キャロルはベンチの脇に座り込み、タオルで令寺の汗を拭っている。
「・・・はぁ、・・・ふぅ。まだ・・・、ふぅ、足りねぇよ・・・。もっと強くなる・・・。じゃなきゃダメだ・・・」
令寺は荒い息を整えつつボトルを額に移した。
「乾悟は強ぇ。少なくとも俺は一回負けてる。それにデケェ」
「『デケェ』とは・・・、体の話ですか?」 
「そうだよ」
「それは・・・、さして問題では無いのでは?今までの御兄弟様も変身したら令寺様よりずっと大きかったですし。身体の大きさがイコール強さではありません」
キャロルは一区切り付けてから令寺の足先から頭のてっぺんまでを眺めた。
「それに・・・、その・・・、こんなことを言ってはなんですが、令寺様はもう成長期を終えられているので、ここから身長を伸ばすのは難しいかと。そも令寺様は充分大きいですよ。乾悟様やマッドさんが異常なのです」
キャロルの言葉に令寺は拗ねたように口先を尖らせた。
「それでも俺はデカくて強くならなきゃいけねぇんだよ」
そのまま令寺はベンチの上で寝返りを打ち、キャロルに対してそっぽを向いた。
「強さはともかく、なぜそんなに大きさにこだわるのですか?」
キャロルは突然立ち上がり、芝居がかった動きで肩をすくめて諸手を広げた。
「よく言うではありませんか!大小サイズなんて問題ではないっ!重要なのは形状フォルム持続力スタミナ!と、まぁ・・・、珍しくちょこっとだけ下ネタに走ってしまうワタシでした。お粗末様でした」
すると今度は令寺が突然起き上がった。キャロルはなだめるように両手を小さく挙げて一歩後退った。
「すみません、令寺様!『お様』は余計でしたね!ワタシは介助の際に令寺様の“御令息ごれいそく”とは対面しておりますが、日系人にしてはなかなかのブツをお持ちだなぁ、と思いますよ!ホントですよ!」
「・・・九年前」
「・・・はい?」
令寺がボソッと呟いたのに対して、キャロルは一歩近寄って聞き返した。
「九年前だよ」
「九年前・・・、ですか?」
ぶっきらぼうに言い捨てる令寺と目をしばたたかせながらもう一歩近寄るキャロル。
令寺はそんなキャロルの様子を見て、舌打ちしながらうつむいた。
「・・・もしかして、令寺様。のこと、憶えてらっしゃるんですか?」
キャロルは床に膝を着いて俯く令寺の顔を覗き込んだ。




九年前。

カナガワ共和国サガミハラ・シティのとある児童養護施設。
中庭のベンチに一人で座る小柄な少年が頬の痣を擦りながらすすり泣いている。

「あの子がそうですか?」
案内役の施設の職員にそう問い掛けたのは銀白色の髪と真新しいリクルートスーツが特徴的な西洋系の少女。
「えぇ、はい。あの子がくんです」
職員の女性はベンチですすり泣く令寺を眺めて溜め息混じりに答えた。
「案内ありがとうございました。ここからはわたし一人で大丈夫ですよ」
「でも、部外者の方と子供を二人きりには・・・」
「ここからは、わたし一人で、大丈夫です」
少女が職員の目を見て手を振りながら語気を強調すると、職員の女性はそれ以上何も言うことなくその場を離れて行った。
少女は職員が見えなくなるのを確認してから令寺の方へ歩いて行った。

「こんにちは令寺くん」
少女はすすり泣く令寺にニコニコと笑いかけながら目線の高さまで屈んだ。
令寺は急いで涙を拭き頬の痣を隠すように俯いた。
「令寺くん、こ・ん・に・ち・は」
少女は令寺の顔を覗き込みながら再度挨拶をした。
令寺は横目に少女の顔を見て鼻をすすってから小さく頷いた。
「・・・こんにちは」
「はい、こんにちは♪」
少女は上機嫌でそれに応え、おもむろに令寺の横に座った。
「はじめまして、令寺くん。私はキャロルです」
「キャロル・・・さん・・・?」
「あら!ちゃんと“さん”付けができて偉いですね!礼儀正しいのは良きことです!お姉さんは大変感心しておりますよ!」
キャロルはあやすように諸手を広げて見せた。
「・・・なんの用ですか?」
令寺は鼻をすすりながらおずおずと尋ねる。
「今日は令寺くんとお話をしに来ました」
「養子に取るんですか・・・?」
キャロルは思いがけない令寺の言葉に一瞬目を丸くしたが、すぐに吹き出し手を叩いて笑いだした。
「アッハッハッハッハ!いえ、ごめんなさい、違います・・・!アハハ・・・!ごめんなさい・・・!おもしろい子ですね令寺くんは・・・!」
令寺は大笑いするキャロルを見て顔を赤くして再び俯いた。
その様子を見たキャロルは屈んで令寺の顔を覗き込み微笑んだ。
「真面目な話をするなら、私はまだ17歳ですので里親の認定を貰うのは難しいでしょうね。今日は本当にお話だけしに来たんです」
そう言ってキャロルは令寺の頬にできた痣を見た。
「・・・ケンカですか?」
令寺は痣を隠すように手で押さえた。
「・・・そういうのじゃないです。二歳ふたつ上のジェスってヤツがいて、僕がすぐ泣くからって殴るんです」
「意地悪なお友達ですね」
「友達じゃないです」
令寺は俯いたままそっぽを向いた。
キャロルは微笑みながら溜め息を吐き、そっと令寺の右手を取った。
令寺は驚き顔を上げてキャロルを凝視した。
「拳を擦りむいています。きちんとやり返したんですね」
令寺はキャロルの手を払い除けて自身の右手を擦った。
「・・・一発だけです。でもちゃんと当たらなかったし、その後も何回も殴られたし・・・。ジェスは体もデカいから、勝てるわけないです・・・」
令寺はキャロルから顔を背けたままブツブツと呟いている。
「それでも凄いことですよ。自分より大きくて強い相手に立ち向かうのは勇気がいります。結果なんて小さなこと。私は立派だと思いますよ」
キャロルは再度、令寺の顔を覗き込むように頭を傾けた。
「令寺くんは泣き虫かも知れませんが決して弱虫ではありません。私が保証します」
令寺は鼻をすすりながら少しだけ顔をキャロルの方に向けた。
「それに・・・、令寺くんは今いくつですか?」
「・・・九歳です」
「でしたらこれからどんどん大きくなりますよ!たくさん食べて、たくさん体を動かせば、すぐにジェスくんなんか追い抜いちゃいますよ!」
キャロルは明るい笑顔を向けながら令寺の頭を撫でた。
「・・・キャロルさんは、なんで僕に会いに来たんですか?僕のこと、知ってるんですか?」
令寺はキャロルの顔をチラチラ見ながらおずおずと尋ねた。
「・・・そうですね。はい。令寺くんのお母様を知っています」
「僕のお母さん・・・!?」
「はい。・・・と言っても、私が令寺くんより小さい頃にちょっと会ったことがあるだけなんですが」
「どんな人でしたか?」
「優しくて、とっても綺麗で、おもしろい方でしたよ。冗談が好きで、私のことをからかっては楽しそうに笑っていました」
キャロルは少しだけ表情に陰りを見せた。が、すぐに明るい笑顔を取り戻し、再び令寺の頭に手を置いた。
「令寺くんは、髪色がお母様と一緒ですね。暖かい茶色の髪。少しクセがあるのも同じですし。目元がそっくりです。やっぱり、令佳れいかさんの子ですね」
そのままキャロルは令寺の頭を撫で、令寺は顔を赤らめつつ黙り込んでされるがままに撫でられ続けた。
「・・・さて!」
ふと、キャロルがベンチから立ち上がる。
令寺は自分の頭から離れたキャロルの手を名残惜しそうに目で追った。
「では、ワタシはこれにて!短い時間でしたが、お話ができてよかったです!これはアドバイスですが、大きくて頑丈な身体を作るには骨を強くして肉を付けることが肝要です!カルシウムとタンパク質を取りましょう!具体的に言うとお魚とお肉を食べましょう!イワシの干物と鶏ササミがオススメです!」
キャロルは底抜けに明るい笑顔で身振り手振りを交えながらクルクルと回っている。
「あの・・・!」
令寺もベンチから立ち、キャロルに呼び掛ける。
キャロルは回転を止めて令寺を見据えた。
「あの・・・。あの」
令寺はTシャツの裾をいじりながら口ごもっている。
キャロルは微笑みながら小さく溜め息を吐き、両手でそっと令寺の頭を包ま込んで抱き締めた。
「また、お会いしましょうね。すぐに、と言うわけにはいきませんが。そうですね。令寺くんが大きくなって、強くなったら、きっとお迎えに上がりますよ」
キャロルは最後に短く令寺の頭を撫でてからその場を後にした。



「私はてっきり、忘れているとばかり・・・」
キャロルは諸手を下ろし、項垂れる令寺を見下ろした。
「・・・忘れたなんて一言でも言ったかよ?」
「憶えてるとは一言も仰らなかったじゃないですか」
ぶっきらぼうに吐き捨てる令寺にキャロルは呆れ気味に食ってかかった。
「お前よぉ・・・!」
令寺は素早く顔を上げてキャロルを睨み付けた。
「こっちが九年間どんだけ努力したと思ってんだ!?」
立ち上がり声を荒らげる令寺に離れたリングでトレーニング中の面々が一斉に注目した。
「身長が170超えてアマチュアボクシングの市内大会で優勝しても来なかった!180cm超えて不良集団フードラム・グループを一人でぶっ潰せるレベルになっても来なかったし!190超えて『百鬼夜行』トップ百人の四位に付けても来なかった!クソ親父の墓の前でやっと現れたと思ったら・・・、お前・・・、わけわかんねぇ葉っぱの雑学垂れた後に、お前、「キャロルと申します。以後よろしくお願いいたします。」だぞ!?忘れられてると思ったのはこっちの方だバカ野郎!」
令寺は額に青筋を浮かべながらキャロルに指を突きつけた。
「なっ・・・!令寺様こそ!よそよそしかったじゃないですか!」
キャロルも珍しく声を張り上げて令寺の指を払った。
「私がお樒の豆知識を披露した後、「・・・それが、何だよ?」ですよ!?憶えてたなら「久しぶりじゃねぇか」とか「やっと会いに来てくれたんだな」ぐらいあってもいいかと!今まで言葉にはしませんでしたが敢えて言わせていただくと、令寺様がそのビジュアルで恋人の一人もいないのはが原因ですよ!女心が理解わかっていない!再会のセリフは男性から言うべきです!第一、会いに行けなかったのにだって理由があるんです!私は私で多忙な身でしたので!今令寺様のおそばについていられるのはその多忙の賜物ですよ!私だって頑張ってたんです!」
「そんなもん、何かしら伝えるすべなんていくらでもあったろうが!また会おうってお前が言ったんだぞ!」
「私が令寺様に接触したことを周囲に知られては困る理由だっていくらでもあったんです!そのリスクを冒してまで連絡なんて取れませんよ!」
「じゃあ、せめてクソ親父の墓前で会った時に「久しぶり」とか言えばいいじゃねぇか!お前「初めまして」な感じで名乗ってたろうが!」
「数十秒前の私の話聞いてました!?令寺様そういうとこありますよ!ちなみに九年前、私から「また、お会いしましょう」って言ったのは、まだ小さかった令寺様が「あの、あの・・・」ってモジモジして何も言わなかったからリードして差し上げたんです!でももう大人なんですから男らしく令寺様から「久しぶり」って言いなさい!」
「モジモジなんかしてねぇ!」
「してましたけども!?全然してましたけども!?見事なモジモジでしたけども!?可愛かったなぁモジモジ令寺様!」
「クソ親父の墓でも言ったけどよぉ、令寺“様”ってのやめろいい加減!」
「じゃあ令寺様も“お前”とか“おい”とか言うのやめてください!私にはちゃんと名前がございます!」
「キャロル!!!」
「はい、なんですか令寺!!?」
互いに呼び合ったところで、両者荒い息を吐きながら睨み合い閉口した。
「はい、ストップ」
見かねたキャスが割って入り、手を叩いて二人の注意を引いた。
「少女漫画のような痴話喧嘩は見ていて痛々しい。ここは少年漫画のように行こうじゃないか。二人ともリングに上がって。九年分のモヤモヤを拳でスパッと振り払おう。どうだね?令寺くんと、Ms.ミスキャロル」
キャスはニコニコと笑いながらリングの方を親指で指し示した。
「・・・キャスさん。冗談もほどほどにしてください。俺は真面目に・・・」
「いいでしょう」
令寺の言葉を遮りキャロルが言い放った。
、リングの上で決めようではありませんか」
「は?」
令寺は眉間にシワを寄せてキャロルを見据えた。すでに令寺はいくらか冷静になっていた。
「お前、本気で言ってんのか?」
対するキャロルは未だその眼光に怒りを湛えており、令寺の方を一切見ようとしない。
「えぇ、もちろんです。キャスパールさん、トレーニングウェアの貸し出しってありますか?」
「無論だよ。更衣室にレンタル用の棚がある。好きなのを使ってくれて構わないよ」
「どうも」
そう吐き捨て、キャロルは令寺に背を向けて歩き出した。
「おいちょっと待て。お前戦えんのかよ?」
ずかずかと歩を進めるキャロルに令寺が追いすがる。キャロルは令寺に見向きもしない。
「まさか私が明晰な頭脳と優秀な経営手腕だけで最年少鬼門会員になれたとでもお思いで?『鬼門会』は言わば『FURY-JUNK』の最高幹部集団。腕に憶えが無ければ加入はいることはできません。あと“お前”って言わないでください。全然話聞いてないですね令寺“様”は」
キャロルはドアノブを捻って扉を開いた。
「おいって・・・!」
令寺がキャロルの肩に掴みかかる。
「・・・“おい”もやめてくださいって言いましたよね?あと、ここから先、女子更衣室ですよ?令寺“様”も入られるんですか?」
令寺は黙り込んでキャロルの肩から手を離した。

待つこと10分弱。
キャロルが更衣室から出て来た。
黒いスポーツウェアに身を包み険しい面持ちのキャロルがリング横のベンチに座る令寺を睨み付けた。
キャロルは早足にリングへ向かい、軽やかな身のこなしで素早くリングに登った。
「・・・何してるんですか?早く上がってください令寺“様”」
キャロルはリング上から令寺を睨み下ろして吐き捨てた。
令寺は少しだけ眉間にシワを寄せ、ロープを掴んでリングに上がった。
「・・・どうなっても知らねぇぞ」
令寺はしぶしぶ構えを取った。
直後に令寺は胸部に強い衝撃を喰らい後方へ吹き飛んだ。
令寺の体はリングロープから跳ね返り、一回転してリング中央に仰向けの状態で倒れた。
「・・・っごほぁ?がはっ!?」
令寺は何が起こったのかわからず、咳づいて気管に入り込んだ唾液を吐き出した。少し顔をもたげると、爪先で小気味よくステップを踏むキャロルが令寺を見下ろしていた。

「Fuck!!!あの姉ちゃんクソ早ぇじゃん!」
リングサイドで観戦していたキッドが手を叩いて飛び上がった。
「あぁ。直線上にいたらまず反応できない速度だ」
その横に立つヴィックは太い腕を組んで深く頷いた。
「初速が半端無ぇし、すげぇバネだ。あのスピードの蹴りじゃ体格差は意味無ぇな」
ダリーは感嘆しながら顎を撫でた。

リング上では令寺が目をしばたたかせてフラつきながら立ち上がったところだ。
未だに小さく咳づく令寺にキャロルはバレェダンサーのように横回転しながら接近、遠心力によって威力が底上げされた強力な中段回し蹴りを令寺の左脇腹目掛けて打ち出した。
令寺は左半身を縮めて固め、左腕でガード。が、令寺よりおよそ30cmも身長が低く、体重に至っては50kg以上軽いキャロルの蹴りは、令寺の左腕を一撃で赤紫色に腫れ上がらせた。
「クッッッソ!!!」
激痛に顔を歪めつつも令寺はすかさず反撃に出る。蹴りを防がれたことによってキャロルに生じた一瞬の隙を突くボディへの右ストレート。
体格差、令寺の膂力、キャロルの耐久力、あらゆる要素を考慮し、拳が直撃すれば勝敗は決する。
しかし、令寺の拳は当たらなかった。
キャロルは拳が接触する直前に上体を反らせて拳を避けると令寺の腕を両手で絡め取り、そのまま飛び上がって令寺の右脇と首とを両脚で絞め込んだ。約40kgの重さが急激な負荷となり、令寺はその場に崩折れた。

「うぉっ!!三角絞め!!ヤベーぞ令寺!!」
リングサイドで飛び跳ねるキッド。
「あのお嬢ちゃんの太腿ふとももに挟まれるなら、三角絞めも・・・、悪くない」
マッドは深く頷きながらほくそ笑んだ。

「ぐぅうぅぅそぉ・・・!」
令寺は間一髪、首とキャロルの太腿との間に左手を差し込んでいたため絞まりが甘く即時の昏倒は免れていた。

「でも時間の問題だろ。頸動脈が絞まってることに変わりは無ぇ」
ダリーは呟きながら自分の首を抑えた。
「早く抜け出さねぇと。・・・あれじゃ10秒もたないぞ」
ヴィックも同様に首を抑えている。

「クッッッソぉがぁぁぁあ・・・!!」
令寺は力を振り絞り、今にも意識が遠退きそうになるのを根性のみで耐えつつキャロルを持ち上げて立ち上がった。

「ハッハー!!スゲーな令寺!!」
キッドは大喜びで手を叩いた。
「令寺の筋力なら本来あのお嬢ちゃんを持ち上げるなんざ簡単なことだろうけど・・・。首が絞まってるこの状況じゃ、そうできることじゃねぇな」
マッドは感心したように鼻を鳴らした。

令寺はそのままキャロルの体を限界まで振り上げ、マット目掛けて一気に振り下ろした。
と、ここでキャロルは即座に三角絞めを解いてエスケープ。
令寺はバランスを崩してよろめき、咳を吐いて膝を着いた。
キャロルはステップを踏み三歩後退してバック宙、リングロープに跳び乗り、ゴムの反動を使って天井高く飛び上がった。空中で身を翻し、令寺の真上、天井を伝う鉄骨の梁を足で蹴って縦に回転しながら急降下。
令寺はすぐにその場から飛び退いた。が、キャロルは落下時の回転を利用してマットから瞬時に飛び上がり、回転そのままに令寺の右肩に凄まじい踵落としをお見舞いした。
一撃の重みに耐え兼ねた令寺は横転おうてん、すかさずキャロルは令寺の側頭部へ向けてストンピングを繰り出す。
令寺は左手でガードしたが防ぎきれず自分の拳で耳を強打。
キャロルはさらに追撃のため足を振り上げる。
令寺は転がって後退し、なんとか二発目のストンピングを回避。よろめきながらも起き上がり、明滅する視界の中に猛スピードで迫って来るキャロルを捉えた。が、左耳を強打したことによる三半規管へのダメージから令寺は立っているのがやっとの状態。加えて先ほどの回し蹴りと踵落としのダメージから両腕に力が入らない。
己の状況を理解した瞬間、令寺の視界がスローモーションに切り替わる。リングサイドから自分に向けて何か叫んでいるキッド達。顔をおさえて諦めたようにかぶりを振っているキャスパール。怒りと闘争心に満ちた突き刺すような鋭い眼光を以て接近して来るキャロル。
令寺が渾身の力を振り絞って低く拳を構えた時には、既にキャロルの上段後ろ回し蹴りが令寺の米噛みを打ち抜いていた。
令寺の意識はそこで途切れた。



令寺は救護室のベッドの上で目を覚ました。
「っ!!気が付かれましたかっ!?」
すぐにキャロルが飛び付き、令寺の顔を覗き込んだ。
「・・・おう」
令寺は霞む目をしばたたかせてキャロルを眺めた。
「・・・申し訳ありません。どういうわけか抑えが効かなくなってしまい・・・」
ゆっくりと身を起こす令寺にキャロルはおずおずと弁明を述べる。
令寺は黙ってうつむいている。
「あぁ・・・、令寺くん、Ms.キャロル。それに関しては僕のせいだ」
キャロルの背後に控えていたキャスパールがが悪そうに苦笑している。
「実はね・・・、僕はキミらにちょっっっとした暗示をかけてみたんだ」
「「暗示?」」
令寺とキャロルは同時に聞き返した。
「あぁ。怒りを増大させて闘争心を煽る暗示だ」
キャスパールは苦笑気味のまま自身の米噛みに指を宛ててくるくると回すジェスチャーをした。
「Ms.キャロルは普段抑圧してる部分が多いみたいだから開放的になる暗示がよく効くんだろう。対して、令寺くんはえらく冷静になってしまった。おそらく普段からカッとなり易く闘争心剥き出しな令寺くんには不要な暗示が真逆の効果を発揮した、的な感じかな」
興味深げに頷いて見せるキャスパール。
「・・・なぜそんな暗示を?」
訝しげにキャスパールの顔を覗き込むキャロル。
「単純にキミら二人の言い争いが見るに耐えなかったから暴力で解決しようと思っただけさ。ただ提案しただけじゃMs.キャロルは応じないだろうから暗示を掛けたまでだよ。僕は人が殴り合ってるところを観るのが好きなんだ。やはり争うなら言葉より拳を用いるべきだよね」
ここへ来てキャスパールはもはや悪びれる様子もなくヘラヘラしだした。
キャロルは顔を引きつらせてキャスパールを睨んだ。
「ずいぶんと野蛮ですね・・・」
「逆さ。常に前肢まえあしを浮かせた状態で闘う獣は少ない。その中で拳を握るモノは更に少なく、を以て戦闘を行う種は殊更ことさらまれだ。ま、それが人類なわけだが。即ち、我々が行う“格闘”という物は、むしろ非常に知性的かつ文明的であると言えるわけだね」
キャスパールは楽しそうに人差し指を振って見せた。
キャロルは不機嫌そうにその指を握った。
「・・・おや。積極的なボディータッチかな?」
「やめてください。また暗示でしょう?」
ヘラヘラするキャスパールを睨み付けるキャロル。
「・・・ふぅん、バレちゃったか」
キャスパールはゆっくりキャロルの手から指を引き抜いてポケットに突っ込んだ。
「手を叩いたり指を振ったり、分かりやすく相手の気を惹く行為は暗示や催眠の導入・・・、それぐらいわかります。不意にされれば簡単に掛かるでしょうが、わかっていれば阻止するのは容易たやすいですよ」
キャロルは不機嫌そうに追及する。
「うん。手強いね。流石は鬼門会員と言ったところかな」
「キャスさん」
令寺が立ち上がりキャロルとキャスパールの間に割って入った。
「おや令寺くん、もう大丈夫なのかい?」
心配そうに寄り添おうとするキャロルを制するようにキャスパールが先に声を掛けた。
「っうす。手間かけさせちまってすんません。あとはこっちで話すんで。キャスさんは、これで」
令寺はあくまで腰の低い対応でキャスパールからキャロルを引き離すように位置取った。
「・・・そうかい?では、あとは若い二人に、と言うやつかな?」
そう言い残してキャスパールは二人のもとを離れて救護室を出て行った。
キャスパールが退室しドアが閉まり切った後、二人の間にしばしの沈黙が流れた。
あまりの静けさに耐えかねたキャロルが口を開こうとした瞬間、令寺がキャロルに向かって頭を下げた。
「あっ・・・?えっ!?ちょっ!あのっ!!やめてください!そんなっ・・・、頭を下げるなんて・・・!」
慌てて令寺の肩を押さえてやめさせようとするキャロル。
「そういう約束だ。俺が悪かった。ごめんな」
そう言って令寺は身を起こし、キャロルの顔をまじまじ見つめた。
「あんた、九年前から髪型ぐらいしか変わってねぇよ。パッと見てすぐにわかった。まぁ、強いて言えば九年前より小さく見える、ってぐらいか」
キャロルは照れ臭そうに目を反らし、暫し間を置いてから横目に令寺の顔を見た。
「・・・れ、令寺・・・くん?で・・・、いいんです・・・かね・・・?」
「おう」
恥ずかしそうに尋ねるキャロルに令寺はぶっきらぼうに答えた。

「ウォ~~ウ♪」
「おい、キッド・・・!」
「あ、やべ・・・」

少し開いたドアの隙間から漏れた声に、令寺とキャロルは同時に振り向いた。
キッドとヴィックの二人がこちらを覗いていた。
「お前ら・・・」
令寺が睨み付けると、キッドはおもむろにドアを開いてるずかずかと入って来た。ヴィックはおろおろしながらそれに続く。
「いや~!ちょっと絆創膏取りに来たんだよ!たまたまなんだよ!あ、お気になさらず、どうぞ続けて」
二人の横を通って救急箱の置いてある棚へ向かうキッド。
「・・・絆創膏なんて何に使うんだ?」
令寺が威圧的に尋ねる。
「そりゃ、お前・・・、傷に貼るんじゃん」
「誰がケガしたんだ?お前もヴィックも違うみてぇだけど」
「あ~・・・、ダリー」
「あいつ不死族ノスフェラトゥだろ。絆創膏なんか要らねぇ」
キッドは黙り込んで救急箱を閉じ、ヴィックは気まずそうに令寺から顔を背けている。
「覗きに来たならそう言え。別に見ておもしろいもんなんかねぇぞ」
「何言ってんだ!」
キッドはニタニタと笑いながら振り返った。
の令寺が初恋の相手と愛を語らってるんだぜ!?見なきゃ損だろ!?」
「別に愛を語らってなんかいねぇよ。それに初恋だなんていつ言った?」
「照れんなよ」
令寺とキッドのやり取りを聞いていたキャロルとヴィックは頬を赤らめて顔を伏せた。
キャロルとヴィックの様子を見たキッドは肩をすくめて溜め息を吐いた。
「言ったそばからじゃん・・・」
救護室内に暫しの沈黙が流れた後、令寺が深く大きい溜め息を吐いた。
「・・・もういい。帰るぞキャロル」


ジムからの帰宅途中。ニュー・ヨコハマ・ステーション前の通り。令寺とキャロルが並んで歩いている。
「横一列に並んで歩くのはマナー違反ですね」
「おう」
「犯罪組織のボスとその側近が気にすることではないかも知れませんけどね。暫定ではありますけどね」
「おう」
キャロルのくだらない話題に空返事をする令寺。
二人は互いに視線を一切合わさず駅前通りを進んで行く。
「・・・ですので、オポッサムとポッサムは別物・・・」
ふと、キャロルは口をつぐみ周りを見た。
いつの間にか駅前通りを外れていた。
スカイブルーやショッキングピンクに光るネオン、休憩と宿泊の料金表が表示された3Dサイン、PVC製ののれんが掛かった駐車場入り口。
「あ~・・・、令寺・・・くん?駅までの道、その・・・、合ってます・・・?」
「悪い・・・。ちょっと、その・・・上の空だった」
令寺はキョロキョロと辺りを見回す。
「え~~・・・っと。え~・・・。あ~・・・。あっちか?あっちだ。たぶん」
令寺は回れ右をしてやや早足に歩き出した。
「令寺くん?ホントにそっちですか?私、この辺の土地勘無いですよ?」
「大丈夫だ。たぶんこっちだ。それに間違ってても終電まで40分近くあるし、余裕だろ」

約20分後、令寺とキャロルが本来3分で行ける駅に着くと、電車は既に終わっていた。
「もうちょい遅くまであると思ってたんだけどな」
「今日土曜日ですよ?ま、明けて日曜日ですけど」
「・・・そうか」
「タクシーで帰りましょうか」
「そうだな」

二人がタクシー乗り場に行くと、タクシー待ちの客は長蛇の列だった。待機しているタクシーは無く、50mほどの人の列が三往復している。
「・・・ずいぶん人が多いな」
「土曜日の夜ですから。明けて日曜日ですけど」
「そうか」
「実は歩いて帰った方が早いかも知れませんね」
「そうだなぁ・・・」
呟いて令寺は近くのベンチに力無くドサリと座り込んだ
「令寺くん!?」
「いや、大丈夫だ。少し休むだけだ」
慌てて駆け寄るキャロルを制止しようと右手を向ける令寺だが、明らかに肩が上がっていない。
「・・・令寺くん、少し失礼します」
「いい、大丈夫だ。気にすんな」
令寺は抵抗しようとするも手には力がまるで入っていない。
キャロルが令寺の上着をはだけさせると、右肩が赤紫色に腫れ上がっていた。
キャロルは表情を歪めて少し身を引いた。
「これは、先ほど私が・・・」
「だから気にすんなって。大丈夫だって言ってるだろ」
気丈に振る舞う令寺だが、額には汗が滲み、痛みに奥歯を噛み締めているのが頬の動きから見て取れる。
キャロルはそんな令寺の顔をまじまじ見つめ、うつむく令寺の首筋に手を添えて優しく言い聞かすように語りかける。
「・・・少し、休んで行きましょう」

再び駅前から歩いて3分のホテル街。その中でも割りとお高めのホテル。その一室に令寺はいた。
上半身だけ服を脱ぎ、濡らしたタオルを右肩と左腕にあてて脚の低いソファーに深く座り込んでいる。
向かいのソファーの背もたれには令寺のジャケットとTシャツ、キャロルのカーディガンとストッキングが無造作に掛けられている。
バスルームからブラウスの袖とスカートを捲ったキャロルが水の入ったたらいを持ってやって来た。
令寺のそばまで来るとたらいを床に置き、水に浸していたフェイスタオルを強く絞った。
「令寺くん、汗を拭きましょう」
令寺は言われるがままされるがまま、キャロルに額を差し出し、顎を上げ、背中を向けて汗を拭いてもらった。
令寺はこの部屋に入ったあたりからキャロルの指示に対して抵抗する気力を失っていた。
ただ、動くたびしきりに鼻腔をくすぐるキャロルの匂いと身体を撫でる濡れタオルの冷たさとは裏腹に冷水に浸けてなお温かいキャロルの小さな手の感触に心臓が弾み、下腹部がざわつく。
令寺は少し膨らんだ“ソレ”の位置をキャロルにバレないようこっそりと修正した。
キャロルは令寺の腰のあたりを拭きながら右肩のタオルを少し捲った。
「・・・さっきよりはマシになってますね。少しだけですが」
キャロルはタオルを戻して令寺に正面を向かせてベルトに手を掛けた。
「あっ、おい・・・」
ここへ来てようやく令寺は微力ながら抵抗を始めた。キャロルの手を押し退けてベルトを抑えた。
「何を恥ずかしがってるんですか?令寺くんの“御子息ごしそくくん”なら何度か顔を合わせてますよ♪令寺くんが寝たきりになるたび、このワタシが汗を拭いたりお着替えをさせたりしてるんですから♪無論下着もです♪」
「いや、それ・・・、そ・・・、そういうことじゃなくてよ・・・」
「大丈夫ですよ♪天井のシミを数えてる間に終わります♪」
両腕に力の入らない令寺の手を押し退けてキャロルはベルトを外してチャックを下ろしてジーンズを開いた。
瞬間、令寺の股ぐらから怒張した“ソレ”が勢いよく飛び起きた。
「んおぁ・・・えぉ・・・」
令寺のジーンズの下、ボクサーパンツの小窓を勝手に開いてそそり立つ“ソレ”を目の当たりにしたキャロルは思わず言葉を失った。
二人の間にしばしの沈黙が流れた。互いに目を反らし、令寺は唸るように低く息を吐き、キャロルは細く小さい咳払いを繰り返す。
そうして数十秒の後、何を思ったかキャロルは目を伏せたまま濡れタオルで令寺の“ソレ”を包み込み軽く握り締めた。
「うぅっ・・・!?おい・・・、ちょっと、なにしてんだよ・・・?」
「いえ・・・、あ、その・・・、熱を持っているので、冷やせば・・・、その・・・、いいのかと・・・」
「いい・・・って、なにが・・・?」
「その・・・、治まるかと・・・」
だが令寺の“ソレ”は冷んやりとした濡れタオルの向こうから徐々に滲み出すキャロルの手の温もりと程好い締め付けを受け、治まるどころかむしろ脈打つ鼓動が早まり怒張が強まった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
キャロルは目を伏せたまま黙り込み、耳まで真っ赤にして下唇を噛み締めた。
令寺も無言で目を瞑り、鬼怒芥の兄弟達の顔や父提寺郎だいじろうからの手紙のことなどを思い浮かべて精神状態の変化を試みるも、どうしてもキャロルの吐息の音と汗の混じった匂いと下腹部の末端神経から伝わる濡れタオル越しの手の温もりが思考を鈍らせ、それに伴い下半身が元気になる。

二人の間に気まずい沈黙と変な空気が流れること十数分。
10代の令寺の持続力は凄まじく、膠着状態が長く続いたにも関わらずその元気っぷりはまったく衰えを見せない。

「・・・令寺くん」

痺れを切らしたキャロルが口を開いた。
と、同時に令寺の“ソレ”がキャロルの握る濡れタオルの中でピクリと反応した。
「あの・・・、どぅ、どぉ・・・したら、いいですかね・・・?これ、あの・・・、この状況・・・」
しどろもどろに尋ねるキャロル。
令寺は一つ低く咳払いをしてから答える。
「・・・たぶん、それは・・・、放っときゃあ、その内・・・、うん」
「その・・・、ひょっとして、これ、私のせいだったり?」
「いや、その・・・」
口ごもる令寺を制するようにキャロルは一つ大きく咳払いをした。
「・・・令寺くん」
キャロルは令寺の“ソレ”から手を離し、立ち上がってブラウスのボタンを開け始めた。
「ベッドへ・・・、行きましょう」
腹を決めたような面持ちのキャロルを、令寺はただ呆然と見上げるしかなかった。
「・・・・・・あ、えっと・・・、何言って・・・」
「すべて私のせいです。ですので、すべて私が責任を取ります」
「は・・・?」
「令寺くんが怪我をしたのも、・・・そのぉ・・・、って・・・しまったのも、私のせいです・・・私のせいなのでしょう。だから、私が責任を持って・・・、なんとかします・・・!」
ブラウスを脱いだキャロルはそのままスカートまで脱いで下着姿になった。大人びた雰囲気のある扇情的な黒い下着だった。
令寺はそんなキャロルに目を奪われ生唾を飲み込んだ。
「では令寺くん、ベッドへ」
キャロルは真っ向から令寺を見据えつつ背後のベッドを親指で指し示した。
「・・・・・・おう」
令寺はやや気圧されつつもゆっくり立ち上がり言われるままベッドへ向かった。
「うおっ・・・!」
ベッドの横へ来るなりキャロルに肩を掴まれ、重心を崩された令寺はそのままベッドに倒れ込んだ。
キャロルはベッドに仰向けで横たわる令寺の上に馬乗りになり、顔を掴んで力ずくで互いの視線を合わせた。
「至らぬところがあるかも知れませんが、誠心誠意、ご満足頂けるよう最善を尽くします」
そう言ってキャロルは令寺の口元に自身の唇を寄せた。
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