131 / 144
9巻
9-3
しおりを挟む
藁にもすがる気持ちで、名刺に書かれていた住所を訪ねた。
そのとき営業所にいたのは蘇芳で、彼はあきらの様子を見るとすぐに配送中の比奈を呼びだした。彼自身は休憩時間だったらしいが、そんなことはおくびにも出さずに残りの配送は代わるというようなことを彼女に告げていた。戻ってきた比奈も、あきらを責めたりはしなかった。
蘇芳の入れたコーヒーが、やけに苦かったことを覚えている。比奈が控えめに笑って、少し甘いカフェオレを作り直してくれたことも。
事情を説明しながら、あきらは不覚にも泣いてしまった。両親も妹も鬱陶しいばかりだと思っていたが、二十歳までという期限を突き付けられ初めて家族に甘えていた自分に気付いたのだ。
他人の優しさを噛みしめながら思ったことは、比奈にまで見捨てられたらもうどうにもならなくなってしまうということだった。気付けば頭を下げていた。雇ってくれと、すがり付いていた。比奈は少し困った顔をしていたが、あきらを突き放したりはしなかった。
「じゃあ、まずはバイトってことでどうかな。うちの仕事は特殊だから、十間くんには辛いかもしれないし。他にいい仕事がないか一緒に探しながら、頑張ろうか」
それから彼女は金貸しに連絡をつけると、返済が長引いて利子が嵩むのも可哀想だからといって一括であきらの借金を払ってくれた。あきらは稲荷運送で働きながら、肩代わりしてもらった分を少しずつ比奈に返していくことになった。そのために、比奈が報復屋との間で立てていた返済計画が狂ったことは少し後に知ってしまった。男が比奈の恋人であることを知ったのも、同じ頃だった。
現実世界で会った報復屋は、思念世界で見たよりもいっそう尊大だった。我儘で大人げなかった。
「まったく、比奈の人のよさには呆れるぜ。急に返済計画を組み直してくれ、なんて言うから何事かと思えば、こんなどこの馬の骨とも分からないガキのために預金解約してやったとか」
「本人の前で、やめてください。お小言は二人のときに、いくらでも聞くので……」
「いいや、言わせてもらうぞ。お前、初めからこいつのことを随分と気に掛けていただろう? それも気に入らなかったんだ。助言だけだって不公平なのに、雇った挙げ句に借金の肩代わりまでしてやって、俺には事後承諾――」
「助言というか、確かに声はかけましたけど。依頼前の話ですよ」
「雇ったのは?」
「人手不足なんです。バイトを募集しても、男性は社長が追い返してしまうので」
「借金――」
「すみません。それだけは、勝手なことをして迷惑かけたって思っています。もし支障があるようでしたら、神山さんにお借りして辰史さんの方には前倒しで返しますから」
「いや、金の話じゃねえよ。お前に無理やり返させたいわけでもない。だからこそ、最初から神山を介さなかったんだ。ただ、お前がそこまで親身になってやるようなことかって俺は……」
機嫌の悪い彼に睨まれて、あきらは蛇に睨まれた蛙のような気分だった。比奈にまで見放されてしまったら、そう考えると酷く落ち着かなくなった。無意識に、祈るように手を組んで比奈を見つめる。と、彼女はあきらを見て少し懐かしむような顔をした。
「私、考えたんです。もしも私がこの子と同じような状態で誰の助けもなく生きていかなければならなかったら、どうなっていたのかって。大学を辞めて、仕事を探して、お金を返すだけの生活でも、生きているだけましだと思えたのか。或いは、向こう側に残ればよかったと後悔していたのか――今の私は、そんな曖昧な想像しかできない。それは辰史さんが絶対に後悔させないと言ってくれて、実際に後悔しないよう私を支えてくれたからなんです」
当時も今も、比奈の事情は分からない。――私も同じ選択を迫られたことがあったけど、あなたのようにはできなかった。親身になって、逃げるなと言ってくれる人がいて、ようやく戻ってくることができた――思念世界から戻った折に聞いた、その言葉がすべてだ。
ただ、彼女に逃げるなと言った相手を予想することは難しくなかった。
「他人事じゃないんです。自業自得だって、突き放したくないんです。勝手に苦労して、後悔して生きればいいとも思えないんです。この子をこちら側に引き留めたのは私だし、辰史さんにしてもらったことを人に返すのが私の償いなんだとも思ったから」
そう言われてしまえば、報復屋もそれ以上ごねる気にはなれなかったのだろう。
「お前も変なとこ生真面目っていうか、頑固だよな」
と溜息交じりに言って、渋々折れたのだった。
実際――当時の稲荷運送は、比奈を含めて七人。人手不足というのは、あきらを雇うための嘘というわけでもなかった。むしろ、切実な問題だった。その頃の比奈はほとんど営業所に詰めていたというし、どの業務でもこなす副所長の常盤は猫の手も借りたいと嘆くありさまだった。
以前には、異能者専用の運送業者がいなかった。
思念の他にもなにか特別な力の秘められた物を人に送るとき、異能者たちは一般の運送会社を利用した。或いは、式神のようななにか特殊な力で直接相手に届けることもあった。途中で事故が起こったとしても、一般人にはなにが起こったか分からないのだからいいだろう――と彼らが思っていたわけではないが、他の手段がないのだから仕方がなかったとも言える。
そんな異能者たちの微妙な不便を解消したのが、稲荷運送である。
常盤緑、蘇芳長春、烏羽京、岩井千歳、石竹桃、源梅子。彼らは、思念への感応能力こそ高いものの異能者としては力の弱い部類に入る。普通の人と同じ生活に身をおくには支障があり、かといって特殊な職に就くには力が足りない。稲荷運送は、そうした半端な異能者の集まりである。しかし、たとえ視ること感じることしかできなかったとしても、不思議な力の作用する世界を知らない人が、なにも知らないまま事件に巻き込まれる事態を防ぐことはできる。
発足から徐々に、異能者たちからの注目は集まっていた。
そうした理由で忙しさが増していたことも、幸いだった。従業員の中に、あきらの加入を反対する者はなかった。蘇芳と烏羽などは、同性の後輩ができたことを喜んだ。
あきらは思念を視ることも感じることもできない。普通の人よりも鈍いくらいである。辰史に〝ある種の才能〟と評されるほどの鈍さが、結果的にあきらを救ったのだ。
その鈍さから、知らずにトラブルの種を持ち込むことはあったものの、それも業務に支障をきたすほどではなかった。異能者である他の従業員たちも日頃からなにかしらの事件に巻き込まれていたため、まったく思念に影響されることのないあきらの存在は重宝がられた。
それから一年が経った、ある日。
仕事が終わった後に、応接室に押し込まれた。なんの飾り気もないその部屋が、まるで誕生日のような特別な席に変わっていた。実際、その日はあきらの誕生日だった。いつもは人を扱き使う常盤が、なにもしなくていいとあきらをソファに座らせ、蘇芳が料理を取り分けた。烏羽と千歳は通勤に使えと、クロスバイクをくれた。ケーキを作ったのは、桃だった。日頃は無口な梅子も、ぼそぼそと祝いの言葉を贈ってくれた。
比奈は――
比奈は、あきらの前に一枚のカードを差し出した。稲荷運送の社員証だった。〝おめでとう〟と〝これからも、よろしくね〟という二つの言葉で胸がいっぱいになった。正社員になったのだ。実感のないまま、その事実を家族に告げた。けじめをつける必要があった。二十歳までという約束の上に胡坐をかくつもりはなかった。
すぐに出て行くよう言われることも、覚悟していた。が――母親は泣いて喜んだ。父親はあきらの肩を叩くと、頑張ったなと言った。妹は可愛げなく毒づいていたが、次の日には就職祝いだといってコンビニで菓子を買ってきた。
家族から見捨てられたのではなかった。見守られていたことに気付いたあきらは、何年かぶりに感謝の言葉を口にした。もう、そうして素直になることを恥ずかしいとは思わなかった。いつの間にか、悪夢に脅かされることもなくなっていた。
***
「あ、比奈さん」
ひたすら待ち続けていると、やがて呼び出し音がぷつりと途切れた。一拍の間。その間があまりに長く感じられたため、あきらは少しだけ不安になった。が、ややあって比奈は応えた。
「どうしたの? 十間くん。ちょっと今から用事があるから、急ぎじゃなかったら――」
声は苦い響きを伴っていた。通話に出るか出まいか、ずっと迷っていたのだろう。あきらは、そんな彼女を遮って叫んだ。
「急ぎっす。今じゃないと駄目なんです!」
切られてしまわないように、悲痛な声を絞る。この状況で恰好をつけようとも思えなかったし、情に訴えてどうにかなるのなら、いくらでも子供っぽく振る舞ってやるという心境でもあった。
「今、どこにいるんスか……?」
比奈は答えない。いつものように、大丈夫だから、とか、心配しないで、という言葉で誤魔化すことさえしなかった。あきらはいっそう不安になった。
会話の空白は、こんなに恐ろしいものだっただろうか?
「今から、どこに行くんスか。教えてくださいよ! 比奈さん……」
沈黙に耐えられなくなって、あきらは声を荒らげ――すぐにひそめた。やはり、怖かったのだ。話し合いのできる状態ではないと思われてしまうことが。この不安定で頼りない声だけの繋がりは、ボタン一つで簡単に断ち切ってしまうことができる。いつだって、比奈がそうと思い立ったときに。
癇癪を起こすこともできずに、ただ彼女が答えてくれることを静かに祈るしかできない。
それは、たとえば雨の日に傘も差さずに人を待ち続けるような心境にも似ていた。幼い頃に一度だけ、そういう経験をしたことがある。そのときは誰かが迎えに来てくれたのか、それとも見かねた人が声をかけてくれたのか――
(どっちだったかな……)
結末を覚えていない過去の記憶が目の前の状況と重なる。胸を押し潰されそうになりながら、三度あきらが口を開こうとしたとき。ようやく比奈の声が聞こえてきた。
「今は――まだ、部屋だけど」
「だけど? おっさんが決着をつけるんですよね? 比奈さんも、一緒に行くんですよね?」
「それは……」
歯切れが悪い。たまらず、あきらはすがる声でまくし立てた。
「行かないでください。病み上がりだってのに、危ないことしないでください――って、俺がいくら頼んだって、比奈さんは首を縦には振ってくれないんでしょう? だったら、質問にくらい答えてください。じゃないと、俺、俺……」
胸のあたりから込み上げてきたものを、ぐっと呑み込んで続ける。
「比奈さんがなにをするつもりかなんて、どうだっていいんです。ただ、なにかあったときのために居場所だけは知っておきたいんです。それで……それで、もしも比奈さんの手に余るようなことがあったときはすぐに駆けつけることができたらって。俺にはおっさんみたいな力はねーっすけど、この間みたいなことがあったときに救急車呼んで付き添うくらいはできますから」
違う。それくらいのことしか、できないのだ。
唇を噛んで、また返事を待つ。言いたいことは、すべて言った。それでも比奈がなにも教えてくれないというのなら、もう諦めるしかない。
「十間くん、ありがとう」
長すぎる間を空けて聞こえてきたのは、囁きにも似た声だった。
「十間くんは、私みたいな大人になっちゃ駄目だよ」
「なに言ってんすか!」
あきらは携帯に向かって、今度こそ声を荒らげた。どれだけ情けなくなっても泣くことだけは堪えようと思っていたのに、声は涙交じりになってしまった。どこまでも子供っぽい自分に失望しながら、それでも言葉だけは強気に告げる。意地だった。
「人の人生を変えておいて、自分みたいになるなとか勝手なこと言わないでください。俺が大人になるまで憧れさせてください。俺は比奈さんと出会ったから、大人も悪くねーって思えるようになったんです。それを否定しないでください。がっかりさせないでください。じゃないと、あんたに説得されてあいつらと違う道を選んだ俺が惨めだ。裏切られるくらいなら、俺も永遠の子供でよかった。迷子のままでよかった……」
電話越しに、比奈が息を呑む気配が伝わってくる。
「後悔させたくないって、言ったじゃないっすか。比奈さん」
卑怯な言い方だ。
それは、比奈の良心と責任感につけ込んだ脅しだった。後悔を匂わす一言は、彼女の心に葛藤を生んだだろう。傷付けもしただろう。あきらは無意識に拳を握って、自己嫌悪に震えた。
沈黙が長引く。
「……廃ビル」
不意に、比奈の声が聞こえてきた。
「え?」
「営業所の南にシャッター街があるのは分かる?」
「は、はい」
「そこの近くの廃ビル。多分、十間くんが思うような大事にはならないと思うけど……」
「多分とか、思うとか、そういうのが当てにならないんです。いつもなら断言してくれるじゃないスか。大丈夫だって、言ってくれるじゃないスか。俺は――」
「ごめんね。戻ったら埋め合わせはするから」
そんな言葉を最後に、前触れもなく通話が切れる。もう比奈とは繋がっていない携帯を握りしめたまま、あきらは複雑な心地で窓の外に視線を投じた。
いくつもの建物が重なって、彼女の言った廃ビルは見えない。
「埋め合わせをしてもらいたいわけじゃねえし。そういう風にガキ扱いされるの、むかつく」
そう毒づいてみたところで、彼女が聞いているわけではないことは分かっていたが――
「ちょっと、あきら! どこで休憩してんのよ」
常盤の呼ぶ声が聞こえてきた。よく知った、呑気な声も。
「おい、あきらー。あきら、いる? 一件、仕事頼みたいんだけどさ」
名島瑠璃也だ。
また嫌なタイミングで厄介なやつが来た――と、あきらは顔をしかめた。
(あの人が来て、面倒が起こらなかったためしがないんだ)
今は、彼の持ち込むトラブルに付き合っている暇などないというのに。
とはいえ、ずっとそうして隠れているわけにもいかないことは分かっていた。両手でごしごしと顔を擦ってから、あきらは仕方なく声を張り上げた。
「いますよ。今、行きます」
三.〝太郎〟のいない物語
岡山太郎は考えていた。
焦りながらも、どこへ行くべきか考えていた。辰史も丑雄も携帯の電源を切っているらしい。二人とも、連絡がつかない。秋寅にも連絡をしてみたが、二人の居場所は想像がつかないとのことだった。彼の式神を使えば二人を捜すこともできたのかもしれないが、タイミング悪く上海に帰ってしまったばかりである。或いは、丑雄の妻がなにか知っているかもしれない――と疑ってもみたが、その可能性は秋寅が否定した。彼にしては珍しく断言する口調で――
「いや、それはないよ。絶対ない」
「どうして分かるんです?」
「言ったら怒られちゃうからさ。これから辰ちゃんに引導を渡そうってのに丹塗矢の当主は斯くあるべし~なんて説教されたら、テンション下がるじゃない。心配もかけちゃうしね。恐妻家で愛妻家なんだよ、従兄さんは」
と、そんなことを言った。
(そうは言っても、他に二人のことを知っていそうな人なんて……)
一人、いた。
ふと左右を見渡して、その店の看板に目を留めた太郎はハッと気付いた。
――幻影書房。
以前、鬼堂と辰史が丑雄の話をしていたのを聞いたことがある。尊の生前から蛟堂と幻影書房は付き合いがあったというし、鬼堂なら二人の居場所に心当たりがあるかもしれない。辰史が彼になにかを相談するとは考えにくいが、あの古書店の店主には知らないことなどないような雰囲気がある。
「鬼堂さん……!」
一縷の望みとともに、店に駆け込む。と、中からは涼しげな返事が返ってきた。
「おや、太郎くん。どうしたんです?」
鬼堂六だ。なんの懸念もなしに飛び込んできたが、考えてみればこの店主が店番をしている姿は珍しい。日頃は店を瑠璃也に任せて、彼自身は仕入れに出かけていることがほとんどである。
本に値札を付ける男の姿を見て、太郎は安堵した。
「よかった……これで鬼堂さんまでいなかったら、どうしようかと……」
「私まで? というと、もしかして辰史くんのことを探しているんですか?」
「叔父さんがどこにいるか、知っているんですか? 鬼堂さん!」
手応えを感じて、アンティークデスクの奥にいる鬼堂の方に体を乗り出す。デスクの上に積まれていた本がその拍子に何冊か崩れたが、鬼堂は焦った風もなくすべてを片手で受け止めた。
「落ち着いてください、太郎くん。紅茶でもいかがです? コーヒーも、あるにはありますが」
「いえ、いいです」
鬼堂の人形めいた微笑と穏やかな口調が、今はもどかしい。
「それより叔父さんたちのことを――鬼堂さんが知っていることを、教えてください」
詰め寄る太郎に、彼は少しも表情を変えることなくかぶりを振った。
「残念ながら、私が実際に体験した物語は一つとしてないんですよ」
物語。
鬼堂の口から出たのでなければ、茶化されたように思ったかもしれない。まるで他人事のようにそう言った古書店の店主は、手にしていた本をデスクに戻した。店の奥から赤いずきんをかぶった少女がティーカップを運んでくる。金髪の巻き毛と青い目は美しいが、どことなく我儘そうな雰囲気がある。少女は太郎の前にカップを置くと、一言も喋らずにつんと顎を反らして店の奥に引っ込んでしまった。鬼堂は苦笑している。
「すみませんね。今日は瑠璃也くんがいないので不機嫌なんですよ、彼女」
まるで赤ずきんのような少女が何者なのか、太郎は訊かなかった。この古書店が変わっていることは友人からも散々聞かされていたし、今はそんなことを気にしている場合でもない。
「あの、体験した物語はないってどういう意味です?」
「そうですね、分かりにくいのならこう言いましょう――私好みではありませんが。私自身は、これまで一度も事件の当事者になったことがないんです。巻き込まれたこともない。何度か助言という形で関わったことはありますが、それとて重要な役割ではなかった」
「では、なにも知らないと?」
そうは見えない。
太郎が疑わしげに訊き返すと、古書店の店主はくすりと笑った。
「そうですね。なにも知らない……というよりは、彼らの気持ちが分からないから説明できない、といった方が正しいですね。たとえば、いばら姫の王子はなにを思って命の危険も顧みずに見ず知らずの姫が眠る塔を目指したのか。出会ったばかりのロミオとジュリエットがどうしてあんなにも激しい恋に落ちたのか。人魚姫が何故、自分のことを覚えてもいない王子を想い続けたのか。泡となって消える道を選んだのか」
造り物のようなその顔に、きらりと感情が光る。
「君には分かりますか? 私には辰史くんと丑雄くんがどんな激しい想いに駆られて憎み合うのか、分からない。ですから、私の知っていることをそのまま君にお話しするわけにはいかないんです。読んだ物語を他人に話して聞かせるように、そこには私の想像が交じってしまいますから。本に宿る思念を愛する者として、想いを歪めて伝えることはできません」
「では、誰なら想いを歪めずに伝えてくれると?」
「登場人物――」
と言って、彼は赤いずきんの少女が消えていった店の奥に、ちらっと視線を投じた。
「登場人物? でも、辰史叔父さんや丑雄小父さんとは……」
連絡がつかない。と言おうとして、太郎は口を閉じた。
そんなことは分かりきっている。分かりきったことを改めて言葉にするというのは、鬼堂のイメージにそぐわない。彼の口から零れるものは溜息一つでさえ謎めいていて意味深である。だからこそ、辰史などは彼を敬遠するのであろうが――
彼の言葉に意味があると考えるのなら、〝登場人物〟は別に存在するのだ。
話の続きをじっと待つ。鬼堂はやはり〝本屋〟だった。〝登場人物〟でも〝語り手〟でもない。物語と人とを出会わせる者。彼はややあって、その美しい顔に張り付けた笑みを深くした。
「君の親友」
「え?」
「君の親友、瑠璃也くんですよ」
「瑠璃也が?」
そこで友人の名前が出てきたのは、意外だった。
「どうして……ああ、そういえば瑠璃也は辰史叔父さんと知り合ってから長いんでしたっけ」
小学校の頃に鬼堂を通じて知り合った、という話を聞いたような気がする。辰史は名島家に足を向けようとしないし、瑠璃也も辰史の在宅中は蛟堂に近寄りたがらないため、忘れがちではあるが。
太郎が瑠璃也と出会ったのは、中学生の時分である。今まで意識しなかったが、叔父の方が一年か二年ほど早く瑠璃也を知っていたことになるのだろう。
自分ばかりが蚊帳の外だったというのは複雑な心地ではあったが、一方で太郎は安堵した。叔父たちに比べると、あの友人は話の分かる方だ。事情を告げれば、恐らくは二つ返事で協力してくれるはずだった。ただ、一つだけ引っかかることはあったが――
(どうして、瑠璃也は僕になにも言ってこなかったんだろう)
事情を知っていたのなら、教えてくれてもよかったのではないか?
そんなことを考えていると、不意に鬼堂の声が答えてきた。
「手強いですよ」
「え?」
囁きにも似た言葉だった。気の緩んだところにすっと冷水を浴びせられたような心地で、太郎は鬼堂を見つめた。その顔には、いつも通り美しい微笑が浮かべられている。
「どういうことですか?」
聞き間違い――などということはあるまい。鬼堂に限って、杞憂を口にしてみせたということもないだろう。彼は何かを知っていて、忠告している。太郎が慎重に訊き返すと、鬼堂は眉を少しだけ下げて困ったような表情を作った。
「手強いって、瑠璃也が?」
怪訝に眉をひそめながら、訊き直す。古書店の店主は小さくかぶりを振った。
「いえ。瑠璃也くんは君も知っての通り、素直な性格ですから」
そう言いながら初めて嘆息し――
「君が知る以上に複雑なんですよ。辰史くんを取り巻く人間関係というのは」
「はあ」
「彼らの語る本音を受け入れる覚悟はありますか?」
「……あります」
「それなら、結構」
鬼堂はまた、にこりと微笑んだ。
「瑠璃也くんにはお使いを頼んでおりましてね。稲荷運送へ行けば、会えると思いますよ」
「稲荷運送ですか」
決して遠くはない。が、叔父たちの所在も分からない現状であちこち動き回りたくないというのが正直なところではある。顔をしかめる太郎に、古書店の店主はやはりどこまでも涼しげだった。
「急がば回れ、ですよ。太郎くん」
「はあ」
「若い人はなにかと急ぎたがるものですけどね。御伽噺を思い出してみてください。欲に目が眩んだ者、目先の瑣末に囚われた者は焦りすぎて物事の本質を見落としてしまう。正しい手順を踏んだ者にこそ、幸福の扉が開かれる」
「正しい、手順……」
「とはいえ、寄り道をして狼に食べられてしまった者もいるんですけどね。誰とは言いませんが」
鬼堂が冗談めかしてそう付け加えると、何故か奥から林檎が飛んできた。林檎は精確に後頭部をめがけて投げられたようだったが、彼は振り返ることもなく片手でそれを受け止めた。
「さあ、私の話はここまでです。物語を終わりまで進めたら、また瑠璃也くんといらっしゃい」
「そうします」
「そのときは、私が聞き手に回りますよ。願わくは、君がハッピーエンドに導かれんことを」
そうやって誰かに送り出してもらうのは久々な気がした。入り口のところで、太郎は店の中を振り返った。店主の位置も、笑顔も、最初から少しも変わっていない。
やはり、出来がよすぎる人形のようだ――と思いながら、太郎は彼に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いえいえ、お礼には及びません」
人形よりも美しい男の、独り言にも似た声が聞こえてくる。
「私もどうしたものかと思っていたんですよ。君の親友はあれでなかなかに義理堅いものでしてね。辰史くんとの約束と君との友情との板挟みになって、随分と悩んでいたようですから」
そのとき営業所にいたのは蘇芳で、彼はあきらの様子を見るとすぐに配送中の比奈を呼びだした。彼自身は休憩時間だったらしいが、そんなことはおくびにも出さずに残りの配送は代わるというようなことを彼女に告げていた。戻ってきた比奈も、あきらを責めたりはしなかった。
蘇芳の入れたコーヒーが、やけに苦かったことを覚えている。比奈が控えめに笑って、少し甘いカフェオレを作り直してくれたことも。
事情を説明しながら、あきらは不覚にも泣いてしまった。両親も妹も鬱陶しいばかりだと思っていたが、二十歳までという期限を突き付けられ初めて家族に甘えていた自分に気付いたのだ。
他人の優しさを噛みしめながら思ったことは、比奈にまで見捨てられたらもうどうにもならなくなってしまうということだった。気付けば頭を下げていた。雇ってくれと、すがり付いていた。比奈は少し困った顔をしていたが、あきらを突き放したりはしなかった。
「じゃあ、まずはバイトってことでどうかな。うちの仕事は特殊だから、十間くんには辛いかもしれないし。他にいい仕事がないか一緒に探しながら、頑張ろうか」
それから彼女は金貸しに連絡をつけると、返済が長引いて利子が嵩むのも可哀想だからといって一括であきらの借金を払ってくれた。あきらは稲荷運送で働きながら、肩代わりしてもらった分を少しずつ比奈に返していくことになった。そのために、比奈が報復屋との間で立てていた返済計画が狂ったことは少し後に知ってしまった。男が比奈の恋人であることを知ったのも、同じ頃だった。
現実世界で会った報復屋は、思念世界で見たよりもいっそう尊大だった。我儘で大人げなかった。
「まったく、比奈の人のよさには呆れるぜ。急に返済計画を組み直してくれ、なんて言うから何事かと思えば、こんなどこの馬の骨とも分からないガキのために預金解約してやったとか」
「本人の前で、やめてください。お小言は二人のときに、いくらでも聞くので……」
「いいや、言わせてもらうぞ。お前、初めからこいつのことを随分と気に掛けていただろう? それも気に入らなかったんだ。助言だけだって不公平なのに、雇った挙げ句に借金の肩代わりまでしてやって、俺には事後承諾――」
「助言というか、確かに声はかけましたけど。依頼前の話ですよ」
「雇ったのは?」
「人手不足なんです。バイトを募集しても、男性は社長が追い返してしまうので」
「借金――」
「すみません。それだけは、勝手なことをして迷惑かけたって思っています。もし支障があるようでしたら、神山さんにお借りして辰史さんの方には前倒しで返しますから」
「いや、金の話じゃねえよ。お前に無理やり返させたいわけでもない。だからこそ、最初から神山を介さなかったんだ。ただ、お前がそこまで親身になってやるようなことかって俺は……」
機嫌の悪い彼に睨まれて、あきらは蛇に睨まれた蛙のような気分だった。比奈にまで見放されてしまったら、そう考えると酷く落ち着かなくなった。無意識に、祈るように手を組んで比奈を見つめる。と、彼女はあきらを見て少し懐かしむような顔をした。
「私、考えたんです。もしも私がこの子と同じような状態で誰の助けもなく生きていかなければならなかったら、どうなっていたのかって。大学を辞めて、仕事を探して、お金を返すだけの生活でも、生きているだけましだと思えたのか。或いは、向こう側に残ればよかったと後悔していたのか――今の私は、そんな曖昧な想像しかできない。それは辰史さんが絶対に後悔させないと言ってくれて、実際に後悔しないよう私を支えてくれたからなんです」
当時も今も、比奈の事情は分からない。――私も同じ選択を迫られたことがあったけど、あなたのようにはできなかった。親身になって、逃げるなと言ってくれる人がいて、ようやく戻ってくることができた――思念世界から戻った折に聞いた、その言葉がすべてだ。
ただ、彼女に逃げるなと言った相手を予想することは難しくなかった。
「他人事じゃないんです。自業自得だって、突き放したくないんです。勝手に苦労して、後悔して生きればいいとも思えないんです。この子をこちら側に引き留めたのは私だし、辰史さんにしてもらったことを人に返すのが私の償いなんだとも思ったから」
そう言われてしまえば、報復屋もそれ以上ごねる気にはなれなかったのだろう。
「お前も変なとこ生真面目っていうか、頑固だよな」
と溜息交じりに言って、渋々折れたのだった。
実際――当時の稲荷運送は、比奈を含めて七人。人手不足というのは、あきらを雇うための嘘というわけでもなかった。むしろ、切実な問題だった。その頃の比奈はほとんど営業所に詰めていたというし、どの業務でもこなす副所長の常盤は猫の手も借りたいと嘆くありさまだった。
以前には、異能者専用の運送業者がいなかった。
思念の他にもなにか特別な力の秘められた物を人に送るとき、異能者たちは一般の運送会社を利用した。或いは、式神のようななにか特殊な力で直接相手に届けることもあった。途中で事故が起こったとしても、一般人にはなにが起こったか分からないのだからいいだろう――と彼らが思っていたわけではないが、他の手段がないのだから仕方がなかったとも言える。
そんな異能者たちの微妙な不便を解消したのが、稲荷運送である。
常盤緑、蘇芳長春、烏羽京、岩井千歳、石竹桃、源梅子。彼らは、思念への感応能力こそ高いものの異能者としては力の弱い部類に入る。普通の人と同じ生活に身をおくには支障があり、かといって特殊な職に就くには力が足りない。稲荷運送は、そうした半端な異能者の集まりである。しかし、たとえ視ること感じることしかできなかったとしても、不思議な力の作用する世界を知らない人が、なにも知らないまま事件に巻き込まれる事態を防ぐことはできる。
発足から徐々に、異能者たちからの注目は集まっていた。
そうした理由で忙しさが増していたことも、幸いだった。従業員の中に、あきらの加入を反対する者はなかった。蘇芳と烏羽などは、同性の後輩ができたことを喜んだ。
あきらは思念を視ることも感じることもできない。普通の人よりも鈍いくらいである。辰史に〝ある種の才能〟と評されるほどの鈍さが、結果的にあきらを救ったのだ。
その鈍さから、知らずにトラブルの種を持ち込むことはあったものの、それも業務に支障をきたすほどではなかった。異能者である他の従業員たちも日頃からなにかしらの事件に巻き込まれていたため、まったく思念に影響されることのないあきらの存在は重宝がられた。
それから一年が経った、ある日。
仕事が終わった後に、応接室に押し込まれた。なんの飾り気もないその部屋が、まるで誕生日のような特別な席に変わっていた。実際、その日はあきらの誕生日だった。いつもは人を扱き使う常盤が、なにもしなくていいとあきらをソファに座らせ、蘇芳が料理を取り分けた。烏羽と千歳は通勤に使えと、クロスバイクをくれた。ケーキを作ったのは、桃だった。日頃は無口な梅子も、ぼそぼそと祝いの言葉を贈ってくれた。
比奈は――
比奈は、あきらの前に一枚のカードを差し出した。稲荷運送の社員証だった。〝おめでとう〟と〝これからも、よろしくね〟という二つの言葉で胸がいっぱいになった。正社員になったのだ。実感のないまま、その事実を家族に告げた。けじめをつける必要があった。二十歳までという約束の上に胡坐をかくつもりはなかった。
すぐに出て行くよう言われることも、覚悟していた。が――母親は泣いて喜んだ。父親はあきらの肩を叩くと、頑張ったなと言った。妹は可愛げなく毒づいていたが、次の日には就職祝いだといってコンビニで菓子を買ってきた。
家族から見捨てられたのではなかった。見守られていたことに気付いたあきらは、何年かぶりに感謝の言葉を口にした。もう、そうして素直になることを恥ずかしいとは思わなかった。いつの間にか、悪夢に脅かされることもなくなっていた。
***
「あ、比奈さん」
ひたすら待ち続けていると、やがて呼び出し音がぷつりと途切れた。一拍の間。その間があまりに長く感じられたため、あきらは少しだけ不安になった。が、ややあって比奈は応えた。
「どうしたの? 十間くん。ちょっと今から用事があるから、急ぎじゃなかったら――」
声は苦い響きを伴っていた。通話に出るか出まいか、ずっと迷っていたのだろう。あきらは、そんな彼女を遮って叫んだ。
「急ぎっす。今じゃないと駄目なんです!」
切られてしまわないように、悲痛な声を絞る。この状況で恰好をつけようとも思えなかったし、情に訴えてどうにかなるのなら、いくらでも子供っぽく振る舞ってやるという心境でもあった。
「今、どこにいるんスか……?」
比奈は答えない。いつものように、大丈夫だから、とか、心配しないで、という言葉で誤魔化すことさえしなかった。あきらはいっそう不安になった。
会話の空白は、こんなに恐ろしいものだっただろうか?
「今から、どこに行くんスか。教えてくださいよ! 比奈さん……」
沈黙に耐えられなくなって、あきらは声を荒らげ――すぐにひそめた。やはり、怖かったのだ。話し合いのできる状態ではないと思われてしまうことが。この不安定で頼りない声だけの繋がりは、ボタン一つで簡単に断ち切ってしまうことができる。いつだって、比奈がそうと思い立ったときに。
癇癪を起こすこともできずに、ただ彼女が答えてくれることを静かに祈るしかできない。
それは、たとえば雨の日に傘も差さずに人を待ち続けるような心境にも似ていた。幼い頃に一度だけ、そういう経験をしたことがある。そのときは誰かが迎えに来てくれたのか、それとも見かねた人が声をかけてくれたのか――
(どっちだったかな……)
結末を覚えていない過去の記憶が目の前の状況と重なる。胸を押し潰されそうになりながら、三度あきらが口を開こうとしたとき。ようやく比奈の声が聞こえてきた。
「今は――まだ、部屋だけど」
「だけど? おっさんが決着をつけるんですよね? 比奈さんも、一緒に行くんですよね?」
「それは……」
歯切れが悪い。たまらず、あきらはすがる声でまくし立てた。
「行かないでください。病み上がりだってのに、危ないことしないでください――って、俺がいくら頼んだって、比奈さんは首を縦には振ってくれないんでしょう? だったら、質問にくらい答えてください。じゃないと、俺、俺……」
胸のあたりから込み上げてきたものを、ぐっと呑み込んで続ける。
「比奈さんがなにをするつもりかなんて、どうだっていいんです。ただ、なにかあったときのために居場所だけは知っておきたいんです。それで……それで、もしも比奈さんの手に余るようなことがあったときはすぐに駆けつけることができたらって。俺にはおっさんみたいな力はねーっすけど、この間みたいなことがあったときに救急車呼んで付き添うくらいはできますから」
違う。それくらいのことしか、できないのだ。
唇を噛んで、また返事を待つ。言いたいことは、すべて言った。それでも比奈がなにも教えてくれないというのなら、もう諦めるしかない。
「十間くん、ありがとう」
長すぎる間を空けて聞こえてきたのは、囁きにも似た声だった。
「十間くんは、私みたいな大人になっちゃ駄目だよ」
「なに言ってんすか!」
あきらは携帯に向かって、今度こそ声を荒らげた。どれだけ情けなくなっても泣くことだけは堪えようと思っていたのに、声は涙交じりになってしまった。どこまでも子供っぽい自分に失望しながら、それでも言葉だけは強気に告げる。意地だった。
「人の人生を変えておいて、自分みたいになるなとか勝手なこと言わないでください。俺が大人になるまで憧れさせてください。俺は比奈さんと出会ったから、大人も悪くねーって思えるようになったんです。それを否定しないでください。がっかりさせないでください。じゃないと、あんたに説得されてあいつらと違う道を選んだ俺が惨めだ。裏切られるくらいなら、俺も永遠の子供でよかった。迷子のままでよかった……」
電話越しに、比奈が息を呑む気配が伝わってくる。
「後悔させたくないって、言ったじゃないっすか。比奈さん」
卑怯な言い方だ。
それは、比奈の良心と責任感につけ込んだ脅しだった。後悔を匂わす一言は、彼女の心に葛藤を生んだだろう。傷付けもしただろう。あきらは無意識に拳を握って、自己嫌悪に震えた。
沈黙が長引く。
「……廃ビル」
不意に、比奈の声が聞こえてきた。
「え?」
「営業所の南にシャッター街があるのは分かる?」
「は、はい」
「そこの近くの廃ビル。多分、十間くんが思うような大事にはならないと思うけど……」
「多分とか、思うとか、そういうのが当てにならないんです。いつもなら断言してくれるじゃないスか。大丈夫だって、言ってくれるじゃないスか。俺は――」
「ごめんね。戻ったら埋め合わせはするから」
そんな言葉を最後に、前触れもなく通話が切れる。もう比奈とは繋がっていない携帯を握りしめたまま、あきらは複雑な心地で窓の外に視線を投じた。
いくつもの建物が重なって、彼女の言った廃ビルは見えない。
「埋め合わせをしてもらいたいわけじゃねえし。そういう風にガキ扱いされるの、むかつく」
そう毒づいてみたところで、彼女が聞いているわけではないことは分かっていたが――
「ちょっと、あきら! どこで休憩してんのよ」
常盤の呼ぶ声が聞こえてきた。よく知った、呑気な声も。
「おい、あきらー。あきら、いる? 一件、仕事頼みたいんだけどさ」
名島瑠璃也だ。
また嫌なタイミングで厄介なやつが来た――と、あきらは顔をしかめた。
(あの人が来て、面倒が起こらなかったためしがないんだ)
今は、彼の持ち込むトラブルに付き合っている暇などないというのに。
とはいえ、ずっとそうして隠れているわけにもいかないことは分かっていた。両手でごしごしと顔を擦ってから、あきらは仕方なく声を張り上げた。
「いますよ。今、行きます」
三.〝太郎〟のいない物語
岡山太郎は考えていた。
焦りながらも、どこへ行くべきか考えていた。辰史も丑雄も携帯の電源を切っているらしい。二人とも、連絡がつかない。秋寅にも連絡をしてみたが、二人の居場所は想像がつかないとのことだった。彼の式神を使えば二人を捜すこともできたのかもしれないが、タイミング悪く上海に帰ってしまったばかりである。或いは、丑雄の妻がなにか知っているかもしれない――と疑ってもみたが、その可能性は秋寅が否定した。彼にしては珍しく断言する口調で――
「いや、それはないよ。絶対ない」
「どうして分かるんです?」
「言ったら怒られちゃうからさ。これから辰ちゃんに引導を渡そうってのに丹塗矢の当主は斯くあるべし~なんて説教されたら、テンション下がるじゃない。心配もかけちゃうしね。恐妻家で愛妻家なんだよ、従兄さんは」
と、そんなことを言った。
(そうは言っても、他に二人のことを知っていそうな人なんて……)
一人、いた。
ふと左右を見渡して、その店の看板に目を留めた太郎はハッと気付いた。
――幻影書房。
以前、鬼堂と辰史が丑雄の話をしていたのを聞いたことがある。尊の生前から蛟堂と幻影書房は付き合いがあったというし、鬼堂なら二人の居場所に心当たりがあるかもしれない。辰史が彼になにかを相談するとは考えにくいが、あの古書店の店主には知らないことなどないような雰囲気がある。
「鬼堂さん……!」
一縷の望みとともに、店に駆け込む。と、中からは涼しげな返事が返ってきた。
「おや、太郎くん。どうしたんです?」
鬼堂六だ。なんの懸念もなしに飛び込んできたが、考えてみればこの店主が店番をしている姿は珍しい。日頃は店を瑠璃也に任せて、彼自身は仕入れに出かけていることがほとんどである。
本に値札を付ける男の姿を見て、太郎は安堵した。
「よかった……これで鬼堂さんまでいなかったら、どうしようかと……」
「私まで? というと、もしかして辰史くんのことを探しているんですか?」
「叔父さんがどこにいるか、知っているんですか? 鬼堂さん!」
手応えを感じて、アンティークデスクの奥にいる鬼堂の方に体を乗り出す。デスクの上に積まれていた本がその拍子に何冊か崩れたが、鬼堂は焦った風もなくすべてを片手で受け止めた。
「落ち着いてください、太郎くん。紅茶でもいかがです? コーヒーも、あるにはありますが」
「いえ、いいです」
鬼堂の人形めいた微笑と穏やかな口調が、今はもどかしい。
「それより叔父さんたちのことを――鬼堂さんが知っていることを、教えてください」
詰め寄る太郎に、彼は少しも表情を変えることなくかぶりを振った。
「残念ながら、私が実際に体験した物語は一つとしてないんですよ」
物語。
鬼堂の口から出たのでなければ、茶化されたように思ったかもしれない。まるで他人事のようにそう言った古書店の店主は、手にしていた本をデスクに戻した。店の奥から赤いずきんをかぶった少女がティーカップを運んでくる。金髪の巻き毛と青い目は美しいが、どことなく我儘そうな雰囲気がある。少女は太郎の前にカップを置くと、一言も喋らずにつんと顎を反らして店の奥に引っ込んでしまった。鬼堂は苦笑している。
「すみませんね。今日は瑠璃也くんがいないので不機嫌なんですよ、彼女」
まるで赤ずきんのような少女が何者なのか、太郎は訊かなかった。この古書店が変わっていることは友人からも散々聞かされていたし、今はそんなことを気にしている場合でもない。
「あの、体験した物語はないってどういう意味です?」
「そうですね、分かりにくいのならこう言いましょう――私好みではありませんが。私自身は、これまで一度も事件の当事者になったことがないんです。巻き込まれたこともない。何度か助言という形で関わったことはありますが、それとて重要な役割ではなかった」
「では、なにも知らないと?」
そうは見えない。
太郎が疑わしげに訊き返すと、古書店の店主はくすりと笑った。
「そうですね。なにも知らない……というよりは、彼らの気持ちが分からないから説明できない、といった方が正しいですね。たとえば、いばら姫の王子はなにを思って命の危険も顧みずに見ず知らずの姫が眠る塔を目指したのか。出会ったばかりのロミオとジュリエットがどうしてあんなにも激しい恋に落ちたのか。人魚姫が何故、自分のことを覚えてもいない王子を想い続けたのか。泡となって消える道を選んだのか」
造り物のようなその顔に、きらりと感情が光る。
「君には分かりますか? 私には辰史くんと丑雄くんがどんな激しい想いに駆られて憎み合うのか、分からない。ですから、私の知っていることをそのまま君にお話しするわけにはいかないんです。読んだ物語を他人に話して聞かせるように、そこには私の想像が交じってしまいますから。本に宿る思念を愛する者として、想いを歪めて伝えることはできません」
「では、誰なら想いを歪めずに伝えてくれると?」
「登場人物――」
と言って、彼は赤いずきんの少女が消えていった店の奥に、ちらっと視線を投じた。
「登場人物? でも、辰史叔父さんや丑雄小父さんとは……」
連絡がつかない。と言おうとして、太郎は口を閉じた。
そんなことは分かりきっている。分かりきったことを改めて言葉にするというのは、鬼堂のイメージにそぐわない。彼の口から零れるものは溜息一つでさえ謎めいていて意味深である。だからこそ、辰史などは彼を敬遠するのであろうが――
彼の言葉に意味があると考えるのなら、〝登場人物〟は別に存在するのだ。
話の続きをじっと待つ。鬼堂はやはり〝本屋〟だった。〝登場人物〟でも〝語り手〟でもない。物語と人とを出会わせる者。彼はややあって、その美しい顔に張り付けた笑みを深くした。
「君の親友」
「え?」
「君の親友、瑠璃也くんですよ」
「瑠璃也が?」
そこで友人の名前が出てきたのは、意外だった。
「どうして……ああ、そういえば瑠璃也は辰史叔父さんと知り合ってから長いんでしたっけ」
小学校の頃に鬼堂を通じて知り合った、という話を聞いたような気がする。辰史は名島家に足を向けようとしないし、瑠璃也も辰史の在宅中は蛟堂に近寄りたがらないため、忘れがちではあるが。
太郎が瑠璃也と出会ったのは、中学生の時分である。今まで意識しなかったが、叔父の方が一年か二年ほど早く瑠璃也を知っていたことになるのだろう。
自分ばかりが蚊帳の外だったというのは複雑な心地ではあったが、一方で太郎は安堵した。叔父たちに比べると、あの友人は話の分かる方だ。事情を告げれば、恐らくは二つ返事で協力してくれるはずだった。ただ、一つだけ引っかかることはあったが――
(どうして、瑠璃也は僕になにも言ってこなかったんだろう)
事情を知っていたのなら、教えてくれてもよかったのではないか?
そんなことを考えていると、不意に鬼堂の声が答えてきた。
「手強いですよ」
「え?」
囁きにも似た言葉だった。気の緩んだところにすっと冷水を浴びせられたような心地で、太郎は鬼堂を見つめた。その顔には、いつも通り美しい微笑が浮かべられている。
「どういうことですか?」
聞き間違い――などということはあるまい。鬼堂に限って、杞憂を口にしてみせたということもないだろう。彼は何かを知っていて、忠告している。太郎が慎重に訊き返すと、鬼堂は眉を少しだけ下げて困ったような表情を作った。
「手強いって、瑠璃也が?」
怪訝に眉をひそめながら、訊き直す。古書店の店主は小さくかぶりを振った。
「いえ。瑠璃也くんは君も知っての通り、素直な性格ですから」
そう言いながら初めて嘆息し――
「君が知る以上に複雑なんですよ。辰史くんを取り巻く人間関係というのは」
「はあ」
「彼らの語る本音を受け入れる覚悟はありますか?」
「……あります」
「それなら、結構」
鬼堂はまた、にこりと微笑んだ。
「瑠璃也くんにはお使いを頼んでおりましてね。稲荷運送へ行けば、会えると思いますよ」
「稲荷運送ですか」
決して遠くはない。が、叔父たちの所在も分からない現状であちこち動き回りたくないというのが正直なところではある。顔をしかめる太郎に、古書店の店主はやはりどこまでも涼しげだった。
「急がば回れ、ですよ。太郎くん」
「はあ」
「若い人はなにかと急ぎたがるものですけどね。御伽噺を思い出してみてください。欲に目が眩んだ者、目先の瑣末に囚われた者は焦りすぎて物事の本質を見落としてしまう。正しい手順を踏んだ者にこそ、幸福の扉が開かれる」
「正しい、手順……」
「とはいえ、寄り道をして狼に食べられてしまった者もいるんですけどね。誰とは言いませんが」
鬼堂が冗談めかしてそう付け加えると、何故か奥から林檎が飛んできた。林檎は精確に後頭部をめがけて投げられたようだったが、彼は振り返ることもなく片手でそれを受け止めた。
「さあ、私の話はここまでです。物語を終わりまで進めたら、また瑠璃也くんといらっしゃい」
「そうします」
「そのときは、私が聞き手に回りますよ。願わくは、君がハッピーエンドに導かれんことを」
そうやって誰かに送り出してもらうのは久々な気がした。入り口のところで、太郎は店の中を振り返った。店主の位置も、笑顔も、最初から少しも変わっていない。
やはり、出来がよすぎる人形のようだ――と思いながら、太郎は彼に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いえいえ、お礼には及びません」
人形よりも美しい男の、独り言にも似た声が聞こえてくる。
「私もどうしたものかと思っていたんですよ。君の親友はあれでなかなかに義理堅いものでしてね。辰史くんとの約束と君との友情との板挟みになって、随分と悩んでいたようですから」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
75
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。