蛟堂報復録

鈴木麻純

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9巻

9-2

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 なんとはなしに先日の出来事を思い出してしまって、丑雄は顔をしかめた。思念世界で〝哀れな兄〟に拒絶された後、一つだけ調べたことがある。影に棲む狐と宿主の関係について――だ。分かったことはおおむね、辰史の言っていたとおりだった。

(あいつの口ぶりでは、狐憑きはまだ死んでいないようだったが……)

 幸いであった、と言うべきなのだろう。相性がよくない相手であるとはいえ、流石さすがに殺してしまいたいとまでは思わない。一族に害を為そうとしていたわけではない、というなら猶更なおさらである。

(この件に片が付いたら、一応は謝罪に行くべきか。いや、しかし彼女が辰史と友誼ゆうぎを結んでいるとなると話がこじれるな。仇討あだうちとなると、伊緒里にもわざわいが及びかねん)

 辰史との決着を前に、家を守る妻のことはなるべく考えないようにしていた。負けるつもりはないが、彼女のことを思えばどうしても決心がにぶる。なにも告げずに来てしまったことを、少しだけ後悔もしていた。
 また、後悔。
 過去に思いを馳せ、どれだけ慎重に現在を選び取ったとしても、未来に後悔をしないで済むことなどないのかもしれない。ふっとそんな思いに囚われてしまって、丑雄は軽くかぶりを振った。

(いかんな。俺も、随分と弱い)

 望んでいた決着を、怖れてしまうとは。先日、辰史の覚悟を垣間かいま見たせいなのかもしれない。
 ――なあなあにするつもりはない。
 従弟はそう言った。その台詞せりふが、彼の決意を物語っていた。尊の後継者らしく、思念世界で決着をつけるつもりなのだろう。それも、道をたがえる原因となったあの『安達ヶ原』を使って。

(あいつも覚悟を決めた。もう、戻ることはできない)

 その世界で、自分たちはどんな役割を果たすことになるのか。
 自分と従弟とが当事者になろうとしている世界は、やはり想像しがたい。虚構と現実を関連づけて考えることは、尊に師事していた当時から苦手だった。ただ漠然ばくぜんと、どちらかがあちら側に残されるのだろうとは予感していた。
 ――こんなことなら、もっと遅くに来るべきだった。
 妙な細工を仕掛けさせないために早く来ていたのだが、一人の時間が長引くほど意味もなく感傷的になってしまう。あれこれと懸念することに意味はない。過去を思い返すことにも意味はない。今考えるべきは、思念世界での立ち回り方だけだ。いかに〝登場人物〟の影響を受けずに、丹塗矢丑雄として振る舞うことができるか。思念にみ込まれてしまえば、敗北しかない。
 或いは、どちらも思念の影響を受けなければ思念世界が崩壊するかもしれない。出口の確保という問題もあった。最後まで火雷が無事なら、然程さほどの問題はないが――
 鼓膜に微かな音が触れた。
 それはコンクリートに反響して、二重に響いている。カツン……カツン……と。妙に勿体もったいぶって聞こえたのは、その靴音の主を知っていたからか。
 自動ドアが取り払われてぽっかりと開いた入り口に、長身がたたずんでいる。両手をポケットに突っ込んだ尊大な態度は、いつもと同じだった。丑雄は彼の名前を呼んだ。

「辰史……」
「よォ、従兄にいさん。随分と早いじゃないか」

 親しげな応えとは裏腹に、辰史は敵意をき出しにしている。日頃の冷たさを思えば、過剰とも思えるほどだ。少しばかり、露骨でもあった。なにか企みでもあるのか――警戒しながら、丑雄は従弟の出方を待った。が、そんなこちらをあざわらって、従弟は大仰おおぎょうにかぶりを振った。

「思念世界で決着を付けると言ったんだ。不意打ちをするような真似はしないさ」

 ぱちん、と指を鳴らす。ひび割れて中から鉄筋ののぞいたコンクリ柱の陰から、一匹の蛇がするりと這い出した。青黒く輝く鱗を持った、目のない蛇――辰史の式神、地抉じえぐりである。
 地抉がカッと口を開く。あごの外れた口腔こうくうから現れたのは、丑雄にも見覚えのある木箱だった。辰史が少し体を屈めて、それを拾い上げる。

「ここまで来たら、もうご託を並べることに意味はない。問答だって、今更だ。何十回、何百回と繰り返したところでお前が俺の主張を受け入れることはないだろう。さっさと決着を付けようぜ」

 その手が、木箱の蓋をずらした。中には忌まわしい鬼女の面が鎮座していた。あの事件の後、尊が回収していたのだろう。手入れでもしたのか、鬼女面はあの日よりいっそう美しく、また執念に包まれているようにも見えた。恐ろしい。

「ああ」

 丑雄は動揺を押し隠して、壁際から離れた。早くしろ。とでも言いたげに、辰史が箱を突き出してくる。待たせている相手もいないというのに、なにをそんなにく必要があるというのか。従弟との距離を縮めて、恐る恐る箱の中身に手を伸ばす。ぎょろりと目を剥く鬼女の頬あたりに。



  二.時計のわにとロストボーイ


 今でもふとした瞬間に、頭の中で響くその音におびえることがある。
 忙しなくも規則正しい、秒針が時を刻む音。それはわにの腹から聞こえてくる。チク・タク・チク・タク。がその音を怖れたのは、仲間たちを置いて永遠の時間から抜け出したから――片腕を食われた海賊キャプテン・フックと同じ、大人になることをいとわなかったからだった。
 永遠の少年ピーター・パンが紡ぐ物語。けれど、彼らは少年以外のなにかになることはできない。
 そうと教えてくれたのは、天月比奈だった。思い出しながら、十間とおまあきらは携帯電話を握る手に力を込めた。呼び出し音は、続いている。まだ三コール、いや、これで四コール。それほど長い時間が経ったわけでもないのに、もうずっとそうして彼女が出てくれるのを待っているような気がする。持ち込みも集荷依頼も少ないため次の配送まではしばらく時間があるが、それでも十分とは言えない。いっそ、仕事を放り出してしまおうか……と、あきらは思う。
 比奈は公休である。とはいえ彼女のマンションは営業所から近かったし、休みの日でも大抵は連絡が付くようにしているから、完全に仕事と切り離される日は少ないのかもしれない。今日がその数少ない日でないことを願いながら待つ。どうしても、連絡を取らなければならない。
 発端は、常盤ときわみどり蘇芳すおう長春ながはるの話を立ち聞きしてしまったことだった。どちらも責任感が強いので、比奈の不在時には営業所を仕切っている。特に副所長を任されている常盤は比奈から信頼されていて、公私ともに親しくしているようでもある。だからこそ、その話を打ち明けられたのだろう。
 三輪辰史と丹塗矢丑雄の決着に、比奈が介入しようとしている――
 ぞっとするような話だ。彼女はつい先日、あの男に酷い目に遭わされたばかりではないか。時間はないが、止めなければならない。止められないまでも、話くらいは聞いておかなければならない。

(くそっ。おっさんは、なに考えてンだ……!)

 どういうつもりか、あの報復屋は電源を切って電話に出ようともしない。
 こういうときに比奈を巻き込むまいとするのが、あの報復屋ではなかっただろうか? そうだったはずだ。少なくとも、あきらが知る限り――ここ一年ほどでは、そうだった。彼は誰より比奈に対して過保護だったし、過剰なまでに心配性だったはずだ。
 あのときもそうだった。比奈と出会った日――


  ***


 子供であることを免罪符めんざいふにしていた。仲間たちは楽しみのために永遠の子供であることを願っていたが、あきらは大人に希望が持てないという消極的な理由からそこに留まっていたのだ。仲間であり続けるためには、なんでもやった。大人に隠れて煙草たばこを吸ったこともあるし、酒を飲んだこともある。どちらも好きにはなれなかったが、仲間たちの前でそんな素振りを見せることはなかった。不毛な毎日が続いたが、そうした意味のないことの繰り返しで大人になっていくのだと割り切っていた。もしかしたら、そんな自分に酔っていたのかもしれない。
 一方で仲間たちの心境は、また違ったようだ。狭いコミュニティの中で、彼らはいい気になっていた。大人よりも自由で、そして同じ年頃の子供たちより賢くて力もあるのだと誇っていた。
 愚かな勘違いに気付かなかった彼らは、やがてその狭いコミュニティの中でもおどおどした無力な一人――つまり級友の一人に狙いを定めて、攻撃を始めたのだった。
 暴行、恐喝きょうかつ脅迫きょうはく
 さまざまなやり方で、彼らは級友を追い詰めた。ありがちに〝いじめ〟という言葉を使うには、あまりに陰湿いんしつで卑劣だった。本人たちはパフォーマンスのつもりでもあったようだが、クラスメイトは誰一人として笑わなかった。笑えるはずがない。いつ、自分に矛先ほこさきが向くとも知れないのだ。当たり障りなくかわし続けられた仲間たちは、むきになって行為をエスカレートさせていった。
 流石に犯罪じみたいじめに加わる気にはなれず、かといって彼らをいさめることもできず、くだらない輪の中から抜けることもできず――あきらは仲間たちから付かず離れずのところで、その光景を眺めていた。
 担任の若い女性教師に、その問題を解決しろという方が酷な話ではあった。話も通じなければ、力でもかなわない年頃の少年たちをぎょすのは難しい。最初こそ彼らを諫めていたものの、次第に担任も体調を崩しがちになった。元より偏差値の高い高校ではなかったが、それにしても荒れきっていた。
 そんな日常は、突如として終わりを告げた。
 いつものように、仲間たちが級友を囲んでいた。そんな場面に偶然通りがかったのが比奈である。彼女の視線に気付いたとき、あきらは冷めた心地で予想した――あの女も、これまで見てきた通行人のように、なにも見なかったふりをして通り過ぎていくのだろう、と。同じように高をくくっていた仲間たちも、暴力を止めようとはしなかった。小突き回されていた級友でさえ、諦めきった顔でされるがままになっていた。
 が、結果はまったく違った。何故なぜなら、彼女は普通の人ではなかったからだ。
 比奈は怖れる様子もなく、級友と仲間との間に割って入った。むっとした仲間の一人が彼女に手を上げようとしたが、次の瞬間、硬直したのは彼の方だった。彼の影は、ありえない形にうごめいていた。恐ろしい体験にでも遭ったように彼が震え出すと、またたく間に恐怖は伝染していった。
 今思えば、影に潜った御霊がなにかをしていたのだろう。
 比奈は激昂していたようだから、もしかしたらその目は赤く光っていたのかもしれない――少し離れていたため、あきらには最後までなにが起こったのか分からなかったが――気付けば仲間たちは青い顔で戦意を喪失そうしつしていた。
 薄気味悪そうに逃げていく仲間たちの後を追うことも忘れて、あきらは呆然ぼうぜんとしてしまった。
 先に話しかけてきたのは、比奈だった。彼女は一度目をつむって、

「今は恰好かっこいいと思えるかもしれないけど、この先ずっとアウトローを続けるって辛いわよ」

 と、冷えた鳶色とびいろの瞳を向けてきた。
 しかられたわけではなかった。罵倒ばとうされたわけでもなかった。
 けれどその言葉は、今まで耳にしてきたものよりはるかに辛辣しんらつな響きを持っていて、胸に深く突き刺さった。考えないようにしていた未来への不安を見知らぬ女に指摘されて、あきらは逆上した。

「自分で助けてくれとも言えないような情けないやつをかばって、ガキ相手にもっともらしい説教かまして、それで満足かよ。正義の味方ごっこは幼稚園児相手にでもやってろよ、おばさん」

 それこそ、情けない八つ当たりだった。よくもまあ、比奈に向かってそんなことを言ったものである。思い出すたびに、当時の自分を消してしまいたいと赤面するあきらだった。
 そのときの比奈も、恐らく苦笑していたのだろう。表情まではっきりと記憶しているわけではないが。

「袖り合うも他生たしょうえんって言うでしょう? 私も人に助けてもらって生きているから、困っている人を見かけたら助けになりたいと思うだけ。お説教もね。あなたはさっきの子たちと違って、楽しくなさそうだったし――」
「そういうの、余計なお世話だっての。誰も助けてくれなんて言ってねえし、そもそも俺は困ってねえし。そこのそいつだって、あんたが助けたから明日からはもっと酷くいじめられんだ」

 悪態で返したあきらに、比奈はなにも言わなかった。えて無視をした、というよりはすっかり怯えきった級友のフォローを優先したようだった。道に散らばった持ち物を手早くき集め、服に付いた泥を払い、彼に酷い怪我がないことを確認すると、タクシーを掴まえて病院で診断書を書いてもらうよう指示したのだった。あきらはなんとなくむっとしながら、その光景を眺めていた。助言などしてもらったところで、自分たちのような子供が事態を変えられるはずがない。中途半端に手を出すくらいなら、最初から無視すればいいのに――と、そんなことを考えていたような気がする。
 もしかしたら、その強がりとおどしが級友に報復を決意させたのかもしれない。
 それから、級友は学校に来なくなった。
 仲間たちは不登校になった彼のことを笑い、そのうち学校も退学するだろうという話で盛り上がっていた。仲間たちと、彼らの目に留まらないよう息をひそめるクラスメイトたち――生贄いけにえはいなくなった。次の標的にされるのは誰かと、怖れていたのだ――そのどちらからも少しだけ距離を置きながら、あきらは胸の内で比奈の言葉を反復せずにはいられなかった。
 くだらない日常を経て、いつかは普通の大人になるのだろう。
 そう漠然と考えていただけに、突如として目の前に〝変わることのない未来〟を突き付けられて、不安が胸にのしかかってきた。言葉のとげを抜くこともできず、陰鬱いんうつな日々を過ごした。ふとした瞬間に、彼女を問い詰めてみたいと思うこともあった。
 教師ではない。親でも、身内でもない。ただの他人が日頃なにを考えているのか、狭い世界で得意気とくいげになっている子供の振る舞いを、未来像をどう見ているのか、知りたくなったのだ。
 彼女と再び会ったのは、級友が不登校になってから十日後だった。
 放課後。いつものたまり場に、それは突然やってきた。犬のような狐のような、とにかく四つ足の、黒いけものだった。影だった。影は口に咥えていたなにかを、あきらたちの輪の中にぽいと放り投げて、現れたときと同様に音もなく消えたのだった。
 そのとき起こったことを、言葉で説明するのは難しい。頭の中をかき回されて、無理やり中身を引きり出されるような不快感があった。気付くと、あきらたちは見知らぬ場所にいた。夜空と時計台が見えたような気がしたが、それも一瞬にして消え去った。耳の奥に鐘の音。その余韻よいんも残っているうちに、景色はがらりと変わっていた。
 やわらかな陽射ひざしで淡く色付く、雲の上。そう、我に返ったときには雲の上だった。誰に教えられるでもなく、そこが永遠の島――ネバーランドであることは分かった。仲間たちは初めこそ混乱していたものの、やがてそれぞれが好き放題に振る舞い始めた。そこは自由を求める少年たちにとって、夢のような島だった。小さな妖精がまとう魔法の粉で、どこへでも飛んでいくことができる。海賊という名の大人をどれだけ痛めつけたところで、文句を言う者もいない。森では妖精たちが、集落ではインディアンが、入り江では人魚たちが、少年らを歓迎したたえるのだ。
 いい気になる仲間たちを横目に、あきらだけがなんとなく居心地の悪い思いをしていた。
 仲間たちが世界に溶け込むにつれ、海賊との抗争は熾烈しれつになっていった。決戦のときは訪れ、髑髏どくろの旗と巨大な砲台を載せた海賊船――ジョリー・ロジャー号でキャプテン・フックと対峙した。
 これがまた、大人の嫌なところを凝縮ぎょうしゅくしたような男であった。
 傲慢で、威圧的で、鼻持ちならない。小馬鹿にされた仲間たちは激怒したが、彼を前に手も足も出なかった。所詮しょせんは子供の浅知恵だと言わんばかりに、狡猾こうかつな彼を前に為すすべもなく捕らえられた。リーダー格だった仲間が縄で縛られたまま海に突き落とされそうになった、そのとき――
 音が聞こえた。秒針が時を刻む音だ。それは鰐の腹から聞こえてきた。人の味を覚えた鰐。大人の味を占めた鰐。仲間たちは鰐の乱入を喜んだ。
 しかし何故か、あきらはフックに感じた以上の恐怖をその鰐に抱いた。
 鰐はフックを呑み込んだ。あきらの仲間たちは意気揚々とジョリー・ロジャー号を奪取して、ネバーランドを抜け出した。永遠の島を捨てたわけではなく、老いに支配された哀れな世界を冷やかそうと思いついただけだった。ところが、愕然がくぜんとしたのはあきらを含めた少年たちの方だった。
 冷やかそうにも、元の世界とよく似たそこにあきらたちを知る者はいなかった。
 皆、大人になっていく。高校を卒業し、大学や専門学校に進学し、或いは就職し、妻や夫となる人と出会い、それぞれの家族を作っていく。老いと秩序に縛られてはいるが、目まぐるしく変わる世界は穏やかで常に新しかった。変化のないネバーランドとは違った魅力があった。外から見て初めてそのことに気付いたあきらたちは、焦ってかつてのクラスメイトたちに話しかけたが、彼らを覚えている者はいなかった。少年たちだけが、すべてのものから取り残されていた。
 ネバーランドへ戻る道すがら、会話はなかった。戻ってからも、以前のようにはしゃぐことはできなかった。海賊もいなくなり、後にはただ平和なだけの退屈な日常が残った。初めはなにもかもが珍しかった不思議な世界も、長く過ごせば目新しさなどなくなっていた。
 刺激はない。相変わらず少年たちを讃える者しか存在しない。時の止まった世界で、少年たちは仲間割れを始めた。二つの派閥に分かれて争う一方で、派閥内でも私刑しけいは絶えなかった。けれど、どうしてか死ぬことはなかった。殺伐とした輪の中で自分の身だけはどうにか守りながら、あきらは切に願った。
 この世界から、出してくれ! 誰か、助けてくれ!
 その瞬間、世界はぐるりと景色を変えた。揺らぐ空間の中に、一人の男が立っていた。キャプテン・フック――報復屋――三輪辰史。
 彼はあきらたちに契約を突き付けてきた。法外な契約金を支払い、依頼者が提示した条件を呑むことで現実世界に戻るか。または、このまま思念世界に残るか。
 仲間たちは随分と迷っていたようだが、ついには交渉に応じなかった。大企業にでも就職しない限りは、何十年と支払い続けなければならないほどの借金を負う――現実世界に戻ったところで、それこそ残りの人生を棒に振りかねない。彼らは報復屋を散々に罵倒し、契約書を破り捨てた。
 ただ、あきらは違った。
 契約書を手にしたまま硬直し続けるあきらに、報復屋は目敏めざとく気付いて問いを投げかけてきた。

「で、お前はどうする?」
「俺は――」

 永遠に時の止まった世界で過ごすか。
 人生を棒に振って、泥まみれになりながらも生き続けるか。
 猶も迷うあきらに、報復屋は渋々しぶしぶといった風に口を開いた。今思えば、少しくらいは比奈からこちらの話を聞いていたのかもしれない。それを確認したことはないが。

「……忠告を無駄にするな。お前らみたいなガキにとって世話焼きな大人ほど鬱陶うっとうしいものはないだろうが、気にかけてもらってるうちが花だと思えよ。そんなお人好しにまで相手にされなくなったら終わりだからな。もう、誰も耳を傾けてはくれなくなる」

 彼は皮肉っぽく笑ってこうも言った。

「それに、お前はピーター・パンになれるタイプじゃァないだろう? ウェンディに手を取られて現実に戻った方が、きっと後悔しなくて済む。ずっと迷子ロストボーイを続けるってのは辛いぞ」
「あんたも……」

 彼女と同じようなことを言うのか。
 とは、あきらは言葉にしなかった。代わりに覚悟を決めて、契約書にサインした。他の仲間は皆、向こう側に残った。契約書から顔を上げるより早く、乾いた音が鼓膜に響いた。報復屋が手を叩いたのだろう。仲間に別れを告げる暇さえ、与えてはもらえなかった。もっとも、彼らとなにか一言でも会話を交わしていたら自分の選択を後悔してしまっていたのかもしれないが。
 意識を失う直前に、報復屋の仏頂面ぶっちょうづらが見えたような気がした。浅く刻まれた眉間みけんしわの意味を、あきらは知らなかった。その頃よりも少しだけ報復屋のことを知った今なら、分かる。
 辰史は金に汚く、自分の才能を、非凡さを誇っている。口ではすぐに他人を馬鹿にするし、無遠慮で、無神経で、傲慢である。しかし、非情にもなりきれないのだ。眉間の皺は、彼が人間らしい心を持ち合わせていることの象徴だった。恨みという感情を誰より理解し、人の報復行為を認めている――一方で、そうした方法でしか心の闇を晴らすことのできない人や、道を誤ったまま戻ることのできない人を憐れんでもいる。
 だから気に入らないのだ。嫌みなやつだ、とあきらは思う。
 現実に戻ると、傍らに女の姿があった。比奈だった。彼女はずっとそうやって、うつつのあきらを見守っていたようだった。仲間たちの姿はなかった。
 ――彼らはどうなったのか、どこへ行ったのか。
 たずねるあきらに、比奈は答えた。契約を拒んだ仲間たちは新たなピーター・パンとして、迷子たちロストボーイズとして、ネバーランドに残った。現実の世界に戻ってきたのは、永遠の世界に飽きたかつての子供たちだ。

「あなただけが、戻った」

 そうつぶやいた比奈の顔が、ほんの少しだけ嬉しそうに見えたことを覚えている。どこか悲しげであったことも。そんな彼女に、あきらは訊いた。訊かずにはいられなかった。

「……なあ」
「うん?」
「……大人って、楽しいか?」

 ――あなただけ。
 比奈の言葉が、急に現実として襲いかかってきたのだ。今まで行動を共にしていた仲間たちと違ってしまった。その選択は本当に正しかったのか? 後悔しそうになった。不安でたまらなくなった。だから、誰かに――彼女に、肯定してもらいたかったのだ。間違っていない、と。
 比奈は少しだけ考える素振りをした。

「うーん。楽しいことだけ、面白いことだけ。辛いことのまったくない世界は無味乾燥むみかんそうじゃない? いつかはそれが当たり前になって、幸福の価値もなくなってしまうのよ。子供だからとか、大人だから、とかじゃなくて、変化のある世界で生きていけることが幸せなんだと思う」
「あんたは……あんたは、どうなんだ」

 返ってきたのは、はにかむような微笑ほほえみだった。答えを聞くまでもない。
 幸福そうな比奈を、あきらは純粋にうらやんだ。自分にも、彼女の言う〝幸福の価値〟の分かる日がくるのだろうか――と、その疑問を口に出した覚えはなかった。だが、察したらしい比奈はうなずいた。

「大丈夫。あなたはこうして、一人でも帰ってきたんだから」
「…………」
「諦めるよりも、償うことを選ぶ方が難しい。それを、あなたは誰に言われるでもなく選んだのよ。私も同じ選択を迫られたことがあったけど、あなたのようにはできなかった。親身になって、逃げるなと言ってくれる人がいて、ようやく戻ってくることができた」
「俺だって同じだ。あんたに言われた。だから、決めた。じゃなきゃ、あいつらと同じだった」

 アウトローを続けることは辛いと言ったのは、彼女だった。袖摺り合うも他生の縁だと言って、説教をしてくれたのも彼女だった。声を詰まらせながらも告げれば、比奈は驚いたようだった。それから彼女は少しだけ照れた顔をして、誤魔化すように地面から一組の人形を拾い上げた。
 永遠の少年ピーター・パンと、大人になることを選んだ少女ウェンディ。手を繋いだ人形は、無垢むくな瞳をあきらに向けていた。比奈はそれをそっとあきらの腕の中に押し込むと、手に名刺を握らせた。

「もしも困ったことがあったら、いつでも頼って。現実を選んだこと、後悔させたくないから」
「俺は、後悔なんかしない。あんたのせいにもしない。見くびらないでくれ」
「……あまり気負わないでね。誰かに支えてもらうことを、恰好悪かっこわるいって思わないで」

 助言の意味は、それからすぐ痛感することになった。
 中身が入れ代わってしまった仲間たちを見るたび、幻聴を聞くようになったのだ。時計の音。そしてどこからか自分を見つめる、獰猛どうもうな大型爬虫類はちゅうるいの視線。それは夢の中にも現れて、一人違う選択をしたあきらを責め続けた。
 昼も夜も音と悪夢にさいなまれ――その頃、間の悪いことに金貸しが借用書を送ってきた。改めて報復屋との契約料を見ると、その額の大きさにおののかずにはいられなかった。
 あきらは不安定だった。いつでも苛立いらだち、見えないなにかを怖れていたし、不安も抱えていた。事件から二週間ほども学校に通った頃には、すっかり孤独になっていた。
 はたから見てもおかしくなっていたのだろう。教師は、両親に病院の受診を勧めたようだ。そんな話が広まって、ますます学校にいづらくなった。あきらは高校を中退した。同じ頃、中身の入れ代わった仲間たちも学校を退学になった。ネバーランドでの暮らしに慣れてしまったピーター・パンと迷子たちにとって、学校生活は窮屈きゅうくつすぎたのだ。その後、彼らがネバーランドに帰ると周囲に漏らして行方をくらましてしまったことを風の噂で聞いた。そんなあきらたちと入れ代わるように、級友が再び登校するようになったらしいことも。
 母親はなにも言わなかった。妹は、あきらと顔を合わせようともしなかった。ただ普段大人しい父親だけが、将来のことをよく考えるようにと告げてきた。養ってやれるのは二十歳までだとも。
 将来のこと、と言われてもどうすればいいのか分からなかった。一連の事件を家族に話したところで信じてもらえるとは思えなかったし、まして七桁にも上る借金のことなど相談できるはずもなかった。
 途方に暮れたあきらは、ようやく比奈を頼る気になった――それまで意地を張っていたわけではない。あまりに、急にきたのだ。今までのつけが。彼女のことを思い出している余裕もなかった。


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