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9巻
9-1
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地獄の沙汰も金次第――
業を背負う覚悟と金があるのなら――
その恨み、蛟堂に預けてみませんか?
悪いようには致しません。
「一週間以内に、 」
――必ずや片を付けてみせましょう。
蛟堂店主 三輪辰史
最終話 黒塚
プロローグ――龍は、懸念する
因縁の鬼女面――
けれど、これは一つのきっかけでしかない。
天月比奈の部屋である。
安達ヶ原に棲む鬼女の狂気と悲哀が込められた面を掌で撫でながら、三輪辰史は考えていた。昨晩から食事もそこそこに、ソファに身を沈めて鬼女に秘められた思念の世界と、これから明らかにされる真実に思いを馳せていた。
一度は共に祖父の許で学んだ従兄と、こうして命のやり取りをするまで憎しみ合うというのは、自分のことながらどこか不思議な気分だった。他人の争いには、散々折り合いをつけてきたが。
「こうして当事者になってみると、自分の手で片を付けることがいかに難しいかよく分かる」
相手の不幸を願うことは容易い。けれど運を天に任せるわけでもなく、自らの手で陥れるとなれば話は別だ。喧嘩の記憶も懐かしい。蛟堂で共に学んでいた頃から険悪だった従兄との仲だが、当時は今ほど殺伐としていたわけではなかった。二人とも酷く子供じみていた。軽口の応酬。手を出したとて、小突く程度のことだった。
今更のようにそんなことを思い出してしまうのは、自分の選択で一人の人間の人生を終わらせてしまうことに恐怖しているからかもしれない。或いは、報復屋としてのプライドが私闘をよしとしないためかもしれない――なんにせよ、胸の内には憤怒や決意とは別に、躊躇が存在することを認めなければならなかった。
辰史は小さく溜息を吐いた。自分は存外、感傷的な人間だ。そうして妙な情に流され続け、一方できちんと向き合うことも億劫がってきたからこそ、今こうして現実に煩わされている。
そんなことを考えていると、後ろから比奈が腕を回してきた。首筋を撫でていく手は、ひんやりとして冷たい。まだ本調子ではないのだろう。退院してからも付きっきりで御霊の気を整えてはいるが、一朝一夕で戻るものでもない。抱き締めるように自分の胸の前で組まれた彼女の白い手に、辰史はそっと手を重ねた。
(以前なら、俺のことなんか気にせずに休んでいろと言っていただろうな)
それが最善だと信じて、なにも知らせないことで守った気になっていただろう。間違っても、比奈に助けを求めたりはしなかった。
実を言えば、今もこの恋人を巻き込むことへの不安はある。そうした過保護さは彼女を想う長い年月の中で培われてきたものなので、やはりすぐにどうこうできるものではない。が、彼女が抱いていた怖れ――知らされないことの不安と、頼りにされないことの寂しさを知った今となっては、無理に療養を勧めようとは思えなかった。
比奈の手が微かに震えている。気付いて、辰史は重ねた手に力を込めた。
「大丈夫だ。俺には、お前がいる。そのことだけは忘れたりしない」
比奈に、そして誰よりも自分に言い聞かせる。
「丑雄との決着を付けたら、次は実家だ。これまでのように『俺が当主になったら』なんて未来に逃げることもやめる。自分から動いて、お前との仲を認めてもらえるようにする」
そうだ。解決しなければならない問題は、まだ山積みになっている。目先の決着だけ片付ければ終わりというわけでもない。まして丑雄と相打ちになるなど――と考えて、辰史はかぶりを振った。
(相打ち? なにを有り得ないこと考えてンだ、俺は)
いつの間にか、弱気になってしまっている。
「辰史さん」
耳元に熱を感じて、辰史は首を廻らせた。
すぐ横にあった比奈の顔を見つめる。煮え切らない態度のせいで不安な思いをさせてしまっているだろうと思ったのだが、彼女は意外にも落ち着いているようだった。ただ、不思議なことに瞳だけが赤く染まっていた。平静さと矛盾したその感情の発露を、辰史は少しだけ訝った。
「大丈夫です」
比奈が耳元で囁いた。
「そんな風に焦らないでください。私は、大丈夫ですから」
「比奈……」
「今までは、無事を願って待つばかりでした。なにもできないことをもどかしく思いながら、自分から一歩を踏み出す勇気も持てなかったんです。でも、こうして辰史さんが目的を明かしてくれた。不本意ではあるでしょうけれど、御霊を頼ってもくれた。力があってよかったと思えたのは、初めてなんですよ。狐憑きでよかったと思えたのも」
その言葉を聞いた御霊が、床からのそりと這い起きた。赤い目には、非難の色がある。
「ごめんね、御霊。いつも助けてくれることには感謝しているのよ」
静かな声で謝りながら、恨みがましげな目で見上げる狐の額を撫でている。辰史はしばし言葉を失った。力がある。彼女は、今まで一度だってそんな言い方をしたことはなかった。
「それはまた、随分――」
らしくない。
もしものときには御霊を助けに寄越してほしい。確かにそう頼みはしたが、その約束を繰り返しているだけにしては声に熱があった。決着の時を前に、彼女も昂揚しているのか?
――いや、そうではないのだろう。
密かに自答して、辰史は情熱的な赤の奥にある真意を探った。これまで守ることにばかり必死になって、比奈の意思を蔑ろにしてきた。一方で、四年という歳月をかけて関係を築いてきたことも事実である。少なくとも性格は、それぞれ相手の方が理解している。他人の心情を汲み取る力に欠けると言われる辰史にしても彼女だけは例外で、こういったときの比奈がしばしば予想外の行動に出ることを知っていた。
「なにか考えがあるのなら、教えておいてくれないか」
いつだって信じろという言葉で縛って、勝手にしてきたのは自分である。それがたった一度の謝罪で帳消しになるとは思わない。彼女にも、同じように好きにする権利はある――そう言われてしまえば返す言葉もないが、辰史は不安に思わずにはいられなかった。
とはいえ、比奈としても妙な隠し事で再び二人の距離を遠ざける気はなかったのだろう。
「すべてを辰史さんに押しつけて、辛い思いをさせることはしたくないんです」
偽りのない胸の内を告げてくる。思い遣りの含まれた言葉の中に、なにか薄ら寒いものを感じてしまったのは、その声が近すぎたせいか。まるで秘め事を打ち明けるような調子で、比奈はひっそりと囁いた。
「私だって思念世界に介入することはできます。いつもの辰史さんと同じように――」
「同じように?」
「間に入って幕を引くくらい、わけないことです」
幕を引く。
終わりにする。なにを?
その言葉の意味を考えて、辰史はぎくりと表情を強張らせた。
「駄目だ!」
反射的に叫んで、覚悟を決めているらしい恋人の目を見つめる。
「そんな覚悟をさせるためにお前を頼ったわけじゃァないんだ。仮に向こうで事故ったとしても、御霊だけを送ってくれればそれで事足りる。妙なことは考えないでくれ」
一瞬、辰史は比奈の自棄を疑った。が、そうではないようだ。
「勿論、それで事足りる事態であればそうします。でも、もしものときに私がどうするつもりでいるのかだけは知っておいてください。この前も言ったとおり、私たち――」
言いかけてから比奈は、いえ、と言い直した。
「私には、優先順位があるんです。絶対に勝ってください、戻ってきてください、と辰史さんに約束を強要するつもりはない。けれど、ただ指を咥えて日常が戻るのを待つつもりもありません」
言葉の激しさとは裏腹に、声は穏やかだった。優しかった。
「たとえば思念世界で待っている真実が辰史さんを裏切るものであったとして、辰史さんが手を下すことと私が手を下すことを秤にかけたとき、少しでも辰史さんの傷が浅くて済む方を選びたいと思っているんです。御霊の力を借りれば、それを知ることくらいわけないから」
比奈はこの上なく冷静だ。決着を付けると決めて猶、従兄との永遠の別れを予期して躊躇している自分とは比べるべくもなかった。辰史が絶句していると、彼女はようやくいつものように申し訳なさそうな顔をしてみせた。
「困らせてしまってごめんなさい。でも、騙し討ちのような真似はしたくなかったので……」
「騙し討ちって。怖いこと言うな、お前」
どこか気の抜けた感想になってしまったが、茶化そうと思ったわけではない。ただ、そうとしか言いようがなかった。それだけの話だ。その告白を過激な愛情表現だと喜ぶほど前向きにはなれなかったし、かといって胸の内を素直に打ち明けてくれた彼女を責める気にもなれなかった。
結局のところ、比奈の言うとおりなのだろう。優先順位を決めるべきだ。後悔をしないために。そう口の中で唱える辰史の耳に、恋人の懸念が聞こえてくる。
「私にしてみれば、辰史さんの優しさの方が怖いですよ」
彼女の感覚はやはり、どこまでも他とは違うようだった。
一.時間の狭間に
さてそも五条あたりにて 夕顔の宿を訪ねしは
日蔭の糸の冠着し それは名高き人やらん
賀茂の御生に飾りしは 糸毛の車とこそ聞け
糸桜 色も盛りに咲く頃は 来る人多き春の暮れ
穂に出づる秋の糸薄 月に夜をや待ちぬらん
今はた賤が繰る糸の
長き命のつれなさを
長き命のつれなさ 思ひ明石の浦千鳥
音をのみひとり泣き明かす
「――音をのみひとり泣き明かす」
がらんとした空間の中で、自分の声だけが空虚に響く。
鬼女が謡った糸繰り唄。勝負が有利に運ぶなにかが隠されているのではないかと調べたそれは、何度か読み返すうちに暗記してしまった。とはいえ、そこに感傷以外のものを読み取ることはできなかったのだが。
向いていないな、と丑雄は思う。自分には物語と同化した思念を読み解く才能がない。物語を愛し、物語の登場人物になった気でいる思念に根気強く付き合う才能。あの辰史にばかりそれが備わっているというのは、何度考えても意外だった。
少し視線を上げて、右腕に巻いた腕時計を眺める。辰史が身につけているような、特殊な構造をしたものではない。安すぎもせず、かといって必要以上に高すぎることもない。シンプルかつ機能的なことだけが取り柄だが、こだわりを持たない人が購入しようと思い立つようなものでもない。そんな、腕時計である。
丹塗矢丑雄の身の回りには、そんなものが多い。
信念をもってそれらを選んでいるわけではないが、なにも考えずに買ったわけでもないので、結果的にはそれなりにこだわっていることになるのだろう。手軽な値段であっても壊れやすければ意味がない。たとえば時計にしても、すぐに時間がずれてしまうようであれば本末転倒である。時は金なり。なにもかもを金に換算するのは好きではないが、一分や二分のずれも積もり積もれば何時間、何十時間の無駄になる。なにより、ずれた時間を過ごすことが酷く落ち着かないのだ。
そんなことを考えながら、丑雄はあたりを見回した。
辰史が指定してきた廃ビルである。入り口には、雨風に晒されぼろぼろになったテナント募集の貼り紙が、辛うじてまだ残っていたような気がする。近日中に解体工事が始まるらしい――とは、外に立てかけられていた看板が告知していた。
決着は思念世界で付けるのだから、こんな場所を選ぶ必要はないはずだが――
(まあ、それがあいつのこだわりなのだろう)
溜息を吐く。そういえば、あの従弟は妙に形にこだわるようなところがある。思念世界の現出においてもそうだが、つくづく気が合わない。仮にその時計が正確でなかったとしても、デザインが気に入っていればそのまま使い続けるタイプだ。周囲が自分に合わせればいいとでも思っているのだろう、恐らく。もしくは、時間など携帯電話で確認すればいいと考えているのかもしれない。
時計のことは、ともかく。
少し頭を振って、また別の思考に没頭していく。
結局のところ、丑雄は物語よりも現実に思いを馳せる方が好きだった。過去、現在、そして未来。三つを並べて、どうすることが最良かを考える。同じ失敗をしないよう。後悔をしないよう。
そう、後悔。それこそ丑雄が囚われがちな感情だった。そのため、過去を繰り返さないようにと定めた道に固執しがちであるとは妻から指摘されたことがある。
過去――
改めて、考える。過去はすべての端を発するものだ。
三輪尊という人がいて、その娘である母がいて、自分たちがいる――いや、辰季はいないが。
三輪尊には何人かの兄弟がいた。あるとき、弟夫婦が事故で亡くなり、娘一人が残された。尊は彼の娘を引き取り、一人娘である華緒の妹として育てた。尊はその娘にも分け隔てなく、実子同様に接したようである。やがて成長した娘は丹塗矢家に嫁ぎ、丑雄と辰季を産んだ。
そんな事情があったから、丑雄の母は育ての親である尊に絶大な信頼を寄せていた。彼を敬い、一族の長としても親としても愛していた。
彼女は十年前、『黒塚』の事件が起きたのちに病で死んだ。辰季の死後から、たびたび体調を崩して床に臥しがちではあった。その中で、丑雄が尊に反発して戻ってきたことは、弱りきった彼女の心にいっそうの負担となったようだった。
母の四十九日が終わってから、父は丑雄に家督を譲り隠居した。母に苦労させたことだけでなくこのことも丑雄を悩ませた。そんな父の判断に、一族の長老たちは当然のごとく反対した。尊の兄弟、従兄弟、又従兄弟といった悪しき慣習に縛られた頭の古い連中だ。彼らのことは丑雄も苦々しく思っていたが、一族の内に生きる以上、ある程度は我慢しなければならないことも分かっていた。
――まだ丑雄が嫁も迎えていないのに、時期尚早だ。
彼らは毎日のように丹塗矢家に足を運んでは説得を試みたが、父は頑として退かなかった。丑雄自身は母の死に責任を感じていたせいもあって、父から見捨てられたような気になった。結局のところ、長老連が折れる形で決着はついた。とはいえ当主が独り身とあっては体裁が悪いということで、すぐに見合いの席が設けられた。相手は三輪家とも付き合いの深い、山の民を祖とする一族の娘だった。名を、羽黒伊緒里という。
山の民とはかつて異教を信じた人や修験道に通じていた人のことで、羽黒家は今でこそ名家と位置付けられてはいるが、高天のような一族に比べると家格が落ちるという点で三輪一族と同じであった。互いに力のみを頼りに成り上がってきたため、両一族は盟友のような関係を続けていた。以前から縁戚関係を結ぼうという話も出ていたとのことで、一族本位とした双方の考え方が透けて見える縁談であった。
内心では虚しさを覚えつつも、丑雄はその縁談を受け入れた。逆らう気力もなかったと言った方が正しい。当時は秋寅なども随分と同情して、上海に逃亡してくるようにと勧めてくれた。が、彼のように他に家を継ぐ兄弟のいない丑雄は、どうしても家を捨てる気にはなれなかった。そんな丑雄を救ったのは、皮肉にも妻となった女だった。伊緒里は丑雄より六つも若かったが、沈んでいた丑雄を、献身的な愛情でもって支えてくれたのだった。
そうして、妻帯してから一年。
立ち直った丑雄は、ふと弟の死について調べてみたくなった。折しも母の一周忌。法要で皆が慌ただしくしている中、火雷を使って尊のアルバムを手に入れることは難しくなかった。
当日の尊は、三輪一族の総領としてひっきりなしに挨拶に訪れる人の相手をしていた。それに、その当時はもう家のことを三郎に任せて報復屋の活動に専念していたから、邸の自室に籠もるといったこともなかったのだ。
それから一年を費やして、思念を読み解いた。自らの正義を曲げてまで掴んだ真相は丑雄を苦しめるものでしかなかったが、それでも知らないよりはましだった――と、今では思う。
(そういえば、秋寅はあのアルバムを戻してくれたのだろうか)
不意に気になって、へらへらした従弟の顔を思い浮かべる。
すべてを秋寅に打ち明けたのは、弟の死の真相を知ってすぐの頃だった。真相を、祖父母の卑劣さを、丑雄は憎んだ。一方で、それを怖れもした。途方もない嫌悪と拒絶が怒りに勝って、しばらくは本家を訪ねていこうとするだけで足が震えた。持ち出したときと同様に返そうともしたが、飛ばそうとするたび、式神は式符に戻ってしまった。『安達ヶ原』の女がナイフを自らの喉に突き立てた瞬間を目にしてしまったときのように、怖れに支配され身動きできなくなっていたのだ。しかし、アルバムをいつまでも手元に置いておきたくもなかった。
ジレンマに悩まされるあまり体調を崩した丑雄を心配して、妻が秋寅に連絡をした。それは、丑雄にとって人生の中でも五指に数えられるほど不名誉な救援要請だった。いくら弱り切っていたとはいえ、よりにもよってあの従弟を頼ってしまうとは。あのときほど、他に腹を割って話せる人がいない己を恨んだことはなかった。
秋寅はすぐに上海から飛んできた。老若幼女――とはこの従弟の造った言葉だが――すべての女性に優しくというのが、彼のモットーである。つまり従弟は、丑雄ではなく妻を気遣ったのだった。
彼は開口一番、こう言った。
「いやー、鬼の霍乱ってやつだね! 国外から飛んできた従兄想いな俺のこと、これからはもっと大事にするといいよ。たとえば、そうだなぁ。伊緒里ちゃんの妹を俺に紹介してくれるとか!」
これで俺と従兄さんも兄弟!
と、さも名案を思いついた風に言った秋寅を渾身の力で殴りつけて、丑雄はそのまま意識を失った。最後に見たのは、満面の笑みを浮かべたまま吹っ飛ぶ彼の姿だった。そのまま悪夢にしてしまいたかったが、夜に目を覚ますと頬を腫らした従弟はちゃっかり伊緒里の手料理を食べていた。とりあえずもう一発殴ろうとしたところ、また倒れられても困ると妻に止められた。
だが――認めたくはないが――常に騒がしい従弟のおかげでいくらか気が紛れたことも事実ではあった。暗い顔をしてるより、怒ってる方が従兄さんらしくていいよ。そう言った彼の苦笑を思い出すに、もしかしたら気を遣って道化を演じていたのかもしれなかった。
(いや、まったくの気のせいだということも有り得るが……)
昔から、あの従弟の考えていることは分からない。
辰史が生まれる以前まで、秋寅はどこにでもいる子供だった、と思う。辰史に後継者としての才覚が表れ始めてからは、長男としての責務から解放されたような振る舞いが目立つようになった。一方で、兄らしくあろうと努めていたようでもある。
ようである――と秋寅のことを語るとき多少曖昧になってしまうのは、思春期を彼と疎遠にして過ごしたためであった。
片や才ある傍流の長男、片や才のない本家の長男。比べられ続け、先に音を上げたのは正義感の強い丑雄の方だった。秋寅が跡継ぎとしての教育を諦められている一方で、自分ばかりが尊に師事しているという状況が後ろめたくてたまらなかったのだ。
顔を合わせた折にはいつも通りふるまったが、それすら避けようと丑雄は尊の後を付いて回った。当時から、秋寅が祖父を敬遠していたことは知っていた。高校生当時の三年前後をそうして過ごし、再び気詰まりのない付き合いができるようになったのは、秋寅の進路が決まってからだった。
あの従弟は実家から通うことのできるごく一般的な大学に進学した。自分と同じ、皇明館大学の教育神学部に進学するのだろうと思っていた丑雄はそれを聞いて驚いた。理由を訊いても、彼はいつものようにへらへらと笑うばかりだった。実家を出たくなかったらしいとは、彼の妹の卯月から聞いた。
同じく才がないことを責められて育った三輪家の長女――初子は、逆に大学進学を機に本家から離れている。秋寅も同じようにするだろうと思っていただけに、その選択は不可解だった。数年後にようやく本音を聞き出したところによると、先に家を出た姉を快く思っていないとの話だった。
きょうだいを見捨てて、一人で逃げた姉。
秋寅がそんな言い方をしたことも、丑雄には意外だった。日頃は、決して女のことを悪く言わない従弟である。
そんな秋寅が家を出たのは、きょうだいの中では最後だった。卯月も地元の大学に進学したが、市子修行と並行するために別の親戚の家に居候することになった。辰史も高校進学を機に家を出て、蛟堂に住み込んだ。これには、高齢だった尊の意向もあった。そうでもしなければ、末孫の育成が間に合わなかったのだ。
大学を卒業した秋寅は、もう実家には用はないと言わんばかりに上海へ飛んだ。あのへらへらした従弟が、尊に頭を下げて師を紹介してもらったのだと聞いている。なにを思って調薬士を目指したのかは知らないが、ともかく彼の才能は開花した。学び始めて三年でその世界では有名だった師を超えた――とは本人の談であるから、多少の誇張もあるかもしれない。しかし実際に、師を亡くしてから独立した彼の評判は海を越えて聞こえてきていた。
そんなわけの分からない従弟に、丑雄は自分の知ったことを話した。才能のない長男として三輪家に虐げられてきた従弟にならば、この嫌悪も分かるだろう――と、その点において当時の丑雄は彼を信頼した。今思えば、あまりに浅はかだった。傲慢であった。思い遣りもなかった。
丑雄自身は、長く一族の恩恵を受けてきた身である。
どの口で一族への嫌悪を語るか、と秋寅が思ったとしても無理からぬ話ではあった。やはりなにを考えているのか分からない従弟は、同情した顔で相槌を打っていたが。
話を聞き終えると、一言――
「まあ、従兄さんの好きなようにしなよ」
と、そう言った。
内心で共感を期待していた丑雄は、少しだけ落胆した。
今思えば、それも自分勝手な期待だった。アルバムを返しておいてくれと頼んで、そのまま秋寅を帰らせた。以来、二人の間でその話題がのぼることはなかった――というより秋寅が口を滑らせるたびに丑雄が激怒したため、辰季の話題そのものが避けられるようになった。
それからすぐに、尊が死んだ。
葬儀で彼の死に顔を見て、奇妙に安堵したことを覚えている。当然ながら、棺の中で彼は両目を閉じていた。もうその灰色がかった、なにもかも見透かす目を気にすることはない。見られることもない。
糾弾の機会は永遠に失われてしまったが、仮に尊が長生きしたとしても果たして向き合うことができていたかどうか。当時の心境を思えば、そのタイミングで祖父が亡くなってくれたことは幸いだった。もう責めるべき相手はいないのだと自分を誤魔化すことで、丑雄は一時の平穏を手に入れた。
参列する三輪家のきょうだいたちの反応はそれぞれ違った。
無表情の初子に、綺麗に悲しげな顔を作った秋寅、不機嫌そうに俯く卯月に、目元を赤く染めた辰史。通夜振る舞いで長老連中の多くは辰史に話しかけたが、末の従弟は落ち込んでいて一言二言口を開いただけだった。三輪尊を崇拝していた一族の老人たちは、そんな辰史の態度にも心打たれたようだった。
――もしも『安達ヶ原』の一件がなければ、弟の死の真相を知らなければ、自分も同じように祖父の死を嘆くことができたのだろうか。
無意味であると知りつつも、そう考えずにはいられなかった。
そのときも、それからも、辰史とは一言も話さなかった。彼の方も、丑雄には一瞥すら向けてはこなかった。そうして再び互いに別の道を歩み始めた。それからの八年は特に何事もなく過ぎていった。
その八年間は長かったような気もするし、あっという間だったような気もする。
結局のところ、尊を責めずに誤魔化してしまったことがよくなかったのだろう。丑雄は却って弟の死に囚われることとなった。やり場のない想いを抱えたまま、とにかく尊のようにはなるまいと誓い、丹塗矢家のよき当主であるよう努めてきた。蛟堂を継いだ辰史のことを気にかける余裕もなかった。いや、余裕がない風に振る舞ってきたのだ。一度気にかけてしまえば、あの従弟と尊とを重ねずにいられないだろうと、丑雄は自覚していた。
が、そうして更に自分を騙し続けるにも限度があった。
十年の絶縁状態を経たところで、状況はなに一つ変わらなかった。尊が死んでも、変わらなかった。辰史は相変わらず傲慢だった。報復屋としての経験を積んだ彼は、今や尊そのものである。
(いや、辰史の方がいくらか感情的ではあるか)
それは、自分も。
業を背負う覚悟と金があるのなら――
その恨み、蛟堂に預けてみませんか?
悪いようには致しません。
「一週間以内に、 」
――必ずや片を付けてみせましょう。
蛟堂店主 三輪辰史
最終話 黒塚
プロローグ――龍は、懸念する
因縁の鬼女面――
けれど、これは一つのきっかけでしかない。
天月比奈の部屋である。
安達ヶ原に棲む鬼女の狂気と悲哀が込められた面を掌で撫でながら、三輪辰史は考えていた。昨晩から食事もそこそこに、ソファに身を沈めて鬼女に秘められた思念の世界と、これから明らかにされる真実に思いを馳せていた。
一度は共に祖父の許で学んだ従兄と、こうして命のやり取りをするまで憎しみ合うというのは、自分のことながらどこか不思議な気分だった。他人の争いには、散々折り合いをつけてきたが。
「こうして当事者になってみると、自分の手で片を付けることがいかに難しいかよく分かる」
相手の不幸を願うことは容易い。けれど運を天に任せるわけでもなく、自らの手で陥れるとなれば話は別だ。喧嘩の記憶も懐かしい。蛟堂で共に学んでいた頃から険悪だった従兄との仲だが、当時は今ほど殺伐としていたわけではなかった。二人とも酷く子供じみていた。軽口の応酬。手を出したとて、小突く程度のことだった。
今更のようにそんなことを思い出してしまうのは、自分の選択で一人の人間の人生を終わらせてしまうことに恐怖しているからかもしれない。或いは、報復屋としてのプライドが私闘をよしとしないためかもしれない――なんにせよ、胸の内には憤怒や決意とは別に、躊躇が存在することを認めなければならなかった。
辰史は小さく溜息を吐いた。自分は存外、感傷的な人間だ。そうして妙な情に流され続け、一方できちんと向き合うことも億劫がってきたからこそ、今こうして現実に煩わされている。
そんなことを考えていると、後ろから比奈が腕を回してきた。首筋を撫でていく手は、ひんやりとして冷たい。まだ本調子ではないのだろう。退院してからも付きっきりで御霊の気を整えてはいるが、一朝一夕で戻るものでもない。抱き締めるように自分の胸の前で組まれた彼女の白い手に、辰史はそっと手を重ねた。
(以前なら、俺のことなんか気にせずに休んでいろと言っていただろうな)
それが最善だと信じて、なにも知らせないことで守った気になっていただろう。間違っても、比奈に助けを求めたりはしなかった。
実を言えば、今もこの恋人を巻き込むことへの不安はある。そうした過保護さは彼女を想う長い年月の中で培われてきたものなので、やはりすぐにどうこうできるものではない。が、彼女が抱いていた怖れ――知らされないことの不安と、頼りにされないことの寂しさを知った今となっては、無理に療養を勧めようとは思えなかった。
比奈の手が微かに震えている。気付いて、辰史は重ねた手に力を込めた。
「大丈夫だ。俺には、お前がいる。そのことだけは忘れたりしない」
比奈に、そして誰よりも自分に言い聞かせる。
「丑雄との決着を付けたら、次は実家だ。これまでのように『俺が当主になったら』なんて未来に逃げることもやめる。自分から動いて、お前との仲を認めてもらえるようにする」
そうだ。解決しなければならない問題は、まだ山積みになっている。目先の決着だけ片付ければ終わりというわけでもない。まして丑雄と相打ちになるなど――と考えて、辰史はかぶりを振った。
(相打ち? なにを有り得ないこと考えてンだ、俺は)
いつの間にか、弱気になってしまっている。
「辰史さん」
耳元に熱を感じて、辰史は首を廻らせた。
すぐ横にあった比奈の顔を見つめる。煮え切らない態度のせいで不安な思いをさせてしまっているだろうと思ったのだが、彼女は意外にも落ち着いているようだった。ただ、不思議なことに瞳だけが赤く染まっていた。平静さと矛盾したその感情の発露を、辰史は少しだけ訝った。
「大丈夫です」
比奈が耳元で囁いた。
「そんな風に焦らないでください。私は、大丈夫ですから」
「比奈……」
「今までは、無事を願って待つばかりでした。なにもできないことをもどかしく思いながら、自分から一歩を踏み出す勇気も持てなかったんです。でも、こうして辰史さんが目的を明かしてくれた。不本意ではあるでしょうけれど、御霊を頼ってもくれた。力があってよかったと思えたのは、初めてなんですよ。狐憑きでよかったと思えたのも」
その言葉を聞いた御霊が、床からのそりと這い起きた。赤い目には、非難の色がある。
「ごめんね、御霊。いつも助けてくれることには感謝しているのよ」
静かな声で謝りながら、恨みがましげな目で見上げる狐の額を撫でている。辰史はしばし言葉を失った。力がある。彼女は、今まで一度だってそんな言い方をしたことはなかった。
「それはまた、随分――」
らしくない。
もしものときには御霊を助けに寄越してほしい。確かにそう頼みはしたが、その約束を繰り返しているだけにしては声に熱があった。決着の時を前に、彼女も昂揚しているのか?
――いや、そうではないのだろう。
密かに自答して、辰史は情熱的な赤の奥にある真意を探った。これまで守ることにばかり必死になって、比奈の意思を蔑ろにしてきた。一方で、四年という歳月をかけて関係を築いてきたことも事実である。少なくとも性格は、それぞれ相手の方が理解している。他人の心情を汲み取る力に欠けると言われる辰史にしても彼女だけは例外で、こういったときの比奈がしばしば予想外の行動に出ることを知っていた。
「なにか考えがあるのなら、教えておいてくれないか」
いつだって信じろという言葉で縛って、勝手にしてきたのは自分である。それがたった一度の謝罪で帳消しになるとは思わない。彼女にも、同じように好きにする権利はある――そう言われてしまえば返す言葉もないが、辰史は不安に思わずにはいられなかった。
とはいえ、比奈としても妙な隠し事で再び二人の距離を遠ざける気はなかったのだろう。
「すべてを辰史さんに押しつけて、辛い思いをさせることはしたくないんです」
偽りのない胸の内を告げてくる。思い遣りの含まれた言葉の中に、なにか薄ら寒いものを感じてしまったのは、その声が近すぎたせいか。まるで秘め事を打ち明けるような調子で、比奈はひっそりと囁いた。
「私だって思念世界に介入することはできます。いつもの辰史さんと同じように――」
「同じように?」
「間に入って幕を引くくらい、わけないことです」
幕を引く。
終わりにする。なにを?
その言葉の意味を考えて、辰史はぎくりと表情を強張らせた。
「駄目だ!」
反射的に叫んで、覚悟を決めているらしい恋人の目を見つめる。
「そんな覚悟をさせるためにお前を頼ったわけじゃァないんだ。仮に向こうで事故ったとしても、御霊だけを送ってくれればそれで事足りる。妙なことは考えないでくれ」
一瞬、辰史は比奈の自棄を疑った。が、そうではないようだ。
「勿論、それで事足りる事態であればそうします。でも、もしものときに私がどうするつもりでいるのかだけは知っておいてください。この前も言ったとおり、私たち――」
言いかけてから比奈は、いえ、と言い直した。
「私には、優先順位があるんです。絶対に勝ってください、戻ってきてください、と辰史さんに約束を強要するつもりはない。けれど、ただ指を咥えて日常が戻るのを待つつもりもありません」
言葉の激しさとは裏腹に、声は穏やかだった。優しかった。
「たとえば思念世界で待っている真実が辰史さんを裏切るものであったとして、辰史さんが手を下すことと私が手を下すことを秤にかけたとき、少しでも辰史さんの傷が浅くて済む方を選びたいと思っているんです。御霊の力を借りれば、それを知ることくらいわけないから」
比奈はこの上なく冷静だ。決着を付けると決めて猶、従兄との永遠の別れを予期して躊躇している自分とは比べるべくもなかった。辰史が絶句していると、彼女はようやくいつものように申し訳なさそうな顔をしてみせた。
「困らせてしまってごめんなさい。でも、騙し討ちのような真似はしたくなかったので……」
「騙し討ちって。怖いこと言うな、お前」
どこか気の抜けた感想になってしまったが、茶化そうと思ったわけではない。ただ、そうとしか言いようがなかった。それだけの話だ。その告白を過激な愛情表現だと喜ぶほど前向きにはなれなかったし、かといって胸の内を素直に打ち明けてくれた彼女を責める気にもなれなかった。
結局のところ、比奈の言うとおりなのだろう。優先順位を決めるべきだ。後悔をしないために。そう口の中で唱える辰史の耳に、恋人の懸念が聞こえてくる。
「私にしてみれば、辰史さんの優しさの方が怖いですよ」
彼女の感覚はやはり、どこまでも他とは違うようだった。
一.時間の狭間に
さてそも五条あたりにて 夕顔の宿を訪ねしは
日蔭の糸の冠着し それは名高き人やらん
賀茂の御生に飾りしは 糸毛の車とこそ聞け
糸桜 色も盛りに咲く頃は 来る人多き春の暮れ
穂に出づる秋の糸薄 月に夜をや待ちぬらん
今はた賤が繰る糸の
長き命のつれなさを
長き命のつれなさ 思ひ明石の浦千鳥
音をのみひとり泣き明かす
「――音をのみひとり泣き明かす」
がらんとした空間の中で、自分の声だけが空虚に響く。
鬼女が謡った糸繰り唄。勝負が有利に運ぶなにかが隠されているのではないかと調べたそれは、何度か読み返すうちに暗記してしまった。とはいえ、そこに感傷以外のものを読み取ることはできなかったのだが。
向いていないな、と丑雄は思う。自分には物語と同化した思念を読み解く才能がない。物語を愛し、物語の登場人物になった気でいる思念に根気強く付き合う才能。あの辰史にばかりそれが備わっているというのは、何度考えても意外だった。
少し視線を上げて、右腕に巻いた腕時計を眺める。辰史が身につけているような、特殊な構造をしたものではない。安すぎもせず、かといって必要以上に高すぎることもない。シンプルかつ機能的なことだけが取り柄だが、こだわりを持たない人が購入しようと思い立つようなものでもない。そんな、腕時計である。
丹塗矢丑雄の身の回りには、そんなものが多い。
信念をもってそれらを選んでいるわけではないが、なにも考えずに買ったわけでもないので、結果的にはそれなりにこだわっていることになるのだろう。手軽な値段であっても壊れやすければ意味がない。たとえば時計にしても、すぐに時間がずれてしまうようであれば本末転倒である。時は金なり。なにもかもを金に換算するのは好きではないが、一分や二分のずれも積もり積もれば何時間、何十時間の無駄になる。なにより、ずれた時間を過ごすことが酷く落ち着かないのだ。
そんなことを考えながら、丑雄はあたりを見回した。
辰史が指定してきた廃ビルである。入り口には、雨風に晒されぼろぼろになったテナント募集の貼り紙が、辛うじてまだ残っていたような気がする。近日中に解体工事が始まるらしい――とは、外に立てかけられていた看板が告知していた。
決着は思念世界で付けるのだから、こんな場所を選ぶ必要はないはずだが――
(まあ、それがあいつのこだわりなのだろう)
溜息を吐く。そういえば、あの従弟は妙に形にこだわるようなところがある。思念世界の現出においてもそうだが、つくづく気が合わない。仮にその時計が正確でなかったとしても、デザインが気に入っていればそのまま使い続けるタイプだ。周囲が自分に合わせればいいとでも思っているのだろう、恐らく。もしくは、時間など携帯電話で確認すればいいと考えているのかもしれない。
時計のことは、ともかく。
少し頭を振って、また別の思考に没頭していく。
結局のところ、丑雄は物語よりも現実に思いを馳せる方が好きだった。過去、現在、そして未来。三つを並べて、どうすることが最良かを考える。同じ失敗をしないよう。後悔をしないよう。
そう、後悔。それこそ丑雄が囚われがちな感情だった。そのため、過去を繰り返さないようにと定めた道に固執しがちであるとは妻から指摘されたことがある。
過去――
改めて、考える。過去はすべての端を発するものだ。
三輪尊という人がいて、その娘である母がいて、自分たちがいる――いや、辰季はいないが。
三輪尊には何人かの兄弟がいた。あるとき、弟夫婦が事故で亡くなり、娘一人が残された。尊は彼の娘を引き取り、一人娘である華緒の妹として育てた。尊はその娘にも分け隔てなく、実子同様に接したようである。やがて成長した娘は丹塗矢家に嫁ぎ、丑雄と辰季を産んだ。
そんな事情があったから、丑雄の母は育ての親である尊に絶大な信頼を寄せていた。彼を敬い、一族の長としても親としても愛していた。
彼女は十年前、『黒塚』の事件が起きたのちに病で死んだ。辰季の死後から、たびたび体調を崩して床に臥しがちではあった。その中で、丑雄が尊に反発して戻ってきたことは、弱りきった彼女の心にいっそうの負担となったようだった。
母の四十九日が終わってから、父は丑雄に家督を譲り隠居した。母に苦労させたことだけでなくこのことも丑雄を悩ませた。そんな父の判断に、一族の長老たちは当然のごとく反対した。尊の兄弟、従兄弟、又従兄弟といった悪しき慣習に縛られた頭の古い連中だ。彼らのことは丑雄も苦々しく思っていたが、一族の内に生きる以上、ある程度は我慢しなければならないことも分かっていた。
――まだ丑雄が嫁も迎えていないのに、時期尚早だ。
彼らは毎日のように丹塗矢家に足を運んでは説得を試みたが、父は頑として退かなかった。丑雄自身は母の死に責任を感じていたせいもあって、父から見捨てられたような気になった。結局のところ、長老連が折れる形で決着はついた。とはいえ当主が独り身とあっては体裁が悪いということで、すぐに見合いの席が設けられた。相手は三輪家とも付き合いの深い、山の民を祖とする一族の娘だった。名を、羽黒伊緒里という。
山の民とはかつて異教を信じた人や修験道に通じていた人のことで、羽黒家は今でこそ名家と位置付けられてはいるが、高天のような一族に比べると家格が落ちるという点で三輪一族と同じであった。互いに力のみを頼りに成り上がってきたため、両一族は盟友のような関係を続けていた。以前から縁戚関係を結ぼうという話も出ていたとのことで、一族本位とした双方の考え方が透けて見える縁談であった。
内心では虚しさを覚えつつも、丑雄はその縁談を受け入れた。逆らう気力もなかったと言った方が正しい。当時は秋寅なども随分と同情して、上海に逃亡してくるようにと勧めてくれた。が、彼のように他に家を継ぐ兄弟のいない丑雄は、どうしても家を捨てる気にはなれなかった。そんな丑雄を救ったのは、皮肉にも妻となった女だった。伊緒里は丑雄より六つも若かったが、沈んでいた丑雄を、献身的な愛情でもって支えてくれたのだった。
そうして、妻帯してから一年。
立ち直った丑雄は、ふと弟の死について調べてみたくなった。折しも母の一周忌。法要で皆が慌ただしくしている中、火雷を使って尊のアルバムを手に入れることは難しくなかった。
当日の尊は、三輪一族の総領としてひっきりなしに挨拶に訪れる人の相手をしていた。それに、その当時はもう家のことを三郎に任せて報復屋の活動に専念していたから、邸の自室に籠もるといったこともなかったのだ。
それから一年を費やして、思念を読み解いた。自らの正義を曲げてまで掴んだ真相は丑雄を苦しめるものでしかなかったが、それでも知らないよりはましだった――と、今では思う。
(そういえば、秋寅はあのアルバムを戻してくれたのだろうか)
不意に気になって、へらへらした従弟の顔を思い浮かべる。
すべてを秋寅に打ち明けたのは、弟の死の真相を知ってすぐの頃だった。真相を、祖父母の卑劣さを、丑雄は憎んだ。一方で、それを怖れもした。途方もない嫌悪と拒絶が怒りに勝って、しばらくは本家を訪ねていこうとするだけで足が震えた。持ち出したときと同様に返そうともしたが、飛ばそうとするたび、式神は式符に戻ってしまった。『安達ヶ原』の女がナイフを自らの喉に突き立てた瞬間を目にしてしまったときのように、怖れに支配され身動きできなくなっていたのだ。しかし、アルバムをいつまでも手元に置いておきたくもなかった。
ジレンマに悩まされるあまり体調を崩した丑雄を心配して、妻が秋寅に連絡をした。それは、丑雄にとって人生の中でも五指に数えられるほど不名誉な救援要請だった。いくら弱り切っていたとはいえ、よりにもよってあの従弟を頼ってしまうとは。あのときほど、他に腹を割って話せる人がいない己を恨んだことはなかった。
秋寅はすぐに上海から飛んできた。老若幼女――とはこの従弟の造った言葉だが――すべての女性に優しくというのが、彼のモットーである。つまり従弟は、丑雄ではなく妻を気遣ったのだった。
彼は開口一番、こう言った。
「いやー、鬼の霍乱ってやつだね! 国外から飛んできた従兄想いな俺のこと、これからはもっと大事にするといいよ。たとえば、そうだなぁ。伊緒里ちゃんの妹を俺に紹介してくれるとか!」
これで俺と従兄さんも兄弟!
と、さも名案を思いついた風に言った秋寅を渾身の力で殴りつけて、丑雄はそのまま意識を失った。最後に見たのは、満面の笑みを浮かべたまま吹っ飛ぶ彼の姿だった。そのまま悪夢にしてしまいたかったが、夜に目を覚ますと頬を腫らした従弟はちゃっかり伊緒里の手料理を食べていた。とりあえずもう一発殴ろうとしたところ、また倒れられても困ると妻に止められた。
だが――認めたくはないが――常に騒がしい従弟のおかげでいくらか気が紛れたことも事実ではあった。暗い顔をしてるより、怒ってる方が従兄さんらしくていいよ。そう言った彼の苦笑を思い出すに、もしかしたら気を遣って道化を演じていたのかもしれなかった。
(いや、まったくの気のせいだということも有り得るが……)
昔から、あの従弟の考えていることは分からない。
辰史が生まれる以前まで、秋寅はどこにでもいる子供だった、と思う。辰史に後継者としての才覚が表れ始めてからは、長男としての責務から解放されたような振る舞いが目立つようになった。一方で、兄らしくあろうと努めていたようでもある。
ようである――と秋寅のことを語るとき多少曖昧になってしまうのは、思春期を彼と疎遠にして過ごしたためであった。
片や才ある傍流の長男、片や才のない本家の長男。比べられ続け、先に音を上げたのは正義感の強い丑雄の方だった。秋寅が跡継ぎとしての教育を諦められている一方で、自分ばかりが尊に師事しているという状況が後ろめたくてたまらなかったのだ。
顔を合わせた折にはいつも通りふるまったが、それすら避けようと丑雄は尊の後を付いて回った。当時から、秋寅が祖父を敬遠していたことは知っていた。高校生当時の三年前後をそうして過ごし、再び気詰まりのない付き合いができるようになったのは、秋寅の進路が決まってからだった。
あの従弟は実家から通うことのできるごく一般的な大学に進学した。自分と同じ、皇明館大学の教育神学部に進学するのだろうと思っていた丑雄はそれを聞いて驚いた。理由を訊いても、彼はいつものようにへらへらと笑うばかりだった。実家を出たくなかったらしいとは、彼の妹の卯月から聞いた。
同じく才がないことを責められて育った三輪家の長女――初子は、逆に大学進学を機に本家から離れている。秋寅も同じようにするだろうと思っていただけに、その選択は不可解だった。数年後にようやく本音を聞き出したところによると、先に家を出た姉を快く思っていないとの話だった。
きょうだいを見捨てて、一人で逃げた姉。
秋寅がそんな言い方をしたことも、丑雄には意外だった。日頃は、決して女のことを悪く言わない従弟である。
そんな秋寅が家を出たのは、きょうだいの中では最後だった。卯月も地元の大学に進学したが、市子修行と並行するために別の親戚の家に居候することになった。辰史も高校進学を機に家を出て、蛟堂に住み込んだ。これには、高齢だった尊の意向もあった。そうでもしなければ、末孫の育成が間に合わなかったのだ。
大学を卒業した秋寅は、もう実家には用はないと言わんばかりに上海へ飛んだ。あのへらへらした従弟が、尊に頭を下げて師を紹介してもらったのだと聞いている。なにを思って調薬士を目指したのかは知らないが、ともかく彼の才能は開花した。学び始めて三年でその世界では有名だった師を超えた――とは本人の談であるから、多少の誇張もあるかもしれない。しかし実際に、師を亡くしてから独立した彼の評判は海を越えて聞こえてきていた。
そんなわけの分からない従弟に、丑雄は自分の知ったことを話した。才能のない長男として三輪家に虐げられてきた従弟にならば、この嫌悪も分かるだろう――と、その点において当時の丑雄は彼を信頼した。今思えば、あまりに浅はかだった。傲慢であった。思い遣りもなかった。
丑雄自身は、長く一族の恩恵を受けてきた身である。
どの口で一族への嫌悪を語るか、と秋寅が思ったとしても無理からぬ話ではあった。やはりなにを考えているのか分からない従弟は、同情した顔で相槌を打っていたが。
話を聞き終えると、一言――
「まあ、従兄さんの好きなようにしなよ」
と、そう言った。
内心で共感を期待していた丑雄は、少しだけ落胆した。
今思えば、それも自分勝手な期待だった。アルバムを返しておいてくれと頼んで、そのまま秋寅を帰らせた。以来、二人の間でその話題がのぼることはなかった――というより秋寅が口を滑らせるたびに丑雄が激怒したため、辰季の話題そのものが避けられるようになった。
それからすぐに、尊が死んだ。
葬儀で彼の死に顔を見て、奇妙に安堵したことを覚えている。当然ながら、棺の中で彼は両目を閉じていた。もうその灰色がかった、なにもかも見透かす目を気にすることはない。見られることもない。
糾弾の機会は永遠に失われてしまったが、仮に尊が長生きしたとしても果たして向き合うことができていたかどうか。当時の心境を思えば、そのタイミングで祖父が亡くなってくれたことは幸いだった。もう責めるべき相手はいないのだと自分を誤魔化すことで、丑雄は一時の平穏を手に入れた。
参列する三輪家のきょうだいたちの反応はそれぞれ違った。
無表情の初子に、綺麗に悲しげな顔を作った秋寅、不機嫌そうに俯く卯月に、目元を赤く染めた辰史。通夜振る舞いで長老連中の多くは辰史に話しかけたが、末の従弟は落ち込んでいて一言二言口を開いただけだった。三輪尊を崇拝していた一族の老人たちは、そんな辰史の態度にも心打たれたようだった。
――もしも『安達ヶ原』の一件がなければ、弟の死の真相を知らなければ、自分も同じように祖父の死を嘆くことができたのだろうか。
無意味であると知りつつも、そう考えずにはいられなかった。
そのときも、それからも、辰史とは一言も話さなかった。彼の方も、丑雄には一瞥すら向けてはこなかった。そうして再び互いに別の道を歩み始めた。それからの八年は特に何事もなく過ぎていった。
その八年間は長かったような気もするし、あっという間だったような気もする。
結局のところ、尊を責めずに誤魔化してしまったことがよくなかったのだろう。丑雄は却って弟の死に囚われることとなった。やり場のない想いを抱えたまま、とにかく尊のようにはなるまいと誓い、丹塗矢家のよき当主であるよう努めてきた。蛟堂を継いだ辰史のことを気にかける余裕もなかった。いや、余裕がない風に振る舞ってきたのだ。一度気にかけてしまえば、あの従弟と尊とを重ねずにいられないだろうと、丑雄は自覚していた。
が、そうして更に自分を騙し続けるにも限度があった。
十年の絶縁状態を経たところで、状況はなに一つ変わらなかった。尊が死んでも、変わらなかった。辰史は相変わらず傲慢だった。報復屋としての経験を積んだ彼は、今や尊そのものである。
(いや、辰史の方がいくらか感情的ではあるか)
それは、自分も。
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