115 / 144
8巻
8-3
しおりを挟む
「口の悪さも相変わらずだな」
「この程度なら挨拶みたいなもんだろう?」
で、用事はなんだ――と再び促せば、彼は本題を思い出したらしい。懐かしむような笑いを引っこめて、続けてきた。
「いや、用事というほど大層なものじゃないんだ」
「と言うと?」
「新歓コンパの誘いだよ」
新歓と言うとサークルの、だろう。在学中に所属していたテニスサークルだ。二年次の初めに、勧誘の時期にだけ手伝ってくれればいいからと泣きつかれて、仕方なく参加したのである。いや、仕方なくというのは正確ではない。コンパの多い運動系サークルに所属していれば、もしかしたら夢の中の女に出会えるかもしれない、と。そんなことを思いついたためでもあった。
聞いた話によれば――前年度はそこそこ見目の良かった四年生たちが卒業したこともあって――新入生女子の入部が非常に少なかったらしい。餌が必要だったと、まあそういうことなのだろう。テニスで汗を流すよりも、飲み会を通じて部員同士の交流を深めるサークル。つまりは、そんな場所だった。
「ああ、もうそんな時期か。面倒だな。OBはパスで頼みたいぜ。どうせ、金をたかられてるだけなんだからな」
「そんなこと言わずにたまには顔を出してやれ。卒業してから一度も参加していないじゃないか。あいつらだって、三輪のことを気にかけているんだぞ」
「気にかけて、ねえ?」
そういうものなのだろうか。よく、分からない。首を傾げながら呟けば、電話口からはまた苦笑が聞こえてきた。声には、どこか呆れたような――そんな雰囲気もある。
「他人に対して無関心すぎるんだ、お前は。去年入った後輩の顔も知らないだろう?」
そう言われてしまえば、否定はできなかった。
大学を卒業してからは、夢で見た黒い獣に通じるものはないかと、仕事の依頼や異変ばかり気にかけてきたのだ。辰史が押し黙ると、蘇芳は「それに……」と珍しく皮肉めいた調子で続けた。
「そろそろ一度くらい参加しておかないと、無駄にハードルが上がるぞ」
「なんだよ、それ」
「在学中にお前が残した武勇伝の数々を、面白可笑しく語るやつもいるからな。卒業後はぱったりと姿を見せなくなった、伝説のOBがいる――なんて後輩たちの間で噂ばかりが先走って、そのうち七不思議の一つにでも数えられるんじゃないかと言われている」
「相変わらずくだらねえことで盛り上がってんな。……で、いつだ?」
溜息交じりに訊けば、蘇芳はすぐに答えてきた。
「今週末だ」
「そうか。別に用事もないし、付き合ってやってもいいぜ」
「じゃあ、参加ということで伝えておく。場所と時間はメールの方がいいな」
「ああ」
他に話すこともない。短く頷いて通話を切ると、辰史はまた天井を見上げた。
(……まあ、たまには息抜きも良いか)
胸の内で呟いて、また目を瞑る――
***
出会いは唐突だった。
少なくとも、辰史にはそう思えた。感覚としては出会いというよりむしろ、予期せぬ遭遇。あれほど望んでいたことであったのに、いざとなると咄嗟の反応に困ってしまったことも確かだった。
どこにでもある全国チェーンの居酒屋。
大学生が飲み会をするには適当だが、何年も待ち続けた出会いを果たす場所としては些か雰囲気に欠けるような気もする。
いくつかに分かれたテーブルの奥。
誰とも話がしにくいその位置に、彼女はひっそりと座っていた。グラスを重ねるわけでもなく、料理に手を伸ばすわけでもなく、自分の存在を主張しようとするわけでもなく――言うなれば、仕方なくそこにいる。極力、目立たないように息を潜めている、そんな印象だった。
どうして、こんな場所に。
何が起こったのか分からずに、辰史はただ彼女を凝視していた。他のことは視界から消え去ってしまった。その瞬間だけは自分がまるで、あの夢の中にいるようにも思えた。
「三輪さんが来てくれましたー!」
調子の良い後輩の一人が、ピッチャーを片手になにやら周りを盛り上げている。ぼんやりと彼の声を聞きながら、その後輩に小声で訊ねる。
「お、おい。あれは……」
「まずはイッキでお願いします。お手本見せてやってくださいよ」
彼は聞く気がないらしい。なみなみと酒の入ったピッチャーを、こちらの手に握らせてくる。雰囲気を読んだのだろう。辰史のことを直接は知らないはずの後輩たちも手を打って、口々に煽り立てる。
「ウワバミなんですよね」
「三輪さんの飲むとこ見てみたーい!」
「イッキ、イッキ!」
見回せば、他のテーブルでも同期がちらほらと飲まされて盛り上がりを見せているようである。辰史は仕方なしに頷いて、ピッチャーを口元に運んだ。安っぽいアルコールの臭いが鼻に絡みつく。顔を顰めながらぐいっと呷って飲み干すと、一同はわっと歓声を上げた。ただ、隅に座ったあの彼女だけは、やはり隣の陰に隠れるようにして控えめに手を叩いていた。
「おい」
空になったピッチャーをテーブルに戻しながら、辰史は今度こそ後輩の耳に囁いた。
「あれ、誰だ?」
「え?」
「一番奥の」
「ああ、比奈ちゃんのことっすか?」
こちらの声を聞きつけたらしい。一番手前に座っていた軽薄そうな後輩の一人が、顔をにやつかせながら言った。
「あ、どうも。噂は聞いてますぜ。俺、烏羽京です。三輪さん、よろしくお願いしまーっす!」
「ああ」
差し出された手を握る代わりに、丁度目の前にあったジョッキを渡してやる。烏羽京と名乗った彼は、苦笑しながらぬるくなったビールを飲み干した。周りはただの煽り合いとでも思っているのか、また喧しく手を叩いている。もっと飲めと酒を注ごうとする周りを煩がるように、烏羽はさっと隣に瓶ビールを押しつけて、
「今度は坂内さんが飲んでくれるそうでーす!」
と、するりと躱した。程良くテンションの上がっている周囲の興味は、瓶を抱えて苦く笑っている坂内へと移っていく。烏羽は仲間たちを煽るだけ煽ると、盛り上がる彼らを尻目にまたこちらへ向き直った。
「で、三輪さんは比奈ちゃんが気になる感じなんですか?」
その手の話題が好きなのか、悪い顔で訊いてくる。
「比奈、ちゃん……?」
随分と馴れ馴れしい。辰史は頬をひくりと引き攣らせて、訊き返した。烏羽が軽薄な顔をだらしなく緩めて、頷く。
「そ。天月比奈。呼んできますよ。彼女、ちょっと控えめというか。人見知りっぽいんですけど。俺は同じクラスなんで、他のやつらよりは話しますし」
「おいっ」
制止する暇もなく立ち上がった彼が、テーブルの奥へ向かっていく。
「ちょっと後ろ通るぜ」「悪い悪い」「いや、俺も後で飲むから。今はちょっと勘弁して」
烏羽はそんなことを言いながら軽く人を掻き分けて、彼女の許へ辿り着いた。そうして、彼女の――天月比奈の耳に顔を寄せる。
烏羽に耳打ちされた彼女の表情が、少しだけ変わったように見えたのは気のせいだろうか?
驚きか。緊張か。それとも、また別のなにかなのかは分からなかった。
比奈は瞬く間に動揺を消すと、こちらに視線を向けてきた。
予期せぬ遭遇。
夢の中の彼女。
待ち続けていた出会い。
化け物のトラウマ。
辰史の頭の中を、さまざまな思いが駆け巡る。何度か目を瞬かせてみても、やはり彼女の姿が視界から消えることはなかった。あまりに――あまりに呆気ないような、信じ難いような、複雑な心地で見つめ合って、ふと違和感に気付いた。
「あ……」
(赤く、ない……?)
辰史は軽く眉を顰めた。赤くない。視線の先では鳶色の瞳が、控えめに笑んでいる。もしかしたら、コンタクトレンズでも入れているのかもしれない。視線を逸らすこともできず、しばらく互いに顔を凝視する。比奈は軽く頭を下げると、烏羽に押されるようにして進んできた。
「初めまして。ええと、三輪さん?」
「三輪辰史だ」
「よろしくお願いします。私は――」
「天月比奈、だろう?」
他愛ない挨拶ももどかしい。急くように言えば、彼女は驚いたように目を瞠った。
「そう、ですけど。どうして?」
「烏羽から聞いた」
「烏羽くんから」
心なしか困惑したように、比奈。
「そういえば私に用事だって聞いたんですけど……」
と。言いかけた彼女を遮ったのは、背後から伸びてきた腕だった。
「おいおい、天月。新歓の席でOBとばっか絡んでんじゃねえよ。新入生も構ってやれって」
「ていうか、比奈ってば全然飲んでないんじゃん。最初の一杯だけ? ちょっと店員さーん、カシスオレンジ一つ!」
「どうせだったら、三輪さんとダブルでイッキ頼むよ。ほら、後輩に良いとこ見せたげて」
もう大分酔っぱらっているらしい。
「この酔っぱらいどもが」
一同を眺め回して、辰史は小さく毒づいた。とりあえずテーブルに二人分よりもう少し多めの参加費を叩き付けて、比奈の腕を掴む。
「さっきので酔ったみたいだ。気分が悪いから外に出てくる」
「あれれー、なんで天月連れて行くんですかー。露骨に天月狙いですか、三輪さん」
「他に俺のこと介抱できるやつ、いるか? こいつ以外はみんな酔っぱらいじゃねえか」
「そんなこと言って、ピッチャー一杯で気分悪くなるほど弱くないでしょう。追いコンのときの武勇伝、聞いてるんですからねー。全員潰して、それでもまだ一人涼しい顔して飲み続けてたって」
「それは二年前の話だからな。今は馬鹿みたいな飲み方したら明日に響くんだよ」
苦い顔で言い返して、店を出る。そのまま当てもなく駅の方へ歩き続けて、しばらく――
「あの、三輪さん」
沈黙を破るように声をかけてきたのは、比奈だった。
「うん?」
振り返る。
「手……」
困ったような彼女の視線が、繋いだ手に注がれていた。
「ああ。歩きにくかったか? 悪いな。このあたりは人も多いし、はぐれても困ると思って」
「困る? どうして」
驚いた顔をして、そんなことを訊いてくる。不可解な問いかけだった。辰史は眉を不均衡につり上げて、逆に訊き返した。
「どうしてって……話の途中だっただろう? 用事、知りたがっていたじゃないか」
「それは、そうですけど。でも、用事? あ、介抱ですか? すみません、気付かなくて。コンビニでお茶でも買って来ますね。駅の方に休めるところもあったはずなので。あ、さっきのお金も」
「いや、あれは口実。酔うほど飲んでねえし。金も別にいいし。ていうか、そうじゃなくて――」
なにから説明したものか。
「お前と話がしたかった」
言葉に迷いつつも告げれば、今度は比奈の顔が怪訝になった。
「話、ですか?」
呟く――その表情は思案しているというより、なにかを思い出そうとしているようにも見える。ややあって、彼女ははっと顔を上げた。唇が僅かに動く。声には出さずに、三輪さんと言ったようにも見えた。
「もしかして……」
「あ。言っておくが、ナンパでもないからな。軽い気持ちじゃねえし」
一応、釘を刺しておく。けれど、比奈にはこちらの声など聞こえていない風でもあった。彼女の方こそ酒気に当てられてしまったように、街灯りに照らされた顔は酷く青ざめていた。
「三輪さん。三輪辰史さん」
もしや彼女の身にも、この出会いを予感させるようななにかがあったのだろうか?
ほんの少しの期待を込めて、辰史は頷いた。
「あ、ああ。そうだ」
「異能者の……三輪家の後継者、ですよね?」
比奈がぎこちない声で問いを重ねてくる。
「は……?」
彼女がそれを知っているとは、予想外だった。
「あ、サークルのやつらから聞いたのか?」
予想外だが――考えてみればとりわけ不自然というほどのことではない。少しだけがっかりしながら訊けば、比奈は小さく首を振った。
「いえ。あの家でも有名だったので」
色を失った唇を震わせながら、答えてくる。
(あの家? どこだ? 天月……そうある名字じゃないが……)
少し考えて、
(天月……天……異能者……)
辰史はようやく思い出した。
「あれか。天月って、高天の」
「まあ、そういうことです」
返事がどうにも歯切れ悪く聞こえるのは、気のせいではないのだろう。
「悪い。高天家にはあまり詳しくないんだ。交流は親父や一族の連中に任せていたし、なんとなく勝手に閉鎖的な一族なんだと――」
慌てて弁解する。しかし、彼女は「いえ」と短く呟いて顔を俯けた。
「詳しくないならいいんです。てっきり、知っていて連れ出したのかと思っただけなので」
「そうじゃない。家のことなんか関係ない。全然、知らなかった。あ、それも失礼な話だが……」
「気にしないでください。それに、閉鎖的な一族だというのも間違いではないです」
言って、比奈はほっとしたように笑った。
「正直、安心しました。私も本家とは繋がりがないので、家の話題になっても知らないことの方が多いんです。だから、三輪さんをがっかりさせてしまったら申し訳ないなと」
天月は高天一族の中で、それほど地位のある家ではないのだろう。宗家から離れれば離れるほど、情報が入ってこなくなるというのはどこも同じようだ。
「ああ、それなら心配しなくてもいい。俺の訊きたいことは別にあるんだ」
「なんでしょう? サークルのことですか? それなら私より烏羽くんの方が……」
「いや。お前のこと」
ゆるゆると息を吐きだす比奈を遮って、告げる。と――
「え?」
弛緩しかけた彼女の顔が、またぎくりと強張った。まるで静止した時間の中にでもいるかのように、息を止めて。ゆっくりと瞬きすると、比奈は瞳をこちらへ向けてきた。鳶色の瞳には疑念と緊張が走っている。やがて彼女は少し息を吸って――
「私のこと、ですか?」
「そうだ」
「……三輪さんは、私のことをどこまで知っているんです?」
慎重に問いを投げかけてきた。
「どこまでと言われても――」
問いかけがあの夢を指しているわけではないことが、すぐに分かった。さっきから微妙に食い違う会話が、それを示している。彼女はなにかを警戒していた。
そのことに気付かなかったのは、舞い上がりすぎていたせいなのだろう。辰史は初めて冷静になって、一度深く息を吸った。
「なにも。なにも、知らない」
肺に溜まった息を吐き出しながら、そう認める。
知っているのは、夢に見た女と目の前の彼女がなんらかの問題とともにあるということだけだ。他はなにも知らない。言葉にしてしまえば、気分はいくらか落ち着いた。
「……お前は、俺のことをどこまで知っているんだ? 知られたくないことでもあったのか?」
夢の話をしようかしまいか――迷った末に、辰史は逆に訊き返した。比奈が答える。
「三輪家の後継者だということを、知っています。一族の中でも特に才能に秀でていた、三輪尊さんの寵児だと聞きました。そんな方がどうして私のことを知りたがるのか、腑に落ちないんです。さっきも言った通り、天月は高天の傍流。高天の中でさえ取るに足らない存在だったのに、まして他の異能者からこうして興味を持たれることなんて……」
「だから、家のことは関係ないんだ。俺個人がお前に興味を持っているというだけで――」
「三輪さん個人が? どうしてです?」
ますます困惑したように、比奈。
「それは」
(こんな妙なタイミングで、夢で見たからなんて言えねえだろ)
良くも悪くも有名な三輪の名前を恨めしく思いながら、辰史は苦く息を吐いた。
「その、後輩だし。さっきも見た感じ、あまり楽しくなさそうに見えたから。気になってだな……」
言えば、いくらかは思い当たる節があったらしい。
「あ――す、すみません。私、飲み会ってあまり参加したことなくて。今回は新歓だからどうしてもと言われたので来てみたんですけど、お酒も飲めないので。やっぱり浮いていましたよね」
嘆息しながら、申し訳なさそうに続けてくる。
「心配してくれたんですか。私、三輪さんが異能者だと分かったら身構えちゃって……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。俺も言葉が足りなかった。それで――」
一度言葉を切って、辰史は比奈の表情を眺めた。
彼女が異能者に対して身構える理由は分からない。が、一つだけはっきりしたこともある。
「なにか、悩みがあるんじゃないのか?」
悩みというよりは、恐れか。比奈は頬の筋肉をぴくりと動かした。
その肩を掴みたくなる衝動を抑えて、辰史は続ける。
「突然こんなことを言われて戸惑うかもしれないが、できることなら相談して欲しいと思ってる。同じ異能者だからってわけじゃないし、お前が心配しているような含みがあるわけでもない。俺は、お前の力になりたいだけなんだ」
「……ありがとうございます」
長い沈黙の末に、比奈はぽつりとそう零した。
「三輪さんがそう言ってくれたこと、嬉しいです。すごく。そのことだけは分かってください」
「ああ」
「でも、その……大丈夫なので」
それ以上を言う気はないのだろう。比奈はそれきり口を噤んで、ふいと横を向いた。街灯に照らされた地面には、彼女の濃い影が伸びている。もちろん、それは人の姿をしていた。
「そうか」
辰史はひとまず引き下がることにした。納得したわけではない。が、こちらも事情を話していない以上、信頼されないのは仕方のないことだった。
「なにかあったら、いつでも連絡してくれ」
代わりに、名刺を差し出す。祖父の店を継いだときに作ったものだ。報復屋の字は入れようか迷ったが、結局まだ蛟堂としか記していない。彼女はそれを受け取って、首を傾げた。
「蛟堂……?」
「ああ。俺の店なんだ。暇なときに来てくれても構わないぜ。むしろ大歓迎ってやつだ」
わざとらしく片目を瞑ってみせれば、比奈は少しだけ笑った。
それから、沈黙。他に話題にできるようなこともなく――また、固く唇を結んだ彼女はそれ以上の会話を避けているようにも見えた。気まずい静寂に包まれたまま、駅までの道を歩く。
(…………?)
五分ほど歩いてようやく。人の多い駅に辿り着いたとき、不意に感じた悪寒に辰史は眉を顰めた。薄ら寒い感覚が、背筋を逆撫でしている。
「あの、さ。比奈」
声をかける。と、鞄の中に手を入れて財布を探していた比奈が、手を止めて視線を向けてきた。
「はい?」
「家まで送ろうか? なんか嫌な予感がするんだ」
目に見えないなにかがいる。どこからか見られているような気がする。手足に絡みつく悪意を纏った気配に、辰史は両腕を擦った。この悪意は自分だけに向けられているのだろうか?
じっと比奈を凝視すれば、彼女はなにも気付いていない風に軽く笑った。
「ここまでで大丈夫ですよ。送ってくださってありがとうございました。それと――」
そこで、おもむろに声をひそめる。
「三輪さんこそ、気をつけて。帰りは人の多い道を歩いてください。人気のない道を通るくらいなら、タクシーを使った方がいいと思います。危ないので」
「心配してくれるのか?」
それにしては大袈裟だと思いながら訊き返す。比奈は思案するように一度だけ目を瞑った。
「心配……。いえ、やめておきます。私が心配すると、ろくなことにならないんです」
意味ありげに言って、改札をくぐっていく。彼女の姿が完全に見えなくなると、辰史はくるりと踵を返して夜の街へ引き返した。頭の中が、軽く混乱している。
(どういうことだ?)
予定外のことばかりだった。比奈のことも、そしてまだ手足に纏わり付いている気配も。
(腑に落ちない……というか、拍子抜けだ。泣いているものとばかり、思っていたからな)
遠慮がちな彼女の顔を思い出しながら、人通りのない小路へ足を向ける。
(そもそも、向こうから助けを求めてきているわけでもないってのが問題なんだよな。俺が必死になればなるほど、あいつは警戒するだろうし。どうしたものか……)
大通りから離れること、二百メートルほど。無音というわけではないが、人の声は遠い。辰史は周囲に人がいないことを確認すると、その場で足を止めた。
「で、用件はなんだ? わざわざ人のいない道を選んでやったんだ。手短に頼むぜ」
どこにいるのかも分からない、見えないなにかに声をかける。
と、不意に街灯の灯りがジジ……と音を立てて小さく揺らめいた、気がした。
「屍……!」
先手必勝と言わんばかりに式符を放り、闇夜に短く叫ぶ。独眼の鴉が宙で翼を広げるが早いか、あたりに一陣の黒風が吹き荒れた。それは屍喰が巻き起こしたものではない。
「なんだっ!?」
なにが起こったというのだろう?
耳元で生じた鋭い唸りに、思わず顔を手で庇う。
風が過ぎ去ったあと、アスファルトの上にはずたずたに裂かれた屍喰の式符が散らばっていた。悪意を含んだあの気配は、もう感じられない。
ありえないことだ。
辰史は呆然と呟いた。屍喰の能力はどちらかと言えば偵察型であるが、決して弱くはない。相手が何者かも分からないまま裂かれるなど、信じられないことだった。
――「三輪さんこそ、気をつけて。帰りは人の多い道を歩いてください」
比奈の忠告が脳裏を過る。黒風。黒。夢の中で見た黒い影と関係があるのか、否か……
「なんだってんだ?」
訳が分からない。彼女はなにを知っているのだろう?
***
「この程度なら挨拶みたいなもんだろう?」
で、用事はなんだ――と再び促せば、彼は本題を思い出したらしい。懐かしむような笑いを引っこめて、続けてきた。
「いや、用事というほど大層なものじゃないんだ」
「と言うと?」
「新歓コンパの誘いだよ」
新歓と言うとサークルの、だろう。在学中に所属していたテニスサークルだ。二年次の初めに、勧誘の時期にだけ手伝ってくれればいいからと泣きつかれて、仕方なく参加したのである。いや、仕方なくというのは正確ではない。コンパの多い運動系サークルに所属していれば、もしかしたら夢の中の女に出会えるかもしれない、と。そんなことを思いついたためでもあった。
聞いた話によれば――前年度はそこそこ見目の良かった四年生たちが卒業したこともあって――新入生女子の入部が非常に少なかったらしい。餌が必要だったと、まあそういうことなのだろう。テニスで汗を流すよりも、飲み会を通じて部員同士の交流を深めるサークル。つまりは、そんな場所だった。
「ああ、もうそんな時期か。面倒だな。OBはパスで頼みたいぜ。どうせ、金をたかられてるだけなんだからな」
「そんなこと言わずにたまには顔を出してやれ。卒業してから一度も参加していないじゃないか。あいつらだって、三輪のことを気にかけているんだぞ」
「気にかけて、ねえ?」
そういうものなのだろうか。よく、分からない。首を傾げながら呟けば、電話口からはまた苦笑が聞こえてきた。声には、どこか呆れたような――そんな雰囲気もある。
「他人に対して無関心すぎるんだ、お前は。去年入った後輩の顔も知らないだろう?」
そう言われてしまえば、否定はできなかった。
大学を卒業してからは、夢で見た黒い獣に通じるものはないかと、仕事の依頼や異変ばかり気にかけてきたのだ。辰史が押し黙ると、蘇芳は「それに……」と珍しく皮肉めいた調子で続けた。
「そろそろ一度くらい参加しておかないと、無駄にハードルが上がるぞ」
「なんだよ、それ」
「在学中にお前が残した武勇伝の数々を、面白可笑しく語るやつもいるからな。卒業後はぱったりと姿を見せなくなった、伝説のOBがいる――なんて後輩たちの間で噂ばかりが先走って、そのうち七不思議の一つにでも数えられるんじゃないかと言われている」
「相変わらずくだらねえことで盛り上がってんな。……で、いつだ?」
溜息交じりに訊けば、蘇芳はすぐに答えてきた。
「今週末だ」
「そうか。別に用事もないし、付き合ってやってもいいぜ」
「じゃあ、参加ということで伝えておく。場所と時間はメールの方がいいな」
「ああ」
他に話すこともない。短く頷いて通話を切ると、辰史はまた天井を見上げた。
(……まあ、たまには息抜きも良いか)
胸の内で呟いて、また目を瞑る――
***
出会いは唐突だった。
少なくとも、辰史にはそう思えた。感覚としては出会いというよりむしろ、予期せぬ遭遇。あれほど望んでいたことであったのに、いざとなると咄嗟の反応に困ってしまったことも確かだった。
どこにでもある全国チェーンの居酒屋。
大学生が飲み会をするには適当だが、何年も待ち続けた出会いを果たす場所としては些か雰囲気に欠けるような気もする。
いくつかに分かれたテーブルの奥。
誰とも話がしにくいその位置に、彼女はひっそりと座っていた。グラスを重ねるわけでもなく、料理に手を伸ばすわけでもなく、自分の存在を主張しようとするわけでもなく――言うなれば、仕方なくそこにいる。極力、目立たないように息を潜めている、そんな印象だった。
どうして、こんな場所に。
何が起こったのか分からずに、辰史はただ彼女を凝視していた。他のことは視界から消え去ってしまった。その瞬間だけは自分がまるで、あの夢の中にいるようにも思えた。
「三輪さんが来てくれましたー!」
調子の良い後輩の一人が、ピッチャーを片手になにやら周りを盛り上げている。ぼんやりと彼の声を聞きながら、その後輩に小声で訊ねる。
「お、おい。あれは……」
「まずはイッキでお願いします。お手本見せてやってくださいよ」
彼は聞く気がないらしい。なみなみと酒の入ったピッチャーを、こちらの手に握らせてくる。雰囲気を読んだのだろう。辰史のことを直接は知らないはずの後輩たちも手を打って、口々に煽り立てる。
「ウワバミなんですよね」
「三輪さんの飲むとこ見てみたーい!」
「イッキ、イッキ!」
見回せば、他のテーブルでも同期がちらほらと飲まされて盛り上がりを見せているようである。辰史は仕方なしに頷いて、ピッチャーを口元に運んだ。安っぽいアルコールの臭いが鼻に絡みつく。顔を顰めながらぐいっと呷って飲み干すと、一同はわっと歓声を上げた。ただ、隅に座ったあの彼女だけは、やはり隣の陰に隠れるようにして控えめに手を叩いていた。
「おい」
空になったピッチャーをテーブルに戻しながら、辰史は今度こそ後輩の耳に囁いた。
「あれ、誰だ?」
「え?」
「一番奥の」
「ああ、比奈ちゃんのことっすか?」
こちらの声を聞きつけたらしい。一番手前に座っていた軽薄そうな後輩の一人が、顔をにやつかせながら言った。
「あ、どうも。噂は聞いてますぜ。俺、烏羽京です。三輪さん、よろしくお願いしまーっす!」
「ああ」
差し出された手を握る代わりに、丁度目の前にあったジョッキを渡してやる。烏羽京と名乗った彼は、苦笑しながらぬるくなったビールを飲み干した。周りはただの煽り合いとでも思っているのか、また喧しく手を叩いている。もっと飲めと酒を注ごうとする周りを煩がるように、烏羽はさっと隣に瓶ビールを押しつけて、
「今度は坂内さんが飲んでくれるそうでーす!」
と、するりと躱した。程良くテンションの上がっている周囲の興味は、瓶を抱えて苦く笑っている坂内へと移っていく。烏羽は仲間たちを煽るだけ煽ると、盛り上がる彼らを尻目にまたこちらへ向き直った。
「で、三輪さんは比奈ちゃんが気になる感じなんですか?」
その手の話題が好きなのか、悪い顔で訊いてくる。
「比奈、ちゃん……?」
随分と馴れ馴れしい。辰史は頬をひくりと引き攣らせて、訊き返した。烏羽が軽薄な顔をだらしなく緩めて、頷く。
「そ。天月比奈。呼んできますよ。彼女、ちょっと控えめというか。人見知りっぽいんですけど。俺は同じクラスなんで、他のやつらよりは話しますし」
「おいっ」
制止する暇もなく立ち上がった彼が、テーブルの奥へ向かっていく。
「ちょっと後ろ通るぜ」「悪い悪い」「いや、俺も後で飲むから。今はちょっと勘弁して」
烏羽はそんなことを言いながら軽く人を掻き分けて、彼女の許へ辿り着いた。そうして、彼女の――天月比奈の耳に顔を寄せる。
烏羽に耳打ちされた彼女の表情が、少しだけ変わったように見えたのは気のせいだろうか?
驚きか。緊張か。それとも、また別のなにかなのかは分からなかった。
比奈は瞬く間に動揺を消すと、こちらに視線を向けてきた。
予期せぬ遭遇。
夢の中の彼女。
待ち続けていた出会い。
化け物のトラウマ。
辰史の頭の中を、さまざまな思いが駆け巡る。何度か目を瞬かせてみても、やはり彼女の姿が視界から消えることはなかった。あまりに――あまりに呆気ないような、信じ難いような、複雑な心地で見つめ合って、ふと違和感に気付いた。
「あ……」
(赤く、ない……?)
辰史は軽く眉を顰めた。赤くない。視線の先では鳶色の瞳が、控えめに笑んでいる。もしかしたら、コンタクトレンズでも入れているのかもしれない。視線を逸らすこともできず、しばらく互いに顔を凝視する。比奈は軽く頭を下げると、烏羽に押されるようにして進んできた。
「初めまして。ええと、三輪さん?」
「三輪辰史だ」
「よろしくお願いします。私は――」
「天月比奈、だろう?」
他愛ない挨拶ももどかしい。急くように言えば、彼女は驚いたように目を瞠った。
「そう、ですけど。どうして?」
「烏羽から聞いた」
「烏羽くんから」
心なしか困惑したように、比奈。
「そういえば私に用事だって聞いたんですけど……」
と。言いかけた彼女を遮ったのは、背後から伸びてきた腕だった。
「おいおい、天月。新歓の席でOBとばっか絡んでんじゃねえよ。新入生も構ってやれって」
「ていうか、比奈ってば全然飲んでないんじゃん。最初の一杯だけ? ちょっと店員さーん、カシスオレンジ一つ!」
「どうせだったら、三輪さんとダブルでイッキ頼むよ。ほら、後輩に良いとこ見せたげて」
もう大分酔っぱらっているらしい。
「この酔っぱらいどもが」
一同を眺め回して、辰史は小さく毒づいた。とりあえずテーブルに二人分よりもう少し多めの参加費を叩き付けて、比奈の腕を掴む。
「さっきので酔ったみたいだ。気分が悪いから外に出てくる」
「あれれー、なんで天月連れて行くんですかー。露骨に天月狙いですか、三輪さん」
「他に俺のこと介抱できるやつ、いるか? こいつ以外はみんな酔っぱらいじゃねえか」
「そんなこと言って、ピッチャー一杯で気分悪くなるほど弱くないでしょう。追いコンのときの武勇伝、聞いてるんですからねー。全員潰して、それでもまだ一人涼しい顔して飲み続けてたって」
「それは二年前の話だからな。今は馬鹿みたいな飲み方したら明日に響くんだよ」
苦い顔で言い返して、店を出る。そのまま当てもなく駅の方へ歩き続けて、しばらく――
「あの、三輪さん」
沈黙を破るように声をかけてきたのは、比奈だった。
「うん?」
振り返る。
「手……」
困ったような彼女の視線が、繋いだ手に注がれていた。
「ああ。歩きにくかったか? 悪いな。このあたりは人も多いし、はぐれても困ると思って」
「困る? どうして」
驚いた顔をして、そんなことを訊いてくる。不可解な問いかけだった。辰史は眉を不均衡につり上げて、逆に訊き返した。
「どうしてって……話の途中だっただろう? 用事、知りたがっていたじゃないか」
「それは、そうですけど。でも、用事? あ、介抱ですか? すみません、気付かなくて。コンビニでお茶でも買って来ますね。駅の方に休めるところもあったはずなので。あ、さっきのお金も」
「いや、あれは口実。酔うほど飲んでねえし。金も別にいいし。ていうか、そうじゃなくて――」
なにから説明したものか。
「お前と話がしたかった」
言葉に迷いつつも告げれば、今度は比奈の顔が怪訝になった。
「話、ですか?」
呟く――その表情は思案しているというより、なにかを思い出そうとしているようにも見える。ややあって、彼女ははっと顔を上げた。唇が僅かに動く。声には出さずに、三輪さんと言ったようにも見えた。
「もしかして……」
「あ。言っておくが、ナンパでもないからな。軽い気持ちじゃねえし」
一応、釘を刺しておく。けれど、比奈にはこちらの声など聞こえていない風でもあった。彼女の方こそ酒気に当てられてしまったように、街灯りに照らされた顔は酷く青ざめていた。
「三輪さん。三輪辰史さん」
もしや彼女の身にも、この出会いを予感させるようななにかがあったのだろうか?
ほんの少しの期待を込めて、辰史は頷いた。
「あ、ああ。そうだ」
「異能者の……三輪家の後継者、ですよね?」
比奈がぎこちない声で問いを重ねてくる。
「は……?」
彼女がそれを知っているとは、予想外だった。
「あ、サークルのやつらから聞いたのか?」
予想外だが――考えてみればとりわけ不自然というほどのことではない。少しだけがっかりしながら訊けば、比奈は小さく首を振った。
「いえ。あの家でも有名だったので」
色を失った唇を震わせながら、答えてくる。
(あの家? どこだ? 天月……そうある名字じゃないが……)
少し考えて、
(天月……天……異能者……)
辰史はようやく思い出した。
「あれか。天月って、高天の」
「まあ、そういうことです」
返事がどうにも歯切れ悪く聞こえるのは、気のせいではないのだろう。
「悪い。高天家にはあまり詳しくないんだ。交流は親父や一族の連中に任せていたし、なんとなく勝手に閉鎖的な一族なんだと――」
慌てて弁解する。しかし、彼女は「いえ」と短く呟いて顔を俯けた。
「詳しくないならいいんです。てっきり、知っていて連れ出したのかと思っただけなので」
「そうじゃない。家のことなんか関係ない。全然、知らなかった。あ、それも失礼な話だが……」
「気にしないでください。それに、閉鎖的な一族だというのも間違いではないです」
言って、比奈はほっとしたように笑った。
「正直、安心しました。私も本家とは繋がりがないので、家の話題になっても知らないことの方が多いんです。だから、三輪さんをがっかりさせてしまったら申し訳ないなと」
天月は高天一族の中で、それほど地位のある家ではないのだろう。宗家から離れれば離れるほど、情報が入ってこなくなるというのはどこも同じようだ。
「ああ、それなら心配しなくてもいい。俺の訊きたいことは別にあるんだ」
「なんでしょう? サークルのことですか? それなら私より烏羽くんの方が……」
「いや。お前のこと」
ゆるゆると息を吐きだす比奈を遮って、告げる。と――
「え?」
弛緩しかけた彼女の顔が、またぎくりと強張った。まるで静止した時間の中にでもいるかのように、息を止めて。ゆっくりと瞬きすると、比奈は瞳をこちらへ向けてきた。鳶色の瞳には疑念と緊張が走っている。やがて彼女は少し息を吸って――
「私のこと、ですか?」
「そうだ」
「……三輪さんは、私のことをどこまで知っているんです?」
慎重に問いを投げかけてきた。
「どこまでと言われても――」
問いかけがあの夢を指しているわけではないことが、すぐに分かった。さっきから微妙に食い違う会話が、それを示している。彼女はなにかを警戒していた。
そのことに気付かなかったのは、舞い上がりすぎていたせいなのだろう。辰史は初めて冷静になって、一度深く息を吸った。
「なにも。なにも、知らない」
肺に溜まった息を吐き出しながら、そう認める。
知っているのは、夢に見た女と目の前の彼女がなんらかの問題とともにあるということだけだ。他はなにも知らない。言葉にしてしまえば、気分はいくらか落ち着いた。
「……お前は、俺のことをどこまで知っているんだ? 知られたくないことでもあったのか?」
夢の話をしようかしまいか――迷った末に、辰史は逆に訊き返した。比奈が答える。
「三輪家の後継者だということを、知っています。一族の中でも特に才能に秀でていた、三輪尊さんの寵児だと聞きました。そんな方がどうして私のことを知りたがるのか、腑に落ちないんです。さっきも言った通り、天月は高天の傍流。高天の中でさえ取るに足らない存在だったのに、まして他の異能者からこうして興味を持たれることなんて……」
「だから、家のことは関係ないんだ。俺個人がお前に興味を持っているというだけで――」
「三輪さん個人が? どうしてです?」
ますます困惑したように、比奈。
「それは」
(こんな妙なタイミングで、夢で見たからなんて言えねえだろ)
良くも悪くも有名な三輪の名前を恨めしく思いながら、辰史は苦く息を吐いた。
「その、後輩だし。さっきも見た感じ、あまり楽しくなさそうに見えたから。気になってだな……」
言えば、いくらかは思い当たる節があったらしい。
「あ――す、すみません。私、飲み会ってあまり参加したことなくて。今回は新歓だからどうしてもと言われたので来てみたんですけど、お酒も飲めないので。やっぱり浮いていましたよね」
嘆息しながら、申し訳なさそうに続けてくる。
「心配してくれたんですか。私、三輪さんが異能者だと分かったら身構えちゃって……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。俺も言葉が足りなかった。それで――」
一度言葉を切って、辰史は比奈の表情を眺めた。
彼女が異能者に対して身構える理由は分からない。が、一つだけはっきりしたこともある。
「なにか、悩みがあるんじゃないのか?」
悩みというよりは、恐れか。比奈は頬の筋肉をぴくりと動かした。
その肩を掴みたくなる衝動を抑えて、辰史は続ける。
「突然こんなことを言われて戸惑うかもしれないが、できることなら相談して欲しいと思ってる。同じ異能者だからってわけじゃないし、お前が心配しているような含みがあるわけでもない。俺は、お前の力になりたいだけなんだ」
「……ありがとうございます」
長い沈黙の末に、比奈はぽつりとそう零した。
「三輪さんがそう言ってくれたこと、嬉しいです。すごく。そのことだけは分かってください」
「ああ」
「でも、その……大丈夫なので」
それ以上を言う気はないのだろう。比奈はそれきり口を噤んで、ふいと横を向いた。街灯に照らされた地面には、彼女の濃い影が伸びている。もちろん、それは人の姿をしていた。
「そうか」
辰史はひとまず引き下がることにした。納得したわけではない。が、こちらも事情を話していない以上、信頼されないのは仕方のないことだった。
「なにかあったら、いつでも連絡してくれ」
代わりに、名刺を差し出す。祖父の店を継いだときに作ったものだ。報復屋の字は入れようか迷ったが、結局まだ蛟堂としか記していない。彼女はそれを受け取って、首を傾げた。
「蛟堂……?」
「ああ。俺の店なんだ。暇なときに来てくれても構わないぜ。むしろ大歓迎ってやつだ」
わざとらしく片目を瞑ってみせれば、比奈は少しだけ笑った。
それから、沈黙。他に話題にできるようなこともなく――また、固く唇を結んだ彼女はそれ以上の会話を避けているようにも見えた。気まずい静寂に包まれたまま、駅までの道を歩く。
(…………?)
五分ほど歩いてようやく。人の多い駅に辿り着いたとき、不意に感じた悪寒に辰史は眉を顰めた。薄ら寒い感覚が、背筋を逆撫でしている。
「あの、さ。比奈」
声をかける。と、鞄の中に手を入れて財布を探していた比奈が、手を止めて視線を向けてきた。
「はい?」
「家まで送ろうか? なんか嫌な予感がするんだ」
目に見えないなにかがいる。どこからか見られているような気がする。手足に絡みつく悪意を纏った気配に、辰史は両腕を擦った。この悪意は自分だけに向けられているのだろうか?
じっと比奈を凝視すれば、彼女はなにも気付いていない風に軽く笑った。
「ここまでで大丈夫ですよ。送ってくださってありがとうございました。それと――」
そこで、おもむろに声をひそめる。
「三輪さんこそ、気をつけて。帰りは人の多い道を歩いてください。人気のない道を通るくらいなら、タクシーを使った方がいいと思います。危ないので」
「心配してくれるのか?」
それにしては大袈裟だと思いながら訊き返す。比奈は思案するように一度だけ目を瞑った。
「心配……。いえ、やめておきます。私が心配すると、ろくなことにならないんです」
意味ありげに言って、改札をくぐっていく。彼女の姿が完全に見えなくなると、辰史はくるりと踵を返して夜の街へ引き返した。頭の中が、軽く混乱している。
(どういうことだ?)
予定外のことばかりだった。比奈のことも、そしてまだ手足に纏わり付いている気配も。
(腑に落ちない……というか、拍子抜けだ。泣いているものとばかり、思っていたからな)
遠慮がちな彼女の顔を思い出しながら、人通りのない小路へ足を向ける。
(そもそも、向こうから助けを求めてきているわけでもないってのが問題なんだよな。俺が必死になればなるほど、あいつは警戒するだろうし。どうしたものか……)
大通りから離れること、二百メートルほど。無音というわけではないが、人の声は遠い。辰史は周囲に人がいないことを確認すると、その場で足を止めた。
「で、用件はなんだ? わざわざ人のいない道を選んでやったんだ。手短に頼むぜ」
どこにいるのかも分からない、見えないなにかに声をかける。
と、不意に街灯の灯りがジジ……と音を立てて小さく揺らめいた、気がした。
「屍……!」
先手必勝と言わんばかりに式符を放り、闇夜に短く叫ぶ。独眼の鴉が宙で翼を広げるが早いか、あたりに一陣の黒風が吹き荒れた。それは屍喰が巻き起こしたものではない。
「なんだっ!?」
なにが起こったというのだろう?
耳元で生じた鋭い唸りに、思わず顔を手で庇う。
風が過ぎ去ったあと、アスファルトの上にはずたずたに裂かれた屍喰の式符が散らばっていた。悪意を含んだあの気配は、もう感じられない。
ありえないことだ。
辰史は呆然と呟いた。屍喰の能力はどちらかと言えば偵察型であるが、決して弱くはない。相手が何者かも分からないまま裂かれるなど、信じられないことだった。
――「三輪さんこそ、気をつけて。帰りは人の多い道を歩いてください」
比奈の忠告が脳裏を過る。黒風。黒。夢の中で見た黒い影と関係があるのか、否か……
「なんだってんだ?」
訳が分からない。彼女はなにを知っているのだろう?
***
0
お気に入りに追加
76
あなたにおすすめの小説
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話
ラララキヲ
恋愛
長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。
しかし寝室に居た妻は……
希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
【完結】7年待った婚約者に「年増とは結婚できない」と婚約破棄されましたが、結果的に若いツバメと縁が結ばれたので平気です
岡崎 剛柔
恋愛
「伯爵令嬢マリアンヌ・ランドルフ。今日この場にて、この僕――グルドン・シルフィードは君との婚約を破棄する。理由は君が25歳の年増になったからだ」
私は7年間も諸外国の旅行に行っていたグルドンにそう言われて婚約破棄された。
しかも貴族たちを大勢集めたパーティーの中で。
しかも私を年増呼ばわり。
はあ?
あなたが勝手に旅行に出て帰って来なかったから、私はこの年までずっと結婚できずにいたんですけど!
などと私の怒りが爆発しようだったとき、グルドンは新たな人間と婚約すると言い出した。
その新たな婚約者は何とタキシードを着た、6、7歳ぐらいの貴族子息で……。
【完結】捨てられた双子のセカンドライフ
mazecco
ファンタジー
【第14回ファンタジー小説大賞 奨励賞受賞作】
王家の血を引きながらも、不吉の象徴とされる双子に生まれてしまったアーサーとモニカ。
父王から疎まれ、幼くして森に捨てられた二人だったが、身体能力が高いアーサーと魔法に適性のあるモニカは、力を合わせて厳しい環境を生き延びる。
やがて成長した二人は森を出て街で生活することを決意。
これはしあわせな第二の人生を送りたいと夢見た双子の物語。
冒険あり商売あり。
さまざまなことに挑戦しながら双子が日常生活?を楽しみます。
(話の流れは基本まったりしてますが、内容がハードな時もあります)
【完結】公女が死んだ、その後のこと
杜野秋人
恋愛
【第17回恋愛小説大賞 奨励賞受賞しました!】
「お母様……」
冷たく薄暗く、不潔で不快な地下の罪人牢で、彼女は独り、亡き母に語りかける。その掌の中には、ひと粒の小さな白い錠剤。
古ぼけた簡易寝台に座り、彼女はそのままゆっくりと、覚悟を決めたように横たわる。
「言いつけを、守ります」
最期にそう呟いて、彼女は震える手で錠剤を口に含み、そのまま飲み下した。
こうして、第二王子ボアネルジェスの婚約者でありカストリア公爵家の次期女公爵でもある公女オフィーリアは、獄中にて自ら命を断った。
そして彼女の死後、その影響はマケダニア王国の王宮内外の至るところで噴出した。
「ええい、公務が回らん!オフィーリアは何をやっている!?」
「殿下は何を仰せか!すでに公女は儚くなられたでしょうが!」
「くっ……、な、ならば蘇生させ」
「あれから何日経つとお思いで!?お気は確かか!」
「何故だ!何故この私が裁かれねばならん!」
「そうよ!お父様も私も何も悪くないわ!悪いのは全部お義姉さまよ!」
「…………申し開きがあるのなら、今ここではなく取り調べと裁判の場で存分に申すがよいわ。⸺連れて行け」
「まっ、待て!話を」
「嫌ぁ〜!」
「今さら何しに戻ってきたかね先々代様。わしらはもう、公女さま以外にお仕えする気も従う気もないんじゃがな?」
「なっ……貴様!領主たる儂の言うことが聞けんと」
「領主だったのは亡くなった女公さまとその娘の公女さまじゃ。あの方らはあんたと違って、わしら領民を第一に考えて下さった。あんたと違ってな!」
「くっ……!」
「なっ、譲位せよだと!?」
「本国の決定にございます。これ以上の混迷は連邦友邦にまで悪影響を与えかねないと。⸺潔く観念なさいませ。さあ、ご署名を」
「おのれ、謀りおったか!」
「…………父上が悪いのですよ。あの時止めてさえいれば、彼女は死なずに済んだのに」
◆人が亡くなる描写、及びベッドシーンがあるのでR15で。生々しい表現は避けています。
◆公女が亡くなってからが本番。なので最初の方、恋愛要素はほぼありません。最後はちゃんとジャンル:恋愛です。
◆ドアマットヒロインを書こうとしたはずが。どうしてこうなった?
◆作中の演出として自死のシーンがありますが、決して推奨し助長するものではありません。早まっちゃう前に然るべき窓口に一言相談を。
◆作者の作品は特に断りなき場合、基本的に同一の世界観に基づいています。が、他作品とリンクする予定は特にありません。本作単品でお楽しみ頂けます。
◆この作品は小説家になろうでも公開します。
◆24/2/17、HOTランキング女性向け1位!?1位は初ですありがとうございます!
【完結】実はチートの転生者、無能と言われるのに飽きて実力を解放する
エース皇命
ファンタジー
【HOTランキング1位獲得作品!!】
最強スキル『適応』を与えられた転生者ジャック・ストロングは16歳。
戦士になり、王国に潜む悪を倒すためのユピテル英才学園に入学して3ヶ月がたっていた。
目立たないために実力を隠していたジャックだが、学園長から次のテストで成績がよくないと退学だと脅され、ついに実力を解放していく。
ジャックのライバルとなる個性豊かな生徒たち、実力ある先生たちにも注目!!
彼らのハチャメチャ学園生活から目が離せない!!
※小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。