蛟堂報復録

鈴木麻純

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8巻

8-3

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「口の悪さも相変わらずだな」
「この程度なら挨拶あいさつみたいなもんだろう?」

 で、用事はなんだ――と再び促せば、彼は本題を思い出したらしい。懐かしむような笑いを引っこめて、続けてきた。

「いや、用事というほど大層なものじゃないんだ」
「と言うと?」
「新歓コンパの誘いだよ」

 新歓と言うとサークルの、だろう。在学中に所属していたテニスサークルだ。二年次の初めに、勧誘の時期にだけ手伝ってくれればいいからと泣きつかれて、仕方なく参加したのである。いや、仕方なくというのは正確ではない。コンパの多い運動系サークルに所属していれば、もしかしたら夢の中の女に出会えるかもしれない、と。そんなことを思いついたためでもあった。
 聞いた話によれば――前年度はそこそこ見目の良かった四年生たちが卒業したこともあって――新入生女子の入部が非常に少なかったらしい。えさが必要だったと、まあそういうことなのだろう。テニスで汗を流すよりも、飲み会を通じて部員同士の交流を深めるサークル。つまりは、そんな場所だった。

「ああ、もうそんな時期か。面倒だな。OBはパスで頼みたいぜ。どうせ、金をたかられてるだけなんだからな」
「そんなこと言わずにたまには顔を出してやれ。卒業してから一度も参加していないじゃないか。あいつらだって、三輪のことを気にかけているんだぞ」
「気にかけて、ねえ?」

 そういうものなのだろうか。よく、分からない。首を傾げながら呟けば、電話口からはまた苦笑が聞こえてきた。声には、どこか呆れたような――そんな雰囲気もある。

「他人に対して無関心すぎるんだ、お前は。去年入った後輩の顔も知らないだろう?」

 そう言われてしまえば、否定はできなかった。
 大学を卒業してからは、夢で見た黒い獣に通じるものはないかと、仕事の依頼や異変ばかり気にかけてきたのだ。辰史が押し黙ると、蘇芳は「それに……」と珍しく皮肉めいた調子で続けた。

「そろそろ一度くらい参加しておかないと、無駄にハードルが上がるぞ」
「なんだよ、それ」
「在学中にお前が残した武勇伝の数々を、面白可笑おかしく語るやつもいるからな。卒業後はぱったりと姿を見せなくなった、伝説のOBがいる――なんて後輩たちの間で噂ばかりが先走って、そのうち七不思議の一つにでも数えられるんじゃないかと言われている」
「相変わらずくだらねえことで盛り上がってんな。……で、いつだ?」

 溜息交じりに訊けば、蘇芳はすぐに答えてきた。

「今週末だ」
「そうか。別に用事もないし、付き合ってやってもいいぜ」
「じゃあ、参加ということで伝えておく。場所と時間はメールの方がいいな」
「ああ」

 他に話すこともない。短く頷いて通話を切ると、辰史はまた天井を見上げた。

(……まあ、たまには息抜きも良いか)

 胸の内で呟いて、また目を瞑る――


   ***


 出会いは唐突だった。
 少なくとも、辰史にはそう思えた。感覚としては出会いというよりむしろ、予期せぬ遭遇。あれほど望んでいたことであったのに、いざとなると咄嗟とっさの反応に困ってしまったことも確かだった。
 どこにでもある全国チェーンの居酒屋。
 大学生が飲み会をするには適当だが、何年も待ち続けた出会いを果たす場所としてはいささか雰囲気に欠けるような気もする。
 いくつかに分かれたテーブルの奥。
 誰とも話がしにくいその位置に、はひっそりと座っていた。グラスを重ねるわけでもなく、料理に手を伸ばすわけでもなく、自分の存在を主張しようとするわけでもなく――言うなれば、仕方なくそこにいる。極力、目立たないように息を潜めている、そんな印象だった。
 どうして、こんな場所に。
 何が起こったのか分からずに、辰史はただ彼女を凝視していた。他のことは視界から消え去ってしまった。その瞬間だけは自分がまるで、あの夢の中にいるようにも思えた。

「三輪さんが来てくれましたー!」

 調子の良い後輩の一人が、ピッチャーを片手になにやら周りを盛り上げている。ぼんやりと彼の声を聞きながら、その後輩に小声で訊ねる。

「お、おい。あれは……」
「まずはイッキでお願いします。お手本見せてやってくださいよ」

 彼は聞く気がないらしい。なみなみと酒の入ったピッチャーを、こちらの手に握らせてくる。雰囲気を読んだのだろう。辰史のことを直接は知らないはずの後輩たちも手を打って、口々にあおり立てる。

「ウワバミなんですよね」
「三輪さんの飲むとこ見てみたーい!」
「イッキ、イッキ!」

 見回せば、他のテーブルでも同期がちらほらと飲まされて盛り上がりを見せているようである。辰史は仕方なしに頷いて、ピッチャーを口元に運んだ。安っぽいアルコールの臭いが鼻に絡みつく。顔をしかめながらぐいっとあおって飲み干すと、一同はわっと歓声を上げた。ただ、隅に座ったあのだけは、やはり隣の陰に隠れるようにして控えめに手を叩いていた。

「おい」

 空になったピッチャーをテーブルに戻しながら、辰史は今度こそ後輩の耳にささやいた。

「あれ、誰だ?」
「え?」
「一番奥の」
「ああ、比奈ひなちゃんのことっすか?」

 こちらの声を聞きつけたらしい。一番手前に座っていた軽薄そうな後輩の一人が、顔をにやつかせながら言った。

「あ、どうも。噂は聞いてますぜ。俺、烏羽からすばきょうです。三輪さん、よろしくお願いしまーっす!」
「ああ」

 差し出された手を握る代わりに、丁度ちょうど目の前にあったジョッキを渡してやる。烏羽京と名乗った彼は、苦笑しながらぬるくなったビールを飲み干した。周りはただの煽り合いとでも思っているのか、またやかましく手を叩いている。もっと飲めと酒を注ごうとする周りをうるさがるように、烏羽はさっと隣に瓶ビールを押しつけて、

「今度は坂内さかうちさんが飲んでくれるそうでーす!」

 と、するりとかわした。程良くテンションの上がっている周囲の興味は、瓶を抱えて苦く笑っている坂内へと移っていく。烏羽は仲間たちを煽るだけ煽ると、盛り上がる彼らを尻目にまたこちらへ向き直った。

「で、三輪さんは比奈ちゃんが気になる感じなんですか?」

 その手の話題が好きなのか、悪い顔で訊いてくる。

「比奈、ちゃん……?」

 随分と馴れ馴れしい。辰史は頬をひくりと引き攣らせて、訊き返した。烏羽が軽薄な顔をだらしなく緩めて、頷く。

「そ。天月あまつき比奈。呼んできますよ。彼女、ちょっと控えめというか。人見知りっぽいんですけど。俺は同じクラスなんで、他のやつらよりは話しますし」
「おいっ」

 制止する暇もなく立ち上がった彼が、テーブルの奥へ向かっていく。

「ちょっと後ろ通るぜ」「悪い悪い」「いや、俺も後で飲むから。今はちょっと勘弁して」

 烏羽はそんなことを言いながら軽く人をき分けて、彼女の許へ辿り着いた。そうして、彼女の――天月比奈の耳に顔を寄せる。
 烏羽に耳打ちされた彼女の表情が、少しだけ変わったように見えたのは気のせいだろうか?
 驚きか。緊張か。それとも、また別のなにかなのかは分からなかった。
 比奈は瞬く間に動揺を消すと、こちらに視線を向けてきた。
 予期せぬ遭遇。
 夢の中の彼女。
 待ち続けていた出会い。
 化け物のトラウマ。
 辰史の頭の中を、さまざまな思いが駆け巡る。何度か目を瞬かせてみても、やはり彼女の姿が視界から消えることはなかった。あまりに――あまりに呆気あっけないような、信じ難いような、複雑な心地で見つめ合って、ふと違和感に気付いた。

「あ……」
(赤く、ない……?)

 辰史は軽く眉をひそめた。赤くない。視線の先では鳶色とびいろの瞳が、控えめに笑んでいる。もしかしたら、コンタクトレンズでも入れているのかもしれない。視線を逸らすこともできず、しばらく互いに顔を凝視する。比奈は軽く頭を下げると、烏羽に押されるようにして進んできた。

「初めまして。ええと、三輪さん?」
「三輪辰史だ」
「よろしくお願いします。私は――」
「天月比奈、だろう?」

 他愛ない挨拶ももどかしい。くように言えば、彼女は驚いたように目を瞠った。

「そう、ですけど。どうして?」
「烏羽から聞いた」
「烏羽くんから」

 心なしか困惑したように、比奈。

「そういえば私に用事だって聞いたんですけど……」

 と。言いかけた彼女を遮ったのは、背後から伸びてきた腕だった。

「おいおい、天月。新歓の席でOBとばっか絡んでんじゃねえよ。新入生も構ってやれって」
「ていうか、比奈ってば全然飲んでないんじゃん。最初の一杯だけ? ちょっと店員さーん、カシスオレンジ一つ!」
「どうせだったら、三輪さんとダブルでイッキ頼むよ。ほら、後輩に良いとこ見せたげて」

 もう大分酔っぱらっているらしい。

「この酔っぱらいどもが」

 一同を眺め回して、辰史は小さく毒づいた。とりあえずテーブルに二人分よりもう少し多めの参加費を叩き付けて、比奈の腕を掴む。

「さっきので酔ったみたいだ。気分が悪いから外に出てくる」
「あれれー、なんで天月連れて行くんですかー。露骨に天月狙いですか、三輪さん」
「他に俺のこと介抱かいほうできるやつ、いるか? こいつ以外はみんな酔っぱらいじゃねえか」
「そんなこと言って、ピッチャー一杯で気分悪くなるほど弱くないでしょう。追いコンのときの武勇伝、聞いてるんですからねー。全員潰して、それでもまだ一人涼しい顔して飲み続けてたって」
「それは二年前の話だからな。今は馬鹿みたいな飲み方したら明日に響くんだよ」

 苦い顔で言い返して、店を出る。そのまま当てもなく駅の方へ歩き続けて、しばらく――

「あの、三輪さん」

 沈黙を破るように声をかけてきたのは、比奈だった。

「うん?」

 振り返る。

「手……」

 困ったような彼女の視線が、繋いだ手に注がれていた。

「ああ。歩きにくかったか? 悪いな。このあたりは人も多いし、はぐれても困ると思って」
「困る? どうして」

 驚いた顔をして、そんなことを訊いてくる。不可解な問いかけだった。辰史は眉を不均衡ふきんこうにつり上げて、逆に訊き返した。

「どうしてって……話の途中だっただろう? 用事、知りたがっていたじゃないか」
「それは、そうですけど。でも、用事? あ、介抱ですか? すみません、気付かなくて。コンビニでお茶でも買って来ますね。駅の方に休めるところもあったはずなので。あ、さっきのお金も」
「いや、あれは口実。酔うほど飲んでねえし。金も別にいいし。ていうか、そうじゃなくて――」

 なにから説明したものか。

「お前と話がしたかった」

 言葉に迷いつつも告げれば、今度は比奈の顔が怪訝けげんになった。

「話、ですか?」

 呟く――その表情は思案しているというより、なにかを思い出そうとしているようにも見える。ややあって、彼女ははっと顔を上げた。唇がわずかに動く。声には出さずに、三輪さんと言ったようにも見えた。

「もしかして……」
「あ。言っておくが、ナンパでもないからな。軽い気持ちじゃねえし」

 一応、くぎを刺しておく。けれど、比奈にはこちらの声など聞こえていない風でもあった。彼女の方こそ酒気に当てられてしまったように、街あかりに照らされた顔は酷く青ざめていた。

「三輪さん。三輪辰史さん」

 もしや彼女の身にも、この出会いを予感させるようななにかがあったのだろうか?
 ほんの少しの期待を込めて、辰史は頷いた。

「あ、ああ。そうだ」
「異能者の……三輪家の後継者、ですよね?」

 比奈がぎこちない声で問いを重ねてくる。

「は……?」

 彼女がそれを知っているとは、予想外だった。

「あ、サークルのやつらから聞いたのか?」

 予想外だが――考えてみればとりわけ不自然というほどのことではない。少しだけがっかりしながら訊けば、比奈は小さく首を振った。

「いえ。あの家でも有名だったので」

 色を失った唇を震わせながら、答えてくる。

(あの家? どこだ? 天月……そうある名字じゃないが……)

 少し考えて、

(天月……天……異能者……)

 辰史はようやく思い出した。

「あれか。天月って、高天たかまの」
「まあ、そういうことです」

 返事がどうにも歯切れ悪く聞こえるのは、気のせいではないのだろう。

「悪い。高天家にはあまり詳しくないんだ。交流は親父や一族の連中に任せていたし、なんとなく勝手に閉鎖的な一族なんだと――」

 慌てて弁解する。しかし、彼女は「いえ」と短く呟いて顔を俯けた。

「詳しくないならいいんです。てっきり、知っていて連れ出したのかと思っただけなので」
「そうじゃない。家のことなんか関係ない。全然、知らなかった。あ、それも失礼な話だが……」
「気にしないでください。それに、閉鎖的な一族だというのも間違いではないです」

 言って、比奈はほっとしたように笑った。

「正直、安心しました。私も本家とは繋がりがないので、家の話題になっても知らないことの方が多いんです。だから、三輪さんをがっかりさせてしまったら申し訳ないなと」

 天月は高天一族の中で、それほど地位のある家ではないのだろう。宗家から離れれば離れるほど、情報が入ってこなくなるというのはどこも同じようだ。

「ああ、それなら心配しなくてもいい。俺の訊きたいことは別にあるんだ」
「なんでしょう? サークルのことですか? それなら私より烏羽くんの方が……」
「いや。お前のこと」

 ゆるゆると息を吐きだす比奈を遮って、告げる。と――

「え?」

 弛緩しかんしかけた彼女の顔が、またぎくりと強張った。まるで静止した時間の中にでもいるかのように、息を止めて。ゆっくりと瞬きすると、比奈は瞳をこちらへ向けてきた。鳶色の瞳には疑念と緊張が走っている。やがて彼女は少し息を吸って――

「私のこと、ですか?」
「そうだ」
「……三輪さんは、私のことをどこまで知っているんです?」

 慎重に問いを投げかけてきた。

「どこまでと言われても――」

 問いかけがあの夢を指しているわけではないことが、すぐに分かった。さっきから微妙に食い違う会話が、それを示している。彼女はなにかを警戒していた。
 そのことに気付かなかったのは、舞い上がりすぎていたせいなのだろう。辰史は初めて冷静になって、一度深く息を吸った。

「なにも。なにも、知らない」

 肺に溜まった息を吐き出しながら、そう認める。
 知っているのは、夢に見た女と目の前の彼女がなんらかの問題とともにあるということだけだ。他はなにも知らない。言葉にしてしまえば、気分はいくらか落ち着いた。

「……お前は、俺のことをどこまで知っているんだ? 知られたくないことでもあったのか?」

 夢の話をしようかしまいか――迷った末に、辰史は逆に訊き返した。比奈が答える。

「三輪家の後継者だということを、知っています。一族の中でも特に才能に秀でていた、三輪尊さんの寵児ちょうじだと聞きました。そんな方がどうして私のことを知りたがるのか、に落ちないんです。さっきも言った通り、天月は高天の傍流。高天の中でさえ取るに足らない存在だったのに、まして他の異能者からこうして興味を持たれることなんて……」
「だから、家のことは関係ないんだ。俺個人がお前に興味を持っているというだけで――」
「三輪さん個人が? どうしてです?」

 ますます困惑したように、比奈。

「それは」
(こんな妙なタイミングで、夢で見たからなんて言えねえだろ)

 良くも悪くも有名な三輪の名前を恨めしく思いながら、辰史は苦く息を吐いた。

「その、後輩だし。さっきも見た感じ、あまり楽しくなさそうに見えたから。気になってだな……」

 言えば、いくらかは思い当たる節があったらしい。

「あ――す、すみません。私、飲み会ってあまり参加したことなくて。今回は新歓だからどうしてもと言われたので来てみたんですけど、お酒も飲めないので。やっぱり浮いていましたよね」

 嘆息しながら、申し訳なさそうに続けてくる。

「心配してくれたんですか。私、三輪さんが異能者だと分かったら身構えちゃって……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。俺も言葉が足りなかった。それで――」

 一度言葉を切って、辰史は比奈の表情を眺めた。
 彼女が異能者に対して身構える理由は分からない。が、一つだけはっきりしたこともある。

「なにか、悩みがあるんじゃないのか?」

 悩みというよりは、恐れか。比奈は頬の筋肉をぴくりと動かした。
 その肩を掴みたくなる衝動を抑えて、辰史は続ける。

「突然こんなことを言われて戸惑うかもしれないが、できることなら相談して欲しいと思ってる。同じ異能者だからってわけじゃないし、お前が心配しているような含みがあるわけでもない。俺は、お前の力になりたいだけなんだ」
「……ありがとうございます」

 長い沈黙の末に、比奈はぽつりとそう零した。

「三輪さんがそう言ってくれたこと、嬉しいです。すごく。そのことだけは分かってください」
「ああ」
「でも、その……大丈夫なので」

 それ以上を言う気はないのだろう。比奈はそれきり口を噤んで、ふいと横を向いた。街灯に照らされた地面には、彼女の濃い影が伸びている。もちろん、それは人の姿をしていた。

「そうか」

 辰史はひとまず引き下がることにした。納得したわけではない。が、こちらも事情を話していない以上、信頼されないのは仕方のないことだった。

「なにかあったら、いつでも連絡してくれ」

 代わりに、名刺を差し出す。祖父の店を継いだときに作ったものだ。報復屋の字は入れようか迷ったが、結局まだ蛟堂みずちどうとしか記していない。彼女はそれを受け取って、首を傾げた。

「蛟堂……?」
「ああ。俺の店なんだ。暇なときに来てくれても構わないぜ。むしろ大歓迎ってやつだ」

 わざとらしく片目を瞑ってみせれば、比奈は少しだけ笑った。
 それから、沈黙。他に話題にできるようなこともなく――また、固く唇を結んだ彼女はそれ以上の会話を避けているようにも見えた。気まずい静寂に包まれたまま、駅までの道を歩く。

(…………?)

 五分ほど歩いてようやく。人の多い駅に辿り着いたとき、不意に感じた悪寒おかんに辰史は眉をひそめた。薄ら寒い感覚が、背筋を逆撫さかなでしている。

「あの、さ。比奈」

 声をかける。と、かばんの中に手を入れて財布を探していた比奈が、手を止めて視線を向けてきた。

「はい?」
「家まで送ろうか? なんか嫌な予感がするんだ」

 目に見えないなにかがいる。どこからか見られているような気がする。手足に絡みつく悪意をまとった気配に、辰史は両腕をさすった。この悪意は自分だけに向けられているのだろうか?
 じっと比奈を凝視すれば、彼女はなにも気付いていない風に軽く笑った。

「ここまでで大丈夫ですよ。送ってくださってありがとうございました。それと――」

 そこで、おもむろに声をひそめる。

「三輪さんこそ、気をつけて。帰りは人の多い道を歩いてください。人気ひとけのない道を通るくらいなら、タクシーを使った方がいいと思います。危ないので」
「心配してくれるのか?」

 それにしては大袈裟おおげさだと思いながら訊き返す。比奈は思案するように一度だけ目を瞑った。

「心配……。いえ、やめておきます。私が心配すると、ろくなことにならないんです」

 意味ありげに言って、改札をくぐっていく。彼女の姿が完全に見えなくなると、辰史はくるりときびすを返して夜の街へ引き返した。頭の中が、軽く混乱している。

(どういうことだ?)

 予定外のことばかりだった。比奈のことも、そしてまだ手足に纏わり付いている気配も。

(腑に落ちない……というか、拍子抜けだ。泣いているものとばかり、思っていたからな)

 遠慮がちな彼女の顔を思い出しながら、人通りのない小路へ足を向ける。

(そもそも、向こうから助けを求めてきているわけでもないってのが問題なんだよな。俺が必死になればなるほど、あいつは警戒するだろうし。どうしたものか……)

 大通りから離れること、二百メートルほど。無音というわけではないが、人の声は遠い。辰史は周囲に人がいないことを確認すると、その場で足を止めた。

「で、用件はなんだ? わざわざ人のいない道を選んでやったんだ。手短に頼むぜ」

 どこにいるのかも分からない、見えないなにかに声をかける。
 と、不意に街灯の灯りがジジ……と音を立てて小さく揺らめいた、気がした。

かばね……!」

 先手必勝と言わんばかりに式符を放り、闇夜に短く叫ぶ。独眼のからすが宙で翼を広げるが早いか、あたりに一陣の黒風が吹き荒れた。それは屍喰かばねくらいが巻き起こしたものではない。

「なんだっ!?」

 なにが起こったというのだろう?
 耳元で生じた鋭い唸りに、思わず顔を手でかばう。
 風が過ぎ去ったあと、アスファルトの上にはずたずたに裂かれた屍喰の式符が散らばっていた。悪意を含んだあの気配は、もう感じられない。
 ありえないことだ。
 辰史は呆然と呟いた。屍喰の能力はどちらかと言えば偵察型であるが、決して弱くはない。相手が何者かも分からないまま裂かれるなど、信じられないことだった。
 ――「三輪さんこそ、気をつけて。帰りは人の多い道を歩いてください」
 比奈の忠告が脳裏をよぎる。黒風。黒。夢の中で見た黒い影と関係があるのか、否か……

「なんだってんだ?」

 訳が分からない。彼女はなにを知っているのだろう?


   ***
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