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8巻
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地獄の沙汰も金次第――
業を背負う覚悟と金があるのなら――
その恨み、蛟堂に預けてみませんか?
悪いようには致しません。
「一週間以内に、 」
――必ずや片を付けてみせましょう。
蛟堂店主 三輪辰史
第一話 殺生石
少年は夢を見る。
その世界が自分の一部として存在するようになったのは、一体いつのことだったか。彼女のことは生まれたときから知っているような気もするし、そうではなく――逆に、つい最近出会ったばかりのような気もする。まるで知らないうちに芽生えていた自我のように、それは気付けば傍らにあった。
夜ごと現れるもう一つの現実。
そう、現実だ。
ただの夢ではなく。錯覚でもなく。誰も知らない、自分だけが知る現実――そうあって欲しいと、少年は熱望した。夢の中の光景に、どうしてか魅了されて止まなかった。
箱を思わせる狭くて四角い部屋は、もう目を瞑らなくても思い出すことができた。
カーペットの一つも敷かれていない、寒々としたフローリングの床。鉄格子を思わせるフレームの付いた銀色のベッド。最低限の物だけが備えられた部屋は、シンプルというには殺風景過ぎた。そんな部屋で、彼女はいつでも一人だった。壁を背に膝を抱えて、蹲っていた。
大人びてはいるが、大人ではない。どこか危うげな雰囲気を持つ女。彼女は綺麗でもあった。月並みな言葉ではあるが――青ざめて見える白い顔も、混じりけのない闇色の髪も、悲しく歪んだ赤い瞳も。頬を伝う透明な涙さえ、美しく見えた。
それらの激しくも調和の取れた色合いに、目を奪われる。そのたびに少年の胸は震えた。
彼女はいつも泣いていた。
「どうして……」
どうして、泣いているの?
何度、そう訊ねたことだろう。何度、慰めようと手を伸ばしたことだろう。
「なにが悲しいの?」
「泣かないで」
狭い世界に響くのは、小さな嗚咽と少年の声。慰めも問いかけも、壁に反射して自らに返ってくるだけだった。触れようとした手は、するりと彼女の体をすり抜けた。なにも掴むことのできなかった手を握りしめ――
「ぼくも……」
同じだよ、と。
届くことのなかった声を、それでも絞って語りかける。
「ぼくも、寂しい。御祖父様はいつも家に居てくれるわけじゃないし、初子姉さまだって、そうだ。父さまも、母さまも、卯月姉さまも、ぼくのことが嫌いだ。秋寅兄さまはよく分からない。丹塗矢の家の丑雄従兄さまは、すごく恐い。ぼくたちは、同じ。あなただけじゃないから。だから……」
じっと彼女を見つめていると、世界で二人だけになってしまった気になった。悲しいような、けれどほんの少しだけ嬉しいような心地で、少年は続ける。
「だから泣かないで。ぼくがいるから。お願いだから――」
ぼくを見て。ぼくに気付いて。
熱っぽく訴える。彼女を慰めたいのか、それとも慰められたいのか。両手で目元を拭って、吐息をもらす。いいや。いいや。そんな単純な話ではないのだ。少年は滲む視界に彼女の姿を捉えながら、切望した。
(ああ、どうか。彼女の世界にも、ぼくという存在が認められますように)
彼女にも、この場所で嘆く自分を知って欲しいのだ。この場所で泣く彼女を、自分だけが知るように。寂しさを共有したいのだ。自分たちの他は誰も知らない、狭い夢の中で。
彼女さえ一人ではないと気付いてくれたのなら、手を取り合うこともできるようになるのではないかと思えた。それは予感というより、願いだったのかもしれない。期待と微かな不安とが入り混じった瞳で、少年は彼女を見つめた。その時間をどれだけ長く感じたことか。
ややあって、彼女はほんの少しだけ顔を上げる――目覚めるのは、決まってその瞬間だった。あと少しで視線が交わりそうなタイミングで、ふっと意識が引き戻される。
そうして目を覚ました世界に、彼女の姿はない。どこにもない。どうしようもないもどかしさと切なさに胸を焼かれながら、兄が起こしに来るまで天井を見つめ続けた。
少年の名は、辰史。
「辰ちゃん、どうしたの? 箸、進んでないみたいだけど。食欲ない?」
思考を割って聞こえてきたのは、腹立たしくなるほど脳天気な声だった。大切な庭を踏み荒らされたような、そんな心地で眉を顰める。それでも――辰史は仕方なしに二、三度目を瞬かせて、声の方へ意識を傾けた。少し広めのダイニングテーブル。正面に座っているのは兄だった。
三輪秋寅。
三輪家の長男である。とはいえ辰史と六つしか違わない彼も、この春中学に上がったばかりで、まだ十分に子供と呼べる年頃だった。多忙な祖父や両親に代わって家のことを任されているせいか、妙に目敏いところがある。今も――
「大丈夫? さっきから……っていうか、ここのところずっと上の空みたいだけど。最近は朝もなかなか起きて来ないし。もしかして、具合でも悪かったりする?」
心配そうに訊いてくる。そんな兄のこまやかさが、辰史は少しだけ苦手だった。小さく縮こまりながら、上目遣いに彼を見る。細い眉の下にある瞳は、いつも人懐っこく笑っているが、一方でどこか卑屈なようにも見えた。彼が首を傾げると、父譲りの細い猫っ毛が揺れる。そんな兄の顔を眺めながら――どう答えるべきか迷った末に、辰史は小さく首を振った。
「大丈夫です。秋寅兄さま」
「もし具合が悪いなら、我慢は良くないよ」
「我慢なんて……」
「実は重い病気だったってこともあるかもしれないからさ。たっちゃんのときだって急だったし」
そう言ってから声を潜めたのは、こちらの表情に気付いたからなのだろう。たっちゃん。丹塗矢辰季。辰史が生まれる前に死んだという従兄の名前だ。辰史は、彼の話題が嫌いだった。
病死だったと聞いているが、周囲は辰季の早すぎる死を受け入れられずにいるらしい。
「たっちゃんは好かれていたのよ。私も、兄さまも、丑雄従兄さまも……勿論、御祖父様も。みんなたっちゃんのことが好きだった。神さまからも愛されて、連れて行かれちゃったんだわ」
みんなが口を閉ざしがちな辰季のことを教えてくれたのは、姉の卯月だった。それも親切からではなく、なにか意地の悪い意図があったのだろうと思えてしまう。
いや、卯月だけではない。なんとなく余所余所しい両親の態度も気に掛かっていた。
口ではなにも言わないが、ぎこちない顔をする父。そんな父のぎこちなさを取り繕おうとしてくれるが、やはりどことなく遠慮がちに接してくる母。
また、辰季の兄である丑雄――丹塗矢家の長男から嫌われていることも、感じないではなかった。従兄の鋭い視線に気付くたび、辰史は酷く息苦しい思いをしなければならなかった。まるで人殺しと責められているように錯覚して、畏縮せずにはいられなかった。
さらに、無遠慮で無神経な親戚も、しばしば辰史と辰季を比較した。面と向かって死んだ少年の名前を口に出すことはなかったが、彼らの視線はいつでもこちらではないどこかを見ているように思えた。
――みんな、辰季の方が良かったのだろう。自分ではなく。
そう考えると、目の前で心配そうな顔をしている兄のことも信じられなくなった。優しかった一番上の姉は、何年も前に家を出てしまった。
祖父だけだ。今は祖父だけが唯一、自分を大切にしてくれる。もっとも、すべての元凶である辰史という名は、その祖父から与えられたものではあったが。
逃げ場のない絶望に、唇を噛む。どうして自分ばかりが、こんな思いをしなければならないのか。
「たっちゃんが死んで、辰の字をもらった。あんたはそのおかげで、私や兄さまよりも優れているんだから。恨みを買うのは仕方がないことなのよ。だって、努力してないんだもの」
そう言ったのも、卯月だった。彼女の言葉を思い出して、辰史は胸の内で独りごちる。
(ぼくが、自分で選んだわけじゃないのに……)
優れている。だから、どうだと言うのだろう。いつ、誰が、そうなることを望んだと言うのだ。
他人と一線を画すことがどんなに恐いか、姉は知っているのか?
自分でも把握できないほどの力を持つというのは、つまりいつ爆発するとも分からない爆弾を体の内に抱えているようなものだった。羽目を外すことも、癇癪を起こすことも躊躇ってしまうほどの恐怖を知らないから、彼女はそんな冷たい物言いができるのだ。
姉さまは理不尽だ。辰史は口の中で呟いた。
自分はいつだって、他人を傷付けないための努力をしている。息を潜めて、感情を抑えて。少しでも早くこの力を自分のものにできるよう、祖父の教えに従っている。
(それを知りもしないくせに、勝手なことばっかり……)
いつまで、こんな日が続くのだろう? いつまで我慢すれば、みんなが羨む〝特別〟の恩恵を受けることができるのだろう? 本当に、祖父のような異能者になれる日が来るのだろうか?
現実に存在する様々な人を、そして自分の未来を、疑うにつれて思い出すのは、やはり夢の中の女のことだった。彼女なら、なにもかもを黙って聞いてくれるような気がした。疑問も、寂しさも、辛さも。
あの部屋で、いつものように膝を抱えて。こちらの話をすべて聞き終えた後で、やはりなにも言わずに抱き締めてくれるのではないか――それは、たった一つの希望だった。現実に疲れた子供の甘い、甘い夢だった。
(ぼくだけの夢だ。ぼくだけの)
呪文を唱えるように、口の中で反復する。思考の間も、兄の声はずっと続いていた。けれど、それは外から聞こえてくる風の音より遠かった。耳を傾けたところで意味がない言葉のようにも思えた。
「とにかく、無理しちゃ駄目だよってことで。病院、行ってみる? 学校にはお兄ちゃんが連絡してあげるからさ。なにか悩みがあるなら聞くし。辰ちゃんは、なんでも我慢しがちだから……」
そんな言葉で辰季の話題を濁す彼を遮って、
「夢を、見るんです」
と、おもむろに打ち明けたのは、酷く腹立たしくなったからだ。なにもかも分かっているという顔で喋り続けるこの兄を、困らせてやりたくなった。案の定、秋寅は不意を突かれたように目を瞬かせた。
「夢? 夢って、あの? 夜に見る?」
訊き返してくる兄に、頷く。
「女の人が――」
「学校の先生?」
「そうじゃなくて、もっと……」
もっと、なんなのだろう。
悲しい? 寂しい? いくつかの単語を思い浮かべて、辰史は小さく首を振った。彼女の本質を言葉にすることは躊躇われた。それらを口にした瞬間に、夢は永遠に夢として手の中から零れてしまうような――そんな恐ろしい予感があった。代わりに、
「綺麗なんです。とても」
ほうっと溜息交じりに呟く。これにも、兄は面食らったようだった。
「綺麗?」
その単語を確かめるように繰り返してくる。
「はい」と、辰史は即答した。
「もしかして……辰ちゃんてば、その女の人のことを好きになっちゃったの? 病気は病気でも、恋の病ってやつ? でも、ちょっと早すぎないかなぁ?」
苦笑した秋寅。恋の病という不可解な言葉に、辰史は眉を顰める。兄の顔を眺めながら、意味を考え――そして気付いた。兄は勘違いしているのだ。勘違いしたまま、喋り続けている。
「まあ、あれだよね。辰ちゃんは寂しかったんだよね? ここのところずっと御祖父様も忙しそうだし、初子姉さんからの連絡もない。卯月は……まだお姉ちゃんとしての自覚がないからなぁ。お兄ちゃんが悪かったよ。もっと、辰ちゃんのことを気に掛けてあげないといけなかった」
眉を下げて、ごめんねと謝ってくる。そんな兄は、きっと家族の誰より優しいのだろう。けれど――醒めた心地で、辰史は口を開いた。
「兄さまは、下品だ」
言った後で少しだけ、本当に少しだけ胸がちくりと痛んだが、それでも言わずにはいられなかった。彼女に縋りたくなるこの気持ちを、慰めたいこの衝動を、恋の病などという不可解な妄想で片付けられてしまいたくはないのだ。何故なら、彼女は――
(なんだっけ、御祖父様が言ってた。好きとか、嫌いとか。そんな簡単な言葉じゃなくて……)
考える。祖父が祖母との関係を語るのによく使う言葉。ただ一つの単語。それほど難しいものではなかったはずなのに、頭に血が上っているせいか思い出すことができない。
「げ、下品?」
傷付いたというよりは、驚いたのだろう。声を引き攣らせる兄から目を逸らして、
「……ごちそうさまでした」
と、言うと、辰史は立ち上がった。
「あ、ちょっと。辰ちゃん、まだご飯残って――」
「いらない。学校、行ってきます」
声を振り払って、背を向ける。後ろで兄はまだなにかを言っているようだったが、その声はもう耳に入ってこなかった。部屋へ戻る途中で卯月からも呼び止められたが、やはり無視して傍を通りすぎた。誰とも話したくなかった。誰と話しても無駄だと思えた。
(……ううん。御祖父様なら、分かってくれるかもしれない)
障子をぴったりと閉めて、溜息を吐きだす。
そのままずるずるとしゃがみ込んで。目を閉じれば、目蓋の裏では彼女の赤が。いつまでも、まるで暗闇を照らす炎のようにゆらゆらと揺らめいていた。
三輪辰史は夢を見る。
名前も知らない彼女という存在を、言葉で説明するのは難しい。
哀しげな女性。蹲った女性。孤独な女性――そうありのままに表現してしまうのは、あまりに素っ気ないような気がした。かといって、なにより特徴的なその赤い目のことに触れようとは思えなかった。結局のところ「夢の中の彼女」と呼ぶのが無難で、そしてほんの少しだけロマンチックにも思えた。
人とは違うから、こうして一人でいるのだろう。彼女も。
やはり自分と同じなのだ。いつものように蹲っている女の目を見つめながら、辰史は小さく呟いた。なにがその色を作り出しているのか。血よりも赤く鮮やかな赤の瞳は美しい。が、人間的ではない。
「あなたも、誰かに苛められたの?」
或いは責められたのか――
問いかけに、返事はなかった。これもいつも通りのことだ。なにかしらの反応を期待していたわけではなかったが、それでも落胆せずにはいられなかった。朝の一件が、辰史の胸の内に暗い影を落としていた。
もしかしたら、すべては思い過ごしだったのではないか。彼女と触れ合う日も、言葉を交わす日も、この先永遠に訪れることはないのかもしれない。思わずそう疑ってしまって、小さく首を振る。
そんなことはない。ないはずだ。彼女は――
「ぼくの……」
口を開いて、言葉に詰まる。彼女への想いを決定的にするはずの、その一言がどうしても出て来なかった。途方に暮れた面持ちで、けれどそのまま諦めてしまう気にはなれずに、辰史は女の正面へ這い寄った。赤面したくなるほどの距離で、彼女の顔を覗き込む。悲しい瞳に映るのは、今にも泣き出してしまいそうな少年の顔だった。それを認めた瞬間に、辰史は不安に引き結んでいた唇を少しだけ緩めた。
(大丈夫だ。大丈夫。ぼくは、ここにいる。ちゃんと、彼女の目に映ってる)
些細な確認だった。それだけのことで、体中に安堵が広がった。どうして、今までこうやって自分から彼女の視界に入ろうとしなかったのか――ただ、待ち続けているだけだったのか。不思議に思いながら、辰史は飽きることなく彼女の顔を見つめ続けた。その目に映る自分の姿が、彼女と自分との世界を繋いでいる唯一の証だった。
「ねえ――」
いつの日か、この声も彼女の耳に届く日が来るのだろうか?
「あなたも、ここにいるよ」
彼女の顔を見つめたまま、自分の瞳を指さしてそっと囁く。
「ここにいるから。だから、泣かないで」
懇願する。熱を帯びた息を吐き出しながら、辰史は女の頬のあたりへ触れた。すり抜けてしまわないように、ぎりぎりのところで手を止める。彼女に触れることはできない。しかし、そう見せかけることはできる。目に映る、その姿だけでも。ぬくもりを感じることができなくても。
もしも、なにかの拍子に彼女がこちら側に気付いたとき――目の前にこの光景が存在しているということが、いくらかの慰めにはなるだろう。その瞬間を思い描くと、胸の奥が激しくざわついた。喜びか。緊張か。震えそうになる手に力を込めて、さらに顔を近付ける。
一体、自分はどうしてしまったというのか。
分からない。
辰史は自答して、押し殺していた息を漏らした。当然、その吐息が彼女の前髪を揺らすことはなかった。少年の視線はなだらかな額を滑って、瞳を見つめ、すっと筋の通った鼻梁をなぞり、最後に口元で止まった。彼女の唇は、まるで蕾のように固く結ばれている。酷く寒そうに見えるのは、血の気が失われているからかもしれない。
辰史は彼女の唇を見つめながら、空いた手を自分の唇に這わせた。あたたかい。夢の中で体温を感じるというのは、まったく不思議な話ではあったが――首を傾げながら、離した指先を今度は彼女の口元へ伸ばす。なんとはなしに思い出したのは、大好きな童話のことだった。
白雪姫やいばら姫にキスをした王子も、こんな気分だったのだろう。世界を閉ざした姫君にすっかり魅了された彼らは、言葉を交わすこともないうちに、魂を奪われた。そして彼女たちの唇に、触れずにはいられなくなってしまった――
自分がなにをしようとしているのか、自覚して辰史は少なからず動揺した。けれど、思い止まろうとも思わなかった。意を決して、そっと唇を寄せる。と、そのとき。
(…………?)
微かな違和感を覚えて、視線を上げる。ふと、なにかが動いたような気配を感じたのだ。彼女と自分の他は誰もいないはずのこの場所で。
――それは、影だった。不自然な影だった。
正面から強い光を当てられたわけでもないのに、彼女の背後にくっきりと浮かび上がっている。彼女より余程強い意志を持って、そこに存在しているように思えた。影がゆっくりと〝目〟を瞬かせる。彼女と同じ、赤い目。口が裂けるように開いたときには、もう人の姿をしていなかった。
獣だ。
いや。生きものではない。なにか得体の知れない、化け物だ。
反射的に後退ってしまってから、辰史は「あっ」と小さく声を上げた。彼女はまだそこにいる。最初からずっと変わらずに、そこで蹲っている。恐る恐る視線を戻す――と。
「…………っ!」
いつの間にか、彼女は顔を上げていた。二つの赤い目が、初めて辰史のことを見つめていた。視線が交わる。交錯する。それは最悪のタイミングだった。辰史は自分の顔からサァッと血の気が引いていくのを感じた。
「ち、違う」
慌てて、首を振る。
「ぼく、そんなつもりじゃ……」
そう弁解しながら動こうとすれば、獣の形をした化け物が低い唸り声を上げた。威嚇の意味はすぐに分かった。彼女に近付くなと、それは言っているのだ。
彼女と獣は同じ赤い瞳で、じっとこちらを見つめてくる。
「あ、あ……」
緊張で心臓がどくんと跳ねた。体の奥で煩わしいほど騒いでいる鼓動とは対照的に、体は強張っていた。彼女を恐れたくはないのに。拒絶したくはないのに。動け、と念じてみたところで、指の一本も動かない。そんなこちらの胸の内を見透かしたように、女は小さく頭を振った。
「ぼくは……」
目を見開いたまま、そんな彼女を凝視する。
――どうして。
体が動かないのだろう。
――どうして。
触れるどころか近寄ることさえ躊躇ってしまうのだろう。
これは夢だ。夢だ。夢だ。
何度も自分に言い聞かせる。夢の中で傷付けられたところで、現実に怪我をするわけではないのだ。ほんの少し――痛みとも言えないような一瞬の恐怖に耐えるだけで良い。ただそれだけのことが、どうしてできないのか。
自分では硬直しているとばかり思っていたのだが、無意識に後退していたらしい。背後に壁を感じて、ようやく我に返る。気付けば彼女との間には、二メートルほどの距離ができていた。
女が虚空を見つめる。なにもない空間だけが、彼女を拒絶しない。縋るものを失った目に、もう涙は浮かんでいなかった。悲しみも失望も。すべては通り過ぎて、後には諦めしか残っていなかった。唇から湿った溜息を吐き出して、彼女はゆっくりと膝に顔を埋めた。胎児のように体を丸めて、目を瞑る。瞼の下に、赤い瞳が隠れていく。その様子は、ひっそりと萎れていく花にも似ていた。
色を失った世界の中で一人途方に暮れながら、辰史は彼女を見つめ続ける。
壁に張り付いた黒い化け物が、上機嫌に喉を鳴らした。まるでこちらの臆病を嘲笑っている風にも見える。それでも――憤慨するどころか、いっそう体を縮こまらせた自分に、辰史は失望した。
もう「どうしたの」と訊くこともできなかった。できるはずがなかった。
答えは目の前に広がっている。辰史自身が、答えの一部として存在している。二人きりの世界だと、そう錯覚していた自分が彼女を拒絶してしまった。化け物を恐れてしまった。
夢の中でさえ誰からも手を取られることがなく、こうして恐れられる。だから彼女は泣いているのだ。孤独を悲しんでいるのだ。
――ああ、ああ、ああ……!
大声を上げて泣き出してしまいたい衝動を、辰史はどうにか堪えた。握りしめた両手がぶるぶると震える。情けない自分に対する怒りと、得体の知れない存在を目の前にした恐怖が入り交じって、頭の中が白く染まった。
滲む視界の中で、彼女は蹲っている。
いつものように。けれど、いつもより頑なに。彼女が顔を上げようとしないことに少しだけほっとしている自分に気付いて、辰史は唇を噛みしめた。すっと体温が下がっていくような感覚に、寒さを覚えて両肩を抱く――
業を背負う覚悟と金があるのなら――
その恨み、蛟堂に預けてみませんか?
悪いようには致しません。
「一週間以内に、 」
――必ずや片を付けてみせましょう。
蛟堂店主 三輪辰史
第一話 殺生石
少年は夢を見る。
その世界が自分の一部として存在するようになったのは、一体いつのことだったか。彼女のことは生まれたときから知っているような気もするし、そうではなく――逆に、つい最近出会ったばかりのような気もする。まるで知らないうちに芽生えていた自我のように、それは気付けば傍らにあった。
夜ごと現れるもう一つの現実。
そう、現実だ。
ただの夢ではなく。錯覚でもなく。誰も知らない、自分だけが知る現実――そうあって欲しいと、少年は熱望した。夢の中の光景に、どうしてか魅了されて止まなかった。
箱を思わせる狭くて四角い部屋は、もう目を瞑らなくても思い出すことができた。
カーペットの一つも敷かれていない、寒々としたフローリングの床。鉄格子を思わせるフレームの付いた銀色のベッド。最低限の物だけが備えられた部屋は、シンプルというには殺風景過ぎた。そんな部屋で、彼女はいつでも一人だった。壁を背に膝を抱えて、蹲っていた。
大人びてはいるが、大人ではない。どこか危うげな雰囲気を持つ女。彼女は綺麗でもあった。月並みな言葉ではあるが――青ざめて見える白い顔も、混じりけのない闇色の髪も、悲しく歪んだ赤い瞳も。頬を伝う透明な涙さえ、美しく見えた。
それらの激しくも調和の取れた色合いに、目を奪われる。そのたびに少年の胸は震えた。
彼女はいつも泣いていた。
「どうして……」
どうして、泣いているの?
何度、そう訊ねたことだろう。何度、慰めようと手を伸ばしたことだろう。
「なにが悲しいの?」
「泣かないで」
狭い世界に響くのは、小さな嗚咽と少年の声。慰めも問いかけも、壁に反射して自らに返ってくるだけだった。触れようとした手は、するりと彼女の体をすり抜けた。なにも掴むことのできなかった手を握りしめ――
「ぼくも……」
同じだよ、と。
届くことのなかった声を、それでも絞って語りかける。
「ぼくも、寂しい。御祖父様はいつも家に居てくれるわけじゃないし、初子姉さまだって、そうだ。父さまも、母さまも、卯月姉さまも、ぼくのことが嫌いだ。秋寅兄さまはよく分からない。丹塗矢の家の丑雄従兄さまは、すごく恐い。ぼくたちは、同じ。あなただけじゃないから。だから……」
じっと彼女を見つめていると、世界で二人だけになってしまった気になった。悲しいような、けれどほんの少しだけ嬉しいような心地で、少年は続ける。
「だから泣かないで。ぼくがいるから。お願いだから――」
ぼくを見て。ぼくに気付いて。
熱っぽく訴える。彼女を慰めたいのか、それとも慰められたいのか。両手で目元を拭って、吐息をもらす。いいや。いいや。そんな単純な話ではないのだ。少年は滲む視界に彼女の姿を捉えながら、切望した。
(ああ、どうか。彼女の世界にも、ぼくという存在が認められますように)
彼女にも、この場所で嘆く自分を知って欲しいのだ。この場所で泣く彼女を、自分だけが知るように。寂しさを共有したいのだ。自分たちの他は誰も知らない、狭い夢の中で。
彼女さえ一人ではないと気付いてくれたのなら、手を取り合うこともできるようになるのではないかと思えた。それは予感というより、願いだったのかもしれない。期待と微かな不安とが入り混じった瞳で、少年は彼女を見つめた。その時間をどれだけ長く感じたことか。
ややあって、彼女はほんの少しだけ顔を上げる――目覚めるのは、決まってその瞬間だった。あと少しで視線が交わりそうなタイミングで、ふっと意識が引き戻される。
そうして目を覚ました世界に、彼女の姿はない。どこにもない。どうしようもないもどかしさと切なさに胸を焼かれながら、兄が起こしに来るまで天井を見つめ続けた。
少年の名は、辰史。
「辰ちゃん、どうしたの? 箸、進んでないみたいだけど。食欲ない?」
思考を割って聞こえてきたのは、腹立たしくなるほど脳天気な声だった。大切な庭を踏み荒らされたような、そんな心地で眉を顰める。それでも――辰史は仕方なしに二、三度目を瞬かせて、声の方へ意識を傾けた。少し広めのダイニングテーブル。正面に座っているのは兄だった。
三輪秋寅。
三輪家の長男である。とはいえ辰史と六つしか違わない彼も、この春中学に上がったばかりで、まだ十分に子供と呼べる年頃だった。多忙な祖父や両親に代わって家のことを任されているせいか、妙に目敏いところがある。今も――
「大丈夫? さっきから……っていうか、ここのところずっと上の空みたいだけど。最近は朝もなかなか起きて来ないし。もしかして、具合でも悪かったりする?」
心配そうに訊いてくる。そんな兄のこまやかさが、辰史は少しだけ苦手だった。小さく縮こまりながら、上目遣いに彼を見る。細い眉の下にある瞳は、いつも人懐っこく笑っているが、一方でどこか卑屈なようにも見えた。彼が首を傾げると、父譲りの細い猫っ毛が揺れる。そんな兄の顔を眺めながら――どう答えるべきか迷った末に、辰史は小さく首を振った。
「大丈夫です。秋寅兄さま」
「もし具合が悪いなら、我慢は良くないよ」
「我慢なんて……」
「実は重い病気だったってこともあるかもしれないからさ。たっちゃんのときだって急だったし」
そう言ってから声を潜めたのは、こちらの表情に気付いたからなのだろう。たっちゃん。丹塗矢辰季。辰史が生まれる前に死んだという従兄の名前だ。辰史は、彼の話題が嫌いだった。
病死だったと聞いているが、周囲は辰季の早すぎる死を受け入れられずにいるらしい。
「たっちゃんは好かれていたのよ。私も、兄さまも、丑雄従兄さまも……勿論、御祖父様も。みんなたっちゃんのことが好きだった。神さまからも愛されて、連れて行かれちゃったんだわ」
みんなが口を閉ざしがちな辰季のことを教えてくれたのは、姉の卯月だった。それも親切からではなく、なにか意地の悪い意図があったのだろうと思えてしまう。
いや、卯月だけではない。なんとなく余所余所しい両親の態度も気に掛かっていた。
口ではなにも言わないが、ぎこちない顔をする父。そんな父のぎこちなさを取り繕おうとしてくれるが、やはりどことなく遠慮がちに接してくる母。
また、辰季の兄である丑雄――丹塗矢家の長男から嫌われていることも、感じないではなかった。従兄の鋭い視線に気付くたび、辰史は酷く息苦しい思いをしなければならなかった。まるで人殺しと責められているように錯覚して、畏縮せずにはいられなかった。
さらに、無遠慮で無神経な親戚も、しばしば辰史と辰季を比較した。面と向かって死んだ少年の名前を口に出すことはなかったが、彼らの視線はいつでもこちらではないどこかを見ているように思えた。
――みんな、辰季の方が良かったのだろう。自分ではなく。
そう考えると、目の前で心配そうな顔をしている兄のことも信じられなくなった。優しかった一番上の姉は、何年も前に家を出てしまった。
祖父だけだ。今は祖父だけが唯一、自分を大切にしてくれる。もっとも、すべての元凶である辰史という名は、その祖父から与えられたものではあったが。
逃げ場のない絶望に、唇を噛む。どうして自分ばかりが、こんな思いをしなければならないのか。
「たっちゃんが死んで、辰の字をもらった。あんたはそのおかげで、私や兄さまよりも優れているんだから。恨みを買うのは仕方がないことなのよ。だって、努力してないんだもの」
そう言ったのも、卯月だった。彼女の言葉を思い出して、辰史は胸の内で独りごちる。
(ぼくが、自分で選んだわけじゃないのに……)
優れている。だから、どうだと言うのだろう。いつ、誰が、そうなることを望んだと言うのだ。
他人と一線を画すことがどんなに恐いか、姉は知っているのか?
自分でも把握できないほどの力を持つというのは、つまりいつ爆発するとも分からない爆弾を体の内に抱えているようなものだった。羽目を外すことも、癇癪を起こすことも躊躇ってしまうほどの恐怖を知らないから、彼女はそんな冷たい物言いができるのだ。
姉さまは理不尽だ。辰史は口の中で呟いた。
自分はいつだって、他人を傷付けないための努力をしている。息を潜めて、感情を抑えて。少しでも早くこの力を自分のものにできるよう、祖父の教えに従っている。
(それを知りもしないくせに、勝手なことばっかり……)
いつまで、こんな日が続くのだろう? いつまで我慢すれば、みんなが羨む〝特別〟の恩恵を受けることができるのだろう? 本当に、祖父のような異能者になれる日が来るのだろうか?
現実に存在する様々な人を、そして自分の未来を、疑うにつれて思い出すのは、やはり夢の中の女のことだった。彼女なら、なにもかもを黙って聞いてくれるような気がした。疑問も、寂しさも、辛さも。
あの部屋で、いつものように膝を抱えて。こちらの話をすべて聞き終えた後で、やはりなにも言わずに抱き締めてくれるのではないか――それは、たった一つの希望だった。現実に疲れた子供の甘い、甘い夢だった。
(ぼくだけの夢だ。ぼくだけの)
呪文を唱えるように、口の中で反復する。思考の間も、兄の声はずっと続いていた。けれど、それは外から聞こえてくる風の音より遠かった。耳を傾けたところで意味がない言葉のようにも思えた。
「とにかく、無理しちゃ駄目だよってことで。病院、行ってみる? 学校にはお兄ちゃんが連絡してあげるからさ。なにか悩みがあるなら聞くし。辰ちゃんは、なんでも我慢しがちだから……」
そんな言葉で辰季の話題を濁す彼を遮って、
「夢を、見るんです」
と、おもむろに打ち明けたのは、酷く腹立たしくなったからだ。なにもかも分かっているという顔で喋り続けるこの兄を、困らせてやりたくなった。案の定、秋寅は不意を突かれたように目を瞬かせた。
「夢? 夢って、あの? 夜に見る?」
訊き返してくる兄に、頷く。
「女の人が――」
「学校の先生?」
「そうじゃなくて、もっと……」
もっと、なんなのだろう。
悲しい? 寂しい? いくつかの単語を思い浮かべて、辰史は小さく首を振った。彼女の本質を言葉にすることは躊躇われた。それらを口にした瞬間に、夢は永遠に夢として手の中から零れてしまうような――そんな恐ろしい予感があった。代わりに、
「綺麗なんです。とても」
ほうっと溜息交じりに呟く。これにも、兄は面食らったようだった。
「綺麗?」
その単語を確かめるように繰り返してくる。
「はい」と、辰史は即答した。
「もしかして……辰ちゃんてば、その女の人のことを好きになっちゃったの? 病気は病気でも、恋の病ってやつ? でも、ちょっと早すぎないかなぁ?」
苦笑した秋寅。恋の病という不可解な言葉に、辰史は眉を顰める。兄の顔を眺めながら、意味を考え――そして気付いた。兄は勘違いしているのだ。勘違いしたまま、喋り続けている。
「まあ、あれだよね。辰ちゃんは寂しかったんだよね? ここのところずっと御祖父様も忙しそうだし、初子姉さんからの連絡もない。卯月は……まだお姉ちゃんとしての自覚がないからなぁ。お兄ちゃんが悪かったよ。もっと、辰ちゃんのことを気に掛けてあげないといけなかった」
眉を下げて、ごめんねと謝ってくる。そんな兄は、きっと家族の誰より優しいのだろう。けれど――醒めた心地で、辰史は口を開いた。
「兄さまは、下品だ」
言った後で少しだけ、本当に少しだけ胸がちくりと痛んだが、それでも言わずにはいられなかった。彼女に縋りたくなるこの気持ちを、慰めたいこの衝動を、恋の病などという不可解な妄想で片付けられてしまいたくはないのだ。何故なら、彼女は――
(なんだっけ、御祖父様が言ってた。好きとか、嫌いとか。そんな簡単な言葉じゃなくて……)
考える。祖父が祖母との関係を語るのによく使う言葉。ただ一つの単語。それほど難しいものではなかったはずなのに、頭に血が上っているせいか思い出すことができない。
「げ、下品?」
傷付いたというよりは、驚いたのだろう。声を引き攣らせる兄から目を逸らして、
「……ごちそうさまでした」
と、言うと、辰史は立ち上がった。
「あ、ちょっと。辰ちゃん、まだご飯残って――」
「いらない。学校、行ってきます」
声を振り払って、背を向ける。後ろで兄はまだなにかを言っているようだったが、その声はもう耳に入ってこなかった。部屋へ戻る途中で卯月からも呼び止められたが、やはり無視して傍を通りすぎた。誰とも話したくなかった。誰と話しても無駄だと思えた。
(……ううん。御祖父様なら、分かってくれるかもしれない)
障子をぴったりと閉めて、溜息を吐きだす。
そのままずるずるとしゃがみ込んで。目を閉じれば、目蓋の裏では彼女の赤が。いつまでも、まるで暗闇を照らす炎のようにゆらゆらと揺らめいていた。
三輪辰史は夢を見る。
名前も知らない彼女という存在を、言葉で説明するのは難しい。
哀しげな女性。蹲った女性。孤独な女性――そうありのままに表現してしまうのは、あまりに素っ気ないような気がした。かといって、なにより特徴的なその赤い目のことに触れようとは思えなかった。結局のところ「夢の中の彼女」と呼ぶのが無難で、そしてほんの少しだけロマンチックにも思えた。
人とは違うから、こうして一人でいるのだろう。彼女も。
やはり自分と同じなのだ。いつものように蹲っている女の目を見つめながら、辰史は小さく呟いた。なにがその色を作り出しているのか。血よりも赤く鮮やかな赤の瞳は美しい。が、人間的ではない。
「あなたも、誰かに苛められたの?」
或いは責められたのか――
問いかけに、返事はなかった。これもいつも通りのことだ。なにかしらの反応を期待していたわけではなかったが、それでも落胆せずにはいられなかった。朝の一件が、辰史の胸の内に暗い影を落としていた。
もしかしたら、すべては思い過ごしだったのではないか。彼女と触れ合う日も、言葉を交わす日も、この先永遠に訪れることはないのかもしれない。思わずそう疑ってしまって、小さく首を振る。
そんなことはない。ないはずだ。彼女は――
「ぼくの……」
口を開いて、言葉に詰まる。彼女への想いを決定的にするはずの、その一言がどうしても出て来なかった。途方に暮れた面持ちで、けれどそのまま諦めてしまう気にはなれずに、辰史は女の正面へ這い寄った。赤面したくなるほどの距離で、彼女の顔を覗き込む。悲しい瞳に映るのは、今にも泣き出してしまいそうな少年の顔だった。それを認めた瞬間に、辰史は不安に引き結んでいた唇を少しだけ緩めた。
(大丈夫だ。大丈夫。ぼくは、ここにいる。ちゃんと、彼女の目に映ってる)
些細な確認だった。それだけのことで、体中に安堵が広がった。どうして、今までこうやって自分から彼女の視界に入ろうとしなかったのか――ただ、待ち続けているだけだったのか。不思議に思いながら、辰史は飽きることなく彼女の顔を見つめ続けた。その目に映る自分の姿が、彼女と自分との世界を繋いでいる唯一の証だった。
「ねえ――」
いつの日か、この声も彼女の耳に届く日が来るのだろうか?
「あなたも、ここにいるよ」
彼女の顔を見つめたまま、自分の瞳を指さしてそっと囁く。
「ここにいるから。だから、泣かないで」
懇願する。熱を帯びた息を吐き出しながら、辰史は女の頬のあたりへ触れた。すり抜けてしまわないように、ぎりぎりのところで手を止める。彼女に触れることはできない。しかし、そう見せかけることはできる。目に映る、その姿だけでも。ぬくもりを感じることができなくても。
もしも、なにかの拍子に彼女がこちら側に気付いたとき――目の前にこの光景が存在しているということが、いくらかの慰めにはなるだろう。その瞬間を思い描くと、胸の奥が激しくざわついた。喜びか。緊張か。震えそうになる手に力を込めて、さらに顔を近付ける。
一体、自分はどうしてしまったというのか。
分からない。
辰史は自答して、押し殺していた息を漏らした。当然、その吐息が彼女の前髪を揺らすことはなかった。少年の視線はなだらかな額を滑って、瞳を見つめ、すっと筋の通った鼻梁をなぞり、最後に口元で止まった。彼女の唇は、まるで蕾のように固く結ばれている。酷く寒そうに見えるのは、血の気が失われているからかもしれない。
辰史は彼女の唇を見つめながら、空いた手を自分の唇に這わせた。あたたかい。夢の中で体温を感じるというのは、まったく不思議な話ではあったが――首を傾げながら、離した指先を今度は彼女の口元へ伸ばす。なんとはなしに思い出したのは、大好きな童話のことだった。
白雪姫やいばら姫にキスをした王子も、こんな気分だったのだろう。世界を閉ざした姫君にすっかり魅了された彼らは、言葉を交わすこともないうちに、魂を奪われた。そして彼女たちの唇に、触れずにはいられなくなってしまった――
自分がなにをしようとしているのか、自覚して辰史は少なからず動揺した。けれど、思い止まろうとも思わなかった。意を決して、そっと唇を寄せる。と、そのとき。
(…………?)
微かな違和感を覚えて、視線を上げる。ふと、なにかが動いたような気配を感じたのだ。彼女と自分の他は誰もいないはずのこの場所で。
――それは、影だった。不自然な影だった。
正面から強い光を当てられたわけでもないのに、彼女の背後にくっきりと浮かび上がっている。彼女より余程強い意志を持って、そこに存在しているように思えた。影がゆっくりと〝目〟を瞬かせる。彼女と同じ、赤い目。口が裂けるように開いたときには、もう人の姿をしていなかった。
獣だ。
いや。生きものではない。なにか得体の知れない、化け物だ。
反射的に後退ってしまってから、辰史は「あっ」と小さく声を上げた。彼女はまだそこにいる。最初からずっと変わらずに、そこで蹲っている。恐る恐る視線を戻す――と。
「…………っ!」
いつの間にか、彼女は顔を上げていた。二つの赤い目が、初めて辰史のことを見つめていた。視線が交わる。交錯する。それは最悪のタイミングだった。辰史は自分の顔からサァッと血の気が引いていくのを感じた。
「ち、違う」
慌てて、首を振る。
「ぼく、そんなつもりじゃ……」
そう弁解しながら動こうとすれば、獣の形をした化け物が低い唸り声を上げた。威嚇の意味はすぐに分かった。彼女に近付くなと、それは言っているのだ。
彼女と獣は同じ赤い瞳で、じっとこちらを見つめてくる。
「あ、あ……」
緊張で心臓がどくんと跳ねた。体の奥で煩わしいほど騒いでいる鼓動とは対照的に、体は強張っていた。彼女を恐れたくはないのに。拒絶したくはないのに。動け、と念じてみたところで、指の一本も動かない。そんなこちらの胸の内を見透かしたように、女は小さく頭を振った。
「ぼくは……」
目を見開いたまま、そんな彼女を凝視する。
――どうして。
体が動かないのだろう。
――どうして。
触れるどころか近寄ることさえ躊躇ってしまうのだろう。
これは夢だ。夢だ。夢だ。
何度も自分に言い聞かせる。夢の中で傷付けられたところで、現実に怪我をするわけではないのだ。ほんの少し――痛みとも言えないような一瞬の恐怖に耐えるだけで良い。ただそれだけのことが、どうしてできないのか。
自分では硬直しているとばかり思っていたのだが、無意識に後退していたらしい。背後に壁を感じて、ようやく我に返る。気付けば彼女との間には、二メートルほどの距離ができていた。
女が虚空を見つめる。なにもない空間だけが、彼女を拒絶しない。縋るものを失った目に、もう涙は浮かんでいなかった。悲しみも失望も。すべては通り過ぎて、後には諦めしか残っていなかった。唇から湿った溜息を吐き出して、彼女はゆっくりと膝に顔を埋めた。胎児のように体を丸めて、目を瞑る。瞼の下に、赤い瞳が隠れていく。その様子は、ひっそりと萎れていく花にも似ていた。
色を失った世界の中で一人途方に暮れながら、辰史は彼女を見つめ続ける。
壁に張り付いた黒い化け物が、上機嫌に喉を鳴らした。まるでこちらの臆病を嘲笑っている風にも見える。それでも――憤慨するどころか、いっそう体を縮こまらせた自分に、辰史は失望した。
もう「どうしたの」と訊くこともできなかった。できるはずがなかった。
答えは目の前に広がっている。辰史自身が、答えの一部として存在している。二人きりの世界だと、そう錯覚していた自分が彼女を拒絶してしまった。化け物を恐れてしまった。
夢の中でさえ誰からも手を取られることがなく、こうして恐れられる。だから彼女は泣いているのだ。孤独を悲しんでいるのだ。
――ああ、ああ、ああ……!
大声を上げて泣き出してしまいたい衝動を、辰史はどうにか堪えた。握りしめた両手がぶるぶると震える。情けない自分に対する怒りと、得体の知れない存在を目の前にした恐怖が入り交じって、頭の中が白く染まった。
滲む視界の中で、彼女は蹲っている。
いつものように。けれど、いつもより頑なに。彼女が顔を上げようとしないことに少しだけほっとしている自分に気付いて、辰史は唇を噛みしめた。すっと体温が下がっていくような感覚に、寒さを覚えて両肩を抱く――
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