蛟堂報復録

鈴木麻純

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6巻

6-2

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 辰史がまだ、家にいた時のことだ。
 三輪邸と呼ばれた家には祖父がいて、父母がいて、兄姉がいた。尊は仕事で邸を離れることが多かったが、三輪一族の本拠地は京都である。周囲には血族も多かった。異能者であることを隠す必要のないその狭い社会の中で、辰史は特別だった。
 兄姉らとは能力が違ったのだ。祖父から陰陽道や風水術、口寄せや薬術といった様々な術の手解きを受けた。学び始めて数年で、跡継ぎ候補として育てられていた兄・秋寅を追い越してしまった辰史だ。周囲はこぞって辰史のことを持ち上げた。
 そんな辰史に苦い顔をしたのは、父と丑雄だけだった。
 早熟すぎるのは良くない、と二人が口を揃えて言った意味が、今では分かるような気がする。能力ばかりが育っても、体の成長が追いつかなければ力を持て余すだけだった。今の辰史がそうだ。
 そうして、認められる年齢まで待たねばならないのは不安だった。丑雄の言う通りだとすれば、最低ラインは二十歳である。まだ二年もある。

御祖父おじい様は、丑雄に蛟堂を継がせるつもりなのかもしれない)

 必ずしも三輪家の当主となる人間が蛟堂の店主である必要はないのだ。尊の年齢を考えても、店の後継者には丑雄を指名しておいた方が安心だろう。経験の点で言えば、辰史より丑雄が勝っているのだ。そんな不安が胸をかすめた。
 当主になるな、と言われたわけではないのにそれだけで否定された気になってしまう。暗に、頼りないことを責められているような気さえした。秋寅の前例があるから余計にそう思うのかもしれなかった。
 今でこそ好き勝手やっている兄の秋寅も、かつては跡継ぎ候補だった。辰史が生まれなければ、今もそう遇されていたことだろう。丑雄と共に蛟堂を手伝っていたのも、秋寅だったに違いない。
 跡継ぎとしての自覚があった頃の秋寅は、薬学以外も真面目に学んでいた――とは姉の談だ。

「でも、兄さんには才能がなかった。しかも後から生まれたあんたにすぐ追い抜かれたものだから、さっさと諦めて戦線離脱しちゃったのよ」

 そう付け加えた姉は、どこか腹立たしげだった。その顔を思い出すにつけて、兄は戦線離脱したのではなく、せざるを得なかったのではないかと思う辰史だった。
 三輪一族は、能力至上主義だ。
 外から婿に来た父の三郎は、やはり異能者としては少しばかり能力が低いせいで肩身の狭い思いをしている。もう何年も前に当主は交代しているというのに、依然として一族の年寄り連中は父ではなく尊を立てた。
 ――結局、自分は一族の中にあった頃のように周囲から肯定されたいのだろう。
 肯定されることでまだ自分は特別なのだと確認し、安堵したいのだ。

「これが、甘えすぎってことか」

 辰史は重い溜息をき出した。
 しゃくだが、認めざるをえない。丑雄の言うことは正しい。
 畳の上にごろんと仰向けになりながら、かざした手の甲をじっと眺める。頼りない手だ。見た目はもうほとんど大人と変わらないように見えるのに、その手はまだ何も掴んでいなかった。特別でありたいと願いながら、誰の期待にも応えられていない気がした。体とプライドばかりが一人前に育ってゆく。
 時折思い出したようにそんな自覚をしては、腹立たしさともどかしさに胸を掻きむしりたくなるのだ。
 丑雄は言わずもがな、尊の片腕のように働いている。一番上の姉はもう十年近くも前に結婚をして、己の家庭を持っていた。兄も、既に上海という地に渡って自立した生活を送っている。大学を卒業したばかりの二番目の姉でさえ、市子となる為に家を出た。
 何も為していないのは自分だけだ。大した跡継ぎ様だ、と恥じる気持ちもあった。
 ――早く一人前にならなければ。認められなければ。
 プライドの問題だけではなかった。辰史が成長を焦る理由は他にもあった。思い悩んでいる月日の長さで言えば――もしかしたら、自分にとってはそちらの理由の方が重要なのかもしれなかった。
 物憂げな溜息を零しながら、辰史は翳していた腕を目蓋の上に下ろす。
 眸をつむり、訪れた闇にそっと意識を委ねれば思い出されるのは名も知らぬ女の顔だった。幼い頃に、幾度となく夢の中で会った女だ。
 思春期を迎えてからは見ることのなくなったその夢を、脳裏に思い描く。


 深い水底にも似た孤独な暗闇に、溶けることなく浮かび上がる白は女の肌だった。まるで胎児のように膝を抱えてうずくまる、その腕の隙間から覗く瞳は赤い。言い様のない不安を感じさせる、暗い赤だ。潤んだ瞳を縁取る長い睫毛は頬に影を落として、彼女の表情をいっそう陰鬱いんうつなものにしていた。
 彼女は静かに泣いている。はらはらと、涙を零している。
 ――その正面にあるのは、幼い自分の姿だ。
 無力だった頃の辰史はしきりに女を気にしていた。少し離れた場所から「泣かないで」と訴えていた。自分こそ今にも泣きだしそうな顔をして、女の気を惹こうとしている。
 けれど、いくら訴えてみたところで彼女の目に幼い自分の姿が映ることはないのだ。
 しばらくそうしていた辰史は、やがて女にそっと近寄った。膝でり寄り、正面からじっとその顔を覗き込む。小さなてのひらをその頬に伸ばし、無意味であると知りながらも彼女の涙を拭おうとする。案の定、手はするりと彼女の顔をすり抜けた。
 慰めることも叶わない。触れることも叶わない。では、どうすれば良いのだろう?
 途方に暮れながらも、辰史は女をじっと見つめ続ける。一人静かに絶望する彼女の顔は、ひどく美しいように思われた。そうして彼女を眺めるうちに、冷たく引き結ばれた唇に気付いてしまった辰史は、奇妙な感情に捕らわれたのだった。
 自分でも分からない衝動に突き動かされて、辰史は女にそっと顔を近付けた。手がすり抜けてしまったことを思えば、唇が重ならないことは明白だった。しかし、それでも幼い自分は彼女に口付けようとする。悪戯いたずらをする瞬間のように、小さく胸を高鳴らせながら。
 けれど、そのあどけない口付けが許されることはない。
 あとはもう少しだけ彼女に顔を寄せるばかりであった辰史は、唇に触れる寸前で気付いてしまうのだ。背後の壁に張り付いてのどを唸らせている黒い獣に。
 獣は女の足元から伸びている。紛れもなく、彼女の影だった。それは眸にあたる部分を彼女と同じように赤く光らせながら、じっとこちらを睨み付けていた。静かな威嚇いかくに辰史は怯え、後退あとずさる――
 それと同時に、女は初めてその赤い瞳をこちらへ向けた。
 ――手を差し伸べようとしておきながら、獣に怯えて逃げた自分を責めているのか?
 いいや。そうではない。
 彼女の目に責める色はなかった。けれど、そこに辰史が映ることもなかった。獣とは違って、最初から最後まで彼女は辰史に気付いていないのだ。ただ、偶然にしては最悪のタイミングで交わった視線に、辰史はすっかり畏縮いしゅくしてしまった。
 びくりと体を震わせ、慌てて後退る。気付けば最初にいた位置よりもずっと後ろまで下がっていた。背後は壁だ。それ以上逃げることはできなかった。
 ――怖かったのだ。彼女の背後にいる獣が。視線が交錯してしまったことが。
 辰史はごくり、と唾を飲み込んだ。せえの、で顔を背けようと思った。が、瞳を逸らしたのは彼女の方が先だった。初めて見た時と同じように、彼女は膝に顔を埋める。その様子はゆっくりとしぼんでゆく花にも似ていた。
 次第に赤みを失ってゆく瞳は、冷え切ったその心を表していたのかもしれない。最後に残ったのは深く沈んだ鳶色とびいろで、そこにはもう先のような悲しみや絶望すら浮かべられてはいなかった。

(ああ、この人は……)

 辰史の幼い胸に、自己嫌悪が広がる。壁に張り付いた影の口元が、にんまりと笑みの形に歪んだ。それはまるで、こちらが何もできないことを嘲笑っているかのようだった。実際、辰史は自己嫌悪に陥りながらもその場を動くことができなかった。もう一度彼女の傍へ寄り添いたいと思う反面で、体は恐怖に支配され、すっかり自由を失ってしまっていた。
 ――それが、幼い頃に見た夢の全てだ。
 繰り返し、繰り返し、繰り返し。
 同じ場所で同じ女を同じように眺め、同じようにその影に怯え逃げては後悔をする。次こそは、そう思うのにやはり自分は怯えることしかできない。途方もない罪悪感と、ほんの少しの切なさに満ちた夢だった。
 辰史は幼い頃に一度だけ、尊にその話をしたことがある。泣きらした目で悲しみを訴える自分に、祖父は優しく言ったのだ。「それは恐らく先見さきみだろう」と。
 先見。先を見通す力。予知能力の一種だ。その能力は激しい事故の後や感受性の強い幼少期に、一時的なものとして発現することが多い。辰史の場合もそうだったのだろう。

「お前は将来、その人と出会うことになるのかもしれない。今ではなく、いつか。きっと、お前がもう少し大きくなった頃だろう。だから、そんな風に泣かなくても良いんだよ」

 祖父はそうも言ったのだった。



 以来、辰史は祖父にも分からないその〈将来〉が訪れるのを待ちわびている。
 幼い頃、限定的に発現した先見の力はうに消え去ってしまっていた。女の実在を肯定するのは自分の記憶だけだ。歳を重ねるほどに、あれはただの夢だったのではないかという不安が強くなる。
 ――会いたい。
 考えるうちに堪らなくなって、辰史はほうと息を吐き出した。
 ――会わねばならない。
 しかし会うためには、やはり一人前にならなければとも思った。今のままでは、彼女との邂逅かいこうで祖父や丑雄の力を借りる羽目になってしまうかもしれない。それでは夢の中で見た光景と変わらない。自らの力を誇示して、あの獣を従えなければ意味がないのだ。

(大丈夫だ。あれは、ただの夢じゃない)

 急いてしまう気持ちを抑えながら、胸中で繰り返す。
 執着の理由は分からない。しかし、彼女を想うと目の奥がつんと熱くなった。目に見えない何かに圧迫されたように、胸の辺りが苦しくなるのだ。それは不憫ふびんな境遇の女に対する同情や、憐れみといった感情ではない。けれど他人を想うことに不慣れな辰史には、その感情の正体が分からない。だから、恐らくは責任感のようなものなのだろうと思うことにしている。
 ――なぜ、あの時の自分は彼女に恐怖したのか。
 ――どうして、その傍を離れてしまったのか。

(たかが、夢だ。夢の中で怪我をしたところで、現実に何が起こるわけでもなかった。なのに、俺は怖れてしまった。何もできなかった。遠くから「泣かないで」だなんて気の利かない言葉を投げかけることしかできなかった)

 それを、自分は悔いているのだ。己の性格を思うとらしくない気もしたが、他の答えは見つかりそうになかった。幼子が女に口付けようとしていた記憶には、努めて触れないようにしていた。
 女のことを考え続ける辰史の意識は、夢とうつつを往復する。
 胸の底に深く沈んだ記憶が後悔を呼び覚まし、後悔は辰史が築いてきた自信に揺さぶりをかけた。自分はあの頃からどれほど成長しているのだろうか、と自問し――その答えを知る為にも彼女に会わねばならないのだと、思考は振り出しに戻る。

「もしも、あの時……」

 ――影に怯えず、彼女の手を取っていたら。その傍に寄り添っていたら。あの夢の終わりはどうなっていたのだろうか?
 途方に暮れた辰史が、ぼんやりとひとりごちた時である。
 ふと、辺りに甘い花の香りが漂った。
 思考を中断して、辰史は上体を起こした。疾うに読むのをやめていた本がぱさりと胴の上から落ちる。首だけで辺りを見回せば、僅かに開いた格子窓で一羽の黒揚羽くろあげはが羽を休めている。

探女さぐめ――」

 囁くように呼べば黒蝶はふわりと宙を舞い、広敷に舞い降りた。辰史は横目でそれを眺めながら、祖父から教わったじゅを唱える。すると、それは瞬く間に人間の女に姿を変えた。
 探女さぐめ――尊の式神である。
 若かりし日の祖母をモデルにしているらしい。人型の彼女は長い黒髪に理知的な眸をした大和美人で、例えば薙刀なぎなたなどを持たせれば巴御前ともえごぜんを思わせるような――そんな風貌をしている。
 実際の祖母も、伝承に聞く巴御前と同じように美しくも剛胆ごうたんな人だったようである。彼女は先見の力を持つ異能者だった。幼少期の辰史にこの能力が現れたのは、祖母の影響だったのではないかと言われている。
 先見の能力を持つ者は少ない。
 感受性の強い幼少期にその力が現れる者は、異能者の中に一定数存在する。しかし〈未来を覗く〉という、禁忌とも言うべき能力が永続することはまれである。辰史のような場合を含めて、その力は一時的かつ発現条件を限定されていることがほとんどである。神に仕え、神託を受ける巫女がそうだ。
 幼い頃の辰史のように予知夢をみる者、天啓のようにひらめきとして未来のヴィジョンを得る者、力を発現するために水晶や水鏡、炎などといった媒体を必要とする者――と、未来を予見するために踏まねばならない手順は術者によって様々である。
 祖母はそんな先見の力を持つ異能者の中でも、更に特殊だった。
 彼女の目には会話をしている相手の未来が映っていたのだという。あたかも映画の予告編を観ているかのように、他人の人生が視えてしまう。能力に、限定されたところがなかったのである。
 視るための手順というものがなく、また視ないための手段も存在しない。
 辰史はそんな彼女を恐ろしい人だと思わずにはいられない。
 生まれながらに、先を全て見通すことができた祖母。他人の未来さえ、そうも容易たやすく見えてしまうのだ。物心付いて自分の持つ特異な能力に気付いた時には、既に自らの死までが視えていたはずだった。
 ――自分の生を自覚したと同時に、死の瞬間まで知ってしまった。
 普通ならそこで恐怖し、身動きが取れなくなってしまうだろう。その時の祖母は、一体どんな気持ちだったのだろうか。絶望を抱きはしなかったのだろうか?
 大抵の人間は、自分は〈死なない〉と過信しているものだ。不老不死、という意味ではない。
 現代の日本はそこそこに平和だ。いつ殺されるとも分からない戦場でもなければ、その筋の人間でもない限り拳銃などにも縁がない。医療の現場で働いていれば人の死に直面することも多いだろうが、それでも自分が次の日に死ぬかもしれないと考える者は稀だろう。また、そういった自身や周囲の死を連想させる話題は嫌われる傾向にある。
 それはきっと〈その時〉が来るまで、少しでも長く死への恐怖を忘れていたいからなのだろう。
 そんな周囲と違って、常に己や他人の死を意識していなければならなかった祖母は、しかし自らの運命を悲観したりはしなかった。その能力を恨むこともなかった――ようである。実際のところは分からないが、少なくとも周囲にそう思わせることはなかった。

「あれは気の強い女だった。ある日突然、何の前触れもなく私の前に現れ〈私はお前様の運命なのです〉と、そう迫ったのだ。さすがの私も驚いてね。唖然あぜんとしている間に、あれの強引さに流されてしまった。この私が、だ」

 尊は妻のことを相当に愛していたようで、正月など一族が顔をつき合わせて酒を飲むような機会にはよく彼女のことを話した。
 ――似合いの夫婦だっただろう。
 辰史は生前の祖母に会えなかったことが残念でならない。
 目の前の探女さぐめという式神と祖父の口ぶりから、祖母を想像する――成程、完璧な祖父に見劣りすることなく隣に並べる女性が存在したとすれば、尊の語る祖母のような人だろうと思われた。
 祖母は疾うの昔に亡くなっている。孫の誰も祖母と会ったことがない。当然だった。彼女は自分の子を産んですぐに、この世を去ったのである。先見の力を持つ異能者は短命だ。その特異な能力を危険視され、殺される者もいる。視えすぎることに耐えられなくなって自ら命を絶つ者もいる。それが予定された死なのか、それとも定められた運命に抗った末の死であるのかは未来を視る力のない者には分からない。
 異能者と言っても、所詮は人間だ。修行の過程で多少は鍛えられるかもしれないが、その心と体が人間の限界を超えることはない。過ぎたる能力を持つことは、人間としての不幸だった。

「坊、」

 呼ばれて、辰史はハッと我に返った。
 探女さぐめの黒い瞳がこちらをじっと見つめている。感情の一切浮かばぬ式神の目は、辰史の口元に注がれていた。女の艶めかしい唇が僅かに開く。「坊。あの時とは、どの時の話でしょうか?」問われて、辰史はきょとんとした顔で訊き返した。

「あの時?」
「もしも、あの時……」

 探女さぐめの目がすっと細くなる。女の赤い唇から再生された声は、その外見にそぐわぬ少年の声だった。聞き覚えのある声に、辰史はカッと頬を染める。それは誰のものでもない、自分自身の声だった。何の気も無しに呟いた言葉だったが、改めて人の口から聞かされると恥ずかしいものがある。

「何でもない! 少し考え事をしていただけだ。お前の気にするようなことじゃない」

 慌てて否定をすれば、探女さぐめは形の良い眉を僅かに歪ませた。では何を考えていたのか、と思考しているようにも見える。或いは無言のうちに答えを求めていたのかもしれないが、辰史は黙秘を貫いた。
 ――一人での留守番に耐えかねて、記憶の海に逃避していました。

(なんて、言えるか! いくらこいつが式神だからって)

 唇を固く結んで睨みつける。探女さぐめの黒い目も辰史をじっと見つめていた。こちらの真意を探り出そうとする、深淵のような瞳だ。
 こういう時には、式神の生真面目さと融通の利かなさがあだとなる。そんな瞳と睨み合うほどに、彼女の望むような答えを持たない辰史は口を閉ざさなければならなかった。
 仮に、正直なところを話したとして――羞恥心しゅうちしんを持たない彼女が、繊細な男心を理解してくれるとは思えない。

「はあ、それだけですか。しかし坊、私には理解不能です。何故その程度の瑣事さじを隠す必要があったのでしょうか?」

 探女さぐめは何の躊躇いもなく、そんな問いを続けるだろう。
 非人間的な黒い瞳の詰問きつもんに、羞恥心の理由まで説明させられる自分――想像しただけで百回は死んでしまえそうな光景だった。
 十秒、二十秒――
 更に一分、二分、三分――
 拷問のような時間が過ぎる。辰史の額にはじっとりと脂汗がにじんでいた。どうにもならない攻防の先、どちらが勝利を得たとしてもそこに実りはない。酷く無駄な時間だ。そうして十分が過ぎた頃に、探女さぐめもようやく睨み合いの無意味さに気付いたようだった。

「どうやら、坊の個人的な問題のようですね」

 ふう、と溜息を吐く。普段は無機的な式神の顔を彩るのは、微かな憂いだ。

「ああ」

 居心地の悪さを感じながら、辰史はうなずいた。

「それなら、良いのです。坊がまた丑雄さまに何かを仕掛けようとしているのでなければ、こちらにも問題はございません。尊さまに心労をおかけすることのないようお願いします」

 釘を刺す探女さぐめの言葉だった。感情の起伏が乏しい瞳には非難の色がある。

「は? 何で丑雄が――」

 式神の口から出たのは思いもよらない従兄の名だった。

「おい、俺が丑雄に仕掛けるって何だ」
「坊はすぐ丑雄さまに噛み付かれますので」
「違う! あいつが俺に突っかかってくるんだ」
「……そういうことにしておきましょう」

 含みのある間をおいて、探女さぐめは頷いた。ついでに肩まですくめてみせる。術者の腕が良いからか、その仕草は妙に人間的だった。
 ――何で丑雄が〈さま〉付けで、俺が〈坊〉なんだ。
 馬鹿にされているような腹立たしさを覚えながらも、反射的に出かけた問いを飲み込む。


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