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6巻
6-1
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地獄の沙汰も金次第――
業を背負う覚悟と金があるのなら――
その恨み、蛟堂に預けてみませんか?
悪いようには致しません。
「一週間以内に、 」
――必ずや片を付けてみせましょう。
蛟堂店主 三輪辰史
第一話 罪人は誰か
虫の音すら聞こえない、静かな夜だった。
蛟堂、中の間――岡山太郎は夕方に取り込んだ洗濯物を畳みながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。画面の向こう側では紺色の背広に身を包んだアナウンサーと思しき男が神妙な顔で原稿を読み上げている。二人がいつも見る通りの、何の変哲もない夜のニュースだ。いつもと違うことがあるとすれば、画面の向こうで喋っているアナウンサー、彼独特の機械音声にも似た声が聞こえてこないことだった。
――何故か?
理由は至極簡単だ。画面の向こう側に問題があるわけでも、テレビに欠陥があるわけでもない。画面の右端には明るい緑色の文字でミュートと表示されており――つまり、消音に設定されているからだった。
太郎が浅く溜息を吐きながらちら、と視線を向ける。卓袱台を挟んだ向かいで、先ほどから携帯を片手に質問と相槌を繰り返しているのが三輪辰史――蛟堂の十二代目店主であった。
かつて、異能者たちは歴史の表舞台においてもその活躍を見せていた。今では科学的に説明できる現象の多くが、人々に理解されていなかった時代の話である。近代化に伴い科学分野が発達するにつれて、仕組みの説明或いは証明の難しい力は非現実的な妄想・胡散臭いまやかしとして一般社会から遠ざけられるようになったのだった。
三輪家とは、こうして歴史の闇に追いやられた異能者一族の一つである。
長く無名だったとはいえ、その起こりは平安時代にまで遡るとのことだった。系図や家伝書を紐解けば先祖は安倍晴明に師事したと――そう記されている。尤も注釈の書かれた年号を見る限り、記述は虚構である可能性の方が高いのだが。
現在の三輪家で陰陽師を名乗るのは、当主の三輪三郎のみである。
そんな三郎は婿養子、つまりは外部から来た人間だった。三郎の子供たちのうち、長女初子は異能者ではなかったし、長男秋寅は調薬士、次女卯月は市子をしている。末子の辰史だけが陰陽道にも明るいが、彼は他の異能者たちがその一生をかけて極めようとする分野のどれにおいても一定水準以上の能力を誇っている。
――現在の地位を固める為に、見境無く他の異能者との婚姻を繰り返した為なのだろう。
他の――例えば狐憑きの一族として知られる高天家などに比べると、三輪家の人間が持つ能力はあまりに不統一である。
「だからこそ、箔を付ける必要があったのさ」
辰史は以前、甥に皮肉っぽく語ったものだった。
無名であるがゆえに淘汰されずに生き残ってきた一族。そんな三輪家の祖先は江戸の中頃に蛟堂を開いた。薬屋の看板を掲げるその裏で報復屋を営もうと思いついたのは、当時義賊による偽善的な活動が流行っていた為なのだろう。しかし、長く続いた徳川の世が終焉を迎え新たな時代となった時、かつて活躍していた義賊の姿はすっかり消えてしまった。
攘夷、倒幕、そして明治維新と文明開化――江戸中期のような停滞期ならともかく、激動の時代に義賊は不要である。民衆の期待は旧きを倒す新しい者にのみ注がれて、英雄を気取った犯罪者たちの存在など一瞬のうちに忘れ去られてしまうものなのだ。必要とされなくなった存在が淘汰されてゆくのは世の定めである。
蛟堂もその例に漏れない。混乱の世で見られたのは弱者対強者の図ではなかった。
旧幕府軍と新政府軍。力対力。
片や朽ちかけていたとはいえ、強大な二つの力がぶつかり合い、政権を求めて争った時代だ。そこには両者の食い合いの末に生じた怨恨が溢れるばかりで、報復屋の出る幕などなかった。揺れ動く時代に不安を抱きながら、ひそりと静まる市井とともに蛟堂は一時裏の活動を停止する。
そうして後に新政府が勝利を収め、社会から旧時代の身分制度が失われた時――
当時の蛟堂店主は報復屋稼業の再開にあたり、その活動を大胆にも商業ルートへ転換させた。この人物というのが、また独特な価値観と野心を持った男だったのだ。
曰く――「弱い者が無条件に守られるべきであるという考えを、私は好まない。どちらも等しく自分とは無関係であるという点において、報復を願う者と報復を受ける者の命は平等である。一方にとって悪であるという、ただそれだけの理由でもう一方を害するのは義侠心の表れというより密かな選民意識によるものだろう。確かに、異能者である我々は凡人に比するべくもない力を持っている。三輪の先祖が悪を成敗しようなどという大逸れた考えに至ったのは、密かな自負心の表れに違いない」――と。
だから報酬と引き換えに提供するサービスとして、報復を扱う。
唐突な方針の転換は一族の間に物議を醸した。当然である。彼――三輪忍人の考えは、彼自身が異能者であることを考えれば謙虚だと評価することもできるだろう。尤も、報復屋を廃業するというのではなく商売として成り立たせてしまおうと言うのだから、決して良識的な話ではなかった。
「初代の意向に反する」
そう異論を唱えた者も少なくはない。
しかし、当主権限を最大限に利用して報復屋の商業化を推し進めた忍人は、更に皆が驚くことをやってのけた。それが、当時一般的でなかった他一族の異能者との婚姻である。
かつて異能者は己の一族に他の異能者の血が混じるのを好まない傾向にあった。純血至上主義、というわけではないが同族間での婚姻の方が、都合が良かったのである。やはり高天一族を例に出すことになるが――例えば狐憑き一族の男と霊媒体質の女が婚姻を結んだ場合に女が狐憑きの子を産む可能性は、男が同じ一族の女と婚姻した場合に比べて減少する。
より特異な力を――というより、いかに効率的に己らの技を伝えてゆくかが重視されていたのだ。
対して、忍人は純粋に力を求めた。
元より三輪一族には伝えるべき特別な技などない。陰陽師、山伏、巫女、市子、薬師に星詠み等々――何代かに一人はそこそこ優秀な人間が生まれるが、大抵の者が同業者からすれば三流と鼻先であしらわれる程度の才能しか持っていなかった。三輪一族は力を持たぬがゆえに、無名であったがゆえに、この時代まで生き残ってきたのである。
――そんな一族の純血に、どれほどの価値があろうか。
血に縛られた過去を捨て、一族の未来に投資する。才能を富で買い、自らの一族に組み込む。どんな才能でも良い。少しでも強い力を持った子が生まれれば、その子供が未来の担い手となる。自分が無名な一族の将来を憂えたように、必ず――名を成そうと志を継いでくれる。何故なら、力ある人間は更に上を目指そうとするからだ。
古い慣習をひたすらに守り続ける他の名高き一族も、近い将来には三輪の名を笑えなくなることだろう。
幕末と明治――激動の時を生きた忍人は、新たな時代の到来を一族の転換期と捉えたのかもしれない。こうして現在の一族に繋がる基盤を整えた後に、忍人は没した。
血統よりも能力を重視した彼の息子は確かに有能な異能者で、父親の遺志を継ぎ生涯をかけて一族の更なる飛躍に努めた。その頃には商売としての報復稼業も軌道に乗り、三輪一族は非日常に属する社会において、ようやく名声を手にしたのだった。
富と力、そして名声を得た三輪一族がその後急成長を遂げたのは言うまでもない。
言うなれば成り上がりの一族である。だから〈箔を付けよう〉というのだ。
少し話が逸れたが――
辰史はそんな一族の中でも天才と謳われる異能者である。
幼い頃からその才能を評価されてきたせいか、性格には少々問題があると言われるものの力を頼ってくる者は多い。
辰史は物言いたげに見つめる太郎の視線を無視して、その奥へ眸を向けた。黒曜の瞳をすっと細める。それに気付いた太郎が視線を追うように、再びテレビへ視線を戻した。
報道番組が続いている。
やはり、画面のアナウンサーは口をぱくぱくと開閉させるだけだ。唇の動きからその内容まで読み取るのは、辰史でも不可能である。
「音量、少し上げましょうか?」
気遣いのできる甥が、小声で問いながらリモコンに手を伸ばした――が、辰史は片手でそれを制した。「ちょっと待て」とでも言うように、前へ突き出した手の形を変える。
宝石店に強盗。指輪など数十点盗まれる――
人差し指で示した先には、そんな字幕が流れている。
数日前に、都内の宝石店に強盗グループが押し入ったと報道されていた。目の前で流れているニュースは、その続報だった。
「叔父さん、電話中にいいんですか? 依頼なんでしょう? 相手に失礼ですよ」
リモコンから手を引いた太郎が小声で注意してくるが、辰史は構わずにテレビの字幕を凝視し続ける。
実をいえば、電話と報道は無関係ではないのだ。
ニュースが次へ移ったとき、辰史はようやく口を開いた。太郎に、ではない。電話の相手に、である。
「まあ、そちらの事情は大体分かりました。ですが、本当にウチに頼って良いんですね?」
水を浴びせてやるように問えば、先まで熱っぽく語っていた相手は僅かにたじろいだようだった。だが、それで良いのだ。決断は冷静でなければならない。情熱のままに決断をして、後悔しても遅いのだ。尤も、そう念を押してみたところで翻した依頼者は今まで数えるほどもいなかったのだが。
案の定、今回の相手も程なく「お願いします」と頷いた。無言で返事を待っていた辰史は、僅かに唇を歪ませ――開く。
「それでは朗報をお待ち下さい。一週間以内に、必ずや片を付けてみせましょう」
黒曜の瞳を挑発的に光らせて自信たっぷりに答えると、辰史は通話の切れた携帯を畳の上へ放った。胡座をかいていた足を組み替え、うんと一つ伸びをする。
卓袱台の上には茶封筒が一枚。丁寧に封の破られたそれからは、便箋の束が覗いていた。そのうちの一枚が既に開かれているのは、そこに相手の連絡先が書かれていたためだ。即ちその送り主は、先の電話の相手だった。
右手が煙草を求めて、無意識に胸ポケットを探る。一本取り出し咥えたところで、
「洗濯物に臭いが移るのでやめてください」
甥がぴしゃりとそう言った。
「わかってるっつうの」
辰史は苦い顔で、真新しい煙草を灰皿へと放る。
すぐに煙草へ手が伸びてしまうのは、それがもう長年の習慣となってしまっているからだった。甥はすぐに苦い顔をするが、最近では本数を減らす努力もしているのだ。その証拠に、美しい紅色と白、幾重もの層からなる灰皿の上には同じように長いまま押しつけられた煙草が積まれている。
辰史は、灰皿から視線を外すように封筒から手紙を取り出した。
向かいから太郎の溜息が聞こえる。続いて、テレビの音量が上がる音。速報でも入ったのだろうか。ニュースでは再び、先の宝石店強盗に関する話題が取り上げられていた。
「最近、多いな」
視線を手紙へ向けたまま、辰史はぽつりと呟いた。太郎が相槌を打つ。
「強盗ですか? そうですね。今月で四件目――だったと思います」
「それも、全部都内で起きた犯行だ」
「はい。だから同一犯なんじゃないかって話らしいですけど……」
だからどうだと言うのだ。
言外にそんな疑問を含んだ甥の声に、辰史は苦笑する。持って回った言い方をしてしまうのも、辰史の悪癖の一つだった。人からは悪趣味と指摘されるが、別に趣味ではないし他意があるわけでもない。
軽く睨んでくる太郎に肩をすくめて、辰史は手紙を摘み上げた。
「それなら、連続強盗は今回の宝石店が最後になるな」
「えっ?」
にんまりと微笑んでやれば、太郎はぎょっとしたように訊き返した。そんな甥の反応に気を良くしながら、手紙を束ねて立ち上がる。
自室に戻ると、辰史は文机の前に腰を下ろした。
手紙に記された報復相手の名は矢代克海。彼はとある窃盗グループでリーダーをしていたとの話である。そう、先ほどもニュースで流れていた宝石店強盗。太郎も言っていた通り、先月の初め頃から数えて四件目に当たるその事件は全て同一グループによる犯行だった。
同一犯。
ニュースではまだ仮定の段階である。犯人も特定されていない。しかし、辰史には断定できるのだ。当の本人――窃盗グループの連中から事実を聞いているのである。
依頼者は九人の男たちだった。
(奴らの話を鵜呑みにしていいのなら、な)
辰史は胸中でそう付け加えながら、手にしていた手紙の束から一枚を抜き出した。シンプルな白の便箋に、ボールペンで歪な文字が並べられている。そこに書かれている内容は、先ほどの電話で確認した話と大体のところ一致していた。
依頼者たちは、矢代と同じ窃盗グループに所属していたらしい。
矢代はニュースにもなっていた宝石店強盗の後、盗んだ宝石を抱えて今は一人逃亡中との話だった。ここ二ヶ月にあった四件の窃盗も、まだ明るみには出ていない複数の犯罪も、計画を立てたのは主にリーダーであった彼なのだという。
「最初はゲーム感覚だったんだ。あんたにこんなことを言っても仕方がないが、俺たちは事件を起こしたことを後悔している。ニュースでも連日騒がれて、逃げ切れるとは思っていない。だから、自首したいと思っていた。矢代の奴にもそう言った。だが、あいつは宝石を持って一人で逃げちまった」
では、その裏切りに対する復讐なのかと問えば、男は少し迷った末に「いいや」と答えたのだった。辰史は手紙を読み返しながら、頭の中で男の話を反芻する。
「矢代は頭の良い男だ。自分勝手なところもある。だから、俺たちが自首しても警察に捕まらないかもしれない。仮に捕まったとしても、懲役刑で改心するような男じゃない。そんなあいつに引導を渡してやるのが、一緒に罪を犯してきた俺たちにできる唯一のことだと思うんだ。あんたが矢代に報復してくれて、奴から宝石を取り戻してくれたら、俺たちはそれを受け取ってすぐにでも警察へ行く。嘘じゃない」
何とも勝手な言い分である。
犯罪者が自らの意思で警察に自首し、罪を償いたいと言っている。それを頭から信用してやるほど辰史はお人好しではなかった。彼らは自らの罪を明かしたが、真実を告げることが誠実さの証明になるとは限らない。一方で、嘘だと決めつけてしまうような証拠もない。
疑うにしても信用するにしても、決め手に欠ける。今の時点では判断ができないのだ。
――さて、どうしたものか。
辰史は顎に手を当て、考える素振りをした。
ひとまず、依頼は受けている。依頼者たちが〈責任感〉などという大層な理由から依頼をしてきたようには思えないが、矢代と接触をすれば彼らの本音も見えてくるだろう。
「今の段階じゃァ、断る理由もないからな」
一人呟きながら、文机の上にある本を開く。蔵から出してきたばかりのせいか、少しだけ埃っぽい。色褪せた茶色の表紙には――世界教訓集――と堅苦しいタイトルが刻字されている。文字通り、娯楽からは程遠い戒めの物語ばかりが収められた本である。
辰史は慣れた手でページをめくり、目当ての話を探した。収録されている話は多いが、その本に宿る思念は一つだけだった。
「おっと、これだ」
探していたタイトルを見つけ、手を止める。
――『罪人は誰か』
ページの頭には本文より僅かに大きな字で、そう記されていた。
「やはり、これが妥当だろうな」
辰史は内容を目で追いながら頷く。頷きながらも僅かに渋い顔をしたのは、かつて祖父がこの本を使った時のことを思い出したからだった。
十年ほど前の話だ。
従兄と仲違いをしたその辺りの記憶には、苦いものが多い。
「罪人は誰か、か」
その問いは誰に向けられたものなのか。
感慨を込めて呟きながら、軽く眸を閉じる。目蓋の裏には今より十も若い自分がいた。思春期にある、苛立ちと不安に彩られた顔で天井をぼんやりと見上げている。祖父や従兄、そしてもう一つ――その頃はまだ空想に思い描くばかりであった彼女のことを考えているのだろう。意識しなくても思い出せてしまうそれは、忘れてしまいたい過去だった。
未熟で、理想がちで、少しだけ小賢しい。それが自分だったのだ。
***
辰史はその日、一人で店番をしていた。
従兄の丑雄と祖父である尊は二人してどこかへ出かけてしまった。恐らくは、報復屋の仕事に関わる用事なのだろうと思う。時折、尊はそうやって丑雄だけを連れてゆくことがある。それが、辰史には不満だった。
確かに報復屋の仕事は特殊である。
仕事で関わる人間は、依頼者や報復相手を含めて一癖も二癖もありそうな人間が多い。まだ子供だと侮られる自分よりは、丑雄を連れていた方がはったりも効くのだろう。堅苦しい喋り方に、面白いことなど何もないというような厳めしい顔付き。人はそんな丑雄を見て「これは頼りになりそうだ」と納得する。余程親しくない限り――特に仕事においては、見た目で判断されてしまうのは仕方のないことなのだ。
どんなに非凡な能力を持っていても、それを一般に披露することは許されない。いくら胸を張ってみても、知らない人間からすれば辰史はただの高校生だった。
そんなジレンマを丑雄に零せば、あの気の利かない従兄は当然だという顔をした。元より、丑雄は未成年の辰史が蛟堂の仕事に関わることを快く思っていない。
「そういうところも含めて、お前は子供だからな。俺には、尊翁がお前を連れていくと言う時の方が異常に思える。俺でさえ、尊翁を手伝い始めたのは二十歳を過ぎてからだったんだぞ。お前は少し甘やかされすぎだ。大人にも、甘えすぎだ。自覚しろ」
丑雄の言葉を思い出して、顔を顰める。あの従兄に何かを期待していたわけではなかったが、それにしても〈大人〉ならもう少し言い方を考えて欲しいものである。
(デリカシーのない奴め)
辰史は口の中で毒づいた。
(大人扱いをしろと言っているわけじゃない。ただ、認められたいだけだ)
――仕方のないことだ。年齢だけは、どうにもならないものだから。
せめて従兄が代わりにそう言ってくれたら、自分は満足したのかもしれなかった。
業を背負う覚悟と金があるのなら――
その恨み、蛟堂に預けてみませんか?
悪いようには致しません。
「一週間以内に、 」
――必ずや片を付けてみせましょう。
蛟堂店主 三輪辰史
第一話 罪人は誰か
虫の音すら聞こえない、静かな夜だった。
蛟堂、中の間――岡山太郎は夕方に取り込んだ洗濯物を畳みながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。画面の向こう側では紺色の背広に身を包んだアナウンサーと思しき男が神妙な顔で原稿を読み上げている。二人がいつも見る通りの、何の変哲もない夜のニュースだ。いつもと違うことがあるとすれば、画面の向こうで喋っているアナウンサー、彼独特の機械音声にも似た声が聞こえてこないことだった。
――何故か?
理由は至極簡単だ。画面の向こう側に問題があるわけでも、テレビに欠陥があるわけでもない。画面の右端には明るい緑色の文字でミュートと表示されており――つまり、消音に設定されているからだった。
太郎が浅く溜息を吐きながらちら、と視線を向ける。卓袱台を挟んだ向かいで、先ほどから携帯を片手に質問と相槌を繰り返しているのが三輪辰史――蛟堂の十二代目店主であった。
かつて、異能者たちは歴史の表舞台においてもその活躍を見せていた。今では科学的に説明できる現象の多くが、人々に理解されていなかった時代の話である。近代化に伴い科学分野が発達するにつれて、仕組みの説明或いは証明の難しい力は非現実的な妄想・胡散臭いまやかしとして一般社会から遠ざけられるようになったのだった。
三輪家とは、こうして歴史の闇に追いやられた異能者一族の一つである。
長く無名だったとはいえ、その起こりは平安時代にまで遡るとのことだった。系図や家伝書を紐解けば先祖は安倍晴明に師事したと――そう記されている。尤も注釈の書かれた年号を見る限り、記述は虚構である可能性の方が高いのだが。
現在の三輪家で陰陽師を名乗るのは、当主の三輪三郎のみである。
そんな三郎は婿養子、つまりは外部から来た人間だった。三郎の子供たちのうち、長女初子は異能者ではなかったし、長男秋寅は調薬士、次女卯月は市子をしている。末子の辰史だけが陰陽道にも明るいが、彼は他の異能者たちがその一生をかけて極めようとする分野のどれにおいても一定水準以上の能力を誇っている。
――現在の地位を固める為に、見境無く他の異能者との婚姻を繰り返した為なのだろう。
他の――例えば狐憑きの一族として知られる高天家などに比べると、三輪家の人間が持つ能力はあまりに不統一である。
「だからこそ、箔を付ける必要があったのさ」
辰史は以前、甥に皮肉っぽく語ったものだった。
無名であるがゆえに淘汰されずに生き残ってきた一族。そんな三輪家の祖先は江戸の中頃に蛟堂を開いた。薬屋の看板を掲げるその裏で報復屋を営もうと思いついたのは、当時義賊による偽善的な活動が流行っていた為なのだろう。しかし、長く続いた徳川の世が終焉を迎え新たな時代となった時、かつて活躍していた義賊の姿はすっかり消えてしまった。
攘夷、倒幕、そして明治維新と文明開化――江戸中期のような停滞期ならともかく、激動の時代に義賊は不要である。民衆の期待は旧きを倒す新しい者にのみ注がれて、英雄を気取った犯罪者たちの存在など一瞬のうちに忘れ去られてしまうものなのだ。必要とされなくなった存在が淘汰されてゆくのは世の定めである。
蛟堂もその例に漏れない。混乱の世で見られたのは弱者対強者の図ではなかった。
旧幕府軍と新政府軍。力対力。
片や朽ちかけていたとはいえ、強大な二つの力がぶつかり合い、政権を求めて争った時代だ。そこには両者の食い合いの末に生じた怨恨が溢れるばかりで、報復屋の出る幕などなかった。揺れ動く時代に不安を抱きながら、ひそりと静まる市井とともに蛟堂は一時裏の活動を停止する。
そうして後に新政府が勝利を収め、社会から旧時代の身分制度が失われた時――
当時の蛟堂店主は報復屋稼業の再開にあたり、その活動を大胆にも商業ルートへ転換させた。この人物というのが、また独特な価値観と野心を持った男だったのだ。
曰く――「弱い者が無条件に守られるべきであるという考えを、私は好まない。どちらも等しく自分とは無関係であるという点において、報復を願う者と報復を受ける者の命は平等である。一方にとって悪であるという、ただそれだけの理由でもう一方を害するのは義侠心の表れというより密かな選民意識によるものだろう。確かに、異能者である我々は凡人に比するべくもない力を持っている。三輪の先祖が悪を成敗しようなどという大逸れた考えに至ったのは、密かな自負心の表れに違いない」――と。
だから報酬と引き換えに提供するサービスとして、報復を扱う。
唐突な方針の転換は一族の間に物議を醸した。当然である。彼――三輪忍人の考えは、彼自身が異能者であることを考えれば謙虚だと評価することもできるだろう。尤も、報復屋を廃業するというのではなく商売として成り立たせてしまおうと言うのだから、決して良識的な話ではなかった。
「初代の意向に反する」
そう異論を唱えた者も少なくはない。
しかし、当主権限を最大限に利用して報復屋の商業化を推し進めた忍人は、更に皆が驚くことをやってのけた。それが、当時一般的でなかった他一族の異能者との婚姻である。
かつて異能者は己の一族に他の異能者の血が混じるのを好まない傾向にあった。純血至上主義、というわけではないが同族間での婚姻の方が、都合が良かったのである。やはり高天一族を例に出すことになるが――例えば狐憑き一族の男と霊媒体質の女が婚姻を結んだ場合に女が狐憑きの子を産む可能性は、男が同じ一族の女と婚姻した場合に比べて減少する。
より特異な力を――というより、いかに効率的に己らの技を伝えてゆくかが重視されていたのだ。
対して、忍人は純粋に力を求めた。
元より三輪一族には伝えるべき特別な技などない。陰陽師、山伏、巫女、市子、薬師に星詠み等々――何代かに一人はそこそこ優秀な人間が生まれるが、大抵の者が同業者からすれば三流と鼻先であしらわれる程度の才能しか持っていなかった。三輪一族は力を持たぬがゆえに、無名であったがゆえに、この時代まで生き残ってきたのである。
――そんな一族の純血に、どれほどの価値があろうか。
血に縛られた過去を捨て、一族の未来に投資する。才能を富で買い、自らの一族に組み込む。どんな才能でも良い。少しでも強い力を持った子が生まれれば、その子供が未来の担い手となる。自分が無名な一族の将来を憂えたように、必ず――名を成そうと志を継いでくれる。何故なら、力ある人間は更に上を目指そうとするからだ。
古い慣習をひたすらに守り続ける他の名高き一族も、近い将来には三輪の名を笑えなくなることだろう。
幕末と明治――激動の時を生きた忍人は、新たな時代の到来を一族の転換期と捉えたのかもしれない。こうして現在の一族に繋がる基盤を整えた後に、忍人は没した。
血統よりも能力を重視した彼の息子は確かに有能な異能者で、父親の遺志を継ぎ生涯をかけて一族の更なる飛躍に努めた。その頃には商売としての報復稼業も軌道に乗り、三輪一族は非日常に属する社会において、ようやく名声を手にしたのだった。
富と力、そして名声を得た三輪一族がその後急成長を遂げたのは言うまでもない。
言うなれば成り上がりの一族である。だから〈箔を付けよう〉というのだ。
少し話が逸れたが――
辰史はそんな一族の中でも天才と謳われる異能者である。
幼い頃からその才能を評価されてきたせいか、性格には少々問題があると言われるものの力を頼ってくる者は多い。
辰史は物言いたげに見つめる太郎の視線を無視して、その奥へ眸を向けた。黒曜の瞳をすっと細める。それに気付いた太郎が視線を追うように、再びテレビへ視線を戻した。
報道番組が続いている。
やはり、画面のアナウンサーは口をぱくぱくと開閉させるだけだ。唇の動きからその内容まで読み取るのは、辰史でも不可能である。
「音量、少し上げましょうか?」
気遣いのできる甥が、小声で問いながらリモコンに手を伸ばした――が、辰史は片手でそれを制した。「ちょっと待て」とでも言うように、前へ突き出した手の形を変える。
宝石店に強盗。指輪など数十点盗まれる――
人差し指で示した先には、そんな字幕が流れている。
数日前に、都内の宝石店に強盗グループが押し入ったと報道されていた。目の前で流れているニュースは、その続報だった。
「叔父さん、電話中にいいんですか? 依頼なんでしょう? 相手に失礼ですよ」
リモコンから手を引いた太郎が小声で注意してくるが、辰史は構わずにテレビの字幕を凝視し続ける。
実をいえば、電話と報道は無関係ではないのだ。
ニュースが次へ移ったとき、辰史はようやく口を開いた。太郎に、ではない。電話の相手に、である。
「まあ、そちらの事情は大体分かりました。ですが、本当にウチに頼って良いんですね?」
水を浴びせてやるように問えば、先まで熱っぽく語っていた相手は僅かにたじろいだようだった。だが、それで良いのだ。決断は冷静でなければならない。情熱のままに決断をして、後悔しても遅いのだ。尤も、そう念を押してみたところで翻した依頼者は今まで数えるほどもいなかったのだが。
案の定、今回の相手も程なく「お願いします」と頷いた。無言で返事を待っていた辰史は、僅かに唇を歪ませ――開く。
「それでは朗報をお待ち下さい。一週間以内に、必ずや片を付けてみせましょう」
黒曜の瞳を挑発的に光らせて自信たっぷりに答えると、辰史は通話の切れた携帯を畳の上へ放った。胡座をかいていた足を組み替え、うんと一つ伸びをする。
卓袱台の上には茶封筒が一枚。丁寧に封の破られたそれからは、便箋の束が覗いていた。そのうちの一枚が既に開かれているのは、そこに相手の連絡先が書かれていたためだ。即ちその送り主は、先の電話の相手だった。
右手が煙草を求めて、無意識に胸ポケットを探る。一本取り出し咥えたところで、
「洗濯物に臭いが移るのでやめてください」
甥がぴしゃりとそう言った。
「わかってるっつうの」
辰史は苦い顔で、真新しい煙草を灰皿へと放る。
すぐに煙草へ手が伸びてしまうのは、それがもう長年の習慣となってしまっているからだった。甥はすぐに苦い顔をするが、最近では本数を減らす努力もしているのだ。その証拠に、美しい紅色と白、幾重もの層からなる灰皿の上には同じように長いまま押しつけられた煙草が積まれている。
辰史は、灰皿から視線を外すように封筒から手紙を取り出した。
向かいから太郎の溜息が聞こえる。続いて、テレビの音量が上がる音。速報でも入ったのだろうか。ニュースでは再び、先の宝石店強盗に関する話題が取り上げられていた。
「最近、多いな」
視線を手紙へ向けたまま、辰史はぽつりと呟いた。太郎が相槌を打つ。
「強盗ですか? そうですね。今月で四件目――だったと思います」
「それも、全部都内で起きた犯行だ」
「はい。だから同一犯なんじゃないかって話らしいですけど……」
だからどうだと言うのだ。
言外にそんな疑問を含んだ甥の声に、辰史は苦笑する。持って回った言い方をしてしまうのも、辰史の悪癖の一つだった。人からは悪趣味と指摘されるが、別に趣味ではないし他意があるわけでもない。
軽く睨んでくる太郎に肩をすくめて、辰史は手紙を摘み上げた。
「それなら、連続強盗は今回の宝石店が最後になるな」
「えっ?」
にんまりと微笑んでやれば、太郎はぎょっとしたように訊き返した。そんな甥の反応に気を良くしながら、手紙を束ねて立ち上がる。
自室に戻ると、辰史は文机の前に腰を下ろした。
手紙に記された報復相手の名は矢代克海。彼はとある窃盗グループでリーダーをしていたとの話である。そう、先ほどもニュースで流れていた宝石店強盗。太郎も言っていた通り、先月の初め頃から数えて四件目に当たるその事件は全て同一グループによる犯行だった。
同一犯。
ニュースではまだ仮定の段階である。犯人も特定されていない。しかし、辰史には断定できるのだ。当の本人――窃盗グループの連中から事実を聞いているのである。
依頼者は九人の男たちだった。
(奴らの話を鵜呑みにしていいのなら、な)
辰史は胸中でそう付け加えながら、手にしていた手紙の束から一枚を抜き出した。シンプルな白の便箋に、ボールペンで歪な文字が並べられている。そこに書かれている内容は、先ほどの電話で確認した話と大体のところ一致していた。
依頼者たちは、矢代と同じ窃盗グループに所属していたらしい。
矢代はニュースにもなっていた宝石店強盗の後、盗んだ宝石を抱えて今は一人逃亡中との話だった。ここ二ヶ月にあった四件の窃盗も、まだ明るみには出ていない複数の犯罪も、計画を立てたのは主にリーダーであった彼なのだという。
「最初はゲーム感覚だったんだ。あんたにこんなことを言っても仕方がないが、俺たちは事件を起こしたことを後悔している。ニュースでも連日騒がれて、逃げ切れるとは思っていない。だから、自首したいと思っていた。矢代の奴にもそう言った。だが、あいつは宝石を持って一人で逃げちまった」
では、その裏切りに対する復讐なのかと問えば、男は少し迷った末に「いいや」と答えたのだった。辰史は手紙を読み返しながら、頭の中で男の話を反芻する。
「矢代は頭の良い男だ。自分勝手なところもある。だから、俺たちが自首しても警察に捕まらないかもしれない。仮に捕まったとしても、懲役刑で改心するような男じゃない。そんなあいつに引導を渡してやるのが、一緒に罪を犯してきた俺たちにできる唯一のことだと思うんだ。あんたが矢代に報復してくれて、奴から宝石を取り戻してくれたら、俺たちはそれを受け取ってすぐにでも警察へ行く。嘘じゃない」
何とも勝手な言い分である。
犯罪者が自らの意思で警察に自首し、罪を償いたいと言っている。それを頭から信用してやるほど辰史はお人好しではなかった。彼らは自らの罪を明かしたが、真実を告げることが誠実さの証明になるとは限らない。一方で、嘘だと決めつけてしまうような証拠もない。
疑うにしても信用するにしても、決め手に欠ける。今の時点では判断ができないのだ。
――さて、どうしたものか。
辰史は顎に手を当て、考える素振りをした。
ひとまず、依頼は受けている。依頼者たちが〈責任感〉などという大層な理由から依頼をしてきたようには思えないが、矢代と接触をすれば彼らの本音も見えてくるだろう。
「今の段階じゃァ、断る理由もないからな」
一人呟きながら、文机の上にある本を開く。蔵から出してきたばかりのせいか、少しだけ埃っぽい。色褪せた茶色の表紙には――世界教訓集――と堅苦しいタイトルが刻字されている。文字通り、娯楽からは程遠い戒めの物語ばかりが収められた本である。
辰史は慣れた手でページをめくり、目当ての話を探した。収録されている話は多いが、その本に宿る思念は一つだけだった。
「おっと、これだ」
探していたタイトルを見つけ、手を止める。
――『罪人は誰か』
ページの頭には本文より僅かに大きな字で、そう記されていた。
「やはり、これが妥当だろうな」
辰史は内容を目で追いながら頷く。頷きながらも僅かに渋い顔をしたのは、かつて祖父がこの本を使った時のことを思い出したからだった。
十年ほど前の話だ。
従兄と仲違いをしたその辺りの記憶には、苦いものが多い。
「罪人は誰か、か」
その問いは誰に向けられたものなのか。
感慨を込めて呟きながら、軽く眸を閉じる。目蓋の裏には今より十も若い自分がいた。思春期にある、苛立ちと不安に彩られた顔で天井をぼんやりと見上げている。祖父や従兄、そしてもう一つ――その頃はまだ空想に思い描くばかりであった彼女のことを考えているのだろう。意識しなくても思い出せてしまうそれは、忘れてしまいたい過去だった。
未熟で、理想がちで、少しだけ小賢しい。それが自分だったのだ。
***
辰史はその日、一人で店番をしていた。
従兄の丑雄と祖父である尊は二人してどこかへ出かけてしまった。恐らくは、報復屋の仕事に関わる用事なのだろうと思う。時折、尊はそうやって丑雄だけを連れてゆくことがある。それが、辰史には不満だった。
確かに報復屋の仕事は特殊である。
仕事で関わる人間は、依頼者や報復相手を含めて一癖も二癖もありそうな人間が多い。まだ子供だと侮られる自分よりは、丑雄を連れていた方がはったりも効くのだろう。堅苦しい喋り方に、面白いことなど何もないというような厳めしい顔付き。人はそんな丑雄を見て「これは頼りになりそうだ」と納得する。余程親しくない限り――特に仕事においては、見た目で判断されてしまうのは仕方のないことなのだ。
どんなに非凡な能力を持っていても、それを一般に披露することは許されない。いくら胸を張ってみても、知らない人間からすれば辰史はただの高校生だった。
そんなジレンマを丑雄に零せば、あの気の利かない従兄は当然だという顔をした。元より、丑雄は未成年の辰史が蛟堂の仕事に関わることを快く思っていない。
「そういうところも含めて、お前は子供だからな。俺には、尊翁がお前を連れていくと言う時の方が異常に思える。俺でさえ、尊翁を手伝い始めたのは二十歳を過ぎてからだったんだぞ。お前は少し甘やかされすぎだ。大人にも、甘えすぎだ。自覚しろ」
丑雄の言葉を思い出して、顔を顰める。あの従兄に何かを期待していたわけではなかったが、それにしても〈大人〉ならもう少し言い方を考えて欲しいものである。
(デリカシーのない奴め)
辰史は口の中で毒づいた。
(大人扱いをしろと言っているわけじゃない。ただ、認められたいだけだ)
――仕方のないことだ。年齢だけは、どうにもならないものだから。
せめて従兄が代わりにそう言ってくれたら、自分は満足したのかもしれなかった。
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