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5巻
5-3
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辺りは紺碧の闇に包まれている。厳冬の夜だ。
あたたかな春の陽射しは一体どこへいってしまったのか?
太陽の代わりに外を照らすのは、寒々とした月明かりであった。
――嗅覚が、古い時代の匂いを捉えた。
先までそこに座っていたはずの少年と祖母の姿はない。代わりに、目の前には年老いた母を看取る息子と、その妻の姿があった。老母の枯れた手を握り乾いた唇に水差しで白湯をそそぐ――それが、先の老婆が話した「おじいさん」と老婆自身であることを、あきらは再び聞いたのだ。
夫婦は年老いた母親に何事かを囁いている。その内容までは聞こえなかったが、どうやら彼らは老母を必死に励ましているらしかった。
――何故自分は見知らぬ人間の死に際に立ち会っているのだろう。
あきらは居心地の悪さを覚えながら、目の前の光景から逃れるように床の間へ意識を向けた。やはりそこには鍾馗の姿が在った。それだけが先までの――少年と祖母の居た光景と同じであった。
鍾馗は最期の時を静かに見守っている。人形らしくない、慈しみに満ちた表情である。
自分の拾った人形はそんな顔をしていただろうか。あきらは首を傾げた。
そう見えるのは、飾られた鍾馗がまだ古びていないからか? 汚れていないからか?
いいや、いいや。そうではない。
鍾馗の瞳にあたたかな感情が浮かべられているように見えるのは、決して気の所為などではないのだ。鍾馗は目の前の光景を愛おしんでいた。その場の空気に溶け込んだあきらは、確かにそこに存在する鍾馗の想いを感じた。
――ああ。先から自分の耳元で語りかけていたのは、鍾馗だったのか。
あきらはそう自覚する。単に鍾馗の記憶を見ていたわけではない。鍾馗の感情を共有していたのだ。風景を、季節を、そこに存在した人々の感情を、あきらが鮮明に感じることができたのは世界に溶け込んでいたからではない。鍾馗の心に触れていた為であろう。
問いに応えるように、静かだったその場の空気がふっと止まった。
――何が起こったのだろう。
あきらが三人に意識を戻すより早く、再び世界がぐるぐると渦巻いた。走馬燈のように巡る景色の中に、あきらは子を慈しむ父の姿を見た。兄を敬い、弟を庇う幼い兄弟を見た。
幾つもの季節が巡り、やがてそこには一人の女の姿が映った。
女はすやすやと眠る赤ん坊を見守りながら、鍾馗の手入れをしている。その瞳は子への慈しみに満ちて、優しい。白い手と柔らかな布で撫でられる鍾馗の顔も幸福に満ちていた。胸の奥がほこりとあたたまるような、穏やかで優しい記憶だった。
赤ん坊は育ち、その姿が老婆に心得を説かれていた少年の姿と重なる。そうして最初に戻って来たところで、映像はぷつりと途絶えた。
陽の光に満ちた明るい世界が一転して暗闇に変わったのは、その直後である。
世界を暗く塗りつぶすのは、悲しみの黒だった。
そこにぽつりと佇むのは、厳めしい顔をした男である。巨眼で虚空を睨み付ける髭の多いその顔は、確かに――鬼に良く似ている。
いつの間にか己の肉体を取り戻したあきらは、鍾馗の前に立っていた。
「約束が違う」
常闇の中、鬼はぽつりと呟く。深い悲しみと怒りを孕んだ声である。そこに居るのは先までの鍾馗ではない。眸を細めていつまでも眺めていたくなる至福の時は、既に過ぎ去って久しかった。眉間には苛立ちによる皺が深く刻まれ、両端の下がった唇には微笑の名残すらない。
「これでは、さわがあまりに哀れである」
酷く陰鬱な顔をした鬼は、天を仰いで嘆いた。辺りの闇が一層深まる。
――さわ、とはあの少年の母だ。
最後に見た光景を思い出しながら、あきらは口の中で呟く。
隣で眠る赤子を慈しんでいた女の名だ。鍾馗を手入れしていた彼女は、きっと目蓋の裏に健やかに育った我が子の姿を思い描いていたのだろう。端午の節句に、成長した子が鍾馗を前にしてその由来を知らされる日がくることを、待ち望んでいたに違いなかった。
「さわの悲憤は如何許りか――私がさわを守らねばならない。信太郎の代わりに」
重々しい声で、鍾馗は続ける。
「どういうことだ?」
――あの家族に何があったのだろう。
恐れも忘れて問うあきらに、鍾馗が答えることはなかった。もう全てを見せた。あとは己の決意を示すのみである――とでも言うように、険しい顔をしている。
その迫力に思わず一歩下がったあきらの肩を、後ろから伸びた手が掴んだ。
「う、うわあああっ!?」
そこに自分と鍾馗以外の人間が存在するなど、どうして思おうか。完全に予想外の出来事である。あきらは思わず叫び、拳を振り上げながら振り返る――それを受け止めたのは、呆れ顔をした報復屋であった。
「おいおい、いきなり何事だ。最近のキレるガキってやつか? 危ねえな」
「い、いきなり何事だって、それはこっちの台詞だ! 驚かせやがって……」
毒づきながらも、あきらはホッと胸を撫で下ろした。いつも通りの不遜な態度とその口調に安堵する。常識の通用しないこの世界で、辰史は誰より頼りになる。非常に不本意ではあるが――あきらはその事実を認めていた。
鍾馗は顔を強張らせたままじっとそのやり取りを見守っていたが、ややあって沈黙を破った。報復屋が姿を現したことに安堵したのは彼も同じだったらしい。
への字に引き結ばれていた唇が、ゆるゆると開かれる。
「報復屋殿、どうか我が頼みを聞き入れて欲しい」
その視線は既に辰史へ注がれていた。怒りを抑えた静かな口調が、かえって鍾馗の凄味を増している。胸中に燃える怒りを表しているようでもあった。
――報復屋への頼み、と言ったら報復の依頼に他ならない。
「ど、どうするんだ?」
大丈夫なのか。視線で問うあきらとじっと見つめる鍾馗に、辰史は拍子抜けするほどあっさり首を縦に振った。嫌味っぽい自信と強欲さの溢れるいつもの顔で、
「お前が代価さえ支払うと言うなら、頼みを聞いてやるのはそう難しいことじゃない」
つん、と顎を上げて言い放ったのだ。
思念――元は人の想いであるとはいえ、人外相手に大層な口の利きようである。
返事を聞いた鍾馗はその分厚い唇をニィッと歪めた。契約しよう、ということらしい。相手が悪魔であることを知っていながら魂を売り渡そうと宣言したような――そんな凄惨な笑みである。
「前金はどうする?」
鬼の覚悟を知ってか、問う辰史にも遠慮がない。
鍾馗は佩いていた剣を引き抜き、鞘をすっと差し出した。銀と玉で装飾された黒塗りの、豪奢な鞘だ。辰史はそれを受け取ると「ふむ」と顎に手を当てて唸った。
「基本的には現金推奨なんだが」
「私は思念であるがゆえに、金は持たぬ」
「……さわのへそくりとか、そういう気の利いたものはないのか?」
「私はさわに頼まれて報復を依頼するわけではない。私自身の意思で頼むのだ。さわの金に手を付けるのは道理に合わぬ」
鍾馗は淀みなくそう答える。義憤に駆られた真っ直ぐな瞳が、強欲な報復屋を見据えた。二つの視線が空中で交わる。やがて、辰史はふっと唇を緩めて愉快そうに喉を鳴らした。
「思念ならではの正論だ。いいだろう。これにどれだけの価値があるかは分からないが、一先ず預かっておいてやる」
「――ありがたい」
鍾馗の声は嬉しそうだ。
「不足分はさわの息子に支払わせる。あれは随分とさわの金に手を付けている」
「で、その剣はどうするんだ? 抜き身のままじゃァ不便だろう」
「問題ない。もう刃を収める必要はないのだ」
――それは一体どういう意味なのか?
いやにはっきりとした鍾馗の台詞に、あきらは薄ら寒いものを感じた。大きく弧を描いた唇とは裏腹に、その瞳は暗く冷たいようにも思われた。鍾馗の言葉を聞いて「成程」と苦笑した辰史には、言葉の意味するところが分かったのだろう。
(ええと、つまりあれだよな。剣を収める必要がないってことは……)
あきらはその答えを理解しかけて、思考に蓋をした。〈信太郎〉という人間の身にこれから何が起こるのか、考えない方が良いような気がしたのだ。
人間相手なら、喧嘩も買える。敵わなければ逃げることもできる。手の打ちようは山とある。
けれど、常識では説明ができないような存在が相手ならどうだ?
普通の人間は何も出来ない。
普通ではなくても、何かを出来る人間は多くない。比奈と常盤を除いた稲荷運送の面々は、思念を感じるか視ることしかできない。誤って“共感”してしまわなければ平気だとは言うが、勿論今回の桃のような例外もある。岡山太郎も似たようなものだ。名島瑠璃也なんかは最悪だ。特に理由もなく思念に好かれるときている。
そうして思念たちは人間に自身の抱える想いを訴えかける――
思念に対して何らかのアクションを起こすことの出来ない人間にとって、訴えは一方的ですらある。思念の抱える想いを理解して、その希望を叶えてやるという道しか残されていないのだ。そこには〝無視〟や〝拒絶〟といった選択肢など存在しない。そうする方法がないからである。
恐ろしいことだ、とあきらは思う。更に恐ろしいのは、そんな存在と対等に渡り合ってしまう人間がいることである。
ちら、と視線を移せばこちらを見ていた報復屋と目が合った。
「お前は――意外に賢いな。変なものを拾ってくる程度には迂闊だが、自分の力がどの範囲まで及ぶかはちゃんとわきまえている。理解の出来ない存在に対する危機感も持ってる」
「な、何だよ。急に」
「瑠璃也や太郎にも見習わせたいってことさ。あいつらは、少しお節介が過ぎる。良く言えば優しくて面倒見が良い。が、感情だけで突っ走るからいつだって厄介事に巻き込まれる」
――一瞬、褒められたように感じたのはどうやら気の所為だったらしい。
続く辰史の言葉に、あきらは脱力した。
裏を返せば、自分には二人ほどの優しさはないと言われているのである。確かにそれは事実かもしれないが、よりによって彼にそれを言われるとは。地味に傷付きながら、あきらは言い返す。
「……貶されてるようにしか聞こえないぞ、おっさん」
「褒めてやってるのさ。くそガキ」
ニッと笑って、辰史は片腕を振った。手が空を切る――陰鬱な色をした闇に亀裂が入り、あきらは世界の消失と意識の浮上を感じた。
***
――眩しい。
光が、目蓋の上から射す。嗅覚が甘ったるい香の匂いを捉える。
そっと目を開ければ正面には最初から変わることのない報復屋の姿が在った。もしも、その膝の上に飾り剣の鞘が載せられていなければ、先までの出来事は一瞬のうちに見た夢であると思えただろう。あきらは恐る恐る自身の腕に抱いた鍾馗へ視線を落とした。
鍾馗はその手に剣を握り、虚空をキッと睨み付けている。
人形の顔からは完全に微笑みが消えていた。しかし一方で、鍾馗は満足した風でもあった。胸の内に秘めていた想いを残らず吐露したかのような――瞳にはようやく訴えを聞き入れられた悦びが滲んで、その表情を異様なものにしていた。
鬼の願いを聞き入れた報復屋は、これから何をするのだろうか?
無言で辰史の様子を見守る。彼はあきらからの視線を気にした風もなく、懐から式符を取り出すと、口早に呪を紡ぎ吹きかけた。式符は瞬きをする間にその姿を変える。
漆黒の翼を広げた独眼の鴉だ。
その細い足に、辰史は糸を結ぶ。「おい、鍾馗を貸せ」そう言ってあきらの手から人形を取り上げると、もう一方を鍾馗の手首にくくりつけた。
――糸は、それほど長いようには見えないが。
迷いつつも、あきらは問いを飲み込んだ。そこには自分が納得できる理由など存在しないのだろう。比奈の影が狐となって、好き勝手動くのと同じだ。仮に、目の前の報復屋が式神や糸の仕組みを懇切丁寧に教えてくれたとしても、あきらには理解できる気がしなかった。
独眼の鴉――屍喰はカァ、と一声鳴いて窓の外へ羽ばたいていく。その姿が空高くまで舞い上がり、建物に遮られて見えなくなっても、辰史の手元の糸は屍喰が移動し続けていることを示すようにゆらゆらと動き続けていた。
しばらく糸の動きを見守っていた辰史は、やがて人形をその腕に抱えたまま億劫そうに腰を上げた。香炉の火を消し、片付けると「行くぞ」と言って座り込んだままのあきらを立ち上がらせる。
「行くって、どこに?」
問えば、
「蔵。報復するには、それに相応しい舞台が必要だ」
妖しげな笑みを湛えながら、報復屋は答えた。
蛟堂の裏手には、堅牢な蔵がそびえ立っている。黒漆喰で塗り込められた外壁は目を見張るほどに美しい――しかし、その入り口は固く閉ざされて人の侵入を拒んでいるようにも見えた。
辰史が手にした鍵を錠前に差し込む。がちり、と重々しい音がして外れ、扉が開いた。
蔵の奥は暗くて、中がどうなっているのかよく見えない。
もしかしたら――
もしかしたら、この蔵自体が得体の知れない世界に繋がっているのではないだろうか。自分はその不思議な世界へ足を踏み入れようとしているのではないだろうか。
そんなことを思って、あきらは一瞬だけ後に続くのを躊躇った。辰史の体は既に蔵の中にある。きょろきょろと視線を動かして周囲を探っていたらしい彼は、しばらくしてあきらが背後でじっと固まったままであることに気付いたようだった。
「どうした? 外で、待ってるか?」
振り返ったその顔に浮かべられているのは、苦笑である。
問いかけに、あきらは首をぶんぶんと左右に振った。「俺も探す!」言い返しながら、辰史の体を突き飛ばすようにして蔵の奥へ進む。入ってしまえば、意外にも中は真っ暗ではなかった。開いた扉から射し込む陽光が、闇を薄く溶かしているのだ。
――どこを探せば良いのだろう。
蔵の中にはびっしりと物が詰め込まれている。床にも、棚にも、箱階段の上にさえ――足元に置かれている箱を蹴飛ばさないように手で少しだけずらして、あきらは更に奥へ足を踏み入れた。後ろからは辰史の忍び笑いが聞こえる。
「で、お前は何を探す気だ? あきらちゃん」
「ちゃん付けすんなよ!」
「元気が良いのは結構なことだ。だが、相手のペースに合わせられない男は嫌われるぜ」
「誰に」
「比奈にも、このお人形さんにも」
――人形?
怪訝に思いながら、あきらは後ろを振り返った。辰史は夜空よりも暗い黒曜の瞳で、じっと鍾馗を見つめて
「いいか、全てを知るのは鍾馗だけだ。俺でもお前でもない」
と、そんな不思議なことを言った。
――どういう意味だ?
問い返そうとすれば、辰史はそれを制するように人差し指を自身の唇にそっと当てた。シッ、と鋭い息を吐き出す。同時に、冷たい空気が微かに震えた。
――何だ?
あきらは素直に黙ったまま、じっと耳を澄ました。
「わが心 なぐさめかねつ 更級や をばすて山に てる月を見て」
空気の微動は、次は確かな声となった。あきらはぎょっとして辰史の瞳を見つめた。
一片の感情も籠もらぬ声で、そう言ったのは得体の知れない何かではなかった。人差し指は既に薄い唇の上を離れている。まるで教科書でも読まされているかのように一つの和歌を口にした辰史は、すぐに「ああ、成程」と呟いてその赤い舌で上唇を舐めた。
――和歌は辰史の内から出たものではない。
辰史は先の空気の振動を、ただ声に出して繰り返しただけなのだ。
「をばすて山――姥捨て山――姥捨ての罪、か」
(姥捨ての罪……?)
確かめるように不吉な声が囁いた時、ごとりと何かが落ちた音がした。
蔵の奥である。辰史はそちらへ足を向けると、埃が舞い上がったあたりを手で軽く払った。僅かに腰を屈めて拾い上げたのは、一本の筒だ。中には一枚の墨跡が丸められている。
辰史の手が、丸まった紙をぐいと伸ばした。
「あっ……!」
黄ばんだ紙の上に躍る文字を読んだあきらは瞳を大きくする。
――わが心 なぐさめかねつ……
恐らくは鍾馗が詠み、辰史がそれを声にしたのだろう――先の和歌がそのままに書き付けられていたのである。「古今和歌集、八七八番――」人の悪い笑みを浮かべた報復屋はそれだけ呟くと、そこに込められた思念の説明はせずに、墨跡を巻き直した。
(な、なんて非常識的な……)
本当に、信じられない。普通ではない。鍾馗の思念世界にまで足を踏み入れてしまった後で、何を今更と思わないこともない。それでもあきらはそう呻かずにはいられなかった。
こうなるともう何が普通なのか、何が常識であるのか分からなくなってくる。
墨跡を見つけた辰史は、もう用は済んだと言わんばかりに、硬直しているあきらには構わずさっさと蔵の外へ出てしまった。あきらがハッと我に返ったのは、その入り口が完全に閉まりきる直前である。外から射し込む陽光は、もう糸のように細かった。
「おい、馬鹿! 待てよ!」
あきらは慌てて辰史の後を追った。
扉を押し開け、蔵の外に飛び出す。一瞬だけ眩しさに目が眩み、徐々に明瞭さを取り戻す視界の中であきらは不吉な黒い影を見つけた。二、三度――瞬きをすれば、視力が完全に戻る。
影と思われたのは、石灯籠の上で羽根を休める屍喰の姿だった。
何らかの役目を終えて帰ってきたのだろう。足に結ばれていたはずの糸は消えている。
「屍、」
呼ばれて、屍喰はその嘴を辰史の耳元へ擦り寄せた。不吉な姿をした式神は、主人に何かを囁いているようにも見える――否。比喩ではなく事実、辰史に何事かを告げていたらしい。聞きながら、辰史の手はメモ帳に文字を書き綴っている。
(住所……?)
ちら、と覗き込めば郵便番号らしき数字が見えた。辰史は書き終えるとそれを破り、人形ごとあきらの手に押しつける。「え――?」と訊き返せば、彼はポケットから煙草を取り出しながら、
「原田さんちにお届け物だ。伝票と梱包は悪いがよろしく頼む」
無責任にもそう言った。
もう自分の仕事は終わったと言わんばかりである。
「お、おい! 比奈さんだって暇じゃねえんだぞ!」
「おい、誰が比奈にやらせろと言ったよ。比奈は忙しいに決まってんだろうが。お前がやるんだよ」
「な……!」
「元はと言えばお前が持ってきた話だろうが。思念からの依頼ってのは、お前が思うより随分と面倒でな。あいつらが見せてくれるのは自分が抱える想いだけだ。人間みたいに相手との関係や恨み辛みを必要以上に喋ってくれるわけじゃァない。鍾馗の見せた想いの中から、原田信太郎について分かったことがどれだけあると思っているんだ?」
なんて腹の立つ物の言い方だ。あきらは上にある辰史の顔を射殺さんばかりに睨み付けた。が、確かに鍾馗を拾ってしまったのは彼の言う通り自分である。辰史が屍喰を使って住所を探り当てなければならなかったように、鍾馗の想いだけでは手がかりが少なすぎることも事実だ。
あきらが顔を引き攣らせながらもようやくのことで「分かった」と答えると、辰史は満足そうに頷いた。
「その代わりに、と言うわけでもないが……鍾馗の頼みに関してはきっちり片を付けてやるから」
安心しろ、と微笑み唇に煙草を咥える。その表情の不吉さと言ったら。
「……おう」
頼むぜ、と小さく呟いてあきらは報復屋に背を向けた。
***
原田信太郎は母を老人ホームへ入居させる為の書類を書いていた。
妻は居間でケアマネージャーと今後の相談をしている。市に要介護認定の申請を提出するらしい。手続きをすれば、介護費用を負担して貰えるとの話であった。これまでろくに調べもせずに、施設は金がかかるからと敬遠していた信太郎は内心安堵した。
娘は大学生で一人暮らしをしている。息子も、受験に失敗しなければ来年からは大学生だ。今が一番金のかかる時期で、働けど働けど豊かになるどころか家計は苦しくなっていくばかりである。それを言えば、妻は「私だって好きで仕事を辞めたわけじゃないわ」と眦を吊り上げた。妻が年老いた母と父の世話をする為に仕事を辞めてから、もう三年になる。
「外に出て働いていた方がよっぽど良かったわ。貴方、自分は毎日働いていると言うけどね。内科に眼科、歯科……一ヶ月のうちに私がどれだけ病院に通っているか、貴方は知ってる? こっちが病気になりそうなくらいよ。何で歳を取るとああもあちこちが悪くなるのかしらね」
少し愚痴を言えば、倍以上になって返ってくるのだ。くたびれた顔で悪態を吐く妻と会話をしている方が余程疲れるというものである。最近では夫婦の会話も少なくなりがちで、顔を合わせればお互いにきつい言葉を交わすことがほとんどであった。
あたたかな春の陽射しは一体どこへいってしまったのか?
太陽の代わりに外を照らすのは、寒々とした月明かりであった。
――嗅覚が、古い時代の匂いを捉えた。
先までそこに座っていたはずの少年と祖母の姿はない。代わりに、目の前には年老いた母を看取る息子と、その妻の姿があった。老母の枯れた手を握り乾いた唇に水差しで白湯をそそぐ――それが、先の老婆が話した「おじいさん」と老婆自身であることを、あきらは再び聞いたのだ。
夫婦は年老いた母親に何事かを囁いている。その内容までは聞こえなかったが、どうやら彼らは老母を必死に励ましているらしかった。
――何故自分は見知らぬ人間の死に際に立ち会っているのだろう。
あきらは居心地の悪さを覚えながら、目の前の光景から逃れるように床の間へ意識を向けた。やはりそこには鍾馗の姿が在った。それだけが先までの――少年と祖母の居た光景と同じであった。
鍾馗は最期の時を静かに見守っている。人形らしくない、慈しみに満ちた表情である。
自分の拾った人形はそんな顔をしていただろうか。あきらは首を傾げた。
そう見えるのは、飾られた鍾馗がまだ古びていないからか? 汚れていないからか?
いいや、いいや。そうではない。
鍾馗の瞳にあたたかな感情が浮かべられているように見えるのは、決して気の所為などではないのだ。鍾馗は目の前の光景を愛おしんでいた。その場の空気に溶け込んだあきらは、確かにそこに存在する鍾馗の想いを感じた。
――ああ。先から自分の耳元で語りかけていたのは、鍾馗だったのか。
あきらはそう自覚する。単に鍾馗の記憶を見ていたわけではない。鍾馗の感情を共有していたのだ。風景を、季節を、そこに存在した人々の感情を、あきらが鮮明に感じることができたのは世界に溶け込んでいたからではない。鍾馗の心に触れていた為であろう。
問いに応えるように、静かだったその場の空気がふっと止まった。
――何が起こったのだろう。
あきらが三人に意識を戻すより早く、再び世界がぐるぐると渦巻いた。走馬燈のように巡る景色の中に、あきらは子を慈しむ父の姿を見た。兄を敬い、弟を庇う幼い兄弟を見た。
幾つもの季節が巡り、やがてそこには一人の女の姿が映った。
女はすやすやと眠る赤ん坊を見守りながら、鍾馗の手入れをしている。その瞳は子への慈しみに満ちて、優しい。白い手と柔らかな布で撫でられる鍾馗の顔も幸福に満ちていた。胸の奥がほこりとあたたまるような、穏やかで優しい記憶だった。
赤ん坊は育ち、その姿が老婆に心得を説かれていた少年の姿と重なる。そうして最初に戻って来たところで、映像はぷつりと途絶えた。
陽の光に満ちた明るい世界が一転して暗闇に変わったのは、その直後である。
世界を暗く塗りつぶすのは、悲しみの黒だった。
そこにぽつりと佇むのは、厳めしい顔をした男である。巨眼で虚空を睨み付ける髭の多いその顔は、確かに――鬼に良く似ている。
いつの間にか己の肉体を取り戻したあきらは、鍾馗の前に立っていた。
「約束が違う」
常闇の中、鬼はぽつりと呟く。深い悲しみと怒りを孕んだ声である。そこに居るのは先までの鍾馗ではない。眸を細めていつまでも眺めていたくなる至福の時は、既に過ぎ去って久しかった。眉間には苛立ちによる皺が深く刻まれ、両端の下がった唇には微笑の名残すらない。
「これでは、さわがあまりに哀れである」
酷く陰鬱な顔をした鬼は、天を仰いで嘆いた。辺りの闇が一層深まる。
――さわ、とはあの少年の母だ。
最後に見た光景を思い出しながら、あきらは口の中で呟く。
隣で眠る赤子を慈しんでいた女の名だ。鍾馗を手入れしていた彼女は、きっと目蓋の裏に健やかに育った我が子の姿を思い描いていたのだろう。端午の節句に、成長した子が鍾馗を前にしてその由来を知らされる日がくることを、待ち望んでいたに違いなかった。
「さわの悲憤は如何許りか――私がさわを守らねばならない。信太郎の代わりに」
重々しい声で、鍾馗は続ける。
「どういうことだ?」
――あの家族に何があったのだろう。
恐れも忘れて問うあきらに、鍾馗が答えることはなかった。もう全てを見せた。あとは己の決意を示すのみである――とでも言うように、険しい顔をしている。
その迫力に思わず一歩下がったあきらの肩を、後ろから伸びた手が掴んだ。
「う、うわあああっ!?」
そこに自分と鍾馗以外の人間が存在するなど、どうして思おうか。完全に予想外の出来事である。あきらは思わず叫び、拳を振り上げながら振り返る――それを受け止めたのは、呆れ顔をした報復屋であった。
「おいおい、いきなり何事だ。最近のキレるガキってやつか? 危ねえな」
「い、いきなり何事だって、それはこっちの台詞だ! 驚かせやがって……」
毒づきながらも、あきらはホッと胸を撫で下ろした。いつも通りの不遜な態度とその口調に安堵する。常識の通用しないこの世界で、辰史は誰より頼りになる。非常に不本意ではあるが――あきらはその事実を認めていた。
鍾馗は顔を強張らせたままじっとそのやり取りを見守っていたが、ややあって沈黙を破った。報復屋が姿を現したことに安堵したのは彼も同じだったらしい。
への字に引き結ばれていた唇が、ゆるゆると開かれる。
「報復屋殿、どうか我が頼みを聞き入れて欲しい」
その視線は既に辰史へ注がれていた。怒りを抑えた静かな口調が、かえって鍾馗の凄味を増している。胸中に燃える怒りを表しているようでもあった。
――報復屋への頼み、と言ったら報復の依頼に他ならない。
「ど、どうするんだ?」
大丈夫なのか。視線で問うあきらとじっと見つめる鍾馗に、辰史は拍子抜けするほどあっさり首を縦に振った。嫌味っぽい自信と強欲さの溢れるいつもの顔で、
「お前が代価さえ支払うと言うなら、頼みを聞いてやるのはそう難しいことじゃない」
つん、と顎を上げて言い放ったのだ。
思念――元は人の想いであるとはいえ、人外相手に大層な口の利きようである。
返事を聞いた鍾馗はその分厚い唇をニィッと歪めた。契約しよう、ということらしい。相手が悪魔であることを知っていながら魂を売り渡そうと宣言したような――そんな凄惨な笑みである。
「前金はどうする?」
鬼の覚悟を知ってか、問う辰史にも遠慮がない。
鍾馗は佩いていた剣を引き抜き、鞘をすっと差し出した。銀と玉で装飾された黒塗りの、豪奢な鞘だ。辰史はそれを受け取ると「ふむ」と顎に手を当てて唸った。
「基本的には現金推奨なんだが」
「私は思念であるがゆえに、金は持たぬ」
「……さわのへそくりとか、そういう気の利いたものはないのか?」
「私はさわに頼まれて報復を依頼するわけではない。私自身の意思で頼むのだ。さわの金に手を付けるのは道理に合わぬ」
鍾馗は淀みなくそう答える。義憤に駆られた真っ直ぐな瞳が、強欲な報復屋を見据えた。二つの視線が空中で交わる。やがて、辰史はふっと唇を緩めて愉快そうに喉を鳴らした。
「思念ならではの正論だ。いいだろう。これにどれだけの価値があるかは分からないが、一先ず預かっておいてやる」
「――ありがたい」
鍾馗の声は嬉しそうだ。
「不足分はさわの息子に支払わせる。あれは随分とさわの金に手を付けている」
「で、その剣はどうするんだ? 抜き身のままじゃァ不便だろう」
「問題ない。もう刃を収める必要はないのだ」
――それは一体どういう意味なのか?
いやにはっきりとした鍾馗の台詞に、あきらは薄ら寒いものを感じた。大きく弧を描いた唇とは裏腹に、その瞳は暗く冷たいようにも思われた。鍾馗の言葉を聞いて「成程」と苦笑した辰史には、言葉の意味するところが分かったのだろう。
(ええと、つまりあれだよな。剣を収める必要がないってことは……)
あきらはその答えを理解しかけて、思考に蓋をした。〈信太郎〉という人間の身にこれから何が起こるのか、考えない方が良いような気がしたのだ。
人間相手なら、喧嘩も買える。敵わなければ逃げることもできる。手の打ちようは山とある。
けれど、常識では説明ができないような存在が相手ならどうだ?
普通の人間は何も出来ない。
普通ではなくても、何かを出来る人間は多くない。比奈と常盤を除いた稲荷運送の面々は、思念を感じるか視ることしかできない。誤って“共感”してしまわなければ平気だとは言うが、勿論今回の桃のような例外もある。岡山太郎も似たようなものだ。名島瑠璃也なんかは最悪だ。特に理由もなく思念に好かれるときている。
そうして思念たちは人間に自身の抱える想いを訴えかける――
思念に対して何らかのアクションを起こすことの出来ない人間にとって、訴えは一方的ですらある。思念の抱える想いを理解して、その希望を叶えてやるという道しか残されていないのだ。そこには〝無視〟や〝拒絶〟といった選択肢など存在しない。そうする方法がないからである。
恐ろしいことだ、とあきらは思う。更に恐ろしいのは、そんな存在と対等に渡り合ってしまう人間がいることである。
ちら、と視線を移せばこちらを見ていた報復屋と目が合った。
「お前は――意外に賢いな。変なものを拾ってくる程度には迂闊だが、自分の力がどの範囲まで及ぶかはちゃんとわきまえている。理解の出来ない存在に対する危機感も持ってる」
「な、何だよ。急に」
「瑠璃也や太郎にも見習わせたいってことさ。あいつらは、少しお節介が過ぎる。良く言えば優しくて面倒見が良い。が、感情だけで突っ走るからいつだって厄介事に巻き込まれる」
――一瞬、褒められたように感じたのはどうやら気の所為だったらしい。
続く辰史の言葉に、あきらは脱力した。
裏を返せば、自分には二人ほどの優しさはないと言われているのである。確かにそれは事実かもしれないが、よりによって彼にそれを言われるとは。地味に傷付きながら、あきらは言い返す。
「……貶されてるようにしか聞こえないぞ、おっさん」
「褒めてやってるのさ。くそガキ」
ニッと笑って、辰史は片腕を振った。手が空を切る――陰鬱な色をした闇に亀裂が入り、あきらは世界の消失と意識の浮上を感じた。
***
――眩しい。
光が、目蓋の上から射す。嗅覚が甘ったるい香の匂いを捉える。
そっと目を開ければ正面には最初から変わることのない報復屋の姿が在った。もしも、その膝の上に飾り剣の鞘が載せられていなければ、先までの出来事は一瞬のうちに見た夢であると思えただろう。あきらは恐る恐る自身の腕に抱いた鍾馗へ視線を落とした。
鍾馗はその手に剣を握り、虚空をキッと睨み付けている。
人形の顔からは完全に微笑みが消えていた。しかし一方で、鍾馗は満足した風でもあった。胸の内に秘めていた想いを残らず吐露したかのような――瞳にはようやく訴えを聞き入れられた悦びが滲んで、その表情を異様なものにしていた。
鬼の願いを聞き入れた報復屋は、これから何をするのだろうか?
無言で辰史の様子を見守る。彼はあきらからの視線を気にした風もなく、懐から式符を取り出すと、口早に呪を紡ぎ吹きかけた。式符は瞬きをする間にその姿を変える。
漆黒の翼を広げた独眼の鴉だ。
その細い足に、辰史は糸を結ぶ。「おい、鍾馗を貸せ」そう言ってあきらの手から人形を取り上げると、もう一方を鍾馗の手首にくくりつけた。
――糸は、それほど長いようには見えないが。
迷いつつも、あきらは問いを飲み込んだ。そこには自分が納得できる理由など存在しないのだろう。比奈の影が狐となって、好き勝手動くのと同じだ。仮に、目の前の報復屋が式神や糸の仕組みを懇切丁寧に教えてくれたとしても、あきらには理解できる気がしなかった。
独眼の鴉――屍喰はカァ、と一声鳴いて窓の外へ羽ばたいていく。その姿が空高くまで舞い上がり、建物に遮られて見えなくなっても、辰史の手元の糸は屍喰が移動し続けていることを示すようにゆらゆらと動き続けていた。
しばらく糸の動きを見守っていた辰史は、やがて人形をその腕に抱えたまま億劫そうに腰を上げた。香炉の火を消し、片付けると「行くぞ」と言って座り込んだままのあきらを立ち上がらせる。
「行くって、どこに?」
問えば、
「蔵。報復するには、それに相応しい舞台が必要だ」
妖しげな笑みを湛えながら、報復屋は答えた。
蛟堂の裏手には、堅牢な蔵がそびえ立っている。黒漆喰で塗り込められた外壁は目を見張るほどに美しい――しかし、その入り口は固く閉ざされて人の侵入を拒んでいるようにも見えた。
辰史が手にした鍵を錠前に差し込む。がちり、と重々しい音がして外れ、扉が開いた。
蔵の奥は暗くて、中がどうなっているのかよく見えない。
もしかしたら――
もしかしたら、この蔵自体が得体の知れない世界に繋がっているのではないだろうか。自分はその不思議な世界へ足を踏み入れようとしているのではないだろうか。
そんなことを思って、あきらは一瞬だけ後に続くのを躊躇った。辰史の体は既に蔵の中にある。きょろきょろと視線を動かして周囲を探っていたらしい彼は、しばらくしてあきらが背後でじっと固まったままであることに気付いたようだった。
「どうした? 外で、待ってるか?」
振り返ったその顔に浮かべられているのは、苦笑である。
問いかけに、あきらは首をぶんぶんと左右に振った。「俺も探す!」言い返しながら、辰史の体を突き飛ばすようにして蔵の奥へ進む。入ってしまえば、意外にも中は真っ暗ではなかった。開いた扉から射し込む陽光が、闇を薄く溶かしているのだ。
――どこを探せば良いのだろう。
蔵の中にはびっしりと物が詰め込まれている。床にも、棚にも、箱階段の上にさえ――足元に置かれている箱を蹴飛ばさないように手で少しだけずらして、あきらは更に奥へ足を踏み入れた。後ろからは辰史の忍び笑いが聞こえる。
「で、お前は何を探す気だ? あきらちゃん」
「ちゃん付けすんなよ!」
「元気が良いのは結構なことだ。だが、相手のペースに合わせられない男は嫌われるぜ」
「誰に」
「比奈にも、このお人形さんにも」
――人形?
怪訝に思いながら、あきらは後ろを振り返った。辰史は夜空よりも暗い黒曜の瞳で、じっと鍾馗を見つめて
「いいか、全てを知るのは鍾馗だけだ。俺でもお前でもない」
と、そんな不思議なことを言った。
――どういう意味だ?
問い返そうとすれば、辰史はそれを制するように人差し指を自身の唇にそっと当てた。シッ、と鋭い息を吐き出す。同時に、冷たい空気が微かに震えた。
――何だ?
あきらは素直に黙ったまま、じっと耳を澄ました。
「わが心 なぐさめかねつ 更級や をばすて山に てる月を見て」
空気の微動は、次は確かな声となった。あきらはぎょっとして辰史の瞳を見つめた。
一片の感情も籠もらぬ声で、そう言ったのは得体の知れない何かではなかった。人差し指は既に薄い唇の上を離れている。まるで教科書でも読まされているかのように一つの和歌を口にした辰史は、すぐに「ああ、成程」と呟いてその赤い舌で上唇を舐めた。
――和歌は辰史の内から出たものではない。
辰史は先の空気の振動を、ただ声に出して繰り返しただけなのだ。
「をばすて山――姥捨て山――姥捨ての罪、か」
(姥捨ての罪……?)
確かめるように不吉な声が囁いた時、ごとりと何かが落ちた音がした。
蔵の奥である。辰史はそちらへ足を向けると、埃が舞い上がったあたりを手で軽く払った。僅かに腰を屈めて拾い上げたのは、一本の筒だ。中には一枚の墨跡が丸められている。
辰史の手が、丸まった紙をぐいと伸ばした。
「あっ……!」
黄ばんだ紙の上に躍る文字を読んだあきらは瞳を大きくする。
――わが心 なぐさめかねつ……
恐らくは鍾馗が詠み、辰史がそれを声にしたのだろう――先の和歌がそのままに書き付けられていたのである。「古今和歌集、八七八番――」人の悪い笑みを浮かべた報復屋はそれだけ呟くと、そこに込められた思念の説明はせずに、墨跡を巻き直した。
(な、なんて非常識的な……)
本当に、信じられない。普通ではない。鍾馗の思念世界にまで足を踏み入れてしまった後で、何を今更と思わないこともない。それでもあきらはそう呻かずにはいられなかった。
こうなるともう何が普通なのか、何が常識であるのか分からなくなってくる。
墨跡を見つけた辰史は、もう用は済んだと言わんばかりに、硬直しているあきらには構わずさっさと蔵の外へ出てしまった。あきらがハッと我に返ったのは、その入り口が完全に閉まりきる直前である。外から射し込む陽光は、もう糸のように細かった。
「おい、馬鹿! 待てよ!」
あきらは慌てて辰史の後を追った。
扉を押し開け、蔵の外に飛び出す。一瞬だけ眩しさに目が眩み、徐々に明瞭さを取り戻す視界の中であきらは不吉な黒い影を見つけた。二、三度――瞬きをすれば、視力が完全に戻る。
影と思われたのは、石灯籠の上で羽根を休める屍喰の姿だった。
何らかの役目を終えて帰ってきたのだろう。足に結ばれていたはずの糸は消えている。
「屍、」
呼ばれて、屍喰はその嘴を辰史の耳元へ擦り寄せた。不吉な姿をした式神は、主人に何かを囁いているようにも見える――否。比喩ではなく事実、辰史に何事かを告げていたらしい。聞きながら、辰史の手はメモ帳に文字を書き綴っている。
(住所……?)
ちら、と覗き込めば郵便番号らしき数字が見えた。辰史は書き終えるとそれを破り、人形ごとあきらの手に押しつける。「え――?」と訊き返せば、彼はポケットから煙草を取り出しながら、
「原田さんちにお届け物だ。伝票と梱包は悪いがよろしく頼む」
無責任にもそう言った。
もう自分の仕事は終わったと言わんばかりである。
「お、おい! 比奈さんだって暇じゃねえんだぞ!」
「おい、誰が比奈にやらせろと言ったよ。比奈は忙しいに決まってんだろうが。お前がやるんだよ」
「な……!」
「元はと言えばお前が持ってきた話だろうが。思念からの依頼ってのは、お前が思うより随分と面倒でな。あいつらが見せてくれるのは自分が抱える想いだけだ。人間みたいに相手との関係や恨み辛みを必要以上に喋ってくれるわけじゃァない。鍾馗の見せた想いの中から、原田信太郎について分かったことがどれだけあると思っているんだ?」
なんて腹の立つ物の言い方だ。あきらは上にある辰史の顔を射殺さんばかりに睨み付けた。が、確かに鍾馗を拾ってしまったのは彼の言う通り自分である。辰史が屍喰を使って住所を探り当てなければならなかったように、鍾馗の想いだけでは手がかりが少なすぎることも事実だ。
あきらが顔を引き攣らせながらもようやくのことで「分かった」と答えると、辰史は満足そうに頷いた。
「その代わりに、と言うわけでもないが……鍾馗の頼みに関してはきっちり片を付けてやるから」
安心しろ、と微笑み唇に煙草を咥える。その表情の不吉さと言ったら。
「……おう」
頼むぜ、と小さく呟いてあきらは報復屋に背を向けた。
***
原田信太郎は母を老人ホームへ入居させる為の書類を書いていた。
妻は居間でケアマネージャーと今後の相談をしている。市に要介護認定の申請を提出するらしい。手続きをすれば、介護費用を負担して貰えるとの話であった。これまでろくに調べもせずに、施設は金がかかるからと敬遠していた信太郎は内心安堵した。
娘は大学生で一人暮らしをしている。息子も、受験に失敗しなければ来年からは大学生だ。今が一番金のかかる時期で、働けど働けど豊かになるどころか家計は苦しくなっていくばかりである。それを言えば、妻は「私だって好きで仕事を辞めたわけじゃないわ」と眦を吊り上げた。妻が年老いた母と父の世話をする為に仕事を辞めてから、もう三年になる。
「外に出て働いていた方がよっぽど良かったわ。貴方、自分は毎日働いていると言うけどね。内科に眼科、歯科……一ヶ月のうちに私がどれだけ病院に通っているか、貴方は知ってる? こっちが病気になりそうなくらいよ。何で歳を取るとああもあちこちが悪くなるのかしらね」
少し愚痴を言えば、倍以上になって返ってくるのだ。くたびれた顔で悪態を吐く妻と会話をしている方が余程疲れるというものである。最近では夫婦の会話も少なくなりがちで、顔を合わせればお互いにきつい言葉を交わすことがほとんどであった。
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