蛟堂報復録

鈴木麻純

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4巻

4-2

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 その翌日も、辰史は店番をしていた。
 あまり上機嫌そうに見えない顔は元々――ではなく、早々に次の依頼が舞い込んできた為である。客ではない。報復の、依頼である。
 知人を通して送られた封筒には、幾つかの書類が丁寧にピンで留められていた。その内の一枚に貼り付けられた写真に写るのは、若い女だ。
 どこかなまめかしい――気の強そうな、美人。
 依頼主は中年男性である。こちらはどこか風采ふうさいの上がらぬていであったが、驚くべきことにこの男は女から執拗しつように迫られていたのだという。男が女に迫ったのではなく。
 妻子ある男に半ばストーカーと呼べるような行為を繰り返し、それでも受け入れられなかった女が逆恨みをする。男は家庭も職場も、そして平穏な日常すら奪われ一時は死を選んだ――
 昔、そんな設定のドラマがあったような。辰史はぼんやりとそんなことを思い出しながら、男の悲痛な思いがつづられた手紙へ視線を落とした。
 綴っている最中に、どうにも堪えきれなくなったのか。インクの文字がところどころ涙のあとにじんで読みにくい。
 とりあえず男に同情しながら、辰史は手紙を最後まで読むことを諦め、立ち上がった。

「さて――」

 と、向かうのは蔵である。
 特に何を思いついたわけでもないが、蔵へ行けば何かあるだろうと思いつつ、吸いかけの煙草を灰皿に押しつける。


 くろ漆喰しっくいの美しい蔵――
 古びた鍵を、大きめの和錠に差し込み右へ回せば、かちりと重い音がした。外した錠前を石灯籠いしどうろうの上へ置き、鉄製の扉を手前に引き開ける。
 陽光が射し込んでなお、薄暗い庫内に足を踏み入れればひやりとして冷たい。しっとりと冷えた空気と土っぽい匂いは、まるで長い年月までこの蔵の中へ閉じ込めてきたかのようであった。
 辰史は庫内を見渡しながら、冷えた空気を吸い込む。
 掃除をこまめにしている為か、空気が古びているわりに中は綺麗に片付いてほこりもそれほど見られない。
 ――もっとも、その掃除をするのは大抵が辰史ではなくおいの太郎であったが。

「さて、と」

 箱階段に腰掛けて、呟く。
 整頓されてはいるが、床の上から棚、そして箱階段に付属した引き出しの中に至るまで――蔵の中は古物と書物が所狭しと置かれている。それらの蒐集しゅうしゅうは勿論、思念世界を現出させる為に必要なのである。が、辰史の場合は単純に趣味として楽しんでいる部分もあった。
 腰を落としたままひとみつむれば、目に見える世界が消失する。
 視覚を閉ざし聴覚を研ぎ澄ませば、薄ら寒い空気の中に聞こえる微かなざわめき。ひそひそと喋る声。呟き。いらち。怯え。嘆き。――それらは全て、〈人の一部〉である。
〈人の一部〉――本来であれば心の内にひっそりと留まり続け、そして消えていくはずの想いだ。 
 静寂の中の密かなざわめきに耳を傾けながら、辰史はふっと小さく息を吐いた。
 薄く眸を開く。視界には何も映らない。
 ただ変わることのない、静止した光景だけが広がっている。そうして何十年と――物が入れ替わることはあれど――この場所に思念が、人の想いが留められ、出会うべく生身の人間を待ち望んでいるのかと思うと、酷く不思議な気持ちになるのだ。
 報復――ごう因果いんが応報おうほう
 百余年に亘り続いてきた蛟堂。報復屋の仕事。もしも、仮に、輪廻りんね転生てんしょうなどというシステムが存在するのだとしたら、この蔵に存在する思念と出会うはずの人間は、元は一つのものであったのかもしれない。或いは、前世に於いて強い関わりを持っていたことがあるのかもしれない――と。
 だからこそ、報復の舞台となる物語の――思念の選定にはこだわらずにはいられないのかもしれない。

(と、いうのは、少し夢見がちすぎるか)

 辰史は控えめな苦笑を零した。

「やれやれ、妄想もうそうも大概にしておかないとな」

 立ち上がり、手近な箱の蓋から開けていく。今回は――それが出会いとなるか、再会となるかは辰史の知るところではないが――どのような舞台が相応しいか。
 血のように赤い染みのついた小さな鍵に、古びた柱時計、はす蜘蛛くもの描かれた壺。
 一つ一つ手に取り、眺める。

「青ひげに、七匹の子ヤギ、蜘蛛の糸――違うな」

 どれも今回の依頼にはそぐわない。かといって、いつものようにパッと思いつく物もない。連日の依頼で疲労が溜まっている所為か、思考力が鈍っているらしい。

「ううむ」

 うなりながら、辰史は次の箱を開けようとした。と――

「……?」

 ふと、顔を上げる。辰史は人の気配を感じたような気がして、蔵の入り口へ眸を向けた。
 果たしてそう感じた通り、地面を一つの影が過ぎる。同時に庫内が暗さを増したのは、その影が光をさえぎった為――ではなかった。

「なっ!」

 辰史は慌てて箱階段から腰を上げる。
 重々しい鉄の扉がぎしりと鈍い音を立てたかと思えば、閉じていくのである。
 差し込む陽光は次第に細くなり、薄闇に視界は悪くなる。「待て、」と駆け出そうとするも、自分が広げた古物が障害となって思うように身動きを取ることができない。爪先で壺を蹴らぬよう、辰史は慎重に手でその在処ありかを探った。
 そうしてまずは一つ。棚の上へ置き直し、更に手を伸ばして水墨画を手繰たぐり寄せると、それも破ってしまわぬように丁寧に巻き直し、やはり棚の上へ避難させる。
 どれ一つとして壊さぬよう、慎重に進んで蔵の入り口付近まで辿り着いた時には――当然ながら――鉄の扉は固く閉ざされてしまっていた。
 光の差し込む隙間一ミリ見られぬほどに、ぴったりと。

「くそ、誰だ!? こんな真似しやがったのは!」

 口汚くののしりながら、がんっと扉を蹴り上げる。
 渾身こんしんの力を込めて押してもぴくりとも動かないことから察するに、錠まで下ろされてしまったらしい。
 ――犯人は先の人影か。
 人から恨まれる覚えは腐るほどある。非常に不本意ではあったが。
 そうと分かれば、辰史はもう無駄に扉を蹴り上げたりはしなかった。一度口をつぐみ、すっと鼻から息を吸い込む。同時に右手はふところを探り、一枚の式符しきふを摘み上げていた。

地抉じえぐり――」

 吸い込んだ息を、ことに乗せて吐き出す。
 低く心地のよい音は、目に見えない力を含んで呪の織り込まれた式符に目覚めを促した。
 印字された晴明桔梗せいめいききょうが、声に答えるように淡青色の輝きを帯びる――
 一瞬の内に、式符は蛇へと姿を変えた。
 目を持たぬ蛇である。
 黒光りした美しい青色をしているはずのうろこは――残念なことに――暗がりでは黒にしか見えない。
 腕へ巻き付いて、鎌首かまくびをこちらに向けているしきに、辰史は更にふぅっと息を吹きかけた。――聞こえたのは口笛か、それとも微かなささやきか。
 音の去った後に地抉の姿は無い。
 そうして、一秒……二秒。
 外側からかちり、と乾いた音が聞こえた。
 次に、がしゃんと錠前が地面へ落ちる音と「きゃっ!」という少女の高い悲鳴。

(女……?)

 ――それも、つい最近聞いた覚えのある声だ。
 ギッと扉を押し開けて、

「何やってんだ? お前」

 辰史はひくり、とこめかみを引き攣らせながら目の前の少女に訊ねた。
 逃げるでもなく石灯籠に背を預けているのは、昨日出会った真田老人の孫――優香だ。
 優香のアイライナーで強調された瞳が、辰史の姿を捉えて更に大きくなる。彼女は感激したように顔の前で両掌りょうてのひらを重ね合わせ、

「鍵かけたのにどうやって出てきたの? 辰史さんってすごぉい!」
「あのな……、まずは最初に言うことがあると思うんだが」
「何? あ、こんにちは! かな?」

 わずかに小首を傾げてみせる。
 きゅるん、という無駄に可愛げな擬音を、辰史は確かに聞いた気がした。若干鈍痛どんつうのしてきた額を押さえながら、「違うだろ」と苛立ち交じりに吐き出す。

「学生がこんな時間に何やってんだ。しかも不法侵入に監禁未遂。俺が短気だったら警察に突き出してるところだぜ」
「辰史さんに会いたくて学校サボってきちゃった」

 優香は悪びれもせずにそう言った。

「あ、そ。で、この悪質な悪戯いたずらの理由は」
「悪質だなんて、そんな意地悪な言い方しなくても良いじゃない。ただ、少し試してみたかっただけなんだから」
「……?」
「ほら、言ってたじゃない? 陰陽道に明るいって。よく分からないけど、ピンチになれば何かやってくれるかなって」

 ――あと、せっかくケー番渡したのに連絡くれなかったから。ちょっとした仕返しのつもりで。
 にこり、と笑う女子高生に辰史は口の中で毒づいた。

「まったく、あの爺さんは孫にどういう教育を施してんだ……」

 真田老人ばかりが悪いというわけでもないのだろうが。

(どんなに出来た人間でも、身内には甘いもんなんだな)

 そんな溜息ためいきを密かに零しつつ。上からぎろり、と睨み付けても目の前の女子高生は辰史の苛立ちになど気付いていない風であった。
 体の前で組んだ手を、くっと伸ばして「ああ、面白かった」などと言っている。

「辰史さんも、少しは面白かったでしょ?」
「面白いはずがあるか。悪ガキはさっさと学校行ってしつけてもらってこい」
「あれ、昨日とは態度が違うんだね。おじいちゃんがいないから?」
「ああ」

 少女の指摘に、辰史は遠慮無くうなずく。それで優香が腹を立てて帰ってくれれば――と、切実に願いながら。尤も、その願いが聞き届けられることはなかったのだが。
 優香はやはりめげることなく、

「そういうストレートなところも格好良い! ねえねえ、辰史さんは今彼女いるの? いないよね? おじいちゃん、何も言ってなかったもの。だったら私と付き合ってよ。いいでしょ?」
「お断りだ。間に合ってる」
「何それ、彼女いるってこと? 私より可愛い?」
「ああ、可愛い可愛い。すげー可愛い」

 投げ遣りに返しながら、辰史はしっしと冷たく手を振って優香を追い払った。が――優香は器用にその手を避けながら、辰史に纏わり付いてくる。
 ただの女子高生にしては侮りがたい身のこなしだ、と辰史は変に感心しながら再び蔵へ足を踏み入れる。
 そうしてそのまま蔵の扉を閉めてしまおうと思ったのだが、優香はそんな辰史の思惑を見越していたらしい。するり、と猫のしなやかさでもって辰史の脇下あたりから、一緒に蔵の中へ滑り込んだ。

「……」

 重々しい鉄製の扉を閉めようとした格好のまま、辰史は硬直する。
 最近の女子高生はどうなっているのだろうか――と微かな恐怖すら覚えながら、閉めかけた扉を勢い良く開け放つ。
 暗くなりかけた蔵の中は、大きく開いた入り口から日の光を取り込み、再び明るさを取り戻した。

「なぁんだ。せっかく良い感じになれると思ったのにな」

 と心底残念そうに呟いたのは、勿論優香だ。

「ない。それはない。絶対にない。つうか、いい加減出て行け。そして学校に行け」

 ――こんな状況を知り合いに見られたら、またどんな皮肉を言われることか。
 戦慄せんりつする辰史の脳内に、何人かの知り合いが浮かぶ。
 知り合いの内、何人かは早合点しがち――というよりは、面白がる為にえて早合点するような連中である。

「おや、辰史君。可愛いお嬢さんをお連れですね。ああ、大丈夫です。私は偏見を持たない主義でしてね、辰史君が少女趣味だろうと蛟堂さんとは今までと変わらないお付き合いをさせて頂きたいと思っていますから安心してください」
「叔父さん。いくら女性に敬遠されがちだからって、恋愛と憧れを混同しがちな思春期の女の子の勘違いを利用して恋人を確保するだなんて、人としてどうかと思います」
「三輪さん、俺は別に歳の差なんて関係ないと思いますよ。十歳なんて歳取れば微々たる差ですし。ほら、七十歳も八十歳も変わらないっていうか。うん、大事なのは気持ちですって! そういうわけで、俺はちょっと比奈ひなさんのことを慰めに行ってきます」
「ええ? 何? 三輪君てばついに稲荷運送のお嬢さんにふられちゃったわけ? 可哀想! まあ予想はしてたけどね!」
「何であんたみたいなおっさんがもてるか理解できねーけど、祝福すんぜ! ぷぷ、ざまァみやがれ」
「辰史さん……。ええと、その……、末永くお幸せに」

 一通り知り合いの反応を想像して、辰史は小さくうめいた。
 被害妄想と言ってしまえばそれまでだが、恐らくどの反応もそれほど現実と変わりないはずだった。
 リアルな表情と音声付きで脳内をループする映像。滅多なことでは痛まぬ辰史のはがねの心臓が、ずきんと鈍く痛む。

(くる……。最後のは、相当くる……)

 重い拳を受けたかのように、ふらふらと蹌踉よろめきながら胸の辺りを押さえれば、優香が「大丈夫?」と顔を覗き込んできた。

「大丈夫だ。だから、これ以上俺に近寄るな」

 サッと手でその体を押し返す辰史に、優香は可愛らしく唇を尖らせる。

「冷たいー! おじいちゃんの知り合いだったら、振りでも私に優しくしようって思わない?」
「全く思わん。そのおじいちゃんに言いつけられたくなかったら、さっさと学校に行け」
「そんなこと言わないでよ。ねえ、探し物してるんでしょう? 私が手伝ってあげる」
「余計なことをするな! つうか、置いてあるものを勝手に触るな!」

 ――ああもう!
 うんざりしたように吐き出す。
 制止も怒りも通じない。
 そもそも言葉が通じているのかすら怪しい、と疑いながら辰史は力無く箱階段の上に座り直した。

(こっちは疲れてるっつうのに)

 やれやれと溜息を吐き出せば、優香が「あ――」と声を上げた。
 どうやら何かを発見したようである。
 語尾にハートマークでも付きそうな、上機嫌かつ気合いの入った声に辰史は面倒そうに首をそちらへ巡らせる。

「これ綺麗」

 少女の手には、一つのオルゴールがあった。台座の上では、踊り子のような格好をした陶器製の人形がポージングしている。上から被せられた薄いヴェールが、その踊り子の正体を仄めかしていた。

「サロメか……」

 そんな辰史の呟きを聞いたから、というわけでもなかろうが――

「ねえ、辰史さん。これ頂戴ちょうだい!」

 両手で胸の前にオルゴールを抱えて、優香が強請ねだる。上を向いた長い睫毛に、見上げる瞳はそのまま手本として本に載せられそうなほどの、完璧な上目遣い。
 打算的ではないものの、そうやって頼めば大抵の人間が自分の願いを聞き入れてくれるであろうことを知る、甘えた瞳だ。

「はァ? 何厚かましいこと言ってんだ」

 けれど辰史はそう言って、眉根を寄せただけだった。
 少女の甘えを冷たく突き放した――と言えば、何やら硬派な気がしないでもない。
 しかし、実のところは他人の甘えに応えてやるような習慣がなかったというのが正しい。
 辰史は他人からそのように強請られたことなどなかったし――唯一、兄だけが似たようなポーズと表情でもって「辰ちゃん、お願い!」と言ってみせることはあったが、勿論この場合はすぐさま蹴倒して「気持ちが悪い」と罵倒ばとうしていたのである。
 当然と言えば、当然の反応。
 けれどあんまりと言えばあんまりの、ない反応に、優香は肩透かしを食らったようだった。

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