蛟堂報復録

鈴木麻純

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2巻

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(我ながら一途なもんだ)

 遠距離恋愛じゃねえんだぞ、と呟きかけて苦い顔をしたのは、以前自分と比奈のやり取りをそうたとえて笑った知人の顔を思い出したからだった。
 辰史は思い出して顔を顰めたまま、胸元のポケットから煙草の箱を取り出す。一本、煙草を唇にくわえてからライターを部屋に置きっぱなしにしたことに気付き、頭をがりがりと掻きながら戸を潜れば比奈から預かった封筒が目に付いた。

「誰からだ?」

 持ってみると意外に重い。裏返しても差出人の名は書かれていなかった。胡散臭うさんくさく思いながら、靴を脱ぎ捨て口の間へと上がる。
 棚の上へと置かれたライターを手に取り、ようやく煙草に点火。すぅっと一服したところでどかりと畳の上へ腰を下ろすと、辰史は手にしていた封筒を躊躇ためらいなく開封した。
 荒っぽい手つきで破られて、中身が床へ零れる。写真だ。動物の――

「なんつー趣味の悪い……」

 それが何の写真であるかに気付いた瞬間に、辰史は煙草を唇から離して思い切り顔を顰めた。

「嫌がらせってレベルじゃねえだろ。こういうのはケーサツに持って行け。ケーサツに」

 尤も、警察に持って行ったところで彼らが何かをしてくれるとは思わないが。
 散らばる写真には、動物の姿が写されている。ただの、というか、普通の愛くるしい動物の写真であれば言うことはないのだが、その写真は異様であった。
 少し見ただけで吐き気を催して、辰史はそれ以上目を通さぬように視線をらしながら写真をかき集める。封筒の中には写真だけではなく何らかの書類も入っていたようではあるが、このような写真を送りつけてきた人間が相手だ。ろくなものではないだろうと一緒にまとめて裏返す。
 衝動的にゴミ箱へ捨てようとした辰史だったが、思い直してやめる。こんな目立つものを捨てておいたら、すぐに甥が見つけて騒ぐだろう。

「……裏で焼くか。まったく、面倒なことをさせやがって」

 毒づいて、一先ず太郎が開けそうにない手近な引き出しの中へ突っ込む。何かこの気分の不快さを紛らわすことのできるものはないか――辰史は部屋の中を見回して、蔵から出して来た荷がほどき途中であったことを思い出した。

「そうだ、これがあったっけな。太郎が帰ってくる前に飾っちまうか」

 立ち上がり、解けかかっていたひもをぐいと引っ張る。ほこりで薄汚れた布を剥がせば、中からは一枚の鏡が覗き、辰史の不機嫌に歪んだ顔を映した。


    ***


 すんすんと犬が鼻を鳴らす音が響く。
 稲荷運送の営業所では、十間あきらが仔犬にえさをやっていた。
 休憩中なのだろう。だらしなく顔を緩めて「たくさん食べろよ」などとやっていたつり目の青年は、応接室のドアを開けて入ってきた瑠璃也と太郎に気付いてバッと仔犬の額から手をどけた。

「何? 捨て犬拾ってきちゃったの? あきら君てば」
「な、何しに来たんですか、あんたらは! 冷やかしならお断りですよ!」

 細い眉がキッと吊り上がる。噛み付かんばかりの勢いで「遊んでるなって、俺が常盤ときわサンから怒られるんですから」と、歓迎をしてくれる気は一ミリたりともないらしい青年に太郎は首を左右に振った。

「冷やかしじゃないよ。鬼堂さんのお使いでね、預かってもらってる本を取りに来たんだ」
「あー、それならさっき常盤サンがそこのテーブルの上に……」

 あきらが指で指し示す先。テーブルの上を見れば一冊の本が置かれている。古びたハードカバーの本だ。太郎は仔犬とじゃれている瑠璃也を尻目に、ガラステーブルへと歩み寄った。灰がかった青の革表紙に、銀色の文字が冷たく躍る。英語ではないようだ。「これ、何か分かる?」とあきらを振り返ると、青年は首を傾げて「さあ。フランス語とかイタリア語とか、そんな感じなんじゃないっスか。雰囲気的に」と実に頼りにならないことを言った。

「ウチ基本アバウトですからねー。アバウトっつうか、あんま顧客の深いところまで立ち入らないっつうか。世の中には知らない方が良いことの方が多いって、よく烏羽からすばサンとかも言ってますし」
「……少しは把握しておいてもらいたいものだけどね」

 そうであれば、瑠璃也や自分が不可思議な事件に巻き込まれる確率もぐんと減るのだろう。ずれていない眼鏡のブリッジを指で押さえて太郎はぼやく。
 本には鈍い金色の、小さな鍵が取り付けられていた。まあ、開かないようになっているのであれば好奇心旺盛おうせいな親友が誤って巻き込まれることもあるまい。太郎は確認をして少しだけ肩の力を抜く。
 瑠璃也はそんな太郎を気にする風でもなく、相変わらず仔犬と遊んでいた。瑠璃也の伸ばした指先に、仔犬の丸っこい前脚がじゃれつく。

「おっ、やる気か? って、お前もう既に怪我してるのな。何これ、結構酷いっぽいし。あきら君に虐待ぎゃくたいされたの? それとも御霊にいじめられた?」

 小さい体へ余すところなく巻き付けられた包帯を見て、瑠璃也が顔を顰めた。よく見れば、脇腹などはまだうっすらと血が滲んでいる。抱き上げようとした彼は、どこへ触れるべきか悩んだのだろう。結局手を引っ込めて、振り返った。ようやく仔犬がこの場にいる理由を話す切っ掛けを得て、あきらが口を開く。

「今朝、来る時に途中で見つけたんスよ。ほら、太郎サンや瑠璃也サンち近くに住宅街があるでしょう。あの近くの集積場で」

 指先がくるりと宙に弧を描いた。青年の指先を見つめる瑠璃也の顔には、疑問が浮かんでいる。

「この怪我は? 他の野良に虐められたのかな」
「いや、ていうか多分捨て犬じゃねーっスよ。そいつ。首輪してましたし。酷く食い込んでたから、外しちゃいましたけど」
「どういうこと?」

 太郎は片眉を跳ね上げる。間怠まだるっこしい瑠璃也とあきらの会話に耐えかねて結論を急ぐように問えば、アッシュグレイに髪を染めた青年は普段吊り上がっているその眉尻を僅かに下げて太郎の顔を見返した。

火傷やけどしてたんです。あと無理矢理毛をカッターか何かで切り取られたみたいな痕とか。獣医さんは虐待じゃないかって言ってたんスけど……」
「あー……あの近く、ここ何年かわりとそういう事件あるみたいだからね」

 あきらの言葉を肯定するように、瑠璃也が頷く。

「そうなのか?」
「うん。時々地域新聞とかに載ってるよ。うちも猫飼ってるから、あまり外に出さないようにしてる。近所の猫もさ、エアガンたたき込まれたっぽくて飼い主さんが怒ってた」

 穏和な瞳が少しだけ憤怒を含んで、再び足元の仔犬へ向けられる。顔だけは無傷な仔犬は、人間達の会話などには興味ないとでもいった風に口唇こうしんから薄い桃色の舌を出しハッハッと細かい呼吸を繰り返していた。

「ところで、比奈さんの姿が見えないけど」

 どことなくぎこちなさを帯びた空気を破るように、瑠璃也は立ち上がって大仰な動作で部屋の中を見回した。
 そういえば、比奈の姿が見えない。
 いつもであれば応接室の所長用デスクに向かって仕事をしている比奈であるが、デスク周辺は綺麗きれいに片付けられており、そこに居た形跡はない。少し席を外しているというわけでもなさそうである。

「今日は休み?」

 問いながら壁に掛けられた予定表を見る――十間あきら、休憩。烏羽きょう、配送。源梅子みなもとうめこ、公休。石竹桃いしだけもも、集荷。岩井千歳いわいちとせ、公休。蘇芳長春すおうながはる、配送。常盤緑、事務。
 天月比奈、配送。

「え?」

 珍しい。太郎が呟くよりも先に、あきらの気落ちしたような声が「比奈さんは配達に出てるんですよ」と告げた。

「普段、急な時以外に比奈さんが出ることってほとんどないんですけど……今回はこいつがいるから」

 視線が床の上へと伏せっている仔犬へ向けられる。

「比奈さんって犬苦手だっけ?」
「苦手っていうか、御霊って一応狐じゃないですか? 犬とは相性悪いみたいで、比奈さんが近くにいるとこいつも吠えっぱなしだし、御霊もすぐに比奈さんの影から出てくるしで、とてもじゃないけど落ち着いて仕事できる状態じゃないから今日は副所長と交代するって。俺、そんなの全然知らなくて連れてきちゃって……。うちのマンションは多頭飼い禁止だから、こいつを連れて帰れないし。比奈さんは、自分が連れて帰るって言ってくれたんですけど――」

 御霊と仔犬の様子を思い出しているのかもしれない。あきらは肩を落としたまま、小さく頭を振った。紙皿を握る手が微かに震えて、餌が床に零れ落ちる。


「考え無しに連れてきちゃったことは反省してるんですよ。でも、だからって放り出すわけにもいかないじゃないっスか。それでどうしようかとずっと考えてて」
「ううん、うちで預かってあげたいのは山々だけど、猫がいるからな……。犬の方がいじめられちゃうかも。うちの猫、気ぃ強いし」

 瑠璃也も難しい顔をする。

「……うちで預かろうか?」

 項垂うなだれるあきらを見かねて――と、いうよりかは「どうにかならないの太郎ちゃん」という瑠璃也の視線に促されるようにして、太郎は申し出た。
 ペット飼育禁止の賃貸住宅に住んでいるわけでもない。何か他の生き物を飼っているわけでもない。動物が苦手というわけでもないし、特に断る理由もない。ただ一つ問題があるとすれば、叔父の反応だが、そんな理由だけでうちも無理だとあっさり返してしまうのは躊躇われた。何より、あきらと瑠璃也の希望を見るような瞳が痛かった。何も言わずに沈黙を続けることがまるで罪であるとでも言うような瞳だった。本人たちにその気はないのだろうが。

「うちで、預かるよ。その代わり、ちゃんと飼い主を見つけるところまで協力してくれよ」

 溜息を吐きながら、宣言。「僕も犬は嫌いじゃないしね」と流されてしまった自分に言い訳をするように呟いてあきらの足元に零れた餌をんでいる仔犬をそっと抱き上げれば、くりくりとした大きな黒目が太郎を見上げた。
 人懐っこい瞳だ。けれど、その瞳はどこか怯えを含んでいる。
 太郎は仔犬を安心させるように、喉のあたりをゆっくりと撫でる。もう一度、仔犬だけに向けて「大丈夫だよ」と声を和らげれば、仔犬はその湿った鼻先を太郎の手の甲へと押しつけ、くぅんと甘えるように鳴いたのだった。


 とはいえ、
 ――あの叔父は預かってきた仔犬を見たら何と言うだろうか。
 太郎は腕の中ですっかりくつろいでいる仔犬へと視線を落とした。桃色の小さな舌が腕をめる。くすぐったさに口元をほころばせながら人差し指で逆三角形をした額を撫でれば、仔犬はすんすんと鼻を鳴らした。
 辰史が動物嫌いであるという話を聞いたことはないが、勿論好きだという話を聞いたこともない。彼の所有する屍喰かばねくらい天穿あまうがち地抉じえぐり――それぞれからす針鼠はりねずみ、蛇の姿を模してはいるが、あれらは式神しきがみであって生き物ではない。

「多分、好きではないんだろうなぁ」

 仔犬を腕に抱き上げて頬ずりする辰史の姿を思い浮かべ、あまりの違和感に太郎は一人乾いた笑い声を零した。意図したわけでもないのに想像の中で仔犬を抱く叔父の顔は苦虫を百匹くらい噛み潰しでもしたかのようで、実に苦々しげである。

「三輪さんに、俺からも事情を説明しようか?」
「大丈夫だよ。というか、瑠璃也の説得に耳を貸してくれるような叔父さんだったら僕一人でも十分だろうし」
「まあ、そうだけどさ」

 友人を馬鹿にしたわけではない。叔父を説得することの難しさは、よく知っているつもりだった。

「それに、瑠璃也はその本を鬼堂さんに届けなくちゃいけないんだろ?」

 カンカンカン、と警告音に踏切の前で足を止める。上から黄色と黒とで彩られた遮断機がゆっくりと降りてくるのを仔犬は物珍しげに眺めている。


 渡部美耶は、ぼんやりと風景を眺め続けていた。真上にあった太陽も徐々に傾いて、青かった空は赤味を帯びていく。公園の遊具がほんのりと明るい色に染まる。世間話に花を咲かせていた主婦の姿はうに消えていた。
 砂場には幼子の忘れていった車の玩具が寂しく置き去りにされている。まだ、色のきついゴムボールを蹴って遊ぶ幾人かの少年の姿があったが、美耶はようやくその光景を見ていることに飽きたように、ゆっくりと立ち上がった。
 ぱん、ぱん、とジーンズを叩き埃を落とす。大分暖かさを失った空気に、一瞬だけ身震いをして公園の入り口へと足を向ける。背後でボールの転がる音がして、かかとにぶつかり止まったが、美耶は無視をして歩き出した。
 後ろからは非難の声。「なんだよ」「取ってくれたっていいじゃん」ぶつぶつと文句を言う子供の声などまるで耳に入っていないかのように、真っ直ぐ入り口へ向かう。
 U字型の車止めと車止めの間を通り抜けようとして前方から勢い良く駆けてくる足音に気付き、お世辞せじにも休日を満喫したとはいえない女は感情の一片も浮かんでいなかった顔――形良く描かれた眉を、ぴくりと跳ね上げた。
 苦い顔をした美耶が避けようと体をよじるより早く、突進してきた小さな影が膝辺りにぶつかって引っ繰り返る。美耶はその小さな影に見覚えがあった。尻餅をついた格好のまま何が起きたか分からずに目を白黒とさせているのは昼間砂場で車の玩具を遊ばせていた少年だった。
 幼子の瞳が美耶を見上げる。手を差し伸べられることを当然だとでも思っているような瞳だ。もしかしたら、ただ衝撃と驚きに我を失っているだけなのかもしれない。けれどその瞬間の美耶は、いつまでも地べたに座り込んだままの幼子の甘えに酷い不快感を覚えたのだ。
 自分でも訳が分からぬままに、美耶は少年の体を蹴飛ばしていた。小さな体が勢い良く後ろへ転がっていく。後頭部が車止めにぶつかり、鈍い音を立てた。

「ひっ」

 喉の奥から引きったような音を漏らして、少年はその紅葉もみじのような手で頭を押さえるとみるみる表情を歪めた。大きな瞳に涙が浮かび、溢れるのを待たずしてわっと大音量の泣き声が夕方の公園へと響く。
 火の点いたように泣き出した少年を前に、美耶はようやく我に返った。
 ――私は何をした?
 自問自答などしている暇はない。現状を把握するよりも、本能が逃げろと告げている。幸い、近くに大人の姿はない。背後の方でサッカーをしていた少年達に気取られる前に、逃げてしまわなければならない。
 そう思うが早いか、美耶は今度こそ車止めを越えて通りへと飛び出した。立ち止まっている暇などない。少しでも遠くへ行かなければ。公園から離れた場所へ。


 カンカンカン、と警告音が響く。行く手をはばむように降りた遮断機に、美耶は足を止めて小さく舌打ちをする。
 罪悪感よりも、誰かが追いかけてくるのではないかという恐怖が勝っていた。心臓が、早鐘を打つように脈打っている。背後に怯えながら進むことのできないその時間は、発狂してしまいたくなるほどに長く感じられた。
 完全に遮断機が踏切内を閉鎖し、警告ランプが点滅。まだ姿の見えぬ電車が一刻も早く通過し、遮断機が再び上がることを願いながら前方をにらみ付けていた美耶の耳がふと、仔犬の鳴き声を捉えた。
 普段であれば気に留めることもない、小さな声だ。しかし美耶は視線を彷徨さまよわせ、何故かその姿を探した。空中を泳いでいた視線が一点で止まる。

「……!」

 ――岡山、君。
 表情を凍り付かせたのは、今朝会話を交わしたばかりの大学生の姿を見つけてしまったことが原因ではない。美耶は青ざめた面持ちで、こちらには気付いていないようである大学生の腕に抱かれた仔犬を見つめた。
 岡山太郎の腕に抱かれた仔犬に治療の痕がある理由を、美耶は知っている。
 目をいたまま太郎と仔犬を凝視ぎょうししている美耶の頭の中からは、背後への恐怖など既に消失していた。隣の青年へと向けられていた太郎の眸が、仔犬の上へ落とされる。その表情の柔和にゅうわさが、美耶の胸をぎりぎりと締め付けた。
 ――私は、
 頭の中でぐるりと回る、光景。首輪で口吻こうふんを締められた仔犬。毛の焦げる臭い、傷口から覗く鮮やかな色をした肉。蹴飛ばした子供、見上げる怯えた瞳は仔犬の黒目と重なる。
 美耶は震える手で携帯を取り出す。画面に反射する自分の顔を、見てはいけないと思いつつ確認し――後悔。青ざめた顔は感情を宿してはいない。バッと顔を上げて再び眺めた太郎の表情とは対照的な己の顔に、美耶は酷く狼狽ろうばいした。
 ――私は、
 轟音と共に目の前を電車が通過する。電車が通り過ぎてしまう前に、美耶はきびすを返していた。
 逃げなければ。
 最初に自分が何から逃げていたのかも忘れて、美耶は再び逃げ出した。

(いつから私はこうなってしまったのだろう)

 昔からこうだったのか? 否だ。太郎のように友人と並んで笑い合ったこともあった、はずだ。けれど何故だろう。その記憶を探ろうとすればするほどに、触れてしまうのは決して他人に見せることのできない自身の負の記憶である。
 通りを駆け抜け、住宅街へ逃げ込む。赤々とした夕日がアスファルトに、マンションの壁に反射して世界を赤く染める。
 借りているアパートの部屋が見えた。美耶はようやく足を止める。重々しい焦げ茶色をしたあのドアの向こうこそが、美耶にとって唯一安全な場所であった。
 重い足を引きずって、階段を上る。ポストへ向ける意識などない。ドアの内側に滑り込むようにしてしゃがみ込む。靴も脱がずに膝へと顔を埋め、長い息を吐き出せば自然と涙が零れた。

「何をしているの、私は」

 慄然りつぜんとしたその声は無人の部屋に響くのみで、美耶の他に聞く者はいない。


    ***


「で、その犬は何だ?」

 案の定、傷ついた仔犬を連れ帰った甥を目にした瞬間、辰史はもとよりお世辞にも人がさそうであるとはいえないその表情を曇らせた。不可解そうに眉宇びうを顰めた顔は、決して辰史の不機嫌を表しているわけではないのだろう。が、鋭い双眸そうぼうに無遠慮に眺められた太郎は酷く居心地の悪い気分になる。

「実は最近、犬や猫への虐待事件が多いそうで」
「らしいな」

 まるで言い訳をしているようだと思いながら事の発端を口にすれば、世間の不穏なニュースは辰史の耳へも入っていたらしい。「それで?」と興味などなさそうに訊き返す叔父へ、太郎は更に続ける。

「怪我してるこいつを拾ったのは、元々あきら君だったんですけど」
「ああ」
「あきら君の家では一匹犬を飼っているそうで、多頭飼い禁止らしいんですよ」
「ふうん。だから?」
「比奈さんは」
「御霊がいるから、連れ帰れないんだろう? あいつの犬との相性の悪さといったら普通じゃないからな。前なんて出掛け先で運悪くふれあい動物園とかいう企画が催されていてな、勿論犬のふれあいコーナーもあったわけだが、比奈が傍を通りがかった瞬間犬という犬が騒ぎ出して酷いのなんのって。御霊も興奮しちまって、他のやつらが一斉に吠える犬に気を取られていなかったら大惨事になるところだった」
「叔父さんでも比奈さんと出掛けることなんてあるんですか?」

 先回りして饒舌じょうぜつに語ってみせた叔父を意外に思いながら問えば、辰史は「仕事だ。仕事」と素っ気なく言った。
 どんな仕事なのだろうか。やはり報復か? 想像ができず、太郎は首を傾げつつもそれ以上は追及せずに腕の中から身を乗り出していた仔犬を抱き直す。

(どうせまた叔父さんが無茶言ったんだろう)

 肩を竦め、胸の内のみでそう結論を吐き出すと「瑠璃也の家も猫を飼ってるじゃないですか。でも怪我した仔犬をまた外に放り出すわけにもいかないので、僕が預かってきたんです」会話の軌道を修正して、辰史の表情を窺った。

「……」

 辰史は珍しく迷っているようである。叔父が一言で「駄目だ」と切り捨てなかったことにいささか拍子抜けしながらも、太郎はその好機を見逃すことはしなかった。

「飼い主が見つかるまででいいんです。多分向こうも探しているでしょうし、あきら君や稲荷運送の人たちも探すのを手伝ってくれるって。勿論、叔父さんに面倒見てくれなんて言いませんから。散歩も食事も通院も、僕と瑠璃也で面倒見ますし」

 否の一言を挟む隙を与えぬよう、言葉を続ける。腕の中の仔犬が鼻面を擦り寄せる感触に、抱く手へと僅かに力を込めれば、辰史は頭をがりがりと掻きながら「わぁったよ」と観念するように言った。
 点火前の煙草を唇の端に咥え、盛大に顔を歪めてみせ、

「今日は機嫌が良いからな。折れてやる」

 と。説得力などまったくなかったが、そこに触れてこれ以上叔父の機嫌を損ねる真似をするほど太郎は無思慮でもなかったので、頷くに留める。

「何かあったんですか?」

 自称上機嫌である理由を問えば、辰史はくもらせていた表情を少しだけ和らげた。すっと立ち上がったところを見ると、金儲けの話が舞い込んできたというわけでもないらしい。
 辰史の足は部屋の隅で止まる。と、そこでようやく太郎もこの口の間に見覚えのない物が増えていることに気付く。今の今まで気付かなかったのは説得に必死だった為か、それとも「それ」が目立たぬ薄汚れた灰色の布を被っていた為か。
 辰史はにんまりと唇の端へ笑みを浮かべると躊躇うことなく布を剥がした。

「……どうしたんですか? それ」

 鏡だ。二メートルほどはあろうかという巨大な鏡だ。門をかたどり、右下には天秤てんびんと剣を手にした天使が彫刻された枠。鏡の表面は曇り一つ無く輝いて辰史の姿を映している。
 値打ち物の名品なのだろう、と、そう思わせる反面でどこか不吉さを感じさせる鏡に思わず嫌な顔をして問えば、辰史は鏡の表面を手で撫でながら「蔵にあった」と一言。

「ジーキル博士の鏡さ」
「ジーキル博士……って、誰です」
「善良な医師にして最も醜悪な化け物だ。『ジーキル博士とハイド氏』って、聞いたことがあるだろう」

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