蛟堂報復録

鈴木麻純

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1巻

1-2

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「じゃあ、また――」

 大学で。と、続けようとした太郎を、瑠璃也の声がさえぎった。

「あ! そういえば、三輪さんに鬼堂さんから伝言があるんだ」
「何?」

 顔だけで振り返る。

「うちの子をあまり悪事に使わないでくださいねって」
「……一応伝えておくよ」
(多分、顔を顰めるだけなんだろうなぁ)

 容易に反応が想像できる。
 頼りなく答えて、太郎は力無く入り口のドアを引いた。蝶番ちょうつがいがギィと鈍い音を立てる。店の外へ出て、ふと左隣へ視線を向ければ、辰史は外の長椅子に腰を下ろして、相変わらず煙草の煙を燻らせていた。


 案の定――辰史は幻影書房の店主からの伝言に、その形の良い眉を顰めただけだった。眉間みけんに皺を刻んだまま、不快、というよりどちらかと言えば不可解だといったような顔をして、呟く。

「悪事、とはまた人聞きが悪いねェ。立派な人助けだろうに」

 と、本人には自覚がないらしい。

(分かってはいたけどね)

 太郎はがっくりと肩を落とした。少しは自覚してくれた方が、世間の為ではある。

「叔父さんのは人助けじゃなくて金儲けでしょう」

 無駄だと知りつつも、一応指摘しておく。辰史は憤慨したように鼻を鳴らした。

「勤労精神旺盛おうせいだ、と言って欲しいもんだ。生活をするために、ゆとりとその生活自体を犠牲にするという矛盾をはらんだ労働意欲――日本人の鏡じゃねえか」
「ただの趣味のくせに」

 それも人助けではなく、金儲けが。
 じとりと睨む。けれど辰史は、悪びれた風もなく眸を細めただけだった。

「太郎ちゃんにもそのうち分かるさ。金の素晴らしさが。金より素晴らしいものなんてこの世には二つしか存在しないぞ」
「二つも存在するんですか!?」

 驚いて、太郎は思わず大声を上げた。何より金を愛する叔父に、金以上に賛美するものがあるとは意外だった。
 本家の祖父――辰史の父親が今の台詞せりふを聞いたら、卒倒してしまうだろう。実の息子から三流陰陽師と馬鹿にされ、その性格の悪さと金に対する異様なまでの執着心に手を焼いている彼だ。

「辰史と同じ空間にいるだけで、父様の寿命は一秒単位で縮んでいくのよ。太郎も気をつけなさいな」

 とは恐山おそれざんで市子をする叔母の言葉であったか。兄弟にすらそんな評価をされている辰史は、太郎の驚きように「失礼な」と心底心外そうに呟いた。

「いいか、太郎。これは御祖父おじいさまの言葉だ」

 あごをついと上げて、

「御祖父様っつっても、頑固オヤジのことじゃねえぞ。俺の祖父、みこと御祖父様のことだ」

 わざわざ言い直してみせるあたり、父親との仲は絶望的に悪いらしい。辰史は続ける。

「三輪家の男児として生まれたからには、将来的に備えなければならないものが三つある。一つは、金。何をするにも金は入り用だろう? RPGだって、金がなけりゃァ装備を揃えられない。ラスボスどころか雑魚ざこにも手間取るなんざ、スマートじゃねェ。外道と言われようが、圧倒的な力で完膚かんぷ無きまでに叩きのめしてこそ、男ってもんだ。そういうわけで、二つ目は力だ。金と力はしばしば同列に並べられることがあるが、これは間違いじゃない。むしろ金と力が必要だと言う人間に眉を顰めて下衆げすだと呟く人間こそ、人生のなんたるかを分かっていない偽善者かただの負け犬だ。人間と言うのは恐ろしくねたみ深い生き物だからな」

 奇妙なたとえはお世辞にも分かりやすいとは言い難かったが――

「もう一つは? 三つ、あるんでしょう?」

 何となく続きが気になって、太郎は訊ねてみた。訊ね返されたことが意外だったのだろうか。辰史は、ふっと口をつぐみ――きまりの悪そうな顔をした。

「……太郎にはまだ早ェよ。俺でさえ、知ったのは二十四の頃だ」

 仏頂面で呟いて、ぷいとそっぽを向く。

「はぁ」
「それまで、男を磨きなさい」

 珍しく叔父らしい言葉で締めくくりながら、彼は気怠げに立ち上がった。

「『道成寺』――買ってきたんだろう?」

 視線は、太郎の手元に注がれている。

「あ、はい」

 頷いて、太郎は本を差し出した。
 骨張った手が、血のように赤い装丁の本をさらっていく。無遠慮な手付きで本の状態を確かめた彼は、唇の端をニィッと歪めて――どうやら笑っているらしかった。実のところ、太郎はそんな叔父の表情が好きではない。細められた眸は、うつしよの人が知らない何かを知っている。自分には見えない何かを、見ている。
 目を見るだけで、相手を石に変えてしまう蛇……どこかの国にそんな伝説が伝わっていた気がするが、彼の瞳はその化け物を思わせた。冷たい黒曜こくようの瞳には、毒がしたたっている。
 辰史は赤い舌で自身の上唇うわくちびるめて湿らすと、ぞっとする程に澄んだ声で太郎の名を呼んだ。その手は、本の裏に貼り付けられていた札を躊躇うことなく破いている。太郎は思わず「あっ」と声を上げた。

「大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。……太郎ちゃんが、こいつに好かれるような後ろ暗いことをしていなければ、な」

 人の悪い笑みを浮かべ、本を再び太郎の手の中に戻す。

「末永さんちにお届け物だ。電話はしてあるから、稲荷いなり運送に持って行ってくれ」
「……僕が行くんですか?」
「どうせ買い物にも行くんだろう? ついでだ。ついで」
「叔父さんは?」
「俺は、しばらくは高みの見物」

 まったく、いい気なものだ。
 憎らしいほどにあっさりとそう告げた辰史に、太郎は胸中で毒づいた。しき屍喰かばねくらい――からすの姿をしているが、実際はただの紙切れにすぎない――が舞い降りて、太郎の肩へ止まる。体重を感じさせない式神しきがみは、その気味の悪い独眼で太郎の瞳を見下ろした。「カァ」本物の鴉を真似て鳴く声の、なんと人を馬鹿にしたことか。太郎は式神の目を睨み返して、苛立いらだったように低く呟いた。

退けよ」
「屍――」

 苦笑した辰史の声が式を呼ぶと、独眼の鴉はひらりと青空へ舞い上がった。叔父の手足となって動く便利な式神は、彼が自堕落である原因の一つともなっている。火をけて燃してしまいたい衝動をこらえて、太郎は代わりに重たい息を吐き出した。何度目の溜息になるかは、考えたくもない。

「若いうちから溜息ばっかいてると、禿げるぜ。太郎ちゃん」
「誰のせいですか! 誰の!」

 にやにやと笑う叔父を一度だけ睨みつける。そうしたところで、どれほどの効果もないと知らないわけではなかったが。

「……じゃあ、行ってきます。夕飯までには帰りますから」

 三度、溜息。原付なら、買い物の時間を含めて小一時間で足りるだろう。無意識に時間を計算している自分に気付いて、太郎はほおを引き攣らせた。まるで、家政婦だ。


「行ってらっしゃい」

 もう大分小さくなった太郎の後ろ姿を眺めながら、辰史は小さく苦笑した。少し、いじめすぎたかもしれない。甥の背中は、ねているようにも見える。

(別に、気に入らないってわけでもないんだが……)

 あの甥は、一族の中では随分とまともだった姉に良く似ている。真面目で、しっかりしていて、やはり一族の方針に良い顔をしなかった、賢い姉――そんな彼女によく似た甥を、辰史としては気に掛けているつもりなのだが。

「やれやれ。難しいもんだな」

 呟いて、肩をすぼめる。頭上では辰史に同意した屍喰が、カァと一声甲高かんだかく鳴いた。


   ***


 稲荷運送――
 その営業所は、太郎の通う大学のキャンパス寄りの駅近くにある。
 ビジネス街の狭い通路を縫うように原付を走らせた太郎は、一軒の黒いビルの前で止まった。その建物は、真新しい大きなビルとビルの間にひっそりと建っているせいか、目立たない。自動ドアの代わりに、重々しい焦げ茶色の扉が入り口を固く閉ざしている。関係者でもなければ、中を覗いてみようという気にはならないだろう。
 太郎は原付から降りると、建物の側面へ回った。ビルとビルの間――狭い空間には、銀色の螺旋らせん階段が無理やり取り付けられている。一段ごとに、足音が大きく響く。かつん、かつんと反響する自らの足音に眉を顰めながら、太郎は螺旋階段を上りきった。目の前には、銀色のドアが一枚。
 ガラスの部分には、シールが貼り付けられている。白と黒のきつねが一匹ずつ、太極たいきょくを描くように配置されたロゴマークだ。その下には赤色の文字で――稲荷運送、とある。
「すみません」と太郎が声をかける直前に、ドアはひとりでに内側へ開いた。まるで来訪を察知したようなタイミングだった。ドアを押そうとした恰好かっこうのまま、太郎は硬直する。けれどすぐに気を取り直したように中へ足を踏み入れたのは、この稲荷運送が扱う〝荷〟の性質を思い出したからだった。

比奈ひなさん、いますか? 蛟堂の太郎ですけど」

 ビルの外観からすると、意外と思われるほどに中は明るい。

「あ、太郎くん。いらっしゃい」

 白い廊下の奥、左手にあったドアから一人の女が顔を覗かせた。
 ――若い。つややかな黒髪が、肌の白さを際立たせている。涼やかな目元の清楚な美人だ。

「用件は辰史さんから電話で聞いてるから。こっちの部屋へどうぞ」

 女――天月あまつき比奈は、にこりと笑ってそう促した。
 辰史とは、仕事上それなりに親しくしているらしい。彼女はあの叔父のことを名前で呼ぶ、数少ない人物の一人でもある。歳は辰史より四つ下だと聞いているが、不相応に落ち着いた雰囲気があった。
 比奈が経営する、この運送会社――営業所は小さく従業員も少ないが、ある種の人々からはなくてはならない存在として重宝されている。

「他の方は?」
「回収と配達に行っているから、今はいないの」
「忙しい時に済みません」
「太郎君が謝ることはないでしょう? それに、辰史さんにはいつもお世話になっているから」

 とび色の瞳を和らげて微笑む。唇の隙間から零れる歯が、まぶしい。

「はは……」

 あの叔父の〝お世話〟ほどあてにならないものはないが。
 返す笑みを引き攣らせれば、比奈は不思議そうに首を傾げた。

「今お茶をれるから、座って。それともコーヒーの方がいい?」
「あ、いえ、そんな! 忙しいのに悪いですよ。用事が済んだら、すぐに帰りますから」
「遠慮しないで。依頼に来た以上、太郎君は大事なお客さんなんだから。それとも……私の淹れたお茶なんて、怖くて飲めない?」

 悪戯いたずらっぽく笑う比奈に、太郎は慌てて首を振る。

「そ、そんなことないです! あの、じゃあコーヒーでお願いします」
「コーヒーね。了解」

 答えた比奈の姿が、奥へ消えていく。甘い残り香に、ほんのりと甘酸っぱい気持ちになる。彼女のような人を、大人と言うのだろう。叔父とは大違いだ、と太郎は口の中で呟いた。それほど間を置かずに、比奈は再び姿を現した。手にはコーヒーカップが二つ。ガラステーブルの上にカップを置いた彼女は、太郎の正面――一人掛けソファへゆっくりと腰を下ろした。鼻腔びこうに香ばしい薫りが広がる。

「済みません。気をつかわせてしまって……」

 スーツスカートから覗く、きっちり揃えられた白い足から顔を背ける。彷徨さまよわせた視線をコピー機の上へ止めれば、そこには「バイト募集」のチラシが刷って置かれていた。従業員は、比奈を含めて八人だと言っていただろうか。営業所を大きくする気はないらしいが、人手不足は深刻なようだった。

「謝らないで。そんなにかしこまられてしまうと、私も緊張してしまうから」

 右手をコーヒーカップに添えながら、冗談めかして笑う。その薬指には、銀の指輪が光っている。将来を約束した相手がいるという話は聞いたことはないが、いない方が不自然ではある。彼女の相手だ。きっと、辰史とは比べものにならないぐらい出来た男なのだろう――と想像しながら、太郎は比奈の顔を眺める。
 比奈はカップをソーサーに置くと『道成寺』に手を伸ばした。丁寧な手付きで紙袋へ詰めて、重さを量る――

「これくらいなら、御霊みたまで大丈夫かな?」

 御霊。
 彼女が呟くと、太郎の足元に濃い影が生まれた。影はふっと跳ね上がって、形をとる。
 それは大きな狐に見えた。目の部分は濃い赤をしている。滴るような深紅しんくは、比奈を見上げてゆらゆらと揺れる。にわかには信じ難い光景だ。比奈は屈み込むと、狐の形をした影の前に荷を差し出した。もう片方の手で、逆三角形の額を優しく撫でる。
 御霊と名付けられたそれは、比奈の使役する黒狐だった。否、使役というのは少し違うかもしれない。御霊は、比奈に「いて」いる。詳しい事情は知らないが――辰史の話によれば、彼女は〝狐憑き〟と呼ばれる存在であるらしい。
 初めて御霊を見た時こそ驚いたものだが、何度も足を運ぶうちに慣れてしまった。いつもと同じように唐突に現れたその存在に驚くこともなく「御霊」と比奈と同じように名を呼べば、影はちらりと太郎を振り返った。尻尾を振って、ごろごろと喉を鳴らす。その仕草は、犬のようでも猫のようでもある。

「これ、お願いね」

 主人の頼みに、影はキィッと一声甲高く鳴いた。ぱっくりと開いた口が紙袋に包まれた荷を呑み込む。そうして、黒狐は再び足元の影へ飛び込んだ。一際ひときわ濃厚だった影の色が次第に薄くなり、最後は周囲に溶け込むようにして消える。まるで最初から何も存在しなかったかのように、その場には毛の一筋も残らない。
 黒狐を送り出した比奈が、太郎に向き直った。

「あの子のことだから心配はいらないと思うけど、帰ってくるまで待ってる?」
「いえ――」

 少し考えて、首を振る。
 比奈の言う通り、御霊に任せておけば心配はないだろう。稲荷運送に長居すると、辰史がうるさい。無論のこと、太郎を心配しているわけはなく、むしろ比奈に気兼ねをしているようだった。彼女の人の好さにつけ込んで、急な頼み事ばかりしている自覚があるのかもしれない。

「帰ります。夕飯の買い物もしないといけませんし」

 正直に言ってしまってから、太郎は少しだけ顔を顰めた。およそ男子大学生の言う台詞ではない。比奈も――どう答えて良いのか分からなかったのだろう。微笑みを同情に引き攣らせて、

「そっか。……太郎君も大変ね」

 素直な感想を零した。それから、比奈は何事かを思い出したように再び部屋の奥へと姿を消した。「ちょっと待ってて」と、奥から声だけが聞こえる。

「比奈さん?」
「これ、良かったら辰史さんと二人で食べて」

 すぐに戻って来た比奈の手には、白い紙袋がげられていた。稲荷運送のロゴが入った紙袋の中を覗けば、中には銀色の弁当箱が入っている。比奈の夕食ではないのだろうか? 視線を上げて問えば、

「ああ、大丈夫。十間とおま君の夕飯にと思ったんだけど……。十間君ってば〝また稲荷寿司ですか、比奈さん〟って嫌そうな顔をするから――あ、中身は五目稲荷なの。おそなえ物にね、ちょっと作りすぎちゃって」

 比奈はバイトから正社員になったばかりの青年の名を出して、苦笑してみせた。

「ありがとうございます、比奈さん」

 ――おそらくは、彼も本心からそんなことを言ったわけでもないのだろうが。
 それはそれ、で別の話だ。
 素直さというよりは主夫のしたたかさでそう思って、紙袋を受け取り、席を立った。


(さて、これで後はおかずの買い出しだけか。五目稲荷には何が合うかな)

 陽は既に傾き始めている。空を見上げれば、黒い影が見えた。屍喰だ。太郎が出てくるのを待っていたのだろう。独眼の鴉は空から舞い降りると、太郎の肩へ止まった。蛟堂を出た時より、気分も幾分か落ち着いている。今度はその存在に腹を立てることもなく、太郎は肩に止まった屍喰へ視線を向け、訊ねた。

「お前は何が合うと思う? 屍」

 式は、独眼を細めると魚屋を見つめて一声鳴いた。太郎は軽く頷く。

「そうだね。煮付けが無難でいいか」


   ***


 末永崇之は駅からそう遠くはないボロアパートに住んでいた。
 隣には大きなマンションが建っている。閑静で住みやすいイメージが定着してきたせいか、近頃ではこの町にも人が増えた。今年の年末には、崇之の住むアパートも打ち壊されることになっている。人が入ることを見越して、新しいマンションに建て替える予定らしい。大家から伝えられた話の内容を思い出しながら、ところどころペンキの剥げた階段を上る。
 外見に反して、住み心地は悪くはなかった――
 と言っても二年ほど前に越してきたばかりであったから、愛着があったわけではないが。

(それに、そろそろ潮時だしな)

 肩を竦める。そもそもこんなボロアパートに住まなくとも、高級マンションに――その気になれば一戸建てを持てる程度には、ふところに余裕はある。にもかかわらず、こういったボロアパートばかりを選ぶのは〝仕事〟が済んだらすみやかに引き払うことを前提としているからだった。

(今度は、どこへ行こうか)

 関西か、東海か――
 関東には、しばらく帰れそうにない。と、崇之は小さく呟いた。
 こちらの人間は、他人への興味が恐ろしく薄い。隣人の不幸でさえ、どこか遠いものとして見ている。人と人とのつながりが希薄で、それは崇之の仕事を容易にしていたのだが、そのために引き際を見失ってしまったのもまた事実だった。随分と稼がせてもらったが、近頃では身辺に興信所の人間の影を感じないこともない。

「ま、探ったところで何も分かりはしないだろうが……」

 唇を歪めて、呟く。
 崇之はもう何年も前から今のような生き方をしている。結婚詐欺のことだ。
 女をだますのは、実に容易たやすい。優しく誠実で、ほんの少し強引であれば良い。そこに愛さえ介在させなければ――仕事であると割り切るのならば、理想の男を演じることは不可能ではなかった。

(あの女も馬鹿だった)

 手の中できらり、と光る指輪に視線を落として、崇之はくすりと笑った。
 黒髪を、腰まで伸ばした可憐かれんな女だった。灰がかった色素の薄い瞳を優しく和らげて控え目に笑う女だった。

「ねえ、祐一ゆういちさん」

 左手の薬指にはめられた、銀の環。緩やかな曲線、その中心に鎮座する三連のダイヤが淡く白い光を放っていた。ぼんやりと、それを眺めながら男は問い返したのだ。「どうした? 佐紀さき」と。松川まつかわ祐一。それが、彼女にとっての自分の名だった。記憶の中、光が空中でを描く。白い華奢きゃしゃな手が、崇之の手をとった。指を絡めて、女がはにかむ。

「私ね、」

 ――すごく、幸せよ。

「俺も幸せだったぜ。お前の頭の中が幸せでよォ」

 嘲笑交じりに呟いて、崇之はするりと誓いの証を抜き取った。人差指と親指で摘まむ。陽に透かすように空に掲げて見れば、揃いだったリングはあの日と同じようにきらりと淡い光を放っている。
 ――売ったら、幾らになるだろうか。
 口元を緩めながら、崇之はスーツの胸ポケットにリングをしまった。

「さァて。もう一仕事する前に一服入れるとするかな」

 今ももう、一人の女に目星をつけている。前の女ほどの儲けになるとは思えないが、引っ越し代くらいは稼げるだろう。それで、この町ともお別れだ。頭の中で今後の予定を組み立てていた崇之は、部屋の前で足を止めた。 
 びょうっ
 突風が視界をふさぐ。耳元で、微かな獣のうなりが聞こえた気がした。崇之は思わず目をつむったが、何が起こったというわけでもなかった。恐る恐る目を開ければ、目の前には先からと同じ光景が広がっている。外に積まれていた古紙は、紙紐で緩くくくられたのみで、少しでも風が吹けば乱れて飛んでいってしまいそうではあった。実際、風が吹くたびに飛ばされているのだろう。通路の端には、雨に濡れたチラシが張り付いていた。
 ――にもかかわらず、あの突風の後に、雑に積み上げられた古紙の一枚もめくれていないとはどういうことか。
 不思議に思いながらもドアへ視線を戻した崇之は、おやと首を傾げた。
 ポストに包みが押し込まれている。

「誰からだ?」

 ほんのりと、眉を顰める。DMやチラシではない。宅配物というだけで、崇之にしてみれば異常事態だった。知人からの贈り物――ではない。ありえない。アパートの住所はこれまで付き合ってきたどの女にも教えていなかった。新聞を取ったこともない。こんなことは、この二年間で一度も起こったことがなかった。
 崇之は、ポストから覗くその紙包みを引っ張った。ずしり、と見た目よりも重い。
 消印は無い。代わりに、紙袋には白と黒の狐が太極をかたどったような印が押されている。宛名には〝末永崇之様〟と崇之の名が、流麗な文字で記されていた。差出人の名は――

「蛟堂?」

 人の名字、ということはないだろう。だとすれば、店の名か。気味悪く思いながら、袋を破る。中身を取り出すと、血のように赤い装丁をしたハードカバーの本が一冊。金で「道成寺」という文字がされていた。

「『道成寺』ぃ?」

 ――最近の寺は、凝った宣伝をするもんだな。
 安堵を誤魔化すように鼻で笑って、積まれた古紙の上に本を投げ捨てる。

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