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幸せのひとかけら
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二月十四日――
真田律華は大いに悩んでいた。
聖バレンタインデー。ローマ皇帝の迫害下で愛を守って殉職した聖ヴァレンティヌスにちなんで、世界各地で〈愛の誓いの日〉とされている日。世間では主に女性が意中の男性にチョコレート菓子を贈ることが一般になっている、この日。
八津坂署内でも、そうした動きはあった。
「あっ、真田さん」
声をかけてきたのは紙袋のお化け――もとい、刑事課の鷺沼征士郎である。彼は八津坂署のアイドルと本人が自称するとおりの爽やかな好青年で、署内外の女性から評判がいい。紙袋の中身も、日頃助けている市民や同僚からもらったものだろう。
「ああ、鷺沼。それ、全部プレゼントか?」
「まあね」
「すごいな……」
しげしげと眺める。色とりどりの包みをはち切れんばかりに詰め込まれて、紙袋は今にも破けそうだ。鷺沼もそのことを気にしているのか、落ち着かない様子である。
そんな危うげなところへ荷物を追加してしまうのは申し訳ないなと思いつつ。
「まあ、ついでだ。これはわたしから」
律華は手提げの中から薄い包みを一つ取りだして、紙袋の隙間に押し込んだ。鷺沼は目を丸くしている。
「真田さんも用意してくれてたんだ?」
「日頃、世話になっているからな」
「真田さんが……わあ、俺みんなに自慢しちゃお。あの真田さんが俺に義理チョコをくれたぞって」
おそらくいい意味での自慢ではないだろう。同僚たちにしてみれば、噛み付いてばかりの猛獣にほんの少し懐かれただとか、そういった意味での物珍しさに違いない――が、屈託のない美青年の笑顔に、律華は怒りを呑み込んで苦笑いで返した。
「お手柔らかに頼む」
「もちろん。ああ、そうだ。さっき交通課の女の子から八津丸の新しいグッズをもらったんだ。今度、八津坂小での交通指導で児童に配るんだって。真田さんにも一つあげるよ」
そんなことを言いながら、彼は器用に片手でスーツのポケットを探ると小さな妖犬のマスコットを取り出した。
「はい」
と悪気なく渡されて、つい受け取ってしまう。八津坂署のマスコットキャラクター、八津丸である。モチーフは警察犬らしいという話だが、獰猛な犬をそのまま化け物へ昇華させたような、そんなデザインだ。
「デザインを考えた人のセンスもすごいけど、それを選んじゃううちの署もすごいよねえ。しかも、毎回グッズのクオリティも半端ないっていうか。小学生、泣いちゃわないかなって思うんだけど」
「まあ、八津丸を採用してから八津坂市内では未成年の犯罪率が低下しているという話だが……」
言いながら、律華は手の中の化け犬と見つめ合った。さすがにこれと似ていると言われるのは遺憾だな、と考えていると、鷺沼が不意に声をかけてきた。
「――で、九雀さんには」
その単語に、ぴくりと顔を上げる。
目が合うと、同僚はにっこり笑った。
「あげたの? もう」
「い、いや……」
律華は口ごもった。
「まだ」
「用意はしてるんでしょ?」
「それはまあ……」
「まあ?」
「お、お前には関係ない。失礼する!」
首を傾げている同僚から逃げるようにして、廊下を引き返す。我ながら感じの悪い言い方をしてしまったと思わないわけではなかったが、他にどう答えればいいのか分からなかったのだ。
真田律華は大いに悩んでいた。
生まれてこの方、大切な人にバレンタインの贈り物をしたことはない。大学生時代に一つ年上の男と交際していたことはあったが、
「律華ちゃんの方が女の子にモテるから、なんか虚しい」
と、バレンタイン拒否なるものをされてしまった(女子大だったので同性から贈り物をもらうことが多かったのだ)
今となっては相手の口にチョコレートを押し込んででも練習しておくべきだった、と律華は思う。
手提げの中には、九雀蔵之介に宛てたチョコレートの包みも入っている。本命といえば本命になるのだろうか。
(浮ついた感情は一切ないと断言できるが……)
鷺沼を相手にするような気安い感情でもないだけに、難しいところだ。
(大恩チョコとか敬愛チョコとか、そういった名目のものが何故ないのか。世話になった相手への贈り物を一律で義理チョコとカテゴライズしてしまうのは九雀先輩に失礼だが、しかし本命というのも重すぎる気がする……)
大恩や敬愛も十分重いとは気づかない律華である。
考え事をしながら歩いていると、足は自然と捜査室へ向かっていた。ドアには異能対策課というプレートがかかっている。呪症事件に対応するため作られた、律華と九雀の二人部署だ。元は資料室だったものを改装したため手狭で風の通りも悪いが、他の同僚たちの目を気にしなくていいその環境が律華は好きである。
ドアを開けると、中では九雀がデスクでぼんやりとしていた。休憩中のようだ。彼は律華に気づくと、唇の端をつり上げて、ニィッと笑ってみせた。
「よお、後輩ちゃん。おかえり」
「は、はい! ただいま帰りました!」
敬礼も、いつもよりやや大仰になってしまった。
「どうした、真田」
「い、いえ」
訝る九雀に、慌ててかぶりを振る。
彼は不思議そうな顔をしていたが、ややあって思い出したように告げてきた。
「そういえば、今日はバレンタインデーだな」
「は、はひっ?」
いきなり核心を突かれ、声が裏返ってしまう。その反応でなにかを察したのか、彼は低く喉を震わせて手招きしてみせた。後輩ちゃん――と、呼ぶ声に背筋が伸びる。
「ちょっと、こっち来てみろ」
「はっ、はい!」
「なにもしやしねえよ」
別に、そういったことを心配したわけでもないのだが。手提げの紐を固く握りしめたまま傍にいくと、九雀は人差し指で折る仕草で顔を寄せろと促した。他意はないのだろう、彼には人との距離に無頓着なところがある。
緊張気味に顔を寄せる。
と――
「ほれ、あーん」
彼が軽く唇を指さして、言った。
「アーン?」
鸚鵡返しに訊き返したつもりだったが、意図が分からなかったために、彼が言ったよりいくらか不穏な響きになる。
九雀は少しだけ頬を引き攣らせて、言い直した。
「口を開けろってことだよ。察してくれ」
「あ、すみません」
口を開く。
舌先になにかが触れた。甘い香りが鼻腔をつく。チョコレートだ。驚いた拍子に口から零してしまいそうになって、律華は慌てて唇を閉じた。上からさらに両手でおさえて、九雀を見つめる。彼はデスクの洒落た箱からチョコレートを一粒摘むと、口の中に放り込んだ。
小さなかけらをあっというまに呑み込んで、少し笑う。
「結構、美味いだろ」
律華は首を縦に振る仕草で頷いた。口の中には、まだチョコレートが入っていたのだ。九雀からもらったものを、すぐに呑み込んでしまうのは勿体ないように思えた。
舌の上でみるみる溶けていく甘い小さなひとかけらを、大切に、大切に舐めながら。頭の芯まで痺れるような甘さに、自然と頬が緩む。
きっと最初にチョコレートを食べた人はこんなふうに幸せな気持ちだったに違いない、と律華は思った。甘くなった唾液を飲み下したタイミングで、九雀がまた一粒。かけらを摘み、唇に押し付けた。
「後輩ちゃん、美味そうに食べるんだもんなー」
チョコレートを――というよりは、彼の優しさを、だが――食べ惜しんでしまったことは、ばれているのかもしれない。律華は急に恥ずかしくなってしまって、九雀に向けていた視線を少しだけ下げた。
「自分用に買ったんだが、もう一個だけやるよ」
彼の、優しさを含んだ落ち着いた声色が律華は好きだ。父のものとも違う。母のものとも違う。祖父のものとも違う。他の誰とも違う。そんなふうに慈しみ深く見守ってくれるのは、彼だけなのだ。
呆れられているわけではなさそうだと感じて、視線を戻す。目が合った。いつでも含みがあるように見える目元を、九雀はふっと細めてみせた。こちらにチョコレートを押し付けたのとは逆の手で、唇を指している。
ああ、またぼんやりとしてしまった。
気付いて、律華は薄く口を開いた。唇のすき間から滑り込んだ塊は、熱で溶けてしまってすっかり柔らかい。それでも時間をかけてチョコレートを舐める律華の唇を、九雀の人差し指がそっと拭っていった。
END.
真田律華は大いに悩んでいた。
聖バレンタインデー。ローマ皇帝の迫害下で愛を守って殉職した聖ヴァレンティヌスにちなんで、世界各地で〈愛の誓いの日〉とされている日。世間では主に女性が意中の男性にチョコレート菓子を贈ることが一般になっている、この日。
八津坂署内でも、そうした動きはあった。
「あっ、真田さん」
声をかけてきたのは紙袋のお化け――もとい、刑事課の鷺沼征士郎である。彼は八津坂署のアイドルと本人が自称するとおりの爽やかな好青年で、署内外の女性から評判がいい。紙袋の中身も、日頃助けている市民や同僚からもらったものだろう。
「ああ、鷺沼。それ、全部プレゼントか?」
「まあね」
「すごいな……」
しげしげと眺める。色とりどりの包みをはち切れんばかりに詰め込まれて、紙袋は今にも破けそうだ。鷺沼もそのことを気にしているのか、落ち着かない様子である。
そんな危うげなところへ荷物を追加してしまうのは申し訳ないなと思いつつ。
「まあ、ついでだ。これはわたしから」
律華は手提げの中から薄い包みを一つ取りだして、紙袋の隙間に押し込んだ。鷺沼は目を丸くしている。
「真田さんも用意してくれてたんだ?」
「日頃、世話になっているからな」
「真田さんが……わあ、俺みんなに自慢しちゃお。あの真田さんが俺に義理チョコをくれたぞって」
おそらくいい意味での自慢ではないだろう。同僚たちにしてみれば、噛み付いてばかりの猛獣にほんの少し懐かれただとか、そういった意味での物珍しさに違いない――が、屈託のない美青年の笑顔に、律華は怒りを呑み込んで苦笑いで返した。
「お手柔らかに頼む」
「もちろん。ああ、そうだ。さっき交通課の女の子から八津丸の新しいグッズをもらったんだ。今度、八津坂小での交通指導で児童に配るんだって。真田さんにも一つあげるよ」
そんなことを言いながら、彼は器用に片手でスーツのポケットを探ると小さな妖犬のマスコットを取り出した。
「はい」
と悪気なく渡されて、つい受け取ってしまう。八津坂署のマスコットキャラクター、八津丸である。モチーフは警察犬らしいという話だが、獰猛な犬をそのまま化け物へ昇華させたような、そんなデザインだ。
「デザインを考えた人のセンスもすごいけど、それを選んじゃううちの署もすごいよねえ。しかも、毎回グッズのクオリティも半端ないっていうか。小学生、泣いちゃわないかなって思うんだけど」
「まあ、八津丸を採用してから八津坂市内では未成年の犯罪率が低下しているという話だが……」
言いながら、律華は手の中の化け犬と見つめ合った。さすがにこれと似ていると言われるのは遺憾だな、と考えていると、鷺沼が不意に声をかけてきた。
「――で、九雀さんには」
その単語に、ぴくりと顔を上げる。
目が合うと、同僚はにっこり笑った。
「あげたの? もう」
「い、いや……」
律華は口ごもった。
「まだ」
「用意はしてるんでしょ?」
「それはまあ……」
「まあ?」
「お、お前には関係ない。失礼する!」
首を傾げている同僚から逃げるようにして、廊下を引き返す。我ながら感じの悪い言い方をしてしまったと思わないわけではなかったが、他にどう答えればいいのか分からなかったのだ。
真田律華は大いに悩んでいた。
生まれてこの方、大切な人にバレンタインの贈り物をしたことはない。大学生時代に一つ年上の男と交際していたことはあったが、
「律華ちゃんの方が女の子にモテるから、なんか虚しい」
と、バレンタイン拒否なるものをされてしまった(女子大だったので同性から贈り物をもらうことが多かったのだ)
今となっては相手の口にチョコレートを押し込んででも練習しておくべきだった、と律華は思う。
手提げの中には、九雀蔵之介に宛てたチョコレートの包みも入っている。本命といえば本命になるのだろうか。
(浮ついた感情は一切ないと断言できるが……)
鷺沼を相手にするような気安い感情でもないだけに、難しいところだ。
(大恩チョコとか敬愛チョコとか、そういった名目のものが何故ないのか。世話になった相手への贈り物を一律で義理チョコとカテゴライズしてしまうのは九雀先輩に失礼だが、しかし本命というのも重すぎる気がする……)
大恩や敬愛も十分重いとは気づかない律華である。
考え事をしながら歩いていると、足は自然と捜査室へ向かっていた。ドアには異能対策課というプレートがかかっている。呪症事件に対応するため作られた、律華と九雀の二人部署だ。元は資料室だったものを改装したため手狭で風の通りも悪いが、他の同僚たちの目を気にしなくていいその環境が律華は好きである。
ドアを開けると、中では九雀がデスクでぼんやりとしていた。休憩中のようだ。彼は律華に気づくと、唇の端をつり上げて、ニィッと笑ってみせた。
「よお、後輩ちゃん。おかえり」
「は、はい! ただいま帰りました!」
敬礼も、いつもよりやや大仰になってしまった。
「どうした、真田」
「い、いえ」
訝る九雀に、慌ててかぶりを振る。
彼は不思議そうな顔をしていたが、ややあって思い出したように告げてきた。
「そういえば、今日はバレンタインデーだな」
「は、はひっ?」
いきなり核心を突かれ、声が裏返ってしまう。その反応でなにかを察したのか、彼は低く喉を震わせて手招きしてみせた。後輩ちゃん――と、呼ぶ声に背筋が伸びる。
「ちょっと、こっち来てみろ」
「はっ、はい!」
「なにもしやしねえよ」
別に、そういったことを心配したわけでもないのだが。手提げの紐を固く握りしめたまま傍にいくと、九雀は人差し指で折る仕草で顔を寄せろと促した。他意はないのだろう、彼には人との距離に無頓着なところがある。
緊張気味に顔を寄せる。
と――
「ほれ、あーん」
彼が軽く唇を指さして、言った。
「アーン?」
鸚鵡返しに訊き返したつもりだったが、意図が分からなかったために、彼が言ったよりいくらか不穏な響きになる。
九雀は少しだけ頬を引き攣らせて、言い直した。
「口を開けろってことだよ。察してくれ」
「あ、すみません」
口を開く。
舌先になにかが触れた。甘い香りが鼻腔をつく。チョコレートだ。驚いた拍子に口から零してしまいそうになって、律華は慌てて唇を閉じた。上からさらに両手でおさえて、九雀を見つめる。彼はデスクの洒落た箱からチョコレートを一粒摘むと、口の中に放り込んだ。
小さなかけらをあっというまに呑み込んで、少し笑う。
「結構、美味いだろ」
律華は首を縦に振る仕草で頷いた。口の中には、まだチョコレートが入っていたのだ。九雀からもらったものを、すぐに呑み込んでしまうのは勿体ないように思えた。
舌の上でみるみる溶けていく甘い小さなひとかけらを、大切に、大切に舐めながら。頭の芯まで痺れるような甘さに、自然と頬が緩む。
きっと最初にチョコレートを食べた人はこんなふうに幸せな気持ちだったに違いない、と律華は思った。甘くなった唾液を飲み下したタイミングで、九雀がまた一粒。かけらを摘み、唇に押し付けた。
「後輩ちゃん、美味そうに食べるんだもんなー」
チョコレートを――というよりは、彼の優しさを、だが――食べ惜しんでしまったことは、ばれているのかもしれない。律華は急に恥ずかしくなってしまって、九雀に向けていた視線を少しだけ下げた。
「自分用に買ったんだが、もう一個だけやるよ」
彼の、優しさを含んだ落ち着いた声色が律華は好きだ。父のものとも違う。母のものとも違う。祖父のものとも違う。他の誰とも違う。そんなふうに慈しみ深く見守ってくれるのは、彼だけなのだ。
呆れられているわけではなさそうだと感じて、視線を戻す。目が合った。いつでも含みがあるように見える目元を、九雀はふっと細めてみせた。こちらにチョコレートを押し付けたのとは逆の手で、唇を指している。
ああ、またぼんやりとしてしまった。
気付いて、律華は薄く口を開いた。唇のすき間から滑り込んだ塊は、熱で溶けてしまってすっかり柔らかい。それでも時間をかけてチョコレートを舐める律華の唇を、九雀の人差し指がそっと拭っていった。
END.
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