蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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虚妄と幸福

7.続・元凶たる彼らの話

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 彼は、およそ完璧な男だった。
 見た目はいつでも気に掛けていたし、やや話が長いきらいはあったものの他人を惹き付けるすべを心得た人だった。実を言えば本人は人の多い場所を好まないが亡き恩人を真似て常に多趣味であるよう心がけており、交友関係も広く持つようにしていた。好きでも嫌いでもないものが多い中で唯一彼が趣味と呼んでいるのはマリンスポーツで、そのために日頃から体を綺麗に絞っているのだった。いつでも悪戯っぽい笑みを浮かべているのは、自分の顔が酷く冷たく見えることを自覚していたためで、かつての同僚や付き合った女たちからは顔よりもむしろ声の方が評判はよかった。どこか官能的な低音で、間の置き方には独特の癖がある。早いうちから様々なバイトをしてきたために器用で、大抵のことは苦労もなくこなしてしまう。けれども人との縁が薄く、ゆえに死者を憎み生者に焦がれ続けている――それが、藤波透吾である。


 いや。あった、というべきか。

 透吾の知り合いに、高坂和泉という青年がいる。彼のことを〈友人〉という枠で語っていいものか、透吾はいつも躊躇ってしまう。知人というほど縁の浅い人ではないが、彼との関係を友人だとか親友だとか呼ぶようになった瞬間、また縁が手から離れていくような気もする。今度こそはと信じるほど、無邪気にはなれない。なにせ、大切な人の半分は死んだ。もう半分も死者を愛するあまり透吾を省みなくなった。
 それでも、彼ら――和泉や、国香彩乃、そして万里や美千留との縁を見失ってしまわないために透吾は選んだのだった。遺品整理代行サービス。血迷ったものだと、透吾は思う。自分はおろか、その誘いに乗ってくれた和泉も含め。
 不定休の上、経営は赤字を出していないことが不思議なほどだが新しい日々は充実している。和泉と別れ毎晩自分の部屋で心地よい疲労感に包まれながら、けれど透吾は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。この楽しさには覚えがある。まだ唐草千里が生きていた頃。カラクサ葬祭が街の小さな葬儀会社に過ぎなかった頃。



 必要最低限のものだけを置いた、シンプルな部屋に一人。
 透吾はソファに身を沈め、ぼんやりと物思いに耽っていた。大切な人との死別を何度経験したか、覚えてはいない。死んだ人間の顔も名前も忘れるようにしてきた。姉の顔と名前さえ、もう出てこない。
(高坂くんも、妙なところで鈍いよな)
 手首に巻いた腕時計を眺め、胸のうちで独りごちる。友人の気遣いを喜んでいないわけではないが、不吉なものを感じてしまったというのも事実だった。

「クリスマスプレゼントか」

 長く残りそうなものを受け取ったのは、初めてかもしれない。子供の頃に両親や伯母からもらった玩具の類は残すようなものでもないし、学生時代の友人たちと祝ったクリスマスでもらったものも小遣いの範囲で買えるようなものばかりだった。物を遺すという行為を恐れるようになってからは、消耗品しか受け取らないようにしていた。千里と過ごしたクリスマスでもそれだけは譲らなかった。

「せめて鞄くらいなら使い潰してしまえばいいんだろうけど……」

 もう一度、ちらっと文字盤に視線を落とす。美術品に造詣の深くない透吾にも、それが工場で大量に作られた工業品の類ではないことくらい分かった。こういった高そうなものを「自分には似合わないから」という理由で気軽に寄こしてくるあたりが、生粋のお坊ちゃんだ。まあそんなお坊ちゃんでもなければ、見切り発車の無謀な起業に付き合ってくれることもなかったのだろうが。

「こんなものをもらってしまって」

 ――和泉が死ねば、それは立派な遺品になってしまう。
 そんなことを考えてしまって、身震いする。部屋の中は十分に空調が効いているはずだが、二度、三度ほどは温度が下がったような気がした。
 もし次があったとき、自分は彼らのことを忘れられるだろうか。考えて、透吾は小さく溜息を零した。自信はない。ずっと我侭を聞いてくれていた美千留の庇護下を離れ、もう守ってくれる人もいない。

(よくないな。そういう考え方を改めたかったんじゃないのか、俺は……)
 呟きつつも、考えずにはいられないのだ。
(我ながら陰気で嫌になる)
 思考の合間に、時を刻む秒針の音が響いている。
(忘れたと言いながら、いつまでも引きずって)

 チク、タク、チク、タク。

(こんなふうにプレゼントをもらっても、素直に喜べない)

 チク、タク、チク、タク。

(まるで死ぬことを想定しているようで、高坂くんに対しても失礼だ)

 チク、タク、チク、タク。

(もしも神様ってやつがいるのなら)
 文字盤の夜空を見つめながら、その瞬間に透吾は願った。
(誰かが……)
 或いは人智を越えたなにかが。
(この忌々しい記憶を消し去ってくれたなら)
 自分ではもうどうにもできないこの感情を忘れさせてくれたのなら。
(俺はもっと、幸せに生きられるんだろう。なんて)
 叶うはずもないが、思うだけなら自由だよなと溜息交じりに呟いて。透吾は不意に、時計の音が止んでいることに気付いた。怪訝に思いながら文字盤を見る。三つの針はぴったり零時のところで重なっていた。そこから動く気配はない。
 どうやら、止まってしまったらしい。

「電池切れ……いや、アンティーク時計のようだから手巻き式かな」

 透吾は竜頭を巻いてみた。ジジッ、ジジッと歯車の回る音がし、時は再び動きはじめた。友人からのプレゼントが壊れていなかったことに心から安堵したとき、もう透吾はすっかりいつもの彼ではなくなっていた。

 チク、タク、チク、タク。

 彼が星に願ったとおり、時計は新たな時を刻む。

 たとえば美貌の青年が自分の肖像に色褪せることのない青春を切望したように。
 たとえば哀れな彫刻家が天使の像に消えることのない無念を刻んだように。
 たとえば病身の芸術家がガラスのカメレオンに妨げられることのない自由を託したように。
 友人の裏切りに悩んだ時計職人は、仮初めの夜空にすべてを忘れると誓った。忘れさせてくれと願った。そこに秘められた想いを、腕時計はずっと覚えていたのだ。


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