蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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出口のない教室

15.

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 ***

 ここはどこだ。

 真田律華は困惑していた。自分が何者かも分からないまま長いこと暗闇を漂っていた。その記憶はある。そこは寒さも暑さもない。空腹もない。肉体という器を失ったものが辿り着く〈果て〉だった。あのまま自分という存在を思い出せずにいたら、今頃は本当に何者でもなくなっていたのだろう。思い出して身震いしながら、両手に視線を落とす。
 今はあたりの風景もはっきりして、一応目に見える体らしきものはあった。寒さ暑さや空腹については、まああの暗闇と似たようなものだが。
「小学校……?」
 小さな子供たちが数人、笑いながら廊下を駆けてくる。声をかけようとしたら、彼らの体はするりと律華を通り抜け、消えた。一人残され途方に暮れ佇む。
「どういうことなんだ、これは」
 なにが起きたのかさっぱり分からない。
 確かに、いつもと同じ夜だった。少し気になることがあったので手帳を見返し、しかしアポイントを取ろうにも夜更けだったため翌日に回そうと考えてベッドに入った。いつもより就寝時間が遅すぎたということも、早すぎたということもなかった、はずだ。
 ところがそれは唐突に、夢の中に現れた。彼女、あるいは――彼か――は、あの暗闇にも似た黒いフードをまとった姿でそこにいた。ふわふわと中空に浮いていた。
 そうして抑揚のない、少し高めの声で一言。
 ――ねえ、一緒に来てよ。
 その言葉に明確な返事をした覚えはない。ただ、くるりと踵を返そうとしたそれの背中に手を伸ばしたような気はする。夢の中とはいえ、今思えば軽率ではあった。
「しかし、何故小学校なんだ」
 立ち止まっていても仕方がないので、とりあえず昇降口へ向かう。階段を下りる際、また子供たちとすれ違った。その子らも律華には見向きもせず、先程の子たちが消えた方角へ駆けていく。その背中を見送って、律華は再び歩き出した。下はすぐ一階で、目の前に古びた靴箱が並んでいる。靴箱の間を通り抜け、玄関ドアの前に立った。ステンレス製のフレームに、大きなガラスがはまっている。その向こう側には、
「九雀先輩! と、石川……!」
 彼らの姿があった。九雀も驚いた顔でこちらを凝視している。
 彼は悲鳴を上げた鷹人を押しのけ、駆け寄ってきた。
『そこにいるのか、真田!』
「はい――」
 答えつつ、律華はドアを奥へ思い切り押した。動かない。引いてみても結果は同じだった。合流は難しそうだと感じて肩を落としていると、向こう側にいた九雀がそっとガラス越しに手のひらを重ねた。
『後輩ちゃん、こっちの声は聞こえるのか?』
「はい――」
 と答えてから気付いたのは、彼らにはこちらの声が聞こえないかもしれない、ということだった。首を縦に振ると、九雀は案の定こう言った。
『こっちの声は聞こえるが、向こうからは駄目なのか……』
『通常はこんなふうに、非異能者が思念世界を覗くことはできない。おそらく鏡の持つ性質のせいで空間が屈折して、変な風に繋がったんだろう』
 鷹人も気難しげな顔で呟いている。
(よく分からないが、少なくとも先輩たちは現実世界にいらっしゃるのか……)
 そのことに少しだけ安堵する。
『すぐに助けてやれなくてごめんな、後輩ちゃん』
「いえ……」
 律華はかぶりを振りながら、九雀の顔を見た。肩の力が自然と抜ける。
 そこで初めて、自覚した
 ――わたしは心細かったのだな。
 細く息を吐いて、囁くように告げる。
「先輩と石川が気付いてくださったので、大丈夫です」
 言葉は、届いたはずはなかったのだが。九雀はまるで心得たように少しだけ目を細めると、ガラス越しで重ねた手のひらに力を込める仕草をした。
『俺と石川で絶対になんとかするから』
『当たり前のように僕を含めないでくれ』
 これは、どこかふて腐れたような鷹人だ。そこから言い合いが始まるのも、いつものことだった。笑っている場合ではないのだろうなと思いつつ、変わりのない彼らを見ていると自然、どうにかなるような気がしてくるから不思議だ。
 笑っている律華に気付くと二人は顔を見合わせ、少し気まずそうな顔をした。
『――そういうわけだから、悪いが少しだけ待っていてくれ。必ず迎えに行く』
 九雀の言葉に、律華は背筋を伸ばして敬礼ポーズを作った。それで会話は終わりだ。彼は名残惜しそうにしつつも会話を無駄に引き延ばすことはしなかったし、鷹人ももう軽口を叩かなかった。彼らが去っていくのを見送り、律華も踵を返した。



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