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青葉、薫る刻 漆
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まずは薫り立つコーヒーを一口含んでゆっくりと喉奥へと落とし込む。
あれ?琴璃の奴、意外と美味くコーヒーを淹れるんだ。
小さなことだけど、自分が興味を持つ事柄に思わず高評価を与えてしまう――その相手が琴璃なのが意外であり、少しだけ僕の心を弾ませた。
「どう?美味しい?」聞くその顔は質問とは裏腹にドヤ顔だ。
「うん、旨いな。……意外に」素直に白旗を揚げる。
「意外って、余計な。私にはともかく布団の彼女にはそういう余計なこと言わない方がいいよ。龍兄の恋路が実るように忠告しといてあげる」
「恋路って……そういうのじゃないんだけどな」
恋路とか突然言われたら驚くだろ……。
つい数日前、椎名さんがこの部屋に来た時の情景を思い浮かべてしまったが、琴璃の言った言葉を否定すると蓋をして心中に仕舞い込んだ。
漠然とだけどそういう対象じゃない――というかしてはいけない――気がした。
「ところで今日は何処に出掛けるか決めたのか?」サラダのレタスとトマトを頬張り、トーストをかじりながら話を変えた。
琴璃は 一口飲んだコーヒーのカップを置くと、一際目を見開き口角を上げて見詰めてくる。
「今日はーっ!此処に行きまーすっ!ほら、此処っ!!」
旅行情報誌の付箋を挟んだページを開いて目の前に突き出された、それには……。
「……日本三景、松島遊覧の旅。ベタな観光するんだな」
情報誌を読み通しながら「ベタだからこそ、基本なんじゃない。基本、基本」そう呟き返す。
「基本って言ったら、あのお寺とか行くのか?」
「……も行くけど、してみたいことがあるんだよね」
「何?何をしてみたいんだ?」
「う~ん、内緒。行ったら分かるって」
朝食を終えて部屋を出ると、五月の温かな陽光と爽やかな風が街路を満たしていた。
琴璃と肩を並べて部屋から駅に向かう道中は、いつもの平日より人通りは少なかったが、駅に近づくと状況は一変した。
「さすがに人多いね。みんな暇なのかな」行き交う人の流れを時折避けながら、琴璃が一人言のように呟いた。
お前も、いや僕達も同じだろうに……そう思いながら琴璃の呟きには答えず僕も人混みの中を泳ぐように歩いた。
漸く券売機の前まで辿り着き、頭上の路線図を見上げて行き先駅を捜す。
「えっと……」
「龍兄、あそこ。松島海岸だよ」迷える兄を妹がフォローする、何と無くこの構図は昔からのような気がする。
切符を買うこと一つ取っても妹の助けが要るという不甲斐なさに少々自己嫌悪を覚えつつ、切符を二枚買い一枚を琴璃に渡した。
そんな僕を、渡した切符を握り締めたままの琴璃が見返す。
「……まさかとは思うけど、今、自己嫌悪に陥ってないよね?もう一つ言うと、そんなことで自傷行為とかしないでよ」
「あのな、そんな……」そんなことでするかっ、と言おうとする途中でまた琴璃が口を開く。
「あ、今は布団の彼女もいるし、それは無いか」
それには関係なく、しないだろ……。
それにいくら何でも切符を買うくらいのことでは、しないだろ。
「椎名さんはそういう類いの人じゃないし、切符買うくらいでしてたら切りがないだろ」
「おおっ?しっかりしてきたじゃない。兄の言葉に妹は安心しましたぁ」
そんな会話を交わしながら改札を抜けホームへ降りると、そこも駅の構内や通路同様人で溢れていた。
僕達は僅かな隙間を見つけると、漸く体の置場所を得た。と言っても人混みは相変わらずで、僕達兄妹は電車の中でも人に揉みくちゃにされ続けた。
それから解放されたのは、目的地の駅に到着してからのことだった。
人に押され勢いよく電車から吐き出された僕達は、少しばかり人混みを泳ぐ術に馴れたこともあり、改札から外へはスムーズに出られた。
駅を出た後も人の流れに乗って十分ほど歩くと最初の目的地の寺院に着いた。
拝観料を払い門を潜ると、杉並木が続く長い参道を歩く。
「琴璃がしたかったのって此処のお参りか?」
「まあ、来てみたいとは思ったけど。私が言ったのはまた別のことだよ。まずは神様に挨拶しないとバチが当たるじゃない?」
「まず神様じゃないだろ。仏様なんじゃないか」
「まあまあ、その辺は拘らないでよ。この辺りの一番の偉い神仏にご挨拶したかったのっ」
「ふーん、神仏に篤い何て知らなかったな」
「あー、私を侮るなぁ!あ、本堂あるよ。お参りしよ」
各々お賽銭を入れ両手を合わせて目を閉じる。
風が木々の葉を凪ぐ音と鳥の鳴き声が、真っ暗な世界に妙に響く。
目を開け隣を見ると、僕より幾何か長くお祈りをしていた琴璃が目を開けた。
「何をお祈りしてたの?布団の彼女と上手くいきますように……とか?」
「だから、そういう類いの人じゃないって。そういう琴璃は?何をお祈りしてたんだ?」
「やっぱ、龍兄が自傷行為しませんようにって。……あとはこれからも龍兄の妹でいられますように、かな」
「妹は妹だろ。それとも、いい男見つけて結婚して吉橋家から籍を抜くとか?」
「そうじゃないよ。あーっ!どうせ彼氏とか出来ないって思ってるでしょーっ?言っとくけど私、男子からそこそこ声掛けられるんだから」
「まあ、あれだ……世の中多種多様な趣味嗜好に溢れてるからな」
「あら、お兄様?今朝、お腹で味わった私の鋼鉄手刀をお忘れかしら?」
「お、おい……琴璃、あのな」今朝の最悪の目覚めが頭を過った。
「お兄様の言ってることも間違いじゃないわ。だって根暗な自傷行為する人に興味持つ人もいるんだし」
「……こんな人混みで言うことか?それに――お兄様はやめてくれ。気持ち悪いだろ」
「むむむっ!むかーっ!気持ち悪いだとぉ?ああぁー、琴璃のテンション爆下がりだよぉ。どうするの?」
「どうって言っても……」下らない平和な口喧嘩を交わしているうちに僕達は寺の門まで辿り着いた。
少し先には湾内遊覧船の船着き場が見えた。
まだふて腐れている琴璃は、その船着き場を見詰めると何か思い出したように声を上げた。
「あ、あああぁぁっ!思い出したぁっ!あれに乗ってあれするんだったぁ!」
「あれに乗ってあれする?何?」
「ふふふっ、テレビで観てしたかったんだよね」
十分後、僕達はあれに乗る切符を買い乗り込もうとしている。
琴璃の言うあれとは湾内遊覧船のことだった。
僕が先に乗ろうとすると後ろから「龍兄、すぐ行くから乗って待ってて」そう言うと桟橋脇の売店へと駈けて行った。
それから二、三分後琴璃は小さな紙袋を二つ手にして戻って来た。
その顔からは、先刻までの不機嫌そうな表情は何処吹く風と言わんばかりの笑みを溢している。
「何を買ってきたんだ?」
「ん?ああ、これね。餌だよ」
「餌?何にあげる餌だ?」
「龍兄」
「…………」
「龍兄だってば」
「……聞こえてるよ。いくら何でも餌は食べないよ」
僕の受け答えに、餌の入った小袋を持つ両手を上に挙げ、目を真ん丸に開いて――驚きを全身で表そうとしている。
「えーっ?!美味しいのに。多分、止められないし、止まらない、と思うよ」
「ん?何だ、それ」
「これだよ、これ。ほら」
差し出された袋を覗くと……ほんのり香ばしい匂いが鼻孔を擽る。
「あ……かっぱえびせん……」
「ピンポーン!正解。そう、かっぱえびせんなの」
「で、それが何の餌になるんだ?」
「もうすぐ船が出るから。そしたら分かるよ」
それから数分後、遊覧船は桟橋を離れて潮風が渡る湾内を滑るように進んで行く。
琴璃に誘われ後部の露天デッキに出てみた。
デッキに上がると、湾外から入り込む海風と遊覧船の船足が織り成す強い風に体を包まれる。
露天デッキには既に二十人ほどの乗船客が集まっていた。
大学生らしい男女五人組が風光明媚な島々を背に互いに写真を撮っていたり、親子連れ四人のまだ幼い兄弟がデッキを走り回ったりしている。
その兄弟を若い父親と母親が嗜めながら微笑む。
そんな光景を眺めていたら、小学校最後の年の夏休みに、養父母と琴璃の四人で行った箱根旅行が頭を過った。
「昔さ、お父さんお母さんと行ったね。何処だっけ……えーと」
「箱根の芦ノ湖だろ。あの海賊遊覧船、乗ったよなぁ」
琴璃も覚えていたんだ……あの頃僕は感情の一部が欠落していた。
昔の記憶が蘇り、少しだけ感傷的な気分に浸っている僕の横で琴璃が声を上げる。
「あっ、あれあれ。龍兄見て見て」
琴璃の視線の先には高校生くらいの女の子二人組が、デッキの手摺りに寄り掛かって身を乗り出していた。
手には琴璃の持つ小袋と同じものを持ち、かっぱえびせんを一つ摘まみ、船縁の外に腕を伸ばしている。
次の瞬間、白い鳥がその女の子に近付き、黄色い嘴で指先のかっぱえびせんを掠め取って行った。
「きゃあっ!驚いたぁ。ちょっと怖いんだけど、ヒナ」
「ミズキがやりたいって言ったんじゃない。でも、ミズキの驚きのリアクション見れて良かったわぁ」
女の子二人組の騒々しい様子見て暫く言葉を失った。
「……あの鳥は?カモメか?」
「あれはね、ウミネコだよ」
「……ウミネコ?」
「うん、ウミネコ。前にテレビで遊覧船での餌やりしてるの見てさ、やってみたかったのっ!」
満面に笑みを浮かべてそう言うと、かっぱえびせんを一つ摘まみ、船縁の外に腕を伸ばした。
琴璃がそうやって差し出した直後――一羽のウミネコが滑るように近付き、先刻僕達が見たように嘴でかっぱえびせんを奪って飛び去って行った。
「わあっ!見た見た?龍兄、すごくない?」
「……そうだな。すごいな、確かに」
「 何それーっ?!感動薄いなぁ。私、めっちゃ楽しいんだけど。龍兄もやってみなよ。ほら」
溢れるばかりの笑顔で小袋を一つ差し出された。
どうしよう……やらないと面倒なことになりそうだし……。
少し悩んだ末に、僕は大人しく琴璃から小袋を受け取った。
「やってみてよ。早く早く」
急かされるままにかっぱえびせんを一つ摘まんで腕を目一杯伸ばした。
何故、目一杯かというと――勿論、怖いからに他ならない。
それに当たり前なことだけど、間違っても『怖い』なんて琴璃には言わない。
そうやって、痩せっぽちの勇気を振り絞り腕を伸ばした瞬間、後ろから近付く気配がした。
反射的にそちらに視線を走らせると――ウミネコとガッツリ目が合った。
「う、うわぁ!」ビビってるの即バレだ。
「きゃははっ!た、龍兄ビビリ過ぎっ。駄目だぁ、お腹痛いわぁ」
確かに、我ながらビビるにも程があるくらい驚いた。
「いや、だって琴璃。あいつ凄い睨んで来るからさ。睨んでたよな?」
琴璃は聞きながら口許とお腹を手で押え、笑いを押えようと堪えている。
「まあ、確かに目付きは良くないかな。ガッツリ睨んで来るよね。でも、あれは『これから行くぞ』ってアイコンタクトだよ」
「アイコンタクト?いや、絶対ガン飛ばしてただろっ!」
「大丈夫だって。さあ、もう一度トライ!」
「絶対に嫌だ。もう充分」小袋を琴璃に突き返した。
琴璃はそれを受け取らず、腕を組み細めた目で睨んで来る。
「龍兄……昨日、言ったよね?私をもてなすって……もてなすって言うのは相手のして欲しいことに応えるってことじゃない?」
「うっ……くっ」確かに約束した、よな。
正直、ウミネコのあの目は好きじゃない――何と言うか、気持ちが悪いし。
それに餌やりの時、あの嘴で指でも挟まれたら……そんなことを想像したら、やっぱりしたくないな。
そう思いながら、琴璃の様子をチラリと見てみると相変わらずあの表情で睨んでいる。
琴璃のその様子を噛み締めて、僕は小さく一つ溜息を吐いた。
「……分かったよ」
仕方無く、本当に仕方無く再チャレンジすることになり、躊躇いながら小袋に手を突っ込んで与えるかっぱえびせんを選ぶ。
どれにしようか……悩むな……選びに選ぶ。
「龍兄……無駄な時間稼ぎしない。早くして」
「……分かった」ばれたか……。
僕は諦めて厳選したかっぱえびせんを一つ摘まみ、腕を伸ばす……僅かに伸ばした右手が震える。
再び後ろから一羽のウミネコが音もなく、海風を滑るように近付くのが見えた。
先刻のウミネコだ――、ウミネコ何てどれも同じに見えるが、僕は咄嗟にそう感じた。
そいつは前回同様、何処か無機質な目をこちらにジッと向けながら近付く。
やっぱり気持ち悪い……そう思った直後、気持ちが手先に伝わったのか、摘まんでいたかっぱえびせんを落としそうになった。
その瞬間――近付いていたウミネコが僕の予想外のアクシデントに驚き、手許で翼をバタつかせた。
「わ、わっ!ひぃ!」思わず声を上げ、持っていたかっぱえびせんをデッキに落としてしまった。
いい年の男が、たかが鳥一羽にビビり狼狽える様はかなり恥ずかしい。
僕としては……出来れば無かったことにしたい、そんな思いからと言う訳ではないけど、然り気無く船縁に凭れ掛かり、海に点在する島々眺める。
あれ?琴璃の奴、意外と美味くコーヒーを淹れるんだ。
小さなことだけど、自分が興味を持つ事柄に思わず高評価を与えてしまう――その相手が琴璃なのが意外であり、少しだけ僕の心を弾ませた。
「どう?美味しい?」聞くその顔は質問とは裏腹にドヤ顔だ。
「うん、旨いな。……意外に」素直に白旗を揚げる。
「意外って、余計な。私にはともかく布団の彼女にはそういう余計なこと言わない方がいいよ。龍兄の恋路が実るように忠告しといてあげる」
「恋路って……そういうのじゃないんだけどな」
恋路とか突然言われたら驚くだろ……。
つい数日前、椎名さんがこの部屋に来た時の情景を思い浮かべてしまったが、琴璃の言った言葉を否定すると蓋をして心中に仕舞い込んだ。
漠然とだけどそういう対象じゃない――というかしてはいけない――気がした。
「ところで今日は何処に出掛けるか決めたのか?」サラダのレタスとトマトを頬張り、トーストをかじりながら話を変えた。
琴璃は 一口飲んだコーヒーのカップを置くと、一際目を見開き口角を上げて見詰めてくる。
「今日はーっ!此処に行きまーすっ!ほら、此処っ!!」
旅行情報誌の付箋を挟んだページを開いて目の前に突き出された、それには……。
「……日本三景、松島遊覧の旅。ベタな観光するんだな」
情報誌を読み通しながら「ベタだからこそ、基本なんじゃない。基本、基本」そう呟き返す。
「基本って言ったら、あのお寺とか行くのか?」
「……も行くけど、してみたいことがあるんだよね」
「何?何をしてみたいんだ?」
「う~ん、内緒。行ったら分かるって」
朝食を終えて部屋を出ると、五月の温かな陽光と爽やかな風が街路を満たしていた。
琴璃と肩を並べて部屋から駅に向かう道中は、いつもの平日より人通りは少なかったが、駅に近づくと状況は一変した。
「さすがに人多いね。みんな暇なのかな」行き交う人の流れを時折避けながら、琴璃が一人言のように呟いた。
お前も、いや僕達も同じだろうに……そう思いながら琴璃の呟きには答えず僕も人混みの中を泳ぐように歩いた。
漸く券売機の前まで辿り着き、頭上の路線図を見上げて行き先駅を捜す。
「えっと……」
「龍兄、あそこ。松島海岸だよ」迷える兄を妹がフォローする、何と無くこの構図は昔からのような気がする。
切符を買うこと一つ取っても妹の助けが要るという不甲斐なさに少々自己嫌悪を覚えつつ、切符を二枚買い一枚を琴璃に渡した。
そんな僕を、渡した切符を握り締めたままの琴璃が見返す。
「……まさかとは思うけど、今、自己嫌悪に陥ってないよね?もう一つ言うと、そんなことで自傷行為とかしないでよ」
「あのな、そんな……」そんなことでするかっ、と言おうとする途中でまた琴璃が口を開く。
「あ、今は布団の彼女もいるし、それは無いか」
それには関係なく、しないだろ……。
それにいくら何でも切符を買うくらいのことでは、しないだろ。
「椎名さんはそういう類いの人じゃないし、切符買うくらいでしてたら切りがないだろ」
「おおっ?しっかりしてきたじゃない。兄の言葉に妹は安心しましたぁ」
そんな会話を交わしながら改札を抜けホームへ降りると、そこも駅の構内や通路同様人で溢れていた。
僕達は僅かな隙間を見つけると、漸く体の置場所を得た。と言っても人混みは相変わらずで、僕達兄妹は電車の中でも人に揉みくちゃにされ続けた。
それから解放されたのは、目的地の駅に到着してからのことだった。
人に押され勢いよく電車から吐き出された僕達は、少しばかり人混みを泳ぐ術に馴れたこともあり、改札から外へはスムーズに出られた。
駅を出た後も人の流れに乗って十分ほど歩くと最初の目的地の寺院に着いた。
拝観料を払い門を潜ると、杉並木が続く長い参道を歩く。
「琴璃がしたかったのって此処のお参りか?」
「まあ、来てみたいとは思ったけど。私が言ったのはまた別のことだよ。まずは神様に挨拶しないとバチが当たるじゃない?」
「まず神様じゃないだろ。仏様なんじゃないか」
「まあまあ、その辺は拘らないでよ。この辺りの一番の偉い神仏にご挨拶したかったのっ」
「ふーん、神仏に篤い何て知らなかったな」
「あー、私を侮るなぁ!あ、本堂あるよ。お参りしよ」
各々お賽銭を入れ両手を合わせて目を閉じる。
風が木々の葉を凪ぐ音と鳥の鳴き声が、真っ暗な世界に妙に響く。
目を開け隣を見ると、僕より幾何か長くお祈りをしていた琴璃が目を開けた。
「何をお祈りしてたの?布団の彼女と上手くいきますように……とか?」
「だから、そういう類いの人じゃないって。そういう琴璃は?何をお祈りしてたんだ?」
「やっぱ、龍兄が自傷行為しませんようにって。……あとはこれからも龍兄の妹でいられますように、かな」
「妹は妹だろ。それとも、いい男見つけて結婚して吉橋家から籍を抜くとか?」
「そうじゃないよ。あーっ!どうせ彼氏とか出来ないって思ってるでしょーっ?言っとくけど私、男子からそこそこ声掛けられるんだから」
「まあ、あれだ……世の中多種多様な趣味嗜好に溢れてるからな」
「あら、お兄様?今朝、お腹で味わった私の鋼鉄手刀をお忘れかしら?」
「お、おい……琴璃、あのな」今朝の最悪の目覚めが頭を過った。
「お兄様の言ってることも間違いじゃないわ。だって根暗な自傷行為する人に興味持つ人もいるんだし」
「……こんな人混みで言うことか?それに――お兄様はやめてくれ。気持ち悪いだろ」
「むむむっ!むかーっ!気持ち悪いだとぉ?ああぁー、琴璃のテンション爆下がりだよぉ。どうするの?」
「どうって言っても……」下らない平和な口喧嘩を交わしているうちに僕達は寺の門まで辿り着いた。
少し先には湾内遊覧船の船着き場が見えた。
まだふて腐れている琴璃は、その船着き場を見詰めると何か思い出したように声を上げた。
「あ、あああぁぁっ!思い出したぁっ!あれに乗ってあれするんだったぁ!」
「あれに乗ってあれする?何?」
「ふふふっ、テレビで観てしたかったんだよね」
十分後、僕達はあれに乗る切符を買い乗り込もうとしている。
琴璃の言うあれとは湾内遊覧船のことだった。
僕が先に乗ろうとすると後ろから「龍兄、すぐ行くから乗って待ってて」そう言うと桟橋脇の売店へと駈けて行った。
それから二、三分後琴璃は小さな紙袋を二つ手にして戻って来た。
その顔からは、先刻までの不機嫌そうな表情は何処吹く風と言わんばかりの笑みを溢している。
「何を買ってきたんだ?」
「ん?ああ、これね。餌だよ」
「餌?何にあげる餌だ?」
「龍兄」
「…………」
「龍兄だってば」
「……聞こえてるよ。いくら何でも餌は食べないよ」
僕の受け答えに、餌の入った小袋を持つ両手を上に挙げ、目を真ん丸に開いて――驚きを全身で表そうとしている。
「えーっ?!美味しいのに。多分、止められないし、止まらない、と思うよ」
「ん?何だ、それ」
「これだよ、これ。ほら」
差し出された袋を覗くと……ほんのり香ばしい匂いが鼻孔を擽る。
「あ……かっぱえびせん……」
「ピンポーン!正解。そう、かっぱえびせんなの」
「で、それが何の餌になるんだ?」
「もうすぐ船が出るから。そしたら分かるよ」
それから数分後、遊覧船は桟橋を離れて潮風が渡る湾内を滑るように進んで行く。
琴璃に誘われ後部の露天デッキに出てみた。
デッキに上がると、湾外から入り込む海風と遊覧船の船足が織り成す強い風に体を包まれる。
露天デッキには既に二十人ほどの乗船客が集まっていた。
大学生らしい男女五人組が風光明媚な島々を背に互いに写真を撮っていたり、親子連れ四人のまだ幼い兄弟がデッキを走り回ったりしている。
その兄弟を若い父親と母親が嗜めながら微笑む。
そんな光景を眺めていたら、小学校最後の年の夏休みに、養父母と琴璃の四人で行った箱根旅行が頭を過った。
「昔さ、お父さんお母さんと行ったね。何処だっけ……えーと」
「箱根の芦ノ湖だろ。あの海賊遊覧船、乗ったよなぁ」
琴璃も覚えていたんだ……あの頃僕は感情の一部が欠落していた。
昔の記憶が蘇り、少しだけ感傷的な気分に浸っている僕の横で琴璃が声を上げる。
「あっ、あれあれ。龍兄見て見て」
琴璃の視線の先には高校生くらいの女の子二人組が、デッキの手摺りに寄り掛かって身を乗り出していた。
手には琴璃の持つ小袋と同じものを持ち、かっぱえびせんを一つ摘まみ、船縁の外に腕を伸ばしている。
次の瞬間、白い鳥がその女の子に近付き、黄色い嘴で指先のかっぱえびせんを掠め取って行った。
「きゃあっ!驚いたぁ。ちょっと怖いんだけど、ヒナ」
「ミズキがやりたいって言ったんじゃない。でも、ミズキの驚きのリアクション見れて良かったわぁ」
女の子二人組の騒々しい様子見て暫く言葉を失った。
「……あの鳥は?カモメか?」
「あれはね、ウミネコだよ」
「……ウミネコ?」
「うん、ウミネコ。前にテレビで遊覧船での餌やりしてるの見てさ、やってみたかったのっ!」
満面に笑みを浮かべてそう言うと、かっぱえびせんを一つ摘まみ、船縁の外に腕を伸ばした。
琴璃がそうやって差し出した直後――一羽のウミネコが滑るように近付き、先刻僕達が見たように嘴でかっぱえびせんを奪って飛び去って行った。
「わあっ!見た見た?龍兄、すごくない?」
「……そうだな。すごいな、確かに」
「 何それーっ?!感動薄いなぁ。私、めっちゃ楽しいんだけど。龍兄もやってみなよ。ほら」
溢れるばかりの笑顔で小袋を一つ差し出された。
どうしよう……やらないと面倒なことになりそうだし……。
少し悩んだ末に、僕は大人しく琴璃から小袋を受け取った。
「やってみてよ。早く早く」
急かされるままにかっぱえびせんを一つ摘まんで腕を目一杯伸ばした。
何故、目一杯かというと――勿論、怖いからに他ならない。
それに当たり前なことだけど、間違っても『怖い』なんて琴璃には言わない。
そうやって、痩せっぽちの勇気を振り絞り腕を伸ばした瞬間、後ろから近付く気配がした。
反射的にそちらに視線を走らせると――ウミネコとガッツリ目が合った。
「う、うわぁ!」ビビってるの即バレだ。
「きゃははっ!た、龍兄ビビリ過ぎっ。駄目だぁ、お腹痛いわぁ」
確かに、我ながらビビるにも程があるくらい驚いた。
「いや、だって琴璃。あいつ凄い睨んで来るからさ。睨んでたよな?」
琴璃は聞きながら口許とお腹を手で押え、笑いを押えようと堪えている。
「まあ、確かに目付きは良くないかな。ガッツリ睨んで来るよね。でも、あれは『これから行くぞ』ってアイコンタクトだよ」
「アイコンタクト?いや、絶対ガン飛ばしてただろっ!」
「大丈夫だって。さあ、もう一度トライ!」
「絶対に嫌だ。もう充分」小袋を琴璃に突き返した。
琴璃はそれを受け取らず、腕を組み細めた目で睨んで来る。
「龍兄……昨日、言ったよね?私をもてなすって……もてなすって言うのは相手のして欲しいことに応えるってことじゃない?」
「うっ……くっ」確かに約束した、よな。
正直、ウミネコのあの目は好きじゃない――何と言うか、気持ちが悪いし。
それに餌やりの時、あの嘴で指でも挟まれたら……そんなことを想像したら、やっぱりしたくないな。
そう思いながら、琴璃の様子をチラリと見てみると相変わらずあの表情で睨んでいる。
琴璃のその様子を噛み締めて、僕は小さく一つ溜息を吐いた。
「……分かったよ」
仕方無く、本当に仕方無く再チャレンジすることになり、躊躇いながら小袋に手を突っ込んで与えるかっぱえびせんを選ぶ。
どれにしようか……悩むな……選びに選ぶ。
「龍兄……無駄な時間稼ぎしない。早くして」
「……分かった」ばれたか……。
僕は諦めて厳選したかっぱえびせんを一つ摘まみ、腕を伸ばす……僅かに伸ばした右手が震える。
再び後ろから一羽のウミネコが音もなく、海風を滑るように近付くのが見えた。
先刻のウミネコだ――、ウミネコ何てどれも同じに見えるが、僕は咄嗟にそう感じた。
そいつは前回同様、何処か無機質な目をこちらにジッと向けながら近付く。
やっぱり気持ち悪い……そう思った直後、気持ちが手先に伝わったのか、摘まんでいたかっぱえびせんを落としそうになった。
その瞬間――近付いていたウミネコが僕の予想外のアクシデントに驚き、手許で翼をバタつかせた。
「わ、わっ!ひぃ!」思わず声を上げ、持っていたかっぱえびせんをデッキに落としてしまった。
いい年の男が、たかが鳥一羽にビビり狼狽える様はかなり恥ずかしい。
僕としては……出来れば無かったことにしたい、そんな思いからと言う訳ではないけど、然り気無く船縁に凭れ掛かり、海に点在する島々眺める。
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