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桜、咲き誇る刻 伍
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まあ、左頬は例のハートマークで元々紅いんだけど。
その様子を見ていると、頬を紅らめたその人は、両手を合わせてジッとこちらを見詰める。口許が開き、何か言っているが口パクのようで声は聞こえてこない。けど、口の動きと表情からそれが「お願い」なのは分かった。
「じゃあ、龍之介さん。真坂さんの名前、呼んで貰えますか!」
そう言うと、リュウさんは僕にマイクを突き付け、無理矢理握らせる。
とんだことになったけど、こうなったら後に引けるはずもない。何より、この場の観衆と空気が許さないだろうことくらいは、僕でも分かる。いよいよ覚悟を決めてマイクを握り締める。チラリと横に視線を走らせると、もう一人の当事者が今度は「頑張って」と口を空回りさせていた。僕は誰となく、強いて言うなら周囲の空気に向かって口を開いた。
「まずは成功おめでとうございます。え~と、約束は約束なので今日から名前で呼ぶようにします」
再び横をチラ見すると、リュウさんが小声で「それだけ?名前、言わないと」そう囁く。その横の当事者も、両手を合わせてジッと見詰め返してくる。
僕は一回だけ深く息を吐いてから、もう一度口を開いた。
「唐澤さん、今日から名前で呼ばせて貰いますっ!ま、まっ、真坂さん、よろしくお願いします!」
言い終えると、周囲から拍手と「よくやったぞ、兄ちゃん!」「やりゃあ出来るじゃない」そんな野次が飛び交う。
改めて真坂を見たら、笑顔を弾かせて、親指を立て右手を突き出すと「グッジョ~ブ」そう嬉しげな声を上げた。そう言いながら、僕の耳許に顔を近付けると囁いてきた。
「ふふっ、噛み噛みだったねっ。やっぱ最初は緊張したでしょ?」
「そうだね、ファーストコールだからね」
「ふふっ、へぇ~。ファーストコールって言うんだ?」
いつものニヤついた笑顔で言う様は得意気だった。
誰に何を得意気になっているのやら……。
仕方なく僕は言う。
「いや、僕が勝手にそう言ってるだけだよ……」
ちょっと苦々しい顔で見返して言ってみたが、全く何も感じていないみたいだ……。
それどころか、僕の肘を思いの外強く握って更に微笑む。
もうこの先の人生、ずっと笑って生きていくんじゃないか、と思えてくる。
「今日は本当にありがとう!一緒に来てくれてさぁ。今日一日でこんなに距離が縮まるなんて思わなかったよぉ。今日は上々だよ、上々っ!」
「あ、ああ、あは、あはは……」姿勢も顔も多分、引いてるよな……。
圧倒的な勢いでグイグイ押されると……やっぱり引いてしまうんだよな、僕は。
ほぼ初対面に近い人とこんなに会話したり、名前で呼び合うようになったり、たった一日でこんなことになったのは初めてだけど、これ以上に変わることが出来るのだろうか?
ん?あれ?以前は変わることから逃れて、拒んできたのに……。変われる可能性なんてことをチラリとでも考えてしまうってことは……。
ついつい考え込んでしまい、周囲の状況から置き去りにされかけた僕を現実に引き摺り戻したのは、呼名の呼称変更を突き付けた、その人だった。
「ちょっとぉ!聞いてる?せっかく気分良かったのに。私、こんなに宙に浮くくらい喜んでるんだよ?」高くよく通る声が鼓膜を、両手が頬を抓って刺激する。
「いっ、痛っ!き、聞いてるよ。いくら宙に浮いて翔んでいきそうだからって僕の頬を抓らなくていいんじゃないの?」
「だって聞いてないじゃん!人の話しをちゃんと聞いてって言ったのに~」
「分かったよ。ちゃんと聞きます」
「え~と、誰に言ってるのかな?」
上目使いに見詰めながら言われて、諦めてその言葉を口にした。
「……君に……真坂……にだよ」
その言葉の返礼に満面の笑顔を返してくる。
「いしししっ」変な笑い声まで噛み締めながら。
「あ~あ、今日は楽しかったぁ。来たかった場所に来れたし、美味しいものも食べた。龍之介とも名前で呼び合う仲になれた。今日したかったことは殆んど叶ったかな。龍之介は?楽しかった?」
「……うん。確かに楽しかった。それは否めないな」
「もうちょっと嬉しそうに言ってくれる?……まあ、いっか。今日っていう一日を、過ぎてしまったらもう戻らない今日を悔いなく楽しめたんだもんね、私達」
真坂の言う全てに頷ける、とは言えないけど、大筋で近い感覚を得ているのは確かかもしれない。
「そうだね、君も僕も互いに楽しめた」
そう素直に同意した僕に間髪入れず、真坂は訂正を入れる。
「私達ね」
なるほど、思うに真坂の言う、近い間柄とか互いを補う関係を表す言葉は私達なのだろう。
君と僕の間には微妙な距離感があるけど私達には隙間すら無く一体と同じ……真坂の言わんとしているのはそういうことなのかもしれない。
「私達……か、なるほど」
「あ、腑に落ちたみたいだね。お互い共有認識を得たことだし、行こっか」
僕の脇をすり抜けると、川原で道具の片付けをしていたリュウさんに両手を大きく振っている。
「リュウさーん、ありがとう。来年も来てねーっ!私達も絶対来るからねーっ!」
今日得たばかりの心強い戦友に別れを告げると、僕の三歩先を歩き始めた。そして来た時と同じように、時折振り返っては僕の存在を確認する。
今更逃げたりしないのに……そう思いながら真坂の後を付いていく。
よく昔気質の夫婦の話しとかで、夫の三歩後ろを妻が歩くなんて言うけど、今の僕達は反対だ。でも先を導くように歩く真坂とその後を付いていく僕、その様はまるで今の僕達の関係を表しているようだ。きっとその関係というのが、巷の恋人同士のようなものなら、手を繋いで横を寄り添い歩くのだろうけど、僕達はそうではない。君は僕に自分の背を見せて前を歩く、僕は君の後姿を見詰めて追い付かず離れず歩く。
僕は何となく分かってきていた。この微妙な距離感が心地いいことに。あ……いや、僕はいい、それでいい。だけど、真坂はどうなんだろう?変わることを望んでいるのだろうか……?
僕はそんなことを考えていたものだから、自然と無口になる。真坂も時々こちらを振り返りはするけど、何も言わずにニンマリとした笑みを見せては前を歩き続ける。
午後のぽかぽかと暖かい陽射しの下、静寂と微妙な距離感を堪能しながらの帰り道は意外と短く感じられた。来た時に降りた駅の一つ前の駅まで辿り着くと、券売機で手際良く買った切符を渡される。
「え~と、次の電車は……十五分くらい時間あるね」腕時計と時刻表を交互に見てから、ちょっと躊躇いがちにこちらを見詰めて口を開いく。
「今日、どうだった?楽しかった?」
「うん、楽しかったよ。えと、真坂……は?元々、要求されたお礼として来たんだし。こんなので良かったの?」
今日何度も真正面から人の顔をジッと見詰めた癖に、何故だか戸惑うように視線を横に落としている。何で……?
「もちろん、楽しかったよ。龍之介は私の我儘を受け入れてくれたし、綺麗な桜も見れたし、楽しかった……けど」
「けど?どうしたの?」
「あと少しで終わるのかなぁって、思って……」珍しく俯き加減に話す様は歯切れが悪い。
終わる……そうか、これで終わりかもしれないんだ。僕は何となく、今日一日の出来事を受け入れてしまっていたから、そのことが頭になかった。この次か……考えてなかったけど、あるならあるで自然に受け止めてしまうかもしれない。
「あ、えっと、また何かあったら何処か行こうか?」そんなこと言ってる自分に内心驚いた。
「え?ええぇぇ?う、嘘っ?あの確認なんだけど本気だよね?」
溢れた言葉に一瞬迷いはあった、だけどそれと同じくらいの質量を持つものが反対側にあったのも事実だった。
だから僕は。
「うん、本気とかなのかは分からないけど、嘘は……ないよ」
「そ、そうなんだ……」俯き呟く真坂の顔は見えない。まさか、泣いてるんじゃ……?僕の心配は喜ばしいことに裏切られた。
「やったあぁぁっ!良かった。ホッとしたよぉ!」
げっ?先刻までの泣き出しそうなのは一体何だったんだ?そう思った、でも一瞬、瞳の端に光るものが見えた――気がした。
しかし、すぐにその場で跳びはねそうな勢いで燥ぎ回り、喜びを爆ぜさせたような表情を見せる。
そして「じゃあ、メアドも交換しよっ!いい?早く携帯出して!」もう、いつもの感じの真坂に戻っていた。
もうここまで来たら後戻りは出来ないと、諦めて大人しく携帯を差し出すと、他人のものなのに手際良く操作してメアドの交換作業は終了した。
「これで何時でも連絡取れるねっ。せっかく交換したんだから、ちゃんとメール送ってね」
言われたものの、他人とメールのやり取りなんてしたことは無いし、それを押し付けられるのは、首輪を着けられ繋がれた犬を連想させ、ちょっと後向きなる。
情に絆され、こちらから次の約束など持ち掛けてしまったことを後悔したが手遅れだ。
次の約束はともかく、目の前にいない相手と頻繁にコミュニケーションを取ることには抵抗もあるし、第一慣れていないのだから、メアドの交換は僕にとっては余計なおまけだった。
それでも今日の締め括りで不要な物言いして面倒なことにならないよう細心の注意を払う。
「うん、でもメール自体慣れてないから期待はしないでね」
心中に保管されている、唐澤真坂取扱説明書に照らして返した言葉は真坂の神経に触ることなくスルーしたようだ。次にまた会うとしても、これなら何とかなりそうだ。
「今日は私の行きたい場所に来たから、次は龍之介の行きたい場所に連れて行ってよ」
「え?僕の行きたい場所?何処だろう……」
「何処?」
「う~ん、思い付かないな」
「もう、本気で考えてるの?まあ、思い付いたらでいいけど。龍之介の行きたい場所が無ければ私の行きたい処に連れて行ってもらおっと。あ、電車来たよ」
僕達はホームに入って来た上り電車乗り、再び線路脇に続く桜並木に見送られながら帰途に着いた。車内は花見帰りの客でそこそこに混んでいた。
だらしなく吊革に掴まっていたのを目撃された話しを思い出した所為もあり、帰りの車内ではそれとなく意識して姿勢を正していた。
それを見透かすように、真坂はニヤニヤした顔付きで時折こちらをチラ見してくる。
「何?何か付いてる?」
「いや、そんなに肩肘張らずに楽に行こうよ」
「別にそんなに張ってなんてないよ」見透かされてなどいない体で呟く。
「ふふっ、ふ~ん。そっか」唇を尖らせちょっと大袈裟に頷く様は、やはり見透かしているみたいだ。
この時間は何なんだろう……今まで経験したことのないのは間違いない。
この時が決して居心地悪い訳ではない。受け入れている時点でこれまでの僕では考えられないことなのだから。
そればかりか、これから先もこんなことが続くのだろか……そんなことをつい思ってしまっている。
変わっている、いや変わりつつある。それは確かなこと。
真坂に会って僕は変わることを受け入れ始めている、その事実が初めてのものに触れた時の胸の鼓動の早さと強さを思い起こさせる。そして同時に、大海原の果てに陸地を見つけたような安堵感を懐かせる。
この次は何処に……これから、か……横に佇む真坂の存在を意識しながら、車窓の外の景色を眺める。
桜並木に見送られた後、長閑な郊外の風景から賑やかな街中へ車窓の彩りは移り変わり、やがて降着駅へと着いた。
ホームに降り改札を抜ける頃には、夕日が低く差し込み、ステンドグラスに今日最後の陽の光を当てている。
今日待ち合わせた時のように、真坂と向かい合って立つと正面の真坂はジッと僕の顔を見据えた。
僕は取説に刻まれた今朝の出来事を思い起こし、同じく真坂を見詰め返す。
すると「……よし、ちゃんと出来たね。その調子でいこっ」嬉しげな笑顔で手を伸ばしてくる。
今日最初に触れられそうになった時とは違い、身動きせずに素直に受け入れると、頭を軽くポンポンと撫でられた。
「ちゃんと目を見て話し出来たし、人と関わったり人の温もりを知ったり……龍之介、今日一日ですごい進歩じゃない?」
「……うん。でも子供扱いされてるみたいで何かなぁ」
そう答えると、初めて会った時みたいに「くふっ」と吹き出してから笑いを堪えた様子を見せた。
もう、それは見馴れたよ、そう思って少し呆れてしまっていた。すると吹き出しそうな笑いを喉奥に押し込んでから、想定外の一言を放った。
「子供かぁ、すると私がお母さんか……何かそれも悪くないかな……あ、ごめん。ご両親の話しは不味いよね」
「あ、いや大丈夫。真坂には僕から話したんだから。それよりお母さんってどういうこと?」
「お母さんみたいな感じでもいいかなって」
「何か変じゃない?」
「そう?嫌だった?」
「嫌ではないけど……」
「じゃ、いいじゃない?私は色んな角度から龍之介を見てみたいだけだからさ」
今一つ真坂の言っていることの真意が分からなかったが、何時の間にかどれだけ弄られても嫌悪する気にはなれなくなっていることに気付いた。
その様子を見ていると、頬を紅らめたその人は、両手を合わせてジッとこちらを見詰める。口許が開き、何か言っているが口パクのようで声は聞こえてこない。けど、口の動きと表情からそれが「お願い」なのは分かった。
「じゃあ、龍之介さん。真坂さんの名前、呼んで貰えますか!」
そう言うと、リュウさんは僕にマイクを突き付け、無理矢理握らせる。
とんだことになったけど、こうなったら後に引けるはずもない。何より、この場の観衆と空気が許さないだろうことくらいは、僕でも分かる。いよいよ覚悟を決めてマイクを握り締める。チラリと横に視線を走らせると、もう一人の当事者が今度は「頑張って」と口を空回りさせていた。僕は誰となく、強いて言うなら周囲の空気に向かって口を開いた。
「まずは成功おめでとうございます。え~と、約束は約束なので今日から名前で呼ぶようにします」
再び横をチラ見すると、リュウさんが小声で「それだけ?名前、言わないと」そう囁く。その横の当事者も、両手を合わせてジッと見詰め返してくる。
僕は一回だけ深く息を吐いてから、もう一度口を開いた。
「唐澤さん、今日から名前で呼ばせて貰いますっ!ま、まっ、真坂さん、よろしくお願いします!」
言い終えると、周囲から拍手と「よくやったぞ、兄ちゃん!」「やりゃあ出来るじゃない」そんな野次が飛び交う。
改めて真坂を見たら、笑顔を弾かせて、親指を立て右手を突き出すと「グッジョ~ブ」そう嬉しげな声を上げた。そう言いながら、僕の耳許に顔を近付けると囁いてきた。
「ふふっ、噛み噛みだったねっ。やっぱ最初は緊張したでしょ?」
「そうだね、ファーストコールだからね」
「ふふっ、へぇ~。ファーストコールって言うんだ?」
いつものニヤついた笑顔で言う様は得意気だった。
誰に何を得意気になっているのやら……。
仕方なく僕は言う。
「いや、僕が勝手にそう言ってるだけだよ……」
ちょっと苦々しい顔で見返して言ってみたが、全く何も感じていないみたいだ……。
それどころか、僕の肘を思いの外強く握って更に微笑む。
もうこの先の人生、ずっと笑って生きていくんじゃないか、と思えてくる。
「今日は本当にありがとう!一緒に来てくれてさぁ。今日一日でこんなに距離が縮まるなんて思わなかったよぉ。今日は上々だよ、上々っ!」
「あ、ああ、あは、あはは……」姿勢も顔も多分、引いてるよな……。
圧倒的な勢いでグイグイ押されると……やっぱり引いてしまうんだよな、僕は。
ほぼ初対面に近い人とこんなに会話したり、名前で呼び合うようになったり、たった一日でこんなことになったのは初めてだけど、これ以上に変わることが出来るのだろうか?
ん?あれ?以前は変わることから逃れて、拒んできたのに……。変われる可能性なんてことをチラリとでも考えてしまうってことは……。
ついつい考え込んでしまい、周囲の状況から置き去りにされかけた僕を現実に引き摺り戻したのは、呼名の呼称変更を突き付けた、その人だった。
「ちょっとぉ!聞いてる?せっかく気分良かったのに。私、こんなに宙に浮くくらい喜んでるんだよ?」高くよく通る声が鼓膜を、両手が頬を抓って刺激する。
「いっ、痛っ!き、聞いてるよ。いくら宙に浮いて翔んでいきそうだからって僕の頬を抓らなくていいんじゃないの?」
「だって聞いてないじゃん!人の話しをちゃんと聞いてって言ったのに~」
「分かったよ。ちゃんと聞きます」
「え~と、誰に言ってるのかな?」
上目使いに見詰めながら言われて、諦めてその言葉を口にした。
「……君に……真坂……にだよ」
その言葉の返礼に満面の笑顔を返してくる。
「いしししっ」変な笑い声まで噛み締めながら。
「あ~あ、今日は楽しかったぁ。来たかった場所に来れたし、美味しいものも食べた。龍之介とも名前で呼び合う仲になれた。今日したかったことは殆んど叶ったかな。龍之介は?楽しかった?」
「……うん。確かに楽しかった。それは否めないな」
「もうちょっと嬉しそうに言ってくれる?……まあ、いっか。今日っていう一日を、過ぎてしまったらもう戻らない今日を悔いなく楽しめたんだもんね、私達」
真坂の言う全てに頷ける、とは言えないけど、大筋で近い感覚を得ているのは確かかもしれない。
「そうだね、君も僕も互いに楽しめた」
そう素直に同意した僕に間髪入れず、真坂は訂正を入れる。
「私達ね」
なるほど、思うに真坂の言う、近い間柄とか互いを補う関係を表す言葉は私達なのだろう。
君と僕の間には微妙な距離感があるけど私達には隙間すら無く一体と同じ……真坂の言わんとしているのはそういうことなのかもしれない。
「私達……か、なるほど」
「あ、腑に落ちたみたいだね。お互い共有認識を得たことだし、行こっか」
僕の脇をすり抜けると、川原で道具の片付けをしていたリュウさんに両手を大きく振っている。
「リュウさーん、ありがとう。来年も来てねーっ!私達も絶対来るからねーっ!」
今日得たばかりの心強い戦友に別れを告げると、僕の三歩先を歩き始めた。そして来た時と同じように、時折振り返っては僕の存在を確認する。
今更逃げたりしないのに……そう思いながら真坂の後を付いていく。
よく昔気質の夫婦の話しとかで、夫の三歩後ろを妻が歩くなんて言うけど、今の僕達は反対だ。でも先を導くように歩く真坂とその後を付いていく僕、その様はまるで今の僕達の関係を表しているようだ。きっとその関係というのが、巷の恋人同士のようなものなら、手を繋いで横を寄り添い歩くのだろうけど、僕達はそうではない。君は僕に自分の背を見せて前を歩く、僕は君の後姿を見詰めて追い付かず離れず歩く。
僕は何となく分かってきていた。この微妙な距離感が心地いいことに。あ……いや、僕はいい、それでいい。だけど、真坂はどうなんだろう?変わることを望んでいるのだろうか……?
僕はそんなことを考えていたものだから、自然と無口になる。真坂も時々こちらを振り返りはするけど、何も言わずにニンマリとした笑みを見せては前を歩き続ける。
午後のぽかぽかと暖かい陽射しの下、静寂と微妙な距離感を堪能しながらの帰り道は意外と短く感じられた。来た時に降りた駅の一つ前の駅まで辿り着くと、券売機で手際良く買った切符を渡される。
「え~と、次の電車は……十五分くらい時間あるね」腕時計と時刻表を交互に見てから、ちょっと躊躇いがちにこちらを見詰めて口を開いく。
「今日、どうだった?楽しかった?」
「うん、楽しかったよ。えと、真坂……は?元々、要求されたお礼として来たんだし。こんなので良かったの?」
今日何度も真正面から人の顔をジッと見詰めた癖に、何故だか戸惑うように視線を横に落としている。何で……?
「もちろん、楽しかったよ。龍之介は私の我儘を受け入れてくれたし、綺麗な桜も見れたし、楽しかった……けど」
「けど?どうしたの?」
「あと少しで終わるのかなぁって、思って……」珍しく俯き加減に話す様は歯切れが悪い。
終わる……そうか、これで終わりかもしれないんだ。僕は何となく、今日一日の出来事を受け入れてしまっていたから、そのことが頭になかった。この次か……考えてなかったけど、あるならあるで自然に受け止めてしまうかもしれない。
「あ、えっと、また何かあったら何処か行こうか?」そんなこと言ってる自分に内心驚いた。
「え?ええぇぇ?う、嘘っ?あの確認なんだけど本気だよね?」
溢れた言葉に一瞬迷いはあった、だけどそれと同じくらいの質量を持つものが反対側にあったのも事実だった。
だから僕は。
「うん、本気とかなのかは分からないけど、嘘は……ないよ」
「そ、そうなんだ……」俯き呟く真坂の顔は見えない。まさか、泣いてるんじゃ……?僕の心配は喜ばしいことに裏切られた。
「やったあぁぁっ!良かった。ホッとしたよぉ!」
げっ?先刻までの泣き出しそうなのは一体何だったんだ?そう思った、でも一瞬、瞳の端に光るものが見えた――気がした。
しかし、すぐにその場で跳びはねそうな勢いで燥ぎ回り、喜びを爆ぜさせたような表情を見せる。
そして「じゃあ、メアドも交換しよっ!いい?早く携帯出して!」もう、いつもの感じの真坂に戻っていた。
もうここまで来たら後戻りは出来ないと、諦めて大人しく携帯を差し出すと、他人のものなのに手際良く操作してメアドの交換作業は終了した。
「これで何時でも連絡取れるねっ。せっかく交換したんだから、ちゃんとメール送ってね」
言われたものの、他人とメールのやり取りなんてしたことは無いし、それを押し付けられるのは、首輪を着けられ繋がれた犬を連想させ、ちょっと後向きなる。
情に絆され、こちらから次の約束など持ち掛けてしまったことを後悔したが手遅れだ。
次の約束はともかく、目の前にいない相手と頻繁にコミュニケーションを取ることには抵抗もあるし、第一慣れていないのだから、メアドの交換は僕にとっては余計なおまけだった。
それでも今日の締め括りで不要な物言いして面倒なことにならないよう細心の注意を払う。
「うん、でもメール自体慣れてないから期待はしないでね」
心中に保管されている、唐澤真坂取扱説明書に照らして返した言葉は真坂の神経に触ることなくスルーしたようだ。次にまた会うとしても、これなら何とかなりそうだ。
「今日は私の行きたい場所に来たから、次は龍之介の行きたい場所に連れて行ってよ」
「え?僕の行きたい場所?何処だろう……」
「何処?」
「う~ん、思い付かないな」
「もう、本気で考えてるの?まあ、思い付いたらでいいけど。龍之介の行きたい場所が無ければ私の行きたい処に連れて行ってもらおっと。あ、電車来たよ」
僕達はホームに入って来た上り電車乗り、再び線路脇に続く桜並木に見送られながら帰途に着いた。車内は花見帰りの客でそこそこに混んでいた。
だらしなく吊革に掴まっていたのを目撃された話しを思い出した所為もあり、帰りの車内ではそれとなく意識して姿勢を正していた。
それを見透かすように、真坂はニヤニヤした顔付きで時折こちらをチラ見してくる。
「何?何か付いてる?」
「いや、そんなに肩肘張らずに楽に行こうよ」
「別にそんなに張ってなんてないよ」見透かされてなどいない体で呟く。
「ふふっ、ふ~ん。そっか」唇を尖らせちょっと大袈裟に頷く様は、やはり見透かしているみたいだ。
この時間は何なんだろう……今まで経験したことのないのは間違いない。
この時が決して居心地悪い訳ではない。受け入れている時点でこれまでの僕では考えられないことなのだから。
そればかりか、これから先もこんなことが続くのだろか……そんなことをつい思ってしまっている。
変わっている、いや変わりつつある。それは確かなこと。
真坂に会って僕は変わることを受け入れ始めている、その事実が初めてのものに触れた時の胸の鼓動の早さと強さを思い起こさせる。そして同時に、大海原の果てに陸地を見つけたような安堵感を懐かせる。
この次は何処に……これから、か……横に佇む真坂の存在を意識しながら、車窓の外の景色を眺める。
桜並木に見送られた後、長閑な郊外の風景から賑やかな街中へ車窓の彩りは移り変わり、やがて降着駅へと着いた。
ホームに降り改札を抜ける頃には、夕日が低く差し込み、ステンドグラスに今日最後の陽の光を当てている。
今日待ち合わせた時のように、真坂と向かい合って立つと正面の真坂はジッと僕の顔を見据えた。
僕は取説に刻まれた今朝の出来事を思い起こし、同じく真坂を見詰め返す。
すると「……よし、ちゃんと出来たね。その調子でいこっ」嬉しげな笑顔で手を伸ばしてくる。
今日最初に触れられそうになった時とは違い、身動きせずに素直に受け入れると、頭を軽くポンポンと撫でられた。
「ちゃんと目を見て話し出来たし、人と関わったり人の温もりを知ったり……龍之介、今日一日ですごい進歩じゃない?」
「……うん。でも子供扱いされてるみたいで何かなぁ」
そう答えると、初めて会った時みたいに「くふっ」と吹き出してから笑いを堪えた様子を見せた。
もう、それは見馴れたよ、そう思って少し呆れてしまっていた。すると吹き出しそうな笑いを喉奥に押し込んでから、想定外の一言を放った。
「子供かぁ、すると私がお母さんか……何かそれも悪くないかな……あ、ごめん。ご両親の話しは不味いよね」
「あ、いや大丈夫。真坂には僕から話したんだから。それよりお母さんってどういうこと?」
「お母さんみたいな感じでもいいかなって」
「何か変じゃない?」
「そう?嫌だった?」
「嫌ではないけど……」
「じゃ、いいじゃない?私は色んな角度から龍之介を見てみたいだけだからさ」
今一つ真坂の言っていることの真意が分からなかったが、何時の間にかどれだけ弄られても嫌悪する気にはなれなくなっていることに気付いた。
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