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第三章
第9話
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「一年前、俺がバイク事故に遭ったことは知ってるだろ。昏睡状態に陥って何週間も目覚めなかった。そのとき夢を見たんだ」
「夢?」
「長い夢だ。それも現代じゃなくて、もっとずっと昔の……平安とか鎌倉あたりか? よく分からない、俺は歴史に詳しくないから。とにかく今の時代じゃない」
「着物着てたとか? 烏帽子みたいなもん被って……」
「そういう奴らもいたし、甲冑姿の奴もいたと思う」
「すごいな、大河ドラマみたいだ」
素直に感想を述べると、茶化されたと思ったのかジロリと睨まれる。俺はつい居住まいを正して先を促した。
「俺はどこかの豪族で、嫁さんもいたし、子供もいた。でも、本心では誰も愛してなんかいなかった。心の中にいつも空洞があった。空虚とか孤独とか……そういう感情でいっぱいだった。女を抱いても子が産まれても、何も感じないし、感動もない。目の前で貧しい人が死んだとしても、情けもかけない。多分、人を殺したこともあるかもしれない。反吐が出るくらい最低な奴だった。いつも何かに飢えている感じだ」
夢の中の、前世の自分だという人物を思い出して苦しいのか、八朔は前髪をぐしゃっと掻き混ぜて苦悩顔になる。そして両手をぐっと握りしめ、狂おしげに漏らした。
「――――だけど大切な人がいたんだ。ただ一人、俺のすべてを懸けて愛した人が」
まるで恋愛ドラマのキャッチコピーみたいな甘い言葉だ。八朔のファンが聞いたら卒倒するかも。それを素の八朔が言っているかと思うだけで衝撃的である。
「その人は、どこか由緒ある寺の僧侶だったはずだ。いつも袈裟を着ていたし、各地を放浪して修行していたのかもしれない。会えるのは年に数度だけで、俺はずっとその人の帰りを待っていた。思い続けて待ち続けて、逢瀬を重ねた。何度も何度も」
「それっていわゆる男色……」
今でこそ同性愛は性的マイノリティーに分類されるが、かつての日本では男色が当たり前の時代もあった。日本だけではなく世界各国で、むしろそれが神聖視されていたこともある。八朔の前世だという人物の恋人が同性だったとしても、特別驚くことではない。
問題はそこではないのだ。俺は続く八朔の言葉に、つくづくそれを思い知らされた。
「その人の左腰辺りに、法輪の形をした痣があった。仏様からいただいた有難い痣だと言っていた。あんたの腰にあるものと同じだ」
いきなりそこで俺とその恋人が繋がるのかと、俺は愕然とするしかない。
「ぐ、偶然だろ……?」
ハハハ、と空笑いしてみたが、八朔はやけにきっぱりと頭を振る。
「まったく同じ場所に、まったく同じ痣があるなんて、偶然とは思えない。名前だって似てる。その人は錦と名乗ってた」
「〝し〟が入ってるだろ! 俺は仁木だ! に、き!」
あまりのこじつけに呆然として、俺はムキになって反論した。だけど八朔は俺の意見なんて聞いちゃいない。ますます鬼気迫る表情になって、ずいずいと距離を詰めてくる。
「目覚めてから、俺はこの夢が自分の前世の記憶だと理解した。ただの夢じゃない。じゃなきゃ、こんなにリアルなはずがない。それから何度も何度も繰り返し見るんだ。目覚めるたびに、あの人に会いたくてしょうがなくなる。俺がこの世に生まれ変わってるんだ。あの人も、きっとこの世界のどこかに……俺の近くに必ず生まれ変わってるはずだと、俺は確信したんだ」
胸に手を当てて訴えてくる八朔に、俺はげんなりしつつ、視線を逸らす。
「お前が見かけによらずロマンチストなのは嫌というほど分かった。……この話、まだ続ける?」
「信じないのか」
「信じられるわけないだろ! そもそもお前、そんなに愛した恋人の生まれ変わりが、俺なんかでいいわけ? 俺のことめちゃくちゃ嫌ってただろ」
「嫌ってねえよ!」
思いのほか語気荒く否定されて、嘘つけ、と俺はムッとした。
「いやいや、お前、初めて会ったとき、俺のことコテンパンに貶しただろ。地味だとか、演技が生温いとか」
あれは結構傷ついたんだぞ。実はお前の隠れファンだったんだから余計にだ。それを忘れたとは言わせないぞ。
睨みつけると、八朔は僅かに視線を泳がせた。
「それは……。今の俺から見て、あんたが脅威だったから……」
「脅威?」
一体どういう意味だと訝しむが、八朔は言いにくそうに口を噤む。
「……とにかく、酷いことを言ったのは悪かったと思ってる。退院してからあんたが俺の代役で主演を務めたって知って、どんな奴だろうってマネージャーに頼んで映像を集めてもらった。今さら信じてくれないだろうけど、初めて見たときから妙な既視感があったんだ。ずっと前から知っているような……懐かしい気持ちがしたんだ。嘘じゃない」
そうなのか? そんなの初めて聞いたぞ。そんな素振りなんて今まで微塵も見せなかったじゃないか。
困惑する俺に、八朔は熱く訴えかけてくる。
「俺は――――俺だけは、絶対に間違えない。あの人を見間違えるはずがない。その痣が何よりの証拠だ。あんたが俺が愛した人だ」
「これは昔の火傷の痕だ! 生まれつきのもんじゃない! それに、ゲイに偏見があるわけじゃないけど、俺自身は男を相手にするなんて無理だから!」
「俺だってそうだ」
「嘘つけ! ぐいぐい来てんじゃないか!」
「あんただけだ。あんたにしかしない」
言い合っているうちに、二メートルほどあった八朔との距離が、いつの間にか縮まっていることに気づいた。八朔がさらに怖い顔をしてにじり寄ってくる。バスの座席がギシギシと嫌な音を立てた。
「ち、近寄るな! あっち行け!」
びしっと後方を指差したのに、逆にその手を強く握り込まれる。
「どうして俺から逃げるんだ。また俺を独りにするのか……?」
悲愴感のような絶望感のような、何とも言えない悲しげな顔で、八朔が俺の目を覗き込んでくる。「ひとりにする」ってどういう意味なんだ。もう何が何だか分からない。俺まで頭がおかしくなりそうだ。
「いい加減にしろ! それはただのリアルな夢で、前世なんかあるわけない! お前は事故で打ち所が悪くて、混乱してるだけなんだ。目を覚ませ!」
「夢なんかじゃない。俺には分かる。俺がずっと探してたのは、ずっと追いかけて来たのは、あんたなんだよ……っ」
シートに力任せに押し倒されて、上から八朔が伸し掛かってくる。掴まれた手首がみしりと痛む。迫ってくる八朔の顔に、またキスされるのかと必死で顔を背けた。
「離せ!」
「好きなんだ、仁木。愛してるんだ」
「やめろって……っ」
顎を掴まれて、ぐぐぐっと無理やり上を向かされる。噛みつくような激しさで唇を奪われる。巧みな舌に歯列を割られて、あっさり侵入されてしまう。
「……んん……っ、う……っ」
八朔の肉厚の舌に、逃げまどっていた俺の舌は易々と搦め取られた。ぬるりと粘膜が絡み合い、いやらしく湿った音が口元から漏れる。
こいつはどうしてこんなにキスが上手いんだ。強引で性急なキスは、何もかも奪い尽くされそうで怖い。
そのうえ、見た目からでは想像できないほどの馬鹿力だ。か弱いわけではない俺が、必死で抵抗してもまったく歯が立たない。それにつけこんで、胸元や脇腹の辺りを大きな手がまさぐってくる。着衣を脱がせようとしているのは明らかだった。
冗談じゃない。こんな場所で、こいつは一体何をやらかす気なんだ。
「こ……の……っ」
歯を食いしばり、最後の手段とばかり、八朔の股間を蹴り上げようとしたときだった。
「お疲れ様でーす」
「失礼しまぁす」
数名の女性スタッフがわらわらとバスに乗り込んできて、俺と八朔はぎくりと動きを止めた。押し倒された俺と、その上から伸し掛かっている八朔という、衝撃的な光景を目の当たりにしたスタッフは、あんぐりと口を開けて固まってしまう。
「――――え、なに!? 喧嘩?」
「どうしたんですか、二人とも!」
青ざめるスタッフを見て、俺は内心ほっとする。どうやらキスされていたのは見られていないようだし、何よりこの場を切り抜けられる。
拍子抜けしたように力をゆるめた八朔を押しのけて、俺は何とか作り笑いで誤魔化した。
「な、何でもないです、大丈夫です。ただじゃれ合ってただけですから!」
「なんだ、びっくりしたあ」
「すみません、お騒がせして。どうぞ、ゆっくりしてってください」
俺は逃げるようにバスを降りて、足早に歩き出す。すぐに八朔も追ってきた。
「仁木! 待ってくれ」
呼び止められるのと同時に、俺はキッと八朔を振り返る。ブチギレる三秒前くらいの怖い表情を作って、八朔と真正面から対峙した。
「いいか! とにかく、撮影はちゃんとやれ。これは仕事なんだから、みんなに迷惑をかけるな!」
俺が真剣に諭すと、八朔もバツが悪そうに唇を噛んだ。
「分かってる……。俺だってそれは本意じゃない。次はちゃんとやる」
撮影チームに迷惑をかけていることを自覚しているようで、やっとまともな答えが聞けたと俺は少しほっとする。この映画に掛けているのは俺も八朔も一緒のはずだ。たとえプライベートで一悶着あったとしても、それを表に出さずに演技するのがプロってもんだ。
分かってくれたか、と喜んだのも束の間、八朔が何やら自分の腰ポケットを探り始める。
「これを返さないと……」
取り出したのは、あろうことか、俺のお気に入りの派手なボクサーパンツだった。
「お、お前、それ……っ」
「あんた昨日、脱衣所に忘れていっただろ。拾っておいた」
あのときは、パンツを穿く余裕もなくて、とにかく浴衣だけを身に着けて脱兎のごとく逃げ出したのだ。
俺も替えのパンツを置いてきてしまったことに部屋に戻ってから気づいたが、八朔がまだ脱衣所にいるかもしれないと思うと、恐ろしすぎて取りに戻れなかったのである。
落としたのがそれまで穿いていた使用済みパンツじゃなかったことが唯一の救いだと、昨日は泣く泣く諦めた。それをまさか撮影現場に持ってくるとは、なんて非常識な男なんだ。
俺はわなわなと身体が震えてくるのを感じながら、まさかと思い、恐る恐る尋ねた。
「お前、それで変なことしてないだろうな……?」
「――――」
明らかに目を泳がせた八朔に、俺の身体中の血が沸騰したように熱くなる。目頭にじわっと涙まで込み上げてきた。
「こ、の……っ、変態っ!」
俺は八朔の手から乱暴にパンツを奪い返し、そう吐き捨てて一目散にその場から逃げ出した。
二度目の敵前逃亡に、自分が情けなくなったのは言うまでもない。
「夢?」
「長い夢だ。それも現代じゃなくて、もっとずっと昔の……平安とか鎌倉あたりか? よく分からない、俺は歴史に詳しくないから。とにかく今の時代じゃない」
「着物着てたとか? 烏帽子みたいなもん被って……」
「そういう奴らもいたし、甲冑姿の奴もいたと思う」
「すごいな、大河ドラマみたいだ」
素直に感想を述べると、茶化されたと思ったのかジロリと睨まれる。俺はつい居住まいを正して先を促した。
「俺はどこかの豪族で、嫁さんもいたし、子供もいた。でも、本心では誰も愛してなんかいなかった。心の中にいつも空洞があった。空虚とか孤独とか……そういう感情でいっぱいだった。女を抱いても子が産まれても、何も感じないし、感動もない。目の前で貧しい人が死んだとしても、情けもかけない。多分、人を殺したこともあるかもしれない。反吐が出るくらい最低な奴だった。いつも何かに飢えている感じだ」
夢の中の、前世の自分だという人物を思い出して苦しいのか、八朔は前髪をぐしゃっと掻き混ぜて苦悩顔になる。そして両手をぐっと握りしめ、狂おしげに漏らした。
「――――だけど大切な人がいたんだ。ただ一人、俺のすべてを懸けて愛した人が」
まるで恋愛ドラマのキャッチコピーみたいな甘い言葉だ。八朔のファンが聞いたら卒倒するかも。それを素の八朔が言っているかと思うだけで衝撃的である。
「その人は、どこか由緒ある寺の僧侶だったはずだ。いつも袈裟を着ていたし、各地を放浪して修行していたのかもしれない。会えるのは年に数度だけで、俺はずっとその人の帰りを待っていた。思い続けて待ち続けて、逢瀬を重ねた。何度も何度も」
「それっていわゆる男色……」
今でこそ同性愛は性的マイノリティーに分類されるが、かつての日本では男色が当たり前の時代もあった。日本だけではなく世界各国で、むしろそれが神聖視されていたこともある。八朔の前世だという人物の恋人が同性だったとしても、特別驚くことではない。
問題はそこではないのだ。俺は続く八朔の言葉に、つくづくそれを思い知らされた。
「その人の左腰辺りに、法輪の形をした痣があった。仏様からいただいた有難い痣だと言っていた。あんたの腰にあるものと同じだ」
いきなりそこで俺とその恋人が繋がるのかと、俺は愕然とするしかない。
「ぐ、偶然だろ……?」
ハハハ、と空笑いしてみたが、八朔はやけにきっぱりと頭を振る。
「まったく同じ場所に、まったく同じ痣があるなんて、偶然とは思えない。名前だって似てる。その人は錦と名乗ってた」
「〝し〟が入ってるだろ! 俺は仁木だ! に、き!」
あまりのこじつけに呆然として、俺はムキになって反論した。だけど八朔は俺の意見なんて聞いちゃいない。ますます鬼気迫る表情になって、ずいずいと距離を詰めてくる。
「目覚めてから、俺はこの夢が自分の前世の記憶だと理解した。ただの夢じゃない。じゃなきゃ、こんなにリアルなはずがない。それから何度も何度も繰り返し見るんだ。目覚めるたびに、あの人に会いたくてしょうがなくなる。俺がこの世に生まれ変わってるんだ。あの人も、きっとこの世界のどこかに……俺の近くに必ず生まれ変わってるはずだと、俺は確信したんだ」
胸に手を当てて訴えてくる八朔に、俺はげんなりしつつ、視線を逸らす。
「お前が見かけによらずロマンチストなのは嫌というほど分かった。……この話、まだ続ける?」
「信じないのか」
「信じられるわけないだろ! そもそもお前、そんなに愛した恋人の生まれ変わりが、俺なんかでいいわけ? 俺のことめちゃくちゃ嫌ってただろ」
「嫌ってねえよ!」
思いのほか語気荒く否定されて、嘘つけ、と俺はムッとした。
「いやいや、お前、初めて会ったとき、俺のことコテンパンに貶しただろ。地味だとか、演技が生温いとか」
あれは結構傷ついたんだぞ。実はお前の隠れファンだったんだから余計にだ。それを忘れたとは言わせないぞ。
睨みつけると、八朔は僅かに視線を泳がせた。
「それは……。今の俺から見て、あんたが脅威だったから……」
「脅威?」
一体どういう意味だと訝しむが、八朔は言いにくそうに口を噤む。
「……とにかく、酷いことを言ったのは悪かったと思ってる。退院してからあんたが俺の代役で主演を務めたって知って、どんな奴だろうってマネージャーに頼んで映像を集めてもらった。今さら信じてくれないだろうけど、初めて見たときから妙な既視感があったんだ。ずっと前から知っているような……懐かしい気持ちがしたんだ。嘘じゃない」
そうなのか? そんなの初めて聞いたぞ。そんな素振りなんて今まで微塵も見せなかったじゃないか。
困惑する俺に、八朔は熱く訴えかけてくる。
「俺は――――俺だけは、絶対に間違えない。あの人を見間違えるはずがない。その痣が何よりの証拠だ。あんたが俺が愛した人だ」
「これは昔の火傷の痕だ! 生まれつきのもんじゃない! それに、ゲイに偏見があるわけじゃないけど、俺自身は男を相手にするなんて無理だから!」
「俺だってそうだ」
「嘘つけ! ぐいぐい来てんじゃないか!」
「あんただけだ。あんたにしかしない」
言い合っているうちに、二メートルほどあった八朔との距離が、いつの間にか縮まっていることに気づいた。八朔がさらに怖い顔をしてにじり寄ってくる。バスの座席がギシギシと嫌な音を立てた。
「ち、近寄るな! あっち行け!」
びしっと後方を指差したのに、逆にその手を強く握り込まれる。
「どうして俺から逃げるんだ。また俺を独りにするのか……?」
悲愴感のような絶望感のような、何とも言えない悲しげな顔で、八朔が俺の目を覗き込んでくる。「ひとりにする」ってどういう意味なんだ。もう何が何だか分からない。俺まで頭がおかしくなりそうだ。
「いい加減にしろ! それはただのリアルな夢で、前世なんかあるわけない! お前は事故で打ち所が悪くて、混乱してるだけなんだ。目を覚ませ!」
「夢なんかじゃない。俺には分かる。俺がずっと探してたのは、ずっと追いかけて来たのは、あんたなんだよ……っ」
シートに力任せに押し倒されて、上から八朔が伸し掛かってくる。掴まれた手首がみしりと痛む。迫ってくる八朔の顔に、またキスされるのかと必死で顔を背けた。
「離せ!」
「好きなんだ、仁木。愛してるんだ」
「やめろって……っ」
顎を掴まれて、ぐぐぐっと無理やり上を向かされる。噛みつくような激しさで唇を奪われる。巧みな舌に歯列を割られて、あっさり侵入されてしまう。
「……んん……っ、う……っ」
八朔の肉厚の舌に、逃げまどっていた俺の舌は易々と搦め取られた。ぬるりと粘膜が絡み合い、いやらしく湿った音が口元から漏れる。
こいつはどうしてこんなにキスが上手いんだ。強引で性急なキスは、何もかも奪い尽くされそうで怖い。
そのうえ、見た目からでは想像できないほどの馬鹿力だ。か弱いわけではない俺が、必死で抵抗してもまったく歯が立たない。それにつけこんで、胸元や脇腹の辺りを大きな手がまさぐってくる。着衣を脱がせようとしているのは明らかだった。
冗談じゃない。こんな場所で、こいつは一体何をやらかす気なんだ。
「こ……の……っ」
歯を食いしばり、最後の手段とばかり、八朔の股間を蹴り上げようとしたときだった。
「お疲れ様でーす」
「失礼しまぁす」
数名の女性スタッフがわらわらとバスに乗り込んできて、俺と八朔はぎくりと動きを止めた。押し倒された俺と、その上から伸し掛かっている八朔という、衝撃的な光景を目の当たりにしたスタッフは、あんぐりと口を開けて固まってしまう。
「――――え、なに!? 喧嘩?」
「どうしたんですか、二人とも!」
青ざめるスタッフを見て、俺は内心ほっとする。どうやらキスされていたのは見られていないようだし、何よりこの場を切り抜けられる。
拍子抜けしたように力をゆるめた八朔を押しのけて、俺は何とか作り笑いで誤魔化した。
「な、何でもないです、大丈夫です。ただじゃれ合ってただけですから!」
「なんだ、びっくりしたあ」
「すみません、お騒がせして。どうぞ、ゆっくりしてってください」
俺は逃げるようにバスを降りて、足早に歩き出す。すぐに八朔も追ってきた。
「仁木! 待ってくれ」
呼び止められるのと同時に、俺はキッと八朔を振り返る。ブチギレる三秒前くらいの怖い表情を作って、八朔と真正面から対峙した。
「いいか! とにかく、撮影はちゃんとやれ。これは仕事なんだから、みんなに迷惑をかけるな!」
俺が真剣に諭すと、八朔もバツが悪そうに唇を噛んだ。
「分かってる……。俺だってそれは本意じゃない。次はちゃんとやる」
撮影チームに迷惑をかけていることを自覚しているようで、やっとまともな答えが聞けたと俺は少しほっとする。この映画に掛けているのは俺も八朔も一緒のはずだ。たとえプライベートで一悶着あったとしても、それを表に出さずに演技するのがプロってもんだ。
分かってくれたか、と喜んだのも束の間、八朔が何やら自分の腰ポケットを探り始める。
「これを返さないと……」
取り出したのは、あろうことか、俺のお気に入りの派手なボクサーパンツだった。
「お、お前、それ……っ」
「あんた昨日、脱衣所に忘れていっただろ。拾っておいた」
あのときは、パンツを穿く余裕もなくて、とにかく浴衣だけを身に着けて脱兎のごとく逃げ出したのだ。
俺も替えのパンツを置いてきてしまったことに部屋に戻ってから気づいたが、八朔がまだ脱衣所にいるかもしれないと思うと、恐ろしすぎて取りに戻れなかったのである。
落としたのがそれまで穿いていた使用済みパンツじゃなかったことが唯一の救いだと、昨日は泣く泣く諦めた。それをまさか撮影現場に持ってくるとは、なんて非常識な男なんだ。
俺はわなわなと身体が震えてくるのを感じながら、まさかと思い、恐る恐る尋ねた。
「お前、それで変なことしてないだろうな……?」
「――――」
明らかに目を泳がせた八朔に、俺の身体中の血が沸騰したように熱くなる。目頭にじわっと涙まで込み上げてきた。
「こ、の……っ、変態っ!」
俺は八朔の手から乱暴にパンツを奪い返し、そう吐き捨てて一目散にその場から逃げ出した。
二度目の敵前逃亡に、自分が情けなくなったのは言うまでもない。
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