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第六章
第19話
しおりを挟む八朔のバイクの後ろに跨ってお持ち帰りされた俺は、再びあの高級マンションの一室に足を踏み入れた。
ちょうど日没の時間で、壁全面の窓の向こうには、オレンジ色から群青色のグラデーションの空が広がっていた。ライトアップされた東京タワーと、点描のように光が散りばめられた夜景が本当に綺麗だ。
「ブルーモーメントだ。いま写真撮ったら、めちゃくちゃ綺麗なのが撮れそう」
世界が青い光に染められる、十分程度の美しい時間。以前、舞台で写真家の役を演じたときに知った言葉だ。
「ふぅん。俺にとっては見慣れた風景だけど」
背後から至近距離で呟かれて、俺はドキッと硬直する。
窓ガラスに、俺の肩越しから夜景を眺める八朔が映り込んでいた。
今日はこのままお泊りだ。当然、そういう流れになる、というか、むしろそれが目的で来たようなものなので、緊張しない方がおかしい。
微動だにできずにいると、八朔がフッと小さく笑って、「あんた、緊張しすぎ」と優しく俺の肩をポンと叩いた。
「腹減ったでしょ、俺が夕飯作るよ。イタリアンでいい?」
そう言って踵を返すと、リビングの奥のキッチンへと向かった。俺は「えっ」と驚いて振り返る。
八朔が開いた冷蔵庫の中には結構な食材が入っていて、男の一人暮らしとは思えない。
「もしかして俺のために買ってきてくれたのか? てか、お前料理できるんだ?」
「ほとんど外食だけど、家にいるときは結構作る」
磨き上げられたキッチンで食材を丁寧に洗いながら、八朔が頷く。
「昔から兄貴がよく作ってたから。簡単なものなら教わった」
ランさんはバーを経営しているから、お酒を作るだけじゃなくて料理も得意らしい。弟にまで仕込むなんて、本当に良くできた兄貴という感じだ。
俺なんか、近所の商店街で買ってくる出来合いのもので済ませる日がほとんどなのに。
八朔の手際の良さを感心しながら眺めていると、
「……邪魔。あっちで座って待ってて」
ずっと観察されているのが居心地悪いのか、塞がった手の代わりに顎でダイニングテーブルを指された。
俺は「ちぇっ」と残念に思いながらも、お邪魔している身なので大人しく言われたとおりにする。オシャレなガラステーブルに着いて待っていると、程なくして料理が運ばれてきた。
アサリやエビの魚介類がたっぷりのペスカトーレだ。トマトのいい香りが食欲をそそる。
「すげえ、こんなの家で作れんの?」
「大袈裟だな。結構簡単だよ」
そうは言うものの、一口くちにすると、ぎゅっと詰まった魚介の旨味と白ワインの風味が口いっぱいに広がった。店で出てくるパスタと大差ないくらい美味しい。
「……美味すぎる」
「そう? 良かった」
平然と作っているように見えて、実は俺の反応が気になっていたらしい。ほっとしたように微笑む姿に、俺はキュンキュンしてしまう。
食事の合間に、俺は新田くんからもらった手紙を八朔にも見せた。八朔は柔らかそうなほっぺをモグモグさせながら手紙にさっと目を走らせる。読み終わると、忌々しげにテーブルの上へと放った。
「またあんたに会いたいだって? 誰が許すかよ」
ふん、と鼻を鳴らして手紙を睨みつけている。俺はやれやれと額を押さえた。
「気になるのそこ? 俺はさ、まさか新田くんが自分で真実を告げるとは思わなかったんだ。事務所まで辞めるなんてさ……。これからどうするんだろう」
影山さんだけが罪に問われるのは許せないと彼を詰ったこともあったが、いざ今後、彼が困難に見舞われるかと思うと、やっぱり心配になってしまうのだ。そういう性格なので、偽善やお人好しと言われても仕方ない。
「自業自得だろ。本人も役者に未練はないって言ってんだから、適当に他の仕事見つけてやってくでしょ。あんたが心配してもしょうがない」
「そ、それはそうだけど……」
淡々と返してくる八朔に、俺は言葉に詰まる。
「心配しなくても、ああいう奴は上手く世渡りして生きていくタイプだから平気だよ。あんたが思ってるほど弱くもしおらしくもない。本当にまた飄々とあんたの前に現れそうだしね」
八朔は苦虫を噛み潰したような顔でぼやく。
確かに新田くんの性格なら、これしきの事で、とまた這い上がってくるような気もする。彼からはそういう逞しさが感じられた。
「お前がそう言うなら、本当にそんな気がしてくる。ちょっと安心した」
ほっと安堵すると、八朔がじとっと恨めしそうに俺を睨んできた。
「……あんたって、そうやって何気にファンを増やしてくんだろうな。俺としては気が気じゃないよ。誰にでもいい顔するところ、嫌いじゃないけどちょっと癪だ。言ったよね、本当は俺以外の奴のことなんて、考えてほしくないって」
「い、言ってたな……」
あのクラブでの騒動中に、確かにそう言われた。責めるような目を向けられて俺は次第に焦り始める。
「俺に対しては、ちっとも必死感が伝わらないんだけど」
食事を終えた八朔が、そう言って席を立つ。空になった食器をキッチンへと運ぶのを見て、俺も慌てて残りの料理を平らげた。
「必死感?」
どういう意味だと、俺は八朔を追いかけながら問いかける。シンクの洗い桶に食器をつけながら、八朔がぼそっと呟いた。
「――――俺にもっと会いたいとか、ずっと離れたくないとか。俺があんたを想う気持ちの、何分の一にも満たないんじゃないかって時々不安になる」
そのまま、すっと俺から離れてカウチソファーに向かい、無言で腰を下ろした。その顔に不満の色がありありと滲んでいるのを見て、俺は呆然と立ち尽くす。
沸々と、もどかしいような、苛立ちのような感情が込み上げてきた。
お前の言いたいことは分かるよ。だけど――――。
「お、俺だってなあ……!」
俺は堪えきれずに、つい大声で叫んでしまった。
「俺だって、これでもお前のことで一杯一杯になってんだよ!」
八朔がびっくりした顔で見つめてくる。俺は勢いのまま八朔の目前まで歩み寄って、キッと睨み下ろした。
「確かに、あの占い師にも、花ちゃんにも言われたよ。俺は八方美人でお人好しで物分かりがいいって! そりゃそうだ。俺は今まで、そうやって誰とでも当たり障りなくやってく生き方を身につけてきたんだから!」
「花に?」
どうしてここで花ちゃんが出てくるんだと顔に書いてあるので、「この前仕事で一緒になったんだよ!」と吐き捨てた。
握りしめた両手の拳がぶるぶると震えてくる。色んな感情が一気に込み上げてきて、俺は自分を止められなくなっていた。
「他人と深く関わるのは苦手だから、いつもどこかで一線引いてる。だから偽善的だって言われることもある。分かってんだ、そんなことは。だけどその方が楽だから、それでいいと思って生きてきたんだ、ずっと。お前に会うまでは……っ」
半年前、映画の共演で初めて八朔と対面したときのことがありありと甦る。すべてはあのときから変わってしまった。
「お前に出会って、お前を好きになって、その一線が簡単に崩れちまった。お前のことは何でも知りたいと思うし、あのクラブの件で俺に隠しごとしてるって知ったときには怒りも湧いた。そんなふうに思うのはお前だけだ。だけど……、逆に自分を誤魔化すことも増えちまった」
「誤魔化す……?」
怪訝な顔で見上げてくる八朔に、俺はずっと黙っているつもりだった本心を打ち明けた。
「お前が三ヶ月も海外に行って会えないときは、何度も連絡しようと思ったけど、お前の負担になるのが嫌だったから我慢した。お前に抱かれる覚悟でここに来たときも、本当は帰りたくなんてなかったけど、やっぱり我慢したんだ。大人なんだから仕方ないって自分に言い聞かせた。自分に正直になるのも、我儘言うのも、俺は得意じゃないんだ」
じわっと視界が歪んで、興奮のあまり泣きそうになっていることに気づいた。それが余計に悔しくて、俺は咄嗟に腕で顔を覆う。
「必死感が伝わらないだと? ふざけんな! こっちは取り繕うのに必死なんだよ!」
一度タガが外れると、理性なんてどこかに吹っ飛んでしまって、俺は子供みたいに八朔に怒鳴り散らした。情けなさにこの場から消えたくなる。
「仁木……」
八朔が静かに呼びかけてきた。俺の両手を取って、そっと自分に引き寄せる。
「座って」
俺をソファーの隣に座らせると、落ち着かせようとするかのように、ぎゅっと手を握ってくれた。
「どうして取り繕う必要があるの。我慢なんてしないでよ。隠さなくてもいい」
涙で潤んでいるだろう俺の目を覗き込んで、優しく大人びた様子で囁いた。俺はまだいつもの自分に戻れずに、「だって……」と言い訳するように零した。
「俺、お前より六つも年上なんだぞ。会いたい、離れたくないって、無様に泣いて縋れっていうのか? 俺にもまだ捨てきれないプライドがあるんだよ。年下の男に夢中になって、後先考えずに周りが見えなくなるなんて怖いよ」
理性も冷静さも失って、八朔だけしか見えなくなるのが怖い。八朔に執着して、依存して、自分の足で立てなくなりそうで怖い。
だって俺たちは恋人である前に、同じ役者のライバルとして出会ったんだ。俺はこれからも、お前に認めてもらえる人間でありたい。
俺の真意が伝わったのか、八朔が俺を抱きしめてくる。
「そっか……。ごめん、我儘言って。あんたいつも俺より冷静だから、俺ばっかりあんたに夢中なのかと思ってた」
「……お前が独占欲丸出しにするのも、俺だけを特別に扱ってくれるのも、めちゃくちゃ嬉しいよ。だけど、いつでもダダ洩れのお前と一緒にされたら困る……」
俺もようやく身体の力を抜いて、八朔の肩にもたれかかった。八朔の大きな掌が、あやすように俺の背中をゆっくりと撫でる。
「俺はあんたより年下だし、あんたに出会うまではお世辞にも人としてまともな性格じゃなかったから、必死に愛情表現しないと愛想尽かされると思ってたんだよ。でも、あんたも年上なの気にしてたんだね」
「当たり前だろ……。この年になったら年上の方が苦労するんだ」
「そうかな?」
それには異論があるようだったが、八朔はそれ以上反論せず、さらに俺をきつく抱きしめた。
「そんなの気にしないで、俺に夢中になってよ」
耳元で嬉しそうな声が熱く囁く。
「俺はこれからきっと、あんたに泣いて縋ってもらえるような、大人のいい男になるよ。だから絶対逃さないでね」
自信満々なセリフに、俺は呆れを通り越して笑いが込み上げてきた。「自分で言うなよな」と苦笑すると、思いのほか真剣な答えが返ってくる。
「あんたがそうさせるんだよ。俺を真実の男にしてくれるんだ」
「――――」
俺と出会う前に、八朔がどんな人生を歩んできたのか、俺は見てきたわけじゃない。まともな性格じゃなかったと自分で言うくらいだから、もしかするとグレてたり、荒んでいた時期もあったのかもしれない。
俺が八朔と出会って自分の中の何かが変わったように、八朔もまた、自分自身の変化を感じているのかもしれなかった。いや、俺のために変わろうとしているのかもしれない。
急激に愛おしさが込み上げてきて、俺も八朔をぎゅっと抱きしめ返した。
「今でも十分だよ。お前、ヒーローみたいにいつも俺を助けてくれるし、超絶美形で料理もできる男なんて、そうそういない」
俺はもう観念するしかない。
八朔に泣いて縋ってしまう日が、きっとそう遠くないうちにやってくる。年上の矜持も理性もかなぐり捨てて、「俺を捨てるな」と必死に追いかけてしまうのは俺の方なんだ。
そんな未来が容易に想像できて、俺はとんでもない男に捕まってしまったのだと悟った。前世だけじゃなくて、今も、きっと未来も、もう離れられなくなるに違いない。
少しだけ身体を離して、八朔が俺の目元に滲んだ涙を親指で拭った。そのまま顔が近づいてきて、ああキスしてくれるんだ、と俺は目を閉じる。
久々の唇の感触を待っていたが、数秒経っても触れてこないので、俺はうっすらと目を開けた。
「……?」
八朔が難しい顔をして、俺をじっと凝視している。
「だめだ。このまま雪崩れ込みそう。先に風呂入ろう」
「えっ」
俺はドキッと硬直した。すかさず八朔が俺の肩をぐっと押さえ込んで、
「俺に抱かれる覚悟、無かったことになってないよね?」
と、にっこり笑いながら有無も言わさぬ様子で言った。内心「ヒッ」とビビりながら、俺はブンブンと激しく頷く。つ、ついに決行のときが来たのだ……!
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