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虚像の愛と蜜月 Ⅱ
しおりを挟むエドームに着いてから三日ほど日がたち、イリスは早くもサイへ帰りたくなった。
その原因としてまず挙げられるのが、侍女たちの隠れた嫌がらせだった。用意された食事には味付けが変えられていたり、部屋の床には掃除中の水が大胆にも広がっていた。
王との謁見の時こそしっかりと仕上げてくれたが、エドームが右も左も分からないイリスの身の回りを世話する者はほとんどいなかった。
ライアンの目がある内はそれなりの対応はするものの、一対一の時はまったくと言っていいほど相手にしない。
そんな扱いを受けて腹が立つことはなかったが、生活に支障が出てくるとさすがに困り、分からないことは近くの人間に尋ねるしかなかった。
そしてあの日で消えるかと思っていたゼクスの誘惑が意外にも続き、城の人間の嫉妬をさらに招いてしまったようだった。
甘い言葉を囁いてきたり、隙あれば物影や壁際に追い込もうとする。イリスは執拗なまでに迫られ、疲れを感じていた。
四日目に入ると、朝からエドームの大貴族の娘が強引に城外へ誘い出してきた。
初めにアリターノと名乗れば、自分と比較するように見つめ、大したことないわねと小さく呟いていた。もちろん、聞こえていた。
ライアンとしても有力貴族の娘を無下に扱うわけにもいかないようで、雑だが受け答えはしていた。
「ねぇライアン様。私、イリス様と親交を深めたいので、今日一日お借し願えるかしら?」
ねっとりするような視線のアリターノは、大胆に開いた胸を強調しながら、上目遣いでおねだりする。
「駄目だ、俺の手の内にいないと誰が何をするか分からないからな」
「あら、私がイリス様を傷つけるとでも?心外ですわ。共にライアン様をお支えする立場になるんですもの、仲良くしたいと思うのが当然ではなくて?」
「そんなことはどうでもいい。今日は手が離せない。俺がそばにいる時じゃないと外出はさせない」
譲ろうとしないライアンに我慢強く粘るアリターノは一歩も退こうとはしなかった。
「そんなに心配なら護衛をつければよろしいのでは?イリス様は剣術の心得もあるようですし」
「今日は皆、出払っている。せめて違う日にしろ」
「そういうわけには参りません、私も予定があるのですから。陛下の許可も既にいただいております」
勝手な事を……とライアンが鬱陶しそうに呟いた。
「これでは埒があかないので、イリス様のご意見を尊重されては?」
アリターノの鋭い目が突き刺さり、イリスはどうするか一瞬迷った。
ただ、城に居てじっとしているのは落ち着かない。いつ手の込んだ嫌がらせが飛び込んでくるかも分からない。それに一日部屋にいてもまたゼクスが訪ねてきそうだった。
「……私は、構いません。外に出た方がいい気晴らしになるかと思います」
「決まりですわね」
してやったりとアリターノが笑うのを見て、ライアンは面倒臭そうに溜息をついた。
条件として、王都から出ないことや日暮れまでに帰ることなどを約束させた。最後に、イリスを傷つければ幾らお前とて容赦はしないと脅しを効かせた。
「もちろんですわ、ライアン様の大切なお方ですもの」
鈍く光る丸い瞳にイリスは胸騒ぎを感じつつも、外出する用意を整えた。
気をつけろと一言残すライアンと別れ、アリターノが案内する場所へ向かえば、裕福さを表徴するかのような豪華な馬車が待ちかまえていた。
乗車すれば、アリターノは笑顔で自慢話からスタートした。
何でも以前からライアンとは深い仲で、何度も夜の営みを交わしたとか。抱かれた女の中でも最も通う頻度が多く、とにかく大事にしてもらっていたらしい。
嫉妬させるのが目的か知らないが、延々と語られる仲睦まじい様子を薄笑いで聞き流していたイリスは、城から離れていく距離に違和感を感じ始めた。
「アリターノ様、一体どちらに向かわれているのですか?」
すれ違う人々を見れば、武器を抱えた人や甲冑を身に付けた武人であったり、中には隠すように人を乗せた大きな馬車も通っていた。
今から戦いを始めるかのような雰囲気で、イリスはよく参加した剣技大会を思い出す。
嫌な予感しかしなかった。アリターノの唇が愉しげに放物線を描く。
「あら、申し上げておりませんでした?もちろん、闘人場ですわ」
「――闘人、場…?」
さぁっと背中に冷たいものが駆け巡った。
「エドームにおいて娯楽の一つである、闘人場の観賞にお付き合い頂こうかと思いまして今日はお誘いしましたの」
「待って下さい、まさか……剣奴のどちらが倒れるまで行われるという……」
噂でしか聞いたことがない。サイでも遙か昔はあったらしいが、今は禁止されている闘人場。
己の技巧を競い合う剣技大会とは違う、生死をかけた闘いが展開されるという。エドームでは競技の一つにあたる。
イリスは真っ蒼になりながら、馬車の外を見る。道行く人の中には鎖に繋がれ奴隷のような恰好を強いられている人影もあった。
「ええ、とても面白くて興奮してしまいますわ。血潮に濡れる体なんて見応えがあって、白熱する争いに息が止まりかけますもの」
「どうしてそんな所に……!」
命を塵のように扱う、卑劣な場所。耐えがたい苦痛を強いられる人の気持ちを考えたことはないのか。
逃げることも許されず、ただ闘いしか残されない舞台で、娯楽として殺傷を見つめる観衆の一部になるなんて。イリスは吐き気と怒りを感じて手が震えた。
「イリス様、ご経験がなくて?エドームの富裕層にとっては普通のことですわ。今日の剣奴にいくらか賭けましたの、死なないといいんですけど」
「今すぐお戻りください。私は観賞しません」
イリスは語気を強くしてアリターノに迫った。
尊い命をお金で賭けることができるなんて。エドームとサイでは根本的に命の価値観が違う。自分より下の身分の人間がどうなろうと関係がないのだ。
強さこそが正義であり、弱者など雑草のように踏みつける。それが当たり前であり、習慣として古くから根付いている。
「そんなにお怒りになって何を仰っているの?ふふ…この馬車は私の命令以外は聞きませんわ。このまま向かうしか方法はございません」
「では今すぐ私をここで降ろしてください。自力でお城まで戻ります」
イリスはカラカラと音を立てて揺れる馬車から降りようとした。しかし、強い力が行く手を阻んできた。
骨が軋むほど力が強いため、イリスは顔を歪めてアリターノを見る。
「――その程度の気性でエドームで生き残れるとでも?考えが甘いのではありませんか」
「……っ」
ライアンを前にしていた彼女とは見る面影もないほど、恐ろしさを感じる瞳がじりじりと追い詰めてくる。
「国の象徴であるライアン王子の側にいるという自覚がないのでしょうね…か弱い姫を演じているつもりでしょうが、この馬車から降りることは許しませんわ」
「離、して……」
「性根から鍛えた方がよさそうですわね。王女がこんなに弱気だからサイはすぐに堕ちてしまう…愚かな国だこと」
ギリギリと痛む手を握るアリターノは馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
自国の侮辱を受けて、イリスの心にも憤りが顔を出した。自分ならいくら卑下されても耐えられるが、サイだけは傷つけてほしくなかった。
バチリと火花が飛び散りそうな無言の睨み合いが続き、馬車の中はピリピリとしていた。
「……そんな目が出来るなら、少しは根性があるはず。対等に扱ってほしいなら、強い姿勢を見せることは出来るでしょう?」
「私は貴方と対等だなんて思っていません」
この人より自分は出来る人間だなんて思う気持ちは毛頭ない。それ以前に生死を娯楽として楽しむ人を、比較としての対象に入るとは考えられない。
「いいでしょう、望む所です……そう言っている間にも闘人場へ着いたようですわね」
しかし挑戦として受け取ったアリターノは、口の端をつり上げた。そしてイリスの手を離そうとしないまま、強引に馬車から降りる。
「最後まで観賞することが出来たのなら、貴方を認めますわ。逃げるのなら――どんな醜い手を使ってでも正室の座を奪いますから」
イリスは高慢なまでの物言いに圧倒され、引きずられる様にして闘人場へ足を踏み入れた。
イリスは手を振りほどこうとしたが、華奢な彼女の体のどこにそんな強い力があるのか、びくともしなかった。
さらには家来である男が鈍い刃物をチラつかせて前へ進めと促してくる。これを脅しと言う以外何があるだろう。
円型の建物の中心には大きなスペースがあり、それを覆うようにして観客席が広がっている。
既に満員と言ってもいいほどの人で埋まり、がやがやと話し声が響いていた。周りの服装を見る限り、かなり裕福な暮らしをしているのが窺える。
アリターノに連れられて辿りついた席は一番見やすい場所だった。イリスは背後の男に迫られるまま、座ることを余儀なくされた。
「意気地なしの王女様には少々きついでしょう。こちらが初めてでしたら吐き気を催すかも」
「全て承知で、ここまできたのね……」
イリスは恨めしそうに見つめ、すぅっと息を吐く。顔色が悪くなり、鼓膜に入る音が乱れて頭が痛くなる。
視線を変えれば、砂混じりの床に血の赤が散らばっている。過去に闘いがあったことを証明していた。
「ふふ、何のことかしら。どこまでもつのか見物ですわね」
「あなたの気がしれないわ……」
イリスはざわつく周囲の熱気とは対照的に妙な寒気に襲われ、声を掠らせて喋る。
いざとなったらそばにいる男を振り切ることも頭に入れておく。しかし立ち振る舞いを見る限り、相当の使い手ということは分かった。
自分が剣術を扱えることを知っていたアリターノ。ということは、この男とまともにやり合っても勝ち目はないはず。
現実問題、こちらが根を上げるまで強制的に観賞させられる。
アリターノにどう思われてもいい。ただ、この場所から遠いところに行きたい。湧き上がる不快感は高まる緊張感とともに加速していく。
イリスは歯を見せて笑い合う観衆を信じられない思いで見ていた。
同じ人間だというのに、身分の格差だけでこんなにも違うのか。これが世の習いというのなら、どれだけ無慈悲で残酷なのか。
ゴゴゴと地響きのような騒音が聞こえると本格的な闘いの幕開けを予感させた。手に汗が浮かび、指先が小刻みに震える。
「これはこれは――…アリターノじゃないか」
突然聞こえた声に、イリスの肩がびくんと上がる。
この深い声に聞き覚えがないわけではなかった。エドームに来てから何度も対面した人。なぜこんな場所にと血の気が引く。
「まあ、ゼクス様。奇遇ですわね」
立ち上がるアリターノの視線の先には、優雅に佇むゼクスの姿があった。
さらにイリスは目を見開いて驚く。その原因はゼクスの後ろにいた、ディルだった。
向こうも同じような反応をしている。それから納得がいったように睨みつけて、ゼクスの肩を掴んだ。
「どういうことです……一体何の真似を」
「なぜそんなにいきり立つ。ただの偶然だろう?それとも……イリスがいて問題でもあるのか?」
ゼクスはちらっとイリスを見て、不敵に笑う。
「九年前の戦いの真相を教えてやると言われてついてきたのに、やってきた場所は闘人場とは……何を企んでいるのですか」
イリスはディルの放った言葉に耳を疑った。
九年前の戦いと言えば、サイとカモーアの争い。なぜゼクスがディルにその話を持ち出したのか、深い謎が浮かび上がる。
何か致命的なことを忘れているような不思議な錯覚がした。ドクドクと全身の血がざわめき始める。
「勝手な思い込みはやめてくれ。せっかく会ったのだから楽しもうじゃないか」
「冗談じゃない。陛下との謁見は終わり、エドームに滞在する理由はなくなりました。今日にでも発つつもりだったのに」
「そんなに慌てなくとも時間はあるだろう。お互い国を背負う者同士交流を深めようじゃないか」
「用件がないのなら城にもど……」
とディルが言っている途中でダンダンダンッとけたたましい太鼓の音が鳴り響いた。
かき消される声は虚しく散っていく。嫌な予感を残したまま、剣奴たちの死の決闘が始まりを迎えた。
展開される闘いにイリスは目を背けられないままでいた。
体の内側から冷たいものが込み上げ、刺すような悪寒が走る。繰り広げられる冷徹なまでの争いは観衆の熱狂を誘った。
なぜ、笑っていられるのか。
指をさして罵倒を吐き、悪態をつく。倒れていく人影に興味を失くしたかと思えば、次の相手に期待して金を注ぎ込む。
同じ人なのか神経を疑ってしまいそうになる。ゼクスもアリターノも当たり前のように観賞し、簡単に散っていく命のやり取りを愉しげに笑う。
「……お姉さま、ご覧にならないほうがいいです。貴方では酷でしょう」
放心状態のイリスを見て、ディルは冷めた顔をしながら囁いた。しかしイリスは青白い顔色で目に涙を溜めながら、唇を噛みしめる。
「これくらいで臆してしまうなんて、やはりお子様ですわね。どんな教育を受けてきたか存じませんが、甘ったれですこと」
「アリターノ、言いすぎは良くない。我々の価値観とは違う。慣れるまでには抵抗があるだろう」
馴れ馴れしく肩を引き寄せて微笑むゼクスからは、異国の香水が仄かに漂ってきた。
それでも迸る血の濃い匂いが鼻孔を支配する。イリスは悔しそうに瞳から透明の粒を溢れ出させて声を絞らせた。
「満足、ですか。貪られる命を遊戯のように眺めて……」
「ああ、人が悶え苦しむ様はいつ見ても飽きない。この世は力こそが絶対だ。弱き者は縋って生きるしかできない、無能で無意味な存在であり、社会の塵だな」
「そう、ですか……」
イリスは相いれない位置にある、彼らの"普通"に干渉する気はなかった。
胃の中にあるものが全て吐き出そうになる。育つ環境と慣習でこれほどまでの相違が生じるのだと思い知った。
「体調がすぐれない様だが、大丈夫かイリス?少し外の空気を吸ってくるといい」
「……アリターノ様」
「ゼクス様が仰るのであれば別に構いませんわ。ただ長居は無用です、私の執事がついていくのですぐに戻ってきてくださいね」
逃さないように監視はつく、と。
アリターノ自身、ぶつかり合う剣奴たちに夢中になっている。興奮しているのか、白い頬に薄い赤が染まっていた。
「では、失礼します」
イリスは一瞬だけディルを見て、悲しそうに目を伏せると外へ向かうために歩きだした。
後ろには複数の男が空気のようについてくる。見張られているのだと分かっていたイリスは構うことなく人の間を器用に避けていった。
やがて出口が見えると、陽の光を浴びるため、少し早足で先を進む。
この狂うような空間から一刻も早く逃れたかった。伸びる光を頼りに、イリスはやっとのことで外に辿りついた。
すれ違う人の波を潜り抜け、新鮮な空気を胸いっぱい吸い込む。
少し気が抜ければ、あまりにも惨い光景がフラッシュバックして涙が止まらなかった。
誰を責めても、誰を憎んでも、変えることが出来ない。どうしてこの世界は、こんなにも悲しいの。
「――そうやって泣いていれば可愛げがあるな」
その瞬間後ろから抱きしめられたイリスは、反射的に身構えて距離をとる。そこには彫刻のような微笑みを湛えたゼクスが、いた。
「いい反応だ。かなり鍛えているな」
パチパチと拍手するゼクスを怪しげに見つめて、イリスはもう一歩後ろに足を退く。
嫌でも警戒心が湧いてくる。全身をくまなく観察されているような、鋭い目が突き刺さってくる。
「女がここまで動けるとはな。元々筋がいいのか、鍛錬の賜物か……ますます興味をそそられる」
イリスは深い目と繋がった瞬間、体の芯から込み上げる冷たい感覚に恐怖が浮かぶ。
「私などに時間を削いでも何もなりません。ディルのことといい、一体何が目的ですか」
「別に?ただ、面白いことになっているな」
近くの壁にもたれかかり、妖しい艶を感じさせる含み笑いをする。
「イリスの身辺や過去から今までを調べたら、何ともオイシイ餌が近くに転がり込んでいると思わずニヤついた」
「どうして……!」
いつの間にそんなことをとイリスは顔をしかめた。
「ディル・カモーア。イリスの意中の相手は、アイツだろう」
イリスは露骨に感情が表に出てしまい、声を詰まらせた。
僅かだが取り乱した様子に当たりかと確信するゼクスは何とも愉快そうな顔をした。
「秘めた思いを押し隠しているのか。さぞつらい思いをしているのだろうな。ライアン如きじゃ満たされないだろう、俺に乗り換えればいい」
「わざわざそんな事を言う為にここまで来たのですか。私は私の意志があります。貴方に傾くこともありませんし、自分の立ち位置は弁えています」
「カモーアの王子のことは否定しないのか。初々しい思春期のような恋で微笑ましいな」
ゼクスは低い声でイリスに近づいていく。
何も言えずに強い瞳で見つめ返すだけのイリスはじっとして立ち尽くす。
ここまできて、活発に動く心臓の正体を隠すつもりはなかった。どうしようもなくディルが好きだと認めるしかなかった。
「強いながらも弱い面があるとは……無条件で守りたくなる」
イリスは徐々に迫りくる影に気付くと、身に危機を感じて視界に入った路地に逃げようとした。
アリターノの執事や複数の男は戸惑ったように一部始終を見つめている。王子の前ということもあってかどうすればいいのか混乱しているようだった。
「追い詰めるのも好きだぞ、イリス。どこまで行けるか試してみればいい」
背後から聞こえる声はゾッとするような響きがあった。
この人から離れなければ危ないと直感が働く。どんな手を使ってでも自分のものにしようとする意志が伝わってきた。
細い路地を駆け抜けるイリスは息を切らしながら、不気味な微笑を浮かべるゼクスから距離を取ろうと懸命に走った。
地の底を這い上がるような冷たい眼差しが恐ろしくて、方向感覚を無視してひたすらに足を動かす。
耳元で暴れる息が呼吸の邪魔をする。後ろの存在を意識しすぎて無我夢中になっていた。
気付けば知らない通りに出てしまい、イリスは周りの光景をみてヒヤッとした。まずい、と心が危険信号を発する。
裏の道の端には酒瓶を転がして壁に背中を預けながら寝ている男や、虚ろな目をして食料を探す少年が彷徨っていた。
ガチャンと鈍い鎖の音がして振り返ってみれば、足枷を強制された奴隷の列が続いている。
エドームで奴隷の存在は一般的になっている。主に生活が裕福な者が労働など使っていると聞いたことがありイリスは胸が痛くなったが、突き刺すようなゼクスの気配を感じて慌てて隠れようとした。
しかし筒抜けのこの道に身を隠す場所などなかった。ごくんと息を飲んで前を見据える。
「――もうかくれんぼは終わりか、イリス?」
息さえ切らしていないゼクスの周りにはいつの間にか男たちが集まっている。
大きな体格や隙のない構えから見て、ただ者じゃないことが分かる。一人なら何とかなったかもしれないが、複数になると勝ち目はない。
目配せして逃げ道を探しても、頼りになりそうなものは見えない。これ以上小道に入れば、どこに続いているか見当もつかなかった。
「観念して俺に捕まればいい。今身を差し出すなら優しくしてやるぞ?」
冗談じゃない、とイリスはジリリと足音を響かせる。こんな時こそライアンの助けを期待したいが、部下の人影すら見受けられなかった。
「助けなど来ない。ライアンの領地に数え切れないほどの火種を巻いてきたからな。部下総出で対処している頃だろう」
「私を捕まえて、何をしたいのですか……」
その貪欲なまでの執着に恐れすら感じる。尋常ではない目は狙いを定めた動物のような鋭さを増していく。
追い詰められているという感覚が体を鉛のように重くする。じわりと水が染みていくのに似て、音もなく広がる黒い支配が襲いかかってきた。
「満ち足りるまで何度でも抱いてやる。ライアンの所有物を穢すのは己の快楽と同種だからな」
「……っ」
狂いのような汚濁した感情を纏って、ゼクスはただにやりと笑う。
ライアンの同じ血が通っているのか疑問が湧く。まだあの人には小さな優しさがあった。しかしこの人には底の知れない闇を感じる。
自らの欲求に従うまま、望みが叶うなら誰が傷つき犠牲になろうと厭わない。それは国の王子という存在が成し得てきた権力の全てだと思い知る。
「気高く美しいものを陥れるのは中毒のようなものだ。何度でも病み付きになる…さぁ、俺の元へこい」
「お考え、直しを。貴方の気が晴れるとも思えません」
最後の期待に縋りつくようにイリスは訴えかける。しかし、ここまで来て引き下がるとも思えなかった。
「思い通りにならない女を屈服させるのも悪くないが、少々痛みが伴うぞ」
「今一度、申し上げます。お考え直しを」
時間を稼ぐために言葉をゆっくりと落とす。
逃げ場のないこの空間。このまま獣の餌食になるだけなのか。イリスは必死で頭を巡らせた。
そして視界の端には大きな橋と流れが早い川が見え、一か八かの賭けに出るかと心に問いかける。
もし打ちどころが悪かったら最悪の展開を迎えるかもしれない。それでも大人しくゼクスに抱かれるのは嫌だった。
「茶番はここまでしようか。行け、蟻共」
低く声が聞こえれば、躊躇う暇さえ与えず、男たちが一斉に襲い掛かってきた。
「―――ッ…!」
イリスは最初に迫ってきた男をギリギリで避けると、苛立ちも含まれているのかドレスを託しあげて鳩尾に一発食らわしてしまった。
後はもう本能で、次々に視界に入る男の腕や足に蹴りを入れて何とか防御する。しかし女一人で勝てるわけもなく、ある男に自分の手を握られた。
「離してッ!」
だめだ、敵う筈がない。いくら暴れてもいずれは組み敷かれる。
一気に抑え付けられるかと思ったが、矢のように飛んできた石が男の頭に直撃すると、拘束の手が緩んだ。
「え……っ!」
地面に沈む男は気を失ってしまったのかぴくりとも動かない。顔の横を通過する固形物は空気を裂いて男たちの頭へ命中していく。
誰でもいい、助けてくれたのか。イリスは相手の顔も確認出来ないまま、訪れたチャンスを逃さずに残りの男と距離を取った。
でも前に立ちはだかるゼクスの姿に息がつまる。圧倒的な存在が迫り、地に足がくっついたように動けなくなる。
「何をしている!早く逃げろ!」
ディルの声が――聞こえるまでは。
魔法がかかったように足が動く。視界にディルの姿が映れば、勇気が湧いてきた。イリスの逃げる道を作るため、くよくよ考える暇さえ与えられずにディルはゼクスの馬乗りになる。
やはり来たかカモーアの犬め……と、ゼクスの口が小さく動いたのが見えた。
「っディル!」
折角身を挺して時間を稼いでくれるディルの思いを無駄には出来ない。
揉み合いをしている二人の側を必死で走り抜け、心配そうに一瞬振り返ろうとしたが、他の男が剣を持って走ってきた。
女一人に剣まで使おうとするなんて。あんな鋭利な凶器で切りつけられたら、かすり傷では済まされない。
ギラついた目が今にも襲いかかろうとしている。イリスは一心不乱に駆け出した。
「待てぇ!!」
待てと言われて待つ輩がどこにいるというのか。
イリスは大きな橋の前までやってくると、一呼吸おき後ろを向いて対峙しようとした。
勝算はない。でも上手く隙をついたら、川へ突き飛ばせるかもしれない。ディルを置いて逃げるなんて考えられなかった。
イリスが諦めたのかと男はにやりと笑みを浮かべて勝利を確信した。
「っつ!」
イリスは冷静だった。数歩の距離に迫っていた男の動きを直感で見破る。イリスは振りかざしてくる剣を紙一重で避け、勢いに流れるまま大きな巨体が川へ吸い込まれる。
驚きで見開かれた男の顔がゆっくりと落ちていく――と思ったら、ガシッと腕を掴まれた。
「え……?」
最後に油断した数秒がイリスの運命を左右する。バランスを崩した体は宙を泳いで、川へ男と共に沈んでいこうとしていた。
やってしまったと後悔したが、もう遅かった。
「イリス!!」
ちらっと見せたディルの顔が今まで見たことがないほど、焦燥に歪んでいた。
距離のある伸ばした手が、絡み合うことはない。そのままイリスは流れが早い川へ消えていった。
「く、そ……っ」
ディルは余裕などない様子でゼクスに蹴りを入れると、上着を脱いで躊躇いもせずにイリスの後を追いかけた。
バシャンッと大きな水温が響き、ゼクスは橋の上から流れていくイリスやディルを見つめる。
「後先考えずに飛び込むとは。そんなにイリスが大事か」
おもしろい、と笑いをこられきれずにゼクスが呟く。
ここは、深い。水の中にいる圧迫感が体の自由を奪っていく。
酸素を求めても急な流れの川は動きを遮ってくる。泳ぎは得意な方ではなかった。水の抵抗が足を重くさえ、徐々に沈んでいくのが分かる。
ああ、どうしてと自分を責めた。元を辿れば、あの日ゼクスに気に入られることがなければ、こんなことは起きなかった。
軽視していたのだ。まさかここまで周到に追い詰めようとしているなんて考えられなかった。ライアンにも気をつけろと言われたのに、何をしているんだろう。
消えていく水泡を片目で確認すると、もがく力がどんどん弱まっていく。
何度か水面に顔を出してひゅうっと空気を取り入れたが、思うようにいかない。
「あっ、う……」
流れが緩やかだったらまだ泳げたかもしれない。
急き止められる事のない強い小波が自由を奪っていき、ついにイリスは完全に水の中へ入った。
このまま死んでしまうのかと思ったら恐ろしくなる。しかし、息が出来ない苦しさが生への執着を薄れさせる。
記憶にあるシンディも、暗い影に手探りされるような恐ろしさを味わったのだろう。
まだやるべきことがたくさんあるのに。誰にも知られずただひっそりと終わりを迎えるのだろうか。
ディルも助けてくれたのに……ごめんねと口が動き、残りの息が消えていく。もう会えないかと思ったら、どうしようもなく悲しかった。
「イリス!」
その時、誰かが腕を引っ張り上げた。強い力で上昇する体は一気に日の光に照らされる。
「けほっ、は……あっ!」
胃の中に入った水を吐き出す。息ができない。水浸しの髪と顔が重い。
目と鼻の先にはディルが安心したように息をついた。上手く波に乗りながら、イリスに怪我がないか確認すると、大丈夫ですかと掠れた声を出す。
「へ、いき……っ」
「無事なら、よかった。でも、さすがにこの流れは……キツい」
ディルは抱きしめる力を強くして這い上がる場所を探すが、川の幅は広い。
このままじゃ二人とも危険だということは分かった。しかしどうすることもできない。
ディルばかりに負担がかかり、イリスは息をするだけでも精一杯だった。しがみ付くしかできず、どんどん先へ流される。
「ディル……離し、て……貴方だけ、でも…助かって…!」
「馬鹿なことを……死んでも、離さない」
こんな状況じゃなかったときめく心臓を抑えきれなかっただろうが、今は余裕がない。
落ちた地点からかなり流されたようだった。廃れた街並みが消えていく姿を鈍る視界がとらえた。
ディルは離すまいと力を入れて、弱っていくイリスを引き寄せる。ドレスにかかる負荷がイリスを沈めようとした。
体力ばかりが奪われて、冷たい温度が体を蝕んでいく。ディルはイリスの様子を見て焦ったように唇をかみしめる。
ディルも左肩の傷口が開きかけている。薄っすらと血が滲み始めた。
すると大きな岩が前方に迫ってきていた。まずい、とディルが素早く反応したが接触は避けられなかった。
「っつ――…!」
ガン!と鈍い音が響き、咄嗟にイリスを庇ったディルの背中がぶつかる。その拍子に強く抱きしめていたディルの手が緩み、イリスと距離が生まれた。
「あっ…!」
小さな声が漏れる。もう遅かった。二人の手は後少しのところで結ばれることがなく、どんどん離れていった。
「――ディル!」
「イリス!」
この時はお互いの身分や地位など関係なく、ただ望むまま名前を叫んだ。
やがて引き裂かれる距離は、沈んでいく体とともに見えなくなった。イリスは暗い闇が手招きしているのを感じながら、最後にぎゅっと目を閉じた。
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