亡国の王子の復讐

朝日

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恋しくて、切なくて Ⅱ

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「上出来だ」

ライアンは嬉しそうに微笑んで、イリスの頭を優しく撫でる。ほっと安堵する自分が不甲斐なく思えて、涙が静かに頬へ流れていく。

そして相手はイリスの下部へと視線をずらしていった。いち早くそれに気付き、慌てて首を振る。


「ま、待ってくださ……!」

「焦らされるのは嫌いだろう?一度イっておけ」

コプッと濡れた秘部へ入れられた指は遠慮なしに掻き乱され、背中が弓なりに曲がった。グジュグジュッとわざと大きな音を出され、羞恥心が込み上げてくる。


イリスの白い頬には薄い赤が滲み、切なげに細められた瞳には色気が漂う。

ライアンの瞳に映る己の恥ずべき姿に情けなさや嫌悪が襲い掛かり、目をぎゅっと閉じた。


「や、あああ……!」

ジュクッと勢いよく抜かれた指と同時にイリスは震えながらびくん、びくんと達していた。

秘部を隠そうとギリギリまで閉じられた足には透明の液体が見え隠れしている。乱れた息を整えるため、ゆっくりと呼吸をする。イリスは、唇を噛みしめていた。


「派手にイッたな」

「はぁ、はあっ……こんな、乱暴にっ」

恨めしそうに潤んだ目で睨みつける。


「喘ぎながら達したくせに、そんな目で見るな。悪くはなかったはずだ」

「……待ってと、言ったのに…」

機嫌を悪くするイリスにライアンは幼い子供を宥めるようなあやし方で笑う。


「そんなことさえ考えられないほど、快楽に沈んでしまえばいい」

既に上を向いたソレに目がいき、イリスは一瞬息を止めて衝撃に備えた。

途端に広がるその質量の大きさにきゅっと入口が苦しくなる。

はっ…と耐えるような息遣いが漏れたら、ライアンの指がイリスのものを絡まり、緩やかな律動が開始される。


「あ、やぁ……あっ」

粘着音が脳内に響き、開かれた足から覗くライアンの顔を見て、目からは雫が零れ落ちた。


「もうすんなりと入るようになった。俺を離そうとしない。そんなに締め付けたいのか?」

「抜いて、くださ……ッ、ああ!」

「ココがいいんだろう?いつも嬉しそうに啼くくせに」


あらゆる敏感な箇所を突かれ、次第に息が上がっていく。
 
止まる事のない動きと、胸や腰に悪戯に伸びる手に、神経が徐々に痺れを感じていった。

何分そうしていたか分からないほど、緩慢に焦らすようにゆっくりと奥へ進攻していく。強く理性を保っていないと、この先を願ってしまう……むず痒い感覚にひたすら耐え抜く。



「――あ…ッ!」


ドク、ン。


「く…っ」


ライアンは小さな声をもらしながら、微量の汗を垂らした。


「っふ、あ……はぁ……はッ、それ以上……出さ、ないで!」

苦しい息切れが訪れ、ライアンの熱い液が自身の中へ注ぎ込まれるのを何とか阻止しようとした。

今使える小さな力で精一杯もがくが、ライアンは離そうとしない。ドクン、ドクンッと脈打つ存在感はさらに膨らみを増し、ズキュッと最奥へ放たれる。


つるんと滑る汗が艶やかな体にしたたる。やがて二人は深い口付けを交わしていた。


「前、教えてやっただろう。舌を絡めて、実践してみろ」

「ん、うッ……やって、ます」

レロレロッと触れられる舌に何とか応えようとして躍起になる。

どちらか分からない銀の糸が口の端に伸びていく。

どうせこの時間が避けられないのなら、ライアンの気が済むその時が早く訪れるのを待つしかない。

逆らっては、この人の気を悪くさせてしまう…


「こ、ぉ……ですか……?」

不安そうに覗きこまれるイリスの顔に、ライアンは少しだけ表情を崩した。

涙の煌く瞳は微かな揺らめきを放ちながら見つめ、ライアンはその無防備で震える姿に欲望を感じられずにいられない。


「そうだ、そのまま舌で唇を舐めろ」

「ッ、んん……」

屈辱なまでの行為に自身への不快感はさらに高まり、顔色は曇っていく。

自ら望んだことではなくとも。自分から、している。一刻も早くこの行為から逃れたい為に、夢中でライアンに奉仕する。


「拙いが必死さは伝わってくる。その点では評価してやろう」

んぷっと荒っぽいキスに変わり、ライアンが今度は先導していった。

腰が抜けるような、頭が真っ白になるような……ただ、力が入らない。クラクラとしていつの間にかライアンに寄りかかっていた。


「そんなに良かったか?」

「……っ」

返事をする余裕もなく、イリスは肩で息をしながら顔を背けていた。

ライアンは無言で微笑みながら、イリスの長い髪を掬う。一本一本が指に絡みつくことなく、すっと抜けていった。

そして抱きしめる手は、少し強かった。


「お前の髪は星の輝きのようだな。月の光によって、色を変える」

「……それは、ライアン様だって…」

「イリスだから、そう感じるのかもしれない」

未だに小さく息を刻むイリスを隣に寝かせると、腕枕をさせる。

行為が終わったことへの安心感に包まれ、疲れた体を一時休ませた。

裸のまま向き合うのは恥ずかしい。しかし今日は一段と体が重く、動く気にはなれなかった。


「そういえば、サイはもうすぐ星夜祭だったな」

「ご存じ、でしたか……」

「俺も来賓として参加したことがある。一年に一度、最も夜の星が輝くとされる日に、篝火を照らしながら皆で星を観賞し宴を催す祭りか」

「そう、です」


本来ならば今年も行われるはずだった。

この人が攻めてこなければ、大事な人と過ごす特別な日を、失うことはなかった。

今思い出しても虚しさだけが胸を満たし、イリスは睫毛を伏せた。



「今年も星夜祭を行う」

突然告げられたライアンの言葉に、思わず耳を疑って顔を上げる。星夜祭を行うなんて……これはサイの行事であって、エドームが好んで開かれるものじゃない。


今までに他国の王族を招いて主催したことは何度もあるが、属国になった現在では計画されることもなかった。

過去の星夜祭の評価は悪いわけでもなく、国民も年に一度の祭りを楽しみにしていた。


「今年、も?」

ただもう一度、あの星々が瞬く素敵な夜を見てみたいと思う。

こんな願い、叶う筈もないけれど…隣に父や皆がいてくれたらどれだけ安心できるだろう。


「ど、どうして……」

イリスは気になって、ライアンにたずねる。


「お前の喜ぶ顔が見たいからだ。いつまでも沈んだ顔をしているのは気分が悪い」

私を想って、と少なからず驚いたイリスは静かに瞳を揺らす。


「……そこまで落ち込んでいるように見えましたか?」

「気付いていなかったのか?今だって暗い顔をしている」

つぅー…と顎の筋を撫でられ、戸惑うイリスの視線がゆっくりとライアンに向かう。


星夜祭が行われたら少しは皆の気も晴れるかもしれないと期待感が膨らんでいく。

今は心安らぐ場が必要であり、緊張感に縛られている城内に、つかの間の休息を与えたい。準備するのは大変かもしれないが、これから先を見つめ直すいい機会になるかもしれない。


傷心しているシンディや他の騎士達にも、癒しになれるように願う。


「ライアン様……私も、星夜祭を見たいです。お願いします」

「今日は珍しく素直だな。思い出深いのか?」

「はい。大事な思い出がたくさんあります。だからもう一度、実現させたいです」

初めてこの人に直接的な願いを申し出た気がする。

純粋に望んだ思いを叶えて欲しい。皆にとって明るい星が光りますようにと祈ろう。


イリスはライアンの手をゆっくりと包みこんだ。


「ああ、いいだろう」

そしてライアンは小さな笑みを落とした。
 


驚いたことに、ライアンは内密で星夜祭の準備を始めていたらしい。

昨晩、監視の目を掻い潜って城下へ出ることに成功したロズは今の都の現状を伝えてくれた。


王都はエドームの騎士を中心に見張りの中にあること。それでも国民は以前のように暮らしながら生計を立てているとか。

ただ物流や資金の関係、その他を含めてエドームの上の許可が必要になってくる。

街道には人が溢れ、エドームの賢い人間が上手く売買を図って取引も行われているようだった。

想像したような不当な自由貿易の心配もなさそうで、弾圧的な指令は何も出ていないらしい。


「……それじゃあ、前よりも豊かになりつつあるの?」

「あの王子の計らいのようです。高圧的な支配よりも開放的な条件で市場を取り仕切っているようでした。民も嫌々ながらというわけでもなく、商売には協力的な姿勢で驚きましたね……」

「まさか……エドームの人たちがやりたい放題をしているかと思っていたのに。それでも裏で汚職の横行があったとか?」

「一般人には情報は回ってこないようですわ。権威をつかって安価の取引された、などの報告も伝わっていないと」


イリスは驚きを隠せないまま、考え込むように机に頬杖をついた。

一晩でここまで調べ上げたロズに感謝しつつ、想像と異なった王都の様子を思い浮かべ、目を閉じる。

徹底された監視をされない限り、エドームの人間が規律に従うと思えなかった。


「――…あの人の力、というわけね」

「よくここまでまとめ上げたと思います。影で苦労は絶えなかったはずですから」


ロズはあまり人を褒めるようなことはしない。特にライアンに対しては、称賛するどころか憎く思っているだろう。

しかし王都の現状を見て、ロズはライアンの力を認めた。イリスの中で、ライアンという存在が恐ろしくなってくる。あまりにも、大きすぎて。


「ロズ、調べてくれてありがとう。大変だったでしょう?」

「いいえ、城下には知人が多くいますから楽に情報を集めることができましたわ」

「ごめんね、手間をかけさせて…私は城下に出ることができないから。こうやって聞くことしか出来ないわ」

申し訳なさそうに謝るイリスをロズは優しい顔で微笑む。


「いいえ、イリスのお役にたてるのでしたら何でも致します。だからどうか、お一人だと思わないで下さいね」

一人。

その言葉がずっしりと心に響いていく気がした。四六時中襲い掛かる不安をロズは見透かしていたのだろうか。


「ありがとう」

イリスは笑みを湛えてロズの手と自分の手を重ねる。そうするとロズははっと思い出した様に口を開いた。


「そういえば最近シンディの様子がおかしいのです。イリス様、何かご存じですか?」

「一度私の部屋に来て、今抱えている思いを話してくれたわ…恋人を亡くしたから無理もないわ。そしてエドームの行為を良く思ってないみたい」

「シンディはここのところ上の空で、ぼうっとしています。何を聞いても平気だと言っていますが、きっと何か悩んでいます」

イリスは怒りを宿したシンディを思い浮かべ、悲しそうな顔をして呟く。


「心の休息が必要だと思うの。シンディを地方に帰してゆっくりと休んでもらうこともできるわ。このままだと激情に流されて、誰かを傷つけてしまうかもしれない」

シンディの気持ちを考えると、胸が痛い。


癒される事のない痛みと苦しみを生涯背負っていかなければいけない。仲が深いほど、その重さは増していく。

カーマとは仲睦まじく城内でも微笑ましい光景をして皆が二人の未来を祝福していた。シンディはどれほどの悲しみに襲われたか…図り知れない。


「そうですね、シンディとも話してみます」

ロズも心配そうな顔で言った。



イリスはこの日、ウィールとサミルと会う時間を作っていた。

二人とも嬉しそうな顔をしてイリスのそばに駆け寄ってくる。イリスは心が癒されていくのを感じた。


「お姉さま、星夜祭がおこなわれるって本当ですか?」

どこで聞いたか分からないがウィールは既に知っていたらしく、わくわくするような目で尋ねてきた。

サミルもキラキラした顔で、イリスの答えを待っている。


「ええ、そうよ。今年も星夜祭を楽しめるわ」

「僕、もう見れないかと思っていました。これで皆も少しは笑ってくれるかな……」

「ウィール……」

ちょこんとイリスの膝の上に座るサミルを引き寄せながら、ウィールの気遣う言葉に胸がつまる。

こうやって弟にも心配をかけて情けなく思う。もっと力があったなら、安心して暮らしていけるような環境を整えることができるのに。

現実問題でほぼ不可能だと知っているが、歯がゆい思いを持っていた。


「お姉さま。お父さまがいない今、僕が王様になるかもしれないのですか?」

「ウィール、大丈夫よ。貴方に重荷は背負わさない。不安に思わなくていいの、これからも私が動いていくからね」

安心させるように頭を撫でてウィールも抱きしめる。


こんな小さな体で全てを抱えるようなことをさせない。時期が来れば考えるが、今はその時期ではない。

各所の大臣もこれからの方針を打ち出してきているが、国家安定のためウィールを王にし補佐の宰相を任命させるべきとの意見もある。

イリスはまだ早いと首を縦に振ることはないが、どうするか悩んでいた。

自分が一時的に即位しても、こんな事態を引き起こした張本人に国民が納得するとも思えず、なかなか渋っている。


「でもッ!お姉さま一人で……僕、何にも出来ていない」

「ありがとう。私は皆がいてくれたらいい。それが何よりの幸せよ。こうやってサミルみたいに笑ってくれたら元気になれるわ」

年相応の無邪気な笑顔で甘えるサミルを大事そうに見つめながら、ウィールにも微笑みかけた。


「今は星夜祭のことを考えましょう。お勉強した星の名前もまた聞かせてね」

「はい!僕、たくさん覚えたんですよ。サミルにも童話を読んであげたりして過ごしてますっ」

これまでの暗い顔が姿を消し、ぱっと明るい表情に変わるのを見て、イリスも自然と口が綻んでくる。


「そうなの、ウィールは本が大好きだからたくさん読むのね」

「僕がおとなになったとき、お姉さまの力になりたいから、今からお勉強しようと思って」

「あらあら、それは楽しみね。頼りにしているわ、王子さま」


その後は本を読み聞かしてあげたり、必死でイリスの顔を描いているサミルの絵を眺めたり幸せな時間を過ごした。




星夜祭まで、もう少しだった。


あっという間に日々は過ぎ去り、星夜祭はやってきた。

前々から準備を進めていたこともあり、当日は何の混乱もなく行われるようだった。

当初はサイの騎士達もやる気はなかったが、イリスの声もかかり、積極的に参加してくれるようになる。


「――早いわね…」

イリスは窓によりかかり、遠くの街を眺めながら静かに呟いた。


王都には見張りの兵が厳重に置かれ、昼すぎからは出店が開かれ、明るい雰囲気が伝わってきた。

絶えず音楽が鳴り響き、不仲だったエドームとサイもこの日は協力し合って祭りを仕切っていく。

本来ならば王族であるイリスも国民の前で顔出しを行うが、今日はもちろん行われない。


ただし夜は星の観賞をするため、ライアンと共に久しぶりに城下にくだる。

自分の喜ぶ顔が見たい。そう言ったあの人に、私はどんな顔をすればいいのだろう。


午前までいつものように公務に追われ、午後からは祭りの宴に顔を出すように言われていた。

しかし書類が片付かず、日が傾きかけた頃にやっとドレスに着替え、夜から参加することになった。


「ロズ、このドレスは……?」

「ライアン様が選んだものです。よくお似合いですよ、イリス様」

淡い紺色で胸元に繊細で細かい金の刺繍が施されたドレスを着て、イリスは鏡の自分を見つめた。

足にかけて段が組みこまれ、照明が当たると艶が光り、上品な雰囲気に包まれている。

媚びるような要素もなく、可愛らしさも控えめな落ち着いたドレス…あの人が選びそうなものねと考えた。


次第に夜を迎え、あたりは徐々に薄い闇に覆われ始めていた。火も灯され、風も強くなく順調に進んでいるように思えた。

この日はお城の人間も城下に足を運び、街の大通りも人がいっぱいだった。


「行きましょうか」

後ろにロズがひかえて、イリスは和やかな音がする場所へ向かっていった。


宴が催されている広間にいるのは談笑する騎士が基本で給仕の紳士も常に巡回している。

サイの王侯貴族の参加も目立ち、華やかな空間が広がっていた。

イリスが開かれた扉の前に立つと一気に視線が集中して、一瞬だけ沈黙が生まれた。

 
時間が止まった様に感じたがすぐに動き出し、イリスの元へ挨拶するために何人かが歩み寄ってきた。

イリスもすぐに笑みを浮かべて一人一人丁寧に挨拶をしていく。



「イリス様」

ふと後ろから声をかけられ、イリスはさっと振り向く。


そこにはミレイアが大胆な赤のドレスを纏って優雅に立っていた。綺麗なお辞儀をすると、意味深い笑みで視線を返す。

そばにはいつもの侍女が控えめな衣装で待機していた。内心脅えが生まれたが表に出さないように心がけ、イリスも直立して一礼をする。


「こんばんは、ミレイア様。今宵は星夜祭にご参加頂きましてありがとうございます。ぜひお楽しみください」

「ええ、とても楽しみですわ。素敵な夜にしましょうね、私も、イリス様も」

クス……とゆっくりと微笑みながら、給仕の紳士からワインを受け取り、味を確かめるように角度を変えながら色合いを照明にあてる。

その仕草に自然と目がいってしまい、大人な雰囲気を全面に醸し出すミレイアはグラスのワインを飲みながら、妖艶な笑みを深めた。


この広間にいる人間はミレイアとイリスに興味がそそられる。それぞれ違う美しさを兼ね備えた二人が並ぶと違う世界が広がって見えた。


「カモーアも招待して下さるなんて、さすがライアン様。それにお兄様とゆっくり星を観賞できるなんて幸せです」

嬉しそうな顔は本心からのようで、ミレイアは可愛らしい声を出す。

ディルも参加する。イリスは一瞬だけ動揺したものの、平静を保つ。


「ディル様もいらっしゃるのですね。どうぞよろしくお伝えください」

「ええ、お話しておきますね。イリス様もライアン様と熱い夜をお過ごしください」

どこか勝ち誇ったかのような表情でイリスの隣を通って行くミレイアは短い会話を終えると広間から外へ出ていった。


きっとディルと待ち合わせをして、城下におりる…二人で肩を並べて寄り添い合い、他愛のない話をして、過ごすのだろう。 

そんな光景が頭に浮かんで、少しだけイリスの手が震えた。

目に込み上げる熱は、何を示すのか…理解したくないのに、ただ思いだけが行き場所もなく彷徨う。

忙しい日々の間に仕舞い込んだあの感情がまた息吹を上げて迫ってくるような気がした。


「イリス様、どうされました?」

動かないイリスが気になったのか、ロズが後ろから声をかけてくる。


「何でもないわ……ごめんね、少しだけ一人になりたいの。ライアン様との合流にも時間があるし庭園を歩いてくるわ」

「しかし……」

「大丈夫、人目がある所を選ぶから。今日はいつもより警備も多いし安心して、ね?」

イリスの言葉を止めることはせず、ロズは不安そうな顔をしながらも、好きにさせてくれた。

すぐに戻るわと伝えて、踵を返す。


穏やかな音楽が聞こえる広間を後にして、イリスは小走りに庭園へと進んでいった。



――今は、誰にも会いたくない。

この気持ちに蓋をして、開かれることがないように何度も何度も分厚い鎖で結びつけても。

ライアンに抱かれる度、暗闇に孤独を感じる度、思い知らされてしまう。


こんなにも、依存していたのだと。

醜い執着でどこまでも面影を探すような真似をして。どれだけ浅ましい女なのだと自分を呪いたくなった。

些細な波紋で決壊していく。僅かに揺さぶられただけで、炙る熱が再発する。


たまらなく、嫉妬してしまう。


「……どうして、貴方なの…」

いっそのこと、ライアンに心を開いていればどれだけ楽だっただろう。

強引でも愛されているという実感は持てたかもしれない。届かない思いを抱えることもなかったかもしれない。


馬鹿ねと一人で心の中に呟く。

期待でもしていたの?ほんの少しでもいい、自分と同じ思いを向けてくれるかもしれないと感じた?

諦めることができず、過去の記憶の連鎖を続けて、今を逃避する。


夜空に広がる星の輝きが視界に入り、徐々に歪んでいく。

こんな姿を見られたくないと思い、瞳の涙を拭って、花で覆い尽くされたアーチの道へ進んだ。

人一人が通れるほどの横幅のロードは、大輪の花々の中で甘美な香りを放っていた。

前へ真っ直ぐ足を踏み入れれば、ゆったりとした緩急なカーブを描き、他の道へと繋がっていく。


幼い頃、星夜祭でディルを連れてこの道を二人で歩いたことを思い出す。

嫌がった顔を笑顔に変えたくて、花風に揺れる庭園に誘いこんだ。

星を見つめる横顔のそばにいつまでもいたいと思い、奥の東屋に座り寝ているフリもした。

気付かぬうちに近づいた距離が嬉しくて、ディルの手をふわりと包みこんで。


「ディル……」

どうやったって、あの頃には戻れない。分かっているけれど、この優しい余韻に浸っていたい。

イリスは夜風に吹かれる庭園の隅で静かに目を閉じた。この道の奥には、あの小さな東屋がある――。


「……リス…?」

迷い風に紛れて聞こえた愛しい声に、イリスは薄っすらと目を開けて前を見据えた。

自分が創り出した幻惑かと思う程、淡くて。


鈍る視界の先には月明かりで銀髪が照らされた、ディルの姿があった。



「――!」

イリスはカッと顔が赤くなり、反射的に一歩足を退く。

名前を呼んだことに気付かれたのかと、恥ずかしくなってまた一歩と後ろに下がる。

向こうも少し驚いたような顔をして、何も言わず見つめ返してきた。正装を着ているということは、星夜祭に参加する途中だったのだろう。


「どうして、ここに……」

想い出に縋りつくように訪れた場所には、ディルがいた。イリスは微動だにしないまま、切なそうに顔を歪める。

お互い数秒の間をあけて、ただ瞳にその姿を映した。胸の鼓動がバクバクと高鳴り、全身に小さな震えが伝わってくる。



どうにかなってしまいそうだった。


「お久しぶりですね、お姉さま。こうやって二人で会うのはいつぶりでしょうか。お元気でしたか?」

張りつめた沈黙の後には、ディルの方から話しかけてきた。戸惑いすら感じられず、冷たい夜風のような眼差しで薄っすらと笑う。

イリスは涙が溢れ出てきそうで、流すまいと目に力を入れて、一文字に口を引き結ぶ。


「げ、んきよ。貴方も息災で、何よりね……」

声はか細く揺れて頼りないものになった。ディルを見つめることができず、顔を下に向ける。

伝えたい、届けたい思いがあるはずなのに、何も言えない。動揺しているのを悟られたくないのに、渇いた喉を詰まらせてしまう。


以前なら自然体のまま話せたのに、相互の立場をはっきりさせるかのような空気がディルから放たれる。もう、あの頃には戻れないのだと無言で突きつけられるようで、イリスは胸が痛くなった。


「最近は幸せそうで羨ましい限りですね。ライアン様に愛されて嬉しいですか?」

「……え?」

いきなり出た言葉に思わず聞き返す。一体何を言いだすのだろう、と意味を理解するのに時間を要した。

冷え切った目が交わると、抑えていた涙が伝いそうになり、慌てて視線を逸らす。


「私が、幸せそうに見えるの?」

「ええ。満更でもなさそうな感じでしたけれど」

ディルのひやかすような言い方にイリスは小さな動揺と受けて、ゆっくりと俯いた。


「貴方の目から私は、そんな風に映るのね……」

さぁっと無色の風が通り過ぎ、静かな沈黙が流れる。誰にも邪魔することができないような空間には、ただ二人が向かい合っていた。



「自分が悲劇の姫だとお思いですか、お姉さま」

そう言うと、月影を浴びたディルがイリスの元へ足を動かしていく。 

ドクン、ドクンと震えるような心音が鐘のように響き、徐々に縮まっていく距離を感じてイリスは強い緊張に縛られる。

聞きなれた足音がかなり近くまでくると、イリスは思い切って顔を上げた。質問の答えを、そっと零れ落とす。


「貴方に比べたら、今を悲劇だなんて思わない」

あと少しで手が届きそうなほど、目の前にいる。今どんな顔をしているのか、分からなかった。

体が自制を踏み越えて、己の欲望に身を任せてしまいそうになる。今圧し掛かる全てを無視してディルの胸に飛び込んだなら一体どんな反応をするのだろうか。


だけど、もうその場所は、あの人のもの。


「それでも、愛しい人と再び会えて、貴方も少しは報われた……?」

イリスの消えかけた声は薄闇に吸い込まれていく。


「ええ、これ以上望むものはないほど」

ディルの銀の睫毛はゆっくりと伏せられる。



「そうね……貴方はもう、大事なものを取り戻した」

これからの時間が交差することはない。決して交わることのない平行線を辿って、長い未来に繋がっていく。すぐ隣にいた温もりは過去の一部となっていくだけ。


「望んでいた復讐も、叶えることができた……」

記憶の残像が脳内にフラッシュバックする。

濃い赤で埋まっていく地面を見つめるしかできなかった、父が息をとめたあの瞬間。

経験したことがない痛みと苦しみを覚えた。同時に、心の深淵に浮かび上がった小さな怒り。


それが憎しみだと、言葉にしたくなかった。だけれど勝るほどの感情が渦のように込み上げてくる。


「どうして、泣いているのですか?」

気付けば頬から流れる涙が淡い光となって消えていく。ディルは何の感情も浮かばないような顔でたずねた。


「貴方は……その理由を知って、どうするの?」

イリスは悲しそうな瞳をしたまま、静かに聞き返した。


そうするとディルは一瞬だけ顔を歪め、イリスの細い手をガシッと掴み、自分の首へ持ってくる。

いきなり触れられたイリスはびくっと肩を動かし、呆然と見つめる。次の瞬間、繋がった視線の鋭さに体が強張った。


「……私が、憎いんでしょう?今すぐでも剣を握って、喉元に突き刺してやりたい。そう思っているはずです」

あと数ミリで届く首元にイリスの指先は微かな震えを刻んでいく。

脅えているわけでもなく、恐怖しているわけでもない。ただディルの体温を感じる箇所に熱が集中していった。


どうしようもなく、あつい。


「そんなこと……!」

「私は忘れません。あの王の心臓を貫いた時、お姉さまが浮かべたあの表情。明確な殺意が滲み出ていました」

ぎゅっと手を強く握られ、心臓が早鐘を打っていき、イリスの顔も赤くなる。


「ええ、あの時は貴方が憎らしかった……止められるなら体を張ってでも止めていたもの。でも私は……私は、貴方を止めなかった。早く殺してと言った!」

痛みから出る叫びのような掠れた声で、嗚咽を零しながらディルの方を向く。


「もう、触れないで……」

この思いが、小さな悲鳴を上げている。近い距離なのに、存在が掴めないほど遠い。


なぜ、そんな目で見つめるの。

イリスはゆっくりと手を離し、抱えてきた感情を溢れ出すように口を開く。


「ディルが幸せならそれでいいの。ミレイア様もカモーアの皆だってそばにいる。素晴らしい国も出来ていくでしょう。私の入る隙間なんて、ないものね」

「お姉さ……」

「今まで自由を奪って、追い詰めるほど苦しめて。私の意志じゃないけれど、貴方に怪我だって負わせた……本当に、ごめんね」
 

謝るしかできない。もうそれ以上何も言わない。


イリスはそのまま立ち去るため、月光に揺れる涙を散らしながら踵を返そうと――

した。


「そんな簡単に謝って、許されると思っているの?」

ディルの手が、それを阻んだ。



「……っ、ディル?」

「どれだけ私が傷つけられたか、お姉さまに分かりますか?やっと手に入れた自由で私が満足しているとでも?馬鹿にしないでください」

間近に迫る怒りのような形相のディルに、戸惑いを隠しきれないまま、イリスは瞳を揺らす。


「触れないで……」

「あいつに触れられて平然としているくせに。本当は喜んでいるのではないですか?毎夜毎夜、ヨガって啼いて求めているのでは?」

「やめて……っ!」

「首筋にだって赤い痕を散らして…無防備に見せ付けて恥ずかしくないのですか?わざとそうしてるとか?だとしたらとんでもない人ですね」

「――もう、触れないでっ!」

イリスは責めるような言葉の数々にカッとなって、思いっきりディルを突き飛ばす。

重力に流されるまま、ディルの体は東屋に倒れかかる。そしてすぐにイリスはディルに近寄り胸元の服を握って、泣きながら苦しい思いを吐き出した。


「私が何も思わないとでも?本当は、毎日苦しくて仕方がないのに…ッ!でも耐えるしか方法はないから!全て、私が招いたことだから……なのに、どうして貴方が離れないの!」

「……っ」

ディルの表情が、小さく動く。


「あんなもの見せ付けられてっ、胸が苦しくて引き裂かれそうで!あの人と隣にいるだけでどうにかなりそうなのに……ッ!」

大量の涙を溢れ出させながら、イリスはディルを東屋へ押し倒す。

苦しそうに感情を絞り出すイリスに言葉が出ないディルは何もできず、上体を倒したまま見つめていた。

二人だけの空間に音が響き、誰の干渉も許さないような、切迫した空気が広がる。 馬乗りになって詰め寄るイリスは我を失いかけたまま、震える声で問いかけた。


「あの人とも、こうやって抱き合ったの?安心させるように優しく慰めてあげた?願いを叶えてあげるために体も許した?」

いつもの凛とした面影は消え去り、小さな子供のように息をつまらせる。

ディルも少しは動揺しているようで、数秒石のように固まっていたが自分を取り戻し、イリスを退かそうと口を開きかけた。


「退いて、お姉さ……」

「そうよね、兄妹でも関係がないくらい、大事で愛しくて守りたいはず」

ポタッとディルの頬に涙が零れ落ちる。


「キスだって、何の躇いもなく受け入れたの……?」

するりとイリスの視線がディルの口元へ伸びる。

悔しそうに潤んだ瞳を滲ませ、激しい感情に身を任せたイリスは耐えるように目を閉じ、ディルの唇と自らを重ねた。


柔い感触が熱を持ったまま、艶やかな音をつむぎだす。

ちゅ、とイリスの唾液がディルの口へ運ばれ、上唇が触れ合い、温かい吐息が絡み合った。


「――っ」

ディルは勢いよくイリスの肩を掴み、素早く距離を取った。

信じられないと言うように口元に手を寄せ、息を吐き出して言葉を吐く。


「嫌味、ですかお姉さま……こんなことをして、ライアン様が見たらどう思うか。ふざけるのも大概にして下さい」

「……ふざけてなんて、いないわ」

イリス自身、自分がした行為に混乱していた。心臓がドッドッドッと鼓動を強め、息苦しささえ感じていた。

体を焦がすような衝動に、理性が働かなかった。自己嫌悪に陥り、顔色も蒼くなる。



「冗談じゃない。いきなり訳の分からないことを言われて口付けされるなんて。何を考えているのか知らないですが、金輪際こんな行いはやめてください」

「……私は!」

イリスは喋ろうとしたが、ディルに先を越されてしまう。


「――お姉さまに会わなければよかった…」

ディルは耐え忍ぶような表情をするとイリスを睨み付け、さっと立ち上がり素早く正装を整えた。

その目の奥に揺らぐ、不安定な感情をイリスは知る由もない。


「お互いのためにも今後はこうやって二人で会わない方がいいようですね。これ以上、お話をしたくもありませんが」

すれ違う際に横目で見られ、早足で過ぎ去っていく足音が鼓膜に聞こえる。

置いて行かれた淋しさと、一人残された孤独が一気に襲い掛かってきた。


「ひどい……」

会わなければよかった、なんて。私は会いたくて触れたくて仕方なかったのに。自分の一方的な思いを知り、何とも言えない虚しさが胸の中に広がっていった。


いつまでも唇の上にあるのは、温かな熱だけだった。







「……くそッ!」

早足で歩くディルは乱暴な仕草で口元を拭い、小さな息を落とす。

ざわざわと人の声が聞こえる城内では出入りが激しいようで、何人もすれ違って行く。 


エドームの騎士が多く、見る度に馬鹿にしたような視線や笑いが飛んでくるが、ディルは無視して先を進む。

その顔は暗がりでは確認しずらいが赤色に変化し、唇はきつく結ばれていた。

心の中で昇華されることなく留まり続ける想いに目を背けようとも、涙でぬれたあの瞳がとらえて離さない。

目に見えぬものだが、確実に存在感を増す気持ちと葛藤しながら、一旦立ち止まり少しの間だけ空を仰いだ。


「お兄様っ」

赤のドレスを身に纏ったミレイアが豪華な装飾品を着け、笑顔で駆け寄ってくる。


「ミレイア……」

ディルは力を抜いたように微笑み、静かに名前を呟いた。


「どうしたのですか?顔色があまり……何か、ありました?」

勘が鋭いミレイアはたちまち声が低くなり、ディルに問いかける。


「いや、何もない。遅くなって悪かった、そろそろ城下に行こうか。馬車も手配してある」

適当にはぐらかし時計を見ながら聞くが、ミレイアは首を振って意味ありげな笑みを浮かべた。


「いいえ、お兄様。まだ城内にいましょう――面白いものが、見れますから…」




「遅くなってごめんね、ロズ。少し寄り道していたの……心配させちゃった?」

「心配しますとも!いつまでたっても戻ってこないのですから、探しに行こうかと思いました。誰かに襲われていたら、なんて想像したくもありませんからね」

ぷんすかと怒りながらロズは口を尖らせて、けれど安心したように頬の力を緩ませて、息をついた。

庭園から帰ってきたイリスは、申し訳なさそうに謝り、そしてどこか泣きそうで儚げな表情を落として、暗い宵の外を見つめた。


「……懐かしい、想い出に浸っていたの。でも駄目ね、過去に縋れば縋るほど……その色は深まってしまう」

「星夜祭の記憶ですか?毎年イリス様は楽しみにされていましたからね」

「ええ。皆と楽しんだその景色はもう見れないけれど……これからも心癒せる星の瞬きが皆に降り注ぐように祈るわ」

こんなことしか、出来ないけれど……と悲しそうに目を細めた。


その時ざわっと震えるような音が室内の入り口から聞こえ、圧倒的な存在感で誰かが入っていた。

もちろんイリスはそれが誰か分かっていた。いつもの勝気で自信を全身で纏った姿は、広間にいる人々に思わず道を開けさせる迫力があった。

真っ直ぐに突き刺さってくる目は、一点に絞られて吸収するような深さを持っている。その渦の中心にいるイリスは、鎖で繋がれたように動けずにいた。


「待たせたか、イリス」

「……いいえ」

「移動するぞ、向こうに席を用意してある」

イリスの華奢な肩に手を置き、誘導していくライアン。

その手に従うまま何も言わずについていくイリスに、普段誰にも向けられることのない笑みを零す。


後ろにいたレインは主の緩んだ顔を見て、心に一滴の黒を落とすような気持ちになった。

失われない強さが見せる、少し砕けた柔らかさがライアンに溢れる。それはイリスがもたらすものだった。


「俺が見立てたドレスか。わざわざ選んだ甲斐があった、悪くないぞ」

「……ありがとうございます」

用意された二人用の席に案内され、目の前に広がるのは豪華な料理。口にするのを躊躇いそうな、繊細な飾りが一皿ごとに施されている。

席に座るとなぜかライアンはイリスを抱き、首元に鼻を寄せて匂いを嗅いできた。


「ライアン様?」

険しくなっていく顔を見ながら、一体どうしたのかと名前を呼んで確かめる。自分を見つめる目に冷たい怒りを感じて、少しだけ怖くなった。


「屑と会ったのか」

先程までの出来事が頭を貫き、イリスは素直に反応してしまう。


「どうして……」

「俺を見くびるな。お前の香りなど、一瞬で見分けられる。お前にあの屑の残り香がある……一体、何をした」

「何、も。ただ会っただけです」

機械的に動く唇が僅かに震えた。周りの空気が張りつめたように重苦しい。


「隠れてこそこそ何か出来る芸を身に付けたか。逢瀬でもして心が満たされたか?」

顔は笑っているのに、目は笑っていない。腹の底から沸き上がるようなライアンの嫉妬に似た激しさ。

イリスは何も言えなくなって、しかし、強い瞳で見つめ返していた。


「忘れるな、所詮お前は俺のもの。今何をしても、無駄な足掻きに終わるだけだ」

「何のことか、よく分かりません……離して……」

「あくまで知らぬふりか。見え透いた愚かさだな」

そして人目も憚らずに、無理やりキスを重ねてくる。



遠慮なしに口付けられることに抗おうにも、力が強いライアンは引き寄せてくる。

すぐ近くでロズが見ているのにと思うが、諦めが胸を満たしつつあった。この人は止められない。止めても、上回る勢いで押し潰してくる。


「ん……」

徐々に脱力していくイリスを支え、上から見下ろすライアンは満足したような顔をしていた。

半分睨み付けるような目でその視線を返す。人前である恥ずかしさが顔に熱を集めていく。


小さく聞こえる失笑や呆れるような溜息がイリスの心にまで響いてくる。こんなことをしたいわけじゃないと声を上げて否定したかった。


すると、数人の侍女が台車に乗せてワインや料理を運んできた。

その中にシンディも含まれていた。イリスは翳った光を放つ彼女に目が合い、思わず声をかけようとする。

しかし、なぜか自分の中で躊躇いが生じてタイミングを見失った。花のような笑顔に溢れていたシンディが、狂気じみた危うさを持っていた。

そしてライアンを心の底からの憎悪を込めて見つめていた。


何かが、おかしい。彼女の歯車が逆回転を描いてしまったように、歪な音が甲高く鳴り続いている。

そんな突拍子もない直感がイリスの頭に思い浮かんだ。


「一杯やるか。イリス、注げ」

ワインを手に取れば、イリスに差し出し、グラスを持った。

どうせなら頭からワインを注いでやろうかと思ったが、もちろんそんなことは出来ない。それより、近くにひかえるシンディが喰い殺すようにこちらを見ているのが気になる。

早く飲み干せと、喉まで出かかった言葉を抑えつけているようで。今か今かとその瞬間を待ち望み、小さく歪むその顔は獰猛な捕食者さえ彷彿とさせる。

それはあまりにも、鬼気迫る戦場にいる騎士と類似していた。あの戦いの真っ只中にいたイリスが感じるのだから、相当なもののはずで。


嫌な予感がしたが先を促すライアンがいて、持っているグラスへ既に蓋が開いていたワインをコポコポと注ぎ込む。

濃厚色を好むライアンは珍しそうに目を細め、見定めをしている。


なぜかこの一秒一秒が永く感じられ、心臓がドクドクと鼓動し、全身の血がざわめく。

このワインを飲んではいけないような、そんな気がした。

確実性もない、信じたくないような疑惑がイリスの中に浮かび上がり、まさかあり得ないと心の中で首を振る。


「飲むぞ」

ライアンは、ゆっくりとワインの飲み――。


イリスは胸が潰れるような痛みを覚えた。



ガシャン!と空気を裂くような音が響いた。

グラスは地面に砕け、硝子が足元に散らばり、ワインもじわっと広がって行く。


立ちあがったイリスは、無意識のうちにライアンが手に持っていたグラスを下に落としていた。

なぜ体が動いたのか分からない。根拠のない予感に包まれ、気づかぬうちに行動していた。

ただ、ライアンが死ぬ様を想像したら、心が苦しくなった。彼が痛みに地面へ倒れる姿なんて、見たくない。そんな、どうして。


「あ……」

イリスの周りはしん、と静かになって、一気に視線が集中する。

慌てて他の来客や侍女が体を心配する声をかけてくるが、イリスは答えられない。


「どうしたイリス、いきなりグラスを落として」

ライアンは動揺した様子もないまま、どこか楽しそうに笑っていた。まるでイリスの胸の内を見透かして、全て知っているかのように。

染みついていくワインを見ながら、イリスは乾いた口を動かす。


「申し訳、ありません。私の不注意でした。お怪我は、ありませんか」

どうかしていたと思いながら、ライアンの体を見た。その最中にシンディの姿を探した。彼女は驚いた顔をしてこちらを見つめている。


「あぁ、何もない。だがこの毒入りのワインは見逃せない」

そう言えば、イリスの顔が一瞬にして蒼くなる。嘘でしょうと声が出ず、口元に手を当てた。

真っ先にレインが反応し、ライアンを守るため素早く剣を抜く。その姿に周囲はざわっと騒がしくなった。


「なに、何があったの?」

「ど、毒入りのワインだと?一体誰がそんなことを」

「神聖な祭りの日に愚かな……!犯人は誰だ!ひっ捕らえろ!」
 
室内は困惑した様子で囁かれ、入口へ駆けだす者や自身の安全を守るため隅の方に下がる者もいた。


イリスは逃げ出そうとするシンディを視界の端に見つけ、名前を呼びそうになる。しかし思いとどまって口をつぐんだ。

彼女が犯人だと決まったわけじゃない。それに捕まれば、ただでは済まされない。命を取られるかもしれない。

一瞬の躊躇いが、シンディを逃すきっかけとなった。人ごみに紛れ、もう姿が見えない。


ライアンは命を狙われたというのに涼しげな顔をして、よく通る声を上げた。これまで幾度も同じ危機に直面してきたかのようで少しも動じない。余裕さえ感じる。


「騒ぐな。毒入りのワインはこの一本だけだ。俺以外に、狙われている者はいない」

その言葉で、辺りの騒ぎはとたんに止んだ。

力強い口調とみなぎる自信のせいなのか、室内にいる人間の雲のように湧き上がった不安をかき消した。

この人の側にいれば何も怖くないと確信めいた思いさえ浮かんでくる。


「犯人など、子鼠一匹だろう、恐れるに足りない。星夜祭は続行。見張りの兵は警戒を強めて警備しろ。以上だ」

淡々と口を開くライアンに、反対する者は一人もいなかった。

しかし、その間に気配を消していなくなった影。それは、イリスだった。


イリスは、ある場所にかけ出していた。

止まらない心臓と息切れの音が耳元で爆発して苦しくなる。違う、今最も苦しんでいるのは彼女だ。


紺のドレスをたくし上げ、一秒でも早く着こうと足を動かす。巡回している騎士に怪訝な目を向けられるが、イリスは構わず走って行った。


「シンディ…ッ」

シンディはただ静かに泣いているような気がした。イリス様、と温かな笑顔を向けてくれた記憶が脳内で飛んで弾ける。

今彼女の近くに行って何が出来るか分からない。しかし、放っておけるはずもない。

どんな思いでいただろう。一人、押し潰されそうな夜を幾度過ごしただろう。

シンディだけじゃない、多くの人が同じ思いをしているはず。そしてその原因は自分にある――。


貴方は何も悪くない。どうか、追い込まないでくださいね。ロズに何度も言われた。それでもこの現状を生み出したのは自分だ。苦しくて…心が張り裂けそうだった。


蹲って縋るように震えながら涙を流すシンディを見つけると、イリスは苦しそうな顔をしながら、声を絞り出した。
 

「…やっぱり、ここにいたのね」

ぴくりと微かに動いた背中に目を追い、一歩、足を進めていく。

シンディは小さな花が手向けられた場所で、誰かの許しを請うかのように丸まっていた。束ねられた髪は無造作に解かれ、冷たい夜風に遊ばれるかのように揺れている。


「イリス様……」

下に向けられた顔は、どんなに深い痛みを宿しているのか。

カーマ…と亡き恋人の名前を呟き、白い手はぐっと拳を握っていた。精一杯助けを求めているようにも見えた。


「――…気付いて、いらっしゃったんですね。私が、あの人を殺そうとしていたこと」

「…ええ、確信はなかったけれど」

自分の予想が外れていればいいと、イリスは強く思った。


「私の思いを承知で、お止めになったんですね…」

「シンディ……」

イリスは何を言ったらいいのか分からなかった。

憎い心は確かに存在する。散々苦しめられ、何度も屈辱を味わった。今までを思い起こすと怒りを感じる。それなのにあの人には…死んでほしくは、なかった。

曖昧に揺れるこの感情…例えライアンを死に至らしめても、何も解決されない。止まらない負の連鎖に繋がるだけだと思う。


シンディに誰かの命を奪ってほしくない。一生苛まれる苦しみを経験してほしくなかった。

そんな正義にすり替えるようにして、自分の行為を正当化しようとするのが心底憎らしい。


私はなんて、穢いのだろう。イリスは深い闇に吸い込まれるような自己嫌悪に陥った。


「なぜですか。イリス様がやらなければ、いっそ私が……そう、思ったのに!この苦しみから解放されると、やっと、やっと……」

「貴方に人を殺す罪なんて背負わせたくない!」

イリスはシンディに近づくが、彼女は逆に距離をあけていく。


「じゃあっ!どうすれば、よかったと言うのですか?憎しみの根源を絶たせるしか、私の痛みは消えないのに!イリス様に私の気持ちが分かりますか!」

「大事な人を亡くしたのは私も同じ。けれど憎しみは心を灰にして、身を滅ぼすわ。何も、生まれないのよ……」

こんな思いをさせて、ごめんねと謝りながら、イリスはゆっくりと歩み寄ろうとする。

シンディは珠のような涙を散らしながら、イリスを拒むように頭を抱え首を振り続ける。

 
「私の幸せを、カーマを返して!どうしてこんな思いをしなければいけないの!ただ、隣にいたかっただけなのに!」

「シンディ!」

「彼を抱きしめても何も反応してくれない!冷たくなった手はもう二度と温度を取り戻さない!あの時の絶望を、痛みを、何も知らないくせに!」


狂ったように叫ぶシンディの瞳に、殺意が湧き始める。



「そうよ……イリス様さえいなければ、カーマは死ぬことはなかった!ずっと二人で過ごしていられたのよ!」

その言葉が、イリスに深い衝撃を与えた。

誰も自分を責めないが、シンディの言ったような思いを皆が抱えているはずだった。

自分がいなければ、生まれていなければ。サイは今でも平和で、国が追いやられる戦いなど起きなかった。


心の深層にまで亀裂が走る。息をするのを忘れるほど、罪悪感に包まれる。


「エドームの王子を誑かすことがなかったら……悪いのは、イリス様。貴方がすべての原因!」

あらん限りの憎悪を込めて睨みつけられる。まるで人殺しと名指しするかのような目だった。

イリスは深く傷ついた表情をして、口を閉ざした。


「何も言わないのですね!すべて事実だから!否定できないから!いい王女ぶって、少しでも罪から逃れるため、必死にサイを立て直そうとして……そんなの、偽善者よ。貴方なんかッ、最初からいなければよかったのに!」

透明の、目には見えない剣で、心臓を一突きされたような気分だった。

あまりにも的を射ている彼女の思いに、反論する権利もない。いくら頑張ってみたところで、自分に出来ることは大して役に立たない。

イリスは自分の存在価値が無に等しいことを自認し、この世にいてはいけない人間だと思い込んだ。

目の前でこれだけ自分という人格を否定され、悲しみが止め処なく膨れ上がる。どうしようもなく、胸が痛む。


憎しみ一つでここまで人は変わってしまう。花が廃れるように、性格まで枯れていってしまう。


「自分は悪くないと涙で誰かの同情でも誘いますか?そうですよね、もう私は毒殺未遂で謀反人。待っているのは処刑か無期刑の牢獄です。これから先、王子を殺そうとした愚かな女と語られるのなら……いっそ、この手でけりを付けます」

「――やめてッ!」

鈍く光る凶器に目を見張った。イリスは考えるよりも先に体を動かし、シンディが隠し持っていた短剣を奪おうとした。

煌々と月の輝きを受けるその銀は真っ直ぐに彼女の首元へ迫っていたが、寸での所でイリスは回避した。

ドサッと両方が地面に崩れ落ち、二人の近くに落ちた剣を、シンディが拾おうと手を差し出す。

視線で追っていたイリスは、先に掴もうとしたが間に合わず、彼女の名前を呼んで制止を図る。


「……死ぬのは、怖くない。カーマの元にいけるのなら本望です。でもそれでは、この世に未練を残すことになります。私は……イリス様、貴方が憎い」

確かに剣を持つ手は躊躇いが感じられず、震えてもいなかった。

シンディの呟く一つ一つの声が心に迫ってくる。苦しくて仕方ないと全身で叫んでいる。


「やめて、シンディ。貴方は死なせない……カーマもそんなこと望んでいないわ」

「何とでも言って下さい。私の未来は破滅しかない。計画していた時から、分かっていた事です。それでもイリス様……もし少しでも罪悪を感じているなら……私と共に死んでくれますか?」

そこで始めてシンディの手がかすかに揺れる。切っ先を自分から、イリスへと向けていく。

いつでも斬りかかれる距離に息を飲呑んで見つめるが、一歩も動かなかった。ここから逃げることなんて、許されない。


死んで償えるなら、進んでこの体を差し出そう。それでも、私には背負うべき責務と大事な存在がある。イリスは力強い目を揺るがすことはなかった。


「私はまだ、死ねないわ。やるべきこと、残されたもの……たくさんあるから。シンディ、もうやめましょう。思い出して、カーマが本当に守りたかったもの。忠誠だけの国王なんかじゃない。それは誰よりも愛しい貴方の未来でしょう。その思いを踏みにじるの?貴方の手で……壊すの?」

卑怯で、残酷な言い方かもしれない。だけど、シンディの思いを鎮めるためにあえて口にした。

だから、これ以上自分を傷つけてほしくない。


イリスは夜の湖面のような静かな眼差しで見つめ返した。


「……っ馬鹿にしないで!!」

シンディは降り積もった思いに堪え切れず、ついにイリスへと刃を振りかざす。

濁流のように襲いかかる感情の渦に巻き込まれて、彼女を止める術はもう圧倒的な力しかないのかもしれない。

 
避けることも抗うことも選択肢にはない。彼女の気が済むのなら、自分など何度傷物にされたって構わない。

時を刻んでいく夜だけが、この先の答えを知っていた。



「――イリス!」

どうして。この声が、聞こえるんだろう。

死と近しい今と直面した時、最期まで心から求める存在に恋うから?


一瞬であるはずだった。

口では守るべき存在があると言っても、毎日付き纏う罪の意識から逃れられるとほんの少しの安堵があったのかもしれない。

誰かの手で、息の根を止めてほしいと望んでいた。出来れば、意味のある死にしたかった。シンディの思いが少しでも軽くならそれでいいと、心のどこかで諦めていた。


重圧や周りの痛いくらいの視線。惨めだと感じれば感じるほど追い詰められる日々。終止符が打たれる前に、弟や妹……大事な人たちに一目会いたかった、


「放して!いつから、ここに……!」

シンディの激しい声が聞こえ、イリスは閉じていた目をゆっくりと開け、目の前に広がる光景を疑う。


そこには、右に左に何とか拘束を抜けようと暴れるシンディを強い力で抑えつけるディルの姿があった。

なぜここに彼がいるのだと最もな疑問が浮かび、イリスは驚きで呆然としていた。波のような動揺で、すっと息を止まる。

こんなにタイミングが良いことが現実に起こるものなのかと頭が混乱した。


「今すぐ剣をしまえ。馬鹿なことをするな」

「カモーアの……!?どうして皆が私の邪魔をするの!どうせ死ぬくらいなら、イリス様を道連れにしてやる!」

完全に我を見失ったシンディは、ディルにまで剣を向けようとする。しかし剣を持つ手は動かせないように掴まれ、ぐぐぐっと鈍い音を立てた。

ディルは慌てる様子もなく、ただ冷たい目で見下ろしていた。


「それはただの甘えだ。自分から逃げている、弱さじゃないのか」

「何が分かると言うの!命よりも大切な人を失くした気持ちが、誰に……ッ!」

溢れんばかりの怒りを込めてディルに迫るシンディはグサ、グサッと乱暴に剣を振り、草が切れる音が妙に響いていく。

彼女をここまで追い込み、豹変させたのは自分だ。イリスはディルが来たことで力が失ったようにドサッと地面に足をつけて、震えながら涙を零す。


「誰もが失くす痛みを経験する。苦しんでいるのは、お前だけじゃない」

「……っ」

面喰ったように唇を噛み、言葉に詰まる。


「つらかったのは、分かる。でもこんなやり方じゃ、何も得られない」

幼子に諭すような言い方で、ディルは初めて同情するような目を向けた。


「じゃあ……私は、どうしたら、救われるの……?」

頭をブルブルと大きく振り、何度も恋人の名前を呟く彼女は、あまりにも痛ましかった。

やがて大人しくなり、抵抗する気が失せたのか黙って下を向いて俯く。


ディルはそれ以上何も言わず、彼女が微動だにしなくなるのを確認すると、イリスに目を向けた。



「お姉さま」

声を殺すようにして泣くイリスは、ディルを見れないまま、顔に手を当てて涙を隠す。

シンディの想いを考えたら、たまらなく苦しい。どうしてこんなことになるのか考えても、根を辿れば自分が悪い。

彼女は脱殻のような感情のない目でただ地面を見つめていた。


「お姉さま」

再度、さっきよりも強い声でディルが呼ぶ。

自分の情けない姿はどれほど滑稽に映っているのか。しかし、悲惨なこの現状は心が抉られるほどつらい。

いくら強がってみたところで、私はこんなにも弱い。今すぐにでもシンディを抱きしめて謝りたいのに、悲しみが勝って涙だけが流れる。


「もう、苦しい……」

ディルは嗚咽を零して震えるイリスを目を細めて見つめた。シンディを離し、イリスを慰めるかのように触れようと近づいた。


「……泣かないで」

少し困った顔をして、触れるのを躊躇うように手を動かすが、それはただ宙を切っていく。

ディルとイリスの距離感はとても近くて、お互い息をするのも忘れた。


さっきはひどい言葉を浴びせられたのに……見つめ合う今が、苦しいほど切ない。

二人は張りつめた空気に気を取られて、微かに反応を見せるシンディに気付かなかった。


「……許さ、ない…」

突然生き返ったように憎しみの炎を燃やすシンディは剣を拾い上げ、唸り声を上げてイリスに襲い掛かった。


「あああぁぁぁーー…っ!」

星が瞬く闇夜に、怒号のような叫び声が響き渡る。


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