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81「俺はそんなに匂うのか」

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「香油って、意外にさらっとしてるんですね。もっとべたべたしてるものかと思ってました」
 油だけに、と言いながら、ユランは手のひらの上に垂らした香油の匂いをかぐ。サルバトーリ家の侍女が、肌の手入れ用に置いて行った香油である。
「花の香り?」
 甘さ控えめで、爽やかさ強めの匂いがする。
「どっちかって言うと柑橘系じゃないのか」
 朝から風呂に入ったエイダールは、髪を雑に拭いて、香油の瓶の蓋を開けた。
「……よく分からないな。単体じゃなくて何種類かの香りを混ぜてるだろうしな」
 果実っぽさは強いが、何かの香りと断定できるほど詳しくない。
「いい匂いですけど、僕は先生の匂いのほうが好き」
「俺はそんなに匂うのか」
 ユランとしては、ほめているのだが、エイダールとしては、臭いと言われているようで何となく嫌である。
「首筋に鼻を突っ込むか、ベッドに潜り込まないと分かんないですよ」
「そんなことすんのはお前くらいだ」
 普通の対人関係としてはあり得ない近さであり、状況である。
「まあ、その距離でしか匂わないのならいいか……」
 そもそも体臭ではなく、エイダールから洩れた魔力を匂いという形で感じている可能性のほうが高い。
「あ、塗るの手伝いますね。どこら辺までかな」
「見えるところだけでいいんじゃないのか」
 指先から手首までで充分な気がする。
「というか、一昨日、手袋も衣装の中にあったよな」
 式典用の白手袋を確かに見た。
「じゃあ手首だけ?」
「いや『見えないからと言って手を抜く訳には行きません』って釘を刺されたからな、指先からちゃんと塗っておこう」
 肌の艶などどうでもいいが、サルバトーリ家の侍女が怖い。


「はい、両手終わりました! 足も塗るんですよね? 裾まくりますね」
「足なんて肌が見える隙間も無いのにな」
 裾は靴に掛かるくらいの丈があるし、靴下も履くのである。手以上に塗る必要性を感じない。
「別に荒れてもないですしね。まあ、いい匂いがするってことで……って、先生、これどうしたんですか!?」
 裾をまくって、エイダールの足首を見たユランが、叫ぶように問い質す。
「なんだ突然大声出して……あ、いや、それは別に何でもない」
 痛む訳でもないので失念していたが、エイダールの足首には、酔っ払ったユランに掴まれた跡が痣として残っていた。
「何でもなくないでしょう、こんなくっきり……痛くないんですか? 誰にやられたんですか」
 ユランは痣を睨んで、殺気すら滲ませる。
「痛くないから忘れてたんだよ、ちょっと酔っ払いに絡まれただけだ」
「酔っ払いに絡まれて足首に痣が残るってどういう状況ですか、犯罪の匂いしかしませんけど!?」
 肩や腕ならまだ分からなくもないが、痣が残るほど足首を掴まれるのはおかしい。
「どういう状況と言われても、酔っ払いのすることだしな……」
 ありのままに状況を説明すると、足首を掴まれてベッドの上で引っ繰り返された訳だが、本当に犯罪の匂いしかしなくて言えない。
「酔っ払ってたからって、許されることじゃないでしょう!」
 ユランは怒り心頭といった様子で興奮していたが、覚えていないだけで犯人はユランである。
「許す、許さないを決めるのは俺だ」
「でも」
「実害はなかったんだから、この話はここまでだ」
 痣は残っているが、エイダール的には被害はない。
「誰にやられたかだけでも教えてください、今後こんなことがないように僕が先生を守りますから」
「…………」
 犯人にそんなことを言われても困る。
「もしかしてカスペルさん?」
 答えないエイダールに、ユランはなぜ相手を庇うのだろうと考え、その辺の名もなき酔っ払いに絡まれるとも思えないので、親しい相手だと結論を出した。
「カスペル? 違う違う。大体、あいつは結婚の挨拶に行ったまま、まだ戻ってきてないだろ」
 突如濡れ衣を着せられた友人の不在証明をするが。
「まだ? 挨拶に行くって言ってた日から、えっと、三週間くらい経ってると思うんですけど」
 ユランがカスペルから、両親に結婚の挨拶をしに行くという話を聞いてからそのくらい経つ。
「普通に行って帰って来るだけで一ヶ月掛かるし、向こうに一週間くらいは滞在するだろうしな……仕事も兼ねてるから、旅程は少し短縮できるとは思うが」
「一ヶ月? え、そんなに掛かります?」
 エイダールとユランの故郷は確かに遠いが、転移ゲートを使えば、そこまで時間が掛からないと思うのだが。
「なにしろ遠いからな……おっと、来たようだな」
 玄関の呼び鈴が鳴り、サルバトーリ家の侍女たちが姿を現した。




「あの、一つ質問いいですか?」
 てきぱきとエイダールの支度を整えていく侍女たちに、ユランは恐る恐る声を掛けた。
「何でしょうか?」
 普段はぼさぼさのエイダールの髪を見事な櫛目で仕上げた侍女が手を止めてユランを見る。
「カスペルさんは、まだ戻ってきてないんですか? 挨拶から」
 サルバトーリ家の侍女なら知っているだろうと尋ねる。
「はい、若様のお戻りは一週間ほど先になると聞いております。彼の国は発たれたそうですが」
 帰路に入っているが、まだ戻ってきてはいないらしい。
「だからそう言ったろ」
「はい」
 疑うなよ、とエイダールに言われ、ユランは不満そうな顔をしつつも頷いた。






「先生がお貴族様にしか見えない……すっごい、ほんとに化けたみたいになってる」
 エイダール風味の別人と言っても信じそうなほど普段とはかけ離れた印象の仕上がりに、ユランは感嘆した。
「入学式に参列するだけなのにな」
 こんなに気合を入れて正装をしなければならないものなのだろうか、と今更ながらエイダールは思う。
「陛下の御前ですから。ギルシェ様、背筋をまっすぐ伸ばすようお心掛け下さい」
「あー、はいはい」
 エイダールは無駄に逆らわない。
「では、馬車を御用意しておりますので」
「馬車? いや、要らないだろ、徒歩五分だぞ。馬車の乗り降りしてる間に着くぞ」
 エイダールは、いつも通り歩いていくつもりだった。研究所よりアカデミーは遠いが、百メートル少々の違いである。
「馬車を御用意しておりますので」
 侍女は、同じ台詞を繰り返した。正装して徒歩で移動するなど許されないようだ。平民のエイダールとしては、貴族っぽい格式を守る必要性を感じないのだが、ここはカスペルの顔を立てるべきなのだろう。




「じゃあ、そろそろ出るからな……ユラン、お前は歓迎会で飲み過ぎるなよ?」
 エイダールは、警備隊で行われるという新人歓迎会で、ユランが酒を過ごさないかどうかが気になる。
「食事が主で、飲み会じゃないから大丈夫ですよ。行ってらっしゃい先生」
 まったく酒が出ない訳ではないが、泥酔するようなことは恐らくない。
「ああ、行ってくる」
 家の前に横付けされていた公爵家の紋章入りの馬車に、エイダールは乗り込んだ。
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