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80「私どもも仕事なのです」
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「ほら、ここに名前書け」
その夜、エイダールは、ユランの前に何枚かの書類を出した。
「はい」
指し示された欄に、ユランは署名する。
「二枚目のここにも」
「はい」
言われるまま、さらさらとペンを走らせるユランの肩に、エイダールは手を置いた。
「ユラン、書けって言っておいてなんだが、契約書に署名するときは隅々までちゃんと読んで、納得してからにしろ。どんな落とし穴があるか分からないんだからな」
「え、この契約書、落とし穴があるんですか?」
先生が僕を落とし穴に!? と目を瞬かせるユラン。
「どうだろうな、まあ、今まさに契約が成立したけどな」
ユランを騙すつもりはないので、ごく一般的な定型の賃貸契約書なのだが、今後のために軽く脅す。
「先生が望むなら、落とし穴でもなんでもはまりますけど」
精一杯はまります、などと言い出したユランに、エイダールは大きく息をついた。
「はまらなくていい。さっきのは世間一般の契約に関する注意事項だ。よく読まずにほいほい名前書いてたら、不利な契約を結ばされかねないからな、気を付けろよ」
悪知恵を働かせるものは多くいるので、契約を結ぶ前に、きちんと内容を確認するのは大事な自衛である。
「はーい……あ、前と同じ額だ」
署名した後に斜め読みしたユランは、月々の賃貸料に目を留める。
「熟読どころかそういう大事なところも読んでないのか」
そのうち、知り合いだからと言ってろくに話も聞かずに名前を書いて、借金を背負わされそうで怖い。
「こっちがユランが保管しておく控えで、こっちが提出用の写しだからな」
説明しながら書類を渡す。
「はい。前と同じで、月の半ばまでに当月分を納めればいいんですね」
前と同じなのは、エイダールが老婦人から聞いた話をそのまま踏襲したからである。
「前と一緒で良かった。給料貰って払いに行ったら丁度間に合う感じだったから、あまり支払期日気にしたことなかったんですよね」
給料日は十日前後なので、貰ったら払う方式で気にせずとも期限内に払えていた。
「もうちょっといろいろ気にして生きてくれ」
「あ、はい……あの、本当にこの金額でいいんですか? もっと狭い部屋でもこの辺の相場は高いと思うんですが」
ユランも一応相場を調べていた。
「足りないと思うなら体で払え」
エイダールは、家の中の雑用を手伝えというつもりで言ったのだが。
「えっ」
ユランは何を思ったのか、真っ赤になる。
「僕の体目当てだったんですか? どんとこいです!」
「お前、絶対意味を取り違えてんぞ……何だ、こんな時間に」
夜も遅いのに、玄関の呼び鈴が鳴った。
「お久し振りですギルシェ様、夜分遅くに失礼いたします」
玄関を開けると、侍女服を身に着けた女性が、丁寧に一礼した。その後ろには同じ侍女服姿の女性たち四人が、大きな荷物を持って従っている。
「本日は、衣装合わせに伺わせていただきました」
「は? 衣装合わせ?」
エイダールは、何の? という顔で侍女を見た。
「はい、明後日のアカデミーの入学式でございます」
「ああ、入学式」
明後日は午前が始業式、午後は入学式で、一応講座を持っているエイダールは、入学式には出るようにと言われている。
「いや、別に普通の格好でいいだろ」
エイダールは軽く参列するだけで、壇上に立つ予定などはない。
「いいえ、陛下も御来臨なさいますので、きちんと身なりを整えて送り出すようにと、若様から重々申し付けられております」
若様とはカスペルのことで、彼女たちは、サルバトーリ家の侍女である。
「うわ、面倒くさい……」
「ギルシェ様は、立っていていただくだけで構いませんので」
お支度はすべてこちらでさせていただきますので、と侍女が笑顔で迫る。
「よろしいですよね? 私どもも仕事なのです」
無駄な抵抗はおやめくださいという圧に、エイダールは負けた。
「分かった……けど、別に寸法は変わってないと思うぞ」
仕立てた時から、太ってもいないし痩せてもいない。ひょろりとした体格を維持している。
「寸法を合わせるだけが衣装合わせではございません」
肌の色に合わせて小物の色味の調整などもしなければならない。
「え、何の騒ぎですか」
押し切られて、侍女たちと居間に上がってきたエイダールに、ユランは驚いた。
「衣装合わせだってさ……こっちはサルバトーリ家の侍女の皆さんだ」
「皆さんがサルバトーリ家の? 先生を化けさせるって噂の?」
前に聞いた話を思い出して、ユランは、おおっとなる。
「どのような噂かは存じ上げませんが、ギルシェ様をどこへ出しても恥ずかしくないよう整えて送り出すよう申し付かっております」
侍女たちは、それぞれ持ってきた荷物を広げ始める。
「わぁ。どんな風に化けるのかすごく気になってたんです、目の前で見られるんだ、嬉しいなあ」
楽しみだなあ、とユランの瞳がきらめく。
「化けるのは明後日のアカデミーの入学式だぞ、その日は夜遅くなるって言ってなかったか? 仕事じゃないのか」
「休みですよ、夜は新人歓迎会で出掛けますけど」
「飲み会なのか? 飲み過ぎるなよ?」
酔っ払ったユランは危険、とエイダールの頭の中で警鐘が鳴る。
「今日のうちに御髪を整えさせていただきますね」
侍女の一人が、鞄からはさみを取り出した。伸びすぎていると判断されたようだ。
「当日は朝起きたらすぐにお湯を使っておいてくださいませ。そのあとこの香油を手足に擦り込んでいただいて」
綺麗に洗って、香油で艶々にしておけということである。
「朝から風呂か」
また、面倒臭いと言い掛けたエイダールに、侍女は畳みかける。
「出来ていなければ、伺ってからこちらでお風呂をお借りして丸洗いさせていただきますので」
全身を念入りに、と続ける笑顔が怖い。
「わ、分かった」
化けるのも大変だった。
その夜、エイダールは、ユランの前に何枚かの書類を出した。
「はい」
指し示された欄に、ユランは署名する。
「二枚目のここにも」
「はい」
言われるまま、さらさらとペンを走らせるユランの肩に、エイダールは手を置いた。
「ユラン、書けって言っておいてなんだが、契約書に署名するときは隅々までちゃんと読んで、納得してからにしろ。どんな落とし穴があるか分からないんだからな」
「え、この契約書、落とし穴があるんですか?」
先生が僕を落とし穴に!? と目を瞬かせるユラン。
「どうだろうな、まあ、今まさに契約が成立したけどな」
ユランを騙すつもりはないので、ごく一般的な定型の賃貸契約書なのだが、今後のために軽く脅す。
「先生が望むなら、落とし穴でもなんでもはまりますけど」
精一杯はまります、などと言い出したユランに、エイダールは大きく息をついた。
「はまらなくていい。さっきのは世間一般の契約に関する注意事項だ。よく読まずにほいほい名前書いてたら、不利な契約を結ばされかねないからな、気を付けろよ」
悪知恵を働かせるものは多くいるので、契約を結ぶ前に、きちんと内容を確認するのは大事な自衛である。
「はーい……あ、前と同じ額だ」
署名した後に斜め読みしたユランは、月々の賃貸料に目を留める。
「熟読どころかそういう大事なところも読んでないのか」
そのうち、知り合いだからと言ってろくに話も聞かずに名前を書いて、借金を背負わされそうで怖い。
「こっちがユランが保管しておく控えで、こっちが提出用の写しだからな」
説明しながら書類を渡す。
「はい。前と同じで、月の半ばまでに当月分を納めればいいんですね」
前と同じなのは、エイダールが老婦人から聞いた話をそのまま踏襲したからである。
「前と一緒で良かった。給料貰って払いに行ったら丁度間に合う感じだったから、あまり支払期日気にしたことなかったんですよね」
給料日は十日前後なので、貰ったら払う方式で気にせずとも期限内に払えていた。
「もうちょっといろいろ気にして生きてくれ」
「あ、はい……あの、本当にこの金額でいいんですか? もっと狭い部屋でもこの辺の相場は高いと思うんですが」
ユランも一応相場を調べていた。
「足りないと思うなら体で払え」
エイダールは、家の中の雑用を手伝えというつもりで言ったのだが。
「えっ」
ユランは何を思ったのか、真っ赤になる。
「僕の体目当てだったんですか? どんとこいです!」
「お前、絶対意味を取り違えてんぞ……何だ、こんな時間に」
夜も遅いのに、玄関の呼び鈴が鳴った。
「お久し振りですギルシェ様、夜分遅くに失礼いたします」
玄関を開けると、侍女服を身に着けた女性が、丁寧に一礼した。その後ろには同じ侍女服姿の女性たち四人が、大きな荷物を持って従っている。
「本日は、衣装合わせに伺わせていただきました」
「は? 衣装合わせ?」
エイダールは、何の? という顔で侍女を見た。
「はい、明後日のアカデミーの入学式でございます」
「ああ、入学式」
明後日は午前が始業式、午後は入学式で、一応講座を持っているエイダールは、入学式には出るようにと言われている。
「いや、別に普通の格好でいいだろ」
エイダールは軽く参列するだけで、壇上に立つ予定などはない。
「いいえ、陛下も御来臨なさいますので、きちんと身なりを整えて送り出すようにと、若様から重々申し付けられております」
若様とはカスペルのことで、彼女たちは、サルバトーリ家の侍女である。
「うわ、面倒くさい……」
「ギルシェ様は、立っていていただくだけで構いませんので」
お支度はすべてこちらでさせていただきますので、と侍女が笑顔で迫る。
「よろしいですよね? 私どもも仕事なのです」
無駄な抵抗はおやめくださいという圧に、エイダールは負けた。
「分かった……けど、別に寸法は変わってないと思うぞ」
仕立てた時から、太ってもいないし痩せてもいない。ひょろりとした体格を維持している。
「寸法を合わせるだけが衣装合わせではございません」
肌の色に合わせて小物の色味の調整などもしなければならない。
「え、何の騒ぎですか」
押し切られて、侍女たちと居間に上がってきたエイダールに、ユランは驚いた。
「衣装合わせだってさ……こっちはサルバトーリ家の侍女の皆さんだ」
「皆さんがサルバトーリ家の? 先生を化けさせるって噂の?」
前に聞いた話を思い出して、ユランは、おおっとなる。
「どのような噂かは存じ上げませんが、ギルシェ様をどこへ出しても恥ずかしくないよう整えて送り出すよう申し付かっております」
侍女たちは、それぞれ持ってきた荷物を広げ始める。
「わぁ。どんな風に化けるのかすごく気になってたんです、目の前で見られるんだ、嬉しいなあ」
楽しみだなあ、とユランの瞳がきらめく。
「化けるのは明後日のアカデミーの入学式だぞ、その日は夜遅くなるって言ってなかったか? 仕事じゃないのか」
「休みですよ、夜は新人歓迎会で出掛けますけど」
「飲み会なのか? 飲み過ぎるなよ?」
酔っ払ったユランは危険、とエイダールの頭の中で警鐘が鳴る。
「今日のうちに御髪を整えさせていただきますね」
侍女の一人が、鞄からはさみを取り出した。伸びすぎていると判断されたようだ。
「当日は朝起きたらすぐにお湯を使っておいてくださいませ。そのあとこの香油を手足に擦り込んでいただいて」
綺麗に洗って、香油で艶々にしておけということである。
「朝から風呂か」
また、面倒臭いと言い掛けたエイダールに、侍女は畳みかける。
「出来ていなければ、伺ってからこちらでお風呂をお借りして丸洗いさせていただきますので」
全身を念入りに、と続ける笑顔が怖い。
「わ、分かった」
化けるのも大変だった。
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