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せつなときずな 48
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「せつなときずな」48
刹那は、できれば黙って転居したかったが、ハートスタッフの管理物件を間借りしていながら勝手に退去は出来ないため、仕方なしにサキに説明に行った。
既に一時託児所のハニーぶれっどで契約社員として従事していたし、特別なことではない、そう考えはするのだが、サキにとってはそうではないことはわかっているのだ。
刹那は絆を連れて、サキが田辺と同居する実家の離れに向かった。
田辺が自分の住まいを引き払い、新築中の新居ができるまで仮住まいとしているからだ。
サキは田辺と入籍後、休みを平日から日曜に戻していた。
刹那がハートスタッフ退職後-サキは休職扱いにしていたが-田辺がヘッドハンティングしてきた女性スタッフを採用することができ、割と業務が円滑に処理できているようだ。
「で、話って何?」
サキは会話にもったいぶることがない。
絆のために焼いたパンケーキをダイニングテーブルに運びながら刹那に聞くのは、本当はあまり聞きたくない話だと気付いているからだろう。
「田辺さんの分は無いの?」
「お義父さん」とはやはり呼べず、テーブルの向かい座る田辺に、何とも言えない気まずさを覚える。
「昼食後でまだお腹が減っていませんからね」
田辺は笑顔で返した。
作り笑いでないのが、人柄を表している。
サキはアールグレイを淹れたウェッジウッドのカップを並べると、田辺の横に座った。
隠そうとしても、刹那を見つめる表情は不安げだ。
それが、余計に気まずい心持ちにさせる。
「メロンソーダは?」
絆が口にする刹那には気に入らない名詞は、だがここでは舌打ちする訳にはいかない。
「ここには無いから、そのオレンジジュースでがまんしてね」
そう言って絆を牽制した。
「お母さん、転居するの。今まで助けてくれてありがとう。
お母さんがいなかったら、私と絆はどうなっていたかわからない…」
サキは黙って刹那を見ていた。
何か言葉を発しようとしているようにも見えた。
いや、見えたのではなく、そうだったはずなのだが、それを堪えているのは、言いたいことがあるからに違いない。
「もう、大丈夫だと?」
サキの言葉は、できれば刹那が聞きたくない言葉だった。
私は、確かに大丈夫ではなかった。
あなたがいてくれたおかげで、こうして生き延びているのかもしれない。
しかしそれでは、私はいつになったら大丈夫と言われるのか。
私は、いつになったら、大丈夫と思ってもらえるのか。
いや、本当は、お母さんが思っている通りなんだ。
大丈夫じゃない。
大丈夫じゃない人生に、私は足を踏み入れているのだ。
きっとあなたが許すことのできない、そんな人生に…
「うん。
私さ、在学中に絆を身籠って、卒業と同時に育児になったし、お母さんのいるハートスタッフしか働く機会が無かったじゃん。
今、生まれ初めて、自分が縁のない職場で働いて、社会の一員としてスタートできた気がするの。
いっぱいいっぱいで毎日大変だけど、私、自立したいから」
サキは黙って聞いていた。
これほど何も口にしないことは、ほとんどない。
きっと、感情を整理しようとしているのかもしれない。
「仕事はどうですか」
田辺が間に入った。
「自分に合ってるかどうかはわかりませんけど、絆を育てたことは経験として良かったです。
ハニーぶれっどでは、私が保育士の資格を取るバックアップまでしてくれます。
有資格者になったら正規採用にしてくれます。
頑張ります」
刹那は、田辺がどれだけ杉山のことを知っているのか、そして、そのことをサキに話しているのか、自身の疑心暗鬼を隠して話をするのが不安だった。
「ねぇ、刹那はもう、ハートスタッフには戻る気は無いの?」
サキの目は、明らかに悲しげだった。
それは、刹那が一番避けたかったことだった。
それが嫌で、こうした話をしたくは無かったのだ。
お母さんはきっと気づいているのだ。
私の過ちを。
そう、多分、虫の予感で。
「保育園のハニーぶれっどは、今年認可外から認可保育園になる申請中なの。
今の私には、ハートスタッフに戻る選択肢は無い…
お母さん、ごめんなさい」
「頑張ってね」
サキはそう一言だけ言うと、目を閉じた。
テーブルの下で田辺の手を握っていることになんとなく気づいたが、それが刹那を堪らなく切ない気持ちにさせた。
中島みゆきの古い歌にあったが、悪女になるなら月夜でなくても、自分にはよした方がいいのだ。
悪女になる才能なんて、本当は無いのに。
刹那は、できれば黙って転居したかったが、ハートスタッフの管理物件を間借りしていながら勝手に退去は出来ないため、仕方なしにサキに説明に行った。
既に一時託児所のハニーぶれっどで契約社員として従事していたし、特別なことではない、そう考えはするのだが、サキにとってはそうではないことはわかっているのだ。
刹那は絆を連れて、サキが田辺と同居する実家の離れに向かった。
田辺が自分の住まいを引き払い、新築中の新居ができるまで仮住まいとしているからだ。
サキは田辺と入籍後、休みを平日から日曜に戻していた。
刹那がハートスタッフ退職後-サキは休職扱いにしていたが-田辺がヘッドハンティングしてきた女性スタッフを採用することができ、割と業務が円滑に処理できているようだ。
「で、話って何?」
サキは会話にもったいぶることがない。
絆のために焼いたパンケーキをダイニングテーブルに運びながら刹那に聞くのは、本当はあまり聞きたくない話だと気付いているからだろう。
「田辺さんの分は無いの?」
「お義父さん」とはやはり呼べず、テーブルの向かい座る田辺に、何とも言えない気まずさを覚える。
「昼食後でまだお腹が減っていませんからね」
田辺は笑顔で返した。
作り笑いでないのが、人柄を表している。
サキはアールグレイを淹れたウェッジウッドのカップを並べると、田辺の横に座った。
隠そうとしても、刹那を見つめる表情は不安げだ。
それが、余計に気まずい心持ちにさせる。
「メロンソーダは?」
絆が口にする刹那には気に入らない名詞は、だがここでは舌打ちする訳にはいかない。
「ここには無いから、そのオレンジジュースでがまんしてね」
そう言って絆を牽制した。
「お母さん、転居するの。今まで助けてくれてありがとう。
お母さんがいなかったら、私と絆はどうなっていたかわからない…」
サキは黙って刹那を見ていた。
何か言葉を発しようとしているようにも見えた。
いや、見えたのではなく、そうだったはずなのだが、それを堪えているのは、言いたいことがあるからに違いない。
「もう、大丈夫だと?」
サキの言葉は、できれば刹那が聞きたくない言葉だった。
私は、確かに大丈夫ではなかった。
あなたがいてくれたおかげで、こうして生き延びているのかもしれない。
しかしそれでは、私はいつになったら大丈夫と言われるのか。
私は、いつになったら、大丈夫と思ってもらえるのか。
いや、本当は、お母さんが思っている通りなんだ。
大丈夫じゃない。
大丈夫じゃない人生に、私は足を踏み入れているのだ。
きっとあなたが許すことのできない、そんな人生に…
「うん。
私さ、在学中に絆を身籠って、卒業と同時に育児になったし、お母さんのいるハートスタッフしか働く機会が無かったじゃん。
今、生まれ初めて、自分が縁のない職場で働いて、社会の一員としてスタートできた気がするの。
いっぱいいっぱいで毎日大変だけど、私、自立したいから」
サキは黙って聞いていた。
これほど何も口にしないことは、ほとんどない。
きっと、感情を整理しようとしているのかもしれない。
「仕事はどうですか」
田辺が間に入った。
「自分に合ってるかどうかはわかりませんけど、絆を育てたことは経験として良かったです。
ハニーぶれっどでは、私が保育士の資格を取るバックアップまでしてくれます。
有資格者になったら正規採用にしてくれます。
頑張ります」
刹那は、田辺がどれだけ杉山のことを知っているのか、そして、そのことをサキに話しているのか、自身の疑心暗鬼を隠して話をするのが不安だった。
「ねぇ、刹那はもう、ハートスタッフには戻る気は無いの?」
サキの目は、明らかに悲しげだった。
それは、刹那が一番避けたかったことだった。
それが嫌で、こうした話をしたくは無かったのだ。
お母さんはきっと気づいているのだ。
私の過ちを。
そう、多分、虫の予感で。
「保育園のハニーぶれっどは、今年認可外から認可保育園になる申請中なの。
今の私には、ハートスタッフに戻る選択肢は無い…
お母さん、ごめんなさい」
「頑張ってね」
サキはそう一言だけ言うと、目を閉じた。
テーブルの下で田辺の手を握っていることになんとなく気づいたが、それが刹那を堪らなく切ない気持ちにさせた。
中島みゆきの古い歌にあったが、悪女になるなら月夜でなくても、自分にはよした方がいいのだ。
悪女になる才能なんて、本当は無いのに。
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