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 昴星や、店の他の従業員たちが閉店作業をして帰った後も、まだ櫻川は桐島の店に居座っていた。正確に言えば、昴星のことが心配でちらちら様子を窺っていた櫻川の視線の先を辿った桐島が、その視線の先の昴星が何か重苦しい雰囲気をまといながらも仕事を淡々とこなしている姿を見て、何かを察して「このあと時間あるか?」と引き留めたからだ。
 粗方片付けが終わった店内で、櫻川は桐島に促されるまま半個室になった座敷に上がる。
 桐島は客からもらったという大吟醸と小さめのグラスをテーブルに置くと、厨房に戻って賄いの残りの鯖の竜田揚げと金平牛蒡、小松菜の卵とじを盆に載せてやって来た。
「単刀直入に聞くけど、〝うちの昴星〟に手ぇ出してないだろうな?」
 桐島は座るや否やそう切り出し、頂き物の大吟醸をグラスに注いでいく。
「……うちの昴星」
 櫻川はそう言うと、興醒めだとばかりに据え置きの箸箱から箸を取り出す。
 その様子を正面から見ていた桐島は、おや?と、片眉を上げる。地雷を踏んだらしい。
 櫻川はさっと箸袋を外し、ぎゅっと握りつぶすと桐島の額に投げつけた。すると見事に乾いた軽い音とともに命中する。
「!? おっまえ、子供みたいなことするな! ちょっと揶揄っただけだろ?!」
「は? くだらねえこと言ってるからだろ。そもそも学生なんかに手ぇ出せるか」
「けど、サクラがあの部屋に人入れるとか、俺が知ってる限り聞いたことねぇぞ」
「……仕方なくだよ」
 苦虫を噛み潰したように櫻川が言えば、桐島はふんと鼻を鳴らした。
「仕方なくならその辺の、いかがわしく無いそこそこ良いホテル使ったりするだろ、いつもは。何だかんだ言ってもお前ボンボンだし」
 竜田揚げに手を伸ばしかけていた櫻川は、桐島の言葉でぴたりと箸を止める。
「それ、言ってねえだろうな?」
「言うわけねえだろ。でも名字と大学名一緒だし、関係者か?ってくらいは誰でも想像するだろ」
「そこじゃねえ。ホテルのことだ。変な誤解されたら堪らんからな」
「……は?」
 驚いて固まっている桐島とは相対して、櫻川は竜田揚げを頬張る。
「冷めてるけど美味いな」
 注がれた酒を嗜みつつ、金平、小松菜と順に箸をつける。
「いや、いやいやいやいや……。お前さあ、自分で気付いてないわけ?」
「何がだよ」
「何がって、今までそんなこと気にしたことないだろ。気にする気にしないというか、来るもの拒まずで身辺整理とかしなかったじゃねーか」
「なーにが身辺整理だよ。よく考えてみろ、昴星はうちの学生だぞ。品行方正とまではいかなくても、下半身に大らかなところなんか見せらんねーだろうが」
「え……? お前こそ何言ってんの? 店で昴星紹介したあのとき、オネエちゃんとホテル行った逃げたの話、聞かれてんぞ?」
「………」
 桐島から聞く衝撃の事実に、櫻川は持っていた箸を取り落とした。次第に眉間に皺を刻み、頭を抱える。
「つーか、そこはどうでもいいけ」
「良くねえよ」
 半ば食い気味に否定して項垂れる櫻川を憐れに思い、軌道修正をかける。
「まあ、俺としては昴……柊木くんに無体を働いたりせず、大事にしてくれるなら、サクラが相手でも認めるよ」
 うっかり昴星と口走りそうになりながらも訂正し、尊大に腕組みしながら、うんうんと頷く桐島を櫻川は訝しげに見る。
「何目線なんだお前は。いや、そうじゃねえ。どういうことだ。話が見えん。俺と昴星は何の関係でもないぞ」
「店であんなにベタベタイチャイチャしといて? 何なら俺のものアピールしてたよな? おでこくっつけて」
「熱でもあるのかと思って計っただけだ」
「お前は友人知人に、でこくっつけて熱計る趣味あんのか?」
「あるわけないだろ」
「じゃあ今まで、そういった行動したことないんだろうが」
「そのくらいあるわ。付き合ってたらそんくらいするだろ」
「ああ、付き合ってたらな。けど、サクラと柊木くんは付き合ってないんだよな? さっき自分で何の関係でもないつってたもんな。だったら距離感おかしいだろ」
 捲し立てられる言葉に、櫻川はさすがにはっとする。
「お前が学生だって線引きするなら、可愛がるにしても節度は弁えろ。俺が見ても誤解するくらいなんだ。柊木くんだって誤解するかもしれんだろ」
 櫻川は何も言わず無言でグラスを握り締め、微動だにしない。ショックを受けたようにも、腑に落ちたようにも見えるが、桐島には雇用主として知り得た昴星の個人情報を持っている立場上、どうしても櫻川には物申しておかなければ気が済まなかった。
「それに、“うちの昴星”って言ったのは、お前に対しては揶揄っただけだけど、別に冗談のつもりでもないからな。彼にとってこの店が拠り所になれば良いと思ってるし、そうしたいと思ってる。そんな子にお前がズケズケ踏み荒らして傷つけるようなことがあれば、俺もひとみも黙っちゃいないぞ」
「……おい待て。ひとみは関係ないだろ。あいつの名前を聞くだけで心臓に悪い」
 櫻川は眉間を押さえ、本当に具合でも悪くなったように頭を振る。
 ひとみは桐島の妻であり、桐島と同じく高校の同級生でもある。もともと桐島と櫻川で連んでいたのだが、グループの女子に仲間はずれにされたひとみが、「混ぜろ」と言って無理矢理入ってきたのがきっかけである。面倒なグループだったから出て楽になった、とは本人の談だが、果たして本当に楽になったのかは謎である。ただ、当時から内面が強かだったので、櫻川と桐島は嘘は言ってないのだろう、ということに結論づけた。なぜなら、俺様気質の強い櫻川でさえ太刀打ちできない我の強さを持っていたからである。
「ひどいな。ひとみ、会いたがってたぞ。またうちに遊びに来いよ」
 などと、全て知った上で櫻川の天敵であり友人の、桐島の妻・ひとみの名を使って牽制をかける。
「は? あいつの説教をわざわざ聞きに行って何が楽しいんだよ」
「お前がいつまでもフラフラしてるから心配して言ってるんだろ。昔からだが、付き合ってる相手に真剣に向き合おうとしないよな。結婚話を持ち出されたら別れるって……真剣になったら負けとでも思ってんのか?」
 ここぞとばかりに追い討ちをかければ、櫻川はこれ見よがしに大きなため息を吐いた。
「別に俺がどう付き合おうと俺の勝手だろ。お前に迷惑かけてないだろ」
「今まではな」
 と言った桐島の言葉には反応せず、話をするのも面倒臭いのか、櫻川は賄いの残りを順番につまみ、酒をちびちび呑んでいる。
「でも、柊木くんはダメだ。お前が今まで付き合ってきた子たちとは違う。本当に“可愛い学生”だと思ってるなら、これ以上、彼を振り回すな」
「……お前に言われなくてもしねえよ。それどころか……。いや、なんでもねぇ」
 そう言うと櫻川は、通路を挟んだ向かい側にに視線をやる。そこにはビールグラスを冷やす冷蔵庫があるだけで、客の居ない居酒屋でそれは小さな機械音が響き、取り残された寂しさが櫻川の心情を表しているようだった。
 情けない。
 感傷にひたる資格などないくせに、思い返すのは“可愛い学生”の姿だ。小生意気で、自分の魅力を十分理解していて、それでいて謙虚で気が利いて、どこか危うさを秘めた───アンバー琥珀色の瞳の宿し子。
 きっと今までにもあの瞳を見て虜になった人はいるだろう。だが、あの瞳の奥の心許なさに気付いているのは櫻川だけだ。
 感情がごっそりと抜け落ち、無表情を徹する人間はいくらでもいる。しかし昴星は、存在そのものがなくなりそうな儚さがついて回る。
 醜い独占欲が胸を占めてそんなふうに感じているだけだろうが、櫻川には大人の分別で、昴星を自分から手放すという選択肢がどうしてもできなかった。
 この感情を、何と呼べばいいのか分からなかった。
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