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 夢うつつの中、スマートフォンから着信音が流れてくる。気持ち的にはまだ目蓋を閉じていたいのだが、急用かもしれないと思い霞んだ視界で液晶画面を見てみれば、見知らぬ番号が表示されていた。一気にどうでも良くなる。
 居留守を決め込んで、霞んだ視界と決別したものの、着信音はいまだ鳴り響いている。どうせそのうち留守番電話の音声ガイダンスに切り替わるだろうと放置していたら、案の定切り替わったようで静かになった。
 静寂が訪れたことに安堵し、そのまま眠りに落ちようとしたその時、今度はインターフォンのチャイムが鳴った。二度、三度と鳴り響き、耐えかねて起き上がる。近くにあった姿見に映る寝癖と無精髭は無視して、インターフォンのモニターを確認すれば、昨晩車で送ったはずのアンバーの持ち主が立っていた。
「……は?」
 まったくもって理解できない。昨日の今日どころか、あれからまだ八時間ほどしか経っていない。
 インターフォンで応答するのもまどろっこしくて、そのまま玄関へ向かう。もう一度チャイムが鳴ったところで玄関扉を開けた。
「お前、今何時だと思ってんだ。学生は休みは楽しみかもしれんが社会人にとって休みは貴重な睡眠時間だ。一分一秒だって無駄にしたくない、帰れ」
 櫻川は一気に捲し立て、用事は済んだとばかりに扉を閉める。すかさず扉の隙間に靴先が滑り込み、一瞬怯んで手を緩めると、がっちり扉に手を掛けられた。その隙間から胡散臭い笑顔が覗く。さながら悪徳金融業者のようなやり口に、櫻川は驚きと共に閉口した。
「ひどいなぁ、先生。昨日はあんなに求めてきたのに。ひと晩経ったら忘れちゃったんですか?」
「人聞きの悪い言い方をするな!」
 怒鳴ってから慌てて辺りを見回し、アンバーの持ち主こと、昴星の首根っこを捕まえて部屋の中へ引き入れた。
「もう、乱暴にしないでくださいよ。せっかく朝食持って来たのに崩れるじゃないですか」
「は?」
「お邪魔しまーす」
 そう言うと、昴星は勝手知ったる仲のごとく部屋に上がり、真っ直ぐキッチンへ向かう。その姿を見ているうちに、櫻川は文句を言う気力が削がれ、ソファに深く腰を下ろした。
 昴星は食器棚の中から適当にマグをふたつ取り出し、コーヒーメーカーにセットする。スイッチを入れ、程なくして苦味とコクの深い香りが部屋に漂い始める。
「はー。いい匂いだなあ。これだけで若干満たされる」
 大きく息を吸い込み、昴星はコーヒーが排出される様子を間近で堪能すると、片手の指にマグをふたつ引っ掛け、もう片方に紙袋を下げて、昨日と同様、ソファーにふんぞりかえっている櫻川の対角の位置、オットマンに腰を下ろした。
「先生、どっち食べます? こっちは厚切りベーコンとゆで卵のマスタードがけ。んで、こっちは照り焼きチキンとゴボウサラダ。どっちも美味いっすよ」
 昴星ががさがさと茶色の紙袋から取り出し包みを開くと、見るからにSNSでの『映え』や若い女性受けしそうな、クラブハウスサンドが出てきた。トーストされたパンからはみ出るレタスのコントラストが、見栄えをより引き立てている。
「お前が買ってきたんだろう。好きな方を選べ」
 櫻川はそう言って、ソファの横に置いていた仕事用の鞄から革の長財布を取り出す。スリットから紙幣を抜き出そうとすると、慌てて昴星は手を振った。
「買ってない! 買ってないですって! 作ったんですよ。晩ご飯の残りがほとんどだけど、簡単だし、手軽だし」
「自分で作ったのか……」
 感心して、思わず昴星とクラブハウスサンドを見比べる。どこからどう見ても店の商品にしか見えない。
「いや、ホントにこれ、トーストしたパンに挟んで包丁で切っただけです。あ、レタスは後から少し足したんだった。でも難しい工程踏んでないから、誰でも出来ますよ」
 憎たらしいほどに爽やかな笑顔で嫌味なく説明する姿は、もはや称賛に値する。
 これが料理男子というものだろうか。
「……だからモテるのか」
 櫻川には到底真似できない、よく出来た爽やかさを目の当たりにし、無意識のうちに言葉が漏れていた。
 昴星のことは桐島の店で初めて知ったが、彼が働いている日といない日とでは、女性客の雰囲気が明らかに変わる。色めき立つのだ。
 さらに、アイドルを間近で鑑賞できる店だと、女性客が話しているところにも遭遇した。
 斜向かいの昴星は、コーヒーを片手に笑顔を張り付けていた。
「それは……、先生の方がモテるのでは……?」
 櫻川に特段意図はなかったが、唐突に褒められ困惑したのかもしれない。返答に窮しているのがありありと分かる。
「まあ、そうだな。俺の方が確実にモテるな」
 横柄に足を組み、伸ばした顎髭を撫でながら言う。学生をあまり困らせても仕方がないと思い、自らを落とし所とした。
「え? その無精髭イケてると思ってるんですか? ちゃんと女性の意見聞いてます? ワイルドと無精は理解してしないと、紙一重ですからね?」
 昴星は至極真面目な顔で失礼極まりないことを矢継ぎ早に言う。
 櫻川の研究室で、昴星が出入りしている様子を見ていた研究室の学生たちは、彼のことを皆、口を揃えて素直で良い子だと言っていた。しかしこれが男女問わず好かれている人間の言い草なのだから手に負えない。学生たちは本当に昴星の何を見ているのだろうか。
「おい、お前。仮にも頼み事してる相手だぞ。もう少し言い方ってものがあるだろうが」
 櫻川は言いながら照り焼きサンドを手に取り、齧り付く。照り焼きソースの甘辛い味にゴボウサラダのマヨネーズが合わさって良い塩梅だ。
「おまえ、じゃないです。昴星です。柊木昴星。前にちゃんと教えましたよね? もう忘れたんですか?」
 昴星ももう一つのサンドを手に取り、口に頬張りながら不満を述べる。
「あ? お前しかいねぇんだからお前でいいだろ。論点すり替えんじゃねえ」
「だって、あれとかこれとか、物を指してるみたいで好きじゃないです」
「おま、…ほんと、どんだけ大事にされて育ったんだ。箱入りか。女でも言わねえぞ」
「先生だって〝お前〟なんて呼ばれたら嫌じゃないですか?」
「相手による」
「じゃあ、俺は?」
 と小首を傾げる昴星に、ちょっと可愛いと思ってしまった己の心を全力で打ち消す。
「張っ倒すぞ」
「怖ーい」
 と言いつつ微塵も怖がっていない昴星は、腹が減っていたのか、見た目に反して大口でもりもり食べていく。若者らしく食べっぷりが良い。
「そんなことより、俺は生意気な口利くやつの頼み事はききたくねえ」
「誰ですか、先生に生意気な口利くなんて」
「お前だろーが」
「だからー、ちゃんと名前呼んでくださいよ。生意気なこと言わないように気をつけるからー」
「とんだ我儘坊やだな。先に約束取り付けようとするあたり、まわりが甘やかしてきたんだろ。何でも思い通りにな」
「手元見ないと肉が落ちますよ。先に食べちゃってください」
 昴星は話しをぶった切り、はみ出た照り焼きチキンに注意を促す。慌てて口に運び咀嚼すれば、無言になるしかなかった。何だか上手い具合に昴星のペースに乗せられてしまう。
 一足先に食べ終えた昴星はといえば、優雅にコーヒーを啜っていた。
 ひと回りも年下の子どもで、ましてや生徒に主導権を握られているのは、存外悪くないものだと思う。様々なことを経験していくうちに角が取れ、些末なことに拘らなくなったからだろうか。
 振り返るにはまだ短い人生だが、最高な時間も、最悪な出来事も今では昔話だ。
 しかし、さりとて生徒である。
 櫻川は最後の一口を口に放り込み、少し時間をかけて咀嚼する。全て腹におさまって、ひとつ息を吐いた。
「ルールを決めるぞ。お前を名前で呼ぶのは業務時間外だけだ。学内では不必要に関わるな。俺も関わらん。そもそも学部の違う生徒の面倒をみれるほど、暇じゃない」
 櫻川の一方的な取り決めに、昴星は手の中のマグに視線を落とす。しかしすぐに櫻川と視線をあわせ、口角を上げただけの笑顔を見せた。
「分かりました。先生の言う通りにします」
 物分かりの良いセリフを吐いた舌の根も乾かないうちに、でも、と言葉を続ける。
「今は時間外でしょ?」
 昴星はしれっと言ってのけ、空になったマグをまたコーヒーメーカーにセットした。
 櫻川は思わず眉間を抑える。暖簾に腕押しだ。
 こんなに自分を振りまわす人間は、今まで出会ったことがない。メンタルが鋼なのだろうか。
「何か言いました?」
 コーヒーメーカーの抽出音に紛れて昴星が尋ねる。心の声が漏れていたのか、と内心焦りつつも顔には出さない。
「……腹壊すぞって言ったんだ」
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